ようこそ凡人がいく実力至上主義の教室へ   作:神威 

5 / 32
第4話 水泳

 入学式という一大イベントから一週間が経過し、俺はようやくこの高度育成高等学校での奇妙な学校生活に、体感として慣れ始めていた。

 だが、ある日の朝、教室の引き戸を開けて一歩足を踏み入れた瞬間、俺の肌はいつもと明らかに違う不穏な空気――いや、もっと俗っぽい違和感を敏感に察知した。

 教室内が、妙に騒がしい。

 普段ならこの時間、まだ半分も席が埋まっていないはずの男子たちが、どういう風の吹き回しかほぼ全員が揃っており、揃いも揃ってソワソワと上機嫌に浮き足立っている。

 いつもなら遅刻スレスレのチャイム直前に気だるそうに登校してくるはずの石崎やその取り巻き連中までもが、今日に限っては信じられないほどの早登校を決めていた。

 そしてさらに言うなら、そんな男子たちの様子を冷ややかに見つめる女子たちの視線が、まるで地面に落ちた生ゴミを見るかのように、どこまでも冷たく、かつ軽蔑に満ちていた。

 

「あっおはよう柊!」

 

 教室の入口で立ち往生しかけていた俺に気づき、石崎がいつもより3オクターブほど高い元気な声で挨拶を飛ばしてきた。その妙なテンションに若干引き気味でいると、最近になってようやく言葉を交わすようになった小宮と近藤の二人も、何やらニヤニヤとした卑屈な笑みを浮かべながら近づいてきた。

 

「お、おう。おはよう……。いつもは遅刻の瀬戸際を綱渡りしているお前らが、随分と早いお出ましだな。何か良いことでもあったのか」

 

 俺の問いかけに、石崎は「お前、マジか?」とでも言いたげな呆れた目を向けてきた。そして、周囲を警戒するように素早く首を振ると、わざわざ俺の耳元にまで顔を近づけ、周囲の女子に聞こえないよう、蚊の鳴くような声で囁いた。

 

「おいおい、柊。お前まさか、今日の時間割に『水泳の授業』が入ってるのを忘れてるんじゃねぇだろうな?」

「……あぁ、水泳、か」

 

 石崎のその言葉を聞いた瞬間、俺は思わず天井を仰ぎそうになった。

今日の男子たちの異常なテンションの高さと、女子グループから放たれている絶対零度の視線の正体が、一瞬にして完璧なパズルとなって脳内で噛み合った。

 要するに、女子のスクール水着姿を堂々と拝めるという、どこまでも脳内ピンクな不純極まりない動機だけで、この直情径行な野郎どもは朝から一丸となって色めき立っていたわけだ。

 

「おいおい柊、そんな冷めた顔すんなって。お前、まさか健康な男子高校生として興味がありませんなんて聖人君子な寝言、抜かすんじゃねぇだろうな?」

「いや……男として、全く興味がないと言えば、そりゃあ大嘘になるがな」

 

 俺が苦笑交じりに肩をすくめて返すと、石崎は「だろ!?」と待ってましたとばかりに、嬉しそうにガシガシと俺の背中を力任せに叩いてきた。後ろに控えていた小宮と近藤も、「そうこなくっちゃな」と言わんばかりの下俗な笑みを浮かべて深く頷いている。

 

「ただな、健康的な男子高校生として水泳の授業自体を楽しむのは大いに結構だが……お前ら、声を潜めているつもりでも挙動が怪しすぎて、女子に魂胆が筒抜けだぞ。そりゃあんな目で見られるわけだ」

 

 俺が視線で教室内の一角を示すと、石崎たちはハッとしたように慌ててその先を追った。

 女子席の中心に陣取っているのは、持ち前の気の強さで早くもクラスの女子グループの主導権を握りつつある少女、真鍋志保だ。彼女は腕をきつく組み、その不愉快さを隠そうともせず、鋭い眼差しで石崎たちを射殺さんばかりに睨みつけていた。

 

「……お、おう。助かったぜ、柊」

 

