ようこそ凡人がいく実力至上主義の教室へ   作:神威 

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第27話 船上試験3

 試験2日目4回目の話し合いが終え、私、麻子ちゃん、神崎くん、浜口くんはBクラス専門ラウンジへと集まっていた。

 

「ふぅ……ひとまず、これで今日の分の話し合いは全部終わりだね」

 

 麻子ちゃんの言葉に、ラウンジのあちこちから小さく息を吐き出すような気配が漏れた。

 

「お疲れ様、麻子ちゃん。それから、みんなも本当にありがとう」

 

 私が笑顔で労いの言葉をかけると、集まったBクラスのメンバーの表情が、目に見えて柔らかくなった。

 無人島試験での敗北は、私たちBクラスにとって決して小さな傷ではなかった。けれど、落ち込んでいる暇なんてない。クラスの誰も見捨てず、全員で『Aクラス』という目標へ向かって歩き続けるために、この船上特別試験は何としても全員で成果を出さなきゃいけない場所だった。

 

「それにしても、一之瀬さん。初日に網倉さんから聞いた話は半信半疑でしたけど……柊くんが提示した戦略は想像以上の効果を発揮しています」

 

 浜口くんが、感嘆したように眼鏡のブリッジを押し上げながら言った。

 

「本当にね。私のグループのAクラスの戸塚くんたちなんて、最初はすっごくトゲトゲしてて、今にも誰かを嵌めてやるって雰囲気だったのに……。柊くんが最終日の2回目まで誰も動かないっていう案を提示して、しかもCクラスの3人は誓約書まで書いたって知った途端、完全に手も足も出なくなっちゃったの」

 

 麻子ちゃんが楽しそうに、そしてどこか誇らしげに胸を張る。

 

「それだけじゃないんだよ、帆波ちゃん。昨日の2回目からなんて、柊くん、ポケットからトランプを取り出して手品を始めちゃってさ!」

「えっ……手品?」

 

 思わず聞き返してしまった私に、麻子ちゃんは楽しそうに何度も頷いた。

 

「うん! 私たちにカードを引かせて、それを山に戻して、みんなでめちゃくちゃに混ぜたのに、黒いジャックの2枚が私の引いたハートのクイーンをパッと挟んで見つけ出しちゃったの。それで皆驚いたけど、柊くんから種明かしを教えてもらって、とてもじゃないけど私には真似できないかな」

 

 麻子ちゃんが身振りを交えて楽しそうに語る様子を、神崎くんは腕を組んだまま、険しい表情で見つめていた。

 

「手品、か……。ディカッションの貴重な時間をそんな娯楽で潰したというのか」

「神崎くん、そうじゃないと思いますよ」

 

 浜口くんが神崎くんをなだめるように手を振る。

 

「僕と一之瀬さんのグループにも柊くんの最終日・同時提示ルールを説明した途端、全体の空気が一変しました。Aクラスの人たちはCクラスの罠だと激しく警戒していますが、同時に、不用意に解答して結果4のペナルティを喰らうリスクを恐れて、完全に動きが止まっています。柊くんのその手品も、単なるお遊びではなく、Aクラスの張り詰めた神経を逆手に取った意識の誘導だったんじゃないでしょうか」

 

 浜口くんの冷静な分析に、私は胸の奥がトクンと跳ねるのを感じた。

 

 柊美輝くん――。

 無人島試験では、お互い同じ300のベースポイントからスタートしたにもかかわらず、圧倒的な差をつけて勝利をもぎ取った男の子。

 

「……うん。浜口くんの言う通りだと思う」

 

 私は小さく息を吐き出し、ラウンジの窓の外に広がる、月明かりに照らされた夜の海を見つめた。

 

「柊くんは、ただ冷徹に勝つことだけを考えているわけじゃないんだよ。無人島でもそうだった。彼は私に綻びを最小限に抑えるための合理性って言ったけれど、その中には、クラスの女の子たちが困らないための配慮や、無駄なペナルティで誰も傷つかないための優しさが、ちゃんと含まれていたの」

 

