ようこそ凡人がいく実力至上主義の教室へ   作:神威 

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第31話 悪意なき外圧と最初の同調者

 夏休みを満喫している中、俺はひよりと過ごしたり、自室で読書したりノートパソコンのディスプレイに向き合う時間を送っていた。

 ひよりと交わした有意義な読書時間は俺の脳細胞を適度に弛緩させてくれたが、だからといって盤面の管理を怠るつもりはない。俺は携帯端末を手に取り、画面に表示されたタイムラインを確認する。

 現在時刻は午後8時14分。学生寮のロビーやケヤキモールの人通りが落ち着き、生徒たちの行動パターンが固定化される時間帯だ。

 俺はメッセージアプリを開き、Bクラスの網倉麻子のアドレスを選択した。

 一学期間の情報収集によって一之瀬帆波が抱える『万引きによる不登校』というデータは手元にある。だが、これを処理するには彼女の精神的支柱となる人間の協力が必要不可欠である。網倉は一之瀬の親友であり、クラスの女子グループの中心にいる彼女の『信用度』を事前に監査しておく必要がある。

 当然、他クラスの監視の目や、思春期特有の無用な噂話を避けるため、接触は完全な密室で行わなければならない。

 俺は事務的かつ、網倉が拒絶できない文面を打ち込み、送信ボタンを押した。

 

『柊だ、網倉。一之瀬について、Bクラスの今後に関わる少し差し迫った共有事項がある。内容は他言無用、神崎や本人にもまだ伏せてほしい。周囲の目を考慮して、今夜21時に俺の部屋(410号室)に来てくれないか。30分程度で済む話だ。なお、部屋へ向かう際はエレベーターではなく、防犯カメラの死角となる非常階段を利用し、他の生徒と接触しないよう配慮を頼む』

 

 送信完了の通知を見届け、端末をデスクに置く。

 通常であればこのメッセージを受け取った網倉の脳内には、いくつもの疑問と警戒が浮かぶはずだ。なぜCクラスの生徒から連絡が来るのか。なぜ一之瀬の名前を出すのか。なぜ密室を指定するのか。

 だが、先の船上特別試験において、一之瀬や網倉たちBクラスが俺に向けている『信用』は一定以上に達している。加えて「一之瀬の危機」を直感させるこの文面であれば、彼女が感情を優先して足を運ぶ確率は極めて高い。

 もし網倉がこの部屋に来るまでの過程で、不用意に誰かに相談したり、指定した防諜ルートを無視して目撃されるような場合は、俺一人で動くしかない。

 そうこうしているうちに、デスクの上の携帯から短い通知音が鳴った。

 画面を見れば、網倉からの返信だ。

 

『わかった。誰にも言わずに時間通りに行くね』

 

 短い文面から、彼女の困惑と、それ以上に親友を案じる強い意思が読み取れた。

 ひとまず、第一段階はクリアといったところか。

 俺は端末をポケットに収め、椅子の背もたれに体を預けた。時計の針は午後8時20分を指している。約束の時間まであと40分。それまでは作業を止めていたPoC(概念検証コード)の作成を再開することにした。

 指先をキーボードの上で走らせ、変数の定義と処理フローを頭の中で組み立てていく。思考を集中させていると、時間の経過は早い。気づけば画面右下の時計は午後8時58分を表示していた。

 ノートパソコンをスリープモードに移行させたと同時だった。静まり返った部屋に、インターホンが短く鳴り響いた。

 俺は席を立ち、ロックを解除してドアを静かに引き開ける。

 そこに立っていたのは、やはり少し肩を強張らせ、周囲の廊下を気にするように視線を泳がせている網倉麻子の姿だった。

 

「……柊くん。本当に、誰にも見られてないよね?」

 

 網倉は俺と目が合うなり、不安げな声を漏らした。その表情には明らかな緊張と、それ以上の戸惑いが張り付いている。

 指示通り、他の生徒に見つからないよう細心の注意を払ってここまで来たのだろう。わずかに乱れた呼吸が、彼女の焦燥を物語っていた。

 

「ああ、問題ない。そこを通ってくれ」

 

 俺はドアを開け、部屋の内側へと促す。

 網倉は一瞬だけ躊躇する素振りを見せたが、意を決したようにローファーを脱ぎ、一歩を室内へと踏み込んだ。

 完全に彼女が中に入ったのを確認してから、俺は足音を立てずにドアを閉め、鍵をかける。カチャリ、と金属音が静かな室内に響くと、網倉の肩がびくりと跳ねた。

 年頃の男女が夜の男子生徒の個室に二人きり。警戒するなと言う方が無理な話だ。だが、この緊張感こそが、こちらの言葉の重みを増幅させるスパイスになる。

 

「悪いな、こんな時間に呼び出して。まあ、適当に座ってくれ」

 

 俺は丸椅子を引き、彼女に勧めた。自分はベッドの端に腰を下ろし、視線の高さを網倉よりやや低く設定する。威圧感を与えず、かつ冷静に会話を進めるための配置だ。

 

「ううん、大丈夫……。それより、柊くん。帆波ちゃんのことって、一体どういうこと? Bクラスの今後に関わるって……」

 

 網倉は勧められた椅子に浅く腰掛け、膝の上で両手をきつく握りしめながら、真っ直ぐに俺を見つめてきた。

 その瞳にあるのは自己保身ではなく、ただひたすらに一之瀬帆波という存在への純粋な心配だ。

 網倉の言葉を受け、俺はすぐに答えを出さず、まずは部屋の冷蔵庫から冷えたミネラルウォーターのペットボトルを取り出して彼女の前のテーブルに置いた。少しでも緊張を緩和させ、脳の過度な興奮を抑えるための心理的アプローチだ。

