昼休みが終わり、午後の時間が静かに動き出した。
ただ午後の授業は2時間のホームルームに当てられている。
Aクラスの担任である坂上先生が教室に入ってくるなり、教壇の机の上に束になったプリントを静かに置いた。
「静かに。昼休み気分はここまでだ」
低く響く声とともに、坂上先生は教壇のプリントをパンと手で叩いた。教室を包んでいた緩やかな空気が一瞬で引き締まる。
「午後のホームルームは告知通り、来月行われる体育祭についての説明を行う。明日から10月初めまでの1ヶ月間は体育祭に向け体育の授業が増え、各クラスでの練習や準備期間も確保される」
教壇から放たれる教師特有な圧に、さっきまで雑談に花を咲かせていた生徒たちも一斉に背筋を正した。坂上先生は束の取っ掛かりをめくると、先頭の席に座る生徒へ手際よくプリントの山を手渡していく。
「プリントが手元に届いたら確認するように」
カサカサと紙が擦れる音が教室に広がり、俺の手元にも1枚のプリントが回ってきた。
資料の内容に軽く目を通すと、そこには体育祭に関する実施要項や競技種目の一覧、そして配点ルールが細かく記載されていた。
坂上先生は全員にプリントが行き渡ったのを見計らうとホワイトボードに歩み寄り、黒いマーカーで大きく『体育祭概要』と書き殴った。
「まずは全体の流れだ。既に手元のプリントにある通り、今回の体育祭は全学年を2つの組に分けて競い合う形になる。A、Dクラスが赤組、B、Cクラスが白組だ」
キュッとマーカーがホワイトボードを滑る音が響き、大きな文字の下に『赤組:A・D』『白組:B・C』と対立図式が書き加えられた。
「学年を跨いだ縦割りのチーム編成となる。つまり、1年A組の諸君は、2年A組、3年A組、そして各学年のDクラスと力を合わせて勝利を目指すことになるわけだ」
教室のあちこちから、小さく息をのむ音や「Dクラスとか……」と囁き合う声が漏れ聞こえてきた。他クラスとの協力、ましてや先輩たちとの共同作業となれば、楽しさ半分、緊張半分といったところだろう。
「体育祭の結果は、単なる学校行事の勝ち負けだけにとどまらない」
坂上先生はホワイトボードのマーカーをカチリと鳴らし、胸ポケットに仕舞うと、鋭い視線で教室全体を見渡した。
「敗北した組には相応のペナルティが課される。クラスポイントのマイナス50、そして各学年で総合点が3、4位だったクラスには、追加でポイントが減点される」
坂上先生のその一言で、教室の空気がガラリと変わった。
さっきまでの体育祭に対する期待や不安といった曖昧な感情は吹き飛び、生徒たちの瞳に生々しい緊張感が宿る。クラスポイント、この学校において、自分たちの学校生活の質や立場を左右する絶対的な数値だ。
坂上先生の説明に耳を傾けながら、俺は配られたプリントに再び視線を落とした。
『赤組(A・D) 対 白組(B・C)』
表面上は学校行事らしい賑やかな対抗戦に見えるが、実態はクラスポイントを賭けた特有の特別試験に近い。勝てばポイントの維持や獲得が見込めるが、負ければクラス全体が大きな痛手を負う。
俺は更にプリントの先へと視線を滑らせた。
目に入ったのは、個人種目の配点と、学年合同種目の詳細だ。
・全員参加競技の点数配分(個人競技)
結果に応じて1位15点、2位12点、3位10点、4位8点が組に与えられ、5位以下は1点ずつ下がっていく。団体戦の場合は勝利した組に500点が与えられる。
・推薦参加競技の点数配分
結果に応じて1位50点、2位30点、3位15点、4位10点が組に与えられ、5位以下は2点ずつ下がっていく。(最終競技のリレーは3倍の点数が与えられる)
・赤組対白組の結果が与える影響
