夏休みが明け、二学期初日の校舎へと向かう並木道は、まだどこか現実に戻りきっていない生徒たちの熱気と喧騒に包まれていた。
無人島や豪華客船での特別試験を乗り越え、ひと回り成長したと錯覚している者。あるいは、リゾート気分が抜けずにただただ日常の再開を憂鬱に感じている者。
そんな有象無象の声を鼓膜の端で聞き流しながら、俺はいつもと変わらない歩調で歩を進める。ただ、いつも登校時間が同じはずのクラスメイトたちの姿が、心なしか遠くに見える。俺が周囲より少し早めの時間を選んで歩いているからだ。
校舎の昇降口まで辿り着き、上履きに履き替えるため下駄箱へと向かう。上履きに履き替えるまではいつも通りだが、今日はこのまま自分のクラスに向かうのではなく、自然といつもとは違う方向へと足が進んでいた。
二学期初日、最初の目的地は一年Cクラスの教室ではない。
中央階段を上り、普段は生徒の立ち入りが少ない本校舎の最上階へと向かう。静寂が支配する長い廊下を進むにつれ、下層から響いていた生徒たちの喧騒は嘘のように消え去り、代わりに窓の外から蝉の最後の鳴き声だけが微かに届いていた。
突き当たりにある、重厚な一枚板の木製ドア。その横に掲げられた『理事長室』のプレートを見つめ、俺はポケットから端末を取り出して、昨晩届いたメールを一度だけ確認する。
形式としては単なる事務的な面談の案内だったが、文末の「第三者への口外を禁じる」という一文が、今回の件が学校側にとっても想定外の特異点であることを物語っていた。
コンコン、と静かにドアをノックする。
「入りなさい」
中から響いたのは、低く、しかし驚くほど理知的で落ち着いた大人の声。
ドアを開けて中に入ると、そこはホテルのスイートルームかと思うほどの広さを持った空間だった。磨き上げられたマホガニーのデスクの向こう側に座っていたのは、この学校の最高責任者である坂柳理事長だった。
彼は眼鏡の奥の瞳で俺をじっと見据え、手元のタブレットから視線を外すと、目の前にある革張りのソファを顎で示した。
「おはようございます。柊くん。二学期初日の、それもホームルーム前の貴重な時間を割かせてしまって申し訳ないね」
坂柳理事長は、まるで親しい知人の子供を迎え入れるかのような、穏やかで柔らかな微笑みを浮かべていた。しかし、その声のトーンとは裏腹に、デスクの上に置かれた端末には、およそ高校生を相手にするには不釣り合いな「国際重要書類」の電子スタンプが押された画面が表示されている。
「おはようございます。お気になさらず。呼び出しのメールをいただいた時点で、ある程度の用件は察していましたから」
俺は促されるままにソファへと腰掛け、浅く背もたれに体を預けた。緊張はない。これから行われるのが、生徒に対する一方的な叱責や指導の類ではなく、対等な「取引」に近い性質のものだと分かっているからだ。
「ふふ、やはり君は察しが良いね。では、こちらも無駄な前置きは省くとしよう。夏休みという短い期間の中で、君が『個人的な趣味』として行っていた活動についてだ」
坂柳理事長は手元のタブレットを軽くスワイプし、その画面を俺の方へと向けた。そこに表示されていたのは、高度な暗号化が施されたログの断片と、海外の著名なセキュリティ組織、および欧州に拠点を置く大手Webアプリケーション開発企業の連名による公式な書簡のPDFだった。
「これを見て、私が今朝どれほど驚いたか、想像がつくかい? フランスのサイバーセキュリティ庁を経由して、文部科学省、そして我が校のデータセンターに直接『重要貢献者への謝礼および身元確認』の要請が届いたんだ。君が獲得した『CVE』……共通脆弱性識別子、だったかな。世界中の基幹システムが利用しているWebアプリの、深刻なゼロデイ脆弱性を発見・報告したという証明書だ」