 私がそう言葉を続けると、麻子ちゃんは嬉しそうに何度も頷いた。一昨日の夜、私が柊くんと露天風呂で話した内容を打ち明けた時も、麻子ちゃんは「やっぱり柊くんって、本当は凄く良い人なんだね!」と一緒に喜んでくれた。

 

「だから、その手品もきっとそう。疑心暗鬼になって鋭い刃物を突き付け合っているようなあの部屋の空気を、誰も傷つけない方法で、柔らかく包み込んでくれたんだと思う。Aクラスの警戒心を逆手に取って、彼らの脳内リソースを消費させるっていうような計算があったとしても……結果として、優待者として選ばれた子も救ってくれたのは事実だもん」

 

「一之瀬……お前は少し、あの男を買い被りすぎているんじゃないか?」

 

 神崎くんが、低く、警告を含んだ声で私の言葉を遮った。その瞳には、かつてないほどの濃い警戒の色が宿っている。

 

「無人島試験で彼が叩き出した『630ポイント』という数字を忘れたわけではあるまい。Cクラスの独裁者である龍園ですら、あの島では彼の影に隠れていた。彼が網倉たちに提示したルールは確かに論理的で、現状、我がクラスが全グループで主導権を握るための最大の武器になっている……だが、それ自体が大きな罠だとしたらどうする?」

「罠……?」

 

 麻子ちゃんが不安そうに神崎くんを見つめる。

 

「ああ。現に船内の空気は、俺たちクラスが柊の案を熱心に広めたことで、急速に徹底した膠着状態へと傾いている。どのグループでも、Aクラスは身動きが取れず、Dクラスは胸を撫で下ろしている状態だ。だが、これほど見事に船内全体の意識が最終日まで何もしないという一点に誘導されている状況そのものが、柊美輝という男にとってのお膳立てだとしたら?」

 

 神崎くんの言葉は、冷徹な現実味を帯びてラウンジの空気を凍らせた。

確かに、柊くんが提示したシステムは完璧だ。完璧すぎるがゆえに、もしその裏に、私たちには見えない「もう一つの裏口」が用意されていたとしたら――。

 

「それに、猿グループについてはどう説明をつけるつもりだ?」

 

 神崎くんのその言葉に、ラウンジ内の空気が一瞬にして凍りついた。

 

「猿グループには、俺たちBクラスの生徒が優待者として配属されている……だが、昨日行われた2回目の話し合いの前、学校側から猿グループの試験終了の通知が届いたことは覚えているはずだ」

 

 神崎は組んでいた腕をほどき、テーブルの上に自らの携帯端末をコト、と置いた。

 

『猿グループの試験が終了いたしました。猿グループの方は以後試験へ参加する必要はありません。他の生徒の邪魔をしないよう気をつけて行動して下さい』

 

「あ……」

 

 麻子ちゃんが小さく息を呑み、自身の携帯端末を慌てて取り出した。

 画面に表示されているのは、確かに昨日の夜、全生徒に向けて一斉配信されたあの無機質な通知メールだ。

 神崎くんの冷徹な指摘に、私はスマートフォンの画面を見つめたまま立ち尽くしてしまった。

 

「それに、今日の4回目の話し合いでこれは真偽は分からないが、龍園は優待者の正体が既に気づいているようだった」

 

 神崎くんの冷徹な指摘に、私はスマートフォンの画面を見つめたまま、言葉を失って立ち尽くしてしまった。

 

「猿グループの試験終了、そして龍園くんの不穏な動き……。これらが何を意味しているか、一之瀬、お前なら分かるはずだ」

 

 神崎くんの声は低く、私の心の奥の一番恐れていた部分を正確に射抜いていた。

 

「猿グループには、うちのクラスの優待者がいた。そして試験は初日の2回目が始まる前に終わってしまった。つまり、Bクラスが時間稼ぎの作戦を全グループで展開し、Aクラスや他クラスの動きを完全に封じ込めていたその裏で……誰かが、ピンポイントで我がクラスの優待者を狙い撃ちした可能性があるということだ」

「そ、そんなの……でも、誰が……」

 

 麻子ちゃんが青ざめた顔で震える声を出す。

 

「おそらくはCクラス、いや、龍園か、あるいは……」

 