 

「まずは落ち着け、網倉。本題に入る前に、一つ確認しておきたいことがある」

 

 俺がベッドの端に腰を下ろし、静かに視線を合わせると、網倉はごくりと唾を飲み込んで身を固くした。

 

「確認……って?」

「なぜ神崎ではなく、お前を呼んだと思う?」

 

 網倉は意表を突かれたように瞬きをした。Bクラスの副リーダー格である神崎直人を差し置いて、女子グループの中心にいるに過ぎない自分が指名された理由。彼女は必死に思考を巡らせているようだった。

 

「それは……神崎くんだと、柊くんのクラスの龍園くんとかと対立しちゃうから……?」

「それもあるが、本質じゃない。神崎は合理的で優秀な男だ。だからこそ、一之瀬の身にクラスの存続を揺るがすレベルの致命的な問題が起きた時、彼は論理を優先して一之瀬を切り捨てるか、あるいはクラスの利益のために彼女を厳しく糾弾する側に回る可能性がある。だが、俺が求めているのは論理的な正論じゃない」

 

 俺は淡々と、しかし網倉の目を真っ直ぐに見据えて言葉を紡ぐ。

 

「網倉、お前が一之瀬をどう思っているか、本当のところを聞きたい。お前は、一之瀬帆波という人間をどれくらい信じている?」

「えっと……どれくらい、って言われても……」

 

 網倉は一瞬戸惑ったように視線を泳がせたが、すぐにその瞳に強い光が宿った。膝の上の両手に、さらにぎゅっと力が込まる。

 

「私は、帆波ちゃんを心の底から信じてるよ。ただのクラスのリーダーだからとか、そういうんじゃなくて……。帆波ちゃんはいつだって自分のことより私たちのことを一番に考えてくれるし、あの子が嘘をついて誰かを傷つけるようなことは絶対にないって、そう言い切れる」

 

 言葉の端々に一切の迷いはない。

 

「二学期からは俺たちのクラスがAクラスに昇格し、網倉のクラスはCクラスに落ちることになる。今後、もしお前たちのクラスがBクラスに戻るどころか最悪Dクラスへと転落するような窮地に陥ったとしても、お前は一之瀬を信じ続けるのか?」

「そんなの、当たり前だよ」

 

 網倉は即座に、憤りすら滲ませて言い放った。

 

「ポイントが落ちたって、帆波ちゃんが私たちのために必死に頑張ってくれてることは変わらないもん。クラスがどうなろうと、私は帆波ちゃんの味方だし、あの子を支えるって決めてる」

 

 俺は網倉の視線の微細な揺らぎ、声のトーンの安定性、そして呼吸の周期を細部まで観察する。心理学的な嘘の兆候は一切検知されない。

 

「Aクラスでの卒業が叶わなくてもか」

 

 俺の問いかけに、網倉は一瞬だけ息を呑んだ。この学校におけるAクラスでの卒業が持つ価値は将来の夢や進路を保証されるという特権の重さを、彼女も十分に理解しているはずだ。

 それでも、網倉の瞳から光が消えることはなかった。

 

「……うん。そりゃあ、Aクラスで卒業できたら一番いいよ。でもね、帆波ちゃんを裏切って、あの子を切り捨ててまで手に入れたAクラスなんて、私は全然嬉しくない。Bクラスの皆だって、きっと同じ気持ちだよ」

「そうか。その答えが聞ければ十分だ」

 

 俺は網倉の返答に小さく頷いた。

 彼女が口にした言葉は、単なる盲信や子供の綺麗事ではない。一学期間、一之瀬がクラスメイトへ与え続けてきた配慮と誠実さ。そのリソースの蓄積が、網倉の中にこの人には裏切られないという絶対的な信用の防壁を構築している。

 一之瀬帆波という人材の価値、この圧倒的な信用貯蓄の高さは、現実の社会組織においてもそうそう模倣できるものではない。

 

「柊くん。Bクラスの今後に関わる共有事項は一体、何なの」

 

 網倉の問いかけは、切迫感を帯びて室内の空気を震わせた。

 俺はテーブルの上のペットボトルを一瞥してから、静かに口を開く。

 

「それは一之瀬も同席させた状態で伝えるべき内容だな」

「え……」

 

 網倉は裏切られたような、呆然とした声を漏らして目を見開いた。ここまで張り詰めていた緊張と心配が一気に拍子抜けしたような、困惑の表情が浮かぶ。

 

「待ってよ、柊くん! 帆波ちゃんのことだって言うから、私誰にも言わずにここまで来たのに……!」

「これは一之瀬に関することであり、本人が不在の状態で勝手に決めていい話ではないからだ。今回、網倉を先に呼んだのは理由がある」

 

 立ち上がろうとする網倉を、俺は静かな視線だけで制した。感情の波に飲まれかけていた彼女は、その視線の冷徹さに気圧されたように、再び丸椅子に深く腰を沈める。

 

「理由……?」

「まあ、その理由も含めて、今から本人を交えて話す。悪いな」

「もうっ、柊くんって本当に人使いが荒いっていうか、冷たいっていうか……!」

 

 網倉はぷくっと頬を膨らませて抗議の声を上げたが、その瞳からは先ほどまでの張り詰めた警戒心や恐怖が綺麗に消え去っていた。

 

「わかったよ。ここまで来たら柊くんの言う通りにする。……で、帆波ちゃんはどうやって呼ぶの? 今から私の部屋に呼ぶ?」

「いや、もう遅い時間だ。後日改めて、一之瀬の部屋で話をすることにしよう。その時は網倉も必ず同席してほしい」

「私の部屋じゃなくて、帆波ちゃんの部屋なんだ?」

 