全学年の総合点で負けた組は全学年等しくクラスポイントが100引かれる。
・学年別順位が与える影響
各学年、総合点で1位を取ったクラスにはクラスポイントが50与えられる。
総合点で2位を取ったクラスのクラスポイントは変動しない。
総合点で3位を取ったクラスのクラスポイントが50引かれる。
総合点で4位を取ったクラスのクラスポイントが100引かれる。
これは坂上先生が言ったペナルティの詳細そのものだった。
赤組全体の勝利を目指すのと同時に、1年A組として同学年のDクラスや白組のB・Cクラスの上を行かなければならない。
二重構造のルール、つまり組(赤組)の勝利と学年内での上位キープを同時に狙わなければならないというわけだ。
赤組が勝ったところで、1年A組が同組のDクラスや白組のB・Cクラスに遅れをとれば、結果としてクラスポイントは減点される。逆に、赤組が負ければ全体で100ポイント失った上に、学年最下位ならさらに100ポイント、合計200ポイントもの痛手を負うことになる。
こう見るとリスクに対するリターンが見合っていないようにも思えるが、一応プライベートポイントに関する記述も小さく追記されていた。
・個人競技報酬(次回中間試験にて使用可能)
各個人競技で1位を取った生徒には5000プライベートポイントの贈与、または筆記試験で3点に相当する点数を与える(点数を選んだ場合他人への付与は出来ない)
各個人競技で2位を取った生徒には3000プライベートポイントの贈与、または筆記試験で2点に相当する点数を与える(点数を選んだ場合他人への付与は出来ない)
各個人競技で3位を取った生徒には1000プライベートポイントの贈与、または筆記試験で1点に相当する点数を与える(点数を選んだ場合他人への付与は出来ない)
各個人競技で最下位を取った生徒にはマイナス1000プライベートポイント(所持するポイントが1000未満になった場合には筆記試験でマイナス1点を受ける)
・最優秀生徒報酬
全競技で最も高得点を得た生徒には10万プライベートポイントを贈与。
・学年別最優秀生徒報酬
全競技で最も高得点を得た学年別生徒3名には各1万プライベートポイントを贈与。
個人報酬の存在は、運動能力に自信のある生徒やテストの点数に不安を抱える生徒にとっては魅力的だろう。しかし、クラス全体の損益を考えれば、リターンは決して大きくない。むしろ、勝ちを狙いに行って失敗したときのリスクばかりが目立つ設計だ。
「体育祭で行われる種目の詳細は全てプリントに記載してある通りだ」
坂上先生は教壇に両手をつき、見渡すように生徒たちへ視線を投げかけた。
「なお、体育祭の競技エントリーについては、クラスごとに自発的に決めてもらう。推薦競技の出場枠、全員参加競技の出場順、そして最終競技であるリレーの選抜メンバー……これらを誰にするか、どのように振り分けるかは全て君たちの裁量に委ねられている」
その言葉に、教室の空気が再び僅かに動いた。
自由度が高いということは、一見するとクラスの戦略を柔軟に組めるメリットのように思える。だが、裏を返せば「誰をどの競技に出すか」が明確に戦略の成否を分けることを意味していた。
「なお、もし体育祭当日に欠席者が出た場合はその者が参加予定だった競技は不戦敗として扱われる。代走や繰り上げ参加は一切認められない。体調管理も実力のうちだと思いたまえ」
坂上先生の冷淡な追記に、教室の何人かが表情を強張らせた。体調不良や怪我による急な欠席が、そのままクラス全体の失点に直結する。徹底した自己管理が求められるというわけだ。