 石崎は居心地悪そうに首をすくめ、小宮と近藤もバツが悪そうに視線を泳がせながら、そそくさと自分たちの席へと散っていった。

 嵐のような三人を視線で見送りながら、俺は自分の席へと腰を下ろした。

 ふと隣の席へ視線を向けると、そこにはいつも通りの穏やかで瑞々しい静謐さを纏った椎名が、周囲の喧騒などどこ吹く風といった様子で、すでに愛読書の世界に没頭していた。

 

「おはよう、椎名」

「あ、柊くん。おはようございます」

 

 椎名はゆっくりと本から顔を上げると、まるで満開の桜が一斉に咲き誇るような、屈託のない笑みを浮かべた。

 周囲の男子たちの下品な熱気も、女子たちの刺々しい視線の応酬も、彼女の耳には一切届いていない。まさに完全なるマイペース。この浮世離れした雰囲気が、今の俺にはたまらなく救いだった。

 

「今朝は皆さん、随分と賑やかですね。何か特別な行事でもあるのでしょうか?」

「……いや、ただの体育の授業だよ。男っていうのは、良くも悪くも単純で、予測しやすい生き物なんだ」

「ふふ、そうなのですか? よく分かりませんが、柊くんが今朝も元気そうで何よりです」

 

 どうやら読書に全ての意識を持っていかれていた彼女は、男子たちが騒ぎ立てている本当の理由には1ミリも気づいていないらしい。そのあまりにも純粋な反応に、俺は心底安堵して密かに胸を撫で下ろした。もし万が一、彼女にまであの「ゴミを見るような目」を向けられたら、俺のメンタルは一瞬で崩壊していただろう。

 

 

 そして、迎えた運命の体育の時間。

 五月の青く澄み渡った空の下、校舎の裏手にある最新の防音・調温設備が整った屋内プールへと、俺たちCクラスの面々は集まっていた。

 

「うおぉ……すげぇな、これ温水プールかよ。公立の高校じゃあり得ねぇ設備だな、流石は高度育成」

 

 男子生徒の数人が、贅沢な造りに声を弾ませて歓声を上げる。天井のガラス張りから差し込むまばゆい太陽光が、青く透き通った水面に乱反射し、まるでリゾートホテルの高級プールのようだ。

 水質も完璧に管理されているらしく、底までクリアに見通せる。これなら雨風に左右される心配も一切ない。

 だが、そんな設備以上に男子エリアで異彩を放っていたのが、ハーフの男子生徒、山田アルベルトの圧倒的な肉体だった。

 このCクラスには体格の良い、ガタイの優れた奴がちらほらいるが、彼だけは明らかに比ではないほどの「筋肉の鎧」を全身に纏っていた。身長は190センチメートルを優に超えているだろうか。ただそこに無言で立っているだけで、まるで重戦車がプールサイドに駐めてあるかのような、恐るべき物理的威圧感を放っている。

 石崎や小宮も同年代に比べればかなり引き締まった身体をしているが、アルベルトの横に並んでしまうと、さながら大人と子供だった。

 山田アルベルト。制服を着ている時以上に、水着姿になった彼の肉体は異次元そのものだ。

 褐色がかった肌にしなやかに刻まれた、ミケランジェロの彫刻を思わせる筋肉の陰影。彼が軽く肩を回すだけで、背中の広背筋が生き物のように不気味に蠢く。

 お世辞にも治安が良いとは言えないこのCクラスにおいて、喧嘩っ早いはずの石崎たちが、なぜ彼に対してどこか一目を置いているのか、その理由がこの瞬間に完璧に理解できた。あの質量から放たれる拳に殴られれば、常人ならひとたまりもない。

 

「おいおい柊、アルベルトのケツに見惚れてんじゃねぇよ」

 

 いつの間にか隣に滑り込んできた石崎が、ニヤニヤと下卑た笑みを浮かべながら俺の脇腹を軽く肘で突いてきた。

 

