自室の重いドアを閉めた瞬間、私はもう自分の足で立っていられなかった。背中をそのまま冷たいドアに預け、力なくその場に滑り落ちる。
カチャン、と乾いたオートロックの施錠音が、静まり返った部屋にやけに大きく響いた。
「……あ……はは……っ」
乾いた笑い声が、喉の奥から零れ落ちる。
フローリングの冷たさが、薄い布地を通してじっとりと膝に伝わってきた。全身の骨が溶けてしまったかのように力が抜け、指一本動かすことすら億劫だった。
だけど、今の私の胸の奥を満たしているのは、一学期の間ずっと首を絞め続け、呼吸の仕方を忘れさせていたあの底冷えするような恐怖ではない。
それは温かくて、眩しくて、涙が出るほど優しい、本物の安心感だった。
(みんな……私の過去を知っても、受け入れてくれた……っ)
麻子ちゃんが泣きそうな顔で私の手を強く、痛いほど握りしめてくれた時の感触。神崎くんやクラスのみんなが、震える私の名前を呼んでくれた時の、あの必死で温かい声。
妹のヘアピンのために万引きをした、最低な過去。それを打ち明けた時、私の積み上げてきたすべてが音を立てて崩れ去り、誰もが私から離れていくのだとばかり思い込んでいた。
けれど、待っていたのは世界の崩壊なんかじゃなかった。想像もしなかった、絆の結び直しだった。
そっと、自分の胸元に震える手を当てる。
鼓動はまだ激しく波打っているけれど、ずっと重く、ドロドロとした黒い泥のように心底へこびりついていた恐怖や焦燥は、綺麗に洗い流されていた。
(……全部、柊くんの言った通りになったんだ)
脳裏に鮮やかに蘇るのは、あの冷徹で、どこまでも濁りのない透き通った瞳をした男の子の顔。
恐ろしいほどの先見性と合理性で、私の最も触れてほしくないトラウマを、そして過去の罪すらも、クラスの結束を固める「最大の武器」へと鮮やかに変えてみせた人。
もしあの時、彼が手を差し伸べてくれなかったら。もし彼が敵として私の過去を暴いていたら――そう想像するだけで、背筋にぞっとするような冷たい寒気が走る。
彼は私を精神的に追い詰めて壊すこともできたはずなのに、救う道を選んでくれた。
「……ありがとう、柊くん……っ」
誰もいない、静かな自室で、その名前がぽつりと零れ落ちる。
その瞬間、スカートのポケットの中で端末が短く一度だけ、ブッと鈍い振動を伝えた。
びくっと大きく肩を跳ねさせ、私は慌ててポケットからスマホを取り出す。画面に表示されていた差出人の名前に、心臓がドクンと激しく跳ね上がった。
『柊美輝』
震える指先で通知をタップすると、そこには彼らしい、短く無機質な文面が打ち込まれていた。
『無事に終わったようだな。この後、少しだけ通話の時間は取れるか?』
絵文字も、気遣いの飾りの言葉もない。いつも通りの、無愛想で淡々としたメッセージ。
だけど、今の私にとってそのたった数文字は、何よりも心強く、そして胸が熱くなるほど誇らしく思えた。
彼が提示してくれた過酷で恐ろしい試練を、私は逃げ出さず、自分の足で乗り越えてみせたのだと――今すぐ彼に報告したかった。
私は震える指を必死に抑え込み、画面に素早く文字を打ち込んでいく。
『うん、大丈夫だよ! 今部屋に戻ったところだから、いつでも大丈夫』
送信ボタンを押した直後、画面が切り替わり、着信を知らせる電子音が静かな部屋に響き渡った。
肺いっぱいに、深い深呼吸を一つ。
膝の上に零れ落ちていた涙を袖でゴシゴシと雑に拭うと、私は震える指で通話ボタンをスワイプし、恐る恐るスマホを耳元へと当てた。
「……もしもし、柊くん?」
『ああ、俺だ。取り込み中じゃなかったか?』
スピーカー越しに聞こえてくるのは、いつもの冷静で、一切の動揺や感情を含まない彼の声。
その変わらない声を聞いた瞬間、張り詰めていた糸がプツリと切れたように、私の目頭が再びじわっと熱を持って疼いた。
「ううん、全然! ……あのね、柊くん。私……言えたよ。みんなに、自分の言葉で……っ」
『……そうか。よく乗り越えたな』
