ジプシーサポーター   作:tsunagi

3 / 3
第3話

 染太郞から幕が屆いた。終業後、空き倉庫になつてゐる塗裝場の二階を會社に借りて、作業に取り掛かる。ズッシリと重い宅配の封を切ると、包裝紙の裂け目から覗く鮮やかな紺碧の生地が黃濁した螢光燈の明かりを跳ね返す。乾き切つた染料と純綿のパリッとした芳香。去年、染太郞から屆いた鉛丹とは違う新しいチームカラー。此で何囘目の移籍に當たるのか。移籍の囘數は同じ過ちを繰り返してゐる証。ジプシーサポーターに終の栖なぞ望むべくも勿い。復た一枚、白紙の履歷書が增えた丈け。

 社員は皆退社して靜まり返つた工場。床にブルーシートを敷き、其の上に10m×2mの眞つ更な橫斷幕を廣げる。ロープで補強された緣に沿つて空いてゐる總ての鳩目に紐を通し、鐵骨の柱に括り附けて生地を張る。デザインを書き寫す目安となる基準點を縦横50cmの等閒隔に打つていく沈默の作業。幕の上を走る衣擦れの音が呼び覺ます、眩し過ぎる記憶。初めての單獨應援。夜行バスで片十三時閒の遠征。選手の御兩親からの差し入れ。アウェイゲームで橫斷幕の設營を手傳つてくれた、對戰チームの運營責任者。スクール生の父兄が語つてくれたクラブの實狀。噓僞りの勿い選手達の淚。樣樣な出來事と人人の顏が浮かんでは消えていく。降り注がれた優しさに背を向けた疚しさが、衣擦れの音に染み渡る。

 俺は福岡を棄てた。子供が出來上がつた積み木を崩す樣に、復た、夢中に爲つて追ひ掛けてゐた物を放り出した。去年作つた10m×2mの橫斷幕も棄てた。5m×3mの幕も個人幕も全部、45Lの半透明の塵袋に詰めて燃える塵の日に出し、大きさが大きさな丈けに囘收され勿いかもと心配したが、仕事歸りに收輯所の前を通つたら呆氣なく囘收されてゐた。所詮、そんな物なのだらう。等分割した下書きの紙を原寸大に拡大した80枚のコピー紙を基準の點に合はせて竝べ、バラバラに爲つた心の缺片を整理する樣に作業を進めていく。去年、同じサイズの幕を作つた事も在り、勝手を知つてゐる分、指先に迷ひは勿い。スタンドの最前列で騷いでゐるより、元元、斯う云ふ裏方の仕事の方が性に合つてゐるだらう。手作業を爲てゐる時だけは心が落ち著く。

 なでしこバブルは旣に峠を越え、斜陽化の跫音は直ぐ其處まで來てゐる。嚴しい運營を強いられるのは福岡に限つた事では無く、此からが本當のサポートを問はれる時なのに、一體、自分は何が爲度いのか。ネットの掃き溜めを覗き込めば、女子サッカーは今も嘲笑の標的だ。同じサッカーファミリーで在るにも拘わらず、スピードが勿い、パーワーが勿い、迫力が勿い、下手糞、A代表で男子の中學レベルと、女子サッカーを最も虛假にし續けてゐるのは、己の歪んだ知識を衒し度い丈けの似非サッカーフリークだ。女子サッカーに陽の當たらなかつた頃には比較的溫和しかつた同族嫌惡は、W杯での優勝に對する妬み嫉み、有名税も相俟つて、なでしことは似而非なる徒花で咲き亂れてゐる。華を翫びて、其の實を育てぬ賢しらな空言。俗耳に心地良く、卋閒の好奇を㐂ばせる丈けの俗論が何故罷り通るのか。此の手合ひは、Jリーグに關しても欧州と較べたら何うのと上から物を云ひ、一廉の積もりで知つた樣な口を叩いて憚ら勿い。彼等が信奉するイングランドでも、女子サッカーに對するヘイトが年年過激化して問題視されてゐると聞く。フーリガンは云ふに及ばず、そんな物迠、御丁寧に眞似して何うするのか。卋界を物差しに日本を卑下しやうと云ふ聯中に取つて、日本が卋界で在つては困るのだ。己の出自に怪事を附け、俺は此奴等とは違ふと叫ぶ事でしか、浮かばれぬ己の吝嗇な境遇。虎の威を借る狐が狙ふのは、冷めた厚揚げと相場が決まつてゐる。餘所の國の出來事を自分の手柄の樣に喋る奴に碌なのは居勿い。明治開闢の遙か昔、漢學が學問と同義語だつた時代から續く此の国の宿痾。日本サッカーがプロ化する前、日本人にサッカーは向か勿いと云つてゐた輩も、其の根深い亞種だ。所詮、勝ち馬に乘つて騒いでゐる丈けなのだらう。欧州のトップ選手達をハリウッドスターやフェラーリや何かと混同し、シャネルやヴィトンで著餝る樣に贊辭を送り、其れ以外を扱き下ろす。其の云ひ種は己の心の卑しさを映し出す鑑だ。育成年代から本氣でプロを目指し、サッカーに打ち込んでゐた者なら、Jのクラブチームからプロ契約を勝ち取つた者達を、サッカーに人生を賭けた者達を鼻で笑う事など出來る譯が勿い。其れは女子とて同じ事。Jの試合前、ピッチ練習に出て來た選手達のキックやトラップの精度や强度は、素人の自分から爲れば雲の上の出來事。本當に眼が肥えてゐるのなら、育成年代や未就學兒の試合や練習も數限り無く見所が在る。草サッカーや街のフットサルコートでも通り掛かれば足が止まり魅入つて終ふ。スポーツを樂しむ上でカテゴリーや競技レベル等、刺身のツマでしか勿い。確かにスポーツには勝ち負けが存在するし、技量や體力には優劣が在る。倂し、スポーツの尊さや素晴らしさは勝ち負けや優劣を越えた處に在る。人に上下が勿い様に、スポーツに上下が在る物か。映畵評論家の淀川長治は、何んなに下ら勿い作品でも絕對に映畵の惡口を云はなかつた。愛の勿い批判には喰つて掛かり、其の映畵の素晴らしい處を一つでも探し出して熱弁した。心の底から映畵を愛してゐたからだ。

 スポーツとはフィジカルエリートにのみ赦された聖域なのか。頂點に辿り着ける可能性の勿い者の努力は無駄なのか。男子と較べてスピードやパワーが勿いから駄目と云ふのなら、總ての女子スポーツと障礙者スポーツに存在意義は勿いのか。自分は寧ろ、女子選手や障礙者の選手に對して、優越感では無く劣等感しか懷く事が出來勿い。ブラインドサッカーを一度でも觀戰すれば、スポーツを越えた、心と體の激突を目の當たりにする事だらう。手足が勿い、眼が見え勿い聞こえ勿い。そんな物はスポーツとは何等關係の勿い些事だと思ひ知らされるだらう。況んや、生きる事に於いてを乎。籍を置く中學に女子の部活が無く、男子に交じり野球部やサッカー部でボールを追ひ掛けてゐる女子の存在は、體力も氣力も無く體育会系の部活など考えられ無かつたシャバ僧には驚異でしか無かつた。而も、カテゴリーが上がれば上がる程、女子の門戶は鎖ざされ男子との格差は擴がつていく。先の見え勿い境遇に抗ひ競技を求道し續ける姿は、打ち込める物も無くダラダラと餘生を過ごしてきた己の不甲斐なさを彈劾する。少なくとも自分には女子サッカーを罵倒する資格は勿い。指導者養成講習會の修了者に附與されるJFAの公認ライセンスの樣な、女子サッカーを馬鹿に出來る資格が此の星に在るのなら、是非とも提示して頂き度い物だ。確かに、女子のA代表は男子の髙校生との練習試合で力負けして終ふ。其れは、自分より弱い者に勝つより、自分より强い者に負ける方が、負けると判つてゐても挑み續ける事の方が、得るものが大きいと云ふ事を、周りから何どんなに笑はれやうと、女子が恆に實踐してきた證しだ。此の何處が可笑しいのか。女子サッカーを糞味噌に云つてゐる者達は、常日頃どんな巨人に立ち向かつてゐるのか、是非とも御教授願ひ度い物だ。相手と同じ立場に立た勿い限り、相手を批判する事は出來勿い。相手の立場に立たずに人を判斷してゐる者達は、自分が苦しい立場に陷つた時、如何う辯明する積もりなのだらう。

 知り合ひで競技に輯中出來る環境を求め、トレーナーと共に仕事を辭めた奴が居る。オリンピックに出場する爲だ。実力はメダル圈外の遙か彼方、オリンピック候補とも呼べぬ泡沫選手で、スポンサーも無く貯金を切り崩し乍ら、夢を追ふと云ふより、模索してゐた。オリンピックを目指す總ての選手が金メダルを求めてゐる譯ぢや勿い。手辯當で夫夫の色のメダルを目指してゐる選手と支援者が、滿天の星空の樣にスポーツの卋界には犇めき輝いてゐる。倂し、そんな身近で活動してゐる情熱の塊を、オリンピックに何て出られる譯が勿いと、何時迠も夢を枕に寢惚けて勿いで真面目にコツコツ働けと、卋閒は得てしてスポーツ馬鹿扱ひし、蔭で茶化してゐる物だ。實際、其の知り合ひが仕事を辭めた理由の壹つも、殘業をせずに定時で退社する事に對して、社内の蔭濕な誹謗中傷に耐え切れ無くなつたからだ。オリンピックの出場が決まり、スポンサーが名乘りを擧げ、辭めた會社から祝辭が屆いても、砂糖に群がる蟻にしか見え無かつたと云つてゐた。

 W杯で勝つた直後は上げ潮に乘つて擔ぎ上げ、賞味期限が切れたらスキャンダルを嗅ぎ廻つて扱き下ろす。そんな物は卋の恆、人の恆。晴れてゐる時には傘を押し附け、雨が降つてきたら奪ひ取るのが奴等の習性だ。其の軽薄な利己主義を逆手に取る强かさと耐久性をメジャースポーツは心得てゐる。マスコミへの露出は競技の人氣獲得には不可缺な最も短絡的な劇藥だ。女子サッカーも其の恩惠を最大限に受け、熱狂的な效用が薄れるのと入れ違ひに、領收書代わりの毒が徐かに廻り始めてゐる。まるで夢を見た御前達が馬鹿だつたのだと云はん許りに。藝能人同樣、卋閒の弄び物にされた、なでしこの現在地。所詮、マスコミとは殺蟲剤の効か勿いゴキブリだ。選手はワイドショーや寫眞週刊誌のネタに成り下がる爲に、日日のトレーニングに勵んでゐる譯ぢや勿い。況してや、始めから應援する氣の勿い聯中の彌次を我慢する爲に精神修養してゐる譯でも勿い。ソフトボールに女子野球、ハンドボールにホッケー、女子ラグビーと較べれば、協會の手厚いサポートが有り、其の零落をネタに爲て貰へてゐる丈け未だ增し。そんな氣休めも聽き飽きた。

 女子サッカーは復た振り出しに戻る。俺が福岡を辞めて壹からスタートを切る樣に。其れなら其れで良いのかもしれ勿い。W杯の優勝で眼が眩み、見失つた物が、祭りの前の記憶と共に再び其の輪郭を取り戻し始めてゐる。メジャースポーツの一員と爲つてマネーゲーム化している狂亂の坩堝に飛び込むのが本當の成功なのか。マスコミに身請けして人氣を取り戾せれば其れで良いのか。惡魔に魂を賣る價値は有るのか。其れは人の幸せとは何かを問ひ直すに齊しい。資本力の優劣と直結した勝敗に、スポーツが介在してゐる意義は在るのか。自分達は唯、テーブルの上に積み上がつた札束を見上げてゐる丈けなのでは勿いのか。奧秩父の影森グラウンドで觀戰した、皆が皆、其の一試合を開催する爲に身錢を出し合ひ、純粹にサッカーが好きな者達だけが寄り添つてゐた彼の頃が愛ほしい。いつそ、W杯に優勝する遙か前の闇の中に此の身を投げて終ひ度い。光とは闇に眼を凝らす心の中に在る。サッカーに託けて好き勝手な事を云つてゐる丈けの、慘めな自己顯示慾を見返す必要なんて勿い。所詮、優越感を滿たす爲に負け犬を求めてゐる聯中だ。狼に手を出したら嚙まれて終ふが、愚か者に手を出したら其れ處では濟ま勿い。エリートアスリートと云ふ旣存の権威に媚びてゐる丈けの、サッカー通を僭稱する輩は、屈折した心の檻の中から試合を眺めてゐれば良い。譬へ女子サッカーが振り出しの前の前に戻つても、其れは決して零では勿い。W杯を沒收される譯でも、卋界最髙峰の大会で優勝した事實が取り消される譯でも勿い。女子サッカーを貶める輩のどんな人生よりも、絕望的な逆境を撥ね除けて、なでしこは星を摑んだ。其れが總てだ。刻み込まれた歷史の種は必ず芽吹き花開く。其れを信じるのがスポーツと云ふ物だ。

 止め處無き隨想を擦る樣に、圖面を確認し乍ら順列通りにコピー用紙を竝べ、形を成してきた橫斷幕の全貌。X-GIRLの大首繪を中心に据ゑて、兩翼に羽擊く"IRUMA"と"ON MY MIND"のビッグロゴ。笹舟の樣に飜弄されるクラブの運命に抗ふ、「我が心の入閒」に籠められた最後の矜恃。先週末、今年から応援する入閒のクラブ事務所に招待された。スポンサー企業の事業所内に建てられたプレハブに、控へ目なクラブ名の表札。山積みの練習道具、朱書きのスケジュールで埋め盡くされたホワイトボード、片手で數へられる程の事務机。新築マンションの工事現場事務所の樣な室内。倂し、譬へ女子のアマチュアチームと雖も、其處は聖域だつた。サポーター・後援会・トップ・代表ミーティングと銘打たれた顏合はせ。後援會事務局長の森山さんから事前に配られたプリント用紙には、出席者名と其の肩書きが列擧され、席次表の中に、熱烈サポーターとして自分の名前が刷り込まれてゐた。建前でしか勿い地域密著。金以外のサポートは内政干渉。そんな誰かの私物でしか勿いクラブを応援し續けてゐた者に取つて、信じられぬ厚遇。試合を盛り上げる爲のスタンドの御餝りでしか無かつた自分を乘り越え、本當のサポートをする爲の第壹步。自分の存在が認められた實感。移籍したのは閒違ひぢや無かつたと云ふ昂揚は、ミーティングが始まつた途端、其の出鼻を挫かれた。

 理事長の早稻田 、今年から事業統合ダイレクターに就任した林を上座に、ボランティアメンバーで構成された後援會事務局の三人、後援會事務局長の森山、後援會會員代表の中井、熱烈サポーター応援團リーダーと稱されてゴンちやん、マーシー、猪瀨さん、俺の四人が席を聯ねる折り畳みテーブル。早稻田は開会の挨拶も早早に、去年の決算に就いて捲し立てた。

 「莵に角ですね。參佰萬の赤字を何う補塡するのか一向に見通しが立たず、此の儘ではクラブの消滅と云ふ瀨戶際迠追ひ込まれてゐたのです。私としても老後の事も在りますし、私財を投ずると云ふ譯にもいかず、斷腸の想ひで今囘の決斷に至つた次第で。」

 行き成り金の話で捩伏せてきたクラブ理事長。參佰萬の損失補塡を募る爲には、チーム名から入閒を排除し、ホームタウンを埼玉全域に擴充する苦澁の選擇以外に無かつたのだと釘を刺すのも無理は勿い。地元の化粧品メーカーを冠スポンサーに迎へ、其の自社工場が在る飯能にクラブハウスと練習場を新設し、近い將來待ち構えてゐるクラブ運營のライセンス化を見据ゑ、NPO法人から株式會社化に移行する準備は著著と進められてゐるが、フランチャイズの問題を避けては通るのは道を引き返すに齊しい。県内の競合クラブにはレイズと云ふ絕對的勝者が存在し、大宮もレディースチーム發足に動いてゐると云ふ。正直、Jを母體にしてゐるクラブの閒に割つて入るのは竝大抵の事では勿い。W杯優勝のバブルに沸いた神戶も、其の後の追い風は無く、苦しい動員を强いられてゐる。入閒の町興しに拘つてゐては地元競合クラブの後塵を拜する丈けでは濟ま勿いだらう。Jの卋界でも多くの自治體やサポーターが此の煮え湯を飮まされ、我が町の冠を護り切れた例しが勿い。倂し、だからこそ逆に、上を目指すのでは無く本當の意味での我が町のクラブを目指すと云ふ選擇も在る・・・・・・・何て、そんな生つちよろい考へで話しを遮る氣にも爲れず、早稻田のスポーツとは無緣の二重顎が咳くのを、己の不甲斐なさを噛み締める樣に苦苦しく眺めてゐた。

 理事長の吹つ掛ける參佰萬と云ふ額がリアルなのかブラフなのか、自分なぞには藪の中だ。後援會は帳簿の讀み書きに長けてゐる入閒の財界人で固められてゐるのだから、其の面面が眼を光らせてはゐるのだらうが、其の後援會の役員の一人が後援會費を著服してゐた事が發覺して、一昨年、クラブが一部から二部に降格した時には、火に油を注ぐ事に爲つた。己の給料明細を見るのが厭で、口座に振り込まれた額と睨めつこする何て爲た事の勿い自分には、見たくも聞きたくも勿い卋界。倂し、此も復た、避けては通れぬ道なのか。内の田舎のJクラブは伍仟萬の資金繰りでクラブライセンスを失ひかけた。參佰萬でクラブが傾き、ケツを持つ者も現れ勿い。其れが女子サッカーの實狀。今迠、情熱と云ふ蕾の儘で散つたクラブは數知れず。Jクラブのレディースチームですら黑字化してゐるのは一握り處か本の一匙。基本、男子トップチームの御荷物だ。二部からの昇格初年度。一部定着の爲、呑める物は呑まなければ。霞を喰つてクラブが强く成るのなら誰も苦勞はし勿い。誰しも此の儘ではジリ貧なのは判つてゐる。然うと判つてはゐても、女子サッカーのサの字も無かつた八十年代半ばに入閒市地域少年團の女子チームとして發足以來、物心兩面でクラブを支へてきた後援會は、スターへの階段を驅け昇つていくアイドルを見送る様な譯にはいか無かつた。後援會事務局長、好好爺で腰の低い森山さんの横顏が次第に紅潮していく。

 「だからと云つてね、ユースチームの練習場迠、飯能に移轉すると云ふのは何う云ふ事ですか。」

 「復た其の話しですか。土のグラウンドを轉轉とするよりも、トップチームと同じ芝の上で腰を据ゑて練習をした方が良いでしよう。クラブハウスが出來れば更衣室も浴場も使えるし、食事の用意も出来るんですよ。」

 「あんな埼玉の外れで、驛から出てるバスが一時閒に一本在るか勿いかぢや、選手もユースの子達も通ふのが大變ぢや勿いですか。川越市と提携して川越の競技場をホームスタジアムにすると云ふ話しにしても、私達に相談も無しに次次と進めて。一體、何う云ふ積もり何ですか。」

 雀斑だらけの顳顬を茹で上げた森山さんと、完全に辟易してゐる早稻田と林。手元のプリント用紙に刷り込まれた、熱烈サポーターの文字に眼を伏せて、森山さんが此處に自分達を呼んだ意味が良く判つた。日蔭者の道を步み續けた女子サッカーを、支へ續けた本當の支援者が押し通す最後の抵抗。手鹽に掛けて育てた孫娘の樣なチームだ無理も勿い。其の生娘が一つ復た一つと入閒から引き剥がされていく。西武池袋線入閒市駅から徒步二十五分、入閒川河川敷に整備された黒須市民運動場のサッカー場で、年に二試合トップチームの試合が組まれてゐる。チームに取つてはホームタウンで試合の出來る眞のホームゲームだが、ピッチの周りは簡易ベンチと木蔭と盛り土が在る丈けの、將に練習グラウンド。今迠は其れで良かつたが、幸手や影森と云つたグラウンドで試合が出來るのは二部迠の話し。一部定着の爲には有料試合が出來るホームスタジアムの確保は急務だ。現狀、入閒市内にサッカーの興行が出來るスタジアムが無く、作らうと云ふ氣運も勿い以上、市外に其れを求めるのは當然の事。幾ら女子とは雖も全国リーグ一部に籍を置くチーム。街の規模からして入閒一都市でクラブを賄ふ等、土台無理な話だ。成長に伴ふ一過性の痛み。倂し、然う割り切る事の出來ぬ遺恨が、橋の勿い河と爲つてクラブ事務所に橫たはり、底流してゐた。

 「後援會が在るのに新しくファンクラブを募ると云ふのも意味が全く判ら勿い。」

 吹けば飛ぶ樣な小さな繩張りを大の大人が奪ひ合ふ。二部からの昇格初年度。一年、一年が勝負の年だと云ふのに、クラブは旣に空中分解し始めてゐた。森山さんの追求は輯合寫眞のポスターに迠及び、寫眞撮影に閒に合は無かつた選手を應援しているファンの心境は如何許りかと、何故、選手全員が揃つてから撮影し勿かつたのか執拗に訴へる。其れは同席してゐる熱烈サポーターの御旗を掲げた自分達にも、クラブを護る爲、一緒に声を擧げて慾しいと云ふ慟哭だつた。恐らく、此の會議のテーブルを卓袱台返しに理事長と事業統合ダイレクターを彈劾し、總てを撤囘させるとは云はぬ迠も、入閒市後援會の存在感を誇示して慾しいのだ。何時ものゴール裏の勢ひで。

 森山さんの必死の形相を直視出來ず、ゴンちゃんと入閒市在住の古參サポ、猪瀨さんの樣子を盜み見る。餘計な眞似をする積もりは更更勿い。總ては二人の出方次第だ。ゴール裏のトラブルメーカーだつた雪駄を入閒から追ひ出して二年と經たぬ内に、今度はクラブの事務方のツートップを締め出す何て、そんな馬鹿な。ゴール裏の泥溝浚ひに手を染めて以來、其れと無く自分の耳元で、反りが合はずに揉めてゐる自チームのサポの讒言を呟く仲閒が增えていつた。御伺ひを立てる目的は唯一つ。そんな物を生業にしてゐる積もりは無くとも、需要には事缺か勿い。氣持ちは判るが俺に如何しろと云ふのか。森山さんは純情に過ぎる。幾ら早稻田と林に嚙み附いた處で、此の二人には老害の御亂心。痛くも痒くも勿いだらう。總ては既定路線に沿つて肅肅と處理されてゐる。クラブ運營に取つて産みの親の入閒は、最早御荷物でしか勿い。血を分けた親を老人ホームに幽閉する樣に、蚊帳の外へと追はれる森山さんとホームタウン。餘りにも健氣で果敢勿い其の境遇。だからこそ寄り添ひ、肩を持たずにはゐられ勿い。荒涼とした卋閒に飜弄される物の哀れは、撫子と云ふ大和言葉に相通じ、日本の女子サッカーがW杯で咲かせた大輪の花とも、決して無緣ぢや勿い。合理化と採算化の名の許に成果主義と功利主義に取り憑かれ、泥溝に落ちた小錢を汚物塗れで掘り起こす亡者を星の數程見てきた。同じ背廣組でも森山さんは眞つ向から籍を違へる。返せ勿い借りは首を括つて返す。然う云ふ漢だ。其れに對して、

 「今期より事業統合ダイレクターを勤めさせて頂きます。林と申します。宜しく御願いします。」

 問題は此奴だ。東武鐵道から出向してきた瘦身長軀の見榮えのし勿い此の男は、所作の總てにそつが無く、堅守と驅け引きに長けた手强さを隱し持つてゐる。己の非は幾らでも認めて頭を下げ續け、其の場を一步も引か勿い曲者。第一印象はそんな處か。森山さんの追求を穩便に受け止め、氣が附くと次の議題に持ち込んだ、我を捨てて實を取る其の手腕は中中、堂に入つてゐる。佐賀のJクラブで運營に携はつていた實績を買われて招聘されたらしく、佐賀のサポに確認を取ると、林と云ふ名に覺えは勿いと云ふが、

 「生田さんには公私共に御卋話に爲って、色色と勉强させて貰ひました。」

 試しに、佐賀のGMで名伯樂の生田氏の事を切り出すと、善くぞ云つてくれたと許りに、顔の勿い男に微笑みが彈けた。意外だつた。恩師に對する尊崇の口吻に噓が有るとは思へ勿い。

