メインスタンドに戻ると、麻木が日野さんの席に出向いて挨拶をしている処だった。湶さんとサッコちゃんもその華やかな輪の中にいて、試合の最中であるにも拘わらず周囲の視線を独占していた。更年期の無粋なオヤジには近寄り難い、綺麗所が咲き揃う秘密の花園。テレビのインタビューやスポーツ誌の巻頭写真で眼にする麻木の姿が其処にあった。迫り来るカメラのアップ、突き付けられるマイクにも臆せず、
日野さんに挨拶を終え、麻木は放送ブース隣の関係者席に向かった。貴賓席には代表監督が鎮座している。A代表招集も時間の問題の麻木だ。そっちにも挨拶に行くのだろうかと思い見ていると、コンコースで待ち構えていたサイン厨に、瞬く間に取り囲まれてしまう。当該チームのレプリカすら着ていない、選手と見たら手当たり次第に突撃し
俺は一瞬迷った。この乱れ飛ぶ小蠅の群れを追い払うべきかどうか。さっきコンコースで擦れ違った時の、麻木の怯んだ眼差しがフラッシュバックする。顔の売れたアイドル選手にとって、こんな物はゴミを分別するのと同じ、日常の本の一部。
俺が福岡の試合で応援していたのは、本当にこのお姫様だったんだろうか。声が小さくて何を話しているのかも、起きてるのか寝てるのかも判らないヒヨッ子だったのに。今、コンコースから見上げる麻木の引き締まった面差しは、余りに気高く、内に秘めた雪辱の狼煙で黙黙と骨身を焦がしている。もう只のお姫様じゃない。
以前、ユースの日本代表監督が、CSのサッカー番組で語っていた。代表監督として初めて臨むアジア予選の直前、何の前触れもなく、突然全身に発疹が出来たと言う。現役時代は立ち上がったばかりのプロリーグで活躍し、A代表にも名を連ね、その明るい人柄と熱意から高校年代の指導に定評がある、ユースの第一人者を襲った体の異変。四十年に渡るサッカー人生の中でも初めての経験で、陽に灼けた肌を表裏の区別無く這い回る、血斑を鏤めた
「何これ、マジでヤバイ。」
と
予選で敗退したら、その時点でチームは解散。アジアというカオスを潜り抜ける事によって摑み取る自信と、本大会で世界を肌で体感する機会を失うばかりか、予選後に組んでいる、本大会に向けた半年を優に越えるチームの長期強化プランまでもが、フイになってしまう。準備期間中の合宿や海外遠征を通して選手達が手にする智見は、サッカーの枠を越えて、必ず人生の糧になり、負ければ選手達の未来と可能性を奪う事になる。己の指導者としてのキャリア以上に、教え子達の人生を背負う重責。其の心労など想像だに出来ない。学生時代から、地区予選、全国大会、決勝戦と大一番を勝ち抜け、プロ初先発、開幕戦、チャンピオンシップ、国際Aマッチと様々なプレッシャーの掛かる舞台を踏んできても、飼い慣らす事の出来ない魔物。時には精神と肉体が拒絶し崩壊する程の
麻木にも試合前、そんな異変は起こるのだろうか。日の丸を背負い世界の舞台に立つ緊張とは
スタンドの
同じスタジアムの中にいても、常緑の戦火と対峙して一歩も引かぬ選手と、他人の成功を見上げているだけの俺。ピッチを囲む鉄筋コンクリートの集積も、スパイクを履いたアテナには、守護女神として君臨する城塞で、俺には屋根のない監獄だ。見えている景色が、所属する階層がまるで違う。奥多摩のグラウンドで初めて見た時には、ランドセルを忘れたガキだったのに。それがこの六年で、女子サッカーの未来を照らす紅き明星だ。同じ歳月を過ごした筈なのに、俺は何一つ積み重ねる事なく、スタンドに囚われの身の儘、今も惰性で時を濁している。
「こんな筈じゃなかった。」
そんな言葉を口にする権利すらないのに、
「あの小娘に出来て、何故俺に出来ないのか。」
と
スタンドで声を荒げている間は殿様気取りで居られても、気取っただけで本物の殿様になれる訳じゃない。上積みも無く、年々目減りするだけの給与明細。間借りしている散らかっているだけの
「オッ、
席に戻り腰を下ろそうとする俺の尻を叩いて、塩爺が吼える。
「人を季節外れの
「何処で油売ってたんだ。どうせ、鳩に混じってパン屑でも突いてたんだろ?」
「寝惚けてんのかジジイ、未だ宵の口じゃねえかよ、
こんな流刑地だからこそ、湧き水を名酒に見立て、酌み交わす
「アラスカで死にたい。」
とか
俺にとって塩爺とママとの
女学館が全国リーグから降格したら、全国どころか九州リーグからも落ち零れ、リーグ戦での活動その物から撤退してしまったら。俺は何をどうしたら良いのだろう。フロントがギブアップして、ハイそれまで。新聞の片隅にも載らずクラブが解体する事なんて、女子サッカーの世界では在り来たりな結末の一つでしかない。
そうしたら復た、余所に鞍替えするのか。例え草サッカーチームにまで堕しても、カンクローと心中して
「何ボケっとしてるんだ。
紙コップの麦茶を見詰めて、
「鼠の尻尾
「逆に絞られて、豚骨の
「そん時は、紅生姜の代わりに俺の腹を捌いて、
「オイオイ、腹を捌くとは随分と物騒だなあ。残り試合どれも大切なのは確かだけどな。一つ負けた位でこの世が終わる訳じゃないだろう。」
「二部のドサ廻りがこの世の終わりじゃなかったら、何が始まりで何が終わりなんだよ。一部の下で一生臭い飯喰ってる位なら、ケツの穴にロケット突っ込んで、銀河系からオサラバした方が増しだぜ。俺はなあ、流れ星なんだよ。
ゴール裏の朱に交わって染み付いた張りぼての無頼。昇天する劣情と反転する躁鬱。自分で口にしておいて、その後味の悪さに舌が痺れる。本当の家族だったら、こんな時弱音を吐いたりする物なのだろうか。スクラップ同然の真実を打ち明けて、分かち合うのだろうか。塩澤夫妻は選手もクラブもサポーターも決して悪く言う事がない。女子サッカーに携わる総てを讃え、
塩爺の老成した象の様な眼差しに、心を見透かされるのが恐くて、俺は決勝点を巡るピッチの攻防へと顔を背けた。脚と気持ちの止まった方が遣られる、本来チンチンに熱い時間帯。それなのに、ボールの行方を漫然と眼で追っているだけで、心の照準は完全にブレていた。同点ゴールの熱狂は既に醒め、湶さんの視線で焼き尽くされた不発の背番号10は、既にベンチでペットボトルの水を
女学館の応援を通じて、懇意にしている佐賀のサポからだ。何時も福岡の現場の様子を律儀に報告してくれるのだが、ここ最近は
「ビッグマックのやつ、今日もいつもの格好でユースの試合に来て、メチャクチャな歌を歌って、それで興奮してピッチの中に入ろうとするわで、もう大変でしたよ。入団希望者の父兄とかも試合を見学に来てたんですけど、あれじゃあ、自分の娘を女学館のユースに入れようとか思いませんよ。」
文字に起こすと呆気ない。《何時もの格好、メチャクチャな歌》スマホの液晶画面に整列する小さなフォントは、厄介な現実を寧ろ優しく包み込んでいる。何せ実物の破壊力に言葉が追い付かない。不摂生を究める体重100kg超、肥満度57%の重力に打ち負かされた肉塊で現場を
ピントのボケたカピバラの様な容貌が醸し出す、散漫な知性と未成熟な自我。そして何より、脳天に頂く、条理を逸したモーゼの海割りの如き逆モヒカン。額のド真ん中からバリカンで一直線に刈り込んだ、
これだけでも既にチョッとした事件なのに、ミシンの畳み掛けで補修しまくった、
しかもこの視覚の暴力が途轍もない音痴なのだから、神の気紛れって奴は手が込んでいる。その破滅的音感は
女学館のホームゲームとユースの試合に残飯の様な姿で現れ、左手に提げたスネアドラムを、右手に持ったスティック一本で力無くペシペシ叩きながら絶叫する様は、未開の熱帯雨林を邪術で
それでも以前は未だ増しだった。初めて皇后杯の緒戦で顔を合わせた時は、逆モヒカンでもなかったし、変なTシャツも着てなかった。栄養過多なホームレスと言うパラドキシカルなブー太郎で、悪夢の様に音痴ではあったが、年に数試合ブッキングするだけだし、まッ、良ッか、位に考え、その奇態を写真に撮り、ブログにアップし、その高カロリーなバディをビッグマックと名付け、茶化し、拡散していた。会場で
日給六千円。福岡の最低賃金で口に糊する日雇いのガードマンだ。チンチンにヘルメット焼けした赤褐色の鼻面と
「今日は応援に来てくれて本当に有り難う御座いました。一度お会いしたかったんですよ。ブログ読んでます。本当に会えて嬉しいです。福岡ではユースの試合とかだと、誰も応援に来てくれないんですよ。矢っ張り、ドラムがあるだけで全然違いますもん。横断幕も凄いですねえ。全部独りで描いたんですか?何mあるんですかコレ。」
先月の末、大阪の堺で開催された全日本女子ユース選手権に、女学館のユースを応援しに行った時の、選手の父兄の言葉だ。福岡では誰も応援に来てくれない。サラリと口にした一小節が、父兄の眼中にビッグマックが存在していない事を、話題にする事すら
「ユースの子達が気持ち悪がってる、と言うか、もう完全に怖がってるんですよね。去年引退して今年からユースのコーチをやっている本山の事が好きだから、ビッグマックはユースの試合に通ってるんだけど、やっぱりあの格好が格好だけに、思春期の子達には特にキツいですよね。本山は応援してくれてるんだから、ちゃんと挨拶しなさいとか言ってるみたいなんだけど。本当はコーチが選手を守らなきゃいけないのに。何だかおかしな事になってるんですよね。こっちの方は。」
佐賀サポの
以前、千葉の試合を観に言った時、徒党を組んだ
「ああ言うのってどうなの。」
と尋ねると、
「俺が毛沢東か金日成なら全員死刑。」
と瞬殺で吐き捨た。心理も生理も受け付けぬ、
「選手も選手の親も俺等みたいなビシッと筋の通ってる連中に応援してもらいてえし、現場で眼を光らしてて欲しいのよ。レプリカ着て応援してるって言われたら、邪険に出来ねえのに付け込んで、選手に纏わり付いてくる馬鹿がウヨウヨしてっからよお。選手の事をタダで相手してくれるホステスか何かと勘違いしやがって。それも相手は中学生とか高校生だぜ。そう言うおかしな奴等に睨みを利かせるのも、俺等の仕事の一つ。選手の親に俺等に何か出来る事ある?何かして欲しい事とかある?とか聞いても、今のままで良い。十分良くやってくれてるから、これからもこの儘、選手を見守ってて欲しいって言われるしな。こっちとら、危ねえ奴等から選手守る為なら、何時でも豚箱に戻る覚悟は出来てっからよ。」
プレミアムモルツのロング缶をチビりながら、八千代さんが転がす巻き舌を、その時は漠然と聞いていた。
先月の福岡遠征。女学館のホームゲームで俺を待っていたのは、無様な惨敗と凋落したクラブ運営だけではなかった。初夏の陽射しを浴びた雨上がりのレベルファイブスタジアム。サッカースクールの女生徒達が座席の間を駆け回って歓声を上げ、父兄が膝を並べて手弁当を広げ、スタンドから選手に声を掛ける親類や元チームメイト。空席ばかりなのが寧ろ開放的で、
ホーム側メインスタンドの端の端、石灰化した富士壺の様にこびり付く、五、六人の寄り合い所帯。女子の試合には付き物の
昇格を果たした四年前以来のホームゲーム。あの時は入れ替え戦が
闇の動物園にブラックアウトした一角。一旦、そう刷り込まれたら、最早それ以外に見えない。これはもうサッカーとは違う、何か別のウルトラスだ。荷物を引き擦ってスタンドに降り立った俺の眼を釘付けに、足をコンコースに釘付けにする魂の貧民窟。子供達の笑い声を断絶する魔の聖域。無尽蔵に卑語が世界を覆い尽す。俺の歪な心がビッグマックの醜態と同化して、己の影と独り相撲を取り続ける。枯れ枝の様な自我を守り抜く為、人を意地汚く罵る事しか出来ない、己の卑しさに負けた母親の血が騒ぐ。
応援以前の問題だ。これが俺の仲間?
