雲一つない秋晴れの青空の下、高度育成高等学校の広いグラウンドは、体育祭の始まりを告げる熱気に包まれていた。
中央に広がる鮮やかな緑の人工芝と、それを取り囲む赤茶色のトラック。太陽の光を浴びたその景色は、まるで本物の陸上競技場のような迫力があった。トラックの足触りや硬い人工芝の感触が、靴底を通して足裏に伝わってくる。
指定のジャージを着た全校生徒が、練習通りに整然と行進しながら入場してくる。揃った足音がトラックを揺らし、スピーカーから流れるマーチの重低音と混ざり合って、秋の澄んだ空気に響き渡っていた。
開会式で赤組の前列に出てきたのは、3年A組の藤巻だった。
静まり返るグラウンドに、藤巻の声がマイクを通してはっきりと響く。
赤組の指揮を執るのは生徒会長の堀北学だろう——誰もがそう予想していただろうが、実際に前に立ったのは藤巻だった。学が前に出なかったのは、彼が全生徒をまとめる「生徒会長」という立場にいるからだ。特定の組を直接引っ張ることは公平性を欠いてしまうという配慮や、学校のルールによる制限があったからに違いなかった。
藤巻の堂々とした宣誓が終わると、それまでざわついていた生徒たちの間に一瞬の静寂が訪れ、すぐに大きな歓声が巻き起こった。
トラックの周りに並ぶ白幕のテントの下では、各クラスの生徒たちがそれぞれの思いを胸に、静かに自分の出番を待っている。
特に1年生にとっては、入学して初めて経験する、クラスポイントが直接かかった大きなイベントだ。ただの楽しいスポーツの行事などではなく、足の速さや体力はもちろん、裏での情報戦や駆け引き、そしてクラスのチームワークが試される場所なのだと、誰もが緊張感とともに実感していた。
赤組と白組は、トラックを挟んで向かい合うテントの下で、お互いを強く意識し合っている。双方から漂う緊張感が中央でぶつかり合い、開会式が終わると同時に、熱い戦いの火蓋が切られようとしていた。
他のクラスに目を向けると、それぞれの雰囲気の違いが空気を通して伝わってきた。
赤組のテント下では、俺たちAクラスの龍園翔がパイプ椅子に深く腰掛け、鋭い目つきでグラウンドを見下ろしていた。その周りを山田アルベルトや石崎大地といった体格の良い面々が固めている。とにかく「力と勢い」で押していく強引な陣形だが、だからこそ他クラスにとっては予測不能で厄介な相手だった。
同じ赤組の隣のスペースでは、Dクラスの面々が重苦しい緊張感を漂わせていた。堀北鈴音が手元のノートに目を落とし、種目の順番や相手の配置を真剣に分析している。
その隣には、相変わらず無表情な綾小路が静かに立っていた。須藤健は己の腕力を確かめるように拳を握り締め、ギラギラとしたやる気を隠そうともせずにトラックを見つめている。
須藤という生徒はずば抜けた身体能力を誇っているが、感情の起伏が激しく精神的な隙を生みやすい。それは過去の話になりつつあった。一学期のあの暴力事件以降、俺と接触することによって彼は少しずつではあるが成長の兆しを見せている。
堀北の巧みなコントロールと本人の自覚が噛み合えば、この体育祭で間違いなく大きな戦力になるはずだ。Dクラスの勝敗は、彼が力を出し切れるかにかかっていた。
向こう側のトラック沿い、赤組と鮮烈な対比をなすように広がる白組のテント陣営に視線を滑らせる。
そこには、赤組の荒々しい熱気とは違う、静かで落ち着いた空気が広がっていた。
Cクラスのエリアでは、一之瀬帆波が背筋を伸ばし、澄んだ瞳でフィールドを見つめていた。クラスメイトからの信頼の厚さは相変わらずだ。ただ優しいだけだった以前の印象は消え、強いまとまりを手に入れた彼女たちは、この体育祭で油断できない相手になっていた。
一之瀬の周りの様子も変わっていた。網倉と神崎がバインダーを持ちながら一之瀬に歩み寄り、落ち着いた様子で話しかけた。
ここから会話までは聞こえないが、お互いを信頼し合っている表情や、力強い頷きが見えた。昔のように一之瀬一人に苦労を背負わせるのではなく、みんなで話し合って支え合う形ができあがっている。