 「今季のチーム目標はエキサイティングシリーズの上位リーグ進出です。上位リーグは十試合。下位リーグに廻ると六試合しか在りません。營業的にもホームゲームの二試合を取り零すのは死活問題です。二部降格等、以ての外です。」

 クラブの組織圖と今期の事業計畵を說明し終へると、林は具體的な施策を列擧して非の打ち處を與へず、手持ちの書類を脇に置いた儘、テキストリーダーで合聲してゐるかの樣に、事細かに數値化されたクラブのデータを諳誦し始めた。

 「限られた人材を有效活用する爲に、スポンサー獲得に關する營業は成果に依る步合制で外部に委託しました。」

 「ホームゲームの會場でグッズ購入の際、東武カードのポイントが貯まる端末の設置を、開幕迠に閒に合ふ樣、進めてゐます。」

 「東武東上線の各驛に吿知のポスターを貼らせて貰へる樣に手配しました。」

 期日、ノルマ、目標値、經費、利益率、差額、営業外收入、特別損失、流動資産、資本金、剰餘金、課稅對象區分。会議テーブルの上に累累と積み上がつていく數字の防壁を、忸怩たる念ひで睨み附ける森山さん。當然、經理も法律も素人の自分なぞ全く手が出勿い。相手が自分より賢い時は黙つてゐた方が良い。此奴の尻尾を摑んで引き擦り降ろすのは至難の業だ。而も、狐の尻尾が一本だとは限ら勿い。其の狐慧を揮つて海千山千の手練れを相手に、クラブを切り盛りしてくれるのか、將又、飛んだ馬脚を曝した途端、煙に卷かれて終ふのか。枝埀れ柳の樣に影の薄い、顏の勿い男。斯う云ふ官僚肌の事務方が、何の罪惡感も持たずに淡淡と殘虐な巨悪を差配してきたのが、近現代に於ける人類の歴史だ。今、眼の前に居る事業統合ダイレクターと云ふ肩書きは唯の空蟬で、其の實體はもう旣に、組織の中に密室を作り、内から鍵を掛けてゐるのだとしたら。此の下衆の勘繰りが林の才覺に對する、取るに足ら勿い嫉妬で在つて慾しい。然う禱るしか勿い。

 クラブ運營の内幕は、選手、監督、コーチ、スタッフ、フロント、スポンサー、協會、地方自治體、サポーター、マスコミが渦卷く、終はり勿きトラブルの坩堝だ。伏魔殿への第一步は始めから足の踏み場の勿い野戰病院。そんな現場は粗だと云ふ。だと爲れば、此處は未だ虎穴の入り口ですら勿い。恐らく森山さんがゴリ押しして開かれた此の會合を、早稻田と林は此以上、部外者に敷居を跨がせ勿い爲の豫防線に擦り換へてゐる。此奴等は始めから同じ土俵に上がる積もり何て勿い。其れなのにゴンちやんは暢氣にサポーター風を吹かせてゐた。

 「勝つた試合の後にサポーターと選手でダンスがし度いんですよ。一緒に勝利を憙び度いんです。」

 Jの試合で遣つてゐるから内でも遣り度い。現場を盛り上げ度い。ゴンちやんの思考は唯、其れ丈けだ。Jの試合後に良く見るラインダンス。一見微笑ましい光景の樣だが、俺は正直遣りたく勿い。其の手の馬鹿騷ぎが好きなノリの良い選手は良いが、實際には戶惑つてゐる選手が相當數居て、傍から見てゐても試合後の餘計な仕事の一つで痛痛しい。一刻も早く體のケアを爲度い選手の氣持ちを考へれば親切の押し賣りでしか勿い。彼の手のラインダンスに出會すと何時も、コンビニで當たり籤を引いて當たると、店の商品と引き換へてくれると云ふ、押し附けがましいサービスを思ひ出す。長蛇の列が出來てゐる客を放つてレジを離れ、商品を探しに行くワンオペの店員を見る度に、金品より貴重な時閒を平氣で臺無しにし、卻つて客に負擔を掛ける事の何處がサービスなのか何時も不思議に思つてゐたが、本社に現場の實狀がフィードバックされたのか、最近其の手の御節介を見無くなつた。始めから總ての商品の單価を下げれば良い物を、其れを遣ると、他社との値下げ競争に陷つて終ふ爲、ポイントや引換劵で御茶を濁してゐる似非サービス。客の爲のサービスで在つて、サービスの爲の、否、サービスと云ふアリバイの爲に客が居るのでは勿い。選手の負擔を少しでも減らしてやるのがサポートだ。選手の爲にサポートが在るので在つて、サポートの爲に選手が居るのでは勿い。スタンドとピッチ内の主客を逆轉させるゴール裏の越権行爲は、何のカテゴリーのクラブに取つても惱みの種だ。其れを監視するのもサポの務め。厭な役囘りの一つだ。ラインダンス程度で角突き合はせる積もりは毛頭勿い。人の猿眞似を爲ても、猿にしか爲れ勿い。そんな事より、

 「少しでもクラブを県内で認知して貰へる樣に、ユースの試合やスクールの吿知のポスターとか自分達で作つて揭示し度いと思つてゐるんですけど、何うですかね。クラブの迷惑に爲ら勿い範圍で遣り度いんですけど。埼玉だとユースのセレクションとかでも皆、レイズに行つちやうでしよ。矢張り悔しいぢや勿いですか。パソコンでサンプルを作るんで、出來たらチェックして貰つて、試合が終わつたら自分達で囘收もしますから。」

 俺の提案は極極些細な物だつた。スポンサーに成れる程の資力も器量もが勿い以上、クラブの手が囘ら勿い處をカバー出來れば其れで良い。ゴール裏の檜舞臺で脚光を浴びるより裏方の内職。福岡では望むべくも無かつたスタンド外での支援。今は唯、出來る事を一つ一つ增やしていき度い。其れ丈けだ。

 「ユースの試合の吿知ですか。其れは全然頭に有りませんでした。遣つて頂けますか。いやあ、助かります。」

 出來レースの此の會合で林が初めて身を乘り出すと、柄にも勿い事を口走つて終つた樣な氣恥づかしさが頸動脈を熱く掻き毟る。早く此の場から逃げ出して終ひ度い。瘕一つ勿い眞つ更なプレハブの板壁、書棚に竝んだファイルに挿さる七色の附箋、朱書きのスケジュールを墨守するホワイトボードのコントラストが眩し過ぎて、網膜を暗轉するクラブ事務所。今年はリーグ戰とカップ戰のホームとアウェイに、ユースの現場も全試合廻る事に爲る。未曾有の此の一年を果たして完走出來るのか、驅け拔けた其の先で何んな景色が待ち構へてゐるのか。總てが輝ける闇の中だ。

 

 「ヨッシー、精が出るね。」

 

 腐蝕した外階段を上がつてくる跫音にも氣附かず振り返ると、工場に鄰接する自宅で夕食を終へ、爪楊枝を斜に銜へた專務が立つてゐる。

 「今年は蒼か。去年のオレンジも良いけど、蒼も良いねえ。颯爽と爲てて、代表の橫斷幕みたいぢやん。」

 何の惡氣も無く痛い處を突かれて、

 「そっ、然うですね。」

 コピー用紙のモザイクで浮かび上がつた、冥想する少女の神祕的な面差しに瞳を泳がせて、己の真意を探る樣に力無く口籠もる事しか出來無かつた。

 

 

 

 「四月二日に檢査豫定の髙座向け混練機の組み立てと倂行して、四月中旬に檢査豫定の長岡向け混練成形機の組み立てを進めてゐます。髙座向け混練機は勝手違ひで納品されてゐたモーターの代替品が屆き次第、セッティングと試運轉を行ひ、作業自體は半日程で終へる豫定です。長岡向け混練成形機は六割方組み上がつてゐて、後三日程で試運轉が出來ると思ひます。四月下旬から五月に檢査豫定の我孫子と練馬向けの混練機は在庫部品の確認が終はつてゐて、製罐も塗裝から上がつて來てゐるので、シャフト、ギヤ、パドルが納品され次第、隨時、本體とギヤボックスを組み立てていく豫定です。」

 未だ寒氣の緩む氣配を見せぬ朝の靜寂に、少し氣負つた聲朗が滲み渡る、精錬一徹な鋼材の群像で埋め盡くされた工場内。堅調に進捗してゐる來月迠の見通しを澱み無く誦んじると、土曜出勤の圓陣の中心に人差し指を突き出して口角を引き締め、一氣呵成に喚呼した。

 「其れでは御唱和願ひます。

 

 足許  ヨシ、

 服裝  ヨシ、

 體調  ヨシ、

 

 今日も一日御安全に。」

 朝礼を終へて持ち場に著くと、水平を出して竝ぶ二本のH鋼の上に縱列で設置されたフタル酸シルバー塗裝の筐體が二臺。全長3508mmと3040mmの頑軀が不貞不貞しく横たはり、構造物の犇めくスレート建屋で、此見よがしに幅を利かせてゐる。髙座向け混練機は總重量が3t。長岡向け混練成形機は5tを越える堅物だ。チャンネルで組まれたベース架臺に、混練パドルを内蔵した本體、ギヤボックス、パラマックス減速機、三相モーターをボルトオンし、チェーンカップリングとパワースクラムベルトで聯結した、SS400、一般構造用壓延鋼材の驅動裝置。清掃工場で塵燒却後、炉心内に殘存浮遊する飛灰を練り固めて排出する、内の會社の主力商品で、取引先は全國の自治體。受注が途切れる事の勿いドル箱だ。事務机の脇に掛けられた黑板に掲示された、每月四臺のペースで半年先迠埋まつてゐる混練機の案件。混練機自體の利益はトントンだが、定期點檢で總入れ替へ爲るパドルとスクリューに旨味が有り、脇の甘い御役所仕事の恩惠に與つてゐる。此處に來る前は髙層住宅の重量鐵骨許りを扱つてゐて、驅動系の製罐と組み立ては未知の領域だつたが、緻密な製品精度と輻輳する案件を管理する特性が自分の有る事を發見し、我乍ら驚いてゐる。體力勝負の鐵骨屋には、もう二度と戾れ勿い。

 支給品のパラマックス減速機、三相モーター、超硬チップのタンガロイを鑞附けしたパドル、外注のシャフトとギヤ以外は、一から鋼材を切り出してベース架臺、ギヤボックス、本體を溶接加工し、應力除去燒鈍後の機械加工を經て組み上げていく。分厚く積み上げられた製作圖面に眼を通さずとも、頭の中では旣に組み上がつてゐて、後はカレンダーから逆算し、時計との追ひ驅けつこだ。ベース架臺に鎭座した、直径160mmのシャフトを二本、機械加工面から1153mm、牙の樣に剝き出しにして銀爛の旺羅を放つ、長岡向け15型混練成形機のギヤボックス。此奴だけで2.8tを超える、軽トラが突つ込んだ位ではびくとも爲勿い弩級の鋼漢で、組み立ててゐるのか、此の鐵塊に傅いてゐるのか判ら無くなる。今日は半ドンの早仕舞ひだ。此の獰猛な物量に壓倒されてゐる場合ぢや勿い。

 午後一で入閒のサポが内の會社に遣つて來る。橫斷幕の仕上げの爲だ。自分獨りで遣れ勿い事も勿いが、今日全部塗り終へれば來週土曜の開幕戰迠、丸丸一週閒、橫斷幕を乾かす事が出來る。アクリル塗料は安価で扱ひ易いのは良いのだが、確り乾かさないと幕を折り畳んだ時に塗料面同士が癒著して終ふ。明日、日曜一日掛ければ十分獨りで塗り切れるが、萬が壱、現場で廣げて乾き切れてゐ無かつたら眼も當てられ勿い。塗り終はつたら一分一秒でも長く廣げておき度い。明日の一日は今日、此の刻に懸かつてゐる。自分の手で塗つた橫斷幕は愛著も湧く。染め太郎に發注した橫斷幕が肆萬伍仟圓。原畵を原寸大に擴大したA2のコピー代、壹枚佰圓が玖拾枚で玖仟圓。アクリル塗料が貳萬圓。總て自腹だからと云つて、俺が獨り占めにする事も勿い。ベース架臺とギアボックスの閒に半割の本體下部をホイストで吊つて組み込み、キー溝が四種類在るパドルを順番通りシャフトに挿入して、最後に超硬チップを敷き詰めた押し出しスクリューで蓋をし、本體上部を被せたら、ギアボックスとパラマックス減速機をチェーンカップリングで接續する。シャフトの經が太く、芯出しの許容偏心範圍が廣い分、八型や九型と較べて十五型は隨分と樂だ。減速機側のスプロケットからギヤボックスのスプロケットにマイクロゲージをマグネットでセットし、減速機のプーリーを囘してマイクロゲージが一周すると、平行誤差1.016mmを一發でパスした。今日は幸先が良い。と思つた其の時、

 「アッ。」

 と云ふ怯えた聲を、油壓式マルチワーカーの作動音が掻き消した。職安經由で内の班に送られてきた、御試し期閒の新人の猫背。洞な瞳でパンチャーの駒を見詰め、フットスイッチを弄つてゐた歪な脊椎が更に一囘り萎縮して見える。大方、位置決めのポンチがズレた儘、穴を空けたのだらう。別に聲を懸ける積もりは勿い。沈鬱なモラトリアムの薄弱なアイデンティティに、マルチワーカーや半自動溶接機の樣な取說が在るのなら、疾つくの昔に問屋で取り寄せてゐる。莵に角、怪我さへ爲なければ其れで良い。

 「物作りが爲たくて此の會社を志望しました。」

 と面接で表明し製造業の門戶を叩く者に真面な奴は居勿い。口先で作れるのは、精精、陳腐な噓が關の山。御喋りと物作りとは、蛞蝓と鹽辛以上に懸け離れている。物作りが本當に爲度い奴は、壱壱、言葉に起こして宣言したり、誰に斯うしろと云はれる迠も無く、自分の作り度い物を勝手に作つて自立してゐるし、每日物作りを生業にし、態態、休みの日迠物を作り度いと思は勿い自分に取つて、DIY何て物作りの何たるかを知らぬ素人の醉狂でしか勿い。面接で物作りが爲度いと云ふのは表向きの話し。實際は製造業を端つから舐めてゐる丈けの事。手先を動かしてゐる丈けで、頭を遣はず、責任も背負はず、タイムカードを押せば給料が振り込まれると考へてゐる社會の居候。學歷年齢經歷不問と明記された求人票に誘はれて、呆氣無く燃え盡きる夏の蟲に附ける藥なんて勿い。物作りがし度いと云ふのは、何も遣り度い事が勿いと白狀してゐる樣な物だ。無氣力に職を轉轉としてゐる聯中の辿り著くのが内の樣な會社で、而も、束の閒の通過點でしか勿い。確固たる意志の勿い人閒は低い處から更に低い處へと流されていき、社會の底邊にも階層と云ふ物が生意氣にも存在して、「俺の方が未だ增しなんだな。」と、チンケな優越感を滿たしてくれる。「御前の人生はもう始まつてゐるんだぞ。好い加減眼を覺ませ。」何て熱血指導を爲てくれる穢苦しい生活指導の先生は義務敎育迄だ。「物作りは者作り。」何て薄つぺらな言葉は現場に必要勿い。遣る氣の有る奴は、何も云はれ勿くとも他人の仕事を眼で盜み、技術を身に附けたら自立して、次のステージへと旅立つていく。誰かに構つてくれ勿いと重い腰を上げ勿い、頑張つてゐる處を誉めてくれ勿いと頑張れ勿い奴の爲に、宇宙が生まれた譯ぢや勿い。地球と云ふ星は譬へメッシや大谷翔平と云ふスーパーアスリートが死んでも、喪章すら附けずに囘り續ける。己の不甲斐勿い生き様に不貞腐れてゐる迷ひ子なぞ物の數ですら勿い。

 本心ではこんな穢くて、緊くて、危險で、夏は暑くて冬は寒い、低賃金の仕事なんて爲たく勿いと思つてゐる。ハンドグラインダーが唸り、ハンマーが鐵塊を撲ちのめし、溶接のフュームが立ち籠め、焦げた油の臭ひが鼻を突く鋼の煉獄。職業に貴賤は勿い、何て氣休めでしか勿い。今迠の人生で一度も經驗した事が勿いであらう、劣惡を繪に描いた、夢の勿い職場だ。働ければ何でも良いと思つてゐても、髙を括つてゐられるのは本の二、三日。此處なら樂が出來さうだと云ふ生溫い期待は、構内の喧騒に一溜まりも無く掻き消されていく。初めから遣る氣の勿い永遠のモラトリアムを如何にして奮ひ立たせるのか。旣に碎け散つてゐる心に拳を振り上げても怪我を爲る丈け。昔の自分が然うだつたからこそ、優しく寄り添ひ、粘り强く手取り足取り指導する。自分が無駄に過ごした怠惰な時閒を取り戾す樣に。其れこそが自分自身への償ひに爲るのだらうが、其の努力が實を結ぶのは何時の事やら。荒れ果てて砂漠化した大地に種を撒くのは、公園で鳩に餌を與へてゐる樣な物だ。奴等は働かずして手に入るパン屑しか眼中に勿い。良く、働か勿い働き蟻もコロニーの維持に貢獻してゐる、と云ふのを聞き囓つて引き合ひに出し、組織の中の穀潰しを擁護する者が居るが、其れは單なる曲解で、働か勿い蟻は有事の際の餘力として溫存されてゐる丈けの話し。遣らうと思へれば何時でもフル稼働出來る蟻に對して失禮だ。忙しい時程、足手纏ひに爲るのが、最底邊の中途採用者。己が旣に危機的狀況に在る事を直視し出來勿いのに、潛在意慾や鬪爭本能が發動する譯が勿い。自分は何う遣つて此の慘めな虛無から脫したのか。其れを敎へる術が有るのなら、先ず此の俺が敎はり度い位だ。

 取り敢えず、配管サポートの圖面を渡して遊ばせておくしか勿い。後何日保つのかは本人次第だ。二十代前半で有り餘る若さを内の會社に注ぐしか勿い猫背の新人から眼路を切り、己の仕事に逃避する。スプロケットにチェーンを卷き、カップリングカバーを填めて、本體とギヤボックスの位置決めに、スプリングピンの穴をハンドドリルでベース架臺に空けると、減速機をL字ブロックで固定し、スクラムベルトを張つた減速機と三相モーターの芯出しに取り掛かる。然う遣つて手元に輯中し、新人の倦んだ擧動を閒接視野の外に追ひ拂ふ。

 此處は希薄な生存本能に押し流され、假死狀態で座礁する最下層の一步手前。精神的にも肉體的にも社會と向き合はうとし勿い、初めから卋閒に何も求めてゐ勿い者達の仮の宿りなのか。サッカーを續けたくて、働き乍ら其の狹き門を探り續ける女子の選手達を見護つてきた身に取つて、此奴等は撥條の切れたオルゴールだ。家でゲームが爲度いのに無理矢理サッカー教室に放り込まれた子供の樣に、只、終了のホイッスルが鳴るのを立ち竦んで待つてゐる丈け。ボールと子供達に置き去りにされ、己の人生が驅け拔けていくのを傍観する醒めた眼差しが、俺の背中に突き刺さる。在りし日の虛無を其處に見出して、御前の方こそ何を遣つてゐるのかと我に返つて終ふのが怖い。二重遭難は御免だ。プーリからプーリーへと尺を當ててモーターベースの押しボルトを調整し、平行を出し乍ら、スクラムベルトの張りを確認する。ミリ單位の精度からマイクロ單位の精度迠、詰める處は詰め、省く處は省く。機微に應じた神經を研ぎ澄まし、組み伏せる邪念。正午迠の四時閒に詰め込める丈けの作業を詰め込んで、忙殺の奈落へと埋沒していく。

 

 

 

 「先ず最初に白と黃色を薄塗りで良いから塗り切つて。下地が透けてて良いから。白と黃色は一發で色が載ら勿い。取り敢えず一刷け塗つて、生地の目を埋めて乾かすんだ。其れでペンキが載る爲の被膜の下地を作る。其の閒に黑を塗る。黑は一發で色が載るから其の儘仕上げて良い。其れで黑を塗り終はつた頃に白と黃色が乾いてゐるだらうから、其處に重ね塗りして仕上げる。緣取りは掠れてて構は勿い。其の方が迫力が在るから。ペンキが跳ねて幕の上に落ちても氣に爲るな。變に弄つた方が穢く爲るから。莵に角、ペンキの罐を倒すな。特に黑な。」

 輪郭線を總て書き込んである橫斷幕を前に說明を濟ませると、ゴンちやん、マーシー、猪瀨さんと手分けして作業に取り掛かつた。莵に角、後は塗る丈けなのだから頭を遣ふ事は何も勿い。色を塗り閒違った時の爲にも、白と黃色から塗り潰すのがベストだ。黑の部分を白や黃色で塗つて終つても、黑なら簡單に重ね塗り出來るが、其の逆は勿い。自分の持ち場を熟し乍ら、助つ人の作業に眼を光らせる。手元に許り意識が行つてペンキの罐を蹴倒す丈けでは勿い。人災は豫期せぬ角度から飛んでくる。一人當たり50cm×50cmの20ブロックを塗れば良いのだから、半日在れば充分だ。焦る事は何も勿い。日頃から、手が空いてゐる時には塗裝場の手傳ひをしてゐる自分とは違ひ、皆、恐る恐る刷毛を運んでゐる。本當はローラーを織り交ぜて塗つた方が早いのだが、一つの罐の中に刷毛とローカーを二本差しに爲て、扱いが煩雜に爲ると危ないので止めた。用意した塗料も必要最小限にして、足り無くなつた時點で環七を挟んだホームセンターから補充する。餘計な物は勿い方が良い。チームにマラドーナが二人居たら選手は混亂する。下準備は萬端。迷ふ處は勿い。後は敷かれたレールの上を步く丈け。の筈が、

 「いやあ、此の姿勢で塗るのつて結構疲れるもんだね。」

 持ち場の半分も塗り終はらぬ内に最年長の猪瀨さんが先ず根を上げて、言葉には出さぬ物の、ゴンちやんとマーシーも四つん這いでの作業が辛さうだ。工場仕事に慣れてゐる自分とは體幹の强度が違ふらしい。輪郭線に沿つて色を塗るより、無地の橫斷幕に輪郭線の下書きを爲る方が倍疲れる。此處迠きつちり御膳立てをしておいて良かつた。

 蒼褪めた眠れる少女の頰にアクリルの血潮が滿ち渡り、入閒川の流れの樣に刷毛目に沿って霏霺く黒耀の埀髮。クラブと街を讚へるビッグロゴが其の鳳翼を廣げ、なでしこの夜明けが黃金色に煌めき始める。膝と手を地に著けて額づく、朴訥な手作業の禮拜が喚び覺ます勝利の女神。薄らと瞼を啓きかけた、其の娟容を濡らす水性塗料が、歡憙の淚を湛へて滲んでゐる。

 「俺、今の内の戰力なら惡くても上位五位、上手く行けば三位も在ると思ふんすよね。」

 とゴンちやんは息卷くが、俺の見立てでは入閒がシーズンを通して殘畱爭ひの圈外に脫け出す事は勿いだらう。下位三チームと上位七チームの差は歷然としてゐる。何う安く見積もつても吉備と伊賀との三つ巴。最惡、吉備と入れ替へ戰枠を爭ふマッチレースだ。勝ち點一を奪ひ合ふ、潰し合ひ。息を繼ぐ事すら敵はぬ泥濘の底で、必ずや此の若き聖母が目覺める刻が來る。差し伸べられた其の御心に觸れ、選手達の躍動する笑顏と此の橫斷幕が一體と爲つた瞬閒に、急度チームは濟はれる。クラブとしてのサッカーの實力が何うで在らうと、此の橫斷幕に關してはリーグ内の何のクラブにも負ける氣がし勿い。俺がゴール裏に移籍した途端、二部に墮る何て在つて堪るか。況してや、出て行つた福岡が一部に昇格して入閒が降格とも爲れば良い面の皮だ。入れ替へ戰で鉢合はせ何て絕對に有り得勿い。福岡の選手の兩親と初めて橫斷幕を作り、初めて單獨應援をした太陽が丘の陸上競技場を、永遠に感じた必死の前半四十五分を、ハーフタイムで試合を投げ出した屈辱を、新調したドラムを抱えてスタンドに入場した半年閒のハーフタイムを、橫斷幕の上で目覺めの接吻を待つ少女の輪郭線に沿つて塗り潰していく。一刷け每に目眩く喪失と囘歸。選手達はこんな下ら勿い意地の爲にプレーしてゐる譯では勿いのに、佞な意趣返しで雁字搦めに爲つてゐる俺。橫斷幕に橫たはる、眠れる少女の唇を奪ふ資格が自分に有るのか。總ては來週から始まるリーグ戰に懸かつてゐる。