 網倉は不思議そうに小首を傾げた。張り詰めていた警戒心が完全に解けたせいか、その仕草には年頃の女子高生らしい無防備さが滲み出ている。

 

「ああ。当事者のパーソナルスペースで話を進める方が、対象の心理的防壁を緩和させやすいからな」

 

 網倉はまだ完全に納得いかないといった風に、机の上のミネラルウォーターのボトルを両手で包み込んだ。

 

「よく分からないけど……柊くんがそこまで考えてるってことは、本当に大切な話なんだね」

「ああ。だからこそ、その時が来るまでは誰にも一之瀬本人にも、今の話は絶対に漏らさないでくれよ」

「うん、約束する。柊くんがそこまで慎重になる理由、なんとなく分かった気がするし……」

 

 網倉は小さく息を吐きながら立ち上がった。その表情からは先ほどの張り詰めた硬さは消え、どこかやり遂げたような柔らかい笑みが覗いている。

 

「話し合いの日時は網倉に任せてもいいか。一之瀬のスケジュールを最も把握しているのはお前だろう」

「うん、わかった。帆波ちゃんの予定を確認して、後でメッセージ送るね」

「ああ、助かる。連絡を待っている」

「じゃあ、私はこれで失礼するね。……あ、帰りも非常階段を使った方がいいよね?」

 

 網倉はドアノブに手をかけながら、確認するように振り返った。先ほどまでの怯えは消え、今やこちらの意図を正確に汲み取ろうとする協力的姿勢へと変化している。

 

「頼む。誰に見られるか分からないからな。足元には気をつけてくれ」   

「うん、ありがと。それじゃあ、また連絡するね」

 

 網倉は小さく手を振ると、音を立てずにドアを開け、素早く廊下の闇へと消えていった。

 カチャリと鍵を閉め、静寂を取り戻した自室を見渡す。テーブルの上には、彼女が一口も付けなかったミネラルウォーターのペットボトルがポツンと残されていた。

 これで次の段階に進められる。

 網倉の一之瀬に対する信用の強固さは、こちらの想定を上回っていた。最悪のケースとして、一之瀬の過去が暴露され、クラス全体に動揺が走ったとしても、網倉が防波堤となって女子グループの離反を防ぐことができるだろう。 

 俺は再びデスクの前に座り、ノートパソコンの画面を立ち上げた。スリープを解除し、作成途中だったPoCのコードに視線を落とす。

 指先をキーボードに乗せ、ロジックを組み立てていく。カチカチと規則的な打鍵音だけが、深夜に向けて加速していく部屋の中に響き渡った。

 

「……さて」

 

 画面の時計は午後9時24分を示している。

 網倉からのスケジュール連絡が来るまでに、このコードは書き終えておく必要がありそうだ。俺は思考のギアを一段上げ、再び暗闇の中のディスプレイへと没頭していった。

 

 

 網倉からの連絡は、翌日の夕方に届いた。

 指定された日時は、夏休みのとある日の午後2時。場所は一之瀬帆波の自室。

 網倉は一之瀬に対して「柊くんがクラスポイントの件でちょっと真面目な話をしたいみたい。私も一緒に行くから、部屋で三人で話さない?」という名目で、あらかじめ自然な形でアポイントメントを取り付けておいてくれた。

 午後1時55分。俺は一之瀬が住んでいる女子寮フロアの廊下を歩き、一之瀬の部屋の前に立っていた。

 インターホンを鳴らすと、すぐにドアが開いた。

 

「あ、柊くん! 待ってたよ、入って!」

 

 迎えてくれたのは、いつもの制服姿ではなく、薄手のノースリーブにショートパンツというラフな部屋着姿の網倉だった。すでに一之瀬の部屋でリラックスしていたのだろう。その無防備な姿が、この場がBクラスのプライベートゾーンであることを示していた。

 

「お邪魔します」

 

 俺が靴を脱いで一歩中に入ると、部屋の奥から、少し緊張した面持ちの一之瀬帆波が立ち上がるのが見えた。

 彼女もまた、白を基調としたシンプルなカットソーにスカートという私服姿だ。夏の日差しが薄いカーテン越しに部屋に差し込み、フローリングを白く照らしている。

 

「わざわざ来てくれてありがとう、柊くん。……その、麻子ちゃんから、今後のクラスについて急ぎで共有したいことがあるって聞いたんだけど……」

 

 一之瀬は努めて明るく振る舞おうとしているが、その双眸の奥には困惑と、船上試験の勝者に対するかすかな畏怖が混ざり合っている。

 部屋の空気は、網倉の存在によって辛うじて柔らかさを保っているが、一之瀬自身が張っている見えないリーダーとしての防壁は硬い。

 

「そう身構えなくてもいい、一之瀬。今日ここに来たのは、お前たちのクラスを脅かすためじゃない。その逆だ」

 

 俺は勧められる前に、部屋の中央にある小さなローテーブルの前に腰を下ろした。

 一之瀬の部屋は、驚くほど整理整頓されている。余計な装飾はなく、彼女の性格を表すようにどこか生真面目で、クリーンだ。

 

「逆……? 私たちの味方をしてくれる、ってこと?」

  

 一之瀬は網倉の隣に並んで座り、首を傾げた。

 網倉は前夜に俺から頼まれた他言無用の約束を守っているらしく、ただ心配そうに親友の顔を見つめている。

 

「味方かどうかは、一之瀬と網倉の捉え方次第だ。そして今から話すことは一之瀬にとって苦痛や戸惑いを伴うが、そこは網倉、お前の存在が一之瀬の支えになると信じている」

 

