2時間目のホームルームが終わり、体育館を満たしていた圧迫感のある熱気は、潮が引くように各教室へと散っていった。
午後の時間がゆっくりと傾き、校舎の窓から差し込む陽光が橙色を帯び始める。放課後を告げるチャイムが鳴り響くと、生徒たちは解き放たれたように部活動やケヤキモールへと足早に向かい始めた。
1年Aクラスの教室では、龍園が大地たちを従えて早くも体育祭の全員参加種目の肉体派メンバーの選定に入っていた。俺に100万ポイントの賭けを持ちかけた手前、彼らも無駄な敗北を喫するわけにはいかない。恐怖政治と圧倒的な勝利への担保が噛み合った今のAクラスは、異様なほどの集中力を見せ始めていた。
「美輝くん、私はこれから図書室へ向かおうと思いますが……一緒に行かれますか?」
隣の席でノートをまとめていたひよりが、少し首をかしげて尋ねてきた。その瞳には、これから始まるであろう他クラスとの泥臭い抗争への不安ではなく、ただ放課後の穏やかな時間を共有したいという純粋な期待が宿っている。
「いや、今日は少しだけ確認しておきたい件があってな。先に図書室へ行っていてくれ。後で合流する」
「分かりました。では、窓際の席で本を読みながら待っていますね」
俺は端末をポケットに収め、席を立った。向かったのは、1年Cクラスの教室がある廊下だった。
放課後のこの時間帯、Cクラス周辺の廊下には驚くほど他クラスの生徒の姿がない。部活動に向かう者やケヤキモールへ繰り出す者たちの動線を、それとなく事前に逸らしておくように一之瀬と網倉に伝えてある。他クラスの偵察や野次馬といった雑音を徹底的に排除し、Cクラスだけの「完全な密室」を作り出すこと。一之瀬が自らの過去を晒し、それをクラスがどう受け止めるかという繊細な盤面において、外部からの余計な視線や介入は妨害にしかならない。
当然、教室の中に足を踏み入れるような愚行は犯さない。廊下の角、防犯カメラの死角となる影から、開け放たれた教室の様子を静かに観測する。
1年Cクラスの教室からは普段の明るい喧騒が消え去り、静まり返った重苦しい静寂が漂っていた。
教壇の上に立っているのは、一之瀬帆波だ。
彼女の肩は微かに震えており、目元は赤く腫れている。しかし、一学期までのどこか虚飾の混ざった完璧な笑顔ではない。自らの弱さと罪を受け入れた者だけが持つ、静かで強固な眼差しで、彼女はクラスメイト全員の顔を見つめていた。
「だからね、みんな。私はみんなが思っているような、完璧で綺麗なお手本なんかじゃないの。妹のためとはいえ、万引きをして……罪悪感で不登校になって……みんなをずっと騙していた、最低な人間なんだ」
一之瀬の声が、静まり返った教室に染み渡っていく。
彼女の告白が終わった瞬間、教室内には凍りつくような絶望的な沈黙が流れた。生徒たちの顔には困惑、衝撃、そしてどう反応していいか分からない戸惑いが広がっていく。
他クラスの人間がこの過去を暴き、爆弾として起爆させていれば、この沈黙は即座に裏切りへの非難とクラス崩壊へと変わっていただろう。
だが、今は違う。
「――っ、何言ってるの……帆波ちゃん!」
その重苦しい沈黙を、切り裂くような叫びが打ち破った。
教壇に最も近い最前列の席から、弾かれたように立ち上がったのは網倉麻子だった。
彼女の目にはすでに涙が溢れていたが、その表情にあるのはショックや拒絶ではなく、目の前で身を削る親友を守ろうとする、痛烈なまでの必死さだった。
「麻子ちゃん……?」
一之瀬が小さく息を呑む。
網倉は一歩、また一歩と教壇へ歩み寄ると、震える一之瀬の手をぎゅっと、壊れそうなほど強く包み込んだ。
クラス全員の視線が、網倉のその一挙一動へと集中する。集団心理における最初の同調者。彼女がここで発する第一声こそが、Cクラスの運命を決める最大の分岐点だ。