 ガチガチに强張つた背筋を伸ばし乍ら、大仕事を遣り遂げたと云はん許りに、少し窶れた滿足の笑みを浮かべて、ゴンちやんとマーシーと猪瀨さんが、塗り終へた10m×2mのアヂテージを見下ろしてゐる。息を呑む傲岸な紺碧と金瀾の横溢に醉ひ癡れる恍惚の一刻。此の橫斷幕には凱風に乘つて羽擊く翼が有る。

 「ブリキさん、此の橫斷幕、ヤバイつす。眞面、ヤバイつすよ。」

 譫言の様に繰り返すゴンちやんの後ろで、塗り終はつた刷毛を希釈水の罐に漬して後片附けをし乍ら、遣り殘しは勿いか確認してゐると、此と云つた粗相も無く仕上がつた確かな手應へが俺の舌の根を輕くした。

 「もう一枚造らうか。ユースの分。同じサイズで。」

 「眞面つすか。出來るんすか。」

 「歸つたら直ぐ染太郞に發註懸けるから。來週の開幕戰の後に幕が出來上がつて、其れから下書きを爲るとなるとホームの開幕戰は嚴しいかな。でも、其の次のレイズとのダービーには閒に合ふよ。一枚でも多い方が良いだらう。」

 「でも、橫斷幕の代金とかは・・・・・・。」

 「そんな餘計な心配してる暇が有つたら、來週の開幕戰、何う遣つて選手に發破を懸けるのか考へろよ。」

 「判りました。其れぢや橫斷幕の事は宜しく賴んます。用意が出來たら、今日來られ無かつたリュウジも呼んで塗りませうよ。」

 出來上がつた橫斷幕の雄雄しさに興奮醒めやらぬ仲閒と驛のホームで別れ、埼玉とは逆の上り列車に乘り込むと、肩の荷が下りた安堵感で弛緩した節節から、張り詰めてゐた疲れが一氣に決壞し、眼が覺めると一駅乘り越して終點の淺草に著いてゐた。然も在りなんと、折り返しを待たずに列車を降り、寶の罐酎ハイを呷り乍ら渡る吾妻橋。殘寒も和らぎ、紅紅とした晚照に搖蕩ふ隅田の水面と、三分咲きの櫻を愛でる親子聯れの賑はひが眩しくて、見窄らしい酒精に足を取られ乍ら、アサヒビールの本社屋と炎のオブジェを睥睨するスカイツリーの絶頂に、惡怯れた噯氣を吐き上げる。明日の日曜は暢氣に過ごせる最後の休日だ。リーグ戰が開幕したら年が明ける迠、週末と祝日は忙殺される。取り敢へず、輕く寢坊して會社に橫斷幕の樣子を覗きに行つた後は、京成線で立石に遠囘りして晝呑みに時化込むか、其れとも日比谷線直通で山谷の大林か。彼是と呑み屋の格附けを入れ替へ乍ら、墨堤を擦る千鳥足。日の暮れた道草に觀を念じて、見捨てられた蜂の巢の樣な侘び住まひに辿り著くと、たつた独片の招かざる客が俺の歸りを待ち構へてゐた。誰も出迎へる者の勿い氣樂さを裏切られ、不修多羅な甘美を轉がしてゐた舌の上に廣がる苦苦しい醉魔。郵便受けに添ひ伏した寡黙な茶封筒を取り出すと、俺は油彩の極太マジックで表の宛名と住所を塗り潰して裏返し、小書きにされた差出人と住所の上に切手を貼つて、封を開けぬ儘ポストに投凾した。

 契約している固定電話の線は拔いてあり、携帶の番號も敎へてゐ勿い實家からの督促狀。此處最近、頻繁に送られてくるのは分相應の喫緊事が在るのだらうが、其の一報が正眞正銘の最後通牒だつたとして、今更何を何うして慾しいのか。直接會つて云ひ度い事も云へず、あんな紙切れで用を足さうと考へてゐる時點で、俺と眞劍に向き合ふ事を懼れてゐる證しだ。受取手の勿い手紙を呑み込んだ儘强張つてゐる此のポストの樣に、何時まで然うして果報を待つてゐれば良い。躊躇ひ勝ちに點された街燈に照らされて、鈍い光澤を湛へる投凾口を睨み附け、二度と送つてくるなと念じて踵を返した。自分でも、もう何に意地を張つてゐるのか判ら勿い。怪事の附いた過去を蒸し返しても、冷めたスープで火傷をする丈け。振り向いたら負けだ。コンビニで酎ハイを補充し、蚤の寢床に潛り込んで、餘計な事を考えやうとする無け無しの良心を、氣心の知れた酒精で誑し込む最後の週末。酩酊した三半規管に攪拌されて、アパートの天井が渦を卷き乍ら暗轉していくのを、俺は充血した焦點で遠くに瞠めてゐた。始まる。染み附いた退屈を蹴散らして驅け拔けるサッカーの季節が。ゼラチン質の微睡みの向かふで、開幕のホイッスルが聞こえた氣が爲た。

 

 

 

 東京スタジアムの威容を背に咲き誇る染井吉野。飛田給の駅から續く、一足早い新綠のレプリカユニの背中を追つて辿り著いた絶卋の櫻花が、待ちに待つたシーズン開幕の㐂びを燦燦と謳ひ上げてゐる。スタジアム通りからメインスタジアム周邊を取り圍む多目的廣場へ迂囘すると、今日の試合會場が櫻吹雪の向かふに霞んで見えた。芝生席の真ん中に取つて附けた丈けのメインスタンドを設へてゐる丈けで、外から筒抜けの陸上競技場。凡そ有料試合の會場とは思へぬ大らかな雰圍氣が、長閑な小春日和と調和してゐるエレーラの主催試合。西が丘だつたら良かつたのにと嘆いた處で始まらず、橫斷幕を積んだキャリーを牽き乍ら步を進めると、常勝軍団の枯れ果てる事を知らぬ若葉色の待機列前で、全身蒼紺の入閒グッズで武裝した女子髙生のミサキが獨り、小學生程の背丈で飛び跳ね乍ら俺に向かつて手を振つてゐる。相變はらず小さな體で大袈裟な奴だ。

 「ミサキ先輩、今年から入閒の前線に參戰させて貰ひます。一兵卒のブリキと申します。御指導御鞭撻の程、宜しく御願ひ申し上げます。」

 「何云つてるんですか、ブリキさん。此方こそ、今年“も”宜しく御願いします。向かふの林の中で皆待つてますよ。其の蒼い敷き蒲團みたいなのが新しい橫斷幕なんですか。滅茶苦茶大きいぢや勿いですか。」

 眼鏡の奧で瞬く羨望の眼差しを引き聯れてバックスタンド裏の木立に分け入ると、入閒のコアサポが選手幕と鳴り物を圍み、山賊の樣に車座で談笑してゐた。

 「待たせたなあ。」

 眞打ちの登場に鬨の声を擧げるゴール裏の傾奇者達。キャリーから降ろして橫斷幕を開帳すると、パリパリに乾いた女神の頰にはアクリル塗料の癒著も剝離も無く、春の木漏れ日を浴びて赧らみ、楚楚として恥ぢらつてゐる。歡聲を上げて紺碧のバンディエラに跪拜するミナミに、仕上げに參加した面子は誇らしげに眼を細め、俺は鳩目めに結ぶ金剛打ちロープを用意する。然して、一列に竝んで橫斷幕を廣げ、入閒川の營みを遡る樣に入場し、芝生席のバックスタンド側に廻ると、俺達の擔ぐ徒波を指差して、應援に驅り出されてきた入閒のユースチームが野良猫の樣に驅けてきた。バックスタンドの植え込みに結束された、自分達の背丈を優に越える橫斷幕に群がり、眼を輝かせるユースの選手達。

 「御前達の幕も同じサイズで造るからな。埼玉の蒼い方は橫斷幕が大袈裟な丈けで、サッカーは大した事勿い何て云はれねえようにしろよ。」

 選手幕を張り出し乍ら未來のなでしこに發破を懸け、バックスタンドを反逆のマトリクスで埋め盡くしていく。開幕戰の相手は日本の女子サッカーを黎明期から牽引してきた翠玉の女王、エレーラだ。今年一年を占ふだの、試金石にだのと曰つてゐる場合ぢや勿い。クラブの臺所事情で少ない登錄人數をユースの選手で遣り繰りしてゐる最中、U-17のW杯に主力を引き抜かれ、而も其の上、エレーラサポの話しでは怪我人も續出。今日の試合、何んな布陣で來るのか、蓋を開けてみないと判ら勿いと云ふ事だが、女王の魔法が解けて洗濯女に成り下がる譯で勿し、苦戰は必至だ。確かに、ピッチ練習に出てきた選手の中に、去年からトップチームに昇格した、SBの淸水と幼き司令塔の長谷川が居勿い。二人ともミナミと同學年の現役女子校生で、エレーナの看板を背負つてゐる丈けでも大した物だが、特に身長が155cmにも滿たぬ長谷川がヤバイ。思春期を寄り道してゐる樣な發育不全の體で、代表クラスの主力組とポジションを爭ふ技術と感性は、なでしこの星の許に生まれ落ちた證しだ。正直、神に祝福された天與の足首を生で拜みたかつたが、今日は此處に物見遊山で來たんぢや勿い。相手は希望的觀測を一切寄せ附けぬ魔性の妖精達だ。況してや、内の荒川と香菜子、監督の松田さんは元エレーラの古巢對決。若い力に押し出される形で入閒に流れ著き、這い上がつてきたトップリーグの開幕戰。荒川はA代表で卋界に顏を賣り、香菜子はエレーラの10番に指名された唯一のレフティだ。意地を見せずに自陣に引き籠もつて等居られ勿い。伸び盛りの選手が繰り出す無邪氣で無慈悲な波狀攻擊と、峠を過ぎた選手のプライドを懸けた決死の玉碎。古巢對決で虐殺され號泣する選手を何人も見てきた。クラブを渡り步いてプレーを續ける選手は多かれ少なかれ味はふ屈辱。然う迠して現役に拘る情熱の灯火を、俺達は萬感のエールで煽る事しか出來勿い。

 去年からマレットを揮ひ始め、二部のドサ囘りで鍛へ上げられたリュウジのフロアタムが怒號を擧げ、腦裏に埀れ籠めた新舊の殘酷なコントラストを打ち破る。入閒の選手がピッチ練習に出てきた。指にテープを卷く姿も様に爲つてきたリュウジの自信に滿ちた上腕二頭筋。今がゴール裏に居て一番樂しい時だ。Jの人垣に呑まれるのでは勿く、少數精鋭で體を張り、聲を張る。本當に自分が必要とされてゐる實感に痺れ、今、此の刻こそが總てだと確信する瞬閒。其れは、新規の橫斷幕を指差し乍ら、俺達の元へ一直線に驅けてくる選手達とて同じ事。譬へ其れが燃え盡き乍ら銀幕を過る、16mmフィルムの樣な物で在つたとしても、眼の前の一點を瞠めて念ふ存分遣り切るしか勿い。爪先をタッチラインに揃へ、一列に爲つた選手達が全身全靈の最敬禮で健闘を誓ひ、ピッチへと散開する背番號の一つ一つに渾身の選手コールを注入する。サポートとは痲藥だ。夢の勿い仕事。糞みたいな給料。茨の樣に絡み合ふ人閒關係。目標の有る努力とは程遠い、唯只管我慢し、己を押し殺してゐる丈けの何處にも辿り著け勿い日常の聯續。己の技能と人生を社會に切り賣りして手に入れる曖昧な慰労と安逸。弛緩と倦怠に塗れた緩慢な死。そんな理想と懸け離れた、現實の影にすら追ひ附け勿い、增長した自意識の混濁を、聲援に應へる選手の躍動が一瞬にして飛び越え、迸るモルヒネの嚴づ霊が腦の髓を驅け巡る。其れを弱者の現實逃避と笑ひたければ笑へば良い。弱者が聲の限りに己の非を曝け出す、逆說的反抗が絶頂に達した其の刻、魂の錬金術が何者でも勿い己を克服する。凡そ堅氣の料簡ぢや勿い、週に一度の無禮講。全細胞を酷使する事で錯誤する英雄的な仮死。聯帯と共鬪を煎じた激越な僞藥を貪る、孤獨と云ふ不治の病。FIFAアンセムが聽こえる。駄弁は無用。此以上、四の五の考へたくも勿い。此處は傾奇者の群がるゴール裏。後はもう、呷つた妄毒の醉ひに任せて終へば良い。

 フェアプレーフラッグを先頭に入場する選手達。久し振りの現場の実働。張りと艶が有る、一冬を越して囘復した声帶は、此の試合一發でガサガサに潰れるのだらう。横一線に整列して挨拶をするユニフォームのコントラストが、青芝に突き刺さる。記念撮影に應へる選手達の笑顏。サポ活でしか憂さ晴らしの出來勿い三下には、何もかもが眩し過ぎる。俺が一度も謳歌した事の勿い靑春の快哉。己の足で踏み躙つた未知の光の中に、今が盛りの精兵が散つていく。

 GKはなでしこのレジェンド山郷。最終ラインはCBの武田と夏美、左SBの竹山が今年から新加入の三人で、左SBに奈良。中盤はアンカーに薊を置いて、左から薫子、司令塔の香菜子、ミナミが一推しの髙卒新人、里乃の三枚。前線は荒川のワントップ。シャドーに齊籐と云つた處か。驚いたのは左SBに去年迠FWだった奈良をコンバートしたのも以外だつたが、アンカーに快速ウイングのエース薊を持つてきた。リーグ屈指のスピードとスタミナで自らが育てた常勝軍團の攻擊の芽を刈り取り、左足の一振りで入閒のチャンスを總て演出する香菜子にパスを供給する。味方をも欺く此の布陣は、開幕戰の一發勝負、松田監督の練りに練つた一戰必勝のプランだ。

 肺の腑を荒げ、天を突く主審のホイッスルが、センターサークルからピッチレベルの芝生席へと吹き拔ける。待ち侘びた球春を壽ぐ櫻吹雪の喝采。野に放たれた獵犬の樣に、蒼い稻妻がエレーラの老獪で流麗なパス囘しに喰らひ附き、其の新しく刷り下ろされた背番號に有りつ丈の聲援を浴びせ掛ける。然う云へば、雪駄を入閒から追ひ拂つてドラムを叩いた時も相手はエレーラ。試合は3-0で終はつたが、ゴール裏の空氣が變はつた事を察知した入閒の選手達は、眼の色を變へてエレーラに襲ひ掛かつた。彼の日からアッと云ふ閒に過ぎた二シーズン。己の不甲斐なさと、一部と二部の狹閒で激動した荒濤に呑まれて、氣が附けば、フィルムカメラの二重露光の樣に、何處かで見た景色が心に引つ掛かる。

 声帶と喉頭筋を打ちのめし乍ら、頭を掠める今年のガイドブック。二部の戦況をチェックすると、福岡の選手登録人數はたつたの十七人。而も、GKは獨り丈け。佐賀のJユースチームから監督を招聘したが、御飯事の樣な運營で何試合持つのだらう。來週末に控へた二部開幕。田頭が退団し、平田が日體大に進學して敵に爲り、福岡の得點源は激減。恐らく、一部昇格に向けて確實にクラブの體制を整へてゐる後發の参入チームに黒星を重ね、降格争ひを爲るのは眼に見えてゐる。選手の力を單純に足し算して見比べても、福岡は客觀的に見てリーグの十六チーム中、十數番手。自動殘畱枠の八位は疏か、入れ替へ戰枠の九位すら夢の復た夢。殘畱は2011年、震災の影響で降格が棚上げに爲つた時の樣に、神風でも吹か勿い限り有り得勿い。恐らく此の儘、三部の底を衝き拔けて、何處迠も墮ていく事に爲るのだらう。

 試合の熱量に炙り立てられて、俄に燻る慚愧の念。だから何うした。前だけを見ろ。然う云ひ聞かせても、眼の前を爆ぜる球際の白熱が其れを許さ勿い。ペース配分を無視して、常綠のピッチから芽吹いた申し子の如き、エレーラのパス囘しに襲ひ掛かる入閒の選手達。皆、所屬してゐた上位チームで篩に掛けられ都落ちしてきたか、上位チームから声の掛から勿い、一部當落線上の選手達だ。自分に足り勿い物を追ひ求める、噓僞りの無い崖つ緣のプレー。トップリーグのピッチに立てる憙びが汗の飛沫に煌めき、今、此の一瞬を全力で燃燒する懸命な姿が、遠かつた一部昇格に縋り續けた去年の福岡の選手達を呼び覺ます。此がサポーター何て柄にも勿い事に首を突つ込んだ罰か。今更何を蒸し返す事が有る。と判つてゐても、リュウジのフロアタムに脊髓反射し、怒號するチャントで邪念を振り拂ふ、裏切り者の性。

 試合はもう始まつてゐる。擊ち合つて刺し違へる相手ぢや勿い。ロースコアに持ち込み、最低でも前半を無失點で折り返せないと話しに爲ら勿い。先制を許すと更にリズムを上げ嵩に懸かつてゴールを積み上げていく。本の幽かでもプレッシャーを緩めれば、其の僅かに覗いた針の穴にエリート達の卓越したスキルが殺到し、此の日の爲に準備したプランの總てが崩壞する。運營サイドの不德で、墮るべく爲て墮ていくクラブの行く末を案じた處で、二重遭難する丈け。選手達に罪は勿い。其れだけが唯一の救いだ。そんな無け無しの慰めを見附けて屈み込み、拾ひ上げやうとして傾いだ心を、代表でボランチを務めるエレーラの8番が擊ち拔いた。

 入閒の猛プレスを練習用のカラーコーンに見立てて、籾木と隅田の軽快なパス交換がゴール前を輪舞し、ピッチの妖精は影を踏む閒も與へず、氷原を滑空する樣にワンタッチでゴールに流し込んだ阪口の先制彈。前半31分。丁度試合の三分の一を過ぎた處で、女王が其の淺い眠りから目を覺ました。餘所見をしてゐる暇なんて勿いのに此の爲體。寝た子を起こした犯人は俺だ。開幕ダッシュを義務附けられた女王の、遲いスタートを祝福する緑の輪。格下相手の控へ目な歡憙が癪に障る。聯中に取つては暖機運轉の積もりなのだらうが、入閒に取つては寧ろ勝負は此處からだ。なでしこの曆史其の物と云いて良い、此の幼い女王から眼を逸す事は一瞬たりとも許されず、かと云つて、眼を合はせれば壓倒的な技術に魅入られて終ふ。入閒の選手達に甦る、骨身に刻まれた虐殺の記憶。大量失點の恐怖に押し潰されて半步でも引いたら、其の儘、自陣ゴール前に釘附けにされ、殘り時閒の總てをワンコートゲームで終へる事に爲る。女王の毒牙は甘嚙みなんて知ら勿い。得點を奪ひ續け、勝ち續けなければ、此のエリート輯團から振り落とされて終ふ。其れを知悉してゐる香菜子と荒川は、自分達が元居た場所で躍動する少女達に、自分達が磨き上げてきた凶刃を突き附けられて何を思ふのか。エレーラの選手達が謳歌する翳り事を知らぬ珠玉のプレー。綺羅星を鏤めた鈴生りのパスサッカーが呼び覺ます、サッカーの總てが眩しかつた彼の頃と、サッカー人生の曲がり角から、周囘遲れに轉がり落ちていく現實。ユースから日の丸へと一直線に驅け昇つた靑春の殘像に飜弄され、唯只管、スパイクを履き潰す丈けの日日。そんな一刻の感傷をも、停車驛を無視した特急列車の如く、トップリーグの洗禮が一瞥も呉れずに踏み躙る。女王が目覺めて彈ける一部殘畱の夢。去年二部だつたチームに取つて本當に昇格したのは、正夢に爲つた聯敗地獄の惡夢、其れ丈けだ。

 42分、右サイドに流れた9番田中のパスを受けて、バイタルエリアを斜交する隅田のドリブル。薊が無盡藏のダッシュ力でボールを刈り取るも、香菜子に預けやうとしたパスを、死角に潛んでゐた10番の原に攫はれ、切り換へした攻守の出鼻を籾木のゴールで壓し折られた。長谷川がメンバー外でもエレーラの11番を背負ふ超攻擊的右翼が復たヤバイ。U-17のW杯のメンバーからは漏れたが、身長150cm有るか無いかの小兵に凝縮された天賦の驅動力と無限の創造性。途切れる事の勿い逸材の寶庫に在つて、此ぞエレーラと云ふ筋骨の優位性を度外視した選考の賜物だ。足處氣勿い才能が照らし出す、情け容赦勿い勝負のコントラストが、鬪ふ前に總ては決してゐると豪語する。前半殘り時閒が五分を切り、最低でも0-1の儘ハーフタイムを迎へる爲に、最も輯中しなければ爲ら勿い時閒帶に最惡の追加點。然して、入閒のロッカールームで入念に練り上げたハーフタイムの修正を、後半開始早早の2分、籾木よりも更に丈比べで劣る、公稱148cmすら怪しい、ピッチに迷い込んだ小學生、中里のゴールで粉碎される。

 此が常勝軍團の勝ちパターンだ。恆に相手の上の上を行き、譬へゴールの鍵穴にセメントを流し込んで固められても抉じ開ける、黎明期を支へた先人達の血と汗の轍で泥濘む、日本女子サッカーの王道。想定の範圍内とは云へ流石に堪へる。公式戰より强度の髙い、代表クラスの紅白戰で鎬を削り、ポジションを奪ひ合ふエレーラに取つて、昇格組との試合は単に勝つだけでは次は勿い。レギュラーで試合に出續ける爲に、敗者の屍を積み上げて終わりの勿いゴールを目指し續ける。そんな苛烈なチームの黄金時代を築き上げたのが、今、入閒で指揮を執る松田監督だ。枯れる事の勿い常綠の遺伝子を、今猶貫く松田イズム。妥協を知らぬサッカー理念の結晶した元敎へ子達の傍若無人な返禮。己の最髙傑作が誇る完成度を前にしては、今の入閒なぞ粗惡な劣化コピーでしか勿い。過去の榮光に駄目出しを喰らひ、テクニカルエリアで硬直する霜貌の紳士。今、此の現場の誰よりも怒りと屈辱に震へてゐるのは監督だ。エレーラでの實績を引つ提げてJクラブの指揮を執るも、過酷な經營狀態のチームを渡り步いただけで、女子サッカーに復歸した出戾り。所詮は女子校の部活止まりの指導力。そんな衆聞を覆す一手は殘されてゐるのか。

 快晴の球春日和に埀れ籠める鉛の如き暗雲。倂し、0-3にされてからがサポーターの仕事だ。御通夜の祭壇から佛さんを叩き起こすチンドン屋が、メソメソ等して居られやうか。勝ち馬に乘つて騷ぐホームの觀客を默らせろ。惡役は板に附いてゐる。往生際の粘著度が腕の見卋處。餘所者の邪魔者が元氣ぢや勿いと試合は詰まら勿い。ハリウッド映畵やドラゴンボールの糞みてえな豫定調和なら金で買へる。ゴール裏の流れ者つて奴は、好い加減、そんな物には飽き飽きしてる聯中だ。行く手を阻む銀幕を引き擦り降ろせ。主役は俺達だ。此の閉塞した卋の中諸共、撲ち壞せ。興奮の餘り引き千切つたゲーフラを、ミサキが鄰で振り囘してゐる。行き場の勿い靑春を穿つ唯獨つの突破口。自分に勿い物を選手達に求めて發兇する烈騰燒身。日頃、口數の少ない防水屋の學と弟の誠の吐き散らす血痰がラッカーシンナーの樣に飛び火して、ユースの子達の黃色い聲援が紅蓮の絶叫に覺變した。沈默は死を意味する。此の熱狂に乘り遲れて堪るか。リュウジが揮ふマレットの鐵拳が怒張したフロアタムを打ちのめし、マーシーのスネアが響尾蛇の樣に絡み付く。去年、福岡のホームゲームで味はつた、汚泥の樣な蔭慘は此處には勿い。開幕の一試合目から日和つて等ゐられるか。己の殻を叩き割る產聲が幾重にも化學反應し、マグネシウムの粉塵爆發が敗色で塗り潰された視界を灼き盡くす。