「しかし、推薦競技に関しては怪我や病気といったやむを得ない事由に限り、ポイントを支払うことで代役が認められる」
坂上先生はそこまで一気に説明すると、教壇の上の資料をポンと整え、腕を組んだ。
「以上が体育祭の概要だ。なお、参加表の提出期限は体育祭の一週間前から前日の午後5時までとする。提出期限を過ぎた場合は学校側がランダムで割り振るので、それまでに誰がどの種目に出るか、クラス内でしっかり話し合って提出するように。そして提出期限以降は如何なる理由があろうと変更は認められない」
坂上先生の声が教室に冷たく響き渡り、説明は締めくくられた。
「質問がなければ、残り時間はクラス内で好きに話し合ってもいい。ホームルーム終了までは私が監督する」
そう言って坂上先生が教壇の椅子に深く腰掛けた瞬間、教室のピンと張り詰めていた空気がふっと緩んだ。
だが、その緩みは束の間のものだった。
「クク……おいおい、ずいぶんと分かりやすいイベントじゃねえか」
静寂を破ったのは、教室の後方から響いた龍園の低く愉しげな声だった。
彼は机の上に投げ出していた足をゆっくりと下ろし、前方のホワイトボードに書かれた対立図式を三白眼で睨みつける。
「赤組対白組、それに学年別の順位争いか。表面上は一致団結して白組を叩き潰そうって腹だろうが、本質は『同組の奴らの足を引っ張りつつ、自分たちだけが上に立つ』ゲームだな」
「り、龍園さん……それってつまり、同じ赤組のDクラスとも足を引っ張り合うってことですか?」
大地が引きつった笑みを浮かべながら尋ねる。龍園は鼻で笑い、不機嫌そうに首を鳴らした。
「当たり前だろ。俺たちが1位を取るためには、白組のB・Cクラスだけじゃなく、足手まといのDクラスも踏み台にする必要がある。……石崎、お前ら運動が得意な奴らは全員、配点の高い推薦競技にエントリーしろ。全員参加競技なんざテキトーに流して体力を温存し、得点効率の高いところでまとめて稼ぐ」
龍園の指示は極めてシンプルで、かつ力攻めに特化したものだった。
足の速い者、体力の使える者を推薦競技(特に1200Mリレーや四方綱引き)に集中させ、暴力的なまでの身体能力で力押しする。一見すると正攻法であり、不良上がりの生徒が多いこのクラスのポテンシャルを活かした合理的な判断に見える。
「……なるほど。龍園くんらしい、わかりやすい力攻めですね」
隣の席で、ひよりが小さく息を吐きながら囁いてきた。
俺は再びプリントに視線を落とし、競技種目のリストを追った。
・全員参加種目
1.100M走
2.ハードル競争
3.棒倒し(男子限定)
4.玉入れ(女子限定)
5.男女別綱引き
6.障害物競走
7.二人三脚
8.騎馬戦
9.200M走
・推薦参加種目
11.借り物競争
12.四方綱引き
13.男女混合二人三脚
14.3学年合同1200Mリレー
種目一覧を眺めながら、俺は脳内で簡単な計算とシミュレーションを始める。
全員参加競技は個人の運動能力が素直に反映されるが、一方で配点の幅は狭い。勝ち続けるに越したことはないが、個人の突き抜けた身体能力だけでクラス全体の勝利を確定させるのは難しい仕様だ。
一方で、推薦参加競技は配点が高く、特に最終競技の「1200Mリレー」は配点が3倍、つまり1位になれば150点という破格の点数が動く。ここを制した組が、全体の勝敗を大きく引き寄せるのは目に見えていた。
「美輝くんはどう見ますか? 龍園くんのやり方で、私たちは勝てるでしょうか」
「勝てるか負けるかで言えば、半々といったところだな」
俺は視線をプリントから外すことなく、淡々と返した。