耳元から聞こえる柊くんの声は、相変わらず感情の起伏が乏しく、淡々としている。
だけど、その短い言葉の奥に込められた確かな肯定の響きに、私はもうこらえきれなくなって、ポロポロと涙をこぼした。
「うん……っ。麻子ちゃんが一番に手を握ってくれて……神崎くんも、みんなも……私を笑ったり嫌ったりしないで、受け入れてくれたの……っ。私、こんなに恵まれてていいのかなって思うくらい……温かかった……!」
『恵まれているわけじゃない。お前がこれまで積み重ねてきた信用と、今日見せた自分の弱さと向き合う覚悟に対する、彼らなりの誠実な回答だ。他人に与えられたものじゃない。お前自身が掴み取った結果だ』
「柊くん……」
彼の言葉はいつだって論理的で、甘い慰めなんて一つも口にしてくれない。
けれど、だからこそ、その言葉には一寸の嘘や世辞、誤魔化しがないのだと痛いほどよく分かる。
彼は私の精神状態や声のトーンを確かめるためにこうして電話をかけてくれたなんて、これっぽっちも口には出さないのだろう。ただ静かに、私の声のわずかな揺れや、途切れる息遣いから、私がもう折れていないか、ちゃんと前を向けているかを観察し、見守ってくれている。
その不器用で、でもどこまでも深い優しさが、胸の奥をキュッと甘く締め付けた。
「……うん。私、もう逃げない。自分の過去からも、このCクラスのリーダーとしての責任からも……絶対に目を背けないよ」
涙を指先で拭いながら、私は震えを抑えてしっかりと声を張った。
画面の向こうで、微かに柊くんが息を吐く音が聞こえた気がした。
『その調子なら、もう大丈夫そうだな。……一之瀬、これでもし他クラスが握ろうとしていたスキャンダルというカードは不発に終わる。今後、お前の過去を叩く者が現れたとしても、それはクラスの結束を深める燃料にしかならない』
「うん……全部、柊くんが守ってくれたおかげだね」
『俺はあくまで選択肢を提示し、きっかけを与えたに過ぎない。実際に恐怖を振り払い、クラスの前で過去を晒す決断をしたのはお前自身だ。誇っていい』
柊くんの淡々とした声が、画面越しに耳腔を優しく揺らす。
彼はどこまでも、自分はただのきっかけに過ぎないと位置づけようとする。自分自身の功績を一切主張せず、すべてを私自身の成果として返してくれるのだ。
そんな彼の徹底した一線と、その裏にある底知れない思いやりに、胸の奥が温かい熱で満たされていく。
「……ううん。柊くんがいてくれなかったら、私は今頃きっと、過去の影に怯えて立ちすくんだままだった。だから……本当に、ありがとう」
『礼なら、協力してくれた網倉に言えばいい。彼女の協力がなければ、このシナリオは成立しなかった』
「ふふ、もう麻子ちゃんにはたくさん感謝したよ。でもね、柊くんにもちゃんと言いたかったの」
画面の向こうで、柊くんが小さく息を吐く気配がした。感情の読めない、いつもの沈黙。けれど、今の私にはその沈黙すらも、彼なりの不器用な気遣いのように思えて愛おしかった。
『……そうか。それなら、受け取っておく』
「うん!」
私の弾んだ返事に、彼は一拍置いてから、スッと空気を切り替えるように言葉を続けた。
『さて、個人的な労いと確認はこれで終わりだ。ここからは、今後の動きについての話になるが……大丈夫か?』
「うん、勿論だよ! どんなことでも言って」
彼の声音が、一瞬にしていつもの合理的なトーンへと戻る。
私は気を取り直して正座をし直し、スマホを握りしめる手にキュッと力を込めた。
『これからの体育祭、そしてその後の特別試験に向けて、お前たちCクラスは学年中でも屈指の堅牢な結束を手に入れたと言っても過言ではない。誰であれ、他クラスからの精神的な揺さぶりで崩すことはほぼ不可能だ』
「うん……今の私たちなら、どんなことがあっても互いを信じ合えると思う」
『だが、同時にそれはクラスメイトから一之瀬に対して、絶対的な依存や神聖視が生まれるリスクも孕んでいる』
「依存……?」