「見惚れているわけじゃない。単純に、同じ生物としてのスペック差に圧倒されているだけだ。あの体格を前にして平然としていられる方がおかしい」

「違いねぇ! あいつのパワーはマジで化け物だからな。だがよ、俺たちが今本当に見るべきなのは、男の暑苦しい筋肉じゃなくて、あっちだろ?」

 

 石崎が顎でクイと促した先――女子更衣室の重い扉が開き、Cクラスの女子生徒たちが次々とプールサイドへと姿を現した。

 その瞬間、男子エリアの空気は一瞬にして静まり返り、何人もの野郎どもが同時に唾を飲み込む音が重なった。

 学校指定の紺色のスクール水着。しかし、そのデザインは無骨な一昔前のものとは違い、機能性を重視しながらも、現代的な身体のラインに沿った美しいカッティングが施されていた。それが、年頃の少女たちの瑞々しい肢体を否応なしに引き立てている。

 

「……おいおい、最高かよ、おい」

 

 小宮が震える声でそう漏らし、隣の近藤も食い入るように視線を固定している。

 そんな男たちの獣じみた視線を鋭く察知した真鍋志保は、「チッ」とプールサイドに響くほどの露骨な舌打ちをして見せた。非常に怖い。

 その般若のような視線に、石崎たちは慌てて空を見上げて目を泳がせる。

 そんな男たちの狂乱から少し遅れて、一人の少女が静かに、おっとりとした足取りでプールサイドへと歩み出てきた。

 椎名ひよりだ。

 彼女が纏う雰囲気は、周囲の女子たちとは明らかに一線を画していた。

図書室の蛍光灯の下で見せる儚げな姿とも、教室で見せる笑顔とも違う。プールサイドに反射する水色の光が、彼女の透き通るような白い肌を、まるで最高級の大理石のように神秘的に美しく照らし出していた。

 綺麗な銀髪は水に濡れるのを防ぐため、後ろで緩く一つにまとめられており、彼女は所在なさげに細い指先でその毛先をいじっている。華奢な肩口からすっと伸びる鎖骨のラインは驚くほど繊細で、触れたら簡単に折れてしまいそうなほどの儚さがあった。

 

「なぁ柊……椎名ってさ、普段ゆるい制服着てるから分かんなかったけど、結構……その、スタイル良いんだな」

 

 隣にいた石崎が、耳まで真っ赤にしながら、どこか気まずそうに、しかし視線は一切外さずに限界まで声を潜めて呟いた。

 確かに、彼女はスレンダーではあるが、貧相な印象は全くない。女性らしく均整の取れた、非常に美しいシルエットをしていた。だがそれ以上に、彼女自身が放つ圧倒的な「透明感」が、この生々しいプールサイドという世俗的な空間を、まるで聖域のように変えてしまっていた。

 

「――柊くん?」

 

 ふいに、椎名がこちらの視線に気づき、紫の瞳をまっすぐに向けてきた。

そして、少し恥ずかしそうに両腕をごく自然な動作で胸の前で交差させながら、トテトテと小さな歩幅でこちらへと歩み寄ってくる。

 

「……あの、変、でしょうか? あまり、このような薄着の格好を大勢の前で晒すのは、あまり慣れていなくて……」

 

 上目遣いで、微かに頬を桜色に染めながら不安げに問いかけてくる。その一挙手一投足の破壊力たるや凄まじく、隣で直撃を食らった石崎が「うぐっ」と謎の短い悲鳴を漏らして卒倒しかけていた。

 

「いや、全然変じゃない。すごく……似合っていると思う」

 

 俺が一切のお世辞を排除して本音を口にすると、椎名は一瞬だけパッと表情を明るく輝かせ、それからさらに赤みを増した顔で、本当に嬉しそうに微笑んだ。

 

「ありがとうございます。柊くんも……その、とても引き締まった、綺麗な体をされていますね。普段から何か、運動をされているのですか?」

「まあ、人並みには、な。基礎体力作りというか、最低限のトレーニングくらいは欠かさないようにしているんだ」

 

 実際、俺の身体は山田アルベルトのような規格外の重戦車型ではない。だが、一切の無駄な脂肪を極限まで削ぎ落とし、実戦での俊敏性と持久力を担保するために鍛え上げられた、しなやかで均整の取れた筋肉が付いていた。