 俺の言葉に、一之瀬は小さく息を呑み、網倉は隣で彼女の細い手をそっと握りしめた。

 一之瀬の視線が、俺の瞳の奥を探るように彷徨う。だが、これ以上の猶予は不要だ。

 俺はポケットから携帯端末を取り出し、あらかじめローカル環境に構造化して保存していた暗号化ファイルを展開した。画面を一之瀬の正面に向け、テーブルの上に滑らせる。

 

「……何、これ?」

 

 不審そうに画面を覗き込んだ一之瀬の視線が、ある一点で完全に凍りついた。

 そこにあるのは、彼女の中学時代の学籍情報の空白期間。いくつかの地域掲示板の過去ログからスクレイピングしたキャッシュデータ。そして、特定の公的記録から名寄せした『万引きによる不登校』という事実を示す無機質な文字列だ。

 

「っ……あ……」

 

 一之瀬の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。唇が小さく震え、まるで呼吸の仕方を忘れてしまったかのように胸が激しく上下し始めた。彼女の手が、自分の胸元をきつく掴む。

 隣にいた網倉が、その異常なまでの変化に気づいて身を乗り出した。

 

「帆波ちゃん!? どうしたの、一体これ……っ」

 

 網倉が画面に目を落とす。そこにある文字の意味を理解した瞬間、網倉もまた息を呑んだ。しかし、網倉はパニックにならなかった。前夜、俺が『致命的な精神攻撃を受ける可能性』を示唆していたからだ。網倉は即座に一之瀬の震える肩を抱き寄せ、俺を強い眼差しで睨みつけた。

 

「柊くん……! これ、どういうこと……!? なんでこんなものを……!」

「言ったはずだ。脅迫が目的ではない」

 

 俺は感情を交えず、ただ音声入力のように淡々と事実を述べる。

 一之瀬は両手で顔を覆い、小さく嗚咽を漏らし始めていた。自らの築き上げた学校生活が、過去の罪によって一瞬で崩壊する恐怖に囚われているのだろう。

 一之瀬の反応からしてこの情報の信憑性は、もはや確定したと見ていい。本人の口から真実を語らせるフェーズはすでにスキップできるほど、その絶望の深さが証明していた。

 

「帆波ちゃん、大丈夫……大丈夫だから……っ!」

 

 網倉は一之瀬の震える背中を必死にさすりながら、俺に向けて防衛的な鋭い視線を投げかけてくる。前夜の約束があるとはいえ、親友のこの有様を見せつけられて冷静でいろと言う方が無理な話だ。

 だが、俺の目的は一之瀬を破滅させることでも、その罪を糾弾することでもない。

 

「落ち着いて俺の話を聞いてくれ、一之瀬。そして網倉も」

 

 俺は視線のトーンをさらに一段落とし、室内の空気を物理的に固定するかのような静けさで語りかけた。

 

「俺がこの情報を収集できたということは、コンピューターやネットワークの仕組みを深く理解している人間であれば、いずれ収集できる情報だ。もしそのような人間がこの学校にいたとして、その情報を悪意を持って利用しようとしたら、一体どうなると思う?」

「ひっ……う、あ……」

 

 一之瀬の肩が大きく跳ねる。顔を覆う指の隙間から零れ落ちる涙が、フローリングに小さなシミを作っていく。

恐怖、羞恥、そして『隠し通さなければならない』と己を縛り付けていた呪縛が暴かれた絶望。彼女の精神は、今まさに急性のアナフィラキシーショックのようなパニック状態に陥っていた。

 

「やめて、柊くん……!」

 

 網倉が悲痛な声を上げ、一之瀬をさらに強く抱きしめる。その視線は俺への敵意と、同時に縋るような光が混ざり合っていた。

 

「そんな言い方、酷すぎるよ! 帆波ちゃんが何をしたっていうの!? 過去のことなんて、今の帆波ちゃんには関係ないじゃない!」

「関係はある。大いにな」

 

 俺は網倉の感情的な抗議を、乾いたスポンジが水を吸い込むように無感情に受け流した。

 

「俺がこの情報を入手しているということは、遅かれ早かれこの学校にも一之瀬の過去を探っているか知っている者がいると想定していた方がいい。そして、俺がやるように、その情報を名寄せして完全に実態を特定し、一之瀬の前に何者かが現れたとしたら」

 

「う、あ……っ……」

 

 一之瀬は自らの首筋をかきむしるようにして、さらに小さく丸まった。

 呼吸が過呼吸の一歩手前まで浅くなっている。彼女の脳内では、自らの罪が全校生徒に暴露され、軽蔑され、信じてくれたクラスメイトたちから見捨てられる最悪のシミュレーションが超高速で実行されているのだろう。

 

「柊くん……もうやめて。お願いだから……」

 

 網倉の悲痛な懇願が、一之瀬のすすり泣きと交じり合って静かな室内に響く。

 網倉はただ懇願するように、泣き崩れる一之瀬を抱きしめ続けた。

 別に加虐趣味で追い詰めているわけではない。

 一之瀬が自縄自縛に陥っている万引きという過去は、彼女の強固なモラル、そして良い子でいなければならないという強迫観念を裏返した、彼女にしか効かない特異な呪いだ。この呪いを解く、あるいは安全に処理するためには、一度その膿をすべて絞り出し、彼女が最も恐れている拒絶が起きないという安全を当事者の目の前で実証する必要がある。

 俺は端末を回収し、液晶画面をスリープモードに戻してテーブルの上に伏せた。その動作一つで、室内の緊迫した情報強度が一段和らぐ。

 

「――麻子、ちゃん……ごめん、ごめんなさい……。私、本当に、最低なことを……」

 

 顔を覆ったまま震える一之瀬の口から、最悪の告白が漏れ出す。

 