柊くんの静かな言葉に、私は首をこつんと傾げた。
『人は、自らの弱さを晒して乗り越えたリーダーに対して、強い心理的帰依を抱く。今回の告白でお前の過去という影は消えたが、代わりに「私たちのために身を削ってくれた完璧な指導者」という新たな偶像が形成されつつある。今後、お前がクラスのために自分を犠牲にするような選択をしようとした時、周囲がそれを無条件で受け入れてしまったり、あるいは、お前にすべての判断を委ねて思考停止に陥る可能性がある』
「っ……」
柊くんの淡々とした指摘が、私の胸にずしりと重く響いた。
みんなが私を許してくれた。受け入れてくれた。その温かい感動にばかり気を取られていたけれど、彼の言う通り、それは同時に「私という存在への無条件の肯定と過剰な期待」を生み出してしまうということでもあるんだ。
『お前の最大の長所であり弱点は、クラス全体のために自分を投げ出せてしまうことだ。そして現在のCクラスは、お前が「そうする」と言えば、それを全力で保護し、従おうとするだろう。……それは集団としての結束ではあるが、健全な組織とは言えない』
「……うん。柊くんの言う通りかもしれない。私は……みんなに守られるだけの存在になりたいわけじゃないし、みんなに思考を止めてほしいわけでもないの」
自分の胸にそっと手を当てて、静かに息を吐き出す。
もし私が間違った道を選びそうになった時、みんなを止められなくなってしまったら。それは本当の意味でクラスを守ったことにはならない。
「じゃあ、私は……これからどうすればいいのかな?」
私の問いかけに対して、画面の向こうの柊くんは一瞬だけ間を置いた。
静寂の中で、彼の頭の中で思考のギアがカチリと音を立てて噛み合うような、不思議な静けさが漂う。
『簡単なことだ。お前自身が周りを頼ればいい。これからは一人で背負い込もうとせず、神崎や網倉、そしてクラスメイト全員を対等な頼り先として巻き込んでいけ。完璧なリーダーである必要はない。弱さも見せ、他者に頼る術を覚えることこそが、Cクラスを真の意味で自立させる』
柊くんの淡々とした言葉が、画面越しに私の中へすうっと浸透していく。
一人で背負わなくていい。完璧じゃなくていい。
一学期の間、ずっと「頼れるリーダー」でいなければいけないと自分に言い聞かせてきた私にとって、それは何よりも欲しかった、けれど自分では決して許せなかった許可の言葉だった。
「周りを……頼る……」
『そうだ。お前が一人で自己犠牲に走る前に、彼らに課題を投げかけ、選択させろ。神崎のように客観的で現実的な視点を持つ者もいれば、網倉のように集団の感情を繋ぎ止められる者もいる。お前が弱さを見せ、助けを求めることで、彼らは守られる存在から共に戦う存在へと引き上げられる』
柊くんの思考は、どこまでも緻密で、先を見据えている。
過去の暴露という最大の危機を回避しただけで満足せず、その先にあるクラスの自立と、私自身の精神的解放までをも同時に手繰り寄せようとしているのだ。
その思考の深さに驚かされると同時に、胸の奥がじんわりと熱くなるのを抑えられなかった。
(柊くんは……最初から、そこまで見据えてくれていたんだ……)
「ふふ……本当に、柊くんには敵わないなぁ」
『何の話だ?』
「ううん、なんでもないよ! うん、分かった。私、これからは神崎くんや麻子ちゃん……みんなをもっと頼ってみるね。みんなで悩んで、みんなで決めて、本当の意味で強いクラスを作っていくよ」
『ああ、それでいい』
柊くんの静かな肯定の返事に、私は心から安堵の息を吐き出した。
通話越しに流れるほんのわずかな静寂。でも、以前のような不気味さや恐怖はもう一切感じない。彼との間に流れるこの静けさは、私にとって何よりも安全で、心地よい居場所のように感じられた。
「……あのね、柊くん。一つだけ、聞いてみてもいいかな?」
ふと思い浮かんだ疑問を、私は画面越しにそっと問いかけた。
柊くんは言葉を遮ることもせず、静かに続きを促すように沈黙を守っている。