あの一之瀬の告白以降、Cクラスの団結力は以前にも増して強固なものとなっている。一度は崩れかけた精神的な脆さを克服したCクラスは、もはや心理的な揺さぶりや情報戦の通用しない、極めて崩しにくい集団へと成長を遂げていた。
そしてそのCクラスの隣、Bクラスのテント下。
Bクラスの坂柳有栖は、身体的な理由から今回の体育祭を欠席している。そのため葛城が代わりに指示を出していたが、出走順などの最終判断は坂柳に任されているはずだ。
葛城は書類を真剣な顔で見つめながら、男子生徒たちに短く指示を出していた。リーダーとして動きつつも、安全で堅実な勝ち方だけを狙っている慎重さが窺える。
俺はパイプ椅子に深く身体を預け、トラック全体の動きを観察していた。隣には、運動着に身を包んだ椎名ひよりが静かに佇み、簡易的なプログラム表に目を落としている。
「100メートル走、美輝くんは確か6組目でしたよね?」
ひよりが静かな声で尋ねてきた。手元のプログラムを指でなぞりながら、少し心配そうに、けれど穏やかな視線を向けてくる。
「ああ、そうだ。相手はCクラスの柴田がいる組だな」
「強敵ですね。柴田くんはサッカー部でも屈指の足の速さだと聞いています」
「そうだな。だが勝ち目がないとは思っていない。なるべく、上位に食い込めるように最善を尽くすさ」
俺がそう答えると、ひよりは少し表情を緩めて小さく頷いた。
「ええ、応援していますね。……でも、無理はなさらないでください」
「無理はしない。ひよりも自分の出る種目で、怪我だけはしないように気をつけてくれ」
「はい。私は自分のペースで、足を引っ張らない程度に頑張ります」
控えめに微笑むひよりに頷き返し、俺は再びグラウンドの中央へと視線を戻した。
ひよりとの短い会話が終わるのと同時に、スピーカーからノイズ混じりの音とともに第一競技の開始を告げるアナウンスが響いた。
『ただいまより、第一競技100メートル走を開始します。各組の第一走者は速やかにトラック前招集エリアへ移動してください』
アナウンスがグラウンドに響き渡ると、それまでのざわめきが一気に緊張感へと変わった。各クラスのテントから第一走者が立ち上がり、招集エリアへと歩き出す。
100メートル走などの競技は、すべて1年生から順番に行われる。1年の男子から3年の女子まで走って1つの種目が終わり、休憩を挟んでから1年の女子から3年男子へと進む流れだ。つまり、体育祭の出だしを決める最初の大一番は、俺たち1年生の走りに懸かっていた。
グラウンドの中央に集まった各クラスの第一走者たちが、緊張した面持ちで自分のレーンへと向かっていく。各クラス2人ずつ、計8人の生徒たちがスタートラインに立った。
1組目にはDクラスの須藤健の姿があった。
レーンに立った須藤は、獲物を狙う野獣のような鋭い目つきで、真っ直ぐ前方へ伸びるトラックを見つめている。全身から気合いの強さと運動能力の高さが伝わってきた。
最初のレースに圧倒的な走者を投じるDクラスの狙いは分かりやすい。一番最初のレースで圧勝して、クラス全体の勢いを一気につけたいのだろう。
「位置について——」
審判の低い声とともに、8人の走者たちが一斉に姿勢を低くし、スターティングブロックに足をかける。トラックを包む周囲のざわめきが急速に静まり返り、澄んだ秋空の下にピンと張り詰めた静寂が広がった。
「用意——」
静寂が頂点に達した、その直後。
空気を切り裂くような甲高い号砲が鳴り響いた。
次の瞬間、Dクラスの須藤が凄まじい勢いで飛び出した。
地面を強く蹴り出す脚力。両腕を力強く振るたびにぐんぐんと加速していく。最初の10メートルで早くも他の7人を引き離し、独走状態に入っていた。
「速い……! 須藤がダントツじゃないか!」
白組の観客席からどよめきが起こる。
須藤は勢いを落とすことなく、後半も圧倒的なスピードを保ったまま1着でゴールラインを駆け抜けた。
