部屋に入り、パチリと壁の薄汚れたスイッチを押し込むと、白々とした蛍光灯の光が鋭く室内を照らし出した。
ワンルームの限られたスペースには、あらかじめベッドや机、小型の冷蔵庫といった最低限の家具家電が機械的に配置されている。機能的ではあるが、生活感や温もりといったものは一切排除されており、どこか味気ない格安ビジネスホテルのシングルルームを連想させる空間だ。
「ふぅ……」
カバンを机の上に放り出し、途中のコンビニで買い込んできた日用品のビニール袋を床に下ろす。ベッドの端に腰を下ろすと、今日一日だけで仕入れることになってしまった膨大な情報と違和感が、澱(おり)のようにドッと頭の中に押し寄せてきた。
「Sシステム、か」
この学校の底流に不気味に潜む、あまりにも合理的で、かつ冷酷な構造。
『クラスポイント』と、俺たちの財布に直結する『ポイント』の奇妙な連動性。
一度決まれば3年間固定されるというクラスの壁。
そして、ペーパーテストの学力だけでは決して測れない「実力」という名の、形の見えない不気味な天秤。
天井の四隅を、寝そべるフリをしながらさり気なく見上げてみる。だが、流石にこの狭いワンルームのプライベートスペースにまで、あの忌々しい監視カメラの類は見当たらなかった。どうやら、生徒としての最低限のプライバシーの境界線だけは守られているらしい。そこだけは少しばかり安堵した。
ベッドからゆっくりと起き上がり、遮光カーテンを開ける。ガラス越しには、夜の帳が下りた高度育成高等学校の全景が一望できた。
遠くに見える巨大な商業施設『ケヤキモール』の派手なネオンがギラギラと輝き、まるで若者たちの物欲や欲望を際限なく煽るかのように、闇の中に妖しく浮かび上がっている。
「実力、ね……」
俺は窓ガラスに映る自分の顔をじっと見つめた。
もし、この学校の本当の目的が、社会の縮図をこの閉鎖空間に極限までシミュレートし、過酷な競争の中で『真に優秀な人材』だけを効率よく炙り出すことにあるのだとしたら、あの担任の言葉の意味も合点がいく。
だが、その疑問に対する正確な「答え合わせ」は、来月の1日になれば嫌でも判明する。
クラス同士が目に見えないポイントを競い合い、敗者は底辺へと降格し、勝者は頂点へと昇格する。
もし俺の推測が正しいとするならば、このシステムは「連帯責任」だ。クラスの誰かが問題を起こせば、その火の粉は平穏を望む俺の身にも容赦なく降りかかってくる。来月、もしクラスポイントが文字通り「ゼロ」にでもなる事態に備えて、今のうちにポイント以外の最低限の生活防衛策、あるいは収入源を確保しておく必要があるかもしれない
ゴミ出しの曜日や細かい分別ルール、深夜の騒音に対する注意、水道の使い過ぎや無駄な電気の使用を控えること――。記載されている内容は、まるで実家を出たばかりの大学生に向けたような、生活の基本事項ばかりだった。
だが、ここで一つ奇妙な点に気づく。
光熱費や水道代の項目には、使用上限や請求に関する具体的な記述が一切ないのだ。基本的には制限なし。ポイントから毎月天引きされるものかと警戒していたが、どうやらその心配はないらしい。
本当にこの学校は生徒のため、表面上はあらゆる手を尽くし、至れり尽くせりの万全なライフラインを用意してくれている……それが、余計に不気味極まりないのだが。
学校2日目、授業初日ということもあり、授業の大半は勉強方針等の説明だけだった。
実質的な授業初日ということもあり、午前中の授業の大半は、今後の学習方針やシラバスの確認といった説明だけで終わった。
教壇に立つ教師たちは、俺が想像していた規律に厳しい冷徹な面々とは程遠く、驚くほど明るくフレンドリーだった。大半の生徒たちが「なんだ、普通の高校と変わらないじゃん」と拍子抜けしたのが、あの瞬間の偽らざる教室の空気だったろう。