集団行動学や社会心理学において、「1人目の同調者」の存在が集団の意思決定を激変させることは証明されている。どれほど正しいことや衝撃的な事実であっても、1人目が拒絶すれば周囲も拒絶に傾く。だが、網倉という女子グループの中心人物が即座に1人目のフォロワーになることで、クラス全体の集団心理を非難から保護や同情へと強制的に誘導できる構造を事前に組み上げることができる。
「確かに万引きはいけないことだけど、帆波ちゃん自身が最低なわけ、ないじゃん……っ! 自分の妹のために苦しんで、一人でずっと悩んで……だから、この学校に入ってから、誰よりもみんなのために頑張ってくれてたんでしょ!?」
網倉の声は涙で途切れ途切れだったが、教室内を揺らすほどの圧倒的な感情がこもっていた。
彼女は振り返り、教室で呆然と立ち尽くすクラスメイトたちへ向けて、必死に訴えかけた。
「みんな、思い出してよ! 私たちが困った時、辛かった時、いつでも一番に駆けつけてくれたのは誰!? 一学期の間、私たちが楽しく過ごせたのは誰のおかげ!? 過去に間違いがあったかもしれない……でも、今の帆波ちゃんが私たちを大切にしてくれてた気持ちまで、全部嘘だったとでも言うの!?」
網倉の叫びが、生徒たちの凍りついた思考に波紋となって広がっていく。
一人で抱え込んでいた恐怖を解き放ち、網倉の言葉に救われた一之瀬は、その場に崩れ落ちるように網倉の胸へ顔をうずめ、堰を切ったように泣きじゃくり始めた。
「ごめんなさい……っ、みんな……ごめんなさい……っ!」
「謝らないでよ……帆波ちゃんは、何も悪くないよ……っ」
網倉は一之瀬の背中を優しく抱きしめ、涙を拭おうともせずに寄り添い続ける。
その光景を目にした時、クラスメイトたちの顔から衝撃の色が消え、代わりに芽生えたのは、自分たちのリーダーが背負っていた壮絶な孤独への同情と、それを自らの言葉で打ち明けた勇気に対する深い敬意だった。
「……そうだな。一之瀬が俺たちのためにやってきてくれたことは、本物だ」
「万引きが良くないことだって、一之瀬さん自身が一番分かって苦しんでたんだ……」
「隠したままにできたかもしれないのに、自分から話してくれたんだぞ……!」
神崎がぽつりと漏らした言葉を皮切りに、温かい声の波が教室中に伝播していく。女子生徒たちが次々と席を立ち、涙を流しながら教壇の二人へと駆け寄っていった。
「帆波ちゃん、話してくれてありがとう……!」
「私たち、ずっと帆波ちゃんについていくよ!」
男子生徒たちも目元を拭いながら、力強く頷き合っていた。神崎隆二は静かに一歩前へ出ると、教壇の前で抱き合う二人を見つめ、どこか憑き物が落ちたような静かな息を吐き出した。
「一之瀬。お前が一人でそんな重荷を背負っていたとは知らなかった……だが、今日お前が見せたのは、自分の弱さと向き合う本物の強さだ。俺たちは、これからもお前を、このCクラスのリーダーとして支え続ける」
「神崎くん……みんな……っ、ありがとう……本当に、ありがとう……!」
教室中を満たす、温かい共鳴と一体感。
一学期の間、彼女の完璧すぎる善性にどこか微かな不気味さを感じていたクラスメイトたちの心の隔たりは、自らの罪と弱さを晒したことで完全に霧散していた。
歪んだ秘密を共有した集団は、脆く壊れるか、あるいは揺るぎない鋼の絆へと再結合する。
一之瀬帆波という存在を中心に、1年Cクラスは今、学年中のどのクラスよりも強固で、一切の亀裂を寄せ付けない最高純度の集団へと昇華を遂げていた。
廊下の影からその光景を静かに見届けていた俺は、携帯を手に取り画面を指先でタップし、保存していた一之瀬の過去データ及び一学期に堀北や一之瀬たちが仕掛けたであろう偽装工作に関する証拠データを完全にローカルストレージから物理消去した。