「お母さんと、妹がいて……。妹のどうしても欲しかったものが、買えなくて。私、中学三年生の時に万引きをしちゃったの……皆を騙して、良い子ぶって、こんなクラスのリーダーなんて、本当はやる資格なんてないのに……っ」

 

 一度決壊した涙腺のように、一之瀬は自らの罪の全てを網倉に吐き出した。自分が完璧ではないこと、汚れた存在であることを拒絶される恐怖に怯えながら、それでも嘘を突き通せなくなった少女の無防備な崩壊だった。

 

「帆波ちゃん……」

 

 網倉は一之瀬の言葉を静かに聞き届けると、その涙に濡れた顔を覗き込むようにして、自らの手で一之瀬の両手を顔から優しく引き剥がした。

 

「馬鹿。そんなことで、帆波ちゃんを嫌いになるわけないじゃん」

「え……?」

 

 一之瀬が涙に濡れた睫毛を震わせ、信じられないものを見るように網倉を見つめる。

 

「確かに、万引きはダメなことだよ? でも、それは帆波ちゃんがもう十分すぎるくらいに苦しんで、反省して、だからこの学校でみんなのためにあんなに頑張ってくれてたんでしょ? 私は昨日も柊くんに言ったよ。ポイントが落ちようが、どんなことがあろうが、私は帆波ちゃんの味方だって。そんな過去があったくらいで、私たちの帆波ちゃんへの気持ちは一ミリも変わらないよ!」

 

 網倉の言葉は、一之瀬の脳内に構築されていた拒絶のシミュレーションを正面から粉砕した。

 一之瀬は目を見開いたまま、網倉の胸に顔を埋めて、今度は子供のように大声を上げて泣きじゃくった。網倉はその頭を優しく撫で、しっかりと彼女を支え続ける。

 一之瀬が網倉の胸の中で堰を切ったように泣きじゃくる声を、俺はただ聞き届けていた。

 一之瀬の過呼吸気味だった呼吸が、網倉の一定のストロークで繰り返される背中への愛撫によって、徐々に落ち着きを取り戻し始める。しゃくりあげる声が小さくなり、ただ網倉の服をきつく握りしめるだけの静寂が部屋に訪れた頃、俺はテーブルの上の未開封のペットボトルを手元に引き寄せ、一之瀬に差し出した。

 

「少しは落ち着いたか」

「……うん。柊くん、さっき強いこと言って、ごめんなさい……」

 

 網倉が少し気まずそうに視線を伏せる。俺は小さく首を振った。

 

「気にするな」

 

 差し出された未開封のボトルを、網倉が代わりに受け取り、キャップを開けて一之瀬の唇にそっと運ぶ。一之瀬は小刻みに震えながらも、それを数口、喉へと流し込んだ。

 涙と汗で濡れた前髪が額に張り付き、普段の完璧な美少女としての一之瀬帆波の面影はそこにはない。だが、その瞳に宿る絶望の色彩は、確実に現実を受け入れる覚悟へと変化しつつあった。

 

「……ひ、柊くん……」

 

 かすれた、掠れそうな声で、一之瀬が俺の名を呼んだ。

 

「どうして……こんなことを……。私を、脅すつもりじゃないなら……どうして私に、こんな……」

「先ほども言ったはずだ。この情報は、ある程度の工学的な知識と、オープンソースからデータを名寄せする執念があれば、外部からでも十分にたどり着けるものだ」

 

 俺は淡々と、しかし一之瀬の逃げ道を塞ぐように言葉を重ねる。

 

「俺がたどり着けたということは、遅かれ早かれ他の誰かもたどり着く。例えば、Aクラスの坂柳有栖。あるいは、俺たちのクラスの龍園。彼らがこの情報を掴んだ時、どう動くか。網倉の前で優しくカミングアウトを促すような、そんな生温い手段を取ると思うか?」

 

 俺の冷徹な指摘に、一之瀬は言葉を失い、網倉の腕の中で再び身体を硬直させた。

 

「彼らがこれを使うとすれば、最も効果的なタイミングだ。例えば、クラスの団結が試される重要な特別試験の最中、全校生徒の前で、あるいはBクラス全員の耳に入る形で爆弾を起爆させる。信じていたリーダーが犯罪者であったと知らされた時、クラスが受ける精神的打撃は計り知れない。お前が絶望して再起不能になれば、Bクラスはその時点で完全に機能不全に陥る」

「……っ」

「だから、予めその牙を抜く必要がある」

 

 俺は液晶画面を伏せたまま、二人の少女を静かに見据えた。

 

「一之瀬、念の為聞いておくが、この学校で自分の過去を誰かに明かしたりはしてないよな」

 

 一之瀬は網倉の胸元に顔を埋めたまま、小さく首を縦に振った。涙で濡れた声が、掠れるようにして部屋の静寂に溶け出す。

 

「……実は2年生の南雲先輩との面談で、その……『生徒会入りを希望した時、Bクラスになったと思い当たる原因を話せ』って言われて……。私、南雲先輩には全部、話しちゃったの……」

 

 その言葉が室内へ落ちた瞬間、隣の網倉が小さく息を呑んだ。

 一之瀬は自らの失態を恥じるように、さらに身体を小さく丸める。

 

「そうか。南雲雅か」

 

 俺の脳内で、バラバラに散らばっていた情報が一瞬で一本のラインへと収束していく。

 南雲雅。現生徒副会長であり、個人の実力至上主義を掲げて2学年を完全に掌握した男。彼が一学期の間、一之瀬帆波を奇妙に優遇し、生徒会へと引き入れようとしていた理由の裏付けがこれで取れた。

 

「柊くん、それって……南雲先輩が、帆波ちゃんの過去をバラしちゃうかもしれないってこと……?」

 