胸元でピッチピチに引き裂かれた推しメンのプリントが動き始めた。ビッグマックがレベスタのエントランスホールを、コンコースを練り歩く。歓談に興じる家族連れの幸福な日常を切り裂き凌辱する、何かの着ぐるみかと見紛う重度の肥満体。スタンドを駆け巡っていた子供達は凍結し、運営の手伝いをしているユースの選手は見て見ぬ振りを決め込んで、父兄の眉間に稲妻が走る。トレードマークの逆モヒカンを地で行くモーゼの海割りで、ビッグマックの進行方向を避ける人々。「一応、クラブを一生懸命応援している人だから。」と言う免罪符の威光で、クラブの運営も、選手も、誰も何も言わない。何も言えない。サポーターと言う以前のあらゆる属性と本質の崩壊した、何物なのか分別不能な、明らかに場違いな、集客の足を引っ張る、駆除すべき害獣。存在その物がモザイクの限界に挑戦しているスタンドの異物。良く本物と
息を継ぐ事すら叶わぬ悪罵の濁流。取り憑かれた
眉毛こそ剃っていなかったが、それでも間近で観る実物は流石に凄い。記憶の中で風化していたデブとは物が違う。百八の煩悩が一斉に
「別に、好きな選手を追い掛けてるだけだから。そんな事言われても。」
と言うだけの話し。奴等には今このクラブに何が起こっているのか、理解する事も、感じる事も出来なければ、例え知ったとしても、自分が入れ込んでいる選手のアルバイト先のシフトや、ブログにアップされる私生活、普段何処に行けば会えるのかの方が大事なのだ。自分の部屋が火事なのに、スナックを頬張りながら寝ころんでスマホを弄っている様な、
「“はるる”
去年までキャプテンだった堀内の事を、俺の嫁と騒いでいた奴が、堀内が女優になるとか
売れ残りの割れた煎餅の様な面をした、ワレセンと呼んでいる男がやってきて、何時も通り独りで勝手に喚き始めた。折れた割り箸の様な腕をペラッペラの胸板の前に組み、一瞥でスポーツ経験も体力もゼロと判る独語症の男。雑誌や単行本で読み囓った受け売りの戦術論を、血の膿の様に垂れ流し、無観客のスタンドに向かってコーチングし続ける。
「この前の京都戦で4-2-3-1を途中で3-4-3に切り替えたのは良かったっちゃけど。攻撃的でなかといかん3-4-3が上手くいかんかったとは、何時もの4-2-3-1との間にギャップがあったっちゃんね。この二つをスムーズに切り替えるとは、ヤッパ、難しかね。4-2-3-1は、4-3-3と中盤フラット型4-4-2の、中間の形なんやけど。4-2-3-1から4-4-2とか、4-2-3-1から4-3-3とか、4-4-2から4-2-3-1とか、4-3-3から4-2-3-1とかやったら、そんなに手間取らんちゃけど、4-4-2から4-3-3とか、4-3-3から4-4-2とかの切り替えは、そう簡単にはいかんバイ。これはもう大ゴトやもん。その中間の4-2-3-1が今、世界で一番流行っとうとも無理はなかね。それでくさ、3-4-3でも4-2-3-1と近い感じの奴とかもあるとよ。アヤックスとかバルサの中盤がダイヤモンド型の3-4-3とかは、3-3-3-1とか、3-3-1-3とか、3-1-3-3とか細かくゆうたら色々あるっちゃけど、監督がどうしても自分の3-4-3をやりたいとやったら、まず4-4-2から練り直さんといかんバイ。中盤フラット型4-4-2がチームに浸透せんと、監督の3-4-3は絶対に成功せんめえや。」
崩落した数式の瓦礫の下敷きとなって、成仏出来ずにワレセンが這い回る、空論のラビリンス。
ワレセンのカウンセリングなんて御免だ。俺は先ず10m物の横断幕を肩に担いだ。掲示場所の確認はしていない。クラブやスタジアムによって消防法やスポンサーの絡みで
「観客の邪魔にならない様に、ゴール裏に横断幕を張り出したいのに、クラブがゴール裏を開放してくれないんですよ。本当に困ったもんですよ。他のクラブは皆やってる事じゃないですか。全く、内のクラブと来たら。幾ら私が訴えても聞く耳を持ってくれないんですよ。」
御自慢の逆モヒカンを逆立ててお冠のビッグマック。俺はその白々しい義憤を氷の様に見詰めていた。パンパンに膨れ上がった肥満体の曲面を、風呂上がりの様に滴り落ちるグダグダの脂汗。言葉を発すると復た一際奇妙な存在だ。汗で変色し、塩を吹いてピチピチに伸び切ったTシャツが、俺に助けを求めてくる。前倒しで梅雨が明け、鰻登りを地で行く暑気の最中に、この宇宙のゴミは人の心を凍えさせる天才だ。
「じゃあ、あれは何だよ。」
俺が顎をシャクって促すと、ビッグマックが振り返ったその視線の先で、杉並サポが自軍の横断幕をアウェイのゴール裏に運び込んでいた。昇格を射程内に収め意気上がる杉並のコアサポは十数人。女学館のホームのコアサポの倍。女子の二部だ。東京から福岡へ大挙して押し寄せたと言って過言ではなく、それだけでも圧倒されているのに、この体たらく。抑も、福岡在住の落人で女学館の横断幕を作って運び込んできている奴なぞ一人もいないのに、ゴール裏を開放するも糞もない。クラブにネゴシエイトして拒否られた何て
「代表には事ある毎に、サポカンを開いて意見交換しましょうと言っているのに、それも全く開いてくれないんですよ。前も言った様に、私は後援会に入ってません。会費の金額で、会員を一般会員とプレミアム会員に区別するなんて、これは歴とした差別ですよ。私は絶対認めません。他にも色々と話したい事があるのに。一体、どうなってるんですかねえ、内のクラブは。」
失点を取り戻せるつもりででもいるのか、ビッグマックの雑言は何時になく熱く、ゴミ箱か馬の尻が喋ってるみたいだ。せめて黙っててくれれば、見て見ぬ振りをするだけで済む物を。好きな選手はベタベタと誉め千切り、クラブの運営と代表には的外れな文句を垂れ流す。これがこの男の思考の総てだった。正義を盾にしてるつもりらしいが、綺麗事を隠れ蓑に、絶対に反撃される心配のない、安全な所から
「ナイトゲームで照明灯の利用料が払えないとかで、一々試合後にスタンドで寄付を募るのとか、みっともない真似しないで欲しいんですよね。今年も入れ替え戦に廻る事になってから、遠征費がないとか言い出すんじゃないかと思って。あんな物はもう見たくないんですよ。どんなに頭を下げられても、私は絶対寄付なんてしませんよ。」
もう、限界だった。物乞い同然の
「やったら、テメエの糞を婆ァにしたカミさんと、罰ゲームみてえなそのTシャツを質に入れて、金の工面ばしてやらんや。」
怒りが罵声に着火しようとした瞬間、ビッグマックの背後に、クラブを訴訟問題から救ってくれた尾形さんの姿が見え、俺は間一髪で言葉を呑み込んだ。
「東京から良く来てくれましたね。何時もアウェイでお世話になってばかりで。今日はホームゲームを存分に楽しんでって下さいよ。」
奥さんと小梅ちゃんを連れて現れた尾形さんの快活な激励が、ビッグマックのグダグダな侮蔑を一瞬にして吹き払った。実業の世界で揉まれた、重厚な物腰から滲み出る、智力と胆力。品格と人徳が緻密に構築した本物の風格に、俺は改めて圧倒された。
「向こうの連中は未だ、別件でガタガタ言ってきてるんですけど、なあに、返り討ちにしてやりますよ。」
袖を捲った丸太の様な辣腕で、クラブにとって未曾有のトラブルを、尾形さんは軽妙に笑い飛ばしている。その隣で、女学館が乗っ取られようとしていた事なぞ全く知らされず、サウナに閉じ込められた
「今から横断幕を張るんですか?手伝いますよ。何時見ても凄いですね。コレ全部手描きでしょ。独りで全部描いたんでしょ。これだけの大きさの物を描こうと思ったら、場所を確保するだけでも大変じゃないですか。矢っ張り、手を掛けて作った物は違いますよね。迫力が全然違う。こういう物は業者とかに頼んで作らせても意味がない。業務用の大型プリンターで出力した横断幕は、幾ら綺麗に仕上がるとは言っても、所詮新聞のチラシと同じ印刷物ですよ。私もね、娘を教えてくれている先生の横断幕を作ろうかなと思ってたんですけど、これを見ちゃうと、業者に横断幕を発注した処で、業者が作った物を金を出して買うだけで、横断幕を本当の意味で自分で作った事にはならないんだなって思っちゃうんですよね。いやあ、本当に凄い。Jリーグのウルトラスの横断幕と遜色ないですよ。女子のチームの横断幕でこれだけの物は他に無いでしょ。」
尾形さんに絶賛されても俺は戸惑う事しか出来ない。普段なら、この横断幕に見取れる余所のサポーターに幾ら誉められても、
「俺の幕が凄いんじゃなくて、オマエ等が大した事ねえんだよ。」
と笑い飛ばしている処だが、ドス黒い
奥さんと小梅ちゃんにも手伝ってもらってセッティングを始めると、スクール生の子達が歓声を上げて駆け付け、手摺りから身を乗り出して横断幕を覗き込む。初夏の陽射しに映える鉛丹の幕が一枚、復た一枚と広げられる度に、子供達は息を呑み、瞳が弾ける。あの日唯一の
「なかなか福岡に来られないじゃないですか。今度機会があったら是非一杯やりましょうよ。」
社交辞令ではない改まった声の響き。その
時が来た。フェアプレーフラッグがスタンドの下から覗き、選手入場の準備が進む。俺は振り返って淀んだ大気のコアゾーンを見上げた。矢張り其処には、ビッグマックと愉快な仲間達がベットリと寄生している。逡巡している場合じゃない。分裂応援だけはしたくない。選手達にも尾形さんにも、そんな姿は絶対見せられない。屠殺場に出頭する豚の様に心を棄て、俺はその輪の中に足を踏み入れた。頭を雌に喰い千切られても交尾を続ける蟷螂の雄の様に、今は何も考えず我武者羅にやるしかない。