画面上で「削除完了」のプログレスバーが100%に達し、ファイルが存在しない無機質なディレクトリーが表示される。
これで、彼女の過去は誰かに暴露されるスキャンダルではなく、クラスの絆を証明した通過点へと昇華された。
今後、仮に生徒副会長の南雲雅や、他の人間がこの情報を一之瀬への精神攻撃としてカードを切ってきたとしても、効果は一切得られない。どころか、クラスの結束を土足で踏みにじる行為として、Cクラス全員からの猛烈な逆風と拒絶を喰らうことになるだろう。
一之瀬と網倉は事前に知らされていたとはいえ、土壇場でのあの感情の爆発は、到底演技などで作れるものではなかった。
あらかじめ筋書きを授けておくことはできても、あの場に生まれる熱量と奇跡のような一体感だけは、彼女たち自身の心が起こした純粋な化学反応だ。
俺は画面をスリープモードに戻し、携帯を静かにポケットへ滑り込ませた。
教室の中から聞こえてくるすすり泣きと、互いを称え合う温かい熱気。それらを背中で受け止めながら、俺は足音を殺して廊下の角を曲がり、その場を後にする。
中央階段へ向かって静かな廊下を歩いていると、ポケットの中で端末が短く一度だけ震えた。
立ち止まり、画面を開く。差出人は網倉麻子。事前の取り決め通り、一之瀬にも他者にも悟られないよう送信された、ごく短い暗号のようなメッセージだった。
『終わったよ。ありがとう、柊くん』
絵文字も装飾もない文面。だが、その数文字の裏には、親友を絶望の淵から救い出し、クラス全員の気持ちを一つにまとめ上げた直後の、激しい安堵と誇らしさが滲み出ていた。
網倉は、俺から提示された最悪のシナリオと先制公表のロジックを理解した上で、今日のこの瞬間に向けて完璧に自分自身の感情をコントロールしてみせたのだ。
演技ではない。自分の意思で親友の味方であり続けると決めた者だけが放てる、本物の熱量。
集団心理学における最初のフォロワーとしての役割を、彼女は期待以上の精度で遂行してくれた。
『お疲れ様。よくやったな』
短く労いの言葉を打ち込み、送信を完了させる。送信完了の画面を見届け、俺は端末の液晶を落とした。
静まり返った本校舎の廊下には、遠く運動場の方向から届く部活動の声と、暮れなずむ秋の風が窓を揺らす音だけが流れている。
これで、南雲雅という男が握っていた、あるいは握ろうとしていた一之瀬帆波というカードは、完全にその価値を失った。
情報とは、それ自体に絶対的な破壊力があるわけではない。
それを受け取る人間がどう認知し、どう感情を動かされるかという文脈に依存する。
爆発の火種を、信用という不燃性の土台へとすり替えた以上、南雲がどれほど強力な外圧としてその過去を投下しようとも、不発弾として虚しく音を立てて終わるのが関の山だ。
図書室に辿り着き重厚なドアを開けると、静寂特有の冷気と、数万冊の古い紙が放つ独特の匂いが鼻腔をくすぐった。
夕刻の図書室には、授業を終えた数名の生徒が点在している程度で、人影はまばらだ。
窓際のテーブルに視線を向けると、西日を浴びながら、一冊の分厚い革装本に視線を落としているひよりの姿があった。夕明かりが彼女の透き通るような髪を黄金色に染め上げ、まるで絵画の一枚のように静謐な空間を作り出している。
俺の足音に気づいたのか、ひよりがパッと顔を上げた。
本に挟んでいた栞を丁寧に整え、ページを閉じると、彼女は花が咲くような笑みを浮かべて立ち上がった。
「おかえりなさい、美輝くん。確認したい件は、無事に終わりましたか?」
「ああ。おかげさまでな。待たせてしまって悪かった」
「ふふ、お気になさらず。美輝くんに教えていただいた海外のサスペンス小説を読んでいましたから、時間はあっという間でした」