理事長の口調は相変わらず穏やかで、まるで生徒の部活動の表彰でもするかのように優しい。しかし、その言葉の裏にある意味は極めて重い。この学校のシステムは、国からの厳重な管理下にある。そこへ海外の公的機関や超巨大企業から「君の学校の一年生が、世界のデジタルインフラの危機を救った」と連絡が入ったのだ。学校側がどれほど困惑したかは想像に難くない。
「ただのバグバウンティ(報償金制度)への参加ですよ。夏休みの自由研究としては、それなりに実益のあるものを選んだつもりです」
「自由研究、かね。君が企業に提出した、脆弱性のトリガーとなるソースコードの抜粋、実証コード(PoC)、そして完璧な修正案(パッチ)。これら一連のレポートは、あちらの技術最高責任者(CTO)から『我が社の全開発者を合わせたよりも洗練されたロジックだ』と最大級の賛辞を贈られていたよ。君という存在の規格外さを、まさか学外の、それも海の向こうの企業から突きつけられることになるとは思わなかった」
坂柳理事長は眼鏡の位置を少し直し、ふっと小さく息を吐いた。その笑みには、畏怖と、それ以上の深い興味が混ざり合っている。
「さて、ここからが本題だ。我が高度育成高等学校は、生徒のあらゆる『実力』を評価し、それをポイントという形で還元することを理念としている。今回の君の功績は、学内での試験の枠組みを完全に飛び越えてはいるが……間違いなく、我が校の国際的な評価と信頼性を底上げする、多大な社会貢献だ」
坂柳理事長はデスクの上の書類を一度トントンと揃え、俺の目をまっすぐに見つめた。
「政府関係筋からも『該当生徒に相応の処遇を』との通達が出ている。よって、学校側の特例条項に基づき、君の成し遂げた成果に対して以下の報酬を付与することに決定した」
彼が指先で画面をタップすると、俺の制服のポケットの中で端末が短く震えた。画面を確認するまでもない。理事長はそのまま、その驚愕の数字を口にした。
「柊美輝くん。君の個人口座へ、報償金の等価交換分を含めたプライベートポイント『6,500,000ポイント』を即時支給する。そして、君が所属する1年Cクラス、いや、改めて1年Aクラスに対して、クラスポイント『+150ポイント』を付与する。これが、学校側が君の実力に対して提示できる、最大限の誠意だ」
650万プライベートポイント。そして、個人プレーでありながら、クラス全員の月給を15,000プライベートポイントも引き上げる150クラスポイントの追加。通常の一斉特別試験の1位が100〜150ポイント程度であることを考えれば、一人の生徒が夏休みに裏で動いていただけで叩き出す数字としては、完全にゲームバランスを崩壊させる領域の特例だった。
「身に余る評価です。ありがたく受け取らせていただきます」
「ふふ、驚きもしないのだね……ああ、それからね、柊くん」
坂柳理事長は、ここで少しだけ声を潜め、悪戯が成功した子供のような笑みを深めた。
「この件は、この後行われる朝のホームルームにて、担任の坂上先生からクラス全体へ通知される手はずになっている。もちろん、セキュリティの機密保持の観点から、詳細な技術内容やCVEの獲得という具体的な名称は伏せ、『国際的な学術・社会貢献における特例措置』という名目でね。……君がこのポイントを使って二学期からどう乗り越えていくのか、一人の大人として、とても楽しみにさせてもらうよ」
「今はただの学生ですから、身の丈に合った使い方をさせてもらいますよ。では、ホームルームの時間もありますので、これで失礼します」
俺は立ち上がり、軽く一礼して理事長室の重厚なドアへと手をかけた。背後から「良い二学期を」という理事長の柔らかい声が見送る。