 死に馬を蹴る脚を止め勿い女王のサディスティックな總攻擊に、氣魄が空囘りし、體力を削られる蒼魂の挑戰者達。ゴール前で香菜子の楔のパスをDFを背負つてキープした荒川が、籾木のマークを棄てて左サイドを驅け上がつてゐたSBの奈良に叩くも、スタミナでも上囘る綠の番犬に圍まれた奈良は、背後からのコーチングを賴りに一旦後ろに戾さざるを得勿い。何の變哲も勿い苦し紛れのバックパス。攻守の切り替へも疏かにし勿いエレーナの選手は旣に帰陣し、マークを確認し合つてゐる。萬事休す。DFライン迠迂囘して復た一から遣り直し。然う、挫けさうに爲つた一瞬を狙つてゐたかの樣に、奈良のカバーに驅け附けて遲攻を指示した香菜子の魔法の左足首が、敵を、味方を、俺達をも欺き、スタジアムの時閒を止めた。蒼きユニフォームに袖を通した今も脈脈と息衝く翡翠の血漿。入閒の10番を背負ふ女王の遺伝子に僞りの在らう筈が勿い。力無く戾つてきた意圖の希薄な消極的なパスを、洗練されたキックフォームが羽衣の樣なインフロントで包み込み、サッカーの神から託された天凛のタクトが、一度限りの鮮烈な命を吹き込んだ。両チームの選手達が皆、優雅なクロスの軌道に魅入られて足が止まつてゐる。唯、獨りを除いて。エレーラのCB二人のエアポケットに放置されてゐた齊籐の足許で、バックスピンの懸かつた五號球が芝を刈り、バウンドを嚙み殺した。今夢から醒めた許りの樣な棒立ちの選手達。ホームチームのゴールネットが搖れた、ストロボの緩慢な時の流れの中で、福岡を裏切り、打ち碎いた心の破片を鷲掴みにして俺は昇天した。

 

 

 試合終了閒近のロスタイムにも失點し、二重の溜息と入り交じるタイムアップのホイッスル。結果は1-5。倂し、

 「俺、意外と遣れてたなつて思ふんですよね。」

 橫斷幕の片付けをするマーシーの何處か捌けた口吻に、俺は無言で同意してゐた。確かに、點差程内容は酷く勿かつた。ハーフコートに押し込められてのワンサイドゲームも覺悟してゐたが、今季入團した許りで、即席の若いCBコンビからのビルドアップは未だ賴り勿いとは雖も、香菜子に繫げて荒川に當てる事さへ出來れば、其處から攻擊の形は作れてゐる。印象に殘つた選手を訊かれて、總ての國の代表監督が「彼の頭のデカいの。」と答へた、ボンバーの鋼の如きキープ力は健在だ。エレーラのパスサッカーをファウルでしか止められず、前後半合はせて24囘のFKを獻上したのも、女王相手に臆する事勿く立ち向かつた證しで、何より、エレーラの攻擊的守備に曝され、失點を重ねても勇氣を持つてパスを囘し、安易なロングボールに逃げやうとし勿かつた選手達と、其れを鼓舞し續けた松田監督。トップリーグで苦し紛れにプレーを切る事は、己の身を切り刻むに等しい。エレーラ時代、下位チームを降格の蟻地獄に突き落としてゐた監督は其の闇の深さを知悉してゐる。今シーズンの航海圖を網羅する、監督の鈍色の腦細胞に埋め込まれた鋭利なコンパスに二針は勿い。試合後の出待ちで、聲を掛けるのも憚る松田監督の鬼の形相。今は怒りに震へる賢者の羅針も、歡憙の光明を突き止める時が來る。最も勇氣が必要な嶮しい航路を乗り越えた先にしか、入閒の未來は勿い。此の程度で下を向いてゐたら、首が千切れて何處迠も轉がつていく。三月二九日(土)リーグ開幕。最低限、手應へは摑めた90分。の筈が、嚴しい鬪ひの火蓋は未だ切られてすらゐ勿かつた。

 

 

 

 

 ニーダーのステンレスのバケットに取り掛かつてゐる庚さんが、黑龍江省訛りの打切棒な愚癡を零し乍ら、内の二班の處に溶接を借りに來た。復た一班のアルゴンが調子を崩して愚圖り始めたらしい。恐らくは庚さんと同卋代の、電源が入る丈けでも不思議な、製造メーカーも撤退した、圖體許りデカくてパルス溶接も設定出來勿い昭和の残骸。動力とキャブタイヤを變圧器で繫いだ丈けのアーク溶接機とは物が違ひ、一癖も二癖も有る堅物だ。勇退するタイミングを逃したロートルに誰が引導を渡すのか。恐らく此の會社が店仕舞ひをする其の日迠、居座り續ける積もりなのだらう。

 1960年代の髙度經濟成長期から塩漬けにされた儘の構内。半自動溶接こそデジタル制禦の機種に載せ替えてはゐるものの、後はもう、宥め賺して瞞し瞞し使うしか勿い野戰病院の樣な機材が、粉塵とヒュームに燻されて肩を寄せ合つてゐる。設備と鋼材と鐵屑の區別が附か勿い、錆の上に堆積した無力感で息が詰まる、製罐勞働者の墓場。同じ笨骨なら、一層、不法投棄された產廢の樣に大空の元で伸び伸びと朽ち果ててゐた方が增しなのでは勿いか。何故、こんな處に流れ著いたのか、自分でも判ら勿い。眼に映る總ての物に苛つき、氣が滅入る、馴染みやうの勿い定盤のドン底。酸化してポテトチップスの樣に爲つた、モヤのCチャンに獅嚙憑く、襤褸襤褸のスレート。雨埀れの滲む屋根板。現行の建築基準に滿た勿い無開先、ドン附けの鐵骨溶接。歪んだ軀體の所爲で脫輪するホイスト。髙所作業車が勿いと御手擧げの斷線した水銀燈。3.11の震災時には、筋交いのターンバックルが總て一發で吹き飛び、踊る樣に建屋が搖れるのを見上げ乍ら、此の儘倒壞して俺の人生諸共リセットしてくれと、心の何處かで禱つてゐた。

 下請けは元請けの縮図で、其の逆も復た然りで在る樣に、此の會社も俺を映す鏡だ。ジットリと蔓延した依存關係の粘度に腐臭が立ち籠める。現狀を取り繕ふ丈けで、先の事は後囘し。此の儘ぢや駄目だと判つてゐて、議題にも擧げずに保畱する。其の卑屈な開き直りに元請けも下請けも孫請けも勿い。上邊を餝る事すら忘れた、見た儘の會社と社員だ。零細とは組織の規模で決まるのでは勿い。技術力の向上や作業效率よりも目先の收支。未來への投資を出し惜しみ、泥溝に落ちた小錢を必死で漁つてゐるのだけの業務。自分の財布の中身丈けを見て步いてゐる奴は、落とし穴に落ちた事すら氣付か勿い。頭を遣はずに肉體を酷使する事は、努力では勿く、唯、我慢してゐる丈け。頭を使はぬ我慢に出口は勿い。洗面器に顏を突つ込んで息の根が止まる迠上から押さえ付ける。其れが此の會社の仕事だ。智惠を絞らずにマンパワーで凌ぎ、徒に消耗していく物作り大國の現實が、穴の空いた軍手と、根元迠使い切つた溶接棒の缺片と、不揃いのスパナに紛れて轉がつてゐる。

 信じられ勿い事だが、本のつい最近迠、鋼材の穴開けは總てボール盤で加工してゐた。油圧のパンチャーとマルチワーカーの購入は必須だと、社長と会長を說得するのに何年掛かつたか事か。ポンチの印にダイスを据ゑ、フットスイッチを押すだけで物の數秒で鏗ち拔ける事を、開業以来半卋紀以上、一々大量の切り子を出してドリルで掘削してゐたのだ。思ひ返す丈けでも氣が遠くなる。ボール盤での穴開けに拘泥し、加工面の優位性を熱辯してゐた会長の紅潮した顳顬は何だつたのか。猫の目の樣に新車を乘り換へ、每年、社員に一言も吿げずヨーロッパ旅行に行く金は有つても、必要な機材に廻す金は勿い。其れを經營と呼べるなら、場外馬劵場の親父達は皆、立派な投資家だ。製造業が道具を吝嗇って良い仕事が出來るのか。切れ勿い鋸を幾ら漕いでも疲れる丈けだ。「俺達の若い頃は。」と云ふ歪んだ精神論で、灼けた鐵を素手で持てるのなら見てみ度い。此の會社は眞夏の炎天下で水分補給を一切させず、神社の階段を兎跳びで登り、肩が痛くても關係勿いと、一日に何百球も投げ込みをさせる昭和の髙校野球や、ビールに咥へ煙草で子供達を指導する少年野球だ。

 材料屋から送られてくるカタログを廣げ、頬杖を突いて嚙み殺す澑息。AMADAの複合切斷機なんて夢の復た夢だ。シャーリングも9mmが切れれば行程の次元が變はるのに、6mm處か4.5mm迠しか切れ勿ず、而も自動ゲージを裝備して勿いのだから、まるで扉の開か勿い冷藏庫。二臺有る汎用旋盤も、一臺は芯が狂つて1/10mmの精度も儘ならぬ死に馬で、残りの一臺がNCを投入すれば一日で出來る仕事を、手動でネチネチと一週閒を懸けて削り出してゐる。一層、外注に丸投げすれば良い物を、機材より人件費の方が髙く附く事を計算出來勿いのだから、明るい事業計畵なぞ描ける譯が勿い。俺達は電源を入れた丈けで異音を唸る瀕死の機材を、廃棄し勿い爲に介護をしてゐる、油塗れのナイチンゲールだ。機材を驅使して腕を揮ふのでは勿く、機材に傅いて附屬する消耗部品に成り下がり、グラインダーの砥石の樣に摩り切れていく。

 工場のデスクに腰を下ろして、混練機のスケジュール表を見上げ、元請けと相乘りした泥船で腰迠汚水に浸かり、行く當ても勿く同じ處を周囘する、危險水位のデジャブに眼が眩む。混練機本體の製作に利益は勿い。納入後、メンテナンス品の超硬スクリューで辛うじて儲けを絞り出してゐるが、公共事業に大崩れは勿いと云ふ丈けで、年年、単価を下げられジリジリと先細つていく許り。此から先の見通しは霧の中の闇だ。他も大きな案件は略略、上手く納めてトントンの豫算で組まれ、半步でも工程を踏み閒違へれば、一瞬で足が出る。そんな基礎の傾いだ事業の柱に獅嚙憑いて、割りに合は勿い汗水を絞つてゐるよりも、配管サポートや架臺の樣に詰まら勿い品物でも良いから、確實に実入りの有る案件を選び、數を熟せば良い物を、赤字を埀れ流す丈けの大型の案件で手が囘らず、云ひ値が通るスポットの案件を下請けに流してゐるのだから意味が判ら勿い。大きな案件で勿いと腕が落ちる。面白味が勿い等と嘯いてゐるが、此のスクラップの寄り合ひ所帶が、一念發起して民閒ロケットを打ち上げるとでも云ふのか。態と赤字にしてゐるだとか、穴の空いた大風呂敷を廣げる經營者のツケを被るのは社員だ。金に成ら勿い仕事で身を粉にし、給料明細の端数も削られる。昭和の好景氣で築いた身代を食い潰し、何も積み上げる事勿く、社屋と共に朽ち果てていく。此の國の生溫い基礎疾患を繪に描いた、何處にでも在る、不摂生な自重に因る地盤沈下。然うと判つてゐて誰も何もし勿い。俺も何も爲勿い。此の屑鉄の山に潛り込んでゐる時點で、皆、同じ穴の狢。「こんな處で俺は終はるのか。」と、己の尻尾に吼える犬ですら勿い。此と云つて行く處が勿いから此處に居る。只、其れ丈けだ。

 獨立して工場を持つ器量も氣概も無ければ、不平を爆發させる切つ掛けも勿く、己の人生を淡淡と定點觀測してゐる。染み附いた敗北感が誘ふ姑息な安逸。膽の臟から腦の髓まで其の毒が囘つてゐるのだらう。生溫い落下速度にホロ醉ひ氣分の俺は、己の祕めた力を信じもせず、人の心の弱さに寄り添ひ、其の悴んだ指先をジットリと愛でてゐる。淺閒敷い卋閒に對する負け惜しみが工場の喧騷と入り交じり、最早、何を口籠もつてゐるのかも判ら勿い。ホイストの振動が定尺で發注した鋼材を束ね、粒子狀物質で霞んだ頭上を悠然と跨いでいく。錆び附いたサッシの樣に啓か勿くなつた心の窓。此の皹割れた磨り硝子が、有りの儘の俺を映す鏡だ。

 溶接機の調子以外、庚さんの擔當してゐるニーダーのバケット製作は順調で、元請けからの支給品も揃つてゐる。組み立ては一班に任せるとして、俺はニーダーの架臺が機械加工から上がり次第取り掛かる、竝列で架臺を這ひ囘る銅配管の圖面と睨めつこだ。分配器から網の目の樣に伸びる此の魔方陣を、一絲亂れず囘路圖を其の儘貼り附けた樣に組めるのは、社内でも俺と主任丈け。手作業でミリ単位の曲げ加工の聯續。而も、一ヶ所たりとも分岐する方向をミス出來勿ず、仕上がりの美觀が總て。初めて割り振られた時はノイローゼに爲りかけたが、コツを摑んだ今は俺の腕の見卋處で、丸投げにされるのも滿更ぢや勿い。生一本の銅配管で緻密に練り上げられた飴色の幾何學模樣が織りなす達成感。其の小さな慰めで滿足してゐる自分に、皮肉な微笑みが鼻を拔ける。其處へ、

 「今度の人は經驗者だから。」

 と屈託の勿い專務の笑顏が割り込んできた。昨日、話しは聞いてゐたので心の準備は出來てゐる。俺を安心させ度い氣持ちは判るが、其の脇の甘い優しさに、吊られ嗤ひを返す事しか出來勿い。一昨日迠顏を見せてゐた二十歲の新人は體力の限界を理由に、コンビニのバイトに復歸した。取り敢へず一週閒は保つてくれた前任者と入れ違ひに、ハローワークから送られてくる新しい紹介狀。今度は何んな笨骨なのか。冷やかしの一見さんに振る舞ふ粗茶も愛想も勿い。圖面を脇に置いて眼路を吊り上げると、上背が185cmに達する偉丈夫を繪に描いた專務の影に隱れて、もう獨つの希薄な影が慄いた。第一印象は鼠男。其れもリアルな。二本脚の齧歯類が作業服を著て硬直してゐる。自己紹介を聞き流して注視するオドオドした擧動。警戒心で凝り固まつた、決して視線を合はせやうとし勿い臆病な瞳。精氣の缺片も勿い抉れた顴骨と、草臥れた頰の血色。何處を何う落ち零れて來たのか。此が俺の新しい部下。歲は俺の一個下らしいが、瞠めてゐる此方の氣が滅入る程、老成してゐる。職安經由だらうと、就職情報誌經由だらうと、今の今迠、精力が漲る、一本筋の通つた快男兒に御眼に掛かれた例しが勿いのだから、取り立てて驚く事もガッカリする事も勿い。アル中で譫妄症と虛言癖を倂發した三十路のB・BOY。ミリペンとジョイパッドしか持つた事の勿い漫畵家崩れ。卒業式も合はせて中學に三日通つた丈けの自稱ノン・バイナリー。今度は何んな屬性と遍曆なのか。どうせ、トイレットペーパーみたいに、長い物に卷かれて、白けてゐる丈けの人生を送つて來たのだらう。取り敢へず、定盤の上に放牧して、柵の外に逃げ出しても後を追は勿い。何時もの通り、先ずは見護る丈け。製罐經驗者ならサンダーの使ひ方を一から手解きし勿くて濟むのは良いとして、前の會社で變な癖が附いてゐると厄介だ。寡黙な職人タイプで在つて慾しいが、期待とは落差へのジャンプ臺でしか勿い。昨日、仮止めしておいたサポートを溶接させると無難に熟した。主任も其れを然り氣勿く確認して、ビードも及第點だと、俺に目配せを返す。初日の御手竝みとしては上之上。此が俺と鼠男の泥仕合、血も汗も淚も勿い降格レースの始まりだつた。

 

 

 

 川越驛からタクシーを飛ばして市營の陸上競技場に到著すると、會場の設營に追はれる後援會員の指示が、梢に群れる子雀の樣に飛び交つてゐた。春雨の滲む桜竝木に沿つて整列し、觀客を迎へ入れるチームフラッグ。色取り取りのキッチンカーが湯氣を立てるフードコート。レプリカユニの詰まつた段ボールが運び込まれる、オフィシャルサプライヤーの即賣所。メインスポンサーに名乘りを擧げた化粧品メーカーが配布する、粗品の美容液とマッチデープログラムの準備。事業統合ダイレクターの林が云つてゐた、グッズ購入でポイントが貯まるカードリーダーも設置され、シミズスポーツの制服を著た警備スタッフが、入場ゲートで打ち合はせをしてゐる。開場前の當たり前の光景。其れが此程に眩しいとは。去年目擊した慘憺たる福岡のホームゲームは何だつたのか。ユースの選手達で設營する、警備も出店も勿い閑散とした會場。地元地域から見放され、何もかもが部活レベルに逆戾りしてゐた自業自得な現狀。愛される資格を自ら踏み躙つたクラブとの吿別式と爲つたホームゲーム。今年は胸スポも失ひ、ケツ持ちの勿いクラブの舵取りは更に酷い有樣なのだらう。彼から未だ一年と經たぬ内に巡つてきた新天地でのホーム開幕。四月六日(日)第二節、吉備戰。相手は殘畱争ひの當該チーム。引き分けでも負けに等しく、敗戰は今シーズン終了を意味する上に、一昨年の入れ替へ戰で二部に叩き落とされた因緣が有る。客觀的に云つて吉備の戰力を下囘るチームはトップリーグに存在し勿い。今此處で勝てなければ何處にも勝て勿い。開幕から二試合目で迎へた大一番。小雨交じりの空模樣、待機列の具合から見て客の入りは何とか千人に屆きさうだ。

 ゴンちやん達と合流し、開場したスタンドからホームゴール裏の芝生席に降り橫斷幕を運び入れる。手摺りに選手幕を括り付け乍ら見渡す、觀客席はメインスタンドのみの典型的な地方都市の二種陸上競技場。以前はロッカールームにエアコンすら勿く、夏場の試合は地獄だつたらしいが、クラブとの提携を機に川越市が梃子入れをし、設備の改善も著著と進んでゐると聞く。其れはクラブ發祥の地、入閒の後援會に取つては齒痒い吉報で、クラブの一部定著の爲には如何とも爲難い處だ。本の數年前迠、幸手の河川敷で土手に座つて試合を見てゐたが、もう彼の頃には戾れ無い。照明設備が整へば真夏はナイターで開催出來る。其處迠、御役所が手を盡くしてくれるのかは未知數だが、差し伸べてくれる物を無碍に叩き落としてゐたら、思はぬ跳ねつ返りを喰らう事に爲るだらう。最惡な物の中から未だ少しは增しな物を摑み取るのが賢者と云ふ物だ。俺が福岡から入閒に乘り換へたのも、鯔の詰まりは然う云ふ事だ。ピッチ練習に出てきた選手達の引き締まつた笑顏。スパイクの蹴立てる雨粒が、スタンドの拍手を翼に羽擊いていく。主勿き武蔵野の孤城だつた此の草臥れたスタジアムに息を吹き込む、蒼麗な守護天使達。今日此の砦を落とされたら、土のグラウンドに逆戾りだ。俺の樣に歸る場所を見失ひ度くなければ、吉備を二部に叩き落とすしか勿い。

 殺風景だった芝生席に橫斷幕の錦を餝り、意氣も揚揚、メインスタンドに舞ひ戾ると、天地を搖す振る矍鑠とした濁声が聞こえてきた。破顏一笑。打ちつ放しのコンクリートを突き破って聳える巨木の如き、萬難凶事を寄せ附けぬ其の貫禄。塩爺がLリーグ時代から應援してゐる荒川と山郷さんに聲を掛けてゐる。手摺りから身を乘り出した、重鎮と呼ぶに相應しい憚りを知らぬ恰幅。曇天にも日傘とグラサンを欠かさぬママの、微笑みを絕やさぬ蝶番のココマークが其の脇に寄り添ひ、卋阿弥の說いた本當の華が咲き亂れてゐる。老いて猶盛んな、此の夫婦善哉を煮立てる女子サッカー愛は、決して冷める事が勿い。前節のエレーラ戰もバックスタンドの芝生席から、メインスタンドの鉄筋コンクリートと同化して囘遊する、生きた化石の姿が見えてはゐたが、何の面を提げて行けば良い物か、鉛の足枷で雁字搦めの疚しさに、髙過ぎる敷居を仰ぐ許りで、挨拶に行く事が出來勿かつた。恆日頃から福岡に目を掛け、心を碎いてゐた塩澤夫妻だ。俺が福岡から入閒に乘り換へたと聞いて、耳を疑ふ處の話しでは勿かつた筈だ。其れなのに、

 「おお、ブリキ、御苦勞さん。」

 何時もの樣に節榑た手で俺の肩を鷲掴み、何一つ咎める事が勿い。二人とも優し過ぎる。其の優しさに應へる術が勿い。福岡の事は一切口にせず、逞しい幹と枝を廣げて俺の罪を包み込む。こんな眞似、到底出來無い。若し、俺が親父なら福岡を見限った譯を問ひ詰めて、土下座する迠赦さ勿い。然う遣つて日頃の憂さを撲ち撒ける事だらう。淸も濁も呑み下す膽を臟した塩爺は、女子サッカーの總てを祝福する長老だ。其の存在は餘りにも大きく、逃げ場が勿い。心の支へが時に、胸に痞へて息苦しい樣に。此處は歸つてきても餘所者だつた福岡とは違ふ。其の居心地の良さが、益益俺を駄目にする。クラブの靜かな同伴者として無力なキリストに徹するより、ゴール裏に巢喰ひスタンドを煽動する反動分子を選んだのだ。俺は惡者で良い。其れなのに、

 「入閒に美しき勝利を。」

 ティファニーからシャネルに乘り換へた赤羽のヘプバーンが、女王のスタンレー・カンティーンからコーヒーを紙コップに注ぎ、氣の早い祝杯をゴール裏から戾つてきた下下に振る舞つてゐる。

 「熱いわよ。」

 小憎らしいココマークの挑發に、俺はブラックの儘、琥珀色のマグマを一氣に飮み干し、灼け附く喉を絞り上げた。

 「此の程度で音を上げてたら、今日の試合、火達磨處ぢや濟まねえよ。」

 紙コップを握り潰した拳で大上段からスタンドの手摺りを打ちのめし、ママに背を向けるピラッピラのチンピラ。そんな俺の强がりを嘲笑う樣に、入閒で一番熱い漢が現れた。

 「オイ、ブリキ、ブリキぢやねえか。何だ御前、何時娑婆に戾つて來たんだ。網走を脫走して熊に喰はれたとか、小菅の獨房で首吊つたとか聞いて心配してたんだぞ。」

 莢豌豆に手足を附けた樣な小兵の分際で、支那の爆竹の樣に處構はぬ其の雜言。此の聲を耳に爲ると、否が應でも粟立つ伝法肌に、目抉らが吊り上がる。入閒のホームスタンドを湧かせる名物サポと云へば聞こえは良いが、車椅子の奧さんを押してコアゾーンに見参した中野の爺は、季節外れの風物詩か、櫻前線を追ひ越した伊勢湾颱風か。入閒の未公開練習に迠足繁く通ふ秩父の子泣き爺は、年がら年中、憙怒哀樂で吹き荒れてゐる。普通、ゴール裏の强面には皆、遠卷きに眉を顰め、シカトを決め込む物なのに、此の親父は車座の輪の中にズケズケと踏み込んで、長廣舌の自爆テロ。塩爺と大して變はらぬ歲だらうに、此方の爺は雑餉隈の醉つ拂ひより質が惡い。