ひよりは机の上に置かれていた文庫本を優しく撫で、向かいの席を小さく手で示した。俺は静かに引き寄せた丸椅子へ腰を下ろす。
先ほどまで1年Cクラスの教室を包み込んでいた、あの感情の嵐と劇的なドラマ。そこから何重もの扉を隔てたこの図書室には、時間が止まったかのような静寂だけが横たわっている。
西日が長く影を伸ばすテーブルの上で、ひよりが持ち込んだ本と、俺が先ほどまで思考を巡らせていた盤面が交差していた。
「……美輝くん。なんだか、少しだけお顔が晴れやかになったように見えますね」
ひよりが、不意に首を少し傾げてこちらを覗き込んできた。
彼女の透明感のある瞳には、俺の微細な感情の変化すら見逃さない、鋭くも温かい観察眼が宿っている。
「そう見えるか? 別に特別なことがあったわけじゃないんだがな」
「まるで何か大きなパズルのピースが、あるべき場所にカチリと嵌まった……そんな雰囲気が漂っていますよ。私には、美輝くんが何をしてきたのかまでは分かりませんけれど」
ひよりは小さく微笑み、それ以上は踏み込まずに本を静かに開いた。
「けれど、もしそのピースが正しく嵌まったのだとしたら……これからの学校生活が、少しだけ穏やかになると良いですね」
「……そうだな。俺もそれを願っている」
穏やかな時間。この高度育成高等学校において、それがどれほど贅沢で、そして歪で儚いものであるかを俺もひよりも理解している。だが、だからこそ、こうして図書室の窓際で交わされる他愛もない会話が、一層の価値を持つ。
「それで、美輝くん。先ほどお話ししたサスペンス小説ですが……中盤で登場する第二の犯人の動機について、少し気になるところがありまして」
「どの場面だ?」
「主人公を裏切ったように見えた登場人物が、実は最初からすべてを察した上で、主人公を守るために悪役を演じていたのではないか……そう思わせる描写があったんです」
ひよりは白い指先でページの端を軽やかになぞりながら、楽しそうに自説を語り始める。
「一見すると裏切りに見える行動も、目的と文脈を変えれば最大の献身になり得る……そういうプロットは、心理戦を扱う小説では定番でありながら、奥が深い」
「はい。人の感情や行動は、表から見えているものだけが全てではない……読めば読むほど、そう実感させられます」
ひよりの言葉は、どこまでも純粋な読書家としての感性から紡がれたものだ。だが、その言葉は期せずして、俺がこの学校で遂行している観察と介入の本質を的確に射抜いていた。
西日は次第に深みを増し、図書室全体を濃密な朱色で染め上げていく。
Aクラスでは龍園による徹底した肉体派の選抜が進み、Cクラスでは過去を乗り越えた一之瀬を中心に揺るぎない結束が生まれ、そして他のクラスもまた、それぞれの思惑を胸に体育祭に向けた準備を進めているはずだ。
「美輝くん?」
「……いや、なんでもない。ひより、その小説の続きだが――」
俺は思考のスイッチを静かに切り替えた。
橙色の光が落とす長い影の中、俺たちは閉鎖された放課後の図書室で、ページをめくる心地よい音とともに、束の間の静寂へと深く潜っていった。
柊くんからの『お疲れ様。よくやったな』という短い返信を液晶画面で確認し、私は小さく息を吐いてスマホをポケットに滑り込ませた。
画面が暗転すると同時に、自分の手がまだ微かに震えていることに気づく。
「麻子ちゃん、大丈夫……? 顔色、すごく真っ白だよ」
隣で目元を真っ赤に腫らした帆波ちゃんが、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
さっきまでクラス全員の前で崩れ落ちて泣いていたのは彼女の方なのに、こうしてすぐに周囲を気遣ってしまう。その変わらない優しさに、胸の奥がぎゅっと締め付けられるような愛おしさと、激しい安堵がこみ上げてきた。