 椎名の鋭く聡明な観察眼は、そんな俺の体つきの不自然なまでの完成度を、無意識のうちに見抜いているのかもしれなかった。

 

「よーしお前ら、ふざけてないで集合しろ!」

 

 プールサイドに響き渡った、体育教師の鼓膜を破らんばかりの野太い声が、俺たちの対話を遮った。

 教師は首から下げたホイッスルを鋭く鳴らし、生徒たちを出席番号順に素早く並べ替えていく。

 

「見学者が随分と多いようだが、まぁ初日だし、体調不良なら仕方ないだろう」

 

 明らかにただサボりたいだけの見学者も数人混じっていたが、教師は特に深く追求することなく、緩い態度でスルーした。

 

「早速だが、準備体操を終えたらまずはお前たちの実力を見たい。50メートルほど、泳いでもらうぞ」

「あの、先生。俺、実は金槌で、あんまり泳げないんですけど……」

 

 一人の男子生徒が不安そうに手を挙げた。

 

「心配するな。俺が担当するからには、夏が終わるまでには全員必ず泳げるようにしてやる。安心しろ」

「別に泳げるようにならなくて良くないですか? どうせ海なんて行かないし、この学校から出られないんだし」

「そうはいかん。泳ぐという行為は全身運動であり、自己防衛の基本だ。泳げるようになっておけば、今後の学校生活で『必ず』役に立つ。必ず、だ」

 

 それは泳げるようになれば日常生活や将来何かと役に立つのは当たり前だ。だが、この男は今、やけに必ず役に立つという言葉のニュアンスを強調しなかったか。

 この、全てが実力とポイントで支配された学校の教師がそう断言するということは――おそらく、この夏休みの期間中、あるいはその前後に「水泳能力」が直接関わってくる特殊な試験、あるいはイベントが用意されていると見て間違いなかろう。

 そうした疑念を頭の隅にストックしつつ、全員で念入りに準備体操を始める。

 その後、まずは様子見として50メートルほど各自のペースで流して泳ぐよう指示された。泳げない生徒は、コースロープを掴むか、底に足をつけながらでも構わないとのことだった。

 去年の夏以来となるプールに、ゆっくりと身体を沈める。

 水温は適切に管理されており、肌に触れるひんやりとした感覚が、すぐに熱を持った身体へと心地よく馴染んでいった。

 コースに沿って軽く、無駄のないストロークで泳ぎを確かめる。

 50メートルを軽く往復してプールサイドに上がると、すでに泳ぎ終えていた椎名が、濡れた銀髪を拭いながら声をかけてきた。

 

「柊くん、すごく綺麗に泳がれていましたね。フォームに全く無駄がなくて、とてもスムーズでした。もしかして、昔スイミングスクールにでも通われていたのですか?」

「いや、スイミングスクールには通ったことはないよ。ただ……身近に、ものすごく教え方の厳しい、いや、むしろスパルタな人がいてな。その人に嫌というほど叩き込まれたんだ」

 

 思い出すのは、去年の夏、とある人里離れた海での地獄の訓練だ。

 その人の狂気じみた指導のおかげで、どんな荒波でも溺れる心配は皆無になったが、正直あまり思い出したくないトラウマに近い思い出だ。とはいえ、こうして技術として身についていることには感謝しなければならないだろう。

 

「よし、とりあえず全員の泳力はだいたい把握した。大半の者は最低限泳げるようだな。では、早速だがここから競争をしてもらう。男女別、50メートル自由形だ」

「きょ、競争ですか!?」

「ただの競争じゃないぞ。それぞれのレースで1位になった生徒には、担任への報告を経て、学校から特別ボーナスとして『5000ポイント』を支給しよう。逆に、一番遅かった奴には、連休返上で地獄の補習を受けてもらうから覚悟しろよ」

 