 神崎くんの視線が、私へと向けられる。その瞳が言外に「柊美輝」の名を告げていた。

 

「龍園が優待者の正体に気づいているような素振りを見せていたのも、偶然じゃない。もし、Cクラスが最初から『優待者を見抜くための確固たる法則』を掴んでいたとしたらどうだ?」

 

 神崎くんはテーブルの上の携帯端末を指でトントンと叩きながら、さらに論理を組み立てていく。

 

「柊が未グループで網倉たちに最終日まで膠着させる正論を説いたのは、他クラスに自発的な探り合いをさせないためだ。全員が最終日まで何もしないのが一番安全だと思い込み、思考を停止して時間稼ぎに協力している間、Cクラスだけは裏で自由に優待者を特定し、狩る時間を稼ぐことができる」

 

 浜口くんも、いつになく深刻な表情で顎に手を当てた。

 

「……確かに、辻褄が合いますね。僕たちが善意で広めていた平和協定の空気そのものが、Cクラスが他クラスの優待者を安全に、かつ迅速に探るための最高の煙幕として機能してしまっている……」

「さらに言えば、柊美輝が差し出した誓約書すらも計算のうちだろう」

 

 神崎くんの言葉は容赦なく続く。

 

「未グループのCクラスは試験途中で解答しない。それ自体は真実かもしれない。だが、『未グループ以外のCクラスの生徒が、他グループの優待者を解答しない』とは一言も書いていないはずだ。 誓約書という絶対的な盾で自分への疑いを完璧に逸らし、身動きの取れないAクラスを嘲笑うように、他グループの優待者を裏から確実に仕留めていく。これが、お前が優しさと呼んだ男の本質だとしたらどうする、一之瀬」

「う、嘘……柊くんが、そんな……」

 

 麻子ちゃんがショックを受けたようにガタタと椅子を揺らす。

 ラウンジを支配する圧倒的な絶望感と猜疑心。

 無人島で完膚なきまでに叩きのめされたからこそ、私たちはCクラスという存在の不気味さを、その底知れなさを過剰なまでに恐れてしまう。

 彼は確かに冷徹な計算をする。けれど、その計算はいつも、必要以上の破壊を好まない。

 もし神崎くんの言う通り、Cクラスがすべての優待者を狩り尽くすつもりなら、なぜこんなに手の込んだことをするのだろう。

 私は深く、深く息を吸い込み、自らの動揺を抑え込んで神崎くんを見つめ返した。

 

「でも、もし柊くんの目的が別にあるとしたら?」

「別の目的だと?」

「うん。Cクラスが本当に優待者の法則に気づいていて、全てのクラスの優待者を狙える状態なのだとしたら……彼らが最初に猿グループのBクラスを狙ったのは、私たちが一番焦るから。そして、龍園くんがそれを周囲に誇示するように動いているのも、あえてCクラスが動いているぞという恐怖を船内に植え付けるためなんじゃないかな」

 

 私の言葉に、神崎くんが微かに眉をひそめる。

 

「Cクラスが動いているという、恐怖……?」

 

 神崎くんが私の言葉を反芻するように低く呟く。その表情には、まだ納得しきれないというような、しかし私の意図を測ろうとする鋭い色が浮かんでいた。

 

「うん。昨日から今朝にかけて、船内の雰囲気は完全に柊くんの案で染まっていたよね。でも、そこに猿グループの試験終了と龍園くんの不穏な動きという強烈なノイズが混ざった。……これって、まるで誰かが意図的にこの平和な膠着状態を、内側から強引にぶち壊そうとしているように見えない?」

 

 私の言葉に、今度は浜口くんがハッとしたように顔を上げた。

 

「うん。だって本当に姿を隠して全員を騙し討ちにするつもりなら、龍園くんがあんな風に目立つ動きをする必要はないはずだと思うんだ」

「……なるほど。もし柊くんの目的がこのまま静かに試験を終えて結果1を目指すことだったなら、龍園くんのあの目立つ動きは完全に身内の足を引っ張る邪魔行為になります。でも、もし二人の間で役割が分担されているのだとしたら……?」