 網倉が怯えを孕んだ声で尋ねてくる。

 

「その可能性は完全に捨てきれない」

 

 俺は網倉の言葉に重い肯定を投げかける。

 情報というものは他者に共有することで一気に情報の優位性が失われ、爆弾としての性質が変質する。現代社会においての情報漏洩リスクが最も高まるのは、このように信頼できると思った相手に誤って本人が直接開示してしまった瞬間である。

 

「一之瀬には二つの選択肢がある。一つは、このままいずれ誰かが自分の過去を暴かれるかもしれないことに怯えながら過ごすこと。そしてもう一つは、一之瀬自身が自分のクラスに対して、その過去を自らの口で告白することだ」

 

 その言葉が落ちた瞬間、一之瀬の身体が目に見えて強張った。

 自分で、自分の犯した罪をクラスの全員に告げる。それは彼女にとって、自ら死刑台に登るのと同義の恐怖に違いない。

 

「そ、そんなの……っ! 柊くん、それは酷すぎるよ! 帆波ちゃんにみんなの前でそんなこと言わせるなんて……!」

 

 当然のように網倉が強い拒絶を示し、一之瀬をさらに庇うように割り込んできた。その抗議は想定内だ。だが、俺は表情を変えずに網倉を見据えた。

 

「網倉。これは他者に握られた情報を最も被害が少なく、かつ効果的に処理するための唯一の手段だ」

「……唯一の、手段?」

 

 網倉は言葉を失い、言葉を見出せずにいた。

 

「そうだ。専門的な言葉で言うなら、これを情報の先制公開、あるいは能動的な公表と呼ぶ。要するに『爆弾が勝手に爆発する前に、自分たちで安全に処理する』ということだ」

 

 俺は網倉の強い抗議を、静かな眼差しで真っ直ぐに受け止める。

 

「他人にバラされれば、それは過去が暴かれた不祥事になる。周囲は一之瀬を責め、一之瀬は言い訳すらできずに終わる。だが、他でもない一之瀬本人が、自らの意志でクラスに打ち明けたとしたら、それは信用の再構築になり、より強固なものへと変わる」

 

 一之瀬は網倉の胸の中で、息が詰まったように動きを止めた。涙に濡れた顔を少しだけ上げ、信じられないものを見るような目で俺を見つめる。

 

「信用の……再構築……?」

「そうだ」

 

 俺は座る位置をわずかに正し、彼女たちの視線を受け止めた。

 

「他人の手で暴露された過去は、ただの醜聞であり裏切りだ。クラスメイトは、一之瀬に騙されていたと感じるだろう。だが、お前が自らの言葉で、自らのタイミングで告白するなら、それは『過去の過ちを悔い、それでも前を向こうとする勇気』に変わる。他人がお前を傷つけるために爆弾を爆発させる前に、自分たちの手で起爆スイッチを押し、その威力を最小限にコントロールするんだ」

 

 網倉は息を呑み、腕の中の一之瀬を見つめた。

 

「自分で、みんなに言うの……? でも、そんなことしたら……」

 

 網倉は不安を押し殺すように声を震わせ、一之瀬を抱きしめる力を強めた。クラスの崩壊を恐れる網倉のその反応は、人間として極めて正常なものだ。

 

「怖い、よね。当たり前だよ。だって、せっかく築いたみんなとの関係が、一瞬で壊れちゃうかもしれないんだもん……」

 

 網倉の目から再び涙がこぼれ、一之瀬の肩を濡らす。一之瀬もまた、自分の存在がクラスの負担になる未来を想像し、小さく身を震わせていた。

 

「私……みんなに、話さなきゃいけないんだよね」

 

 一之瀬は網倉の胸からゆっくりと身体を離し、震える手で自らの目元の涙を拭った。

 

「自分で犯した罪だもん。隠したまま、みんなのリーダーでいるなんて、やっぱり間違ってた。……怖いよ。みんなに嫌われるのが、本当に、死ぬほど怖い……」

「帆波ちゃん……」

「でも、柊くんの言う通り。他の誰かに突然バラされて、みんなが傷つくくらいなら……私、自分で言いたい。ちゃんと、私の言葉で」

 

 その言葉には、ただ怯えるだけだった少女から、かつての強い信念を持ったBクラスのリーダーへと戻りつつある覚悟が宿っていた。

 

「網倉はどんなことがあろうと、一之瀬の味方でいると言ったな」

 

 俺は網倉の濡れた瞳を真っ直ぐに見据え、その言葉を楔のように打ち込む。

 

「今ここで網倉が一之瀬を庇い事実を隠蔽し続けることは、一之瀬を救うことにはならない。それは爆弾に毛布を被せて見えないようにしているだけで、いずれ他クラスの手によって信用の導火線に火がついた瞬間、一之瀬だけでなく、彼女を盲信していたBクラスの全員を道連れにして爆発する」

 

 網倉の呼吸が詰まる。その指摘が、感情論では覆せない冷酷な合理性に基づいていることを、彼女の聡明な頭脳は理解し始めていた。

 

「だが、網倉。お前が最初の防波堤となれば話は変わる」

「私が、防波堤に……?」

 

「ああ。一之瀬がクラスメイト全員に過去を打ち明けるその瞬間、お前が誰よりも早く彼女の手を握り、『私はこの過去を知っても、帆波ちゃんを信じる』と声を大にして宣言すればいい。人は集団心理において、最初のフォロワー(同調者)の動きに極めて強く影響される。網倉という女子グループの中心人物が即座に一之瀬を肯定すれば、周囲の動揺は非難ではなく戸惑いと、同情へと誘導される。お前の存在こそが、この先制公表を成功させるための唯一にして最大の鍵だ」

 