「どうして、麻子ちゃんだったの?」
『……何のことだ』
「私に過去を打ち明けさせる時、最初に味方になってくれる協力者として、どうして麻子ちゃんを選んだのかなって……クラスには神崎くんもいるし、他にも頼りになる子はたくさんいるのに」
一学期の間、クラスの男子をまとめ、冷静に状況を見極めてくれていた神崎くん。あるいは、他の女子グループのリーダー格の子たち。選択肢は幾らでもあったはずだ。
確かに麻子ちゃんは親友だけど、この学校で他クラスの生徒から突然連絡を受け、トラウマ級の隠し事とクラスの命運を突如突きつけられるプレッシャーは計り知れないはずだった。
画面の向こうで、柊くんが小さく息を吸い込む気配がした。
『理由はシンプルだ。一之瀬、お前自身を心理的に動かし、なおかつクラス女子の感情を一瞬で惹きつけるには、同性であり、なおかつ最もお前の近くにいる存在である必要があった。その条件に当てはまる候補として、当初俺が挙げたのは網倉、白波、小橋の三名だ』
柊くんの口から滑らかに躍り出た三人の名前に、私は思わず目を見開いた。
私の周りにいる親しい女子たちの存在すら、彼は完璧に把握し、比較検討していたのだ。
『白波は一見、お前に対する忠誠心や愛情が最も強いように見えたが、それゆえに選択肢から真っ先に除外した。彼女はお前に対して少々盲目的すぎる。万引きの事実を突きつけられた際、ショックで思考停止に陥るか、最悪の場合、お前を守りたい一心で事実を闇に葬ろうとし、俺の策に反発して暴走するリスクが高かった。加えて、精神的にも脆い部分があり、あの土壇場のプレッシャーに耐え切れたかは疑わしい』
「千尋ちゃん……確かに、千尋ちゃんは優しすぎるから、パニックになっちゃったかもしれないね……」
柊くんの容赦のない分析に、私は苦笑交じりに頷く。千尋ちゃんの私への想いが本物だからこそ、それが歪んだ形で裏目に出る危険性を、彼は冷酷なまでに見抜いていたのだ。
『小橋に関しても、集団の空気を読む力はあるが、お前との精神的な距離感という点において、クラス全体の感情を強烈に牽引するまでの爆発力には欠けると判断した』
「じゃあ……やっぱり、麻子ちゃんしかいなかったんだ」
『消去法だけではない。網倉を選んだ最大の理由は二つある』
柊くんの声は、淡々と、けれど寸分の狂いもなく答えを紡ぎ出す。
『一つは、網倉がお前を深く信用と信頼していながらも、決して過信はしていなかった点だ』
「え……? 麻子ちゃんが私を過信してない……?」
思いもよらない言葉に、私は思わずスマホを握り直した。
『そうだ。白波に対してお前が無意識に抱いているような壊れやすさへの庇護欲や全幅の依存とは異なり、網倉はお前を一人の人間として、等身大の友人として見つめていた。だからこそ、お前の秘めた罪を知った時も過剰な幻滅や恐怖に逃げず、『一之瀬帆波という人間が苦しんでいる』という事実そのものを一番に受け止められる強さを持っていた。お前自身が精神的に追い詰められた際、白波の言葉は「優しい慰め」として処理されるが、網倉の言葉はお前の自我に届く強度を持っていたからだ』
「……麻子ちゃん……」
柊くんの言葉が心に染み込んでいくにつれ、胸の奥がじんわりと熱を帯びていく。
守られていただけじゃなかった。麻子ちゃんは私を「完璧な一之瀬帆波」としてではなく、傷つけて間違いも犯す、等身大の人間として見つめ続けてくれていたのだ。私と対等に向き合い、時には私の甘さを正面から叱ってくれる、そんな強い優しさを持って。
『そして、網倉を選んだもう一つの、そして最大の決定打、それは、彼女がすでに俺という人間と一定の関わりを持っていたという点だ』
「え……? 麻子ちゃんが、柊くんと……?」
思いもよらない事実に、私は思わず声を裏返らせてしまった。
他クラスの男子生徒である柊くんと、Cクラスの麻子ちゃん。これまで何の接点もなさそうに見えていた二人が、事前にかかわりを持っていたなんて。