「龍園のやり方は自分たちの戦力が100%発揮される前提に依存しすぎている。だが今回の試験で最も警戒すべきは、外部要因……つまり、同じ赤組であるDクラスの動向と、学年を跨いだ情報戦だ」
俺の言葉に、ひよりは興味深そうに首をかしげた。
「Dクラスの動向、ですか?」
「ああ。今回のルールでは、赤組が負ければ全学年等しく100ポイントを失う。だが、元々の保有ポイントが少ないDクラスにとって、100ポイントのマイナスは痛手ではあるが『致命傷』にはならない。逆に、1630ポイントを抱える俺たちAクラスにとっての100ポイント減点は、他クラスとの差を縮められる絶好の機会になる」
つまり、白組(B・Cクラス)がDクラスに裏取引を持ちかけ、「意図的に手を抜いて赤組を負けさせれば、Aクラスのポイントを削れる」という工作を仕掛けてくる可能性が十分に考えられるのだ。
「……なるほど。元々の持ち点が違う以上、減点によるリスクの重みがクラスごとに全く異なる、ということですね」
ひよりは納得したように静かに頷いた。彼女の聡明さは、こうしたゲーム理論の前提条件を提示しただけで、即座にその裏にある構造的破綻(欠陥)を理解してみせる。
「ただ、堀北や一之瀬の性格を考慮すると、それは少し話が変わってくる」
俺は視線をプリントの端に走らせながら、言葉を続けた。
「一之瀬率いるCクラスは正面突破とフェアプレイを好む。同盟相手であるBクラスに対して、意図的な八百長や下劣な足の引っ張り合いを提案することは一之瀬の倫理観が許さないはずだ。一方、Dクラスの堀北は頑固だが生真面目だ。『学校のルールの中で正々堂々と勝ち上がり、Aクラスを目指す』という理想に固執している。白組からの裏取引に安易に乗るようなことはしない」
「ふふ、よく見ていらっしゃいますね」
ひよりがくすりと小さく笑みをこぼした。
「ですが……美輝くんの言い方だと、『彼女たち自身は仕掛けてこないが、別の要因が動く』と言いたげに見えます」
「察しがいいな」
俺は手元のプリントを静かに指先で叩き、言葉を継いだ。
「一之瀬や堀北本人が動かなくとも、その裏や周辺にいる『異物』がどう動くかが問題なんだ。例えば、白組のBクラス率いる坂柳有栖。彼女は自分のクラスが勝つこと以上に、俺という存在や1630ポイントまで独走したこのAクラスの喉元を如何に効率よくえぐるかを考える。一之瀬という清廉な看板を盾にしながら、裏でDクラスの足元を揺さぶり、赤組全体を内側から自滅させる工作を仕掛けてくる可能性は極めて高い」
「坂柳さん……ですか。確かに、彼女なら一之瀬さんの預かり知らぬところで完璧な罠を仕掛けてきそうですね」
ひよりの顔から笑みが消え、思慮深い光がその瞳に宿る。
「それに……Dクラスには堀北以外にも、有力な生徒が隠れているかもしれないしな」
俺がそう呟くと、ひよりは小さく首を傾げた。Dクラスの、綾小路清隆。彼がこの体育祭で表舞台に出てくるか、あるいは徹頭徹尾『事無かれ主義』の生徒を演じ切るか。だが、坂柳が本気で揺さぶりをかければ、綾小路とて無傷で済む保証はない。
「ククク……柊。お前、さっきから静かに何をコソコソ話してやがる」
思考を巡らせていた俺の耳に、龍園の不躾な声が飛び込んできた。
振り返ると、龍園は教壇の脇まで移動し、ホワイトボードに書かれた「赤組:A・D」の文字を指先で不機嫌そうに撫でていた。
「どうせお前のその足りすぎる頭で、この学校が用意した甘っちょろいルールの穴でも探してたんだろ? 吐き出してみろよ。このC……いや、1年Aクラスのエースさんよ」