「そう。柊くんが誰も動けない安全な檻を用意した。それなのに、同じクラスの龍園くんが外からその檻をガタガタと揺らして、肉食獣が近づいてくるような恐怖を与えている。……神崎くん、もし私たちがその状況に置かれたら、どうしたくなる?」

 

 私が問いかけると、神崎くんは組んでいた腕をさらに強く締め上げ、苦虫を噛み潰したような声を漏らした。

 

「……檻を開けて、外の様子を確認したくなる。あるいは、手遅れになる前に自ら武器を取って戦おうとする、か」

「うん、きっとそうだよ」

 

 私は大きく頷き、ラウンジの全員の顔を見渡した。

 

「今、船内のすべてのグループで、特にAクラスの焦りはピークに達しているはず。無人島で大失点した彼らは、これ以上Cクラスにポイントを独占されるわけにはいかない。膠着していれば安全だと思っていたのに、裏でCクラスが確実に優待者を狩り始めているかもしれないと知ったら……最終日まで待つという約束なんて破ってでも、明日のディカッションで、強引に全員の手の内を暴こうとしてくるはずだよ」

 

 そこまで一気に言葉を紡ぐと、胸の鼓動が激しく早鐘を打つのを感じた。

 柊美輝という男の子の思考の深淵。それは、神崎くんが疑うような「嘘の誓約書で他クラスを騙して、コソコソとポイントを稼ぐ」なんていう、ちっぽけなレベルにはきっと無い。

 彼は最初から、Aクラスが焦って仕掛けてくるその瞬間を待っている。

 自らルールを破り、他人のエリアへと踏み込んでこざるを得ないように、周囲の環境そのものを利用しようとしているのだ。

 

「……そこまで、すべてが柊の計算通りだと一之瀬は言うのか」

 

 神崎くんの声から、先ほどまでの刺々しさが消え、代わりに底知れない怪物と対峙しているかのような、深い戦慄が混じり始めていた。

 

「でも、帆波ちゃん……それじゃあ、私たちはどうすればいいの? 最終日、Aクラスが本当に無理やり動いてきたら、結果1は叶わないんじゃ……」

 

 麻子ちゃんが、心配そうな瞳で私の制服の袖を引いた。

 

「大丈夫だよ、麻子ちゃん」

 

 私は彼女の手を優しく包み込み、精いっぱいの信頼を込めて微笑みかけた。

 

「柊くんは、理由なく盤面を荒らすような人じゃないと思う。Aクラスが仕掛けてくる行動すらも彼の予測の範疇なら、その先にはきっと、私たちが想像もつかないような策が用意されているはず。私たちは、彼の作った流れを信じよう」

 

 私は窓の外、暗闇に沈む豪華客船の廊下へと視線を向けた。

 

「確かに一之瀬さんの言う通りなら、猿グループだけではなく全グループの試験が終了してもおかしくありません。わざわざ一グループだけを終わらせているのは、意図があるとしか思えません」

 

 浜口くんが眼鏡の奥の目を鋭く光らせ、納得したように呟いた。

 

「……分かった。一之瀬がそこまで言うなら、俺も明日の最終日、あのCクラスが何をするつもりなのか、見ておこう」

 

 神崎くんが静かに携帯端末をポケットへと収め、長い息を吐き出した。

 

「うん、ありがとう、神崎くん」

 

 私が微笑むと、ラウンジを包んでいた重苦しい空気は完全に払拭され、代わりに明日の最終日に向けた覚悟のような静寂が満ちていった。

 

「でもなんで柊くんは今になって実力を隠すのをやめたんだろう」

 

 麻子ちゃんが少し首を傾げながら、純粋な疑問を口にした。

その一言は、ラウンジにいる全員の心に共通して浮かんでいた最後のパズルピースでもあった。1学期の間、柊くんは、クラスの目立たない一人の生徒として息を潜めていたはずなのだ。

 

「……無人島という、小細工の通用しない極限状態の舞台が、彼の本質を無理やり引きずり出すのに適した環境だったんじゃないか。そして一度表に出てしまった以上、もうただの生徒として振る舞うことは不可能だと判断したんだろう」

 