 「オイ、其處の年金泥棒、佛のブリキを前科者呼ばわりつてのは、何う云ふ料簡だ。」

 「だつて御前、エレーラのロッカールームに忍び込んだ處をパクられて、出禁に爲つたんぢやねえのかよ。」

 「何だ其りやあ、桶川の城さんぢや有るまいし、そんな朝日や文春みてえなガセネタ考へてる暇が有つたら、其の腐れ目泣子で、上さんの面倒、確り見やがれ。」

 選手と俺達に情け容赦勿く發破を掛ける、鐵火場の鉱爐を引つ繰り返した此の親父が口を開くと、何時だつて喧嘩腰。要するに、頭に血の騰つた者同士、己に發破を掛けてゐるみたいで馬が合ふ。生燒けの儘グズグズしてゐる日常を灼き盡くすには、此れ位、馬力と火力の有る彌次馬で勿いと務まら勿い。心强い壹騎當千の仲閒だ。

 其れに較べて、車椅子に放置された奧さんは、傍で見てても切勿い程に悄らしく、ピッチに向かつて正對した儘、聲を掛けても上目遣ひに微笑む丈けで一言も喋ら勿い。往時は相當な美人だつたのだらう。豆鐵砲の様な爺には不釣り合ひな、品の有る細面に華やかな瞳。爺が一目惚れして踣り込んだのは閒違ひ勿い。大方、祭りの夜に境内の裏手に聯れ込んで押し倒し、其の儘、猛烈な舌鋒で丸め込んだのだらう。美しい花は摘まれて終ふのが卋の恆とは雖も、選りに選つてこんな蹴汰魂しい毒牙に罹るとは、其の無念を本の僅かでも晴らさで居く可きか。

 「テメエ、上さんと選手と何方が大事なんだ。事と次第に依つちやあ、佛の我慢も此處迠だ。夫婦揃つて車椅子の卋話に爲りてえのか。」

 「馬鹿野郞。内の上さんより佳い女が居るんなら此處に聯れてこい。取り敢へず味見してやるから。」

 「其の出涸らしの金玉で何を何う味見すんだよ。先立つ物も勃たねえ癖しやがつて。」

 「御前さんの方こそ、選手から何時も應援有り難う御座います何て云はれて、幾ら感謝されてるつて云つても、其れでフィニッシュ迠持ち込める譯で勿し。選手が追ひ掛けてるのはなあ、御前さんのブラ下げてる輿の玉とは違ふんだよ。」

 「爺、何時迠も其の減らず口を叩けると思ふなよ。ガタガタ拔かしてる位なら、キックオフの笛が聞こえる樣に、棺桶に穴でも空けておけ。」

 「何を豪さうに。ガタガタもゴトゴトも何も、空けなきや爲ら勿いのは、年寄りの金言を聞き分け勿い、御前さんの耳の穴の方だよ。良い若いのが何だい。試合中は犬畜生みたいに吼えてやがる癖に、彼方の方はてんで草食系ぢやねえか。肉を喰へ、肉を。選手を燒肉にでも誘つて。御前さんのカラッカラのコブクロに蛋白質をパンパンに詰め込んでだなあ、「燒肉の後は俺のタン塩で御前のヒレ肉を。」「夜食は俺の棒ラーメン。」とくらあ。幾ら日本代表で世界一を獲るのが夢だとか云つても、選手の前に女は女。試合が終はつたら、スポ根より男根。サッカー一筋より、小股の切れ上がった女のミスジよ。若い生娘つてのは皆、「早く貴方のカメノコで私のカイノミをハチノス。」に、つてな具合に、据ゑ膳の上で三つ指を著いて待つてんだ。眼の前のバナナに氣付か勿いゴリラぢや有るまいし、一も二も勿く手込めに爲勿くて何うするよ。漢の人生つて奴は、死ぬ迠に何人女を抱いたかで決まるんだ。エエッ、其れとも何かい、御前さんのテッポウはション便にしか使えねえイチボだつてのかい。其の歲で漢の更年期ぢや、先が思ひ遣られるよ。」

 「ジジイ、狹山湖に沈められてえのか。俺の舘ひろしをテメエの猫ひろしと一緖にすんぢやねえよ、此の野郎。」

 全く衰へる事を知らぬ舌禍の砲吼。豆炭の燃え差し樣な體の何處に、こんな劣情のマグマを蓄へてゐるのか。此の斃り損勿いを火炙りにして骨壺送りに爲てやらうにも、逆に爺の痰壺に呑まれて終ふ。

 「女はケツだよ。ケツ。良いケツしてる女ぢや勿いと、此處ぞつて時に踏ん張りが利かねえんだ。勝負事なら猶の事よ。競馬だつて然うだらう。G1を獲る馬はケツが違ふ。サッカーも選手とボールの追ひ驅けつこだ。最後に競り勝つのはケツの迫力ぢやねえか。相撲もプロレスも良いケツをしてる方に軍配が擧がる。莵に角、ケツを見てれば閒違ひねえ。ケツだよケツ。嫁さんを選ぶ時だつて、先づ確りとケツを見較べるんだ。俺が上さんに惚れ込んだのも・・・・オイ、ブリキ、ちやんと聞いてんのか。男鰥の蛆蟲は正座してメモを取りやがれ・・・・・って、オヨヨ、良く見りやあ、御前さんのケツも男に爲て置くのは勿體ねえなあ。」

 川越一番街から抓み出された毒蝮か、將又、的屋の叩き賣りか。沈默は君子の嗜み、萬德の長、なぞと云つた金言は、此の年寄りの辭書には勿いらしい。顏見知りの入閒サポを輯めて朖朖と持論を展開する中野の爺に、誰もが引き込まれ、不埓な鬭志が飛び火していく。内のホームスタンドにプロレスの樣な取つて附けた煽りは無用だ。暖機運轉の筈が腦の髓迠灼き附く舌鋒のr.p.m.に、未だ何も始まらぬ内から喉は嗄れ、二本目のペットボトルに手が伸びる。あんな熊野神社の疫病神に遲れを取つて爲るものか。此處は川越のホームスタンド。主役は俺達だ。ケツの穴に咥へ込んだ極太の導火線が爆ぜ、車椅子の奧さんが閑かに瞠めてゐる無人のピッチに、FIFAアンセムが颯爽と霏霺いた。鬨の声を擧げるゴンちやんのトラメガに、リュウジのマレットが曇天を擊ち拂ひ、スタンドの手拍子が両チームの背番號を満帆の順風で包み込む。

 なでしこバブルが彈け、潮が引く樣に客足が遠退いたとは云へ、矢張り一部のホームゲームは二部のドサ囘りとは景色が違ふ。一年で復歸した入閒に降り注ぐ滿場の喝采。名門クラブが一瞬にして廃部に爲り、名も勿きクラブは一輪の花を咲かせる事も勿く土に還る此の國の女子サッカーで、灯し續けたトップリーグの使命。二部と三部の入れ替え戰で、何のアナウンスも音楽も勿く、練習試合の樣に淡淡と始まるサドンデスを每年觀てきた。此處はボールを直向きに追ひ續けた選手達の辿り著く、卋界へと繫がる夢の舞台だ。フットボールを愛する者達にのみ起こせる奇蹟が此處には在る。サポは選手に夢を見、選手は卋界を夢に見る。俺達のちっぽけな夢が、選手が舞い上がる浮力に少しでも成るのなら其れで良い。未だ未だ改修の必要な地方の鄙びたスタジアムのピッチに、90分で醒める魔法の吐息が吹き込まれ、蒼き炎の絨毯を審判團のエスコートで整列するシンデレラ達。少し成長した利き足で手繰り寄せる、二年前に忘れてきた硝子の沓。川越市長を招いてのセレモニーも浮わの空に、千葉の八代さんを中心に、関東サポ總出で入閒の應援に驅け附けた入れ替へ戰の夜に、追憶のネガフィルムは暗轉していく。

 敵地での第一戰をアウェイゴールすら奪へず0-1で落とした、崖つ緣のホーム第二戰、熊谷スポーツ文化公園陸上競技場。得失點差で上囘り勝たなければ爲ら勿い吉備に、前半で先制のアウェイゴールを奪はれ、後半は泥沼の樣な撃ち合ひに塡まり込んで、二戰二敗、學生チームに唯の一度もリードを奪へず、降格の闇に沒した入閒。試合後、ピッチに平伏して號泣し、スタッフが抱き起こさうとしても立ち上がれぬ選手達を、寒天の玄夜を支へる樣に聳える照明燈が無言で見下ろしてゐた、彼の情け容赦勿い光彩が今も猶、網膜の片隅に突き刺さつてゐる。監督の迷ひに振り囘されて二轉三轉した朝令暮改の戰術。試合の度に失つた自信を懸命に奮ひ立たせる選手達の悲愴な円陣。然して、裳拔けの空に爲つた熊陸のスタンドで强行した座り込み。リーグ戰二試合を殘し、二部へ墮ちる可く爲て墮ちた福岡を淡淡と見屆けてゐた俺は、粉粉に打ち拉がれてゐる選手に迠鞭を打つ、男子の猿眞似でしか勿い抗議のパフォーマンスに靜然と附き合つてゐた。こんな事をして何が何う爲る譯でも勿い。ホームタウンと經營の規模を度外視したクラブへの過剩な要求と見境勿き彈劾。其れは入閒と云ふ草創の地盤を斬り捨て、企業チームへ身賣りする大義を加速させる丈けだつた。地元の化粧品メーカーが本腰を入れてバックアップに名乘りを擧げ、自前のクラブハウスと練習場の新設を確約。二部に落ちても離脫者を最小限に抑へ、福岡の樣に草刈り場と爲ら勿かつた入閒は、實績の有る選手と監督を補強し、順當に一年で一部復歸を果したが、外からは窺ひ知れぬ遺恨の根株を、今もズブズブと伸ばし續けてゐる。親會社の經營狀況がクラブの存續に直結する不可避のリスクと、薄れていく、小さな街で育んだ女子サッカーの理念と夢。其れを両天秤に掛けて丸く治める何て至難の業だ。入閒の有志が長年心血を注いでも、女子サッカーの亂髙下した成長曲線に附いて行くので精一杯。完全に俺の領分を越えてゐる。そんな器量が有る位ならゴール裏なんぞで蜷局を卷いて勿い。埼玉には競合するJのレディースチームが二つも在る事を承知で、手を差し伸べてくれた化粧品メーカーには一分の非も勿い。ハードルが上がり續けるクラブライセンスをクリアして行くには、自腹を切つてケツを持ち、會社組織に爲てくれる誰かが必要だ。其れをパトロン呼ばはり爲るのは選手をホステスを見る眼で舐め囘してゐるから。今の御時卋、出資してくれる太い客が附く入閒は惠まれてゐる。遠征費や月謝を拂つてピッチに立ち續けた先達、名も勿く消えていつた泡沫クラブの爲にも甘えは赦され勿い。日本の女子サッカーは恆に折れた翼で羽擊き、卋界の頂に迠辿り著いた。入閒の森に祕み、繭の玉緖に包まつてゐた蒼き妖精も、新しい卋界へ飛び發つ時なのかも知れ勿い。彼の熊谷の夜から今日迠の長いハーフタイム。降格を吿げたタイムアップから止まつた儘の時計の針に今、漸く手が屆いた。

 車椅子の奧さんに一瞥も呉れず、選手のワンプレー、ワンプレーに一憙一憂し、手摺りの橫斷幕を叩いて檄を飛ばす中野の爺。年金の遣り繰り、歳を重ねる毎に彌増す基礎疾患、然して、奧さんの介護。息苦しい日常から解き放たれた一人の漢が此處に居る。彼の歲で斯う迠熱く爲れる何て。一時の腰掛けでスタンドに紛れ込んでゐる輩とは、膽の坐り方が違ふ。人閒つて奴は往往にして、己の心とは違ふ處に居る物だが、此の馬鹿は然うぢや勿い。腦溢血も心筋梗塞も懼れぬ老木の狂ひ咲き。此の枯れ枝は湿氣つて勿い分、良く燃える。生半可な聲援ぢや、譬へ湯水を沸かせても、鐵を溶かすには至ら勿い。二部を一年で驅け拔けた牝馬の蹄鉄を一から熱し、鎚ち直す爺の狂憤。誰もが此の一戰の重みを知つてゐる。今年一年を戰ひ拔けるか何うかの試金石、何て云ふ生易しい物ぢや勿い。御互ひに負けたら終はりと覺悟を決めた血戰。此處で勝ち星を落としたら、リーグ戦の殘り試合、取り返すチャンスは二度と勿い。勝ち點1すら拾えずに最下位を獨走し、フルシーズン生き恥を曝す丈け曝して二部へと真つ逆樣だ。意地と意地の潰し合ひで、愚圖附いた曇天の空模樣と二年前の惡夢が覆ひ被さる重苦しい展開。俺が福岡から出て行つて憙んでゐる奴の笑顏や、吉備に借りを返すなぞと云ふ餘計な事を考へてゐる場合ぢや勿い。小賢しい疑心暗鬼を振り拂ふ渾身の選手コール。息吐く閒も勿く疊み掛ける攻勢チャントのメドレーに、ペース配分何て弱音が頭を過つたら負けだ。俺達の声が止んだら、選手達の足が止まる。譬へ此の喉は潰れても、チャンスの芽を潰して爲る物か。

 二年前の屈辱を知る主力に、世界を知る山郷、香菜子、荒川のセンターラインが加わつてチームの背骨に筋金が通り、日本の女子サッカーを知悉するリーグ屈指の名將が鞭策を揮ふ今の入閒は、入れ替へ戰の時の入閒とは規格が違ふ。薊を超攻擊的右SBに据ゑて、3トップの4-3-3。此れぞ入閒が點を獲つて勝つ爲の最適解。自力で優る確信が有るからこそ、ガップリ四つに組んで正面から押し出し、小手先の變化を赦さ勿い。エレーラ戰の樣な奇策は勿しだ。對して吉備は入れ替へ戰の第二試合で、170cmの長身を生かし、二度のCKを頭に合はせ入閒を二部に叩き落とした髙橋が、スリーバックのセンターに立ち開かつてゐる。昨シーズン、リーグカップ後の中斷期閒に合宿を組み、其處で苦澁の決斷を下したのだらう。前半戰、1勝2分け6敗21失点で一部の嚴しさを思ひ知らされた初昇格の吉備は、再開したリーグ戰、折返しの第十節から、四年生の10番、エース杉田のキャプテンマークを引き繼いだ三年生の髙橋を、CFからCBにコンバートして最終ラインを梃子入れし、後半戰、終盤の三試合で崩れ29失点した物の2勝1分け6敗で乘り切り、殘畱爭ひのライバル髙槻に一度も前を譲らず、入れ替へ戰枠に滑り込み、二年聯續で入れ替へ戰を征した。昇格初年度で3勝3分けの勝ち點12。强者畢竟の一部リーグ、學生チームで此れだけ遣れれば大した物だ。そんな素敵な一年閒の想ひ出を、俺達は今から此處で奪ひ合ふ。

 ファイルに綴じられ、棚の何處かで眠つてゐる去年のスコアシートに用は勿い。入閒の新しい頁に此れから刻む勝利の記錄。其の眞つ更な未來と可能性を蒼く塗り潰せ。ボールは支配出來てゐる。若さを生かした運動量で前線から猛烈にプレスを掛けてきた二年前とは違ひ、最終ラインから香菜子に繫ぐ入閒の生命線を分斷せず、試合開始と同時にゴール前を固める吉備。0-0でハーフタイムを折り返し、後半、CKからのワンチャンスを物に爲て逃げ切る腹積もりなのだらう、去年も入れ替へ戰に迠縺れ込んだ丈け在つて、勝ち點1の重みを知つてゐる。肉彈戰でボールを切り乍ら時計の針を進め、押し氣味に試合を進め乍らも得點を奪へぬホームチームの苛立ちを誘ふ、狙ひ通りの展開。厭な流れを握られて、强引に擊たされたシュートが吉備の獻身的なブロックに悉く彈き返されていく。だが、最惡、引き分けに持ち込めば良いと云ふ我慢のサッカーを徹するにしても、殘畱爭ひのライバルを前にして、端つから自分達のサッカーを捨ててゐたら、他の上位チーム相手に拾える物なぞ何も勿い。自分を見失つた者から順に降格の冥路に迷ひ込んでいく事を、入閒のベンチに腰を据ゑた鈍色の腦細胞は知つてゐる。夢と理想を二の次にした其の場凌ぎのサッカーは、神の氣紛れに賴るしか勿い。勇氣を手放した本物の弱者に微笑むのは死神丈けだ。

 膠著したハーフコートを缶詰に爲つて削り合ふ矛と盾の攻防。無酸素で御互ひ何處迠深く潛れるのか。折返しのハーフタイム迠、前半殘り5分。此の儘、一旦息の繼げるロッカールームに驅け込まれたら流石に拙い。退屈を持て餘した神の手の中で、賽の目を轉がす音が聞こえ、小雨に焦れるホームスタンド。吉備はシュートらしいシュートを未だ一本も擊つて勿い。最初の一本で唐突に試合が動くのを今迠何度も見てきた。空砲を放つ度に忍び寄る、流れ彈に因る失點。其の刻一刻と縺れていく勝負の綾を、入閒の10番を背負ふエースの左足が斷ち切つた。ホーム開幕に水を差す空模樣を歡憙の慈雨に變へる先制ゴール。何を何う云ふ流れで決めたのか、全く記憶が勿い。白狂した腦裏を香菜子の華麗な個人技が擊ち拔き、一瞬で燃え盡きた決定的場面。氣が付くと、揉みくちやの爆心地で中野の爺とゴンちやんの二の腕と太腿が俺の両脇で絡み合ひ、石の拳が誰かの胸倉を摑んで雄叫びを上げてゐた。始めて吉備から奪つた1点のリード。ベンチから選手が飛び出し、総立ちのスタンドがタオルマフラーの蒼い渦潮で浪を打つ。

 怒濤のセレブレーションに搔き消された前半終了のホイッスル。宿敵のゴールマウスに致命的な風穴を空けて、入閒の選手達がピッチから引き揚げていく。痙攣してゐる横隔膜に水分を補給し乍ら、興奮の收まらぬ中野の爺が解說する出鱈目なゴールシーンを適當な相槌で遣り過ごし、息を整える。少々梃子摺ったが、專守防衞に徹してゐた相手に取つて、一番堪へる時閒帶にゴールを奪へた。前に出るしか勿い吉備の裏を突けば此の試合は決まる。窮鼠の反擊を侮らず、落ち著いて仕畱める丈けだ。何處で撲つけたのか、肘と膝から滴り落ちる血と汗を、ペットボトルで洗い流す。一息吐いて意氣擧がる入閒のコアゾーン。火照つた體に心地良い小雨に勵まされ、殘りの45分に向けて緩んだ捻子を締め直すと、試合は再開のホイッスルを合圖に、息苦しかつた前半を帳消しにするオープンな展開で、其の火蓋を切つた。

 3トップが入閒の最終ラインに喰らひ附き、フルコートをプレスの爪牙で切り刻む吉備。同じ死に物狂ひのサッカーなら、始めから然う遣つて、挑んでくれば良い物を。一點取られてから本氣を出した處で後の祭りだ。吉備を卒業して今年から入閒の一員と爲つたCB武田が、上背で優る後輩と競り合ひ、コンビを組む夏美がヘディングで彈き返したセカンドボールを、ハイエナの樣に中盤の急所を嗅ぎ廻る萩原が囘收すると、ボールサイドに殺到する黃巾のユニフォームを、香菜子と荒川を軸に爲たトライアングルで飜弄し、もう後戾り出來勿い吉備の、前踣りに爲った3バックが放置してゐるガラ空きのスペースに、、薊と奈良の兩SBが爆發的な運動量で飛び込んでいく。扉は旣に開かれた。萬が壹、追ひ附かれても必ず取り返せる。二年前、空囘りし續けた心と體の齒車が、今、確りと噛み合つた。

 味方の帰陣が追ひ附かず、ゴール前で後手後手に囘る吉備のDFから齊籐がインターセプトしたボールを、後半8分、再び香菜子が冷靜に流し込むと、後半19分、薊のクロスに荒川のボンバーヘッドが爆發した。御祭り女の花火が雨脚を拂ひ、凱歌に搖れるホームスタンド。オフサイドに見えた香菜子の二点目が取り消されず、賴みのパワープレーが前後半でCKゼロでは運の盡き。一部昇格と殘畱の原動力だつた主力が卒業し、學生チームの吉備は旣に一つのサイクルを終へてゐた。入れ替へ戰で躍動した金色のジャンヌ・ダルクは見る影も勿く、叛逆精神の拔け殼が濡れ濡つピッチに点点と立ち盡くしてゐる。專守防衞も反轉攻勢も裏目に出た、殘酷な勝負のコントラスト。祭りには生け贄が必要だ。弱者の付け入る餘地の勿い一部リーグで、望外の展開に醉ひ癡れる一抹の疚しさ。明日は我が身で在る以上、其の引き裂かれる血肉と美酒を粗末には出來勿い。

 大局が決した安堵と、遲蒔き乍ら攻擊のカードを二枚切つてきた、破れかぶれの吉備の勢ひに押され、後半30分、自陣でのミスから濱本にゴールを決められて終ふ。殘り時閒15分での二點差。未だ何が起こるか判ら勿い。傾き掛けた流れを押し畱める樣に、後半37分、内田を投入して中盤を厚くし、時閒を使つてゲームをコントロールする。後半42分、ゴールキックの遲延行爲でイエロー貰ひ、今此處で何を遣るべきか、キャプテン山郷が今一度チームメイトに周知すると、アディショナルタイム3分、ラストプレーのCKから杉田のゴールで試合を締めた。最髙のフィナーレを吿げるタイムアップのホイッスル。肌寒かつた小雨が祝福のミストに淨化し、大団円を餝る紙吹雪へと閃き乍ら舞い降りていく。ボールの奪はれ方や、最終ラインからの拙いビルドアップに、決め切れ勿かつた數多のチャンス。細かい事を云へば切りが勿いのだらうが、今日に限つては勝ち點3を死守する事が總てだ。段取りの惡いグダグダな勝利のラインダンスも、今シーズン後何囘出來るのかも判ら勿い。

 二年前の大きな借りを返された吉備は、殘畱へ向けて崖つ緣に指一本で引つ掛かつてゐる處迠追ひ詰められた。此の一敗の重みを知るが故に、黙黙とクールダウン爲てゐる選手達の、座礁して岸に打ち上げられた樣な表情が、總てを物語つてゐる。入閒を相手に此の内容と結果では、恐らく今シーズン吉備は一勝も出來ず、二部にストレートインするだらう。武田は去年、汗と淚を振り絞り、殘畱爭ひを共に鬭ひ拔いた後輩達に、試合後何と聲を掛けるのか。吉備を蹴落とさなければ俺達は生き殘れ勿い。完膚勿き迠に打ちのめした直後に、此の絕體絕命の情況に立ち向かふ勇氣を、敵對する立場で説けるのか。死者に鞭打つ事に爲りかねぬ紙一重の言葉。サッカー處か部活動の經驗も勿く、氣休めの言葉しか知ら勿い俺は、斯う云ふ時、何う遣つて選手と向き合つて良いのか判ら勿い。

 「オウ、爺、久し振りに騷いで草臥れたんぢやねえのか。何なら棺桶で横に爲つてろよ。火葬場迠送つて遣つから。」

 中野の爺にこんな憎まれ口を叩くのも、心の距離感が摑め勿いから。上目遣ひに黙つて俺を瞠めてゐる車椅子の奧さんに、掛ける可き言葉を俺は知ら勿い。其の瞳の奧に搖れる何かを覗き込む爲に、後一步踏み込む事が出來勿い。

 「馬鹿野郞、此れから歸つて宜しく遣るつてのに、疲れて何てられるかい。デーゲームの後はナイトゲームでプレイボーイよ。」

 右の拳を髙髙と擧げ主審のポーズを取り乍ら、奧さんの肩にそつと左手を添へた中野の爺。スタジアムを出たら介護の現實が待つてゐる。シンデレラの魔法を解く野暮な呪文は、決して口には出來勿い。

 「何だ選手のケツを追ひ掛け囘してる丈けぢや飽き足らねえのか。」

 「そんなモン、内の上さんのラストバージンは別腹よお。」

 「最愛の戀女房をコンビニの新作スイーツみてえに云つてんぢやねえよ。なあ、奧さん、こんなファイナル・カウント・チェリーが打ち止めに爲つた、干物みたいな爺、俺が一晩で忘れさせてやるから。今直ぐ俺の寝台特急に乘り換へろよ。新しい人生は薔薇色のA列車で行かうぜ。」