「よっしゃあぁぁぁっ!!」
ゴール直後、須藤が天に向かって咆哮を上げる。
その圧倒的な走りと勝利は、狙い通りDクラスの陣営に大きな盛り上がりをもたらしていた。
「流石須藤といったところだな」
Dクラスのテントから湧き上がる歓声を横目に、俺は呟いた。
「すごい勢いでしたね……。あの速さは、かなりの脅威になりそうです」
隣で見ていたひよりが、驚きながら感想を漏らす。
確かに須藤の身体能力は1年生の中でも群を抜いている。だが、1組目で彼を出して勝つというのは、堀北たちが最初から考えていた作戦通りだろう。
最初のレースで勝って勢いをつけるというDクラスの作戦は、成功したと言ってよかった。
体育祭は始まったばかりだ。
レースは2組、3組とテンポ良く進み、勝敗は次々と入れ替わっていく。
力強い走りで順当に高得点を取っていくAクラスの運動部たち。
声を掛け合い、ミスなく上位に入って確実にポイントを稼ぐCクラス。
葛城の指示のもと、無理のないペースで確実な順位を守るBクラス。
そして、須藤の作った勢いに乗って健闘を見せるDクラス。
お互いの作戦と実力がぶつかり合い、トラックの上では目が離せない熱戦が続いていった。
やがて、アナウンスが次のレースを呼びかける。
『続いて、男子100メートル走、第6組目——該当の生徒は招集エリアへ集まってください』
「……さて、俺の出番のようだな」
俺はパイプ椅子から静かに立ち上がり、ジャージの裾を整えた。
ひよりがこちらを見上げ、穏やかな微笑みを向けてくる。
「行ってらっしゃい、美輝くん。応援しています」
「ああ、行ってくる」
短く言葉を交わし、俺は赤組のテントを後にして、熱気に満ちたトラック横の招集エリアへと足を進めた。
招集エリアに着くと、すでに6組目の走者たちが集まっていた。
その中の一人、Cクラスの柴田颯が、爽やかな笑顔でこちらへ歩いてくる。サッカー部らしい引き締まった体と軽やかな身のこなしだ。
「確か柊、だよな。よろしく、お互い全力を尽くして頑張ろうぜ!」
柴田は気さくに手を差し伸べてきた。俺もその手を握り返す。柴田の目には、爽やかさの中にも強いやる気が宿っていた。
サッカー部の中心人物であり、クラスのムードメーカーでもある柴田は、運動能力だけでなくその人柄の良さでも知られている。
「よろしく頼む、柴田。精一杯やらせてもらう」
「もちろん、お互い全力を尽くそうぜ!」
柴田の他にも、各クラスから足の速い生徒たちが集まっている。最初の須藤のようなケタ違いの相手はいないが、全体的にレベルの高い組みだった。
「男子100メートル走・第6組、各レーンに入ってください」
審判の指示に従い、俺は指定されたレーンへと足を進める。俺のレーンは第4レーン。すぐ隣の第5レーンには柴田が立っていた。
赤茶色のトラックを踏みしめ、スタートラインの前に立つ。硬いゴム底を通して、地面からの反発力がダイレクトに伝わってきた。
周囲を見渡すと、他クラスの走者たちもそれぞれ集中を高めている。Dクラスからは運動神経の良さそうな男子が一人、Bクラスからも力強い体格の男子が選出されていた。だが、このレースの最大の焦点が柴田であることは間違いない。
遠くのテントからは、各クラスの応援する声が聞こえてくる。白組のテントからは、一之瀬や神崎たちが柴田と俺の方を見ているのが見えた。
「位置について——」
審判のアナウンスが響き渡り、グラウンドの騒めきがすっと引いていく。
俺は深く息を吐き出し、スターティングブロックに両足をセットした。身体の重心を低く落とし、視線を数十メートル先のゴールラインへと据える。隣のレーンでは、柴田が軽やかに呼吸を整えているのが気配で伝わってきた。
「用意——」
トラックを包む張り詰めた静寂。筋肉が引き締まり、集中力が研ぎ澄まされていく。
号砲と同時に、俺はブロックを力強く蹴り出した。