 神崎くんが冷ややかに、だが彼の能力を認めざるを得ないといった様子で腕を組む。

 

「そうですね。理由がどうであれCクラスは龍園くんだけが脅威ではない。いや、それどころか、柊くんに関する情報が少なすぎる。僕たちが彼を無人島だけの奇跡と侮っていれば、それこそ次の試験でクラスごと呑み込まれてしまうかもしれません」

 

 浜口くんの言葉に、ラウンジの全員が神妙な面持ちで頷いた。

 柊くんが隠すのをやめた理由は私でも分からない。彼なりの理由であるのかもしれない。

 

「……よし、みんな。明日の最終日は、厳しくなると思う。私たちは私たちの最善を尽くそう」

 

 私が前を向いてそう宣言すると、麻子ちゃんも、神崎くんも、浜口くんも、それぞれの瞳に決意の光を宿して力強く頷いてくれた。

 Bクラスは負けない。私たちは全員で支え合って進むんだ。

 

 

 

 

 夜空を見上げば、星たちが冷たい光を放ちながら、穏やかな海原を静かに照らしていた。

 オレはデッキの手すりに身を預け、冷たい夜風を浴びていた。船内から漏れる明かりが、黒い海面に細長い光の帯を作っている。

 柊美輝はオレから見ても侮れない男だ。無人島特別試験で見せた熱交換を利用した湯沸かしによる風呂の構築。あれは単に知識があるだけで再現できる代物ではない。現場の状況を完璧に把握し、限られた資材を的確に組み換える技術力と実際に機能させるだけの圧倒的な実行力。

 そして何より、あれほど無人島特別試験で圧倒的な成績を収めたにもかかわらず今回の試験でDクラスや、Bクラスにすら敵としての明確な敵意を抱かせないまま、盤面を自らの望む方向へと誘導する心理誘導の巧みさは、恐るべきものがある。

 一之瀬たちは、柊が提示した最終日の同時提示という案を、クラスを守るための善意の盾として周囲に広めた。だが、それこそが船内全体の思考をフリーズさせるための極上の劇薬だ。

 周囲が思考を停止し、現状維持の安穏に浸っている時間こそ、裏で動く者にとっては至上のボーナスタイムとなる。

 一之瀬は柊の行動に優しさを見出そうとしていたようだが、それは半分正解で、半分は的外れだ。

 柊美輝という男は、無駄な破壊を好まないだけで、勝つためには一切の躊躇なく他者を嵌める冷徹さを持ち合わせている。でなければ、無人島であれほどの点数を叩き出せるはずがない。

 一学期に起きた暴力事件以降、龍園の裏に誰かが潜んでいるのではないかと踏んでいたが、どうやらその主導権を握っているのは、あるいは龍園すらも自らの掌の上で躍らせているのは、あの柊美輝という存在なのかもしれない。

 堀北から聞いた話によれば、恐らく龍園はすでに優待者の法則に気づいている。いや、正確には柊がその法則を導き出し、それを龍園という表の凶器に渡して暴れさせている、と見るべきか。

 今回の試験でCクラスの真鍋たちが軽井沢に接触したことで軽井沢恵という存在が抱える過去の闇を暴き立てようとしている。

 その光景を、オレは偶然を装って目撃した。

 普段はDクラスの女子のリーダー格として傲慢に振る舞っている軽井沢だが、真鍋たちに詰め寄られた瞬間のあの怯え方は、単なる喧嘩の拒絶ではない。過去に植え付けられた、魂の根底にある深いトラウマ――いじめの記憶が呼び覚まされた者の反応だった。

 そして軽井沢を駒に仕立て上げるため、真鍋たちを利用しようとしたが――その計画の背後にも、既にあの男の視線が届いているのではないかという奇妙な違和感が、オレの思考の隅に冷たくまとわりついていた。

 もし真鍋たちのあの行動すらも、Cクラスを裏から操る柊によって容認されたもの、あるいは意図的に放置されたものだとしたらどうなる。

 軽井沢の過去を利用し、Dクラスの内部に強力なパイプを作る。それがオレの描いたシナリオだ。ただ真鍋たちを利用して足がつくような粗雑なやり方を、あの柊がただ見過ごすだろうか。ここは真鍋たちを利用しない案に切り替えるべきだろう。