龍園の煽り交じりの催促に、教室内の視線が再び俺へと集まる。大地たち運動バカ陣営も、龍園の指示通り動く気満々ではあるものの、俺の意見を聞きたがっているのは明白だった。無人島と船上の二つの特別試験と夏休み明けの特例措置を経て、クラス内における俺の言葉の重みは、すでに龍園の暴力とタメを張るレベルに達している。
「生憎、今回はルールの抜け穴というものはない。今回の体育祭の規約は、これまでの特別試験に比べても極めてシンプルで堅牢だ。意図的な失格や妨害工作によるペナルティのリスクが、リターンに対して高すぎるように設計されている」
俺は視線を静かに上げ、龍園の三白眼を正面から見据えた。
「……堅牢、だと?」
龍園は不機嫌そうに鼻を鳴らし、腕を組んで教壇の縁に腰掛けた。
「あの学校が、そんなお行儀のいい運動会を用意するわけがねえだろ。妨害工作のリスクが高いってんなら、バレねえようにやればいいだけの話だ」
「いや、妨害工作はしなくてもお前がさっき言った通り、身体能力に自信がある者を推薦競技に集中させ、力押しで勝ちを拾う方法で十分だ。そして俺も推薦種目の全競技にエントリーさせてもらう」
俺が淡々と告げた言葉に、教室内が一瞬静まり返った。
運動能力という文脈において、俺はこれまで目立った成績を残してきたわけではない。以前、水泳の授業で泳力を見せたとはいえ、読書とPC操作に終始する「インドアな策士」という印象が強い俺が、自ら身体能力を要求される最重要種目への出馬を表明したからだ。
「……おいおい、正気かよ美輝? お前が推薦種目を総なめにするってか?」
静寂を破ったのは大地の困惑した声だった。彼は自分の頭をガリガリと掻きながら、信じられないといった目で俺を見つめる。
「お前が頭切れるのは重々分かってるし、水泳も凄えってことは知ってるけどよ……推薦競技っつったら、他クラスの運動部のエースや体育会系の怪物どもがゴロゴロ出てくるんだぞ? 1200Mリレーなんて文字通りのバケモノ決戦だ」
「石崎の言う通りだぞ、柊。お前はうちのクラスの頭脳なんだから、推薦種目で怪我でもされたら二学期以降の特別試験で困るだろ」
小宮たちも心配と疑問が混ざり合った表情で口々に同意する。彼らにとって、俺は「裏で戦略を組み立て、莫大なポイントを叩き出す知識階級」であり、前線で肉体を酷使する兵士ではないという認識が強固だからだ。
しかし、教壇の縁に腰掛けた龍園だけは違っていた。彼は低くクックックと喉を鳴らし、三白眼に凶暴な愉悦の光を宿しながら、じっと俺を見つめている。
「体育祭の真っ向勝負に、お前自らが身体を張るってわけか。頭脳戦専門の黒幕気取りじゃなかったのか、柊?」
「何を言ってるんだ。俺が運動も出来ることは、無人島特別試験の時点で察していると思っていたんだがな。龍園」
俺のその一言に、教室内は一瞬で氷点下に凍りついた。
龍園の笑みがピタリと止まり、その蛇のような三白眼が危険な色を孕んで細められる。無人島で叩き出したポイントの内訳を知っている龍園にとっては、俺が単なる「インドアな策士」などではないこと、そして必要とあらば極限状態の個人パフォーマンスすら軽々と叩き出す存在であることは、すでに織り込み済みの事実のはずだった。
「……ククク、そうだったな。お前は無人島の環境下でのクラス士気を維持しながら、単独行動で無人島を動き回り誰よりも確実にポイントを荒稼ぎしてみせた奴がただのモヤシなわけがねえよな」
龍園は教壇の縁からゆっくりと体を起こすと、猛獣が獲物を品定めするかのような足取りで俺の席へと歩み寄ってきた。彼の放つ圧倒的な威圧感に、周囲の大地たちが無意識に一歩身を引く。
「で、お前はその推薦種目総なめで具体的に何点毟り取るつもりだ? 1200Mリレーのアンカーでも買って出る気か?」
「言ったろ。推薦種目の全競技にエントリーさせてもらう、と」