 網倉は目を見開き、一之瀬の震える背中と俺の顔を交互に見た。その瞳の奥で、ただ守られるだけの弱者から、親友を守るための共犯者としての覚悟が、急速に形を成していくのが分かった。

 

「……そっか。柊くんは、そのために、昨日私を一人で呼んだんだね……。私が帆波ちゃんを切り捨てないかどうか、確かめるために」

「そうだ。だからこそ、この作戦は成立する」

 

 俺の肯定に、網倉は涙を拭い、小さく、しかし力強く頷いた。

 

「わかった。私、やるよ。帆波ちゃんがみんなに話すとき、絶対に隣にいる。誰にも帆波ちゃんを責めさせない」

「麻子ちゃん……ありがとう、ありがとう……っ」

 

 一之瀬は再び網倉の首に抱きつき、今度は安堵の涙を流した。壊れる寸前だったBクラスの強固な信頼関係が、俺という外圧によって一度分解され、より純度の高い結晶として再結合した瞬間だった。

 

「一之瀬、誤ってしまった過去は消せない。だが、その過去をどう扱うかはこれからの行動次第だ。お前はこれまでクラスメイトを欺くために接していたわけじゃない。その贖罪の念があったからこそ、誰よりも誠実に、誰よりも真剣に仲間と向き合ってきたはずだ」

 

 一之瀬は網倉の胸にすがりつきながら、何度も深く頷いていた。

 歪んだ過去に対する罪悪感と、それを凌駕する仲間への愛着。彼女がこれまで無自覚に積み上げてきた善性という名の防壁は、こうして内部の熱狂的フォロワー(網倉)の肯定を得たことで、破滅へのトリガーからクラスをさらに強固に結束させるための絆の礎へと変質を遂げる。

 

「……う、ん。そうだよね……私、みんなのことが本当に大好きで、みんなを傷つけたくなくて、だからずっと怖かったの……でも、麻子ちゃんがいてくれるなら、柊くんがこうして道を教えてくれるなら、私、逃げないよ」

 

 一之瀬はゆっくりと網倉の身体から離れ、まだ赤く腫れた目を袖口で乱暴に拭った。その仕草は酷く痛々しかったが、双眸の奥に灯った光は、先ほどまでの絶望の濁流に呑まれたものではなくなっていた。

 

「柊くん……ありがとう。私を壊すためじゃなく、守るために、こんな冷たい方法を選んでくれたんだよね」

「いいさ。悪用されるかもしれない事実を知っておきながら放っておくほど落ちぶれてないし、人並みには労ってやりたい感情もある」

 

 俺はそう言うと、一之瀬と網倉は度肝を抜かれたように目を丸くし、それからどちらからともなく小さく吹き出した。

 

「ふふっ……あはは! 柊くん、それ、全然似合わないよ。だって、すっごく冷たい顔して、すっごく怖いこと言うんだもん」

「うん、麻子ちゃんの言う通りだよ。柊くんって、そういうこと言わなさそうなのに……」

 

 網倉が呆れたように笑い、一之瀬も赤くなった目で小さく微笑む。

 張り詰めていた空気が完全に霧散し、年相応の女子たちの部屋らしい空気が戻ってきた。

 

「失礼だな。俺をなんだと思っている」

 

 心外だというように肩をすくめてみせるが、二人の笑い声は止まらない。

 だが、その笑い声こそが、彼女たちの精神が最悪のパニックから脱し、正常な認知機能を取り戻した何よりの証拠だった。

 

「……でも、本当にありがとう、柊くん。私、もし昨日、麻子ちゃんから何も聞かずにこの現実を突きつけられていたら、きっと今頃、誰にも何も言えないまま部屋で壊れてたと思う」

 

 一之瀬はテーブルの上のペットボトルを両手で包み込み、今度はしっかりと俺の目を見て言った。

 

「私が弱くて、汚い過去から目を背けていたせいで、たくさん心配をかけちゃったね。これからはもう、逃げない。この学校で麻子ちゃんやみんなと一緒に、本当の意味で胸を張って歩いていくために……私、ちゃんと自分の口でみんなに伝えるよ」

 

 その双眸に宿る光は、欺瞞を抱えていた一学期までの脆いものではなく、自らの傷を受け入れた者の持つ、静かで強固な覚悟に満ちていた。

 

「ああ。お前ならそれができるはずだ」

 

 一之瀬のその言葉に、俺は微笑んだ。

 

「え、柊くんって笑えるんだね……?」

 

 網倉は驚いたように、そして吸い寄せられるように俺の顔を見つめて静かに呟いた。隣の一之瀬も同じように、丸くした目で見つめてくる。

 

「何だ、その反応は」

 

 心外だというように俺が僅かに眉をひそめると、網倉は「だって」と悪戯っぽく唇を尖らせた。

 

「いつも機械みたいに淡々と喋るから、本当に感情があるのかなって、ちょっとだけ疑ってたの。でも……今の笑顔は、なんだかずるいよ」

「ずるい?」

「うん。そんな顔ができるなら、最初からもうちょっと優しく言ってくれればいいのに。帆波ちゃんを泣かせる必要、本当になかったんじゃない?」

「いつも能面のままでいるわけではない。今回のように、お前たちの精神的な防壁を確実に打ち破り、その奥にある本質を引っ張り出すためには、ある種の演出が必要だったというだけだ」

「演出って……やっぱり柊くん、わざとあんなに冷たく接してたんだね」

 

 一之瀬は呆れたように、けれどどこか嬉しそうに息を吐いた。

 感情を排して合理的に物事を進める。だがそれは必要時において最も高い効果を得るための、プロセスに過ぎない。そうではない時は、他者と一緒に談笑を交わすくらいの人間らしさは持っている。