『前回、船上での特別試験で俺と網倉は同じグループだったこと、覚えているか?』
「あ……っ!」
柊くんの言葉に、私は思わず小さく声を上げた。
無人島試験に続き、夏休みの船上で行われたあの特別試験。確かに麻子ちゃんは柊くんと同じグループに割り当てられていた。
「あの試験である程度、コミュニケーションを取っていたからか……」
『そうだ。見知らぬ他クラスの男子から突然不穏な呼び出しを受け、親友の重大なスキャンダルを突きつけられる……常人であれば警戒と不信感で取り合わないか、あるいはパニックを起こして破綻するシチュエーションだ。だが、網倉の中に「柊美輝という男は、筋の通らない悪意で動く人間ではない」という最低限の認知と実績があったからこそ、彼女は交渉のテーブルにつき、俺の提示したシナリオを理解して実行に移すことができた』
「そう……だったんだ……」
ぞくっと、心地よい寒気が背筋を駆け抜け、鳥肌が立った。
偶然の配置や、単なる思いつきなんかじゃない。
船上試験での関わりから、女子たちの心理的距離感、そして土壇場のプレッシャーに耐えうるメンタルの強度に至るまで、柊くんはすべての要素をあらかじめ緻密に計算し、最も成功率の高い協力者として麻子ちゃんを完璧に選定していたのだ。
「……も、もしもだよ、柊くん。もしあの時、麻子ちゃんが動けなかったり、計画がうまくいっていなかったら……どうするつもりだったの?」
ふと、背筋を這うような冷たさと共に、私はそんな仮定を口にしていた。
画面の向こうの彼なら、きっと別のルートや、さらに冷徹な予備プランを用意していたに違いない。そう思わずにはいられなかったからだ。
しかし、私のその問いかけに対して、柊くんは珍しく数秒間、完全に言葉を失ったように沈黙した。
『……』
「ひ、柊くん……?」
普段の彼からは想像もつかない長い沈黙に、私は思わず不安になって声を漏らす。すると、静かにため息を吐くような気配が混じり、彼の低い声が耳朶を打った。
『……一之瀬は、一学期の7月くらいにDクラスの須藤健とAクラスの石崎大地たちとの間にトラブルがあった時のことを覚えているか?』
「え……? 須藤くんと石崎くんたちの……?」
唐突な話題の転換に、私は驚きながらも記憶を必死に手繰り寄せる。
一学期の夏休み前、Dクラスの須藤くんが他クラスの生徒と暴力を働いたというトラブルがあった。あの時、学校全体が大きく揺れ動き、Dクラスが危機に瀕していたことは、他のクラスにいる私たちにも噂として耳に入っていた。
「うん、覚えてるよ。DクラスとAクラスの揉め事よね。結局はお互いに停学処分とDクラスが50のクラスポイントをAクラスに譲渡することで解決したはずだけど……それがどうかしたの?」
私の問いかけに、柊くんは小さく息を吐き、静かに言葉を続けた。
『あの揉め事の裏で、Dクラスは事態を解決するために動いていて一之瀬たちCクラスはDクラスに協力した。これは合っているか?』
「うん、合ってるよ。あの時はDクラスに協力を求めてきて、私たちも同じ学校の仲間として見過ごせなくて……できる限りの署名を集めたり、目撃証言の協力をしたりしたもん。でも力不足で結果は覆せなかったけど……」
懐かしい記憶を思い出しながら、私は小首をかしげた。
あの時、Dクラスのために奔走したけれど、最終的に彼らが直面した結末は悔しいものだった。しかし、それが今の話とどう繋がるのだろう。
『再審議前、お前たちは何をした? Dクラスの危機を救うため、自ら他クラスの生徒である大地たちを特別棟に招き、事態の収拾を図ろうとしただろう』
「……うん。あの時は、みんなでどうにかしなきゃって必死だったから……」
『なぜ、大地たちが訴えを取り下げなかったと思う?』
石崎くんたちが訴えを取り下げなかった理由。
あの時、私たちは石崎くんたちに訴えを取り下げ、審議そのものを取り下げるよう説得を試みた。けれど、彼らは私たちの言葉を突っぱね、一歩も引こうとしなかった。そして、なぜ突然綾小路くんが身を引こうとしたのか。