コールリードをビッグマックに任せると、天性の音痴が矯正、改善されている筈もなく、後はもう全く応援の形にはならなかった。そうでなくとも、数で勝る杉並サポに、声量、統率された一体感、チャントのバリエーションで圧倒され、ネジ伏せられたホームの声援。ファールを厭わぬ杉並の選手達の強度にピッチを支配され、レベスタのドームが生み出す特有の音響効果で、屋根の鉄骨に乱反射し増長する、杉並サポの雄叫びにガラッガラのスタンドを支配され、ホームアドバンテージを強奪された。杉並の、杉並による、杉並の為の試合。女学館はホームゲームから完全に締め出されてしまった。それも本の数百人の客から、子供達から、そこそこなチャージを徴収していながらだ。
ビッグマックはビッグマックでゴールを割られる度に一々沈黙した。スネアとスティックを持ったまま、脱力し垂れ下がってピクリともしない左右の腕。クラブの文句を放言していた時の元気は何処にもなかった。本来最も奮起し、選手を鼓舞しなければならないその瞬間に、意気消沈して正体を滅し、仲間達もそれに従った。無理もない。自堕落な肉体が物語る、逆風に押し流され続けた人生。図体がデカいだけで、窮地を打ち砕く武骨なぞ持ち合わせている訳がない。結局、後半の最後は、完全に声を失ったビッグマックを押し退け、俺がノンストップで声を張り上げた。何故こんな男に遠慮をしてしまったのか、後悔する暇もなく、試合は0:4で決した。最悪な結果。しかし、時間が来れば終わってくれるサッカーの試合は未だ増しで、
ホーム側バックスタンドのコーナーフラッグ脇で、背番号8、FWの結城が行き倒れになった子供の様に、大の字で腹這いに倒れている。只、芝生に
就任して以来、試合後スタンドに現れるなんて初めてだ。スタッフと混じってベンチの備品を運び、片付けの手伝いをしていた時の、惨敗を噛み締める鬼の様な形相とは打って変わった、静謐な面持ち。厭な予感がした。俺を見付けて真っ直ぐにやってくると、ビッグマックとその仲間達も呼び、最後の授業の様に語り始めた。
「今日は本当に申し訳ありませんでした。総ては私の力不足による物です。今日の試合結果に関する責任は総て監督の私にあります。言い訳の余地はありません。その上でこれから話す事を聞いて下さい。私は選手に常日頃から、どんな相手、どんなカテゴリー、どんな試合で、自身と相手の力量がどうであろうと、上を目指して、ワンプレーワンプレー、チャレンジし続けなければならないと訴えてきました。監督として、独りの人間として訴えてきました。サッカーだけに限らない。人生の総てに於いて、前進し続ける意志を固持し、体現する事にこそ価値があり、それ以外に現状を打破する道はないと。チャレンジしないのならやる意味がないし、そんな事なら初めからやらなければ良い。それが判らないのなら、判る人材を外から連れてくるしかない。そう訴え続けてきました。しかし、今日の試合、見ての通りの有様です。対戦相手の
対峙する者の胸倉を摑んで放さぬ、腰の据わった眼光。激情を
俺にどうしろと言うのか。視野の片隅で結城は行き倒れた儘、総てを拒絶し微動だにしない。監督の正論が俺を責め立てる。監督の叩き付けてきた有りっ丈の想いに対して、打ち返せる物も、投げて返せる物も俺は何一つ持ち合わせていない。永遠に埋め込まれた、結城の死に体を引き剥がし、拳の様な言葉でその惰弱を叩き起こす。そんな権利が俺にあるのか。「次、頑張ろう。」「切り替えていこう。」そんな当たり
焦土と化した監督の生き様を目の当たりにしても、奴等はグッタリと、その場に群れ沈殿していた。弛緩した頬、グズグズに
俺の勤め先では元請けから紙で図面が送られてきた時、細部の原寸は三角関数や三平方の定理で弾き出す。CADで図面を管理する時代になっても、原理が判ってなければ話しにならない。処がそのイロハのイを説明をし始めると、ハローワークの紹介で中途採用された新人の大半が、この眼で俺をシャットアウトする。戸惑いでもなく、嫌悪でもなく、拡散した瞳孔から
日給六千円。赤黒く警備灼けしたビッグマックの額と頬に刻まれた、ヘルメットと顎紐の跡。赤灯を振るしか能のない、節も腱も血管も埋まるほどパンパンに肥え、赤子じみた手の甲。工事現場の最底辺で落ち穂を拾う最低賃金のパシリが、俺の隣でボンヤリとその思想と存在を完結している。試合も終わり一息吐いた筈なのに、
監督はサポーターに真のサポートを求めていた。しかし、誰からも声が挙がらない。身を切る様な言葉以前に、生返事の一つも漏れてこない。非情な温度差で区切られた沈黙の中、ワレセンが独り、組んだ腕を解かず、鶏ガラの様な躯を頑健に陽灼けした監督の脇に並べて、余計な数式を並べ始めた。フォーメーションや選手交代のタイミングについて斜に構えた質問や意見を繰り返し、総てを曝け出した監督に纏わり付く、壊れた戦術オタク。初めの内は丁寧に受け答えていた監督の眼差しから次第に、研ぎ澄まされた閃光と、ドスの利いた潜熱が奪われていく。そして、
数式の止まらないワレセンを置いて、素通りする様に監督はピッチサイドへ降りていった。捨て台詞もなければ、引き留める素振りをする者すらいない。招かざる客が去り、コーヒー一杯で、開店から閉店まで居座る、他に行く処がない連中の溜まり場に逆戻りするスタンド。微かにホッとしている自分に気付いて、俺はゾッとした。数年振りのホーム参戦で見出したかった、マイクラブへの猜疑を振り払う切っ掛け。初めて単独応援した、あの時の昂揚を再生出来るかもと言う淡い期待がこの様だ。間接視野に深く抉り込む、行き倒れたままの結城。その脇に突き立つコーナーフラッグが、地の果てを印す標識に見える。永久凍土に閉じ込められた絶界。恐らく其処が俺と女学館の行き着く先だ。結城の小さな背中が暗示する、見捨てられた未来。その遙かなる荒涼が呼び覚ます、奇妙な懐かしさ。女学館と出会う以前、場末のスタジアムを誰とも交わらず梯子していたあの頃。緩やかな落下速度が
ビッグマックの背を盾にして隠れていた、顔の無い仲間達が首を
階段を上がってきたのは、結城とツートップを組んでいたFWの横田だった。クールダウンは終えたのだろうか、ユニフォームも着替えず、手櫛一つ入れてない乱れ髪に絡み取られた、タイムアップ直後と見紛うばかりの
こんな試合の後だ、態々選手がスタンドに上がってくる必要など無い。男子の試合なら、怒りの治まらないサポの尻の穴に、火箸を突っ込む様な物だ。それなのに何故。監督が悲愴の告発で自爆したばかりだ。横田も又、
六月のアウェイ長野戦、何時も通り独りで横断幕のセッティングをしていると、試合前のアップでゴール前に現れた横田は、
「絶対に昇格しますから。」
とたった一言、脅しにも近い気魄で言い放ち去っていった。横田は今年で女学館を退団する。そう人伝に聞いていた。高校時代から絶える事の無かった怪我との闘い。試合後は何時も足を引き擦って、ロッカールームに引き上げていく。その膝は変形し、一生痛みが引く事はないと言う。所属していた名門クラブが消滅し、一度サッカーから身を引いた。しかし、体の怪我は癒えても、心の支えを失った横田を待っていたのは、無為に過ごす日々だけだった。そこへ手を差し伸べたのが、一部昇格を目指していた女学館だった。何故サッカーなのか。何故怪我を抱えてプレーするのか。その答えを横田は女学館で見付けた。サッカースクールでの子供達の指導を通じて、横田のサッカー観は生まれ変わったという。新しい一歩を踏み出す為の退団。最後の一年に賭ける決意で凝結していた
「済みませんでした。」
横田の唇が微かにそう動いた。しかし、取り囲む落人達の熱気とワレセンの喚き始めた数式に阻まれて、掠れた声すら聞き取れない。横田の心神は完全に座礁している。それなのに連中はお構いなしだ糸の絡まったマリオネットにしか見えない、ワレセンの身振り手振りのアドバイス。隣では七三分けのオヤジが横田の頭を撫でながら、乱れ髪から覗く耳元に赤ちゃん言葉で慰め、横田の足許に屈み込んだ
俺は余りのおぞましさに
俺は底が見えない悪夢を見捨てて、掻き毟る様に横断幕を片付けた。一体このクラブは何処まで呪われているのか。結城は地の果てで土に帰り始めている。他の選手達もロッカールームで倒れた墓石の様になっているのだろう。昇格の目が消えて腹の虫の治まらないカンクローの売り言葉を、監督が安く買い叩き、その廻りでリーグ戦ごっこの後片付けをする、ユースの子供達の姿が眼に浮かぶ。マッチコミッショナーは今日の試合運営を、どうリーグに報告するのか。尻窄みの観客動員でスッカスカのスタンドにリフレインする、
「応援する価値がない。」
と言う監督の言葉。このクラブが放つ負の引力に巻き込まれて、何もかもが幻滅していく。そこへ、
「お疲れ様です。」
杉並サポが充実した表情で試合後の挨拶に現れた。今シーズンの遠征で最も気合いの入った試合での大勝。その余韻を噛み締めながらも、アウェイの現場と言う事もあり、浮かれた処を見せる事はない。後発のクラブでありながら、充実した組織力と機動力を誇る、女学館の寄生虫とは較べるべくもない、折り目正しきウルトラス。関東の現場でしょっちゅう顔を合わせている事もあり、気心も知れていると言うのに、そんな真っ当な姿が、今は嫌味にしか見えない。
「勿体なかったですよね、前半終了間際の三点目。あれが無ければ違う展開だったと思うんですよ。立ち上がりから凄く飛ばしてたんで、内の選手達、後半はペースが落ちましたからね。あの三点目か無ければなあ。ちょっと余計でしたね。」
と、気遣って言葉を選んでいるのに、
「全部余計だよ。」
その優しさに噛み付いた勢いで、俺はその儘スタンドを後にした。この場から逃れたい一心で力任せに引き擦る過積載のキャリー。ドラムと横断幕に押し潰されて、ベアリングが年老いた
