無人島と船上で行われた二つの特別試験。それらの試験を終え、俺たちCクラスは二学期からAクラスへと昇格することになる。
俺はパソコンのディスプレイを眺め、クラスポイント変動記録の最新データを静かにスクロールしていた。
Aクラス(龍園クラス) :1480cl(+630+200)
Bクラス(坂柳&葛城クラス):764cl(+10-250)
Cクラス(一之瀬クラス) :690cl(+90-50)
Dクラス(堀北クラス) :332cl(+195+100)
二つの特別試験により、学年の勢力図は完全に崩壊し、新たな序列へと塗り替えられていた。
無人島での勝利による630クラスポイントの獲得。そして船上特別試験でのAクラス嵌め殺しによる200クラスポイントの加算。俺たちが積み上げたポイントは、他の追随を許さない圧倒的な『1480cl』という巨塔となってトップに君臨していた。
逆に、前月までAクラスの座にいた坂柳・葛城のクラスは、無人島での醜態と今回の戸塚たちの誤答自滅によって計250クラスポイントを喪失し、Bクラスへと転落。そのすぐ後ろには、一之瀬率いるCクラスが、船上試験でのマイナス50clを差し引いても690clという僅差で猛追している。
そして最底辺のDクラスは、高円寺の単独行動やクラス内の隠れた生徒の動きによって粘り強くポイントを拾い、332clまで息を吹き返しつつあった。
ただ俺にとって無人島特別試験はクラスポイント、船上特別試験はプライベートポイントを効率的に稼ぐためのボーナスであり、それぞれの試験の本質に沿って最適解を出したに過ぎない。結果として俺たちのクラスは850クラスポイントを手に入れ、1300万プライベートポイントという今後の試験における莫大な軍資金を獲得した。
この学校において、富と力はすなわち生存の確率に直結する。クラスポイントは序列という看板に過ぎないが、プライベートポイントは使い手次第でそれ自体がルールを歪め、絶対的な安全網を構築するための最強のツールとなる。
1300万という額は、クラス全体の財布を潤すだけでなく、今後のインフラの買収や特殊申請といった裏工作に十分耐えうる資金源だ。2学期からのAクラス昇格は、俺にとっては想定内の通過点であり、真の目的はその先の盤面掌握にある。
俺はタブを切り替え、画面に展開されたローカルデータベースのファイルを展開した。
そこに並ぶのは、入学以来、俺が受動的列挙――すなわち、ターゲット側のサーバーや端末に一切のパケットを到達させず、こちら側の足跡を完全に秘匿した状態でのOSINT(オープン・ソース・インテリジェンス)によって構築してきた、学年の主要人物たちのプロファイリングデータだ。
1学期の間、俺がただの生徒として息を潜めていたのは、この学校のインフラ網と生徒たちの情報を収集するためだ。公開されているSNSの公開ログのクローリング、削除済みのWebページをサルベージするアーカイブサイトの追跡、学内掲示板の書き込みメタデータから抽出した行動パターンの相関性分析(SOCMINT)、そして過去の経歴の追跡。それらを繋ぎ合わせたパズルの中心に、一人の少女のデータが浮かび上がっていた。
『一之瀬帆波:中学時代の不登校期間――数ヶ月の空白』
その不登校期間の背景を探っていくと、一つの噂が浮上してきた――万引きによる停学と自責による引きこもり。あくまで噂の域を出ないが、その流通経路にはかつて彼女と同じ中学に通っていた生徒たちの実名・匿名アカウントが残した過去の発言ログや、スクラップされた地方掲示板の魚拓、特定の閉鎖的コミュニティのキャッシュデータが奇妙に符号している。列挙によって得られたデジタルフットプリントの断片をタイムライン上にマッピングした結果、これが単なる悪意あるデマではなく、彼女が隠し持つ真実である可能性を濃厚に示していた。
一之瀬以外の生徒、例えば櫛田桔梗の二面性について彼女は過去にとある匿名ブログでクラスメイトの悪口をぶちまけてそれがクラスメイトに発覚され周囲の人間関係を崩壊させた過去があり、平田洋介もまた、かつての学校でいじめ問題を起点とし、平田による恐怖と暴力による支配によって活気が失われ、1つの学年が機能不全に陥った過去がある。これも当時の地域ニュースのアーカイブと、当時の在校生と思しきアカウントの愚痴のネットワークグラフ分析から導き出した事実だ。