あの時……石崎くんたちは、私たちを鼻であしらうように話をまともに聞いてくれなかった。だけど、もしあの揉め事の裏で、Dクラスの前に既に動いていた誰かがいたら……。
「もしかして、あの時も……柊くんが、裏で動いていたの……?」
私の震える問いに、柊くんは肯定も否定もせず、ただ淡々と、しかし決定的な事実を告げた。
『お前たちが偽の監視カメラを現場に設置し、偽装工作した証拠を俺が持っていたとしたら』
「っ……!」
心臓が大きく跳ね上がり、私は思わずスマホを握る手に力を込めた。
偽の監視カメラ。偽装工作。
それは確か、Dクラスの須藤くんの暴力事件の際、彼らを救うために一部の生徒が水面下で講じたとされる、学校側のルールスレスレの秘策だったはずだ。なぜ、他クラスの、それも柊くんが、その詳細な証拠を握っているのか。
「ど、どういうこと……? なんで柊くんがそれを……」
部屋の空気が、急に凍りついたように冷たく感じられた。
画面の向こうから聞こえるはずの呼吸音さえ消え去ったかのような、圧倒的な静寂。その沈黙の重さに、私は息を呑むことすら忘れていた。
もしその証拠を学校側に提出していれば、Dクラスだけでなく、それに加担した私たちCクラスを破滅させるには十分すぎる一手だったはずだ。
私の背筋を、先ほどとは比べ物にならないほどの冷たい恐怖が這い上がっていく。
(あの時も、私たちが動くよりも前に、柊くんはすべてを見透かしていた……?)
混乱で震える私を置き去りにしたまま、柊くんの声は相変わらずの凪いだ調子で、私の耳元に淡々と紡ぎ出された。
『……いや、過去の検証を今しても意味はない。話が逸れたな』
まるで、わざと話を切り替えたかのように。
彼は、自らが持っていたかもしれない「切り札」の真相を語るのを、ピタリとやめた。
『もし網倉が動けなかったり計画が破綻していた場合の、第二のシナリオは用意してあった。網倉が動けず、計画が頓挫した場合は、俺が介入して一之瀬の告白は脅迫されて言わされたとクラスに思わせる。偽監視カメラの証拠を突きつけて、無理やり言わせたと誤認させ、ヘイトをすべて俺に向けることで事態を収束させる手はずだった。だが、結果的にそれは不要になったがな』
「な……っ……!」
思わずスマホを落としそうになり、私は慌てて両手でスマホを強く握りしめた。
柊くんの口から語られた「第二のシナリオ」。それは、万が一麻子ちゃんとの計画が失敗した際、すべての悪役を自らかぶり、私とCクラスを守るための捨て身の防壁だった。
彼がどれほどの覚悟といくつもの複線を張り巡らせてこの日を迎えていたのかを知り、私は言葉を失う。
「そんなの……そんなことされたら、柊くんが……っ!」
思わず叫ぶ私に、彼は相変わらずの平坦な声を返す。
『一之瀬と網倉を巻き込んだ以上、責任は巻き込んだ俺が取らなければならない。それだけの話だ。だが、幸いにもその必要はなくなった。お前たちが自分の足で、最善の結末を導き出したからな。それにその証拠は不要になり消去済みだ」
その淡々とした声音には、自分の犠牲を微塵も恐れないどころか、当然の義務のように捉えている冷徹さと、それを軽く流そうとする優しさが同居していた。
私はもう、胸がいっぱいになって言葉が出てこない。ただ、目から溢れる涙が止まらなかった。
「……ずるいよ、柊くん。そんなこと言われたら、私……」
言いかけた言葉を、私はぐっと飲み込んだ。
この胸の奥にある熱を、感謝や敬愛だけで片付けていいのだろうか。そんな甘い言葉を彼にぶつければ、彼はきっといつものように冷徹に、合理的に話を仕事へと引き戻してしまうだろう。
だけど、それでもいい。今はこの温かさに浸っていたかった。
『……一之瀬?』
少しだけ間を開けた私を気遣うように、画面越しに彼の低い声が響く。
私は大きく息を吸い込み、涙を拭って精一杯明るく声を張り上げた。
「ううん、なんでもない! 柊くん、本当にありがとう! 本当に、ありがとうね、柊くんっ……!」