空港に辿り着いても、待っていたのは、勝ち点三と市内観光で福岡を満喫した杉並の選手達が、手荷物検査の列で上げる黄色い声。しかも、その輪の中心にいるのが、3アシストを決めた突貫小僧で、カンクローと喧嘩別れして女学館から出て行った上條なのだから、気が利いてる。俺は耳を塞いで構内を
東京へ戻る空路。窓の外で福岡市街の夜景がゆっくりと旋回する。地方の勝ち組が放つ実り豊かな灯火に、もうこれで見納めなのだと明滅する雑感。狭い座席にくるまって機体の微動に身を委ねると、報われる事のない疲れが染み渡る。結城は自力で立ち上がる事が出来たのだろうか。檻の壊れた闇の動物園は横田を解放したのだろうか。砕け散った硝子細工のチームを、監督は素手で掻き集めるのだろうか。カンクローはその内、尾形さんの恩を仇で返すのではないだろうか。乗っ取られて代表の首を
「にくじゅうやもん。にくじゅう。」
窓硝子に反射する、母親に生き写しの細面が、硬直した死相で
途切れ途切れの輪郭線を伝って、聞き覚えのある
覇を競うチャントの応酬に一発喰らって、ジットリと握り込んだ液晶画面に引き擦り落とされる。ただの悪い夢なら眼が覚めればハイそれまでなのに、あの日のレベスタは、ストラップにブラ下がっているクラブマスコットの様に、心の何処かに引っ掛かったまま宙に浮いている。其処彼処が擦り切れ、頸の千切れ掛かったオレンジの女猿。小首を傾げて俺を覗き込む
ベリベリに強張った肩胛骨の裏側。首筋に浮いた汗を汗が拭い、酒精の切れた舌と喉が漆の様に
DFを背負ってターンする、二重登録のプリマドンナ。サイドチェンジの放物線が夜空に虹を掛け、GKのパンチングに星屑が弾ける。キャプテンマークの黄色いタクトが勝利への猜疑と妥協を振り払い、テクニカルエリアから
レイズの藤見は足が痙攣しているのに、心配して駆け寄るチームメイトを逆に
###### あの土人まだいたの? ###### きたああああああああ永久追放きたあああああああ ###### ドラム叩きながらファビョってる時点でチョン確定 ###### やっぱ奇無知なんだ ###### アホーターの鑑 ###### ドサ廻りだけやってろ ###### 勝手に福岡に来んな ###### 基地害包茎&童貞ネトウヨの仕業 ###### バ監督と佐賀にハネムーンですか ######
コンビニの棚に並ぶ弁当やペットボトルの様に、二十四時間態勢で律儀に補充されていく負け惜しみ。俺は画面をスクロールし、排水溝を
ネットの陰口は蜜の味だ。初めてブログの掲示板を荒らされた時の官能を、俺は絶対に忘れない。備忘録程度に付けていた遠征記に、突然、書き殴られた日本語の残飯。
### オマエの応援で逆転出来たとか
### 勘違いすんな
### シネ
それは偉大な一歩だった。自らを
死んだ犬に蚤は
便所の落書きは、俺が遠征を重ね、ブログをアップする毎に筆圧を上げ、類は友を呼んで増殖し、クラブのホームページから、選手のブログ、2ちゃんに到るまで、女学館に関わるあらゆる掲示板に転移した。汚水の
それは不思議な感覚だった。まるで
連中は俺の総てが許せない。最早、俺の事を無視する事も忘れる事も出来ない俺の
会社勤めを隠れ蓑に、本の数年前まで世捨て人同然の暮らしをしていた俺にとって、己とは死守すべき一握りの固形物だった。
懲役紛いの仕事をサバイヴして帰宅すると、干涸らびた臓物をキンキンの酎ハイで
それが先月福岡に遠征して潮目が変わった。自らを呪って
俺は画面をスクロールして邪気を払った。何時もの癖で、又、自分の墓を暴いて鬱勃起し始めていた。土にすら帰れない自分の亡骸に突き当たって、其処で行き止まりと判っているのに、ついつい掘り下げて潜り込んでしまう。本当に悪い癖だ。アンチ共の群棲する
### 私はあの男の横暴を絶対に許しませんよ。サポーターの風上にも置けない。完全にイエローカードです。大切な仲間を守るために私は戦い続けます。 ###
座長の上げる狼煙に鬨の声を上げるアンチ共。あの男とは、仲間を護ると豪語する熱血漢を害獣指定した俺の事で、一人でも多くの賛同者を掻き集める為に奴も必死だ。俺に面と向かって、
### 皆が皆、お前みたいに何でもバリバリやれる訳じゃないんだよ。そんなにガチで応援したいんなら、男子の方で遣りゃ良いだろ。お前みたいなのがいると迷惑なんだよ。鬱陶しいんだよ。 ####
と、言い放つ事も出来ず、スタンドのシートに擬態して生体反応を消している奴等を幾ら揃えた処で、自分の身を、地位を護る人の盾にはならないのに、御苦労な事だ。藁や木の枝で家を建てられると思っている豚は、狼の餌でしかない。生まれて初めて手に入れた、リーダーという名誉に浴していたいのは判るが、これ以上泳がせておく訳にもいかない。豚が遊べるプールはない。本当は今すぐにでも首に縄を掛けて、産廃か屠殺のトラックに引き渡したい処だが、俺はひとまず、ビッグマックが大切な仲間と呼んでいる男の方がどうなっているのか様子を見る為、別のサイトに飛んだ。何しろ、そっちの方が水辺の豚より厄介だ。身の危険を察知したビッグマックは、正気とは思えぬ代物に手を出していた。
### なぜ通報しない ### レベスタのナイトゲームの後に人気のないしげみに連れ込もうとしたりするらしい ### アウェイでも良く見かける代表戦にもいた ### おぞましいの一言 ### その内小学生の女の子とかさらっちゃうんじゃないの ### そいつの金玉にGPS埋め込んで監視すべし ###
移動した先の掲示板も呆れるほど盛況だった。アクセスしているのは俺のアンチではなく一般のサポで、日に日に熱と量を増し、騒ぎがデカくなっている。書き込みの中に張られたリンクを覗くと、新たに発覚した案件が詳細に報告されていて、鎮火する気配は微塵もない。
##### 〈この男をスタジアムで見たら要注意〉
先日私がベアスタで被害を受けた、女性サポーターに対し不快な行動を取る挙動不審な男の特徴です。多くの女性サポが迷惑しています。拡散希望。
・福岡在住
・26歳
・福岡サポーター(場合によっては余所のクラブのサポにも偽装する)
・レベスタを中心に福岡とその近県のスタジアム(特にベアスタ)に出没。
・眼鏡の上になぜか青いサングラスを重ねてかけている
・アゴがしゃくれている
・発育不良の茄子みたいな顔
・女性サポーターしつこく声をかけ、試合後スタジアムを出ても追い回してくる。
・周りからは「捨吉」と呼ばれている。捨てられた猿みたいにオドオドしているから。
とにかくしつこいです。試合と関係あることないこと、何かにつけて話しかけてくる。特に部活は何をやっていたのか、そのときのユニフォームはタンクトップ?ブルマ?とか聞いてきたときの鼻息は相当なものでした。
試合後、あれだけシカトし、邪険な態度をとり続けたのに、
「ホテルどこ?天神?博多?一緒に帰ろうよ。」と言ってきてビックリ。
「友達とこれから合流するんで。」と強い口調で断り走って逃げました。それでうまく撒いたなと思っていたら、博多行きの電車の中で、一緒に乗ってた友達の鳥栖サポが降りた途端、いきなりどこからともなく現れて隣に座ってきたときには、さすがに鳥肌が立ちました。
完全にストーカーです。変質者です。サイコです。
シカトMAXでメールうってるのに、下から顔を覗き込んで話しかけてくるから、「いいかげんにしてよ。」って車内に響くくらいの大きな声で怒鳴ったのに、ニコニコ笑ってて本当に異常です。まともな頭ならまずいなと思って立ち去るところなのに、そんな感覚のないこの男には全く通用しません。
幸い博多駅の手前の駅で降りていきました。博多のホテルまでついてこなくてほんとに助かりました。
私が受けた迷惑行為と同じ事を多くの女性サポに行った事実が次から次へと発覚しています。中にはスタジアムのある公園のしげみに連れ込まれそうになった女子サポもいるそうです。
福岡とその近隣のスタジアムに観戦に行く女性サポーターは試合後の一人歩きは避けた方が良いです。友達や知り合いと一緒か集団の中に紛れて帰るようにしましょう。あの男は本当にヤバイです。何かあってからでは手遅れです。身の危険を感じたらすぐに大声を上げて通報して下さい #####
とてもじゃないが最後まで読み終える事が出来ず、俺はページを閉じた。存在その物が軽犯罪の青いサングラス。パンツの穴を地でいくモンゴロイドと言えば、心の底から認めたくないが、あの男以外有り得ない。現場でこれ位の事をやっていても不思議じゃない。初めて奴に遭遇したのは女学館の昇格初年度、トップリーグ初白星を飾ったアウェイの神戸戦。村里がセンターサークルの脇から叩き込んだ40mオーバーのFK。その伝説の一撃に掻き消されて、日陰者の残像は記憶の彼方に葬られていた。それが今、ネットのタレコミに炙り出されて、
当日、枯れ枝の様に萎びた節々をガシャガシャと動かしながら、初期不良のC-3POがスタンドに現れた。三半規管と連携出来ない、フラフラと傾いだ体幹から繰り出される不審な挙動。代表のウルトラスグッズで身を固め、どういう
「これ考えてきたチャントだから、今日これでやるから。選手のも全員分作ってきたから。ピッチ練習の時はこれで、選手入場はこれで、攻撃してる時はこれとこれとこれで、ゴールが決まったらこれで、ビハインドの時はこれで、後半のロスタイムに入ったらこれで、試合が終わって選手が挨拶に来たらこれで。それから・・・・」
歌詞カードのつもりらしいが、何と書かれてあるのか