「綾小路清隆、ね」
俺はマウスホイールをさらに転がし、もう一つの独立したファイルをクリックした。
彼の経歴は非常に興味深く、それは彼に関するデータが存在しないという異常性からくる。
綾小路にはSNSの痕跡が全くない。これは単純に本人がアカウント登録したり投稿をしていないからだけではない。現代の学生が日常的にスマートフォンを使い、クラスメイトの投稿に映り込んだり、位置情報を共有したりする過程で生じるはずのサードパーティ・デジタルフットプリント(他者の巻き込み)すら、不自然なほど徹底的に排除されているのだ。これは個人の防諜意識(OPSEC)のレベルを遥かに超越している。小学校・中学校における在籍記録や地域コミュニティの広報データにすら、彼の名前は一切ヒットしない。まるで、この高度育成高等学校に入学する直前まで、この世に実在していなかったかのような完全な空白。。
表のネットになければ、過去のデータ漏洩(サイバー攻撃で流出した役所のデータや医療機関のデータなど)をクロス参照したりもした。
ダークウェブ上に散らばる、過去数年分の流出データベースのインデックス――暗号化された医療機関のレセプトデータや、官公庁の旧システムから引き出されたバックアップログ。
それらの非構造化データをローカル環境のデータベースに統合し、正規表現を用いた名寄せアルゴリズムにかけても、「綾小路清隆」という個人を特定できる痕跡は1ビットたりとも検出されなかった。
現代日本で15年間、ネットにも行政の網にも一切引っかからずに生きてきた人間というのは、それ自体が国家レベルの隠蔽工作、あるいはそれに準ずる閉鎖的環境を示唆する最大の異常値だ。
データが存在しないということは、そこに「巨大な隠蔽の意思」が働いている証拠だ。一般家庭がどれほどプライバシーを徹底したところで、医療記録や義務教育の学籍情報まで完全に消去することはできない。それが実行可能であるとすれば、国家規模の権力、あるいはそれに準ずる閉鎖的かつ特殊な組織の手によって、彼の存在そのものが最初から無として戸籍上、あるいはインフラ上から物理的に隔離されていたと考えるのが自然だ。
綾小路清隆本人から足がつかなくとも、「綾小路」という極めて珍しい姓の血縁者や関係者を追えばいい。日本国内の全戸籍・人名データベースのリークログから逆引きを試みると、ある不自然なデータの空白にぶち当たり、その理由が微かに見えてきた。
行き着いたのは、綾小路篤臣という政治家だ。
まず、総務省や選挙管理委員会が公開している政治資金収支報告書のPDFをダウンロードし、OCR(光学文字認識)処理をかけて構造化データに変換後、彼の政治団体が関わる資金移動や寄付金のデータを抽出した。そこから、大量の資金が流れている正体不明のコンサル会社や一般社団法人をリストアップし、法人番号をキーにして登記情報からそれらの企業の履歴事項全部証明書を取得。設立年月日、代表者名、事業目的を確認した。
さらに役員たちの名前をビジネスSNSや求人プラットフォームのヘッドハンティング履歴で名寄せ(OSINTルックアップ)すると、奇妙な実態が浮かび上がった。政治関係の企業であるはずなのに、「大量の医療機器」や「高等教育用機材」を買い付けるなど、まるで学校のようなサプライチェーンを構築していたのだ。
続いて、これら不審な企業の関連施設や物流トラックの目撃情報、求人サイトの募集要項(『人里離れた施設での警備員募集』『勤務地:東京都・詳細非公開』など)を徹底的に分析した。目星をつけた地域のオープンソース衛星画像(GEOINT)を過去数年分のタイムラプスで比較分析すると、ある時期を境に、森林の植生が不自然に消失(NDVI値の急変)しているポイントを特定。そこには、約20年前までただの山林だった場所に突如として建設された、厳重なセキュリティに囲まれた「窓のない巨大建造物」が写し出されていた。
仕上げに、施設周辺の位置情報メタデータ(EXIF)付きのSNS投稿や、関係者と思われる研究者・教官のビジネスSNSを過去に遡って調べ上げた。山奥の施設に出勤する警備員が『今日も人里離れた職場で夜勤』と投稿した写真の背景(防犯カメラの形状や壁の色)、そして一流の研究者たちのキャリアの空白期間。