 真鍋たちの背後に柊がいる可能性。それを考慮するならば、俺が軽井沢を完全に手中に収めるためのアプローチは、より慎重に、かつ柊の目から隠された死角で行う必要がある。

 真鍋たちに環境を与え虐めを助長させ軽井沢を追い詰める――当初考えていたその手法は、柊が背後にいる以上、リスクが高すぎる。もし真鍋たちが柊の指示、あるいは監視下で動いているのだとすれば、俺が彼女たちに接触した瞬間に、俺自身の存在が奴らのの網に引っかかることになるからだ。

 ならば、アプローチを変えるまで。

 軽井沢恵という強固な寄生先を求める存在を確実に手中に収めるためには、真鍋たちという外圧を利用するのではなく、彼女がもたらす恐怖そのものを俺が直接、柊の死角からコントロールすればいい。

 思考を巡らせながら、オレはポケットから携帯端末を取り出し、画面を見つめた。

 柊の目を盗み、かつ軽井沢を完全にこちらの支配下に置く。そのためには、真鍋たちという「舞台装置」を直接動かすのではなく、軽井沢が抱く「いつ暴かれるか分からない」という根源的な恐怖のタイムリミットを加速させる。

 わざわざ真鍋たちの手を借りずとも、軽井沢はすでに十分に追い詰められている。昼間に見せたあの取り乱し方は、Cクラスの女子たちに過去の一端を掴まれただけで、彼女の精神が崩壊寸前まで行っている証拠だ。

 もし柊が真鍋たちの背後にいて、この状況を俯瞰しているのだとすれば、オレがやるべきは奴の盤面に干渉することではない。柊が描く『Cクラスによる支配と膠着』という大局の裏で、軽井沢恵という個人の精神の拠り所を、丸ごとオレにすり替える。それだけでいい。

 携帯端末の画面を操作し、チャットアプリを開く。

 原則としてチャットアプリは各携帯につき1アカウントのみで複数のアカウントを作ることはできないが、ちょっとした抜き道は用意されている。某大手SNSのアカウントを新規作成することでもう一つアカウントを持つことが出来るわけだ。

 新規にアカウントを作ることである程度、自分の正体を悟られずに連絡することが可能だが解析すればすぐに持ち主に辿り着いてしまうリスクがある。

 オレはサブアカウントでログインしある人物の連絡先を呼び出した。

 

 ――軽井沢恵。

 Dクラスの女子を束ねるギャル系のリーダーであり、その実、最も脆い寄生先を求める宿り木。

 

 メッセージの入力欄に、簡潔な事実だけを打ち込んでいく。

 

『虐められていたことを真鍋たちにバラされたくなければ、ここに一人で来い』

 

 そうチャットを送り、船内の最下層のマップを送った。

 もちろん、軽井沢の過去は平田から聞いている。だがそれを知ってようが知らまいが真鍋たちへの対応や昼間の取り乱し方を見れば、この短い一文だけでも、彼女を死地へ追い詰めるには十分すぎるほどの凶器になる。

 画面を閉じ、オレは再び冷たい夜風へと視線を戻した。

 もし柊がこの特別試験のルールや優待者の法則を完全に見切っているのだとすれば、最終日辺りに仕掛けてくるだろう。焦れた他クラスの自滅を誘う、あるいは一網打尽にするための決定打を。

 そして龍園の不穏な動きすらも、そのための舞台装置の一部に過ぎない。

 メッセージを送信してから、数分。既読がついたのを確認すると、オレはデッキの手すりから体を離し、船内の薄暗い通路へと足を向けた。

 目指すのは、一般の生徒がまず立ち入ることのない船底に近い最下層、デッキのさらに奥にある連絡通路だ。昼間でも薄暗いその場所は、夜になれば完全に静寂に包まれる。クラスの誰の視線も届かない、この船の完全な死角の一つ。