 

「でも、柊くん。これ、いつみんなに話せばいいのかな……?」

 

 一之瀬は自らの覚悟を確かめるように、小声で尋ねてきた。先ほどまでのパニックからは立ち直ったものの、具体的な実行プランとなれば、まだ不安が残るのだろう。

 

「夏休みの間は避けるべきだ」

 

 俺は即座に答えた。

 

「夏休み中は生徒たちの関心が娯楽や休息に向いており、集団としての意思決定が分散しやすい。最も効果的なのは、二学期が始まって最初の数日、あるいは次の特別試験のガイダンスが行われる直前のタイミングだ。クラス全員がこれからの学校生活に対して最も強い意識を向けている瞬間に、一之瀬、お前自身が教壇に立つ」

 

 一之瀬と網倉は、俺の冷徹かつ論理的なスケジュール管理に息を呑みながらも、深く頷いた。

 

「具体的な告白の文面や、想定される質問への切り返しは、一之瀬自身が納得のいく言葉を、自分の頭で整理して作っておくといい。もちろん、必要なら網倉や俺に頼ってもいいし」

「ありがとう。柊くんがそう言ってくれるだけで、すごく心強いよ」

 

 一之瀬は小さく微笑み、膝の上の拳をそっと解いた。その指先はもう震えていない。

 

「うん。私も帆波ちゃんの相談にいつでも乗るからね。二人でしっかり準備しよ?」

 

 網倉がすかさず一之瀬の手を包み込み、励ますように笑いかける。その様子を見て、この場における俺の役割は全て完了したと確信した。

 網倉は一之瀬の肩を抱いたまま、どこか照れくさそうに、しかし温かい眼差しで俺を見ていた。

 

「それにしてもさ」

 

 網倉が少しだけからかうようなトーンで言葉を継ぐ。

 

「本当に柊くんって、女の子の部屋に入るの初めてなの? なんかすごく堂々としてるし、最初から最後まで主導権を握りっぱなしだったじゃない」

「……ノーコメントだ」

 

 俺が視線を僅かに逸らしながらそう答えると、網倉は我が意を得たりとばかりに「あ、怪しい!」と人差し指を突きつけてきた。

 

「今の間は絶対に何か隠してる! 帆波ちゃん、これは要警戒だよ。柊くん、普段はあんなにすました顔してるのに、実は女の子の扱いが手慣れてるタイプかもしれないからね」

「ふふ、どうだろうね。でも、柊くんがこうして私たちのために一生懸命考えてくれたのは本当だし……私は、そんな柊くんの優しさを信じるよ」

 

 一之瀬はまだ目元を赤く腫らしながらも、今度はからかうような網倉を優しく宥めるように微笑んだ。

 二人のやり取りを見つめながら、俺は内心で安堵の息を吐く。

 

「俺からの話は以上だ。これ以上、女子のプライベートゾーンに長居するのも無作法だろう。ここでお暇しよう」

 

 俺はローテーブルの上に置いていた携帯端末をポケットへと収め、腰を浮かせた。

 

「えっ、もう帰っちゃうの? 柊くん」

 

 網倉が少しだけ寂しそうな、それでいてまだ話し足りないといった風に声を上げる。その表情には、警戒心が解けたことによる無防備な親近感がはっきりと滲み出ていた。一之瀬を救うための共犯者となったことで、彼女の中で俺に対する精神的な距離感が一気に縮まったのだろう。

 

「なんだ、他に聞きたいことがあったりするのか?」

 

 俺が少しだけ動きを止め、問いかけるように網倉を見据えると、彼女は少しだけ気まずそうに視線を泳がせ、それからいたずらっぽく微笑んだ。

 

「ううん、そういうわけじゃないけど……。せっかくこうして、ちょっとだけ柊くんの『人間らしいところ』が見られたんだから、もう少し普通のおしゃべりとか、したかったなーって。いつも完璧な計画ばっかり考えてる柊くんの、弱点とか探しちゃおうと思ったのに」

「……やっぱり帰ろうかな」

「あ、待ってよ柊くん! 冗談だってば!」

 

 網倉が慌てて両手を振って引き留める。その様子を、一之瀬はクスクスと嬉しそうに眺めていた。張り詰めた糸が切れた後のこの穏やかな時間は、彼女たちの傷ついた精神を癒やすための必要不可欠な緩衝材なのだろう。

 

「冗談はともかく、まずはよく休むことだ、一之瀬。感情の起伏が激しかったせいで、脳も身体も自覚している以上に疲弊しているはずだからな」

「うん……。ありがとう、柊くん。本当に、何から何まで……」

 

 一之瀬はベッドの端に腰を下ろしたまま、小さく頭を下げた。

 

「じゃあ、柊くん、またね。二学期が始まる前に、話の進め方についてまた連絡するから」

 

 網倉がドアのところまで見送ってくれると、そう小さく手を振った。

 一之瀬はベッドの縁に腰掛けたまま、名残惜しそうに、しかし先ほどまでとは見違えるほど前向きで澄んだ瞳をこちらに向けて、小さく会釈をした。

 

「ああ、連絡を待っている」

 

 俺はそう言い残し、一之瀬の部屋を後にした。

 カチャリと背後でドアが閉まり、静まり返った女子寮の廊下に一人立つ。夏休みの午後の、どこか気だるい熱気が廊下の窓から差し込んでいた。

 俺がやっていることは一見、自分のクラスの不利益になるような他クラスへの援助に見えるかもしれない。だがここはあくまで生徒同士が競い合う学校であり、現代社会の縮図だ。時にはこうやって損得勘定なしに手を差し伸べることもあれば、差し伸べられることもある。それは人間が持つ、大事な感性の一面でもある。

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