【綾小路篤臣 ─(資金)─> ダミー会社 ─(物資・建設)─> 謎の山奥の施設 ─(人事)─> 失踪・キャリア空白状態の専門家たち】
これらの情報を相関図作成ツールで視覚化させた結果、一つの構造が明らかになった。あの山奥の施設は、ただの政府系倉庫などではない。
この先のフェーズ――すなわち、その施設のプライベートネットワークへのペネトレーション(侵入試験)やサーバーへの不正アクセスは、オープンソースの枠線を超えるだけでなく、国内法(不正アクセス禁止法)に抵触し、こちらの存在を露呈させるリスクがある。そのため、これ以上の深追いはしなかった。
結局のところ綾小路篤臣が怪しい施設を運用していることは分かったとしても綾小路清隆の出自や綾小路篤臣と血縁関係であることは定かではないが、その施設と何らかの関係がある可能性が0であることは否定しきれない。
OSINTというのは、あくまで合法的に公開されている、あるいは流出済みの既知の情報(オープンソース)をパズルのように組み合わせ、その隙間に隠された真実をあぶり出す技術。これはフィクションの誇張ではない。れっきとした現実のインテリジェンス機関や民間調査会社が用いる、最高峰の相関分析そのものだ。
俺はタブを閉じ、パソコンの液晶画面を閉じた。綾小路清隆という人物は非常に気になるが、優先的に対処すべきは、彼ではない。
現在時刻を確認すれば、午前9時33分。部屋の窓からは澄み渡る夏の青空と、きらきらと輝く海が見えている。
今日はひよりとの約束があり、約束の時間まで30分切っていた。
俺は適度に清潔感のあるシャツに着替え、髪を軽く整えてから携帯端末をポケットに入れた。
ひよりとはケヤキモールのカフェで、お互いのおすすめの本を交換して読もうという約束をしている。俺はひよりに渡す本が入ったトートバッグを手に取ると、静まり返った部屋を後にした。
部屋を退出し、エレベーターで1階のロビーへと降りると、ロビーの端っこにひよりがちょこんと佇んでいるのが見えた。
「……あ、美輝くん。おはようございます」
俺の足音に気づいたのか、ロビーのソファからひよりがパッと顔を上げた。
夏らしい爽やかな私服に身を包んだ彼女は、トートバッグを肩にかけ、嬉しそうにはにかんだ。
「おはよう、ひより。待たせてしまったか?」
俺が歩み寄ると、ひよりは「いえ」と小さく首を横に振った。その細い指先が、大事そうに抱えられたトートバッグの持ち手をきゅっと握り直す。
「そうか。なら良かった。さっそくケヤキモールへ向かおう」
ロビーの自動ドアが開き、一歩外へ踏み出すと、ジリジリとした夏の陽光と、肌を焦がすような熱気が容赦なく押し寄せてきた。
豪華客船での特別試験を終えた俺たちは、残り少ない夏休みの一時をこうして過ごしている。周囲の生徒たちが未だに試験の結果やクラスポイントの変動に一喜一憂し、あるいは迫る2学期への不安に駆られている中、俺たちの間を流れる空気だけは、どこか俗世から切り離されたように穏やかだった。
並んで歩きながら、俺は隣のひよりの様子をそれとなく観察する。
一歩ごとに揺れる髪、過度な装飾のない清潔感のあるブラウス、そして何より、俺の隣を歩くことに一切の計算や警戒を挟まないその佇まい。
この学校で俺が唯一、明確な『信用』を置いているのが彼女だった。
「美輝くん、今日はどんな本を持ってきてくれたんですか?」
ケヤキモールの冷房が効いたエントランスに入ると、ひよりが少し身を乗り出すようにして、俺の持つトートバッグに視線を向けた。
「ああ、今回は少しジャンルを変えて、古典的な推理小説と、人間の行動心理に関するエッセイをいくつか選んでみた。ひよりが好きそうな、緻密な伏線が張られたものだ」
「まあ、それは楽しみです! 緻密な伏線が張られたお話は、読んでいる間ずっとパズルを解いているみたいでワクワクしますから」
ひよりは瞳をキラキラと輝かせ、少女のように微笑んだ。
ケヤキモールの喧騒の中を歩きながら、俺は彼女のその純粋な笑顔を視界の端に収めていた。
「ひよりはどんな本を選んでくれたんだ?」
ケヤキモールの喧騒を抜け、冷房が心地よく効いたブックカフェの奥の席。
俺たちは向かい合って座り、俺がそうが問いかけるとひよりは待ってましたとばかりに、自分のトートバッグを少しだけ広げて見せてくれた。