だが、案の定というべきか。
授業が進むにつれて、一部の生徒たちは緊張感を失い、堂々と私語を始め、机の下で隠しもせず携帯をいじり、果てはヨダレを垂らして眠りこける者まで現れ始めた。
教壇の教師がその様子に気づいていないはずがない。遮るもののない位置で、明らかに視線に入っている。にもかかわらず、教師たちはそれを見て見ぬ振りをするどころか、一切の注意すら行わなかった。
授業を真面目に受けるか受けないかは本人の自由であり、義務教育ではないのだから自己責任。それは一般論として通じる。だが、これでもし「クラスの品行」として裏でポイントを容赦なく減点されていたとしたら、たまったものではない。
「おい、静かにしろ」と、クラスを統率して注意してくれるようなリーダーシップのある人間がいてくれれば話は別なのだが、あいにく今のCクラスは誰もが我関せずの個人主義を貫いている。
そう授業をやり過ごしていると、ようやくお昼のチャイムが救いのように鳴り響いた。
弛緩した空気の中、教室内は一気に昼休みの喧騒へと包まれる。
生徒たちは思い思いに席を立ち、昨日今日で早くも顔見知りになった連中と固まって、賑やかに食堂へと消えていった。
ふと隣の席を見れば、銀髪を揺らす椎名が静かな動作で鞄から可愛らしい弁当箱を取り出していた。俺も同様に、購買で余計なポイントを使わないよう用意していた弁当を取り出し、机の上でお弁当包みを広げる。
「柊くん。午前の授業、どう思われましたか?」
お箸を半分ほど割ったところで、椎名がトーンを落とした声でそんな質問を投げかけてきた。彼女も、この教室の空気に違和感を抱いているらしい。
「義務教育じゃないとはいえ、あそこまで堂々と授業をサボっている奴らを全く注意しないのは、少しどころか、かなりの違和感だな」
「はい……。やっぱり、あの黒板の上の監視カメラが、何か関係しているのかもしれませんね」
彼女の紫の瞳が、チラリと黒板の上のレンズを捉え、すぐに俺へと戻る。やはり、彼女もあのカメラの視線を意識しているのだ。
『本日、午後5時より、第一体育館にて、部活動の説明会を開催いたします。部活動に興味のある生徒は、第一体育館の方に集合してください。繰り返します。本日ーー』
校内スピーカーから、いかにも放送部らしい、可愛らしくも澄んだ女子生徒の声でアナウンスが流れ、教室の雑音を掻き消した。
「椎名はどこの部に入るのか?」
「そうですね……中学の時は茶道部に入っていましたので、もしこの学校にもあるなら、見学に行ってみるかもしれません。柊くんは?」
「部活動自体には少し興味はあるが、俺はパスかな。しばらくは静かに学校の様子を見ておきたい」
「そうですか。柊くんらしいですね」
椎名は小さく上品に微笑むと、それ以上は追求せずにお弁当を食べるのを再開した。
放課後は、少し忙しくなりそうだ。部活説明会に皆が夢中になっている隙に、校舎内をくまなく探索するとしよう。校舎の構造、監視カメラの正確な位置、そして何より「上級生のクラスの雰囲気」をこの目で把握しておきたい。
そんな算段を頭の中で組み立てながら、俺は椎名と他愛のない雑談を交わしつつ、食事を進めた。
放課後。
予想通り、大半の生徒たちが群れをなして体育館へと向かう中、俺は一人、逆行するように静まり返った校舎内を巡っていた。
それにしても、歩けば歩くほど、設置されている監視カメラの異常な多さに驚かされる。
防犯の域を完全に超えている。監視カメラが設置されていない場所は本当に存在しないのか。また、万が一の時にカメラの死角となりそうな場所をあらかじめ把握しておくため、俺は小さなノートを片手に廊下を歩き、ひたすら壁と天井の接合部に鋭い視線を走らせていた。