「ううん、大丈夫! ちょっと……なんだか、すごーく緊張しちゃっただけ!」
私は努めて明るい声を作り、帆波ちゃんの両手をギュッと握り返した。
教室の中は、まだ熱っぽい余韻に包まれている。神崎くんを中心に、男子も女子も関係なく、みんなが帆波ちゃんを囲んで温かい言葉をかけ合っていた。誰一人として、彼女を責める者なんていない。
柊くんが言っていた通りの光景が、今、目の前に広がっていた。
……本当に、柊くんの言った通りになったんだ。
一筋の汗が首筋を伝う。
ほんの数日前までの出来事が、まるで遠い昔の夢のように思い出された。
あの日、柊くんから大事な用件の名目に訪ねた帆波ちゃんの部屋。その静けさの中で柊くんから突き出されたスマホの画面、帆波ちゃんの口から、そして柊くんの口から語られた万引きという思いもよらない過去の事実。それを告げられた時の衝撃を、私は一生忘れないと思う。
頭が真っ白になって息の仕方も忘れるくらい動転した私に、彼は冷たさと圧倒的な合理性を孕んだ声で言ったのだ。
『俺がこの情報を入手しているということは、遅かれ早かれこの学校にも一之瀬の過去を探っているか知っている者がいると想定していた方がいい』
『一之瀬がクラスメイト全員に過去を打ち明けるその瞬間、お前が誰よりも早く彼女の手を握り、“私はこの過去を知っても帆波ちゃんを信じる”と声を大にして宣言すればいい』
あの時の柊くんの瞳は、まるで全ての未来を見渡しているかのように静かで、鋭かった。
他人に暴露されて追い詰められる前に、自分たちの意志で過去を開示し、私が最初にそれを受け止める。
文章にすればたったそれだけのことかもしれない。けれど、もし私が失敗していたら、もし私が恐怖に負けて声を出せなかったら……このクラスは今日、完全に崩壊していたかもしれないのだ。
私に与えられた役割の重さに、教壇へ歩み寄る直前まで心臓が口から飛び出しそうなほど高鳴っていた。
でも、教壇の前で震える帆波ちゃんの手を握った瞬間、頭の中の計算や緊張なんて全部吹き飛んでいた。
叫んだ言葉は、柊くんに教え込まれた台詞なんかじゃない。帆波ちゃんを助けたい、大好きな親友を守りたいという、私自身の本気の叫びだった。
「麻子ちゃん、本当に……ありがとうね」
帆波ちゃんの震える声で、私は過去の回想から現実へと引き戻された。
彼女は溢れ出そうな涙を必死に手持ちのハンカチで拭いながら、か細い、けれどどこかすっきりと晴れやかな笑顔を私に向けていた。
「私ね、ずっと怖かったの。みんなを騙していて……失望されるのが、怖くてたまらなかった。でも……麻子ちゃんが真っ先に手を握ってくれた時、私……このクラスでみんなと出会えて良かったって、心の底から思えたの」
「帆波ちゃん……」
その言葉を聞いた瞬間、私の中で張り詰めていた緊張の糸がプツリと切れた。
失敗したら帆波ちゃんを完全に追い詰めてしまうかもしれないという、絶叫したいほどのプレッシャー。それら全てが解き放たれ、涙となって目から溢れ出していく。
「バカ……っ! 感謝したいのは私の方だよ……! 帆波ちゃんが勇気を出して話してくれたから……私、もっと帆波ちゃんのこと好きになれたんだからね……っ!」
私はたまらず帆波ちゃんに飛びつき、その華奢な体を強く抱きしめた。
「ちょっと麻子ちゃん、泣きすぎー!」
「帆波ちゃんを独り占めしないでよー!」
夢ちゃんと千尋ちゃんが泣き笑い混じりの声を上げながら、私たちを包み込むように抱きついてくる。
神崎くんたちが苦笑しながらそれを見守り、教室全体が今まで感じたこともないほど温かく、強い絆で満たされていくのが分かった。
みんなの温かい体温を感じながら、私は涙でぐしゃぐしゃになった顔を帆波ちゃんの肩から離した。