 目的の場所に到着し、非常灯の鈍い赤色だけが灯る通路の壁に背を預ける。

 しばらくして、階段の方から小さく、躊躇うような足音が聞こえてきた。

 現れたのは、周囲を激しく警戒しながら、今にも泣き出しそうな顔で歩いてくる軽井沢恵だった。

昼間の派手なギャル風のメイクはどこか浮いて見え、肩は小さく震えている。手元にある携帯端末を握りしめる指は、白くなるほど力が入っていた。

 

「だ、誰……? 誰なの……っ! 出てきなさいよ!」

 

 怯えを隠すように鋭い声を張り上げるが、その声は容易に震えて裏返っている。

 オレは影から静かに足を踏み出し、彼女の視界に入る位置へと移動した。

 

「約束通り、一人で来たな。軽井沢」

「……え? あ、綾小路、くん……?」

 

 メッセージの主がクラスでも目立たない地味な男だと知り、軽井沢の瞳に強烈な混乱と、それ以上の恐怖が走る。

 

「なんで、あんたが……? じゃあ、さっきのメールは、あんたが送ったの……!? 嘘、だって、なんであんたが私の過去を……!」

「真鍋たちに話しかけてからおまえの昼間の態度、そして真鍋たちに詰め寄られた時の怯え方を見ていれば、確信を持つには十分だった」

 

 オレは淡々と、感情を交えずに告げる。

 

「折角閉鎖的な学校に逃げ込んで、Dクラスで覇権を握る地位まで手に入れたが、結局虐められっ子の本質は変わらないようだな」

「な、何言ってるのよ……っ! わけわかんない! 私はただ、あいつらがムカついたから、ちょっと言い返しただけで……っ」

 

 軽井沢は激しく首を振り、必死に虚勢を張ろうとする。だが、その瞳は泳ぎ、呼吸は浅く乱れていた。無駄な抵抗だ。

 彼女がどれほど表面を強固な鎧で固めようとも、その中身が極限まで脆い硝子細工であることは、すでに白日の下に晒されている。

 

「平田という強力な寄生先を見つけ、Dクラスの女子の頂点に君臨する。それがおまえの見つけ出した、この学校での生存戦略だったわけだ。だが、その平田はおまえを本当の意味では守れない」

「な、何よ……洋介くんなら、私を……!」

「守れないさ。平田は良くも悪くも全員の味方だ。おまえを助けもするが他の人間も助ける。平田の彼女の座に座ることでおまえのDクラスでの立場は約束されたが、今回のようなことになればあいつは役に立たなかった。それにもし真鍋たちがおまえの過去を暴き公にすると脅してきた時、平田に何ができる? クラス全体を巻き込んだ泥仕合になれば、最初に潰れるのはおまえだ」

 

 一歩、また一歩と距離を詰める。非常灯の赤い光が、彼女の顔に深い陰影を落としていく。

 

「や、やめて……来ないで……!」

 

 軽井沢は後ずさりし、背中が冷たい鉄の壁にぶつかった。逃げ場を失った彼女は、両腕で我が身を抱え込むようにして、床へとうずくまりかける。

 

「……洋介くんは、私を……」

「何度言えば理解できる。平田はおまえを救えない。平田はおまえを『いじめられない環境』には置いてくれるが、おまえの過去そのものを消し去ることはできない。過去が追いついてきた時、あの善人は、おまえのために他者を徹底的に排除するような汚い真似はできないんだ」

 

 オレは冷徹に、彼女が縋り付いていた最後の蜘蛛の糸を断ち切った。

 

「あんた、何が目的なのよ……っ! 私を脅して、どうするつもりなの!?」

 

 軽井沢の目から、ついに大粒の涙が溢れ出た。床に膝をつき、絶望に顔を歪めながら俺を見上げてくる。

 恐怖、怒り、そして拒絶。彼女の感情のメーターは完全に振り切れている。だが、この極限の絶望こそが、新たな寄生先を受け入れるための絶対的な空白を生む。

 

「目的はシンプルだ。俺はお前に本当の庇護を与える。これから先今回の真鍋たちの件も含めて虐めから守ってやる。平田や町田よりもずっと確実にな。その代わり、おまえはオレのために動いてもらう」