新しく作ったチャントを歌わせるのに、手書きの紙一枚で済ませようとする奴は、絶対相手にしては駄目だ。当人が気に入っていると言うだけで一般性のない歌、覚え難いメロディー、ブレスにゆとりが無く、馬鹿みたいに音域が広くて高いキーが歌えず、同じフレーズを数種類の歌詞で繰り返す為に順序を間違い易いとか、そんな思慮の浅いチャントを粗造乱造するアーティスト気取りが、ゴール裏にはゴロゴロ居る。パソコンの内蔵音源で良いからボーカルと伴奏を打ち込み、USBメモリにコピーするなり、CDに焼いて持ってくるなり、ネットにアップするなりしてくれば貸す耳もあるが、スリーコードの一つも握れなければ、音叉でチューニング出来る耳すら持ち合わせず、ジャズとブルースの違いも、転調も変拍子もシンコペーションも知らない、音楽とカラオケを混同してる輩の、五線譜とは無縁の鼻ッ紙に、鼻歌をメモしただけのミュージシャンごっこに、愛想笑いを振り撒く義理はない。
「そういうのは余所行ってやれ。」
俺が速攻で却下し、フロアタムのセッティングに手を付けると、捨吉は
福岡のサポから、ビッグマックの前にリーダーを務めていた奴が、今名古屋の方に転勤していて、神戸の試合に来るらしいという話は聞いていた。その遠慮がちに話す素振りに何かあるとは思っていたが、
試合中、捨吉が玩具のトラメガを振り回してコールリードを執ろうとしても、
「今、それ処じゃねえんだよ。引っ込んでろ。」
と、その都度
その後、福岡のJのウルトラスが、
「捨吉と内とは無関係です。奴はウルトラスでもなんでもありません。」
とブログで警告してるのを見付けて、帰福した捨吉がレベスタで女子サポに声を掛けまくっている事を知り、さもありなんとは思ったが、それ以上
「今日はヨロシクお願いします。」
と二年前の神戸戦の時とは打って変わって、改まった態度で頭を下げてきた事もあり、少しは落ち着きが出てきたのかと思っていた。名古屋に居た頃の捨吉が偶に関東の試合に紛れ込んでいるのは知っていた。去年の皇后杯の決勝、神戸の手伝いをしている時には挨拶に来て、何やら構って欲しそうにしていたが、天皇杯とのダブルゲッターでケツが詰まっている分、現場は
「テメエ、何しに来やがった。今日がどういう試合か判ってんか。女を引っ掛けてえんなら、
と突っ撥ね、後は一切口を聞かなかった。その甲斐あってか、捨吉はスタンドの隅で地蔵に徹していた。俺は試合中も試合後も捨吉の存在なぞ忘れていた。処が、
「六月に鳥栖でやったなでしこの試合の時に、眼鏡の上に青いサングラス掛けてる変な奴が居たんだけどさあ、ニュージーランド戦。福岡の奴みたいなんだけど、知ってる?ネットで騒がれてる奴とそっくりなんだよね。」
八月頭の飲み会で来月の代表戦の話しになった時、岩井さんが不意に切り出した。六月の鳥栖での代表戦は平日のナイトゲームで、俺は現場には行ってない。まさかと思う間もなく、隣にいた湶さんに飛び火した。
「もしかして、あの気持ち悪かった人?ドラムやってる千葉の南ちゃんと内の中井ちゃんにしつこく絡んできて、本当にしつこいの。他にもゴール裏に来てた女の子に声を掛けてて。九月にもなでしこの試合あるでしょ。長崎で。それにも来るの?とか聞いてた。何、知ってる人なの?」
網膜から血の気が引いて、視界が本当にブラックアウトした。女学館のゴール裏に出入りしている奴だとは口が裂けても言えない。ここまで重症だと知っていれば、先月のレベスタで現場の敷居を二度と跨げぬ様、蜂の巣にしていた物を。協会の不手際で、九月の代表戦は丁度二部の最終節と重なっている。代表の現場に行ければ捨吉を
底引き網の様な人生を送ってきたのだろう。容姿が無様で内面が卑しい、異性が拒絶する要素を総て兼ね備えた捨吉は、DNAレベルで不幸な男だ。これから先も劣化し続ける奴の人生と人格と病状が、このまま軽犯罪の範疇で留まってくれるとは、とても思えない。詰まったドブは
「ウルトラスがブログで注意勧告してるから、それで十分なんじゃじゃないの。」
等と、未就学児紛いの言い逃れを
##### そう言う個人情報は教えられません。女学館サポーターのリーダーとして、私には仲間を守る義務がありますからね。#####
手の中の3ミリにも満たないメールの文字に撃ち抜かれ、眼の中で紅い星が飛んだ。捨吉の実態を知った時にはブラックアウトした網膜に、今度は血反吐の火砕流が殺到する。毛細血管のステッチが裂けて眼圧が悲鳴を上げ、鎖骨から頸動脈を駆け昇る熱暴走が、理性を焼き尽くしていく。これはもう無理だ。針が振り切って戻らない。自制不能な憎悪のパトライトが頭骨を
「仲間って何だ、オイ。もう一度言ってみろ。その内、何しでかすか判らねえ変質者
気が付くと俺はスマホに齧り付いて吠えていた。通話口の向こうにはビッグマックがいて、ハウリングしっ放しの怒気に眼が
「全く品がない人ですねえ。幾ら怒鳴った処で、私は知りませんよ。女の人が追い回されて迷惑を受けたとか言ってますけど、じゃあ何故その子が警察に直接届け出ないんですか?その子が警察に届け出れば良いんですよ。本当にそんな事があったのなら、直ぐに通報するでしょ。おかしいじゃないですか。兎に角、私には関係ありません。」
それは正に馬鹿の壁だった。逆モヒカンで新宿の歌舞伎町を練り歩く男だ。頭の中もその髪型と同じ活断層が縦走しているのだろう。天を衝いて聳える壮大な絶壁に幾ら訴えても、道理は虚しく
「テメエ、正気で言ってんのか。」
「正気も何もありませんよ。私は唯、正論を言っているまでです。貴方の暴言とは違います。」
似非紳士の
「差し違えるつもりで言えや、この腐れ
スリープしたパソコンの
その日から自称リーダーはSNSで俺の事を本格的に糞味噌に書き立て始めた。元々歯車の狂っている男だ。症状が悪化しただけの話しだが、これでもう後戻りは出来ない。俺の頭のOSも切り替わっている。何時かは自分の身の回りをドブ浚いする番も廻ってくるとは思っていた。コアサポが
##### ルールを守らなければ、スポーツは、サッカーは成り立ちません。ルールを守れなければ、サッカーを愛する資格はありません。ヤクザまがいの脅迫に私は絶対に屈しません。あの男は断じてサッカーを愛するサポーターなどではありません。あの男から女学館を守るために、皆さん一緒に闘いましょう。 #####
ビッグマックの安い撒き餌に、盛りの付いたアンチが群がっている。手当たり次第に書き込みをして賛同者を募れば、その内の誰かが俺を追っ払ってくれるとでも思っているのか。ビッグマックは未だ知らない。邪魔な物を始末すると言うのがどういう事か。その世界から叩き出すと言う事がどう言う事か。聞こえる。片足を引き擦る足音が。何処までも俺の後を付けてくる。擦り切れた
去年、入間のコアサポが解体現場の足場から落ち入院した。町屋の救急病院に搬送されたと聞いて、仕事帰りに立ち寄った。恐らく解体屋の親方以外で病室に足を運んだのは、俺独りだけなのだろう。洗面所で頭を洗っている処を見付けて、背後から声を掛けた時、俺が何故其処にいるのか理解出来ず、
雨で仕事が流れる事の少ない解体屋とは言え、日雇いの身分では口に糊するだけで精一杯だ。ボサボサの髪とガッサガサに焼けた肌。笑うと前歯は全部欠けていて、落ち武者という形容に一寸たりとも違わない。戸籍が在るのかどうか、本名があるのかすら怪しい男だ。毎朝公園の便所で歯を磨いてても不思議じゃない。冬でも裸足に雪駄で
「俺は命懸けで、人生を総て賭けて入間を応援してる。俺は誰の指図も受けねえ。俺は御前等の犬じゃねえ。俺に首輪を付けるつもりなら、絞め殺すつもりでこい。」
と吼え、毒を吐く雪駄の姿は何処にもなかった。病室内の他の患者と較べ、散らかった雪駄の身の回りに、親類が世話をしている様子はなく、虚勢の剥がれた雪駄を見るのは少し寂しく、見られる方も気拙かった筈だ。長居するつもりもなかったので、ゆっくり休んで、復た現場で会おうと言って席を立つと、ギブスで固められた片足を引き擦りながら階段を下り見送ってくれた。
「雪駄の奴もう滅茶苦茶なんッスよ。幾らダービーでボコられたって言っても、兎に角酷い。手が付けられない。スタンドからベンチに向かって物は投げ込むわ、監督に土下座しろとか、辞めちまえとか喚き散らして。全然応援にならない。折角NACK5で開幕戦なのに、全部台無しッスよ。俺、どうしたら良いんッスかね。一緒にやっていく自信ないッスよ。」
今年から入間の応援に廻る事になったゴンちゃんとは日頃から懇意にしている事もあり、泣き付かれて見て見ぬ振りをする訳にも行かない。話はその日の開幕戦の事だけに留まらなかった。雪駄は去年まで入間を率いていた監督に葬式の花輪を送り付け、特養ホームの解体現場で拾ってきた位牌に監督の名前を書いてスタンドに飾り、怒りに任せて選手に飲みかけの紙パックを投げ付けていた事など、現場での所業を洗いざらいブチ撒けられた。黙って聞いていた俺は、シーズン開幕前、今年から入間を応援するゴンちゃんの挨拶回りに付き合って、入間の練習を見に行った時の事を思い出した。ゴンちゃんが練習を終えた選手達一人一人に、今年から入間を応援する旨を伝え頭を下げると、地元出身で快速ウイングのエースが、
「じゃあ、あの気持ち悪い人、もう来ないんですか?」
と飛び付いて、笑顔が弾けた。嘘偽りのない笑顔だった。薄々感付いてはいた。選手の視界には雪駄が一切入っていなかった。俯き加減の硬い表情で雪駄の前を無言で通り過ぎていく選手達の葬列。クラブ愛、それは雪駄の片想いですらなかった。俺がクラブを支えていると言う矜持で増長したエゴが、何時しかその大義を盾に、クラブを、そしてサッカーその物を、私物化し、支配しようとする。光のない境遇に甘んじている鬱屈の捌け口に、少しでも気に食わない所があると、監督だろうが選手だろうが徹底的に打ちのめす。そんな奴等を何人も見てきた。雪駄は去年レイズとの試合で一般観客とも揉め、既に警察の世話になっている。ブッ壊れた心のブレーキは何処にもリコール出来やしない。現場の暴君に酔いしれる雪駄は哀れだが、ゴンちゃんのこれから先の心労を考えると、唯の聞き役に廻るだけと言う事は出来なかった。