「ふふ、私は美輝くんに合いそうな、少し古い海外のサスペンス小説と……それから、歴史に隠された暗号を巡るノンフィクションを選んでみました。美輝くんなら、きっと著者の仕掛けた裏の意図まで見抜いてしまいそうだなって思ったので」
「それはなんともまあ、面白そうだ」
互いに持ち寄った本をテーブルの上に並べ、ひよりが選んでくれた海外のサスペンス小説とノンフィクションの背表紙を見つめながら、俺は指先でその紙の質感を確かめる。
「そう言っていただけると嬉しいです。美輝くんは、いつも本の本質を一瞬で見抜いてしまいますから、少し骨のあるものを選んだつもりなんです」
ひよりは運ばれてきたアイスティーにストローを挿し、嬉しそうに目を細めた。
「俺の評価が少し高すぎる気がするが……期待に応えられるよう、じっくり読ませてもらうよ」
俺も運ばれてきたアイスコーヒーに口をつけ、ひよりが差し出してきた一冊――歴史の暗号を巡るノンフィクション本を手に取った。
ページをめくると、特有の古い紙の香りが鼻腔をくすぐる。それは電子書籍のディスプレイからは決して得られない、物理的な情報だけが特有の質感だ。
静かなカフェのBGMと、ひよりが本をめくる規則正しい微かな音が心地よく鼓膜を揺らす。
彼女は俺が手渡した心理学のエッセイにすっかり没頭しているようで、時折、納得したように小さく頷いたり、伏線に気づいたのか「ほう」と感心したような吐息を漏らしたりしている。
その様子に少しだけ口元を緩めながら、俺も手元のページへと意識を戻した。
ひよりが選んだノンフィクション本は、16世紀の暗号通信とそれを取り巻く権力闘争を緻密に追ったものだった。著者の構成力は高く、一見すると単なる歴史の偶然に見える出来事が、実は緻密に計算された情報戦の結果であったことが論理的に暴かれていく。
数十分ほど、互いに一言も交わすことなくページをめくる時間が続いた。
沈黙が苦にならない関係というのは、この学校において極めて希少だ。他の生徒と席を並べれば、嫌でもクラスの動向や次の試験の対策といったノイズが思考に混ざる。だが、ひよりといるこの空間だけは、純粋な知的好奇心と活字の匂いだけで満たされていた。
ふと視線を感じて顔を上げると、ひよりが本の上からこちらをじっと見つめていた。目が合うと、彼女は少し悪戯っぽく微笑む。
「どうですか、美輝くん。楽しめていますか?」
「ああ、非常に興味深い。16世紀の暗号通信に見せかけた、ただのランダムな文字列――それが実は、当時の宮廷内における誰が情報を漏洩させたかを特定するための罠だったという指摘は実に合理的だ。著者の分析の鋭さには、思わず時間を忘れる」
俺が本を少し持ち上げて見せると、嬉しそうにパッと表情を輝かせた。
「やっぱり! 美輝くんなら、その部分に食いついてくれると思っていました。多くの人は暗号の解読方法そのものに目を奪われがちですけど、本当に面白いのはなぜその暗号が作られたのかという背景の心理戦ですよね」
「その通りだ。情報を発信する側と、それを傍受しようとする側の騙し合い。この本に書かれていることは、現代の組織間における情報戦にもそのまま通じるものがある」
「ふふ、美輝くんが気に入ってくれて良かったです。……あ、でも、あんまり難しく考えすぎず、お話としても楽しんでくださいね?」
ひよりはそう言って、クスクスと小さく笑った。その声音には、俺の性質を理解した上での、どこか慈愛に満ちた響きが含まれている。
「ああ、物語としての起伏も十分魅力的だからな。ひよりの方こそ、その本はどうだ?」
俺が問いかけると、ひよりは手元にある本のページをそっと撫でながら、ふう、と小さく息を吐いた。
「とっても面白いです。人間の仕草や言葉の選び方から、その人の本心を解き明かしていくプロセスが論理的に書かれていて……。でも、これを読めば読むほど、美輝くんの凄さが際立って見えてしまいますね」
「俺の?」
「はい。この本に書かれている嘘をつくときの視線の動きとか緊張したときの指先の癖とか、美輝くんにはどれも当てはまらないですから。まるで、自分のすべての行動を最初から完璧にコントロールしているみたいで……時々、美輝くんは本当に私と同じ世界に生きているのかなって、不思議な気持ちになるんです」
ひよりはストローを指先で弄びながら、悪戯っぽく、けれどどこか真剣な眼差しをこちらに向けた。