ポリウレタンの反発力を足裏で感じながら、身体を起こし、腕を素早く振る。スタートダッシュは悪くない。
だが、すぐ隣で柴田が凄まじい反応速度で飛び出していった。
しなやかかつ力強いフォームで、柴田は瞬く間にトップスピードへと乗っていく。さすがはサッカー部のレギュラーと言うべき加速力だ。
俺は柴田のスピードに惑わされることなく、徐々に脚の回転を上げて加速を続けた。
50メートル地点。
柴田が半歩ほどリードを保ったまま先頭を走り、俺がすぐ斜め後ろの2位につけている。その後ろから、Bクラスの男子が必死の形相で喰らいついてきていた。
俺も自分の出せる最高速度を意識し、フォームの軸をブレさせずに前だけを見据える。風を切る音が耳元を掠め、地面を叩く自分の足音がトラックにリズミカルに響いた。そして俺は加速を一段と引き上げ、柴田とほぼ並び立つ形で残り二十メートルの地点へと突入した。
視界の端で、柴田が驚いたように一瞬目を丸くするのが分かった。サッカー部で培われた彼のしなやかな脚力は伊達ではなく、後半に入っても速度が落ちる気配はない。しかし、こちらも無駄な力みを一切削ぎ落とし、最短距離のフォームでスピードを維持しさらに柴田と競り合いながら、二人同時にゴールラインへと飛び込んだ。
身体を大きく前傾させ、ゴール板を駆け抜ける。
激しい息遣いとともに減速し、トラックの奥で脚を止めると、肺いっぱいに熱い空気が流れ込んできた。
「ハッ……! マジかよ柊、めちゃくちゃ速いな……!」
すぐ隣で膝に手を押し当て、荒い息を吐きながら柴田が驚きと感心の手応えを混じえた苦笑いを向けてきた。
「柴田こそ、噂通りのキレだった。最後の最後まで気が抜けなかったぞ」
俺が息を整えながら答えると、柴田は笑顔になって俺の肩をぽんと叩いた。
「いやあ、負けたよ! 僅差だけど、先に胸が入ったのは柊の方だ。参ったな、サッカー部としても鼻が高いとは言えないな」
審判の掲示板に表示された結果は、わずか数センチの差で俺が1位、柴田が2位。
第一レースの須藤のような圧倒的なタイムではないにしても、しっかりと最高配点のポイントをBクラスに持ち帰ることができた。
赤組のテントへと戻ると、ひよりが静かに拍手をしながら出迎えてくれた。
「お疲れ様です、美輝くん。素晴らしい走りでしたね。1位、おめでとうございます」
「ありがとう。柴田の追い上げが凄まじかったが、なんとか逃げ切れた」
「ええ、見ていてとても熱くなるレースでした。これでAクラスにも良い流れが来ますね」
ひよりの優しい言葉に頷き、冷たいスポーツドリンクを飲む。
ふとCクラスのテントの方へ視線を向けると、一之瀬と網倉がこちらに気づき、健闘を称えるように爽やかな笑顔で小さく手を振ってくれた。その隣では神崎や柴田が何事か楽しそうに言葉を交わしており、クラス全体が本当に良い空気感で機能しているのが見て取れる。
その後も、体育祭はテンポ良く進行していった。
女子100メートル走では、Aクラスのひよりが出走。運動が得意ではないと言っていた通り、結果は組の中で5位という控えめなものだったが、事前に示していた通り、無理をすることなく無事に走り切ってみせた。
一方、Cクラスの網倉や一之瀬、Aクラスの伊吹、Dクラスの堀北などといった女子生徒たちも、それぞれが自分の持てる力を遺憾なく発揮し、着実に上位へ食い込んでポイントを稼いでいく。
やがて100メートル走の全組が終了し、得点板には各クラスの獲得ポイントが速報値として映し出された。
1組目で須藤が圧巻のパフォーマンスを見せたDクラスが序盤の勢いを掴み、そこに龍園の強力な指示のもと肉体派が堅実に上位を占めたAクラスが肉薄する。
一方で、BクラスとCクラスからなる白組も決して遅れをとってはいなかった。Cクラスは一之瀬を中心にミスなく全員が上位入賞を重ね、Bクラスも葛城の手堅い配置と俺たちの着実なポイント回収によって、赤組と互角以上に渡り合っていた。
2種目目の競技はハードル競走。