教室内を支配していた静寂が、さらに一段と深いものへと変わる。
「正気か、美輝……? 推薦種目の全競技エントリーだぞ……?」
大地が引きつった声を漏らし、隣の小宮や近藤も絶句したまま俺を見つめていた。
推薦種目への複数エントリーはルール上可能だが、それは当然、極限の肉体負担を意味する。これらの競技はいずれも体力を激しく消耗する過酷な種目ばかりだ。それら全てに一人で出走するなど、どれほど運動神経に自信がある生徒であっても回避する愚策に他ならない。
「全競技へのエントリーは、物理的なインターバルを考慮しても正気の沙汰じゃねえぞ」
龍園は俺の机に両手を突き、顔を至近距離まで寄せてきた。三白眼の奥で、猛獣のような獰猛な光がギラギラと蠢いている。
「……だが、お前が推薦種目を総なめにし、一人で200点以上を叩き出してくれるってんなら、俺たちにとっちゃこれ以上ねえイージーゲームだ。……本当にやってくれるんだろうな?」
「俺が出来ないことを口にしないことは、知っているんじゃないか」
俺は至近距離にある龍園の圧力を平然と受け流し、視線すら揺らさずに言い返した。
「……ククク、面白えじゃねえか」
至近距離で俺の目を見つめていた龍園が、低く、重厚な爆発音のような笑い声を上げた。
彼は顔を離すと、頭を抱えるようにして天を仰ぎ、教室内全体に響き渡る声で言った。
「いいだろう、柊。お前がそこまで言うなら、推薦種目の枠はお前に丸投げしてやる。だがな、条件がある」
龍園は三白眼をギラつかせ、俺の机に再び指を突き立てた。
「お前が出場する推薦競技……一つでも1位を逃してみろ。お前が夏休みに裏で稼いできたあの『莫大なプライベートポイント』から、不履行のペナルティとして100万ポイントを俺に支払ってもらう……これなら文句はねえだろ?」
クラスの連中が息をのんだ。100万ポイントという巨額のペナルティ。正気の沙汰ではない理不尽な要求だ。大地たちが「龍園さん、いくらなんでもそれは……」と口挟もうとしたが、俺は制する手を挙げるまでもなく、即答した。
「いいぞ、乗った」
「……っ、美輝!?」
大地が叫び声を上げたが、俺の表情には微塵の揺らぎもなかった。
「ただし、こちらからも条件を出す。お前が得意とする不確定な妨害工作や八百長の類も、今回の体育祭においては完全に封印してもらう。俺が正面から力でねじ伏せてポイントを確定させる以上、余計な反則行為による減点や失格リスクをクラスに持ち込まないでほしい」
俺の提示した対価に、教室内は一瞬で氷点下の緊張感に包まれた。
龍園の真骨頂である「ルール破りの奇策」と「相手を精神的に追い詰める過激な妨害」を全面的に禁止する要求。それは、彼の最大の武器を封じることに他ならない。
「俺のやり方を縛ろうってわけか、柊」
龍園の三白眼が鋭く細まり、獲物を喰らい尽くそうとする肉食獣のような威圧感が解放される。教室の空気の圧力が跳ね上がり、大地や小宮たちが息を詰めて後退した。しかし、俺はその圧倒的な暴力を前にしても、眉一つ動かさずに視線を受け止める。
「お前の妨害工作は、確実性に欠ける上にクラスポイントを1630まで積み上げた現状においてはリスクがリターンを遥かに上回る。勝ち筋を俺が保証する以上、お前がやるべきなのはクラスの基本身体能力の底上げと、全員参加競技での手堅い加点だけだ」
「……」
龍園は静かに俺を見つめ返した。至近距離で交錯する二人の視線。やがて、龍園の口元が歪な三日月のように釣り上がった。