廊下に出ると、窓から差し込む朝日の眩しさと共に、下層から生徒たちの賑やかな声が再び聞こえ始めていた。手元の端末に表示された、桁の違う残高を見つめながら、俺は自分のクラスの教室へと足を向ける。
夏休みが明け、静かに、しかし確実に、この学校のパワーバランスは俺の手によって再構築されようとしていた。
廊下を渡り、中央階段を下りていくにつれて、現実の喧騒が急速にボリュームを増していく。すれ違う生徒たちの会話は、夏休みの思い出話や、二学期に待ち受けるであろう新たな特別試験への漠然とした不安で持ちきりだった。
1年Cクラスの教室の前へと辿り着き、前後の区別のない無機質なドアを開ける。
ガラガラと音を立てて中に入ると、そこはすでに身内特有の熱気で満たされていた。
夏休みを生き残った高揚感と、二学期という未知の不安が混ざり合った独特の空気。教室内を見渡すと、いくつかのグループが早くも固まって談笑しているのが目に入る。
二つの特別試験以降、クラス内での地位を確固たるものにしつつある龍園翔は、教室の後方で足を机に投げ出し、大地やアルベルトを従えて退屈そうに爪を眺めていた。その鋭い視線が一瞬だけ俺を捉えたが、俺は何の感情も表に出さずに自分の席へと向かう。
席に着き、カバンを机の横のフックに掛ける。隣の席を見れば、ひよりが夏休み中に読み終えたのであろう分厚い文庫本を丁寧にブックカバーで包んでいた。彼女は俺の気配を察して顔を上げ、花が咲くような笑みを浮かべる。
「おはようございます、美輝くん。良い夏休みを過ごせましたか?」
「ああ、おはよう。それなりに充実した夏休みだったよ。引きこもって作業ばかりしていたがな」
「ふふ、美輝くんらしいですね。私も図書館と部屋の往復ばかりでしたから、似たようなものです」
ひよりはクスクスと小さく笑い、大切そうに本を胸に抱えた。その穏やかな空気は、これから始まるであろう二学期の嵐を前にした、束の間のオアシスのようだった。
だが、そんな平穏な時間は長くは続かない。
予鈴のチャイムが校内に鳴り響くと同時に、前方のドアが勢いよく開いた。
入ってきたのは、担任の坂上先生だ。いつも通りの几帳面なスーツ姿に、神経質そうな眼鏡の奥の瞳。しかし、その表情は心なしか普段よりも硬く、どこか困惑と緊張の色彩を帯びているように見えた。
「おはよう諸君、席に着いてくれ。ホームルームを始める」
坂上先生の声はいつも通り低く、冷徹な響きを帯びていたが、教壇に手をつくその指先が僅かに強張っているのを、俺は見逃さなかった。生徒たちはその変化に気づくこともなく、騒がしかった私語を収めてそれぞれの席へと腰を下ろしていく。
無人島試験と船上試験を経て、このクラスは表面上のまとまりを見せ始めていた。龍園という絶対的な恐怖による支配構造は健在だが、その一方で、それらの試験で本格的に動き、結果としてクラスを実質的なAクラスへと押し上げる原動力となった俺に対する視線も、一学期とは明らかに異なっている。
教壇に立った坂上先生は、手元のタブレット端末に表示されたデータと、教室の座席表を交互に見つめた。その視線が俺の位置でコンマ数秒だけ静止し、眼鏡の奥の瞳が複雑な光を宿す。彼は一度、自身のネクタイの結び目を直すように喉元に手を当て、それから黒板の電子スクリーンへとデータを転送した。
「二学期の開始にあたり、諸君に伝えるべき重要な事項がある。すでに入手している情報もあるだろうが、まずは正式なクラスポイントの確定通知だ」
電子スクリーンに、非情なまでに明確な数字の羅列が映し出される。
Aクラス(旧Cクラス):1,480 cp
Bクラス(旧Aクラス):764 cp
Cクラス(旧Bクラス):690 cp
Dクラス :332 cp