無自覚な観察眼、とでも言うべきか。彼女は専門的知識がなくても、その卓越した感性と読書で培われた洞察力によって、俺の本質的なものを的確に捉えかけている。
「買い被りだよ。俺だって今は高校生だ。暑ければ汗をかくし、面白い本を読めば時間を忘れる」
「ふふ、そういうことにしておきます」
ひよりはそれ以上深く追及することはせず、再びアイスティーを一口含んだ。その引き際の良さもまた、俺が彼女を好ましく思う理由の一つだ。
それからさらに1時間ほど、俺たちは静かに読書を続け、それぞれの本を読み終えた。
伝算された文字情報から得られる満足感と、目の前にいる少女との共有された時間。それは、無人島や豪華客船で張り詰めていた俺の脳細胞を適度に弛緩させる、極上の休息だった。
「そろそろ、行こうか」
「はい。そうですね」
席を立ち、会計を済ませてブックカフェの外へ出ると、モールの通路は昼過ぎの時間帯ということもあり、夏休みを満喫する生徒たちで賑わっていた。
そして俺がランチの提案しようとしたその時、少し離れたアパレルショップの前で、見覚えのある人物たちの姿が視界に入った。
Bクラスへと転落したばかりの葛城が、浮かない顔で腕を組んで立っている。その少し前方では、神室を引き連れた坂柳が、相変わらずの不敵な笑みを浮かべながら買い物を楽しんでいた。
クラスポイントを大幅に失った直後だというのに、坂柳の様子には悲壮感など微塵もない。むしろ、ここからの巻き返しを当然のように確信しているかのような、絶対的な余裕すら感じられた。
一方の葛城は、そんな彼女の背中に複雑な視線を向けている。先の試験での失態、そしてクラス内での発言力の低下――彼の苦悩が、その硬い表情から手取るように伝わってきた。
「……葛城くん、元気がないみたいですね」
隣を歩くひよりが、彼らの様子に気づいてぽつりと呟いた。その声には純粋な心配が含まれている。
「Aクラスから落ちた影響は小さくないだろうからな」
俺が淡々と応じると、ひよりは小さく頷き、それから少し首を傾げて俺を見上げた。
「私たちCクラス……いえ、2学期からはAクラス、ですね。やっぱり、これから他のクラスからの警戒は強くなるんでしょうか?」
「当然そうなる。これまでは龍園が目立つ泥泥とした動きをしていたから、周囲のヘイトは彼に集中していた。だが、無人島と船上の特別試験でこれだけの圧倒的な点数差をつけてトップに躍り出れば、嫌でも全クラスから標的にされる。2学期からの試験は、これまで以上に一筋縄ではいかなくなるだろうな」
俺がそう言うと、ひよりは不安そうにするわけでもなく、「そうですか」と静かに微笑んだ。
「でも、美輝くんがついていれば、私はどんな試験が来ても不思議と安心していられます」
ひよりはそう言って、確固たる信頼の光をその瞳に宿して俺を見つめた。
俺は特別試験が行われる前は龍園の影に隠れて行ってきたつもりだった。それはただ目立ちたくないという浅はかな動機によるものではなく、専門性の高いサイバーセキュリティ技術この学校で実践するための、必然的な戦略だったに過ぎない。
「随分と大きな信頼だな」
「ふふ、だって事実ですから」
ひよりはトートバッグを胸元で抱き抱えるようにして微笑んだ。
俺は葛城の方に視線を戻した。
葛城は保守的で慎重な生徒であり同じクラスの坂柳に対して元々対立意識はなかったのだが、好戦的でリスク的かつ独断的な坂柳の動きについていけず、学年当初の対立構造が生まれてしまっていた。
無人島での失策に加え、船上試験での誤答による手痛い減点。俺たちのクラスと2倍近くポイントを突き放しBクラスへ転落したにも関わらず、坂柳はまだ余裕そうにしている。あの二つの特別試験で葛城と坂柳にこれ以上の独走を許せばクラスが崩壊するという危機感を与え、両者が手を取り合って一丸となり強固なクラスを目指すことに期待はしていた。
しかしどの世界においても天才と呼ばれる人間は、一度実力の差を徹底的に見せつけないと己の敗北を本当の意味で理解できないようだ。
「美輝くん?」
足を止めていた俺を不思議に思ったのか、ひよりが首を少し傾げて覗き込んできた。
「いや、なんでもない。少し考え事をしていた……それより、そろそろ昼食にしよう。あそこに見えるイタリアンはどうだ? 落ち着いた雰囲気で、読んだ本の話の続きをするにはちょうどいい」
「わぁ、素敵ですね! ぜひそこにしましょう」