ハードル競走は、単なる足の速さだけでなく、一定のリズムで障害物を超える集中力が求められる。ハードルを引っかければ0.3秒、倒せば0.5秒のタイムが加算されるため、スピード以上に正確さが大切な競技だった。
この種目には、俺が最初の組で走ることになった。
招集エリアへ向かうと、選手たちがストレッチをしていた。そこにはAクラスの金田悟、Dクラスの幸村輝彦や池寛治、そして白組の男子生徒たちの姿があった。
「柊氏、練習している姿を見かけたことがありますが、ハードルも得意そうですね」
そう声をかけてきたのは、眼鏡の奥の目を光らせたAクラスの金田だった。彼もまた、計算高く事態を見極めるタイプの生徒だ。
「得意というほどじゃない。倒すとタイムが増えるルールだから、スピードよりミスをしないことを一番に走るつもりだ」
「堅実な判断ですね。しかし、ただ完走するだけでは高得点は狙えませんよ」
金田は静かに笑うと、自分のレーンへと向かっていった。
隣のレーンでは、Dクラスの池が「よし、俺が須藤に続いて勢いをつけてやる!」と気合いを入れていたが、少し力みすぎているように見えた。幸村は真面目な顔でしっかりストレッチをし、呼吸を整えている。
「男子ハードル競走・第1組、位置について」
審判の合図で、俺たちは一斉にスタートラインについた。
目の前には等間隔でハードルが並んでいる。焦って無理に突っ込めば、一瞬で最下位になるリスクがあった。
「用意——」
静まり返るグラウンドに、緊張感が広がっていく。
ピストルの音が鳴り響いた瞬間、俺たちは一斉に飛び出した。
最初のハードルまでの数メートル。俺は歩数をしっかり計算し、踏み切るタイミングに集中する。高く飛びすぎず、ハードルのギリギリ上をかすめるように足を越えさせた。着地もスムーズにいき、そのまま次のハードルへ向けて加速する。
隣のレーンからは、バシャンと甲高い音が聞こえた。
気合いが入りすぎていた池が、足を持ち上げきれずに最初のハードルを派手に倒してしまったようだ。焦って姿勢を崩し、大きくタイムをロスしている。
一方、反対側の金田は無理のないペースで確実にハードルを飛び越えていた。スピードはそこまで出ていないが、ミスをしないことを優先した走りだ。幸村も真面目に練習してきたのか、引っかかることなく堅実に追ってくる。
俺は一定のリズムを保ちながら、一つずつ確実にハードルをクリアしていった。
倒せばペナルティでタイムが加算される。焦ってスピードを出すよりも、リズムを崩さずに走り切る方が結果的に速い。
最後のハードルを越え、そのままゴールラインへと駆け抜けた。
「1着、柊美輝——」
審判の声が響き、俺は息を整えながらスピードを落とした。一度も倒すことなく、無傷の1位でゴールすることができた。
「くそっ、最初で引っかかるなんて……!」
後ろからゴールした池が、倒したハードルを見て悔しそうに頭を抱えている。タイムが加算され、最下位になってしまったようだ。
「さすがですね、柊氏。スピードを落とさずにあの精度を保つとは、しっかり練習してきたのがよく分かります」
続いてゴールした金田が、眼鏡をかけ直しながら声をかけてきた。
「運が良かっただけだ。金田もノーミスだったな」
「ええ。ですが、タイムではあなたに及びませんでしたよ」
金田は静かに頷くと、俺たちは自分のクラスのテントへ戻っていく。
赤組のテントへ戻ると、ひよりが笑顔で迎えてくれた。
「お疲れ様です、美輝くん。ハードルも1位なんて、本当にすごいですね」
「ありがとう。引っかからずに走れてよかった」
「はい。とても綺麗なフォームで、安心して見ていられました」
渡されたスポーツドリンクを飲みながら、俺は次のレースに目を向けた。
その後もハードル競走はスムーズに進んでいった。
Dクラスは池のミスを取り返そうと他の走者が頑張り、Aクラスも運動が得意な生徒たちが上位に入ってくる。