「我がクラスは、一学期末および夏休みの特別試験において多大な成果を収め、現時点でクラスポイント『1480ポイント』に到達した。これにより、本日付をもって我がクラスは名実ともに『Aクラス』へと昇格する」
教室内が一瞬にして沸き立った。
「マジかよ! 坂柳たちのクラスと倍近く差がついてんじゃねえか!」
「本当にAクラスか!? 俺たち、一番上のクラスになったんだな!」
「うおおお!」
大地や小宮たちが立ち上がらんばかりの声を上げる。当然の反応だった。この学校に入学した時点では最底辺とまでは言えないが、それに近い不良たちの集まりが、わずか数ヶ月で文字通りの頂点へ登り詰めたのだ。画面に表示された「1480」という数字は、他クラスを完全に置き去りにした独走状態を証明していた。
後方に座る龍園は、相変わらず机に足を乗せたまま不敵な笑みを浮かべていたが、その鋭い視線はクラスの狂騒ではなく、教壇の坂上先生の奇妙な間に向いていた。
教壇の坂上先生は、湧き上がる生徒たちの歓声を静めるように厳かに右手を挙げた。その表情には、未だかつてないほどの困惑と、ある種の戦慄が混ざり合っている。
「静かに……話はまだ終わっていない。今見せたクラスポイント確定値には、先述した特別試験の合算に加え、学校側の特例条項に基づく『緊急修正』がまだ反映されていない状態だ」
「緊急修正? なんだよそれ、先生。もうAクラスになったんだろ?」
大地が怪訝そうに首を傾げながら声を上げる。その疑問を皮切りに、沸き立っていた教室内は冷や水を浴びせられたように静まり返っていった。
「本来であれば、学外における個人的な活動がクラスポイントに干渉することはあり得ない。だが、今回の事例は我が校の設立以来、前例のない社会貢献度であると政府および教育委員会より最高評価が下された。……本日付で、我が校の特別待遇生徒評価規定・第十四条に基づき我がクラスに特例措置として、クラスポイントがさらに150ポイント加算される。よって、現在の我がAクラスの総計は『1630ポイント』となる」
「は……? 150ポイント追加!? 試験も何もやってねえのにか!?」
「1630って、もう誰も追いつけないだろこれ……何が起きてんだよ!」
教室は再び騒然となった。特別試験でもないこの時期に、何の説明もなく巨額のポイントが降ってきたのだ。その異常事態に、それまで退屈そうにしていた龍園がゆっくりと足を机から下ろし、上半身を起こした。蛇のような鋭い瞳が、教壇の坂上へと向けられる。
「おいおい、坂上。そいつは聞き捨てならねえな。特別試験もなしに、誰がそんなデカいポイントを引っ張ってきたんだ? ええ?」
「……龍園、話の途中で発言するな。だが、その疑問に対する答えは今から提示する」
坂上先生は深くため息をつき、電子スクリーンの表示を切り替えた。画面には「特例措置対象者」の文字と共に、一人の生徒の名前が刻まれる。
「この特例措置をもたらしたのは、国際的な学術および社会貢献における極めて顕著な業績だ。該当生徒の個人情報および技術的な詳細については機密保持の観点から伏せられるが、支給対象者は我がクラスの生徒である。――柊美輝」
その瞬間、クラス全員の視線が津波のように俺へと集中した。
大地や小宮は口を半開きにして固まり、隣のひよりすらも珍しく驚いたように俺の横顔を見つめている。背後からは、龍園の低く愉しげな、しかし凍りつくような笑い声が聞こえてきた。
「ククク……なるほどな。無人島や船上だけじゃ飽き足らず、夏休みの裏で世界を相手に踊ってたってわけか、柊」
坂上先生は、教室内を支配する圧倒的な動揺を強引に引き取るように、事務的なトーンで告げた。
「同時に、柊個人への評価として、相応のプライベートポイントが即時支給されている。……以上だ。諸君は、自分たちが今どの位置にいるのかを自覚し、二学期からの学校生活に臨むように。ホームルームを終了する」