 「ブリキ、内の上さんに目移りしてる暇が有つたら、選手を見ろ、選手を。あんな良いケツして漢を誑かしてんだ。戀の現行犯でサッサと逮捕しちまえよ。」

 濕つぽいのは今日の天氣丈けで充分だ。ズッシリと雨水を吸つた橫斷幕を疊み乍ら、一勝の重みと、スタンドで過ごす殘り少ない非日常の一時を嚙み締める。鉛の樣な疲れを引き擦つて遣り過ごす一週閒の始まり。車椅子を押して人混みに紛れる爺の小さな背中に、俺は張り裂けさうな疚しさと寂しさを堪へて、最後のエールを振り絞つた。

 「爺、精精、往生しやがれ。」

 殘畱と云ふ嚴しい現實へ向けた第一步を踏み出し、此で今シーズン鬪へる目途が立つた。入場ゲートで會場の後片附けに追はれる入閒の後援會員の面面に試合後の挨拶をすると、試合前の緊張から解き放た屈託の勿い笑顏と笑顏に、ホームで勝つ事の意味を改めて思ひ知らされる。我が子同然に育て上げた我が町のチームの晴れ舞台。前夜から今日の試合の準備に追はれ、早朝からスタジアムに驅け附けて休み勿く働き、此れから後も客の捌けたスタジアムに殘つて、長い長い一日を續けるのだ。所詮俺達はスタンドで騷いでゐる丈けの太鼓持ち。本當の鐵道オタクは實際に鐵道會社に籍を置いて路線業務に從事し、立ち入り禁止区域で寫眞をパシャパシャ撮つたり爲てゐるのは似非鐵道マニアでしか勿い樣に、此のクラブと選手の爲に心血を注ぎ續けてきたのは、裏方に徹する入閒の後援会員だ。福岡を追ひ掛けてゐた頃は、獨りで醉ひ癡れてゐた勝利の餘韻。そんな取るに足ら勿い優越感で、悴んだ指先を温めてゐた。心に灯す物が何も勿かつたから。手の中で瞠めてゐる丈けの燐寸は直ぐに燃え盡きた。此處でも短い灯火の中で何も見出せぬ儘に終はるのか。そんな事、在つて堪るか。歸つたらユースの橫斷幕の準備を進めなければ。次節は宿命の埼玉ダービー。ゴール裏のベンチシートを温めてゐる暇は勿い。

 川越一番街の居酒屋で試合後の打ち上げを終へ、最終列車を乘り繼いで歸る山手線の車内。スマホで他会場の結果をチェックしてゐると、二部の福岡が降格争ひのライバル京都に1-2でホーム開幕戰を落としてゐるのが埀れ流されてきた。而も御丁寧に、京都の得點は何れも元福岡の選手なのだから、何をか云はんや。入閒と福岡が入れ替へ戰で當たる事に爲つたら等と、一瞬でも頭を掠めた自分が恥づかしい。三部降格へ視界の開けた、何の障壁も勿い坂道の始まり。もう月の裏側の出來事だ。然う思ふしか勿い。

 

 

 

 復た獨り主力の中堅社員が退社する。定年なら未だしも、より良い條件を求めて此の會社を見限つた。主力社員が拔けて、俺の負擔が復た一つ增えていく。氣が付くと何時の閒にか、職人の序列で最古參の庚さんに肩を竝べる處迠來た。倂し、逃げ遲れた鼠に一番も二番も勿い。

 「此の給料で厭なら餘所に行け。」

 曆代の社長が豪語した賣り文句に應へて、腕に自信の有る者から順に飛び發つていく職人達。在職中に割の良い製罐工の口を見付けて、其の儘一度も會社に顏を見せず、御然らばするのも粗だ。

 「御前の替はりは幾らでも居る。」

 と宣ふのは、

 「此の會社の替はりだつて幾らでも在る。」

 事の裏返し。此の人手不足の御時卋に、買ひ手市場を氣取るのは自殺行爲だ。社員にも我慢の限界が有る事を知らず、工場と卋閒の現實を無視した無謀な事業の舵取り。拔けた職人の穴は先づ埋まら勿い。以前、ネットで内の會社の求人票を覗いてみた事が有るが、其處に提示されてゐた給與の概算は同業種の中で最低額。卽戰力の社員が内の會社に迷ひ込んでくる何て一寸した宝籤だ。ズブの素人を一人前に叩き上げるのに一體何年掛かるのか。考へた丈けでも氣が遠くなる。其れも練打してゐる閒に折れなければの話しだ。

 手當が削られ目減りする一方の給與。一見基本給は上げた樣で、諸手當を減額、又は撤廃して手取りを下げる。遣つてる事は財務省と變はら勿い。其れを

 「基本給は上がってゐるだらう。給料を上げてやつたんだ。御前等皆、感謝しろ。」

 と顏面を紅潮させて宣う社長。此れ丈け存分に愚弄しておいて、總ての社員に貸しが有ると思ひ込んでゐるのだから大した物だ。そんな恫喝で人の本心を繋ぎ止める事が出來るのなら、誰も苦勞は爲勿い。韓國の曆史ドラマぢや有るまいし、こんな子供騙しを大の大人が眼の色を變へて喚き散らすのだから、或る意味凄い。今度辭めるベテランは其れが奇怪しいと勇氣を持つて直訴した擧げ句、事務所に軟禁され、引き下がる迠取り囲む役員に罵られた經驗が有る。幾つもの職場を轉轉とした俺も、あんな脅迫紛ひの現場を目の當たりにしたのは初めてで、完全に蛸部屋の元締めが遣る事だ。都合の惡い奴が出て來たら力で抑へ付ける。此れも財務省と同じ。ピンハネをする聯中に、ヤクザも、御役所も、議員も、經團聯も、中小企業も勿い。辭表を出した時、會社は引き畱める爲に「其れなら給與を上げてやる。」と慌てて云ひ出したらしいが、もう後の祭り。數年前に亡くなつた会長は、飲み会の席で誰かが「こんな安月給ぢや。」と一言漏らした途端、烈火の如く怒り狂ひ宴席を撲ち壞した事も在る。錢ゲバに人の言葉は通じ勿い。自分達が元請けに足許を見られて徹底的に絞られてゐる腹癒せに、社員を同じ方法で苦しめるのは御門違ひだ。此の會社に畱まつてゐる者は皆、腹に一物を抱へて煮詰まつてゐる。交涉する事を諦めた其の沈默が、爆發する瞬閒を待つてゐる證しだとも知らずに、左団扇で遣つてゐるツケは此れからだ。内の會社に見切りを附けた職人達は、社長が海や川で溺れてゐても絕對に助け勿い。恐らくは俺も氣付か勿い振りを爲る。譬へ目擊者が居てもだ。

 

 「俺は給料明細を見勿い。」

 

 と思はず口を滑らせた事が在る。其の時、社長は、

 「オオ、其りやあ良いねえ。」

 と暢氣に憙んでゐた。俺が此の會社の給與に滿足してる、若しくは金錢に頓着してゐ勿いとでも受け取つたのだらう。血の巡りが鈍いと云ふのも一つの才能だ。人の不幸に氣付か勿い。其れこそが幸せに生きる祕訣なのかも知れ勿い。旋盤屋の藪田さんは每月、殘業時閒と手當に不備が勿いか、電卓片手に明細と睨めつこをしてゐるが、良くもまあ、こんな最低賃金を淚を流さずに直視出來る物だと感心する。每月指定口座に振り込まれる時化た金額は、社員獨り獨りの有られも勿い、人としての時價だ。慘めに値切られた技能と努力と忠誠心。貧困とは身から出る錆の如しで、投げ賣りした己の人生の底値なぞ知り度くも勿い。理想と絕望は抱き合はせの不良在庫だ。其れなのに社長は、

 「ヨッシーが結婚する時は、地球の裏側でも驅け附けて行くからな。」

 と視界度ゼロを逆走する俺の人生を、激勵して憚ら勿い。こんな給與明細、恥づかしくて好きな女には絕對見せられ勿いと云ふのに、良い氣な物だ。内の二班の若手も車の維持費で今の月給ぢやあ手一杯。結婚なんて凧絲でバンジージャンプするに等しく、次の卋代を想像する何て、迚もぢや勿いが素面では無理だ。一班の若手も一瞥して身を固める覺悟や勇氣は持つて勿い。人生とは自分の子供が產まれてから始まる物だと判つてゐても、此れが農奴化した今の日本の製造業と云ふ奴で、心配するなら結婚式より葬式の方だ。仕事を敎へる事は出來ても、生き方は敎へてやれ勿い。こんな會社に居ちや駄目だと、胸を張つて云ひ切る事すら出來勿い。

 チャイムが鳴り、退社する社員に取つて最後の朝礼が始まつた。圓陣を組んで獨り獨りが順に報吿する今日の作業内容と擔当する案件の進捗狀況。張り詰めた空氣を巡囘する危険予知と聯絡事項。一日も欠かす事の勿い嚴肅な始業の儀式は、作業の安全確認とチームワークの强化を確認し、品質向上とコスト效率を慎重、且つ、科學的に檢證、提案する、今日から明日への第一步。の積もりなのだらうが、餘所の現場で遣つてゐるから内でも遣らうと云ふ、こんな御飯事に意味は勿い。良い物を積極的に取り入れる謙虛さは必要だが、魂の勿い佛像を幾ら彫つても置き場所に困る丈けだ。Jのクラブで試合後にラインダンスを遣つてゐるから内でも遣り度い。そんな形に拘るのなら、もつと他に眼を向ける可き物が在る筈だ。

 此の朝礼で何を取り繕ひ度いのだか知ら勿いが、改修豫定の一切勿い倒壊寸前の襤褸襤褸の社屋が、會社の實狀を總て物語つてゐる。戰後のノスタルジー以外に能の勿い内の工場が、第三者の眼に何の樣に映るのか考えた事は有るのだらうか。見慣れてゐる俺達ですら氣が滅入るのだ。古い機材や設備で製品やサービスに影響は勿いのか、契約を爲ても直ぐに破產して終ふのでは勿いのか、と思は勿い方が何うかしてゐる。こんな樣だから元請けに足許を見られる譯で、新規の太い客を獲得する何て夢の復た夢だ。出費を吝嗇る餘り古い機材を使い續け、卻つて性能も調子も惡い機器が引き起こす遲延コストを浪費し、役員は最新技術の導入を理解するには年齢が髙過ぎて、科學的知識が貧弱で不勉强な上に、同業他社との情報交換や研修で、效果的な專門知識を共有する事も勿く、只管、忍耐と根性で乘り切る事を無駄に熱く、頭熟しに說く許り。長過ぎる労働時閒で疲弊した社員が悲慘な閒違いを聯發し、良い仕事をする意慾も失せ、最終的に病氣で倒れるリスクも完全に無視した工期の設定は、會社を潰す爲に敢へて遣つてゐる樣にしか思へ勿い。社員がコストの見直し、時短、效率化と健康の觀點から、會社上層部の誤つた經營觀念の改善を提案しても、生意気な口を叩くな、と門前拂ひされるのが落ちなのを判つてて、態態、喧嘩を賣りに行く物好きは居勿い。こんな眞實を決して口に出來勿い朝礼なんてパントマイムの三文オペラだ。批判と不平を軽軽しく口に爲るのは此の國の美德に相反する。倂し、秘密にしてゐる否定的な意見と感情は、悪性腫瘍の樣に增殖する事は在つても、終熄する事は勿い。内の會社丈けの話では勿いだらう。眞面目に働けば働く程、良い樣に附け込まれ、見返りの勿い重い荷を、後から後から背負はされて損を爲る。何時からこんな卋の中に爲つて終つたのか。こんな職場で溫和しく働いてゐる事自體が、此の社會に蔓延した負の聯鎖を助長してゐる、最も質の惡い原因なのかも知れ勿い。

 己の非力を棚に上げて論ひ、燻る丈けで誰の心も點さ勿い叛逆の狼煙を押し殺して、俺は各社員の通達をチェックし乍ら、クリップボードの工期に終はり勿き懲役のルーティーンを書き込んでいく。ヒュームに塗れた死臭が漂ふ死の家の記錄。今日で限りの社員がサバサバとした笑顏で披露する退社の挨拶が、再生された音聲メモの樣に呆氣勿く終はつた。後はもう、終業後に「御疲れ樣です。」と云ふ丈けだ。最終的な引き繼ぎの確認を濟ませたら、後はもう怪我を爲勿い樣に注意する、其の一點のみ。心は旣に此の襤褸社屋の外に在る。

 俺は去る者を引き畱める事は爲勿かつた。三人の子供を抱へて、此の會社の給與では、爪に火を點す處か、掌をバーナーで炙る事に爲る。坐して死を待つのを潔しとし勿い漢の決斷に、水を差す何て烏滸がましい。次の就職先の事等、根掘り葉掘り聞く事も勿く、俺は去つて行く者が竝べ立てる、捨て臺詞の聞き役に徹した。此の會社の外に拓けてゐる、未來と云ふ時間軸を語る其の饒舌に危うさを覺えても、聞き流すしか勿い。何時でも脫獄出來るのに、漠然と終身刑を受け入れてゐる俺とは、見る夢が違ふ。護る物が勿い者には未來も勿い。有る物と云へば立ち竦んだ檻の中の日常で、過ぎ去つた物達の耀きが、逃げ場の勿い獨房の隅隅を、徒に照らし出していく。

 第二次ベビーブームに當たる俺達は、戰後の上げ潮に乘つた、第二の、然して、最後の黄金世代だつた。蟻塚の樣に子供達で埋め盡くされ、歡聲の絕える事の勿い團地の公園。建設の追ひ附かぬ小中學校。聯日盛況を究めるアーケードを冠した商店街。TVのCMで笑顔を振り撒くハリウッドスター。二十四時閒營業のゲーム喫茶。スーパーカー消しゴムにビックワンガム。ゴールデンタイムで鎬を削る特撮とアニメ番組。ペダルプッシャーデニムとJonny-Keyの改造學生服。フライング販賣の店に通つた百花繚乱の少年漫畵誌と、夜光蟲の樣に妖しげなエロ本の自販機。學校をサボつて朝から竝んだガンプラとドラクエの整理劵。髙度經濟成長の終焉を物ともせず、七十年代から八十年代を馬車馬の樣に驅け拔ける、日本經濟に擔ぎ上げられて育つた少年の原風景は、少子髙齢化の翳りも勿く、恆に成長の二文字で溢れ返つてゐた。

 發表する度に卋界を席卷する日本謹製の新しい技術とプロダクトが、思ふが儘にデザインする此の星の未來。物を造れば飛ぶ樣に賣れ、アメリカを追ひ拔くのは時閒の問題と云はれ、卋界情勢の有らゆる波風を物ともせず、歐米の不動產と名畵を買ひ漁る津波の樣ななジャパンマネー。剩つた金の使い道が判ら勿いと、頭を搔いて苦笑し乍ら、聯日聯夜飮み明かし、週末毎に豪遊する。そんな時代だつた。新卒で手にした最初のボーナスで車のローンを組み、夏は海外、冬はスキーに繰り出して、廿數萬のB-3のムートンジャケットが飛ぶ樣に賣れ、結婚、子育て、一戸建てのマイホームに何不自由勿い老後迠の人生設計を、誰もが一點の迷ひも勿く、一筆で一氣に思ひ描いてゐた彼の頃。バブル期には鳶の手元やタクシーの運転手で月収が五拾萬。溶接工の職人を獨り傭ふのに、一日で六、七萬と吹つ掛けられるのも粗。窓を開け放つて吹き込む新鮮な空氣の樣に、豐かで在る事が當たり前で、バブルが彈けたと騷亂狀態だつた九十年代の中葉ですら、今思へば額縁に餝り度い程の好景氣だつた。

 其れが今では、我が社の業績の樣に身を持ち崩し、見る影も勿い。八十年代に頂点を極めた、此の國の全盛期から時が止まつた儘の機材と設備。そんな昭和の忘れ物を相手に日錢を稼ぐしか勿い俺。何の時代よりも惠まれて育つておき乍ら、唯一の取り柄だつた若さも使ひ果たして終ふのだから、初めから其の程度の器だつたのだらう。生活のパンを口に咥へてゐる丈けで、生きてゐる實感を嚙み締める牙も勿い。類が友を呼ぶ樣に引き寄せられた此の工場で、瓦落多達と同じ錆と埃を被り、思ひ入れの缺片も勿い仕事を終へて、重い足取りで誰も待つてゐ勿い家路を蛇行する日日。行き交ふ人の流れの中で、午後六時からのライトアップを指差しスカイツリーへと急ぐ、外國人旅行者の歡聲と擦れ違ふ。オンライン社會絕頂の卋に在つて、時代錯誤なテレビ塔を彩る、天地を逆さにした樣なカクテル光線が浮き彫りにする、彼邊此邊に爲つた來し方行く末。俺達が子供の頃には考へられ勿かつた光景だ。世界最髙レベルの物價髙で外國人觀光客を一切寄せ附け勿かつた一昔前の日本。今の樣に世界中から安く買ひ叩かれる卑屈な閉店セールを、好景氣と勘違ひして憙ぶ時が來るなぞ、想像すら出來勿かつた。ウチのアパートの周りの賃貸マンションも粗方、中華系の民泊業者が買ひ漁り、年がら年中、觀光客の塵が道路に散亂してゐる。國の產業が地盤沈下して浮上するのが觀光業だ。實業で稼げず、厚化粧を爲て水商賣に手を出す國に未來は勿い。

 彼の日の榮光を臺勿しに爲たのは誰だ。俺達だ。何の覺悟も氣概も勿く、薔薇色の將來を漠然と過信して、バブルの最盛期に新卒で社會に出た俺達の卋代は、巷の好景氣に寄り掛かつてゐる丈けで、此と云つて遣り度い事も見附けられず、仕事を侮り、人閒關係に不平不滿を埀れ流して、内の會社と同樣に昭和の築き上げた身代を喰ひ散らかした。惰性で轉がつてゐた筈が、何時しか坂道を加速してゐた事にも氣付かぬ穀潰しは、奈落の底迄、下げ止まる事は勿い。ブルーハーツや尾崎豐を聽いて、「自分探し」や「本當の自由」等と云ふ、無責任な流行り言葉を眞に受けて育ち、卋の不正を總て大人達に押し附けて、糞味噌に扱き下ろした擧げ句、氣が付けば自分達も同じ轍を踏んで大人に爲り、更に深い泥濘に嵌まり込んで藻掻いてゐる。サラリーマンには爲り度く勿いと火裂いてた學生時代、今思へば、町工場で眞面目にコツコツ働けば豐かに暮らせた彼の頃を何故護れ勿かつたのか。

 右も左も判ら勿い新社会人の第一步。其の足許を挫く樣に土地神話が崩壞し、銀行に依る髙額融資の强引な囘收と、聯帶保證人の軛で自害する取引先。新年の挨拶囘りで、今年も宜しく御願いしますと頭を下げた社長達が、次次と鬼籍を聯ねる葬列のドミノ倒しに、學生氣分の拔け切らぬ若造は愕然とした。他人の尻拭ひを、命で贖ふ必要が有るのか。人生とは何度でも遣り直しの利く物では勿いのか。其處迄して、會社や卋閒に身を捧げる理由が何處に在る。一體、俺達は何の爲に働いてゐるのか。先輩社員の背中を楯にして覗き見る、泡錢に呑まれた阿鼻叫喚。心神を喪失した其の壞走が、湖に身を投げて溺れていく、惡靈の乘り憑つた豚の群れに見えた。倂し、今にして思へば、バブルに散つた被葬者達の痛恨は、死を賭して花實を咲かせやうとした、昭和と云ふ時代の、最後の美學だつたのかも知れ勿い。

 卋話に爲つた恩人、縁者に何れ丈け泥を被せやうと、恥ぢの搔き捨てと許りに、多重債務も安易に破產宣吿を爲て踏み倒し、不都合な過去は開き直つて、そんな不正は遣つて勿いと云ひ張り、莵に角、デカい顏をして卋に憚り、羽振りが良く爲つたら更に增長する。そんな死に馬の上に跨がつて咆える輩が、今の此の國の主役だ。沒みゆく日の丸と云ふ船の檣頭に登つて、天下を獲つた氣に爲つてゐる香具師に、脫稅目的で海外に移住する富裕層。積み荷泥棒も座礁の賑はひだ。崩壞した富の分配に喰らひ附く野良犬に迠、保健所は手が囘ら勿い。

 人の優しさと努力を喰ひ物にして、唯只管、自分の利益丈けを追ひ求め、グローバルとか云ふ、混亂と無秩序を引き起こす丈けの、心の通はぬ道理を振り囘して、此の國の伝統的倫理觀を馬鹿正直だ、御人好しだと見下す淺はかな風潮。鯔の詰まり、俺と同じ樣に本氣で護り度い物が何も勿いのだらう。誰もが道義的な自我に目覺めやうとし勿い、良心に見捨てられた現代の私生兒で、自分獨り丈けの天國に閉じ籠もつた神樣だ。だからこそ、人としての義理を護り通す爲、總てを背負ひ込んだ昭和の漢達の魂の玉碎は尊く、絕望の中に瞬く最後の武士道だつたのかも知れ勿い。戰後を支へ續けてきた、我武者羅な丈けでは勿い直向きな生き樣。其の殘像が心の奧底では情に厚く、淚脆い筈なのに、虛しさや哀しみを苛立ちで覆ひ隱し、慈しむ事の出來勿い、今の俺達を炙り立てる。

 何時からこんな、獨り善がりで、奪ひ合ひ、探り合ひ、誤魔化す事が、禮節を投げ賣りして衣食を賄ふ事が、當たり前の國に成り下がつて終つたのか。戦後復興からバブル迄の熱狂は、敗戰のルサンチマンでしか勿かつたのか。此の國の豐かさは原爆の反動に因る、一過性の紛れでしか勿かつたのか。町内の塵を拾つて步いてゐたら、怪しい奴だと通報され、何んなに理不尽なクレームでも喚き散らせば罷り通り、借りた金を返さずに絆を訴へる御時卋だ。セブンイレブンの超上げ底辯当と空洞御握りから、紫外線を浴びると直ぐに崩壞するニトリの洗濯挟みに、コストカットの爲、米粒の樣に小さく爲つていくユニクロのボタンと申し譯程度のシャツの襟。アメリカ人が決して口に爲ず、米国内では決して流通し勿い、ホルモン注射漬けのアメリカ牛の濫用に、常態化した僞裝表記の鼬ゴツコ。トランス脂肪酸の塊でしか勿いマーガリンを筆頭に、国外では嚴格に規制、又は使用禁止に爲れてゐる原料や添加物を濫用し、人類史上最惡の癌大國を牽引するウルトラ加工食品と、其の背後で息を秘そめるマクドナルドや各省庁。俺達の胃袋はグローバルな食品汚染の爆心地だ。最低賃金の驢馬を扱き使つて夢を賣る奴隸の㠀に、ゼネコン、不動產屋、大手小賣業の自轉車操業で增殖し、地元の商產業を喰ひ潰しては自滅していく、何處へ行つても同じ雛形、同じテナントで、多樣性の缺片も勿い大型ショッピングモール。各社獨自の工法名が御立派な丈けで、被災地の假設と構造も强度も變はらぬ2×4住宅から、トランクルームと云ふ名のリフォーム詐欺に、軽量化の爲に髙層階は鐵骨も壁も床もスカスカで、広告イメージとは程遠い住環境のタワーマンション。企業のドス黯い實體を取り繕ふ爲に埀れ流される、地上波の僞善的CM。街を步けば、年々磨きが掛かつてくる、尻尾が載つてゐる丈けの天丼に等しい、露骨な商法が眼路を塞ぎ、强引で蔭濕で巧妙で明ら樣な紛ひ物と空證文が、表通りを飛び交つてゐる。良い物を造つて豐かに暮らしてゐたのは、モノクロのアルバムに鎖ぢられた、今は昔の御伽噺だ。地盤沈下を續ける民度に比例して、有りと有らゆる日用品のクオリティが落ちていく物作り大國は、最早、眞札を二枚繋げて一枚の贋札しか造れ勿い。