白組も負けてはいない。Cクラスは声を掛け合いながら落ち着いて走り、着実にポイントを重ねていた。Bクラスもリスクを避けた走りで、しっかり上位を守っていた。
何事もなくハードル競走が終わり、グラウンド中央では次の競技に向けた準備が手際よく進められていた。
トラックの真ん中に、太く頑丈な木製の棒が二本、しっかりと垂直に立てられる。
次の種目は、男子全員による団体戦——「棒倒し」だ。
これまでの個人走とは違い、棒倒しはチーム全体の作戦と、激しい身体のぶつかり合いが勝利を分ける。ルールはシンプルで、相手チームの棒を先に一定の角度まで倒した方が勝ちとなる。
攻撃と守備に分かれるため、誰をどこに配置するかが勝敗の鍵を握っていた。
「おい、柊。攻撃はお前らクラスに任せたぜ」
声をかけてきたのは須藤だった。先ほどの100メートル走で見せた圧倒的な走りの興奮がまだ残っているのか、その瞳には強い闘志が宿っている。
「任された。須藤たちDクラスは守備の要として、棒を死守してくれ」
「おう、任せとけ! 俺たちがガッチリ守ってやるから、お前らは思い切って攻めてくれりゃいい!」
頼もしいニヤリ顔を見せ、須藤は自陣の守備担当エリアへと戻っていった。
棒倒しは、攻撃と守備の役割分担と連携がすべてを決める。
龍園や金田、平田たちと事前に話し合った作戦に従い、俺たち赤組の陣形が素早く整えられていく。
守備の要は、圧倒的な身体能力を誇る須藤を筆頭にDクラスが中心となり、頑丈な壁を作って一本の棒を囲み込む。
一方で攻撃陣は、パワーと強引さを持ち合わせたAクラスの山田アルベルトたちと、スピードと機動力のある男子生徒たちがチームを組み、相手の陣地へと一直線に突っ込んでいく陣形をとっていた。
グラウンドを挟んだ向こう側では、白組もすでに陣形を完成させていた。
白組の棒の周囲には、Bクラスの男子生徒たちが何重もの円を描くように身を寄せ合い、隙のない守備の陣地を築き上げている。その中心には、体格のいい男子たちがどっしりと腰を落とし、棒を垂直に支えていた。
攻撃陣では柴田や神崎といったCクラスの男子生徒が最前線に鋭い眼光で並び、一斉に突撃のタイミングを計っているのが見えた。
お互いの陣営から放たれる熱気がぶつかり合い、グラウンドの空気がピリピリと張り詰めていく。
「龍園、俺とアルベルトは別のルートから崩しにかかる。Bクラスの固い守備を真正面から打ち破るのは、さすがに骨が折れるからな」
「ククッ、好きにしろや柊。正面からは俺と石崎たちで力任せにブチ抜いてやるよ」
龍園は獰猛な笑みを浮かべ、首の骨を鳴らした。言葉通り、彼の後ろには勢いづいたAクラスの肉体派たちが勢揃いしている。荒々しくも強力な赤組の攻撃陣が、スタートの合図を今か今かと待ち構えていた。
「なあ、美輝。さっきお前とアルベルトは別ルートから攻めると聞いたけどよ、具体的にはどう動くつもりなんだ?」
話しかけてきたのは、同じAクラスの大地だった。荒々しく気合いを入れつつも、作戦の細部が気になるのか、少し不安そうに俺の顔を覗き込んでくる。
「それは始まってからのお楽しみだ、大地。お前たちは龍園の合図に合わせて、正面から全力でぶつかってくれればいい」
「おう、分かった! 正面は俺たちに任せておけ!」
大地は力強く拳を握り締め、龍園たちの待つ最前線へと走っていった。
「位置について——」
審判の合図とともに、グラウンド全体が静まり返る。
赤組の攻撃陣と白組の守備陣。両者が低い姿勢をとり、互いを鋭い目つきで見つめ合っていた。
「用意——」
静寂がピークに達した瞬間、空気を切り裂く大きな号砲が鳴り響いた。
「行けぇぇ叩き潰せっ!!」
龍園の咆哮と同時に、大地や小宮をはじめとする赤組の男子たちが、地響きのような足音を立てて突撃を開始した。
正面から激しくぶつかり合う両陣営。白組の守備陣も簡単には崩れない。Bクラスの男子生徒たちがしっかりと腕を組み、人間でできた頑丈な壁となって赤組の猛攻を押し返そうとする。
「押せ押せ! 絶対に通すな!」