あふれ出る感謝の言葉を最後に、私はもうこれ以上声を震わせまいと、しっかりと唇を噛み締めた。
画面の向こうで、彼が微かに息を緩める気配がしたような気がする。
『……どういたしましてだ。これで疑問は解消したか?』
「うん……っ! すごいよ……そこまで考えてくれてたなんて」
『一之瀬が言うほど細かく考えていたりしたわけではない。ただ、不安要素を可能な限り排除した結果に過ぎない』
柊くんの返答は、どこまでも素っ気なく、客観的だ。
けれど、その冷徹なまでの計算の根底にあるのは、いつだって私やCクラスを破滅から救い出すための優しさだということを、今の私は痛いほどよく知っている。
「ふふ、そういうところも、本当に柊くんらしいね」
『……俺らしいとはどういう意味だ』
心底不思議そうに問い返してくる柊くんの口調に、私はくすりと笑みを漏らした。
画面の向こうで首を傾げている彼の姿が、目に見えるようにありありと浮かんできた。
どれほど恐ろしい策略を張り巡らせる思考力を持っていても、こうして自分の持つ無意識の優しさや思いやりの指摘には、どこか無頓着で疎い。そんなギャップが、なぜか愛おしくてたまらなかった。
「ううん、なんでもない! ただの独り言だよ」
『……そうか』
私が楽しそうにそう流すと、画面の向こうの柊くんは呆れたような、けれどどこか諦めたような小さな息を吐いた。彼のその声が、私の胸をさらに温かく満たしていく。
『では、俺から伝えるべきことは以上だ。通話を切るぞ』
「あ、待って! 柊くん……っ」
用件が終われば一切の余韻を残さず立ち去ろうとする彼に、私は思わず呼び止める声を上げていた。
画面の向こうで、彼が端末を遠ざけようとしていた動きがピタリと止まる気配がする。
『なんだ? まだ何か確認したいことでも残っているのか』
「ううん、確認とかじゃなくて……その、ちょっとだけ、雑談してもいい……かな?」
自分で口にしておいて、少しだけ顔がカッと熱くなるのが分かった。
彼にとって、用件のない通話など無駄の極みなのだろう。いつもなら『無意味だ』と一蹴されるかもしれない。けれど、スマホから返ってきたのは冷たい拒絶ではなく、数秒の静寂と、静かな息を吐き出す音だった。
『……長くは話せないが、数分なら構わない』
そのぶっきらぼうで優しい返答に、胸の奥がキュッと鳴る。
私は膝を抱え直し、スマホの画面をさらに耳へと強く押し当てた。
「あのね……ずっと怖かったの。自分が犯した過去の罪が、いつかみんなにバレて、大好きな居場所が全部壊れちゃうんじゃないかって。夜、一人になるとずっとその恐怖に押し潰されそうになってて……同時にクラスのみんな、お母さんと妹に申し訳ない気持ちでいっぱいだったんだ」
『……』
「でも、今日分かったんだ。一番怖かったのは、過去を暴かれることじゃなくて……弱くてズルい自分を隠すために、みんなに嘘をつき続けることだったんだなって」
言葉にすることで、自分の中で絡まっていた感情の糸がスルスルと解けていくのが分かる。
「柊くんが背中を押してくれなかったら、私はずっとその泥沼から抜け出せなかった。みんなの優しさに甘えて、自分を偽り続けて……きっと最後には、自分自身のことも嫌いになってたと思う。だからね、柊くんは『きっかけを与えただけ』って言うかもしれないけど……私の世界を救ってくれたのは、間違いなく柊くんだよ」
画面の向こうは、しんと静まり返っていた。
柊くんは黙って私の拙い言葉を聞いてくれている。否定も肯定もせず、ただ静かに、その言葉を受け止めてくれているのが気配でひしひしと伝わってきた。
『……分かった。そこまで言うなら素直に受け取っておく。だが、俺だけではなく、網倉の協力やクラスの受け入れがあってこそだということは忘れるなよ』
「うん、勿論! 麻子ちゃんやみんなのことも、ずっとずっと大切にしていくよ」
『なら、これ以上の心配はいらないようだな』