坂上先生は逃げるように教壇を去り、ドアを閉めた。その直後、教室の静寂は爆発的な怒号のような騒ぎへと変わった。
「おい美輝! 一体何をやったんだよ!」
大地たちが俺の席へと詰め寄ってくる。そして大地は真っ先に俺の肩を掴み、揺さぶらんばかりの勢いで身を乗り出してきた。その後に続く小宮や近藤たちも、眼前に信じられない怪物でも現れたかのような、興奮と困惑の入り混じった表情で俺を包囲する。
「学術貢献って何だよ!? お前、夏休みの間にノーベル賞でも取ったのかよ!?」
「いや、ノーベル賞はさすがに言い過ぎだろ……でも、学校の枠を超えて国から評価されるって、普通に考えてやばすぎるだろ!」
「それにポイントの追加もだけどよ、坂上先生が言ってた『相応のプライベートポイント』ってどれくらいなんだ? 教えてくれよ、美輝!」
矢継ぎ早に繰り出される質問の嵐。クラスメイトたちの顔には、ただの驚きだけでなく、畏怖の念が明確に刻まれ始めていた。一学期の頃であればただの不気味な読書家、あるいは少し頭の切れる便利屋程度に思われていたかもしれない。だが、無人島と船上での圧倒的な戦績、そしてこの二学期初日に叩きつけられた「国家規模の特例」という現実が、彼らの認識を完全に書き換えていた。
「石崎くん。そんなに揺さぶったら美輝くんが困ってしまいます。少し落ち着いてください」
詰め寄る男子たちの勢いに圧されながらも、ひよりが困ったような笑みを浮かべて間に入ろうとしてくれる。俺は彼女に目配せで感謝を伝えつつ、肩を掴む大地の腕をやんわりと押し戻した。
「助かった、ひより」
俺はひよりに向かって軽く頷き、そのまま自分を取り囲む男子たちへと視線を戻した。これだけの狂騒に巻き込まれていながら、俺の表情は一切動かない。その冷徹なまでの静けさが、かえって周囲の興奮を落ち着かせる鎮静剤となっていく。
「少し大袈裟に騒ぎすぎだ、大地。別にノーベル賞のような大層なものじゃない。さっきも言った通り、ただの夏休みの自由研究だよ。少しばかり海外の企業とやり取りをして、向こうのシステムの不備を指摘しただけだ」
「システムの不備って……そんなことでクラスポイントが150も動くわけねえだろ!」
「そうだぞ! それにプライベートポイントの額だって――」
なおも食い下がろうとする小宮たちの言葉を、後方から響いた鋭い足音が遮った。
コツ、コツ、と革靴が床を叩く不穏なリズム。クラスメイトたちが波が引くように左右に割れ、その中心から龍園翔がゆっくりと姿を現した。相変わらず凶悪な笑みを口元に張り付かせたまま、彼は俺の机の前に立つと、上から覗き込むようにして俺を見据えた。
「おいおい、これ以上こいつを突っついてやるなよ。自分の手の届かねえ領域に質問責めしたところで、お前らの足りねえ頭じゃ理解できねえだろ?」
「りゅ、龍園さん……」
大地たちが気圧されたように一歩身を引く。龍園は彼らには一瞥もくれず、俺の端末が置かれた机の天板を指先でトントンと叩いた。
「……で、柊。実際どれくらい毟り取ったんだ? 『相応のプライベートポイント』ってやつをよ」
龍園の蛇のような瞳が、獲物を値踏みするように細められる。その問いの裏には、俺が手に入れた資金力が二学期以降のクラス間抗争にどう影響を及ぼすかという、計算が透けて見えていた。
周囲の連中が息を呑み、俺の回答を待つ。
この学校において、プライベートポイントは文字通りの命であり『絶対的な武器』だ。退学処分を無効化するのにも2000万ポイントが必要とされる世界で、個人がどれだけの資産を握ったのか。それはクラス内における発言権のみならず、今後のすべての戦略的前提を覆すほどの劇薬になり得る。