「押し返せ! 棒を守り切れ!」
白組の守備からも必死の叫びが上がる。正面はまさに力と力のぶつかり合いとなり、凄まじい熱気に包まれていた。
その混乱の最中、俺とアルベルトは正面の激突から離れた右側のラインを静かに移動していた。
正面に意識が集中しているため、白組の側面のガードはわずかに薄くなっている。だがそれでも、棒の周囲を守る生徒たちの密度は高く、普通に突っ込んでも押し負けてしまうだろう。
「アルベルト、頼むぞ」
「Okey, Yoshiteru. Come on!」
アルベルトがその巨体をどっしりと沈め、大きな両手を組み合わせて台座を作った。俺は白組の防衛陣を観察しながら、助走のために数十メートル後方へと下がった。
正面では龍園や石崎たちが荒々しい声を上げながら、白組の強固な人垣に肉弾戦を仕掛けている。敵の注意のほとんどがその正面の激突に引きつけられている今が、この作戦の成否を分ける唯一の瞬間だった。
俺は人工芝の地面を力強く蹴って一気に加速した。一歩、二歩と歩数を重ねるごとにスピードが増していく。その助走の勢いを乗せたまま、前方へ大きく踏み込み、側転をするような軌道で空中で体を180度ひねり、3回連続のバク転の勢いを殺さず、アルベルトが差し出した両手の上へ正確に両足を乗せた。
「……Heave-ho!!」
アルベルトが腹の底から叫ぶと同時に、その丸太のような両腕が爆発的な筋力で一気に跳ね上がった。
脚の裏に押し出される強い衝撃を感じながら、俺は斜め上空へと高く体を跳ね上げる。人間砲弾のように高く舞い上がった視界の先には、白組が必死に守る木製の棒と、それを力任せに支えている男子生徒たちの頭頂部が広がっていた。
「なっ……空中から!?」
「上だ、上を見ろっ!」
白組の守備陣から悲鳴に似たどよめきが上がる。正面の力攻めに完全に気を取られていた彼らは、頭上から迫る想定外の脅威に反応が一歩遅れた。
空中へと投げ出された視界の中で、白組の守備陣の頭頂部がはっきりと見えた。
正面では、龍園や大地たちが力任せに白組の壁を押している。白組の意識が完全にそちらへ向いていたおかげで、上空からの突撃に対応できる者は誰もいなかった。
俺は空中で素早く体の体勢を整え、白組が支える木製の棒の先に狙いを定めた。重力に逆らうように空中に飛び出した身体を制御し、俺はそのまま落下しながら片足を木製の棒の先端に絡ませ、全体重を乗せたその一撃で、木製の頑丈な棒がギシリと重い音を立てて大きく傾いだ。
「しまっ……! 支えろっ、折られるな!」
白組の防衛陣から慌てた葛城の怒声が飛ぶが、すでに手遅れだった。正面の激突に意識を奪われていた彼らは、体勢を崩した棒を立て直すことができない。俺は棒に全体重を預けたまま、地面へと滑り落ちるように着地した。
「そのまま倒しちまえぇぇっ!!」
龍園の野太い号令に呼応するように、周囲にいた赤組の面々が一斉に勢いを強めて押し寄せる。アルベルトの圧倒的な突進力が再び加わり、白組の防衛ラインは完全に瓦解した。
俺が全体重をかけた斜め上空からの負荷に耐えきれず、白組の男子生徒たちの腕が次々と外れていく。支えを失った木製の棒は、赤組の激しい圧力に押し切られるようにして、グラウンドの人工芝へと向かって一気に倒れ込んだ。
『そこまで! 勝者、赤組!!』
審判の甲高い笛の音がグラウンド全体に鳴り響いた。
一瞬の静寂の後、赤組の陣営から爆発的な大歓声が巻き起こった。
倒れ伏した棒と、その周囲で歓喜の声を上げる赤組の生徒たち。グラウンド全体を揺らすような怒号混じりの歓声が、秋晴れの空にどこまでも響き渡っていた。
人工芝の上で軽やかに着地を決めた俺の隣に、地鳴りのような足音を立ててアルベルトが歩み寄ってくる。
「Good job, Yoshiteru. Perfect launch.」
「ああ、お前の適切なタイミングとパワーのおかげだ、アルベルト。助かった」