視界が滲んでぼやける中で見えたのは、照れくさそうに目元を拭う男子たちの姿と、涙を流しながらも心から晴れやかな表情を浮かべる女子たちの笑顔だった。
「よしっ! みんな、泣くのはここまで!」
私はぐっと目元を袖で拭うと、クラスのみんなに向かってパンと威勢よく手を叩いた。
「帆波ちゃんがせっかく過去を乗り越えて、また一歩踏み出したんだよ! 私たちCクラス、次の体育祭で絶対に他のクラスに勝って、最高の思い出を作ろうよ!」
「「「おおーっ!!」」」
教室中に響き渡る、地鳴りのような歓声。
かつてのような、どこか表面的な仲良しグループの歓声じゃない。自分たちの弱さを共有し、それを乗り越えた者たちだけが持つ、本物の熱量だった。
夕暮れのオレンジ色が深まり、教室の影を長く伸ばしていく。
窓の外から吹き込む秋の風は少し冷たかったけれど、私の胸の奥は、これまでにないほど熱く燃えていた。
クラスメイトたちの温かい輪の中心にいながら、私の思考はふと、すでに誰もいないはずの廊下の暗がりへと向かっていた。
柊美輝という男の子は、名前くらい聞いたことがある程度で、これまで会話すら交わしたことがない他クラスの生徒だった。
無人島の特別試験で圧倒的なポイントを叩き出し、一気に学年中の注目の的となった人物でもある。
帆波ちゃんからは「無闇に人を追い詰めるような真似はしないし、周りを無駄に脅かすような人じゃない」と聞いていたけれど、実際に相対した時のあの異様なまでの存在感と、すべてを見透かすような瞳の奥にある底知れなさは、今思い出しても鳥肌が立つ。
でも、船上での特別試験で話してみると、彼は冷血な策略家という印象とはまた違う、どこか不思議な距離感と丁寧さを持った男の子だった。
表情に乏しくて、感情を表に出すこともない。けれど、みんなが利益を得るための提案を軽々と見抜き、一歩引いた視点から最も誰も傷つかない解答へと導いてくれた。
戸塚くんたちが裏切って試験が終了してしまった時は、やっぱりあの人も裏で何か恐ろしい罠を仕掛けていたんじゃないかって疑う気持ちがなかったわけじゃない。
だけど、あの夜、帆波ちゃんと神崎くんと一緒に龍園くんたちと対峙した時、柊くんから聞かされた真相は、私の想像をはるかに超えたものだった。
冷たい夜風が吹き抜ける中で彼が静かに語ったのは、圧倒的な論理的思考力と、常人には思いつきもしない策から組み立てられた完璧な防衛戦術だった。でももっと驚いたのは、それほどの戦略を持ちつつ、彼自身は誰もが利益を得られる結果を望んでいたこと。最終的に戸塚くんたちの裏切りはあったものの、1000万以上のプライベートポイントを獲得でき、クラスにとっても大きなアドバンテージを得ることができた。
この時から私の中での印象は、恐ろしい戦略家から「底知れないけれど決して悪意で動いているわけではない不可解な存在」へと大きく変わっていったのだ。
そして夏休み、柊くんに呼び出された時は、私の心臓は嫌というほど跳ね上がっていた。
指定された集合場所へ向かう足取りは重く、恐怖すら覚えていたのだ。
それからというもの、あの彼の部屋や帆波ちゃんの部屋で交わした言葉や立ち振る舞いが、私の頭から離れることはなかった。
彼のスマホから突き付けられた帆波ちゃんの過去。
画面に映し出されていた無機質なテキストと写真を見た時の恐怖は、思い出すだけでも息が詰まりそうになる。あの時の帆波ちゃんの部屋は、真夏だというのにまるで真冬の氷点下に放り込まれたかのように冷え切っていた。
一定の声のトーンで語る彼の表情には、帆波ちゃんを傷つけようとする悪意も、逆に憐れむような同情も一切なかった。
ただ淡々と、盤面にある危険物をどう排除するかという、狂おしいほどに透き通った合理性だけが存在していたのだ。