 その瞬間、泳ぎに絶対の自信がある一部の生徒たちから大歓声が上がり、逆に運動が苦手な生徒たちからは絶望の悲鳴が上がった。

 なるほど。これがこの学校のやり方というわけか。

 社会に出れば、成果を上げた者にはインセンティブやボーナスが与えられ、成果を出せない者は減給、あるいは容赦なく淘汰される。今のうちからその残酷な資本主義の予行練習をさせようということだろう。

 ともあれ、最下位だけは絶対に回避するように頑張ろう。

 まずは男子の部からスタートする。女子たちはプールサイドに腰を下ろし、冷えた水に足を浸しながら観戦の体制に入った。

 最初の組に割り当てられた俺は、外側の1コース。その隣の2コースには、クラスの不穏分子の筆頭であり、常に不遜な態度を崩さない男、龍園翔が不敵な笑みを浮かべて立っていた。そのさらに奥には、闘志を燃やす石崎の姿もある。

 全員がスタート台に足をかけ、前傾姿勢を取る。

 直後、静まり返ったプールサイドに教師のホイッスルが鋭く鳴り響いた。

 その瞬間、全員が一斉にスタート台から水面へと飛び出す。

 周囲の男子たちは、5000ポイントという目の前のエサと、女子からの視線を意識してか、物凄い勢いで水飛沫を上げて突き進んでいく。

 俺は自分の本来のスペックを完全に晒すような真似は避けつつ、目立たず、かつ「補習対象」にならない絶妙なラインを計算しながら、滑らかに泳ぎきった。

 結果、俺は全体の5位。

 案の定、中学時代に水泳部に所属していたという実績のある男子生徒が、圧倒的なタイムで1位をもぎ取っていった。

 何はともあれ、最下位を余裕で回避できたことに、俺は静かに安堵の息を吐いた。

 男子のレースが全て終わり、次は女子の番だ。

 男子生徒たちがプールサイドへ引き上げ、代わりに女子たちがスタートラインへと並ぶ。

 しばらくして、スタートの合図とともに女子たちが一斉に水面へと飛び込んだ。

 水飛沫が舞う中、俺は自然と4コースを泳ぐ椎名ひよりの姿を目で追っていた。

 彼女は決して速くはないが、丁寧で綺麗なフォームで中盤をキープしていた。

 しかし、35メートルを過ぎたあたりで、彼女の優雅な動きが突如として不自然に乱れた。

 

「……っ!?」

 

 水面から上がった彼女の顔が、苦痛に歪んでいる。

 水を激しく掻こうとするが、身体が思うように浮いていない。彼女の身体が、水飛沫とともにじわじわと水面下へと沈み始めようとしていた。

 まずい、溺れている。足が動いていない。

 周囲の生徒や教師は、まだレースの展開や他のレーンに目を奪われており、その異変に気づいていない。

 状況を判断するよりも早く、俺の身体は動きプールへと飛び込んだ。

 静まり返ったプールサイドに、一際大きな入水音が響き渡る。

「おい、柊!?」という背後の石崎の驚く声を聞き流しながら、俺は水中で目を開け、椎名との距離約20メートルを全力のクロールで突き進んだ。無駄のない、しかし圧倒的な推進力。

 数秒とかからず彼女のもとへと到達した俺は、もがく椎名の背後からすっと身体を滑り込ませた。

 溺れる人間は救助者にしがみついて共倒れになるのが常だが、俺は冷静に彼女の腰に手を回して身体を浮かせ、彼女の細い腕を自分の首に回させて、気道を確保するようにしっかりと支え込んだ。

 

「大丈夫か、椎名」

「は、ひ、柊くん……? すみません、急に、足が……」

 

 完全に水を飲み込む前に引き上げられたことで、彼女は激しく咳き込みながらも、必死で俺の肩にしがみついてきた。

 水越しにダイレクトに伝わってくる、彼女の細く、そして驚くほど柔らかい身体の感触。胸元がぴったりと密着し、彼女の小さくも速い鼓動が俺の胸へと直に伝わってくる。

 思春期の男子として、心臓が爆発しそうなほどの動悸が襲ってきたが、それを必死で無表情(ポーカーフェイス)の裏に隠し、俺は彼女を抱えたまま、ゆっくりとプールサイドの縁へと泳ぎ着いた。