「次の試合何処とだっけ?」
「エレーラです。」
「場所は?」
「駒沢です。」
「だったら、俺ドラム持っていくから、ゴンちゃんコールリードやれよ。」
話は決まった。通話を切ると、俺はドラムケースを開け、フロアタムに貼り付けている女学館のステッカーを、一枚一枚剥がしていった。本来、ガチなコアサポは余所のゴール裏でガチの応援はしていけないと言う不文律がある。当然鳴り物なんて
葉桜が匂い立つ、春の盛りを迎えた駒沢公園。最高の観戦日和となった試合当日、ドラムを担いでアウェイの待機列に立っている俺を見付けて、雪駄は意味が飲み込めず、見舞いに行った時と同様に呆然としていた。厭な仕事には慣れている。無駄と判っていても、雪駄にはスタジアムに入場する前に話を付けておく必要があった。泥は全部俺が被れば良い。待機列から離れた、新緑が囁き交わす清々しい木陰の下で、ドブ浚いは始まった。
「選手がオマエの事、気味悪いつって怖がってっから、もう入間の試合には来んな。」
「選手って誰だよ。誰が言ってんだよ。」
「そんなの言える訳がねえだろ。強いて言えば、全員だ。全員、オマエの事が気持ち悪いつってんだよ。自分の
俺がそう言い放つと、雪駄の眼は泳ぎ、息が詰まって返す言葉が声にならない。
「応援は俺達で遣る。選手の親とかから預かってる横断幕出せ。これからは俺達で管理する。」
見舞いに来た時とは別人の俺を、雪駄は未だ量りかねていた。信じたくないと言う複雑な雪駄の表情が、俺の胸を
サポ失格を宣告され、横断幕を取り上げられても、開門すると雪駄はノロノロと入場してきた。しかし、そこにはもう雪駄の居場所はなかった。雪駄の存在を完全に無視して、アウェイスタンドの最前列で応援を強行した。本の数少ない入間サポも俺達に同調し、ピッチ練習から全開で選手を鼓舞した。雪駄の玩具の様な8incのタムは、俺が持ち込んだ16incのフロアタムの敵ではなく、俺達の後方で雪駄が独り、何かコールをしようとしても即座に掻き消され、時間を追う毎に雪駄の声もタムも尻窄みになっていった。
試合は0:3と言う数字の上では下馬評通りの結果だったが、その内容は全く違った。薄汚い罵声を廃した芯のある応援は選手達に届いていた。ペース配分を無視した激しい球際と、飢餓的なスプリント。スタンドの変化に一心不乱のプレーで応え、エレーラに喰らい付いた牙を一瞬たりとも弛める事はなかった。上位チーム相手に卑屈なプレーで自陣に閉じ籠もっていた入間は何処にもいなかった。その姿に、先週、
試合が終わると、雪駄の心にも裏切られた事実を直視する余裕が出来たのか、淫らな虚勢で再び自分自身を
「オイ、ちょっと待てや、コラ。二試合で八失点って、オマエ良くそんなんでライセンス取れたなあ。」
選手が揃うのを待っているチームバスの前で監督を捕まえ、試合中、鳴りを潜めていた罵声を浴びせ掛ける。しかし、それまでのツケが廻ってきた日陰者に、変わった潮目を変える力が有る筈もない。言い訳不能な惨敗を喫してはいても、新監督は毅然とした態度で、雪駄の
「貴方の話はクラブと選手達から聞いている。今日チームが不甲斐ない結果に終わったのは、総て私の責任だと認めるが、貴方がこれまでクラブや選手達にしてきた横暴と、サッカーを冒涜する総ての行為に関しては、私は一切認めない。」
血色の良い小麦色の肌に精錬された肉体の青年監督と対峙する、空爆から焼き出された様な、
「もう、それ位にしとけよ。」
バスの中に乗り込む監督を引き留めようとする雪駄に、俺が後ろから声を掛けると、
「オマエは引っ込んでろ。余所の奴にガタガタ言われる筋合いはねえ。」
声を張り上げる事で、感情を募らせ弱音を打ちのめすサポーターの習性に縋り、雪駄は何とか息を吹き返そうとした。しかし、総ては織り込み済みだ。
「テメエと違って監督は忙しいんだよ。言いてえ事があんなら、前歯を全部入れて出直して来い。」
言葉に詰まった雪駄の口元から、紫色に変色した歯茎が剥き出しになっていた。手間を掛けたくなかった俺は、ガードが下がった所をゆっくりと落ち着いて撃ち抜いた。
「・・・・って、言われたんだろ。前キャプテン遣ってた根岸にも。彼奴、可愛い顔して気は強かったからなあ。」
見えない角度から飛んできたパンチに、雪駄の眉根が狂おしく歪曲した。憎悪と苦渋が犇めく複雑な表情で、雪駄は鼻と鼻が触れ合う寸前まで俺に躙り寄った。この様子を見ていた顔見知りのサポが数人、手が出たら何時でも止められるように身構えた。紫外線に破壊されてシミが折り重なる、鋳物の様にガサガサの
「日雇いで解体やってんなら、瓦礫の山と一緒にオマエも片付けてもらえよ。どうせこの宇宙に、テメエの居場所なんてねえんだ。好い加減、往生しやがれ。」
俺のSNSを荒らす便所の落書きと同じ劣情が、俺の腹の底から湧き出で、食道を縦貫し、迸る。出鱈目だと判っていても、理性を押し退けて口を吐く卑語が、不憫な雪駄の形相を突き抜け、救いようのない自分自身を打ちのめす。何故、怪我の見舞いになぞ行ったのか。病院の洗面台に頭を突っ込んで髪を洗っていた雪駄の、浅黒い背中を覆う吹き出物の一粒一粒が、俺の背筋に醒め醒めと広がっていく。見せかけの優しさなんて、所詮、気の迷い。余計な火遊びで、雪駄を火達磨にした犯人はこの俺だ。生焼けにならぬよう、死に水代わりに油を継ぐのが、せめてもの介錯だ。自重で沈下していくのを堪えるだけで精一杯の雪駄に、反撃の糸口なんて無い。何時しか俺の一方的な卑語も尽きて、無言の睨み合いが続いた。新緑の
透明度ゼロの海面に口だけを出して何事か
ガサついて生臭い鼻息を俺に浴びせながら、雪駄は未だ其処にいた。俺が内に秘めている闇を、この男は剥き出しにして生きている。以前、体調を崩し、医者に診てもらう金もなく、フラフラになって入間のホームゲームに雪駄が現れた事がある。世を捨てたのか、捨てられたのかも知れぬ、頼れる身寄りのない男のリアルに、俺は慄然とした。雪駄は選手の親に手弁当を分けてもらうと、土鳩の
クシャクシャにして投げ捨てられた、外れ馬券の様な雪駄の形相が一瞬和らいだ。釣られて警戒が弛みそうになるのを堪え睨み続けていると、張り詰めていた憎悪が重力に負け、磁縛の解けた余白に、日雇いの
雪駄は次節のアウェイの神戸戦に姿を現さなかった。その前日、女学館がアウェイの大阪戦だった事もあり、神戸の現場に顔を出した俺は、入間のゴール裏には回らず座って観戦した。万一雪駄が暴れる様な事があったらと思って足を伸ばしたのだが、残留争いのライバルでもある入間が、女王神戸を後一歩の処まで追い詰める奮闘に、戦慄する羽目になった。残留争いの裏天王山、アウェイの大阪戦、ロスタイムで何とか引き分けたは良い物の、既に首の皮一枚で繋がっているだけの女学館と較べ、開幕三試合がリーグの三強で勝ち点ゼロ、失点二桁とは言え、入間は手応えを摑み始めていた。次節、ゴールデンウィークの最終日に、埼スタ第二で上り調子の入間と女学館の直接対決。ノエスタの可動式屋根から覗く狭い空が、何処までも遠く感じた
試合後、上りの新幹線の時間まで、三宮の飲み屋で一緒に呑んでいた入間サポに雪駄から連絡が入った。
「俺これから音楽の道に進むから。入間からは手を引く。以上。」
オンガクノミチと言うのが、何のマジナイなのかはさておき、俺とゴンちゃんは一先ずホッとした。態々首を突っ込んだ甲斐があり、その一報が大きな節目となった。大見得を切ったその後、雪駄は矢張りゴール裏に復帰したいと言い出して、入間のホーム戦に遣ってきた事があったが、一度根本から折れた心の芯は、断裂した靱帯同様、完全に復元する事はない。戻っても良くて八割五分。誰しもが新しいプレースタイル、新しい生き方を模索する事になる。雪駄も火の粉を散らす邪気が失せ、現場復帰を突っ撥ねられると、為す術もなくスタンドの躯体の陰と同化し、完全に姿を現さなくなった。取り除いた癌を供養する物好きなんている訳もなく。雪駄が入間に捧げた、血と汗と愛憎は完全に無かった事にされ、梅雨が明ける頃には、話題に上る事も、頭の片隅を
処が、リーグ戦残り二試合となったアウェイの新潟戦に、頭の緩い古参の入間サポが、雪駄を車に乗せて連れてきてしまう。残留争いも佳境に入り、一人でも多くの声援を選手にと思ったのだろうが、何処にでもそう言う、野性の熊と縫いぐるみの熊の区別も付かない馬鹿がいる。ゴンちゃんの話によると、雪駄は現場に着くなり、手元に二百円しか持ってないと言い出した。一部の試合だ。有料だと知らぬ筈がない。それならそうと先に言えば良い物を。何かあると、その時点で異変に気付くべきだった。チケット代を立て替えて雪駄を入場させると、試合開始のホイッスルを合図に雪駄は豹変した、と言うより発病し崩壊した。
当の本人ですら何をしでかしているのか判っていないのだろう、雪駄はゴンちゃん達の仕切る応援には一切同調せず、入間のコアゾーンから離れた所で、大宮のチャントをいきなり喚き散らし始めた。大宮から派遣されてきた監督への当て付けのつもりなのか知らないが、全く意味が判らない。
2:0で新潟に押し切られてタイムアップすると、雪駄はゴンちゃん達に締め上げられ、連れてきた古参のサポですら流石に激怒し、二百円しか持ってない雪駄を車に乗せず、新潟に放って帰ってしまう。チームに帯同していた入間のクラブ役員も、置き去りにされた雪駄を見付けると車を横付けにして、乗せてくれるのかと期待した雪駄に、
「もう、ウチを応援しなくて良いから。」
と吐き捨てて走り去り止めを刺した。