お互いに拳を軽く突き合わせると、後ろから追いついてきた大地や小宮が、目を見開いて俺たちの肩をバシバシと叩いてきた。
「おいおいおい! マジかよ美輝! 今のなんだよ、バク転からアルベルトにぶん投げられて空飛んだぞ!?」
「凄すぎるだろ! 映画のアクションシーンかと思ったぞ……! 白組の奴ら、上見上げて鳩が豆鉄砲喰らったみたいな顔してたぜ!」
「ククッ、上出来じゃねえか、柊。空中から飛び降りて棒をへし折るなんざ、イかれてるな」
龍園が意地の悪い笑みを浮かべながら近寄ってくる。その瞳には、俺たちの見せた破天荒な奇策に対する強い満足感が宿っていた。
白組の守備陣は、未だに信じられないといった様子で、倒れた棒と俺の顔を交互に見つめている。特に棒を支えていたBクラスの男子生徒たちは、何が起きたのか理解が追いついていない表情で呆然と立ち尽くしていた。
連続バク転で生まれる水平方向への運動エネルギーを、アルベルトの腕力によって一瞬で垂直方向の跳躍力へと変換する。理屈では成立するが、双方の完全なタイミングの同期と、空中でのブレない体幹がなければ不可能な芸当だった。
「柊くん、怪我はありませんか?」
赤組のテントへ戻ると、待機していたひよりが心配そうに駆け寄ってきた。プログラムを胸に抱えながら、俺の全身に視線を走らせている。
「ああ、問題ない。アルベルトが上手く台座になってくれたからな」
「本当に……見ているこちらが息を飲んでしまいました。まさかあんな方法で陣形を破るなんて……」
ひよりは胸に手を当て、安堵の息を吐いた。
「ですが、怪我がなくて本当に良かったです。美輝くんの無茶には、いつも心臓が縮む思いがします」
「悪い。心配かけたな、ひより。だが、これで赤組に大きな得点が入ったのは確かだ」
渡されたタオルで顔の汗を拭いながら、俺は得点掲示板に目を向けた。
棒倒しでの勝利により、赤組は一気に大量得点を獲得し、総合順位で白組を突き放しにかかっている。個人競技での着実な入賞に加え、団体競技でのビッグポイント回収。龍園の荒々しい牽引力と、俺たちの策が見事に噛み合った結果だった。
「ククッ、いい気味だ。白組の連中、すっかり出鼻を挫かれやがったな」
パイプ椅子に粗暴な動作で腰掛けた龍園が、脚を組みながら白組のテント陣営を嘲笑うように見つめる。
視線の先では、CクラスとBクラスの生徒たちが集まり、棒倒しの敗因を分析しているようだった。一之瀬が落ち込む男子生徒たちの肩を優しく叩き、次の種目に向けて励ましている。その隣で神崎が厳しい表情でノートをめくり、葛城もまた真剣な面持ちでBクラスの面々に短く指示を与えていた。
俺は静かに坂柳の方へ視線を送った。
Bクラスのテントの少し後ろに、彼女の姿があった。
坂柳は、優雅にパイプ椅子へ腰掛けている。両手でしっかりと握られた一本の杖が、彼女の存在感を静かに示していた。
トラックを挟んだこの距離からでも、彼女の視線がまっすぐに俺を捉えているのが分かった。
これまでの個人競技で俺たちAクラスの運動に自信がある面々が難なく結果を出しているのとは逆に、運動が苦手な生徒の枠に合わせて運動が得意なBクラスの生徒が配置されていることもあり、こちらの出場リストがBクラスに把握されていると見ておくべきだろう。
俺は坂柳から視線を外し、手元のスポーツドリンクのボトルに意識を戻した。
Bクラスの出走配置が、こちらの運動能力に乏しい生徒の枠へピンポイントに強力な選手をぶつけてきているのは偶然ではない。坂柳の手元には、こちらの出場リストが事前に渡っていると見るのが自然だ。いずれにせよ、彼女は現場に立たずとも、その明晰な頭脳で盤上を支配しようとしていた。
だが、いくらこちらの配置を読まれたところで、棒倒しで見せたような突発的な「規格外の現場判断」までを事前に完全に予測することは不可能だ。情報戦で有利に立つ坂柳と、圧倒的な個の力で押し切る龍園たちの赤組。
体育祭の中盤戦は、より高度な心理的駆け引きの様相を呈し始めていた。