「いいぜ……乗ってやるよ。お前が推薦競技を全勝し、圧倒的な点数を持ち帰ってくるってんなら、俺も無駄なリスキーゲームをする理由はねえ……ただし、一つでも枠を落とした瞬間、約束通り100万ポイントはいただく。そして、その時点でこのクラスの全指揮権は再び俺が完全に握る」
「ああ、それで構わない」
俺と龍園の間で交わされた、クラスの運命を左右する絶対的な取引。教室内はその異様な決着に呑まれ、一言の口挟みすら許されない静寂が支配していた。
龍園は舌を打つと、教壇の脇へ戻り、ホワイトボードの枠組みを乱雑になぞった。
「おい、運動バカども! 聞いた通りだ。推薦競技の枠はほぼこの怪物が引き受ける。お前らは全員参加競技で無駄なポカをやらかさず、確実に3位以内に滑り込む練習だけしとけ! 一点でも多く稼いで、白組もDクラスもまとめて踏みつぶすぞ!」
「「「お、おう!!」」」
大地たちの怒号に近い返事が教室に響き渡る。恐怖政治による統率と、圧倒的な結果への担保。二つの絶対的な軸が噛み合った瞬間、1年Aクラスの士気はかつてないほどの高まりを見せ始めていた。
「……ふふ、本当に恐ろしい人ですね、美輝くんは」
隣の席で、ひよりが手帳にメモを走らせながら、感嘆と呆れが混ざり合った吐息を漏らした。
「龍園くんの暴走を抑え込み、同時にクラスの勝利条件を最小のリスクで確定させてしまうなんて。……でも、本当にお一人で推薦競技を全てこなすおつもりなのですか? 体力的にも、他クラスからのマークという意味でも、苛烈を極めることになりますよ」
ひよりの懸念はもっともだった。他クラスからすれば、1630ポイントを抱える1年Aクラスの動きには最大の警戒を払ってくる。その中で俺が推薦競技の全枠にエントリーすれば、集中砲火や徹底的なマークを受けるのは火を見るより明らかだ。
「マークされるのは最初から織り込み済みだ。それに、俺が前線で目立っていればいるほど、他クラスの視線は俺一人に固定される。その隙に大地や小宮たちが全員参加競技で手堅くポイントを拾っていけば、総合点での敗北はあり得ない」
「……なるほど。ご自身を囮兼得点源として機能させるおつもりなのですね」
ひよりは納得したように静かに頷き、その瞳に深い信頼の光を宿した。
俺が龍園のやり方を縛ったのは単にクラスの勝利のためだけではない。
体育祭という「個人の身体能力と土壇場の適応力」が白日の下に晒される舞台で、他クラスの最高戦力や坂柳の仕掛ける策略、そして未だ実力が未知数な綾小路の動向を、正面からの圧倒的な力という避けて通れない巨大な壁で引きずり出すためだ。
不確定な妨害工作や足の引っ張り合いに頼れば、相手もまた闇に乗じてこちらの隙を突いてくる。だが、こちらが一切の小細工を捨て、完全に計算し尽くされた絶対的なフィジカルと得点効率で圧殺しにかかれば、他クラスの参謀たちは規律ある戦略か致命的なまでの直接対決のどちらかを選択せざるを得なくなる。
そして龍園自身が得意とする、相手の裏をかき、ルール外の暴力や精神的威圧で切り崩す奇策のようなやり方には明確な限界がある。二学期以降、クラスがさらなる高み(完全なる独走)を目指す上で、龍園自身が「力押しと策謀の限界」を学び、俺という基準に合わせてその指揮系統をアップデートしなければ、この先の特別試験で彼自身が足元をすくわれることになる。
あと懸念すべきは、こちらの参加表が他クラスへ漏洩するリスクだ。
参加表の提出期限は決められているが期限内であれば、いくらでも書き換えが可能である。誰がどの種目に出るかという情報が事前に入手できれば、他クラスは完璧な当て馬やメタ編成を組んでこちらをピンポイントで潰しに来ることができる。
だからこそ、そのリスクを回避するためダミーの参加表と本命の参加表の二段階の提出プロセスを組み込む必要がある。