 商店街の商店で拂った現金は地元で環流して自分の財布に戾つて來るが、全國チェーンの店舗で買い物を爲れば爲る程、利益は本社に吸ひ上げられ、地元で環流する現金が枯渴し、格差が廣がる事も判ら勿い者達が、ファミレス、コストコ、コンビニ、ファーストフード、牛丼屋、囘轉壽司で繰り廣げる、己の財布の中身しか眼中に勿い、禮節を忘れて安物に眼の色を變へた、ホームレスの撒き餌に群がる鳩の樣な小競り合ひと、價格以上のサービスを强要する顧客テロ。ウイグルの强制勞働をサプライチェーンに、太陽光パネルや新疆綿で暴利を貪る、ユニクロ、無印を始めと爲る數多の日本企業に、此の國の市場と資金と資源をグロバール企業に賣り飛ばす役人と政治家。膨張し續ける天下り先を維持する爲に國の借金を捏造して增稅を亂発し、刃向かふ者は先づスキャンダルと稅務調査で出鼻を挫き、其れでも駄目なら、譬へ相手が現役の大臣でも實働部隊が抹殺する財務省。年金を運用せずに使ひ込む丈け、製藥會社の丁稚奉公を爲る丈けの厚生勞働省。チャイナマネーとハニートラップで骨拔きにされた外務省。食品輸入商社からバックマージンを貰ふ爲、食糧自給率ゼロへと邁進する農林水產省。法人稅を上げられては堪ら勿いと、議員に金をバラ撒いて消費稅を上げさせる經團聯。そんな財界からスポンサー料、廣告料の名目で口止め料を貰ひ、役人には頭が上がらず天下りを受け入れて懷柔した擧げ句、巨惡の橫暴を隱蔽して卋論を勝手に捏造し、卋の黒幕に取って国民の怒りの防波堤と爲り、藝能人をスキャンダルで扱き下ろす事で正義面するマスコミ。合理化された制度と組織に依つて、肅肅と履行されていく事務的な沒義道。タイタニック號から逃れる鼠の群れの樣に、積み荷を喰ひ荒らしていく亡國の輩が幅を利かせ、生き殘つて終ふ今の卋の中。腐實を嗅ぎ廻つてゐる積もりは勿いのに、何時しか、右を向いても左を向いても人の粗ばかりが氣に爲り、「何を今更、人閒何て元元、神が設計ミスした狂謀な猿だ。俺達の猿山に文句が有るのなら、ジャングルに出家しろ。」と云ひ聞かせた處で、此の歪な卋の中が、俺の不貞腐れた性根の延長に在ると云ふ屈辱を、上塗りする丈け。其の悔しさを數へやうにも、今と爲つては、指を折つて刻む數の方が足りず、「聖人は俗事に囚はれず、飄飄と時代を亘り步いていく物。」なぞと云ふ、蟲喰ひだらけの古典も聽き飽きた。

 

 

 終業のチャイムが鳴り、手早く荷物を纏め、定時で上がる依願退職者の勝ち誇つた背中が、最後の挨拶に工場の各部署を廻り始める。俺は「次の會社でも頑張つて。」とか何とか、適當に受け應へて追ひ拂つた。輕輕しく口を吐いて、何處へとも勿く轉がつていつた、努力を奨励する空つぽの言葉。入社以来、聯絡先を聞いた事も勿い、此處丈けの關係だ。會社に見切りを附けた次の日から二度と出社せず、辭表を書いた事も勿ければ、辭めるとも云はずに辭めるのが當たり前の俺には、こんな挨拶を爲る意味すら判ら勿い。戾つてくる積もりは一切勿いと云ふ決意以外、總てが未練だ。羽化した後に蛹の殼を背負つて飛ぶ蝶なんて居勿い。こんな會社に頭を下げてゐる位なら、便所の神樣を拜んでゐる方が増しだ。厭だから出て行く。其れ丈けで良いし、其の方が良い。俺も一緖に聯れて行つて吳れ何て、子供ぢや有るまいし。どうせ奴隸の㠀から奴隸の㠀への㠀流しだ。本物の鼠に會ひ度かつたら、會社の塵箱の中で、コンビニの上げ底辯当を漁つてゐる。俺の心は旣に殘業後の一仕事に傾いで、時計の針を橫眼で追つてゐた。

 今夜、介護職のリュウジが非番でユースの橫斷幕の手傳ひに來る。本當は定時を過ぎたから、仕事をしてゐる振りをして二階に上がり、ペンキ塗りの段取りを始める事も出來るのだが、幾ら俺でも其處迠圖圖しくは勿い。小一時間も遣れば塗り終はる分だけ、前囘參加出來勿かつたリュウジの爲に殘して置いた。今日の作業は達磨に眼を入れる丈けの事。今週末のレイズ戰迠、確り乾かすのが本當の仕事だ。何も慌てる事は勿い。

 リュウジは面皰の獨つも潰せ勿い、無器用で無趣味で、酒も煙草も口に爲ず、眞面目にコツコツ生きるしか能の勿い、街を闊步するファッション誌の切り拔き達とは無緣の、Levi'sのTシャツにEDWINのジーパンを履いて憙んでる樣な、冴え勿い男だ。其れがゴール裏で無け無しの野性を奮ひ、週に一度丈けシンデレラの王子樣に生まれ變はる。そんな悪巫山戲の手傳ひしか、今の俺には爲てやれ勿い。日本經濟の絕頂を素通りして產まれ、賃金は上がらず、ボーナスが勿いのも當たり前の現狀しか知ら勿い卋代だ。しかも、髙卒で介護職の稼ぎ等、バイト代に色を點けた程度で髙が知れてゐる。底の拔けた財布を叩いて、硬くて苦いパンを口に詰め込み、甘く爲る迠、嚙み締める。そんな石臼で挽かれ、一粒の粟の樣に摩り切れていく丈けの每日に抗ひ、這ひ上がる器量が有るのなら、始めから御互ひ苦勞は爲勿い。秋葉原の無差別殺傷事件で、破れ被れのアナーキズムが國の非正規雇用政策に風穴を空けた偶發的な勢ひは、マスコミに擔がれたなでしこバブルの樣に物の數年で風化した。過酷な營業ノルマに追はれる自販機補充員のゴンちやんにしても、年中屋根の上で天日に曝される防水屋の學と、コンビニのバイトを掛け持ちしてゐる弟の誠にしても、内のゴール裏に輯まる聯中は皆、額の汗を生活の糧にスタジアム通ひを續けてゐる。ゴール裏何て所詮、落ち零れの隕力で惹かれ合ひ、崖つ緣の遠吠えで自尊心を支へ合ふ、負け犬の指定席だ。勝ち組と負け組何て云ふ色分けは、二十卋紀末の名殘りと判つてゐても、言葉と感情を整理した丈けで、然う簡單に頭から離れる物ぢや勿い。況してや、六大學を出たにも拘はらず、派遣のSEに甘んじてゐるマーシーに到つては、オンラインで就労環境が完結し、國境を越えて押し寄せる安價な知的勞働者に、雇用と先進國のアドバンテージを奪はれて、一番割を喰つてゐるのだから、推して知る可しだ。

 實業でバリバリ稼げて、仕事が生き甲斐なら、サッカーの應援何て生き甲斐に爲勿い。今や普通に働く事が自ら貧苦の軍門に降るに等しく、己の仕事に胸を張れ勿いが故に、他の何かに誇りを求め、縋り付く。觸れられ度く勿い腫れ物の樣に、リュウジに職場の事を聞いても其の口は重く、愚癡の獨つすら零さうと爲勿い。人と爭ひ、貶める事を知らぬ、己の非力と優しさの狹閒で子莵の樣に震へてゐる、血色の良い淡桃色の頰。其の健氣な横顏が在りし日の己の姿と重なつて胸を抉る。同じ弱者でも、リュウジは薄汚い卑しさで凝り固まつた鼠賊の樣な弱者では勿く、穢れの勿い憂ひで其の身を灌ぐ麗しき弱者だ。惡に手を染める事すら覺束ず、痛みに耐へる事しか出來勿い、其の愚直な愼しさが俺は氣に入つてゐる。强く爲れと人は云ふが、そんな聞いた風な說敎を叩く口が有るのなら、人の優しさに付け込む卋の中に本氣で嚙み付いて放さぬ手本を、先づ見せる可きだ。恐らく、自分の若さに甘えてゐる事すら氣付かず、リュウジも俺と同じ道を辿る事に爲るのだらう。然うと判つてゐて、進む可き道を標して遣る事も出來ず、默つて見護り、人知れず物の哀れを愛でるのは、一緖に墮落していく仲閒が欲しいからぢや勿い。俺もリュウジも人の上に立つ樣には出來てはゐ勿い。此の間尺に合はぬ卋閒に背伸びを爲るのも、實體の希薄な己の主体性に鞭を揮ふ自傷行爲にも疲れた。只、其れ丈けの事だ。人を押し退ける事が出來勿くて貧乏籤を引かされるのなら、外れが空に爲る迠引けば良い。優しさ丈けでは此の國や、己の身を護れやし勿いし、リュウジも俺も清貧を氣取り、良心の恩赦に濟ひを求めるには早過ぎる。其れでも、强さに乘じた勝ち組の傲慢に與する位なら、弱者の中の弱者で構は勿い。强いか弱いか何て所詮は程度の差。そんな物を競ひ合つてゐる時點で、同じ餌を奪ひ合ふ、同じ猿山の猿だ。堰き止められた廃液の樣な時流の中で、さ迷ふ事すら出來ずに、總てが犇めき、搖蕩ひ、煮詰まつてゐる。敗者の屍肉を喰らふ勝者の貪婪。敗者を喰らひ盡くした後に火蓋を切る、勝者と勝者のカニバリズム。そんな死への恐怖も哀惜も痲痺した蠱壺の狂亂に、何の意味が在るのか。誰も答へて吳れ勿い、此の暗渠を照らす光が在るとするのなら、其れは人の弱さを磨き上げた心の缺片が說き放つ、欲目に眩んだ者には見え勿い、幽かな煌めきの樣な氣がして、俺は打ちのめされた者達の沈默に耳を澄まし、闇に塗り潰された、黯い淚の樣な多重點に眼を細める。人は果敢無く、悲しく、然して、美しい。其の在るが儘に身を委ねる事を、敗北主義と呼ぶのなら、其れも滿更ぢや勿いだらう。

 

 

 「後はもう、ロゴの緣を黒でベタ塗り爲る丈けだから、色を塗り閒違へる心配とかは取り敢へず勿い。黄色と白で塗つた處は全部乾いてて踏んでも大丈夫だ。莵に角、ペンキの罐を倒さ勿い樣に氣を付けろ。慌てて遣る必要は勿いから、氣樂に塗つて、サッサと歸らうぜ。」

 殘業を終へた社員と入れ違ひに、塗裝場の二階にリュウジを聯れて上がり、簡單な指示を添へて刷毛とペンキを渡し、最後の仕上げに取り掛かる。色乘りが良い黒は重ね塗りの必要も勿く、物の一時閒と掛からぬ作業だ。サポーター氣分を味はふ丈けの儀式に、黙黙と勵むリュウジの真摯な眼差し。橫斷幕の上を這ふ衣擦れの音以外、交はす言葉も勿い、殘業の後の殘業。リュウジの橫斷幕に跪いて刷毛を運ぶ背中が、聖地に額突く信者の樣に强張つてゐる。云はれた事を一生懸命遣る事しか知ら勿ぬ其の幼気な姿。俺は一抹の侘しさを、只管、黯く塗り潰し、作業に輯中しやうとするのだが、深深とした耳鳴りに減り込む耳小骨を、姿勿き主の拳がノックする。

 「慌てて遣る必要は勿い・・・・サッサと歸らう・・・・ですか?。」

 僅かに開いた心の隙閒から滑る込む天からの聲。惡魔の橫槍なら未だしも、此れがサッカーの神樣の本音なのだらう。沈まぬ太陽の樣に、何處に居ても著き纏ふ影法師の眼差しが、復た何時もの調子で、俺の草臥れた肩に腕を回し、こんな物に心血を注ぐ振りを爲てゐる位なら、もつと他に實の有る事を成せと講釋し始める。物事を學ぶのに早い遅いは關係勿い。スタジアムに通ふより、図書館に通つた方が卋界は啓ける。大學の卒業證書も紙屑の同然の時代だからこそ、本物の智力で武裝する可きだ。有り餘る若さの總てを書籍に捧げ、其の身に染み附いた懦弱を打ちのめし、魂のインゴットを鍛え直せ。智力の伴はぬ行動は自爆を誘發するのみ。星空迠髙く飛び度ければ脚力より學力だ。

 全く以て、倦んざりする程、御尤もだ。倂し、仰せの通りに、リュウジに良かれと、其の背中を押した處で、折れた心の切つ先が複雜に突き刺さる丈け。心の奧底で押し默つてゐる言葉を、他人に云ひ當てられる絕望は如何許りか。舌先三寸の勵ましは、徒に人を追ひ詰め、苦しめる。育成年代から日日努力を積み重ねてトップリーグに辿り著き、更に其の先を目指して死力を盡くす選手達に向かつて「頑張れ。」と云ふのとは譯が違ふ。公式戰のピッチに立つてゐる時點で、選手達は旣に多くの勝利を手にしてゐる。勝者を鼓舞するのは容易く、寧ろ烏滸がましい。誰にでも「頑張れ。」とケツを叩けば良いのなら苦勞は爲勿い。そんな一言にも耐へられ勿い者達を、俺達は生み出して來た。ゴール裏の塹壕に避難してきた敗殘兵達に、本心の會話何て何も勿い。御互ひに隱し持つてゐる、決定的な運命の言葉を云ひ當てられるのが怖くて、皆が皆、クラブ愛をモルヒネに體を溫め合ふ、ベンチシートの野戰病院。半月板が割れ、十字靱帯が損傷してゐるのに、鍛え方が足り勿いと、走り込みを斷行したら何う爲ると思ふ。此の巫山戲た卋の中に獅嚙憑いてゐる丈けで、俺もリュウジも正直精一杯だ。リュウジは生まれてから此の方、立ち開かる困難に負け續け、背走し續けて、自分に自信を持てる何かを勝ち取つた事何て一度も勿いだらう。眼を見れば判る。劣等感を目脂の樣に澑め、屈辱の淚で潤む、嚙ませ犬にすら爲れ勿い其の怯えた瞳に、勇氣と云ふ鹽を擦り込む資格が俺に有るのか。ゴール裏で一緖に蜷局を卷いてゐる、家が十人兄弟の學と誠は、二人とも髙校入試すら受けずに、バイトと日雇い仕事を轉轉としてゐる。だからこそ、弟や妹達丈けでも髙校に行かせて遣れと云つても、昏い眼で苦笑いを返すのがやつとだ。己の愚かさを勞る其の優しさが、世を渡り步く足枷と爲つて、總てを駄目に爲てゐる。だが、其の優しさを見失つたら、人は人で勿くなると思ふと、其處で言葉が痞へて終ふ。俺はもう「頑張れ。」と云ふ言葉の意味が判ら勿い。そんな呪文で心を支へやうにも、魔法は疾つくの昔に切れてゐる。一体、何んな言葉を唱へたら人は救はれるのか。

 コンビニの棚やネット上に溢れる、一流アスリートや著名人の語つた成功への百の言葉。誰もがモチベーションを上げる言葉を、凡ゆる困難を乘り越え、人生を變へる、勝利への處方箋、卽效藥に爲て萬能藥を求めてゐる。失敗を懼れず、人閒關係を整理し、輯中力と效率を髙め、折れた心を立て直し、輝かしい成功へと奮ひ立たせる、僅か數行の最適解。一頁に一言書かれてゐる丈けの、心が躍る金言の數數。探してもゐ勿いのに、矢鱈と眼に附くのは、其れ相應の需要が在るからで、過剩供給されて大量消費されるのは、アイドルグループや大人のビデオに限つた事ぢや勿い。斯う云ふ言葉を持て囃すのは、勝者の權威と成功に媚びてゐるからで、藁にも法螺にも縋り度い、敗者の予備軍が列を成してゐる證しだ。金言なんて所詮、人閒の慾望に訴へ掛ける詐術でしか勿い。こんな物を信じるのは、言葉の闇を知ら勿い馬鹿だ。

 他人の言葉に目移りしてゐる時點で、旣に自分を見失つてゐる。名言を聞いて行動する何て、他人の言葉に强迫されてゐる丈けだ。自分の頭で考へ、導き出す事こそが本當の答へで在つて、他人の言葉を有り難がるのは、自分の内面から湧き上がつてくる言葉を信じてゐ勿いからだ。自分の本心に耳を貸さず、自分を信じず、自分自身と對話せず、理解せず、和解せず、協力せず、只、他人の力に肖り度い丈けで、自分獨りしか持つてゐ勿い大切な物を易易と投げ捨て、何が摑めると云ふのか。己の人生を缺席して、誰かに出席の代辯を賴む何て、良い御身分だ。他人の言葉で勇氣を得ようとするのは、心が弱い何よりの證し。主體性の勿い者が占星術に走るのと變はら勿い。ポジティヴな金言で恐怖を掻き消すのは言葉の催眠術でしか勿く、眼を瞑つて步く方が危ない事すら判ら勿い、本當の臆病者が遣る事だ。占ひは良い結果だけ信じて、惡い結果は信じ勿い何て、占ふ前から求めてる結果は決まつてゐて、只、決斷する御墨付きが欲しい丈けだ。都合が良いにも程が有る。占ひを信じると決めたなら、惡い結果も有り難く信奉し、其の靈驗灼かな御託宣と心中する可きだ。始めから自分の第一志望に沿つた、背中を押して吳れる何かを漁つてゐる泥棒猫に、鯛の尻尾が摑めるのか。どんなに景氣の良い言葉を竝べても、過酷な現實に聞く耳なんて勿い。湯水の如く湧き出て、J-popの樣にバラ撒かれるポジティヴな言葉達。日頃、時の風雪に耐へ拔いてきた古典や文獻を讀んで勿い聯中程、此の手の言葉に飛び付き、子供の名前に變な漢字を充て地金を曝す。添加物で盛つたインスタントラーメンみたいな言葉は、下手な暗示を刷り込まれ、卻つて言葉に縛られ、成功しなければと强迫される。心を澄ませば、ネガティヴな言葉の方がより深い眞實に迫り、人生の糧にも、闇の中を探る杖にも生る筈だ。勝ち方よりも、負けるとは何かを突き詰める事の方が大切で、勝者の成功に肖るより、敗者の失敗の方が學ぶ事は大きい。賢しらな偉人の金言何て一瞬の氣休め。如何はしい嗅ぎ薬、レッドブルやモンスターの樣な興奮剤は、徒に肝臟を遣られる丈けで、決して人の血肉と生り得勿い。そんな毳毳しい化合物を口に爲る位なら、日本酒や燒酎の方が餘程オーセンティックだ。俺はもう、口先だけで何の責任も負は勿い、アドバイスとか云ふ御喋りすら聞き度く勿い。譬へ人のアドバイスで物事が上手く運んだとして、其れを自力で成し遂げたと云へるのか。言葉のドーピングは誰が檢査し、何う裁くのか。金言や格言を調合した言葉の錬金術は、何處で換金出來るのか。其れは正義を金で買ふのと何が違ふのか。

 人を最後に搖り動かすのは、裸の心を突き破つた、誰の物でも勿い自分丈けの、言葉に爲らぬ魂の叫びだ。他人の指示通りに幾ら動いても、其處に本當の自分は勿い。煉獄の炎で身を焦がす斷末魔こそが、リュウジや俺達ゴール裏の面子を覺醒させる。其の時始めて、人は己の劣等感を武器に出來るだらう。然して其れは、目障りな聯中を切り刻み、退ける爲の物では勿い筈だ。去勢された莵にも牙は生えてゐる。だからと云つて、復讐の刃を幾ら振り囘しても己の古傷に突き刺さる丈けだ。判ら勿い、何も。「頑張れ。」と人に言葉を掛ける意味も、何を頑張るのかも。努力すれば爲る程、息苦しくなる卋の中で、そんな爭ひの種に何の意味が有るのか。

 俺がゴール裏に屯するのは、頑張る事を放棄した裏返しでしか勿い。リュウジがマレットを揮ひ始めたのも、俺がピッチに向かつて怒鳴り散らしてゐるのも所詮、熱くも勿ければ冷たくも爲れぬ、生溫い生き方の照れ隱しみたいな物だ。脇役を演じるのも樂ぢや勿い。主役ならピッチの中に居る。俺達の英雄と女神の奮鬭を、選手達が頑張つてゐる姿を見護り、試合が終はつたらスタンドを片付けて歸る丈け。そんな些些やかな日日に、吝嗇を附けたければ附ければ良い。俺やリュウジみたいな雜魚に一々目抉らを立て、嘲笑ふ奴は、人の不幸しか愛せ勿いのだらう。友情、勝利、冒險、何て綺麗事はジャンプの中丈けで沢山だ。狼を噛み殺す爲に、羊に「肉を喰へ。」何て、俺には云へ勿い。登場人物を何人殺しても漫畵家は無罪だ。リュウジは豚でも勿ければ、狼でも勿い。誰もが神の道を踏破出來る物では勿い事を悟り、牧人勿き羊を盲目の畜舎へと導いたカラマーゾフの大審問官が、時に頭を過る。自由勿き樂園の支配者と云ふ權力惡に手を染めたは、敎會存續の大義を超えた、人の弱さを知り盡くして終つた聖者の苦澁の選擇だつたのでは勿いのか。

 誰しもが恋ひ焦がれる、完全無欠で神の様な主人公。今日も世界中で、劇場型の暴君が、ジャンプの卷頭を餝り、ハリウッドの銀幕を驅け拔け、快刀亂蔴の大活躍繰り廣げる。倂し、そんな御氣に入りのキャラが勝ち續ける豫定調和より、名も勿き弱者の受難劇こそが、最後の最後に罪深き人の心を打ち碎く。困難を乘り越えた達成感の裏に潛む權力惡が、幾ら人の眼を惑はせても、敗者のカタルシスに優る物は勿い。榮冠を手に出來るのは英雄丈けだが、救ひ主の御心には誰もが手を觸れる事が出來る。シェークスピアは勝利で著飾つた英雄の轉落に眞實を見出した。孤獨に目覺め、不遇を是と爲す、僞りを排した幽けき心にこそ神は宿る。海の砂の様に廣がる弱者の悲しみ。何事にも齒向かふ事勿く朽ち果てた、有りの儘の姿を慈しむ、謙讓と滅私を貫いた其の先に在る靜謐な何かを求めて、俺はルーレットの零に賭け續ける。其の零の聯續こそが此の糞みたいな卋界を變へ、人は其處を約束の地と呼ぶだらう。

 若し、こんな出鱈目、聞いてられ勿いと耳を塞ぐのなら、其れこそ俺の思ふ壺だ。自分を磨かず、何も成し遂げずに心が滿たされる何て有り得勿いと拒絕反應を起こし、御前は空想でしか人を愛せ勿いのだと扱き下ろすのも、大いに結構。然う遣つて存分に、俺に取り憑いた惡を懲らしめて吳れ。其の勝者の暴力こそが、俺の罪を贖ひ、魂を蒸畱する。

 

 

 最後の一刷毛を塗り終へ、10m×2mの新作を見下ろし、リュウジと二人、肩を竝べて放心する官能の一時。人の背丈を越えるチーム名のビッグロゴと、紺碧の畵布に召喚された魔女の鮮烈な眦が、ユースの選手達の將來を見据ゑて妖しく煌めいてゐる。我乍ら何處に出しても羞づかしく勿い出來で、矢張り俺は裏方が性に合つてゐる。此奴とX-girlの橫斷幕が二枚揃へば鬼に金棒。大谷に金属バットだ。出來上がつて終つた一抹の寂しさを引き擦り乍ら後にする魔女の微笑み。どうせ日頃誰も上がつてこ勿い屋根裏部屋だから、急いで片付ける必要も勿い。ペンキの罐の蓋丈け閉め、刷毛は洗はず固まるに任せて階段を降りると、未だ終電迄時閒が有る。リュウジに飮み屋で飯でも奢つて遣り度い處だが、慣れ勿い作業を爲た後だ。明日の仕事に疲れが殘る丈けで、餘計な卋話を掛けるのも氣の毒に思ひ、歸りの道すがら次節の打ち合はせをした後は話しも續かず、驛の改札で怱怱に別れた。線路を跨いだ反對方面のホームに立つリュウジの朴訥とした隻影が下り電車に搔き消され、被せる樣に滑り込んできた上り電車の風圧が俺の頰を張り飛ばして、蹴汰魂しく電鈴が飛び交ふ東武の特急通過驛。ホームのベンチに腰を下ろすと汚泥の樣な疲れが肩に凭れ掛かり、酎ハイの酒精を求めて喉元を締め上げる。何故、驛前のコンビニで買っておか勿かつたのだと窘める無氣力な後悔。明日も復た、糞みてえに溶接のヒュームを吸つて、サンダーの粉塵を被る、鐵屑屋の樣な工場に潛り込み、キャットウォーク架臺の續きだ。今週中に仮止めを終わらせて、日曜日の朝は、ギリギリ迄乾かした橫斷幕を抱へ、會社からアウェイの現場に直行。全く生き繼ぐ暇が勿い。而も、次節は相手が相手だ。厄介な事に爲ら勿ければ良いのだが。試合の結果以上に、重い瞼の隙閒から覗く薄ら寒い懸念。沈思の闇默が微睡みに卷かれて各駅停車を數本乘り過ごし、誰も居勿い同じホームで眼が覺める。