校舎の構造、廊下の曲がり角の角度、非常階段の暗がりの配置。
それらと、監視カメラのレンズが物理的に向いている「画角」を脳内で立体的に重ね合わせ、パズルのピースを埋めるように、死角となる極めて狭いスポットをノートに書き留めていく。
探索をさらに進めるうちに、俺はいつの間にか上級生の教室があるフロア――すなわち「先輩たちのテリトリー」へと足を踏み入れていた。
授業を終えた上級生たちが、放課後の廊下を行き交っている。俺は新入生であること、そしてCクラスという身分を隠すように、ごく自然な先輩風の足取りを意識しながら、各教室の入り口に掲げられたプラスチック製のプレートへと、視線だけを素早く巡らせる。
2年Aクラス、2年Bクラス、2年Cクラス、2年Dクラス。
そして、さらに上の3年のフロアも同様のアルファベット順の並びになっていた。
廊下をゆっくりと歩きながら、俺は上級生たちの様子を細部まで観察した。
廊下を歩きながら、俺は上級生たちの様子を観察した。
2年、3年の上位クラス――特にAクラスやBクラスの教室前を通ると、放課後だというのに室内に残って熱心に教科書を開いて議論を交わしている生徒や、整然とした態度で談笑している生徒が目立つ。彼らの制服の着こなしはシワ一つなく端正で、廊下ですれ違う際も、その佇まいからはある種の知的な品格と、この学校で勝者を維持しているという強い自負が感じられた。
だが――ある教室の前で、俺の足がピタリと止まりかけた。
2年Dクラス。
その教室の、窓越しに見える「机の数」が、明らかに他のクラスと比べて少なかったのだ。
不審に思った俺は、廊下の窓ガラスに映る前髪を直すフリをしながら、窓の反射越しに2年Dクラスの教室内をより深く、慎重に観察した。
気のせいではない。空席が目立つというレベルを超えている。机と椅子のセットそのものが、他のクラスに比べて物理的に、確実に少ないのだ。
入学当初はどのクラスも一律で40名でスタートするはず。ならば、この数年の間に生まれた「物理的な空白」は何を意味しているのか。
脳裏に浮かんだ、ある最悪の単語に、指先が微かに冷たくなる。
俺はこれ以上このフロアに長居するのは無用、かつ危険だと判断し、ごく自然な動作で踵を返し、新入生のフロアへと戻ることにした。
必要な情報は十分に手に入った。学生寮へ帰宅しようと、校舎の昇降口を出て並木道を歩いていると、背後から突然、快活な声で呼び止められた。
「おーい! 確か、同じクラスの……柊だよな!」
振り返ると、そこには見覚えのある顔があった。
「確か、同じクラスの……石崎、か」
「そうそう! さっき部活動の説明会が終わって帰るところ、お前を見つけたから声をかけたんだ!」
「そうか。わざわざどうも。俺は柊美輝」
「おう! 俺は石崎大地だ。よろしくな、柊!」
白い歯を見せて笑う石崎から手を差し出され、俺はその手をしっかりと握り返した。
「石崎、か。よろしく」
差し出された石崎大地の手は、ゴツゴツとしていて荒く、そして力強かった。
教室で最初に見かけた時は、その鋭い三白眼とガタイの良さから、いわゆる「柄の悪い不良生徒」の筆頭候補として警戒していたのだが、いざこうして言葉を交わしてみると、拍子抜けするほど開けっぴろげで人懐っこい距離感の男だった。
「柊は、もう寮に帰るところか?」
「ああ」
「そうか! だったらタイミングいいじゃん、一緒に帰ろうぜ」
「ああ、構わないよ」
夕日に照らされる通学路を、俺と石崎は他愛のない雑談を交わしながら並んで歩く。
やがて男子寮に到着し、エントランスを抜けてエレベーターに乗り込んだ。密室になった途端、石崎がニヤニヤとした笑みを浮かべ、身を乗り出してきた。