あの冷徹なまでの観察眼と先見性。もし彼が本気で敵として私たちの前に立ちはだかっていたら、Cクラスなんて一瞬で影も形もなく踏みにじられていただろう。
けれど、彼はその圧倒的な力を、帆波ちゃんを破滅させるためではなく、彼女が自らの足で立ち上がり、クラスとの本当の絆を結ぶために貸してくれた。
それに……淡々と無表情で詰めた後に見せた、あの優しい微笑み。あの冷徹な顔立ちが一瞬だけ緩み、どこか温かみのある柔らかい笑みを浮かべた時のギャップ。
無機質な計算機のような男の子が見せた、あまりにも人間的で、けれどどこか見守るようなあの微笑みを思い出して、私の胸の奥がキュッと小さく跳ねた。
思わず自分の胸元にそっと手を当てる。トントンと、さっきの感動や緊張とはまた違う、不揃いで小さな鼓動が指先に伝わってきた。
(な、なに考えてるの、私! 柊くんは帆波ちゃんの……ううん、クラス全体を救ってくれた恩人で、それにあの人には――)
脳裏に浮かんだのは、いつも柊くんの隣に静かに寄り添っている、あの美しくどこか儚げなAクラスの少女、椎名さんの姿だった。
二人の間に流れる独特で、誰にも割り込めないような静謐な空気感。それを思い出して、私は胸につっかえを感じながら、慌てて頭を首がちぎれるほど横に振った。頬が急激に熱くなっていくのを感じ、誤魔化すように自分の顔を両手でバシッと叩く。
「ちょっと、麻子ちゃん!? 大丈夫? 急に自分のお顔叩いてどうしたの……!?」
「ひゃ、ひゃいっ!? あ、ううん! なんでもないの! ちょっと気合を入れ直そうかなって思って!」
急に奇怪な行動をとった私に、帆波ちゃんが目を丸くして心配そうに駆け寄ってくる。その純粋な瞳に見つめられ、私は罪悪感と照れくささで胸がいっぱいになり、「ははは」と引きつった乾いた笑いを漏らすことしかできなかった。
「もう、麻子ちゃんたら……急に驚かせないでよ」
帆波ちゃんはくすりと小さく笑うと、安堵したように胸を撫で下ろした。その笑顔には、長年彼女の心を押し潰していた重荷から解放された者だけが持つ、澄み切った眩しさが宿っている。
「でも……そうだね。麻子ちゃんの言う通り、泣いてばかりじゃいられないよね。私、みんなに心配ばかりかけちゃった分、これからはもっと前を向いて、Cクラスのリーダーとしてみんなを引っ張っていかなきゃ」
「うん! その意気だよ、帆波ちゃん!」
私は大きく頷きながら、まだ火照りの残る自分の頬をもう一度手のひらで撫でた。
心臓の不規則な高鳴りはようやく落ち着きを見せ始めていたけれど、胸の奥底に芽生えた微かな疼きのような感覚は、消えることなく残り続けている。
夕暮れの光が窓から差し込み、教室を柔らかい茜色に染めていく。
笑い合い、肩を叩き合うクラスメイトたちの声に包まれながら、私はもう一度、ポケットの中のスマホにそっと手を触れた。
(……ありがとね、柊くん)
ポケットの中で指先に触れる冷たい画面に向かって、誰にも聞こえないくらい小さな声で感謝を呟く。
もし彼がこの呟きを聞いていたなら、きっといつものように感情の読めない表情で短く、「お前たちの選択の結果だ」と答えるのだろう。そんな光景が目に浮かび、私の唇から自然と小さな笑みがこぼれ落ちた。
「麻子ちゃん、どうしたの? 窓の外見て、何かあった?」
「ううん! なんでもないよ!」
振り向いた私を迎えてくれたのは、夕日に照らされて眩しく輝く、帆波ちゃんの弾けるような笑顔だった。
もうそこには、過去の影に怯える不安そうな少女の姿はない。
冷たかった秋の風が教室のカーテンを静かに揺らし、過ぎ去っていく。
これから先、どんな困難や厳しい特別試験が待ち受けていようとも、今の私たちならきっと越えていける。
胸の奥に灯った微かな疼きと温かな誇りを抱きしめながら、私は大切な仲間たちが待つ輪の中へと、大きく一歩を踏み出した。