「……あんたのために動く? あんたが?」

「そう。お前が平田の、そしてDクラスの女子のリーダーとしての地位を維持し続けること。そしてオレが必要とした時、その立場を利用して手足となり情報を集めること。それが条件だ」

 

 軽井沢は、涙に濡れた瞳で唖然とオレを見上げた。あまりに突飛で、冷酷な要求。クラスでただの地味な男として埋もれていた「綾小路清隆」の口から出た言葉とは、とても信じられないといった様子だった。

 

「な、何言ってるのよ……あんたみたいな、ただの目立たない奴が、私をどうやって守るっていうの……っ!? 学校中に広まったら、あんたにだってどうにもできないじゃない!」

「広まらせない。そのために俺が裏で動く。お前に手を出そうとする者がいれば、俺がそのすべてを排除する。お前の望む平穏な学校生活を、俺が保証してやる」

 

 オレは床に跪く彼女を見下ろし、一切の感情を排した声で言い切った。

 

「信じるか信じないかは、おまえが決めろ。平田に縋り付いたまま、いつ真鍋たちに過去を暴かれるかと怯えて毎日を過ごすか。あるいは、オレという新しい寄生先を選び、その過去を完全に闇に葬るか……選ぶ時間はそう多くないぞ」

 

 軽井沢の唇が、小さく小刻みに震える。

 彼女は理解したはずだ。目の前にいる男が、平田のような生温い善意で動いているのではないということを。自分の最も汚く、触れられたくない傷口を正確にナイフで抉りながらも、同時にそれを受け止める「器」としての不気味な絶対性を持っていることを。

 

「……う、そ……なんで、なんで私がこんな目に……っ」

 

 彼女は顔を覆い、通路の床に突っ伏して咽び泣いた。

 かつて受けた傷。そこから必死に逃げて、ようやく手に入れた偽りの女王の座。それが、あまりにもあっけなく 足元から崩れ去っていく絶望。

 だが、これでいい。一度完全に心をへし折り、自力では立ち上がれないほどの暗闇に突き落としてこそ、差し伸べられたオレの手を二度と離さなくなる。

 しばらくの間、薄暗い船底の通路には、彼女の悲痛な泣き声だけが響いていた。

 やがて、泣き声が次第に小さくなり、弱々しい呼吸の音へと変わっていく。軽井沢はゆっくりと顔を上げ、涙を拭う気力すら失った顔で、オレをじっと見つめた。

 

「……本当に、守って、くれるのね……?」

「ああ。約束する」

「もし、あいつらが私を……っ、その時は、絶対に、助けてくれるのね……!?」

「おまえがオレの言う通りに動いてさえいれば、おまえの安全はオレが保証する」

 

 オレの言葉に、軽井沢は絶望を受け入れたような、どこか虚ろな、だが明確に俺に依存することを決めた瞳で、小さく、何度も頷いた。

 

「わかった……わかったわよ。あんたの言う通りにする」

 

 軽井沢の返答を聞き届け、オレは小さく頷いた。

 

「交渉成立だ。今夜のことは誰にも言うな。平田にも、もちろん他の女子にもだ。おまえは今まで通り、高飛車に振る舞っていればいい」

「あんた、何なのよ……」

 

 今までオレを日陰者としか見ていなかった軽井沢の瞳には、底知れない化け物を覗き込んでしまったかのような戦慄が混じっている。

 だが、その問いに答える必要はない。

 

「協力の手始めに、まずグループの仲間として試験を勝ちに行く」

「勝ちに行くってどうやって――」

「だっておまえは、『優待者』だろ」

 

 この場合で出るはずのないキーワードを耳にし、軽井沢が思わずオレの目を見た。

 柊の提示した案を、軽井沢はただ安堵して受け入れていたはずだ。最後まで何も起きなければ、優待者である自分の正体は隠し通せると信じて。

 軽井沢恵という駒を、柊の、そして龍園の死角から完全に手中に収めた。

 Cクラスの裏で糸を引く柊が、最終日にどのような罠を仕掛けてくるのかは分からない。

 夜の帳が下りた豪華客船の最下層。

 冷たい静寂の中で、オレは明日の最終日、柊美輝という男が描き出すであろう答えの先を、静かに見据えていた。

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