「さあな。お前が期待しているような、クラス全員を養えるほどの額じゃない」
俺は表情を変えず、淡々と嘘でも真実でもない言葉を返した。650万ポイントという額をここで正直に開示すれば、クラス内に不要な依存心や嫉妬を生む。龍園の牽制を逆手に取り、情報を意図的に不透明に保つことこそが、現時点での最善手だ。
龍園は俺のはぐらかしを耳にしても、機嫌を損ねるどころか、その三白眼をますます細めて愉快そうに喉を鳴らした。
「ククク……相変わらず面白みのねえツラしやがって。だがまあ、隠したくなるほどの額ってことだけは確かだな」
龍園は机の天板から指を離すと、今度はクラス全体を見渡すように両腕を広げた。その仕草には、実質的な支配者としての威圧感と同時に、状況を俯瞰する冷徹なボスとしてのプライドが滲んでいる。
「いいか、お前ら。こいつが裏でどんなことをしようが、結果として俺たちのクラスはAクラスになった。あの傲慢な坂柳や、小賢しい一之瀬の鼻を明かしてやったんだ。柊がいくらポイントを握り込んでいようが、そいつはこいつの実力だ。文句がある奴は、自分で国からポイント毟り取ってきてから言いやがれ」
龍園のその言葉は、一見すると俺を擁護しているようでありながら、実のところは「このクラスの主導権は依然として俺にある」という強い誇示であり、同時に俺という存在をクラスに認めさせることで、Aクラスとしての士気を高めるための高度な演説でもあった。
周囲の男子たちは、龍園の覇気に押されるように「あ、ああ……そうだな」「確かに、結果オーライだしな……」と口々に呟き、徐々にそれぞれの席へと戻っていく。
畏怖の念は消えないものの、龍園という絶対的なストッパーが機能したことで、教室を包んでいた異常な熱気は緩やかに平時のものへと落ち着きを取り戻しつつあった。
「そして、今日から徴収するプライベートポイントの額も引き上げさせてもらう。Aクラスになったんだ、それくらいの税金は当然支払ってもらうぜ?」
龍園はそう言って、クラス全体へ冷酷な視線を突き刺した。
一学期の頃であれば、この理不尽な搾取に対してブーイングが起きていたはずだ。しかし、二つの特別試験を乗り越え、文字通りのトップへ登り詰めた今、クラスメイトたちの反応は違っていた。
龍園の容赦のない独裁体制が、結果として自分たちをAクラスという栄光の座へ導いたという揺るぎない事実。それが彼らの口を噤ませ、むしろ「この男に従っていれば間違いない」という狂信に近い従属心へと変貌させている。
「……クク、不満はなさそうだな。石崎、お前らも二学期からはAクラスの人間としての自覚を持てよ。他クラスの有象無象に舐めた真似されたら、ただじゃおかねえからな」
「は、はい! 分かってます、龍園さん!」
大地は緊張の走った顔で深く頷き、他の男子たちも背筋を伸ばす。
俺がもたらした国家規模の特例という想定外すらも、龍園は即座に自分の支配体制の補強パーツとして利用してみせたのだ。暴力と恐怖のリーダーシップ。その牙は、Aクラスになっても一切鈍るどころか、さらに鋭さを増している。
龍園はひとしきりクラスを見渡すと、最後に再び俺へと視線を戻した。その三白眼の奥には、値踏みするような光と同時に、強烈な愉悦がギラギラと渦巻いている。
「柊。お前がその大金を何に使おうが俺は干渉しねえ。だがよ……もし俺の首を獲りに来るためにその弾を使うってんなら、いつでも相手になってやるぜ。退屈な二学期にならねえことを祈ってるぜ?」
それは、クラスの誰にも聞こえないほどの低い声で放たれた、絶対的なボスからの明確な宣戦布告であり、同時に俺という存在を心から歓迎する歓喜の表明でもあった。
「そんな無駄遣いをするつもりはない。身の丈に合った使い方をするだけだ」