ひよりは嬉しそうに微笑み、俺の歩調に合わせて歩き出す。
店に入り、案内されたテラス寄りの席に腰を下ろす。ガラス越しに差し込む柔らかな光が、ひよりの髪を淡く輝かせていた。
注文を済ませると、俺たちは先ほどまで読んでいた本の内容について、再び言葉を交わし始めた。
「16世紀の宮廷で使われていた暗号ですけど、現代でいうカナリア・トラップの原型に近いですよね。情報をわざと少しずつ変えて流すことで、どこから漏れたかを特定する……」
パスタを小さくフォークに巻きながら、ひよりが楽しそうに語る。彼女が何気なく口にしたその単語に、俺は思わず微かに眉が動いた。彼女自身はそれを単なる本から得た知識の応用として口にしているのだろうが、その本質を捉える速度はやはり並大抵ではない。
「よく知っているな。まさにその通りだ。情報の流出経路を特定するために、意図的に識別子を埋め込んだ偽情報を流す。現代のサイバーセキュリティやインテリジェンスの世界でも、内部の裏切り者を炙り出すための常套手段だ」
「ふふ、本の中に似たような記述があったんです。でも、そういうのってなんだか……少し悲しいですよね。お互いを疑い合うために、知恵が使われるなんて」
ひよりは少しだけ寂しげに目を伏せ、それからすぐにいつもの穏やかな笑顔に戻った。
「でも、美輝くんとこうして本のお話をしている時間は、そういう複雑な現実から遠く離れられて、とっても心地がいいです」
「同感だ。俺にとっても、この時間は貴重なリフレッシュになっている」
偽りのない本音だった。こうして純粋な知的好奇心だけで繋がれる相手がいるということは、この高度育成高等学校という特殊な閉鎖環境において、一種の奇跡に近い。
食事を終え、店を出る頃には、昼下がりの強い日差しがケヤキモールのガラス天井を白く焼き付けていた。
俺たちは寮に帰り、エレベーターの静かな駆動音に耳を傾けながら、互いの手にあるトートバッグの中身が入れ替わった本たちをなんとなく見つめ合っていた。名残惜しそうにトートバッグを抱え直すひよりを、俺は寮のエントランスまで送り届けることにした。
「今日は本当にありがとうございました、美輝くん。お勧めしていただいた本、お部屋でじっくり読ませていただきますね」
ひよりの階に到着し、開いた扉の向こう側へと一歩踏み出した彼女は、振り返って深々とお辞儀をした。
「ああ。俺もひよりから借りた本を楽しませてもらうよ。また面白い本を見つけたら連絡してくれ。俺も面白そうな本を見つけたら連絡するよ」
「はい! 楽しみにしていますね……それでは、また」
ひよりは小さく手を振り、廊下の奥へと歩いていく。その背中を見送った後、閉まる扉の向こうで俺は自分の部屋の階へと向かった。
綾小路篤臣という政治家が謎の施設を運営している疑いがあり、収集した情報をどうすればいいか思考を巡らせる。普通にメディアにリークしたところで、結果は見えている。現在、彼は失脚して権力者の座を失っているとはいえ、国家規模の権力基盤を持つ政治家の協力者を視野に入れているとなると大手マスコミにデータを送りつけたとしても、公開される前に政府機関や息のかかった圧政によって握りつぶされるのがオチだ。
たがそれは国内に限っての話だ。
もしこのデータが、日本の公安や内閣情報調査室の目の届かない海外の独立系調査ジャーナリズム機関、あるいはダークウェブ上の内部告発プラットフォームに分散配置されたらどうなるか。あるいは、その謎の施設が利用している海外製の医療機器や専門機材のメーカー、それらを規制する国際機関の監査ルートに匿名で流し込んだらどうなるか。
国内の圧政が及ばない外圧という形で情報が逆流すれば、どれほど強固な権力基盤であっても、その土台を揺るがす国際的なスキャンダルへと発展する。
政治団体が集める資金の中には、政党交付金というものが含まれてある。これは、国民の税金から出されているお金であり、その資金の一部が公表されていない施設に流れているとすれば、それだけで十分に違法性、あるいは深刻な説明責任の追及対象となる。
ただ、その時は学生としてではなく『社会人』として海外にリークするとしよう。その時までに出来る限り情報収集を継続し、データベースの精度を極限まで高めておく。それが、俺の取るべき最も合理的でリスクの低い最適なはずだ。
※彼はクラッキング(ハッキング)をしているわけではありません