「なぁなぁ、ぶっちゃけさぁ、柊って隣の椎名と付き合ってんの?」
密室のエレベーター内に、とんでもない角度の質問が放り込まれた。
「……いや、付き合ってないが。何故そう思うんだ?」
「だってよぉ! お前ら昨日、一緒に楽しそうに図書館に入っていくの見たぜ? それに今日の昼休みだって、二人きりでなんか小難しそうな話してただろ。本当に付き合ってねぇのか〜?」
肘でつつくように、ニヤニヤとからかってくる石崎。高校生ともなれば、こうした色恋沙汰に過敏になるのは自然な流れか。
「本当に、共通の読書の趣味があって話が盛り上がっただけだよ。椎名とは昨日知り合ったばかりだし、そんな大層な関係じゃない」
「読書の趣味、ねえ……。ま、柊がそこまで言うなら信じるけどよ。でもさ、椎名ってぶっちゃけクラスの中でもめちゃくちゃ可愛いじゃん? 狙ってる奴、他クラスも含めて結構いると思うぜ。お前もボサッとしてると、あっという間に誰かに取られちまうかもな!」
石崎は、親しみを込めて俺の肩を軽く小突いた。
取られる、か。
そもそも付き合っているわけでもないし、彼女にとって俺は「本の話ができる都合のいい同級生」の域をミリ単位も出ていないだろう。
だが、石崎の言葉の裏にあるクラス内の微妙な人間関係の動き――誰が誰を意識しているか、といった思春期特有の人間力学を把握しておくことは、今後のクラス全体のパワーバランスを読み解く上で決して無駄にはならない。
まあ、椎名のような可憐で知的な美少女と付き合えたら男冥利に尽きるだろうが、悲しいかな、現実はただの読書仲間に過ぎない。
チーン、という無機質な電子音と共にエレベーターが3階で停止し、石崎は軽快な足取りで降りていった。
「じゃっ、また明日な、柊!」
「ああ、また明日」
一人残された静かな箱の中で、俺はゆっくりと肺の空気を吐き出す。
石崎大地。見た目は絵に描いたような直情型の不良に見えるが、裏表がなく、懐にうまく飛び込みさえすれば、意外と扱いやすい単純なタイプかもしれない。
自分の部屋がある4階に到着し、静まり返った廊下を進んで410号室の電子錠を解錠する。
昨日と全く同じ、温みのない白々とした蛍光灯の光。俺はカバンを床に置き、制服のままベッドにドサリと仰向けに横たわった。
「……空席の謎」
天井を見つめ、ゆっくりと目を閉じる。
すると、放課後の探索で目撃した、あの異様な2年Dクラスの光景が脳裏に焼き付いて離れなくなる。
他クラスに比べて、明らかに物理的な机と椅子の総数が少なかった。
入学当初は一律で40人前後だと仮定して、進級する過程でこれほどの「空白」が生まれる理由。
導き出される論理的な可能性は、一つしかない。
――退学者だ。
この学校は、ただルールを破ってポイントがゼロになり、もやしを食べて貧乏生活を送るだけの、そんな生ぬるいお遊びの環境ではないのだ。
実力が最底辺に達した者、あるいは学校の規律を著しく逸脱した愚者には、容赦なく「退学」という名の社会的処刑が執行される。だからこそ、あの歪な空席が存在する。
そして、その退学のトリガーを引く要素に、俺たちが今まさに教室内で犯している授業中の不真面目な態度やスマホいじりがリアルタイムで含まれているとしたら。
あの緩みきったCクラスの光景は、もはや集団自殺のカウントダウン、あるいは蟻地獄の底へ自ら滑り落ちているに等しい。
天井の無機質な白を見つめながら、俺はシーツの上で拳を強く握りしめた。
まずは来月、1日のポイント支給日。
そこですべての仮説は証明され、この学校の真実の幕が上がる。
読んでいただきありがとうございます。誤字やおかしな点がありましたら感想欄で教えてください。