俺は視線を逸らさず、表情を動かすことなく淡々と返す。
龍園はくつくつと喉を鳴らしながら背を向け、自分の席へと戻っていった。その足取りには、自らが率いるクラスがAクラスに到達したことへの絶対的な自信が満ち溢れている。
ただ龍園は一つ誤算している。夏休みに行われた二つの特別試験で、俺に対するクラスメイトたちからの「圧倒的な実力への信頼」と「窮地を救ってくれる存在という信用」が、同時に、かつ強固に構築され始めている。
恐怖による絶対支配は短期的には強力な軍隊を作るが、それは常に反逆の火種を内包している。一方で、俺がこのクラスに浸透させているのは、依存でも恐怖でもない。彼らが生存し、勝利するために必要不可欠な最高精度のシステムとしての存在感だ。
今回の150クラスポイントの追加は、そのシステムが学外にすら影響を及ぼす本物であると、クラス全員の脳裏に焼き付ける決定打となった。龍園がどれほど吠えようとも、クラスの均衡はすでに俺を軸にして回り始めている。
だからこそ、龍園がそれ相応の成長をしなければ、この先彼自身がシステムから弾かれることになる。俺がその引き金を引くか否かは、今後の彼の価値次第だ。
「……すごかったですね」
隣の席から、ひよりが吐息のような小さな声で話しかけてきた。彼女は胸に抱えていた文庫本を机に置き、どこか遠いものを見るような、それでいて深い畏敬の念が滲む瞳で俺を見つめている。
「美輝くんのやることは、いつも私の想像の遥か上を飛び越えていってしまいます……学術貢献だなんて、普通の高校生が一生をかけても届かないような場所に、美輝くんは当たり前のように立っているのですね」
ひよりの言葉は、周囲のクラスメイトが見せたような即物的な驚きやポイントへの執着とは全く異なっていた。
それはまるで身近な人が遠い星の彼方へ行ってしまったかのような、仄かな寂しさと、それを遥かに上回る深い敬意が入り混じったものだった。
俺は少しだけ椅子の背もたれに体重を預け、彼女の曇りのない瞳を見つめ返す。
「先ほど言ったようにそんなに大袈裟なことじゃない。俺はただ、運良く誰も気づいていなかったことを、あるべき形に修正したに過ぎない。たとえ俺がそれを見つけられなくても、いずれ誰かが気付き修正していただろうな」
「ふふ、美輝くんがそうおっしゃるなら、そういうことにしておきます。……でも、私にとっては、やっぱり美輝くんは特別で、とても格好いいと思いますよ」
ひよりは悪戯っぽく微笑むと、それ以上は追及せず、再び手元の文庫本へと視線を落とした。彼女のその一線を引きながらも全幅の信用を寄せてくれる距離感が、今の俺には酷く心地よかった。
やがて一限目の授業開始を告げるチャイムが鳴り、二学期最初の一日が本格的に動き出す。
当然ながら、ホームルームで明かされた『特例措置』と『1年Aクラス昇格』の報は、瞬く間に校内全土へと駆け巡った。休み時間になるたび、廊下からは俺たちのクラスを覗き見ようとする他クラスの生徒たちの視線が絶えなかったが、龍園が睨みを利かせているおかげで、教室内に直接乗り込んでくる命知らずはいなかった。
ただ、その廊下を行き交う有象無象の視線の中に、いくつかの「本物」の視線が混ざっているのを俺は感じていた。
一学期の間、俺をただの観察対象として見ていたであろうDクラスの綾小路清隆。そして、圧倒的な独走体制を築かれたことに興味を抱いているであろう、Bクラスの坂柳有栖。
学校のルールという箱庭を飛び越え、世界からポイントをもぎ取ってきた俺という異物に対して、彼らがどう動くのか。
窓の外で鳴く蝉の声が、チャイムの音にかき消されていく。二学期という名の新しい舞台は、すでに俺の一手によって幕を開けていた。