参加表の提出期限は体育祭の一週間前から前日の午後5時まで。
龍園をはじめとするクラスの誰もが納得するような「標準的かつ力押し重視の編成表」をまずは期限数日前にわざと担任の坂上先生へ提出しておく。情報漏洩のルートがクラス内からの密告(内通者)であれ、他クラスによる教職員から漏れたとしても、敵陣営が手に入れるのはそのダミーの編成表だ。
他クラスは、そのダミー表を基に「1年Aクラスの肉体派(大地や小宮)をどの競技で潰すか」というメタ編成を組み、全戦力を最適配置してくるだろう。
そして敵陣営(白組)が完璧な対策を組み終えたと思い込んだ直後、提出期限である数分前に、俺自らが坂上先生へ本命の参加表を差し替えて再提出する。
これにより、白組が大地や小宮といった1年Aクラスの『物理的肉体派』を潰すために配置したエース級の生徒たちは、空振りを余儀なくされる。そして、彼らがノーマークにしていた枠……つまり、俺が一人で推薦競技の全枠(借り物競争、四方綱引き、男女混合二人三脚、1200Mリレー)に突如として出現することになる。
「……でも、美輝くんは本当に体力的に大丈夫なのですか?」
ひよりの純粋な心配がこもった問いかけに、俺は静かに視線を向けた。
「問題ない。これくらいの運動量は許容範囲内だ」
俺は淡々と返し、ホワイトボードに書かれた体育祭のスケジュール表へと再び視線を戻した。
「心配してくれるのはありがたいが、俺のフィジカルについては杞憂だ。無人島での立ち回りで証明したはずだが、俺の肉体は一般的な高校生のスペックを大幅に超える負荷に耐えうるように調整されている」
「調整、ですか……?」
ひよりは少し不思議そうに首を傾げたが、深く追求することはしなかった。彼女の知性なら、俺の言葉選びに隠された「後天的な訓練以上の何か」のニュアンスを察しつつも、今は踏み込むべきではないと判断したのだろう。
「だが、ひよりがそう心配してくれるのは、素直に感謝しておくよ。ありがとな」
俺がそう言うと、ひよりは一瞬だけ丸く目を張り、それから照れくさそうに文庫本で口元を隠した。
「もう……美輝くんは、そうやって時々ずるい話し方をしますね……分かりました。美輝くんがそこまで見据えていらっしゃるのなら、私はただ、提示された役割を全力で果たすだけです」
「助かる。女子の推薦種目や全員参加種目の取りまとめは、ひよりと伊吹あたりに任せたい。龍園の力押しだけでは、女子の細やかな連携や士気の管理まで手が回らないからな」
「お任せください。私は運動が苦手ですが、みんなの配置や体調の管理なら、精一杯お手伝いさせていただきます」
ひよりは胸元で小さく手を握りしめながら、まっすぐな瞳で頷いた。その口元には、いつもの控えめな微笑みの中に、確かな意志の強さが宿っている。
「ああ、頼りにしているよ。ひより」
俺の言葉に、ひよりはどこか誇らしげに小さく笑みを深めた。
この後の2時間目のホームルームは全学年の顔合わせが行われる予定になっている。その時の各クラスの動向を観察しておく必要がある。
「よし、そろそろ時間だな」
坂上先生が教壇の時計を見やり、静かに立ち上がった。
「次の時間は体育館へ移動し、赤組・白組それぞれの合同集会を行う。諸君、移動の準備をしろ」
坂上先生の言葉を合図に、教室内の生徒たちが一斉に動き始める。
龍園はニヤリと不敵な笑みを浮かべたまま、ポケットに手を突っこんで真っ先に教室を後にした。大地や小宮たちも、興奮と緊張が入り混じった表情でそれに続く。
「行きましょうか、美輝くん」
「ああ」
俺とひよりは周囲の波に交ざり、静かに廊下へと踏み出した。