その後の消息は雪駄のSNSでしか窺い知る事が出来ない。インディーズアイドルの追っ掛けを始め、
「週末に天使達に会えるのは幸せ。」
とアップしていたが、半年も経たぬ内に其処も出禁になっていた。恐らく俺と同じで、何処へ行っても揉めて飛び出してを繰り返してきたのだろう。これから先も、狼にすらなれぬ野良犬の様に死に切れぬ儘、人生の裏道を
至極の
「オマエは気持ち悪いから出て行け。」
と平気で面罵する俺も、クラブを貪って自分の肥やしにしている、スタンドの亡者で有る事に変わりはない。
「気持ち悪い。」
と言うのも、言われるのも、
「お疲れ様でした。今日も応援有り難うございました。」
と言われるのも、ガン無視されるのも唯の差異。スタジアムから追い出されるのも追い出すのも、ネットに書き込むのもチェックするのも、クレームを付けるのも付けられるのも、勝者と敗者も、ヤクザと警察も、先生と生徒も、社長と社員も、王様と奴隷も、神と悪魔も、天国と地獄も、ホームとアウェイも、原発がある社会と無い社会も、人類が存続している地球と絶滅した地球も、単なる差違でしかない。女子の現場にしがみついている限り、俺は落人の亜種なのだ。現に今もこうして、蚤と虱のチンケな意地の張り合いから身を引けずに藻掻いている。高々、スマホの液晶の中で自滅しているだけのビッグマックの書き込みに、
「あの売れ残りの腐れチャーシュー、どうしてくれようか。」
と焼け石を投げ込まれた様に脳漿が煮え
「じゃあ、俺達は帰るから。」
甦った光の片隅で、ゴール裏に挨拶を終えた選手達がクールダウンをしている。電光掲示板に幽閉された1:1のスコア。ゴール裏はキビキビと横断幕の片付けを、控えの選手達はピッチサイドのボトルを集めている。ホームチームの今後のスケジュールをアナウンスする事務的な場内放送。夢路を漂うチームフラッグと、
塩爺が患いのある腰を労りながら立ち上がると、陽に焼けた倒木の様な腕を俺の前にそっと伸ばした。立ち上がって広く厚い掌を握り締めると、塩爺は力強く握り返し、ゴツゴツと節くれた野太い指の、皹割れ
「来週、頑張ってこいよ。」
俺は疚しい胸の内を鷲摑みにされ、ズッシリと低く唸る塩爺の声に肩が竦むのを必死で堪えた。
「お前の頑張れは、他の奴が言う頑張れとは違うだろ。」
と言っていた張本人の「頑張れ。」が一番身に堪える。廻りのゴミを拾い身支度を終えたママが俺の背中にそっと手を添え、鼻先にズラしたグラサンから覗く上目遣いが、ココマークを舐める様に煌めいた。
「気を付けて行ってらっしゃいね。お土産とか良いのよ。特に高い物とか。無理なんてしないで。気を遣わなくて良いから。特に高い物とかね。そうでなくても宇和島って言うとアレじゃない。アコヤガイに核を植え付けて養殖する、何って言ったかしら、人魚の涙とか何とか、炭酸カルシウムが主成分の。ええっと、ホラ。」
「モンローの愛した誕生石だろ。」
「そう、それそれ、ディマジオが銀座のミキモトでプレゼントしたのよ。襟足から胸元に掛けて0.5ミリずつ大きくなっていくグラデーションの。何って言ったかしら。クレオパトラがその美貌を保つ為にお酢に溶かして飲んでた・・・・、月の雫とも呼ばれてて、万葉集でも詠われているの。もう、此処まで出てるのに。どうして思い出せないの。日本で過ごしたハネムーン、二人の幸せだった日々は思い出せるのに。嗚呼、ディマジオ、優しかったディマジオ。全部私が悪いの。私の我が儘が。」
感極まって星空を仰ぐママ。完全にモンローと自分の区別が付かなくなってる。俺はグラサンを直してやりながら、奥方の御乱心を
「この前、代表がアメリカに遠征した時も、オードリーのティファニーがニューヨークでどうのこうのとか騒いでたんじゃねえのかよ。まあ、雀の涙なら適当に見繕ってやっから、三つ指付いて待ってろよ。」
固唾を呑んでいたスタンドの気圧が、甘い吐息の様に
式典を終えた王族の様に、悠々とコンコースへの階段を上る塩澤夫妻と入れ違いに、エレーラのゴール裏を早々に引き上げてきた岩井さんが、湶さんとサッコちゃんを引き連れて現れた。
「どうするの?この後行くの?」
口元で手酌を呷る真似をする岩井さんに、
「レイズの方でしょ?まあ、河瀬君とか今日は叩けなかった分、呑まないと気が済まないだろうから、沈没しない程度には付き合おうかなあとは思ってますけど、湶さんどうするの。」
「今日はどうしようかなあ・・・・・と思って。出来れば真っ直ぐ帰りたいけど・・・・」
「へっ、真っ直ぐって、出待ちしないの?夏木に声掛けないで帰っちゃうの?」
「うん、何て声掛けて良いか判らないし。」
「そんなモン、ベンチで水ばッか飲んでないで、早く私を飲み干してとか言えば良いじゃん。」
心の声を代弁され痛し痒しの湶さんから、しっとりと睨まれて心が
「岩井さんどうするんですか?」
「俺は良いよ、だって彼奴らと呑んでも金払わないじゃん。金なんて持ってる奴が払えば良い位にしか考えてねえからさあ。」
岩井さんのボヤキが直球過ぎて、心がファンブルしてしまう。
「じゃあ、岩井さん、湶さんとサッコちゃん送って上げて下さいよ。レイズの連中には俺が上手く言っておきますから。湶さん気分が悪くなったとか、サッコちゃん門限があるから、ソッコーで送って帰らなきゃ行けないとか。」
「えっ、良いの?本当に?」
湶さんの愁眉に色を添えていた邪気が弾けると、瞳孔が垂直にスリットし、牝豹の閃きがコンコースの手摺りを駆け抜けた。
「だって、オマエ等と呑んでも疲れるだけだから先に帰りますとか、言えないッしょ。無論、差し出がましい口を挟まれる筋合ひ等勿い、と
「うふふ、
「
主無き個別シートの点描がスタンドを
「奈央子ちゃんなら下に行って、用具の後片付けとかしてるんじゃないの。手伝って上げたら。男の子でしょ。」
耳の裏を掠めるブリザード。湶さんに後ろから撃たれて弾けた心の欠片が、巻き戻しの出来ない今この刹那に突き刺さり、束の間の永遠に火を点す。
「姫、
「奈央子ちゃんの事、気にならないの?」
「左様。」
「でも、さっき、ずっと見てたじゃない。コンコースで囲まれてる時に。助けて上げれば良いのに。」
「へっ、あっしの、事ですかい?」
「そうよ。」
「ケッ、コソコソ嗅ぎ廻りやがって、テメエ、ただの鼠じゃねえな。」
「そんな口叩いてると、余所の鼠に奈央子ちゃん囓られちゃうわよ。」
「試合に出れねえから、あんな処で変なのに摑まんだよ。まあ、俺が監督だったらあんな奴、足が三本生えてても使わねえけどな。湶さんの方こそ、御贔屓の赤い狐が余所の
「御構い無く。尻尾の数だけ気がある狐なら、那須の
掻き上げた湶さんの黒髪が夜風に
「それじゃ後の事は宜しく。御達者で。」
狡智に長けた俊敏な眦が、踏み絵を顎で指す様に、俺の肩口から鎖骨を斜行する。折り重なる赤と緑の人の波に紛れていくマキシワンピの揺らめき。サッコちゃんは日野さんの本を頭上に掲げて大袈裟に両手を振り、岩井さんは相変わらずコロコロとして憎めない。後何回、スタジアムで湶さんに「さよなら。」を言う事が出来るのだろう。ホームゲートを跨いで粗挽きにされた観衆が群衆へ、群衆から衆人へと粒状化し、本蓮沼の駅や赤羽行きのバス停で濾過され、道なりに沿って続くそれぞれの日常へ拡散し、浸透していく。
湶さんが行ってしまうと、後はもう何をしたら良いのか判らない。試合後の見送りは何時も、
毒を抜かれた
スタンドの照明塔が背を向ける駐車場の薄暗がりを、鮮烈な深紅のラッピングが席巻している。10mクラスの巨漢を我が物顔で横付けにしたレイズのチームバス。大容量のトランクルームを全開にして、荷を積む控えの選手達を
「手伝って上げたら、男の子でしょ。」
俺は足を止めずに、テニスコート脇の自販機へ飲み物を買いに向かった。安い酎ハイを呷って走り回ったツケが喉に来ている。レイズのゴール裏が片付けを終えて出てくるまでもう暫く掛かるだろう。束の間の休息は執行猶予の証。今夜はここからが本番だ。肝細胞の不良在庫を分解処分しておかないと、呑み交わしているのか殴り合っているのか分別不能な、ノーガードの酒盛りが待っている。岩井さんが帰ったからエレーラサポで合流する物好きは居ないだろう。先ずは何時も通り赤羽の中華屋で大テーブルを囲み、飲みホでガチャガチャやった後、出口のない二次会にダイブする。一番街の中に治まって、OK横丁の辺りをウロウロしている内は良いが、一昨年、プラザホテルの向かいに出来た立呑み屋に足を伸ばしたら、本当に無傷では済まない。二十四時間営業で、杯数無制限、泥酔客も断らぬ、赤提灯を並べただけのサファリパークだ。殊に
アセトアルデヒドが垂れ込める時間の概念が崩壊したカウンターで、クラブ愛とゴール裏の総括を迫られる、負のPDCAサイクル。遠征先でどんだけ馬鹿騒ぎしたのかを競い、手前味噌なサポーター論と、
駄目だ。俺はもう既にあの沈没船に呑まれている。余計な事は考えず、一番街のゲートを出たら、レイズサポの裏を狙って駅の東口を突破するしかない。そうだ、今の内にコンビニでスイカをチャージしておかないと。改札の前でまごついたら終わりだ。
「何で頭一つ下げられないんだよ。謝る気ゼロかよ。自分が何したか判ってんのかよ。」
腰の座ってない罵声が、明後日の方角から、ぎこちなく割り込んできた。振り返ると、スポーツ科学センターとスタジアムを仕切る植え込みの脇で、エレーラのレプリカユニがゴシックのサポーターナンバーから不穏な気配を立ち昇らせて硬直している。どう見ても別れ話の
とんだアディショナルタイムだ。ショートケーキに梅干しを載せた馬鹿の面を拝みに繰り出すと、何時もイックンと
「どうするの、これ?プロテクターの枠も曲がってて外れないし。マジで中のレンズまで逝っちゃってんじゃないの。幾らすると思ってんだよ。オイ、何とか言えよ。何時もの偉そうな態度はどうした。」