画面の向こうで、彼が微かに吐息を漏らす気配がした。
『一之瀬、網倉という良い友人を持っているな』
「……うん! ほんとうに、自慢の親友だよ」
柊くんの言葉に、私は満面の笑みで大きく頷いた。
画面越しでは見えないけれど、今の私の表情が声を通して伝わったのか、画面の向こうの空気感がほんの少しだけ柔らかくなった気がした。
「……あ、あとね、柊くん」
『なんだ』
「お礼を、もっとちゃんとしたいなと思ってて、麻子ちゃんも交えて……三人で、今度どこかでお茶でもしない? 感謝の気持ちも込めて、私と麻子ちゃんからご馳走させてほしいんだ」
『……今は俺との接触は控えた方がいい』
柊くんは即答で、いつもの淡々とした、けれど一切の曖昧さを残さないトーンで断りを口にした。
『お前たちが過去を乗り越え、結束を強めた直後だ。他クラスの生徒……それも、この状況を裏で関与していた俺と頻繁に接触している姿を周囲に見られれば、余計な勘繰りを生む』
柊くんの至極当然な指摘に、私はハッと息をのんだ。
あまりの解放感と嬉しさに、私はまた周りの視線や状況への配慮を怠りそうになっていたのだ。
「あ……ご、ごめんなさい! 確かにそうだよね……せっかくみんなが受け入れてくれたのに、変な誤解を生んじゃったら大変だもんね……」
『謝る必要はない……そうだな。体育祭が終わった後、情勢が落ち着いたタイミングなら、構わない』
画面の向こうから聞こえたその言葉に、私の息が止まった。
「え……? 本当に……!?」
『断る理由もないだろう。その時にまた誘ってくれ。時間くらいは作る』
画面から流れてきた淡々とした、けれど確かな約束の言葉に、胸の奥で小さな花が一斉にパッと咲いたような感覚が広がった。
絶対に断られるとばかり思い込んでいたからこそ、余計にその一言が胸に深く刺さり、顔が一気に熱くなっていくのが分かる。
「うん……! ありがとう、柊くん! 体育祭、絶対に最高の成果を出して、堂々と柊くんに会いに行くね!」
『張り切る方向が少々ズレている気がするが……俺たちAクラスは勝ちを譲るつもりはないぞ。全力で来た方がいい』
「ふふ、望むところだよ! 私たちCクラスも、もう負けるつもりはないんだから」
柊くんの静かな宣戦布告に、私は頼もしい気持ちになりながら力強く答えた。
画面の向こうで、彼が微かに満足そうな気配を滲ませるのが分かった。
『なら、話は以上だ。今夜はゆっくり休むといい。クラスメイトに過去を打ち明けた緊張で、身体も精神も相当疲弊しているはずだ』
「うん。ありがとう、柊くん……おやすみなさい」
『ああ、おやすみ』
ブツッ、と通話が切れる短い電子音が響き、静寂が再び部屋を包み込んだ。
画面が暗転したスマホを、私は両手で大切そうに胸の前に抱きしめる。
耳元に残る彼の少し低くて冷たい声の余韻が、じんわりと心臓の奥を温め続けていた。
(体育祭が終わったら……三人でお茶、か)
約束を取り付けたというその事実だけで、明日からの世界がガラリと鮮やかな色を変えて見えた。
あれほど重く垂れ込めていた不安の雲は跡形もなく吹き飛び、胸の中には澄み渡った秋の空のような、透明で揺るぎない決意だけが残っている。
「……よしっ!」
膝にぐっと力を込め、私はゆっくりと立ち上がった。フローリングから伝わっていた冷たさは、もうどこにも感じない。
机に向かい、ノートとペンを取る。
これからの体育祭に向けたクラスの練習日程、種目配分、そして神崎くんや麻子ちゃんたちと相談すべき議題。
もう、一人で抱え込んで答えを出すような真似はしない。みんなを信じて頼り、共に歩んでいく。
それが、私を暗闇から引っ張り上げてくれた柊くんへの、そして私を受け入れてくれたCクラスのみんなへの、一番の恩返しになるはずだから。
「待っててね、柊くん。私、絶対に強いリーダーになってみせるから」
ペンを握る手にぐっと力を込める。
窓の外の夜空を見上げると、夜空に浮かぶ月が、私の新しい未来を優しく照らしているように見えた。