 周囲の生徒たちも、ようやく事の重大さに気づいて騒ぎ始めている。

俺は椎名の軽い身体をプールサイドへと引き上げ、自分も水から上がって、彼女の隣に膝をついた。

 

「椎名、足が吊ったな。対処法は分かるか?」

「は、はい……。でも、痛くて、自分では上手く力が入れられなくて……手伝っていただけますか?」

「……分かった。すまん、少し触るぞ」

 

 断りを入れてから、俺は彼女の細く濡れた足首を両手で包み込んだ。

驚くほど冷たく、そして滑らかな肌の感触に指先が少し震えそうになったが、それを理性で抑え込む。吊っている側の足のつま先をしっかりと掴み、彼女の身体の方に向けてゆっくりと、しかし確実に引き寄せるようにして、縮こまったふくらはぎの筋肉を優しく伸ばしていく。

 

「くっ……ん……」

 

 痛みに耐えるように、椎名は小さな声を漏らして微かに眉をひそめた。こればかりは我慢してもらうしかない。

 数十秒ほどじっくりと伸ばし続けると、こわばっていた筋肉が次第に解け、彼女の呼吸も次第に安定していった。

 

「――柊くん、本当に、ありがとうございます。私を助けてくださって……」

 

 まだ痛みの余韻で少し顔を顰めながらも、彼女は俺を見上げて、心からの深い感謝を込めた笑顔を浮かべた。その健気な姿に、俺は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

 

「いや……椎名が無事で、本当に何よりだ。大事に至らなくて良かった」

 

 本当に焦った。

 『今は』、極力目立つような行動は避けておく必要があった。だが、彼女が水に沈みかけた瞬間、そんな計算の思考は綺麗さっぱり消し飛んで、身体が勝手に動いていた。

 ようやく事態を把握した体育教師が、大慌てで駆け寄ってきて「大丈夫か!?」と状況を確認してくる。

 俺は「足が吊っただけです。しばらく休めば大丈夫だと思います」と冷静に説明し、椎名をプールサイドのベンチへと移動させて休ませることにした。

 

「おいおいおい、やるなぁ柊! お前、さっきの救出劇、マジでめちゃくちゃ格好よかったぞ!」

 

 授業終了後、更衣室に戻る廊下で、石崎が興奮した様子で俺の首に腕を回してきた。

 

「どういたしまして。溺れているクラスメイトを助けるのは当然だろ」

 

 そう冷たく返したが、彼のにやけた表情には少しばかりイラッとさせられた。

 

「それにしてもよ、お前さぁ。最初の男子の競争の時、絶対手を抜いてただろ? あの飛び込みからの泳ぎ、水泳部の奴より速かったんじゃねぇか?」

 

 石崎の鋭い突っ込みに、俺は一瞬だけ言葉を詰まらせたが、すぐに肩をすくめて誤魔化した。

 

「……そこは、あれだ。クラスメイトが溺れかけていたからな。いわゆる、火事場の馬鹿力というやつだよ」

「ふーん? クラスメイトねぇ。まぁ、そういうことにしておいてやるよ」

 

 更衣室からチラリと外の様子を伺うと、椎名は女子たちに囲まれ、何やら質問攻めに合っているのか、顔をリンゴのように真っ赤に染めて縮こまっていた。その姿が妙に可愛らしくて、俺は無意識に口元を緩めそうになる。

 授業は何事もなく終了したが、一つだけ懸念材料が残った。

更衣室に戻る際、あの龍園翔が、まるで「面白い獲物を見つけた」とでも言いたげな、獣のような鋭い眼光を俺に投げかけていたことだ。

 

「……面倒な奴に、目をつけられちまったな」

 

 俺は心の中で深い溜め息を吐きながら、湿ったタオルで髪を乱暴に拭った。




 読んでいただきありがとうございます。誤字やおかしな点がありましたら感想欄で教えてください。
  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. よみあげ
  11. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。