釈放されたばかりで気が立っているのか。日頃から現場で煙たがられている事もあり、ここぞとばかりに紅潮して捲し立てるカメラ小僧に、セーガクの方は反撃の糸口が摑めない。恐らく、控えかユースの選手の写真を
「大体、俺が何したって言うの。ねえ、そんなに写真撮るのって悪いの?ねえ、ねえ、そんなに悪いの?試合終わってるし、スタジアムの中でもないし。ねえ、ねえ、俺が誰かのスカートの中でも盗み撮りしたとかって言うのかよ?だったら今日撮った写真、全部確認してみろよ。ホラ、見てみろよ。」
徒党を組んで行動する事の多いサイン厨と違い、このカメラ小僧は単独犯で、腹が据わってると言うか、変な処に芯がある。勝つまで喧嘩を止めない奴も面倒だが、カメラ小僧の様に喧嘩慣れしてないと、土鳩が縄張りを巡って殺し合う様に、相手が負けを認めても止めようとしない。狼の痛みを知らぬ飛べない鳥に捕まって、若手はもう限界だ。手が出たら、そこから後は止まらないだろう。試合後のスタジアムの外とは言え、人の眼も有れば警備の奴等も無駄に揃ってる。俺は二人の間に進み出て、若手の鼻先に突き付けられた一眼レフを取り上げると、カメラ小僧は一瞬怯んだもののスイッチを入れ直して吼え立てた。
「何だよお前は、返せよ。器物損壊の証拠なんだよ。見ろよそれ、此奴が遣ったんだよ。器物損壊だ器物損壊。その証拠なんだよ。返せよ。オイ。」
スタジアムに巣くってる者同士、向こうも俺の顔を知らない訳じゃない。面倒なのが来たと思っているのだろうが、お互い後の祭りだ。カメラ小僧とは呼んでいるが、近くで見るともう良い歳だ。こんなオッさんになってまで少女写真に没頭し、血道を上げるのも因果なら、それを黙って見過ごせぬ俺も因果の
俺は軽く息を吐いて躰の力を抜いた。一発でピンのゾロ目が出せなきゃハイそれまでだ。
「テメエ、差し違えるつもりで言えよ。」
奥歯で怒気を噛み殺しながら、カメラ小僧以外には聞こえぬ様、その鼻先に吐き捨てた。たったそれだけの事で、
「すっ、済みません、でした。」
こんな奴を相手に一瞬でも痺れた自分に腹が立つ。指一つ触れてないのに、茹で過ぎたアスパラみたいにフニャフニャ折れやがって。俺は安堵の色を
「片付けろ。」
カメラ小僧は望遠レンズと本体だった二つの残骸を摑んで駆け出すと、人垣の途切れた先に広がる闇に同化して、正体を滅した。上擦っていた胸の鼓動が緩やかに治まっていく。
「アザーッス。」
脇で見守っていたセーガクが屈託のない笑顔を炸裂させ、首を前に突き出す様にして小さく頭を下げる。悪い手本に焦がれる、汚れを知らぬ若さが俺の罪の数を指を折って数え上げる。
「あんなのに手こずってんじゃねえよ。」
セーガクがこれ以上俺の虚行に感染しない様、俺は踵を返した。処が、一歩踏み出したその先に、エレーラのジャージにバックパックを背負ったユースの選手が、母親と
しっかりしやがれ。これは罠だ。躓きの石だ。こんな霞を喰らって何になる。今更、人から認められ、必要とされ、感謝された位で
「お疲れ様です。」
と発していた。
糞が。赤の他人を労うお人好しに、試合で務まるポジションなんてねえんだよ。後から来た連中に出し抜かれて、使いっ走りに廻される位なら、ペットボトルに下剤を盛ってでもスタメンを奪い返せ。俺は挫けそうな虚勢に額を何度も撃ち付けた。そうでもしないと、このベンチ外の聖母に
気が付くと、選手の出待ちをしている人垣の連なる視線で、俺は野次馬の被写体に、衆望の編み上げる歪な虫籠の囚人に成り下がっていた。
破戒の落下速度に俺は昏酔していた。開幕戦で移籍を発表する村里の号泣が、病院の洗面所で髪を洗っていた雪駄の背中の
突き落とされた追憶の井戸の底で、誰かが声を潜めて泣いている。足下に置いたランドセル。日の暮れた団地の片隅に立つ小さな影。土手の小道が夕闇に呑まれている。あれは諸岡川だ。ロイヤルの工場と浄水場の間にある、見える筈のない彼方の下原橋を見詰めて泣いている。団地の鍵を無くして部屋に入れず、土手の小道を自転車に乗り帰ってくる母を待って泣いている。湯飲み茶碗一つ割っても、鬼の様に殴り飛ばす親だ。鍵を無くしたと知れば、闇夜であろうが「探してこんや。」とがなり倒され、ブチのめされる。殴り疲れるまで殴られる。こんな目に遭うのは一度や二度の話しではない。「鍵を拾われたら、家のモンば全部盗まれて、そげん事になったら、どうすッとヤ。」何かに取り憑かれたあの眼の色。その理由が判らずに何時も怯えていた。空腹と肌寒さで震えている。叱られるのが恐くて、そして何より寂しくて泣いている。何時も待っていた。何時か本当の母親が、優しい両親が帰ってくるのではないかと。土手の彼方に灯りが点った。近付いてくる。母の乗った自転車か。大きくなる光に身を固くする。叱られるのが恐くて、でも、嬉しくて、涙が再び溢れてくる。光が大きくなる。赭い光だ。見た事のある赭だ。眼を凝らすと、赭い光が
「あっ、先生、居た、居た。」
テニスコートの脇を抜けて、ゴール裏の片付けを終えたレイズのコアサポが団体で現れた。駐車場の暗がりが原色の玉突き衝突で噎せ返る。
「先生、赤羽集合ね。」
開門前の騒ぎは何処吹く風だ。瞬く間に緋いレプリカユニの渦に呑まれ、レイズサポの高カロリーな基礎体温に炙り立てられる。攻め落とした城の本丸に集結する隊列の様に、旗竿や横断幕を詰めたキャリーバッグ、有りと有らゆる紅い物量が駐車スペースを取り囲み、レイズサポの本陣と化していく。藤井君が飲み会に参加する人数を確認し、番頭格の山ピーが後輩のサポに弄られてキレている。始まった。サポ活の延長戦に開始のホイッスルや、ルールブックなんて無い。裁いてくれるのは何となく流れているその場の空気だけで、後は野となれ山となれだ。
野次馬の眼も、サッカーと女学館に対する
「これはこれは、長浜の夜は女を替え玉、ラーメンは細麺、
相変わらず下ネタ全開で、ベトナムから来たIT実習生みたいな面を擦り寄せ、ギロギロと俺を睨み付ける。何処も彼処もアドレナリンがアイドリング状態で、レイズと交われば、否が応でも緋くなる。
「俺は良いけど、河瀬君とかどうなの?給料日前でしょ。持ち合わせとかあるの?」
「そんなモン、先生は最後のマハラジャと呼ばれた漢じゃないの。マハラジャが歩くと足跡が小判になるんだろ。持ち合わせならここにあるよ、ここに。」
俺がケツに挿しているカイマンの長財布に膝蹴りを入れる山ピーは、これでもそこそこな会社のSEで、歴とした背広組だ。職場での胃酸が
「まっ、出所祝いに、河瀬君の分くらいは俺が出すよ。山ピーは便所の蛇口でも
「ヨッ、流石、玄界灘の沈まぬ太陽。漢一匹。大明神。」
星を数えていた指を止め、涙目で柏手を打つ河瀬君と、差別だ、ヘイトだ、オスプレイだとパヨクる山ピー。そこに、千葉の八千代さんからスマホに着信が入った。確か今日の試合は津山の筈だ。スピーカーの向こう側で、八千代さんのコールリードと酒灼けで潰れた声が爆ぜる。
「先生、今
ちょっと呑もうぜとか言ってるが、レンタカーのハンドルから解放されて、プレミアムモルツを片手に、出発ロビーで既に寬ぐ、ジャージとサンダルが眼に浮かぶ。混じりっ気無しの麦芽100%なら、点滴に混ぜても御機嫌な人だ。死に神も避けて通る千葉のヤクザが、人の事をヤクザ呼ばわりして呑みに誘うのだから、この人の言う事は、メチャクチャか、ハチャメチャか、デタラメだ。
「ったく、ヤクザは独りで十分なんだけどなあ。」
フライングする腹の内に、黄色い方のヤクザが吼え、思わずスマホのスピーカーから耳を逸らすと、
「若しかして、ヤクザから?」
太鼓を叩いてる赤い方が同族臭に小鼻を
「そっ、羽田から上野に向かうって言ってるから、大統領で呑んでてもらえば良いでしょ。」
「ンッ、大統領の盃で今夜は手打ちだ。」
河瀬君のお墨付きで、赤羽経由、大統領行きが開通し、スピーカーの中で騒いでいる土建屋の社長にその旨を伝えた。五月蠅いのが増える度に、今夜のピースが埋まっていく。アルコールの引力に較べたら、太陽系の引力なんてパンツのゴムだ。未だ一滴も呑んでないのに山ピーはしつこく絡んでくる。
「処で、中洲川端の毒蝮さんよお、例の綺麗所はどうしたよ。エエ、オイ、湶さん何処だよ、湶さん。サッサと出せよ。オイ。」
「出せよって何だよ。大人しくポケットに入っててくれるんなら、とっくの昔に持って帰ってるよ。」
「良いから出せ。俺のマラドーナはカテナチオなんだよ。」
「知らねえよ。テメエのジュニオールくらい、テメエでナデシコしてやがれ。それが厭なら、婆ァのマンUか、犬のアーセナルにでも突っ込んでろ。兎に角、湶さんなら朝霞ナンバーのUFOで月に帰ったッつの。サッコちゃんとか門限あっから送ってかなきゃいけねえし。」
「馬鹿野郎、そんなUFO、ササラモサラにしちゃれい。帰ったとか言って、本当はイタ飯屋で待ち合わせとかしてんじゃねえのか。それでその後は、ホテルで
言い負かそうとした俺が馬鹿だった。この男の下ネタに限界はない。これ以上
「ブリキさん、一応これ、俺、立て替えてるんですけど・・・宜しくお願いします。」
出口のない留年生活を続けているとは言え、曲がりなりにも
「
缶とレシートを奪い取り、タブに指を掛けると、河瀬君が俺を背中から突き飛ばし車座のど真ん中にネジ込んだ。
「先生、一言、頼んます。」
藤井君は未だ向こうで飲み会の参加者の確認を取っているのに、河瀬君と山ピーはお構いなしに彌次を飛ばして、俺を急き立てる。酔えば忠臣、覚めれば移籍。この愛すべき魔物の球遊びには、壊れた人間の本能を修復出来る何かが在るのかもしれない。己の人生のエキストラにすらなれない俺には、お
「それでは