  「慌てて遣る必要は勿い・・・・サッサと歸らう・・・・ですか?。」

 爲たり顏で鼻を鳴らす例の耳打ち。執濃い奴だ。餘程、此の俺に氣が有るのだらう。

 

 

 

 出島の待機列前を通り過ぎて、薔薇の花束の樣に折り重なる、赫き人の波。流石は聖地駒場だ。女子の試合とは云へ、下手なJ2の現場より人も精氣も漲つてゐる。顏見知りのレイズサポに弄られて應戰するのにも、一寸した緊張感が走る埼玉ダービー。第三節、四月十三日(日)アウェイのレイズ戦。試合前の挨拶に行つた時も、ホーム側待機列の最前列に陣取つてゐる瀬川君と藤井君の眼は完全に座つてゐて、もう旣にヤバイ。何の因果か、第一節と第二節がアウェイだつたレイズは今日がホーム開幕戰。其處に内を撲つけてくるとは、協會も味な眞似を爲る。瀬川君がゴンちやんの事を氣に入つてゐて、何時かはレイズに戾つて來いと、日頃から目を掛けてゐるから良い樣な物の、然うで勿ければ菓子折の一つも持つてなければ、迚もぢや勿いが近寄れ勿い。社交辭令を滞り無く濟ませて出島に入場し、廣げた橫斷幕を手摺りから埀らすと、10m×2mの二枚丈けで出島の正面が埋まり、殘りの選手幕はバックスタンドをスタッフに解錠して貰ひ、事勿きを得た。ゴンちやん曰く、森山さんが一枚目の橫斷幕を見て憙んでくれてゐると云ふ。IRUMAと大書されてゐるからだらう。後援會費で代金を拂ふから領收書が有るのなら欲しいとの事。サポーターは身錢を切るのが仕事だ。端から誰かの補塡なぞ當てにしてゐ勿いが、好好爺の想ひを袖に爲て迠、我を張る何て何うか爲てる。偶には人の好意に甘えるのも惡く勿からう。

 全選手の個人幕をセットし乍ら横目で窺ふ鮨詰めのメインスタンド。男子のトップチームは昨日アウェイの川崎戰で引き分け、其の鬱憤を晴らしに大擧して押し寄せた、新舊のレプリカユニフォームが赭い巌壁を積み上げ、座礁した漁船の樣な出㠀を威壓してゐる。此の街の熱量は歐米の借景では勿い。レイズへの愛著は路地裏のポリバケツに迠息衝いて、生塵を漁る野良猫も赫く毳立つて見える。試合の勿い日ですらサポーターの餘熱で火照つてゐる駒場だ。觀客が捌けた途端、化粧を剝がされた場末のホステスの樣に成り下がる川越のスタジアムとは毛色が違ふ。W杯特需で一時神戶に後塵を拝したが、動員力の根の太さは伊達ぢや勿い。埼玉と云へばレイズ。そんな相手とダービーをするのだ。髙い入場料を拂ふ價値が在る。

 幕を張り終へてバックスタンドを出ると、出㠀も入閒のサポで埋め盡くされてゐた。何時もは閑散としたスタンドに點在してゐる蒼き友軍が、此處ぞと許りに輯結した埼玉の第二勢力。倂し其處には例の、煮ても燒いても喰へ勿い葬式饅頭の姿が缺けてゐる。奧さんを聯れてメインの車椅子席に陣取つた、中野の爺の消息は梨の礫だ。塩爺とママもメインで入閒のベンチに直接聲援を送つてゐる。斯う云ふ何時も以上に馬力と火力が必要な時に限つて、一番五月蠅いのが居勿いとは。而も其れが、選りに選つてレイズサポのド真ん中に放り込まれてゐると爲ると、弱り目に祟り目。狹山湖の電気水母が熱く爲り過ぎて、餘計な彌次を飛ばさ勿いか心配だ。劣勢でも優勢でも獨りで勝手に火を噴く、韓国製のスマホやEVみたいな豆鐵砲は、何處に彈が飛んで行くのか判ら勿い。以前、雪駄が埼スタの第二グラウンドでレイズサポと毆り合ひ、警察沙汰に爲つた事も在る。正直、此處で揉めるの丈けは勘弁して欲しい、と氣が氣で勿かつたのだが、そんな憂患を煩ふ猶豫すら、俺達には赦され勿かつた。

 零對五。前節の勝利は何だったのかと云ふ、手も足も出勿い慘敗。一部復歸の初白星は殘畱への空手形でしか勿かつた。埼玉に於ける絕對的マイノリティの意地を見せる爲、何んな形でも良いから勝ち點を、責めて1ゴールで良いから奪ひ度かつたタービーは、盟主の座を覆す事が、真晝の太陽を粉碎するに等しい所業で、今の入閒が如何にライバルを名吿るに價し勿いかを叩き付けた。挑戰者失格の烙印で燒きを入れられ、場外に蹴り出された蒼い妖精に歸る森は勿い。空囘りする事すら出來ずに踏み潰され、全く何も遣らせて貰へ勿かつた九十分。シュート數は21-5。莵に角、開幕戦で女王神戶を擊破し、勢いに乗るレイズの攻擊は凄まじく、赫い惡魔と號けられた駒場の守護天使は、起ち上がつたスフィンクスの樣に壓倒的だつた。

 爆發的な運動量を利して、誰一人手を拔かぬ、烈しい攻守の切り換へ。强度と精度を兼ね備へた、髙機動兵器の如き個の聯動。勝利に餓ゑる飽く勿き鬭爭心と噛み合つた、息を吹き返した名門の、今年は違ふと云ふ確信。開幕戰で追ひ縋る女王を二度も突き放して、ホームの無敗記錄を止め、優勝の本命に躍り出たのは伊達ぢや勿い。ベテランを放出して、種を撒いた其の若い芽が、今、一氣に開花し、スタジアムを取り囲む櫻が散つて猶、新綠の駒場を席卷し、春の嵐の如く咲き亂れた開幕三聯勝。其の熱狂の中心に、レイズの8番を背負ひ、藻掻き苦しんでゐた麻木が居た。去年、怪我で出遅れ、リーグ戰出場四試合で終はり、而も、ワールドユースのアジア予選でキャプテンマークを任され乍ら予選敗退した、屈辱の一年を過ごして迎へた勝負の三年目。每年、新卒の注目株と、熾烈なセレクションを生き殘つた、ユースの生え拔きが突き上げてくる赭き名門は、消えていつたエリート達の墓場だ。日本女子サッカーの精華が集ふ花園で、何時迄もモタモタしてゐる餘所者に充てがふロッカーは勿い。況してや、御姫様の腰掛ける雛壇や玉の輿何て、針の筵でしか勿いだらう。其れが開幕の神戸戰で行き成り二發のゴラッソを叩き込み、去年低迷したチームの潮目を獨りで變へ、女子サッカー界のヒロインに返り咲いた。

 選手が覺醒するターニングポイントが、此程鮮やかに燒き付けられた試合を見た事が勿い。號泣し乍らゴール裏に挨拶に行くレイズのGKの姿が、苦しかつた昨シーズンと、此の勝利の意味を物語る大一番で、こんな爆發的な活躍を爲る何て、誰もが想像出來勿かつた。福岡の御客樣から、名門の仲閒入りを果たした瞬閒。過酷なポジション爭ひを强いられるエリート達の墓場に、不動のボランチが降臨したアナスタシアの第一章は、今シーズンのリーグ・ハイライトと云つても過言ぢや勿い。1-1に追ひ附かれた厭な流れの中、GKが前に出てゐるのを見計らつて擊ち拔いた彈丸ミドルに、再び追ひ附かれた後半ロスタイムの豪快な劇的ボレー。神戶の主力選手が一齊に海外移籍し、新監督の許、卋代交代の模索中だつたとは云へ、レイズに移籍してゴールの豫感處か、PAに顏を出す事すら勿かつた小兵の前に、右コーナーキックからの淺いクリアボールが零れてきたのは、天の配劑としか思へ勿い。麻木のサッカー人生に埀れ籠めてゐた暗雲を拂ふ、將に運命の決勝ゴールだつた。

 一囘り大きく爲つた體幹から漲る、積み重ねた努力の迫力。相手選手と縺れて謝つてゐたひ弱さは何處にも勿い。先の先を讀んだポジショニングと勞を厭わぬ守備。堅實なキープ力と正確なパスに依るゲームの組み立て。派手なプレーを排し、裏方に徹するレイズの背番號8は、中盤の底に眠る勝負の鍵に喰らひ附き、相手が根を上げる迠、決して放さぬ赭き番犬に生まれ變はつてゐた。アイドル選手として持て囃される事を拒絕する、獻身的で妥協の勿い姿が、近寄り難い程、遙か遠くに見える。此ぞ嚴しい環境と其れに打ち勝つた心技體の賜物。福岡に畱まつてプレーを續けてゐたら、田舍藝者の儘で終はつてゐただらう。ゴール裏を飛び跳ねては、下へ下へと落ちていくしか能の無いパチンコ玉の俺には、迚もぢや勿いが眞似出來勿い。ワールドユースの予選敗退で戰犯呼ばはりされ、レイズの試合をスタンドから見護る痛ましい姿は何だつたのか。本の少しでも心配した俺が馬鹿だつた。

 試合後、背走に次ぐ背走で憔悴し、出㠀に顏面蒼白で挨拶に來た入閒の選手達。中でも號泣して崩れ落ちる薊の姿は、トップリーグの殘酷さと赭い壁の皇然とした髙さを、曆曆と物語つてゐた。同じ五失點を喰らつた物の、攻擊の形を作り、ゴールも奪へた開幕のエレーラ戰。今年から刷新したDFラインの練度さえ上がれば、上位相手にも鬭へると、確かな手應を摑んでゐた筈が、九十分閒トップギアで疊み掛けてくるレイズのフルコートプレスと、死角の勿い強靱な個個の打開力、然して、自陣ゴール前に一線を劃すDFラインの剛性は、髙校生が掛け持ちしてゐるエレーラの比では勿かつた。前節も伊賀をアウェイで3-0と一蹴した内容を見る限り、今シーズンのレイズの敵は己自身の慢心と常勝軍團の重壓のみ。現狀、對抗出來るクラブは恐らく勿い。

 こんな交通事故の樣な敗戰、ロッカールームで松田監督は選手の心を何う遣つて繋ぎ止め、奮ひ立たせるのか。俺みたいに泣いてゐる女には近付か勿いヘタレなら未だしも、「相手が惡かつた。」何て、口が裂けても云へ勿い漢だ。選手をドン底迠叩き落として、跳ね返つてきたのを受け止める。其れ位の事が出來勿ければ名將とは呼べ勿い。淚で濡れた頰を張り飛ばしてでも、選手を前に進ませる鬼で勿ければ、俺達は二部に蜻蛉返りだ。今シーズン、漸く眼が覺めたのはレイズの8番丈けぢや勿いらしい。俺達の夢見心地も此處迠だ。去年は二部で格下相手の横綱相撲に明け暮れ、大勝しても嚴しい言葉で選手を鍛へ、引つ張つていけたが、トップリーグは負けが先行する丈けぢや濟ま勿い茨の道。今日みたいな襤褸負けを繰り返し、毎試合、御通夜の樣なロッカールームやゴール裏で湿氣つた花火を焚き附けるにしても、心の燐寸とて數に限りが有る。一旦、爪に火を灯したら、尻に火が點くのは時閒の問題だ。此處からが俺達と監督の我慢較べ。始めから判つてゐた事だ。寧ろ本當の鬭ひは其の先に有る。

 後片付けをし乍ら飛び交ふ、去年から燻る監督への采配批判を聞き流し、俺は意氣揚揚と現場を後に爲る埼玉の盟主達に眼路を飛ばした。此ぞホームゲームと云ふ、老若男女を鏤めたレイズサポの日常化したスタジアムライフ。途切れる事の勿い長蛇の紅軍が、入閒と浦和の閒に橫たはる橋の勿い河に見えた。若し、レイズ相手に試合でコンスタントに勝てる樣に爲つたとしても、此の街の序列と熱量を逆轉させるのは竝大抵の事ぢや勿い。エレーラに全く齒が立たず、リーグの二番手、三番手だつた時の方が、レイズサポの聲援は寧ろ凄まじかつた位だ。埼玉縣内の凡ゆる市民と企業が支援する、亞細亞無雙のモンスタークラブだ。オイルマネーでスター選手を搔き輯めた、王族のアクセサリーでしか勿い、張りぼてのクラブとは地金が違ふ。試合で勝つ以上の價値が此のクラブには有り、譬へ試合で打ち負かしても、此のクラブに本當の意味で勝つた事には成ら勿い。地域に密著してゐるのでは勿く、地域の輯合體がレイズ其の物だ。こんなクラブは亞細亞を見渡しても然う然う勿い。入閒が埼玉の二番手に畱まる事が出來たとしても、其れはレイズ以外の何かでしか勿く、此の彼我の差を何う遣つて埋めるのか。地道にサポーターを增やし、下部組織の選手を育て上げ、等と云つても、旣に埼玉縣内は疏か、東京都内から北関東迄レイズに押さへられてゐる。鯨の背中を突つく鷗に割つて入る餘地は勿い。阪神タイガースの熱狂の影で消えていつた在阪球團、然りだ。

 譬へ、マンチェスター・シティの樣に太いパトロンが附き、リーグ最髙の待遇に勝利給も上乘せして選手を引き拔き、レイズの戰力を壓倒して自尊心を滿たせたとしても、そんな金に飽かせたアクセサリーで著飾るのは、王様が裸だからだ。オーナーがクラブに投じた賭け金の驅け引きで、キックオフの笛が鳴る前に粗方勝負は決まつてゐる何て、俺は勝ち馬に乘って騷ぎ度いのでも勿ければ、芝を張つたポーカーテーブルを眺め度いのでも勿いし、レイズの猿眞似を爲た處で赭い猿にしか爲れ勿い。俺達は一體何を求めてスタジアムに通ひ、何を爲し、然して、入閒は何を目指す可きなのか。クラブハウスと練習場を整備してクラブの株式會社化に盡力して吳れてゐる、親會社の威光に呑まれまいと喘ぐ入閒の後援會を目の當たりにして、クラブスポーツの在る可き姿を、豐かなスタジアムライフとは何か、眞の勝利とは何かを俺は疾うに見失つてゐる。入閒の後援會を救へるのは親會社を越える經濟力で對抗する事なのか。親會社に名乘りを擧げてくれた地元企業に爲ても、クラブの爲に動いて吳れてゐる事に僞りは勿い。其の誠意と、經濟規模を大きくし、合理化を進める上で斬り捨てられる、直向きな思ひを天秤に掛ける何て、俺には出來勿い。然して、更なる强力なパトロンが現れたら、今の親會社も經濟原理に則つて整理されて終ふのか。全く釋然と爲勿い。W杯優勝以前、クラブに月謝を拂ひ乍ら手辯当でプレーしてゐた選手達。女子サッカーは広告代理店が唾を附けた商品の一つでは勿く、アスリートの情熱が結晶した作品のダイヤモンドだつた。賣れ勿い物を作る覺悟の勿い者には辿り著け勿い沙漠のオアシスだつた。彼の頃の純粹な耀きを手放して良いのか。進む可きか畱まる可きか。假に畱まつたとしても、サッカー界の歪な大局から眼を逸す丈けの事なのでは勿いか。

 其れ其れの經濟規模に合つたカテゴリーで一つでも上を目指し、力を合わせ切磋琢磨し續ける。だから、入閒の樣な小さな街の小さなクラブでも夢が見られる。其處だけを切り取れば聞こえは良いが、其の夢の頂点が今、髙額な藝術作品と同樣、投資では勿く投機の品目に成り下がつてゐる事に變はりは勿い。中には其の取引を媒介に、マネーロンダリングの片棒を擔ぐ者迠、出て來る始末だ。負の領域を棚上げにされたスポーツビジネスや、マネーゲームで實入りが良く爲る藝術家、スポーツ選手、關係各者は見て見ぬ振りを決め込んでゐるが、何時迄もこんな泡錢の勝ち負けに一憙一憂してゐて良いのか。クラブの予算規模を拡大して、より有能な選手を奪ひ合ひ、優勝賞金と收益で更に髙額レートの選手を强奪する、土地轉がし同然の禍禍しい移籍市場の輪廻と、其れを華やかに書き立てるスポーツマスコミ。中髙生が親に御強請りをして買つて貰ふヴィトンの財布の樣に、スター選手とビッグクラブをブランド物に見立てて持て囃す似非サッカーファンの心を、百花繚亂のゴシップが擽り、人身賣買スレスレの代理人がスパイ映畵のキャストに擦り替はる。こんな物がサッカー界の主役だ何て信じ度くも勿い。

 スペインの女子選手達が男子との格差の是正と待遇改善を求めた時、

 「此れはビジネスだから。」

 の一言で卻下された。スポーツも經濟原理で動いてゐると云ふのなら、經濟とは經卋濟民を略した言葉だ。本當に其の經濟とやらは卋を經め、民を濟つてゐるのか。ビジネスにチームの主權、選手の主權、ホームタウンの主權、サポーターの主權、然して何よりサッカーやスポーツの主權、其の物を奪はれて、俺達は何に肩入れし、何に感情移入してゐるのか。スポーツを愛する情熱こそが本質なのだとしたら、積み上げた札束の髙さを競ふのでは勿く、ビジネスと決別した、新しいクラブやリーグのコンセプトと價値觀を模索する可き處に迠、俺達は追ひ込まれてゐるのでは勿いか。其れともこんな云ひ掛かりは、大人は汚いと叫んで憂さを晴らす、思春期の痲疹でしか勿いのか。

 今から廿年前、バブルの余勢を驅つて日本のプロサッカーが產聲を上げ、チェアマンはリーグの百年構想を宣言し、其のスローガンに揭たのが「スポーツで幸せに成る。」事だつた。其れが今では、リーグと日本代表の隆盛に反比例して、日本の經濟と國力は凋落の一途を辿つてゐる。プロリーグが發足する遙か以前、W杯を觀た事も勿く、サッカーと云へばキャプテン翼で、漫畵の中の出來事だつた日本サッカー冬の時代。當時の日本は米国の頰を張り飛ばす程の札束と、活氣で溢れてゐた。サッカー丈けでは勿い。八十年代の半ば迠、プロ野球選手の年俸は王貞治の八千万を上限に億を超え勿い暗黙の了解が在り、海外移籍への門戶も鎖ざされてゐたが、日本の經濟は卋界の經濟だつた。W杯に出場出來勿くても、メジャーでプレーしなくても、日本は最强だつた。彼の頃の日本は向きに爲つてスポーツで勝つ必要すら勿い超大國で、今よりも遙かに豐かだつた。其れが、悲願のW杯出場を果たし、規制を廢した野球界も選手がメジャーに進出して、華華しい活躍と眼も眩む程のサラリーを手にしたのとは裏腹に、此の國は貧困のスパイラルに呑み込まれ、少子化、產業の空洞化、擴大する格差、下げ止まる事を知らぬモラル、安易な移民政策に因る地域破壞と國家の分斷と、數へ切れぬ程の問題が噴出し、明るい未來が描け勿くなつてゐる。まるで地盤沈下を續ける日本經濟を蹴落とす樣に驅け上がつていく、代表選手達のスターへの階段。此れが日本のサッカー協会やプロリーグの提唱した大義、「スポーツで幸せに成る。」と云ふ事なのか。裾野が廣がつた國内サッカーも、本の一握りのエリートアスリートが潤ほふ丈けで、選手の大半がプロとは名許りのブラック化した契約に縛られ、寧ろ格差を助長してゐ勿いか。本當にサッカーで勝つ事が、スポーツに携はる事が、人の豐かさに、地域に密著した社會の豐かさに繫がつてゐるのか。本當にスポーツで幸せに成れるのか。俺達は瞞されてゐるのか。今の子供達は日本のサッカーがW杯に出られ勿かつた時代を知ら勿い。女子サッカーが選手達の自費で成り立つてゐて、サッカーファンにすら見向きもされてゐ勿いかつた時代を知ら勿い。然して何より、此の國が物心兩面で、卋界中が嫉む程の豐かを誇つてゐた、彼の頃を事を知ら勿い。

 「スポーツで幸せに成る。」

 と宣言してから此の國の凋落は始まつた。此れは只の偶然なのか。協會が構想を揭た百年後のゴールに、此の國は辿り著けるのか。男子と女子のW杯優勝がゴールでは勿く、止めのオウンゴールに爲りはし勿いのか。

 

 

 反省會を兼ねた居酒屋の席でも、發泡酒で薄められた飮み放題のピッチャーを傾け乍ら、俺は纏まらぬ自問自答を繰り返した。冷や奴と茄子の煮浸しに挾まれたスマホが知らせる、他会場の試合結果。生溫い酒精で潤んだ瞳が零れ落ちさうな、学生チーム相手に1-5で負けた二部の福岡。こんな俺に迠見限られるチームに、何んな救いが有るのか想像すら出來勿い。泡沫クラブを嘲笑ふ樣に、クラブ運營をシミュレートしたゲームの広告が小さな液晶畵面に割り込み、呆氣なく搔き消される慘敗の公式記錄。こんな無樣な結果すら表示させて貰へ勿い何て。一體、何處に此のクラブの居場所は在るのだらう。クラブ運營と銘打つた國盗りゲームより、もつと他にダウンロード出來るゲームが在るんぢや勿いのか。力勿くカウンターに振り降ろした拳でスマホが跳ね、嚙み殺した發泡酒の薄つぺらな苦みが鼻を拔けて、目頭を突き上げる炭酸の逆流。二部の福岡を追ひ出した液晶畵面には、其の後もAIがスポーツ關聯で差し込んでくる情報が埀れ流され、スター選手が小學生を指導する動畵が、酔沒した三半規管で渦を卷く。

 より强い相手が出てきた時、如何に其れを乘り越えて行くのか、其の心構へを說いて發破を掛ける、子供達の眞つ直ぐな瞳を釘附けに爲て放さぬ見開かれた虹彩。其の鋭利な眼光に潛む闇が暗示を掛ける、薄ら寒い未來。人閒を捕まえる漁師にでも爲つた積もりか、

 「聞く可き耳を持つ者は、聞け。」

 と云はん許りに、己の限界を超える事を推奬する、力强い言葉の數數。其の熱血指導には申し譯勿いが、俺には勝者を育ててゐるのでは勿く、未來の敗者を量產してゐる樣にしか、無責任な夢を子供達に押し附け、己の網を捨てろと云つてゐる樣にしか見え勿かつた。ブレーキの壞れた饒舌に潛む危ふさと怪しさ。何んな物事や言葉にも表と裏が有る。自分の言動にも、表と裏が有る事に氣付かぬ者は、其れこそ、己の尻尾に咆える子犬だ。月には表と裏が有つても、太陽には表しか勿いと思つてゐる者は、太陽にも内と外が有る事を忘れてゐる。自分が蒔いてるゐる種が何なのか判つてゐ勿い者程、蒔いてはなら勿い處に種を蒔き、其の刈り入れは卋の終はりを意味する。卋を荒らす忌む可き者は、得てして自分には非の打ち處が勿いと信じ込み、酷い噓程、立派な事を云ふ。

 カリスマの神祕に魅了され、奇蹟との遭遇を期待し、羽振りの良い權威を眩しそうに仰ぐ子供達。其れは最早、スポーツの素晴らしさを熱辯してゐるのでも、人生に立ち向かふ勇氣を與へてゐるのでも勿い。負けず嫌いを讚美し、反骨心と云ふ負け犬に突き落とされる恐怖を植ゑ付け、勝利の翼を摑めと囃し立てた處で、己の慾望より髙くは飛べ勿い。他人より優れてゐないと人として劣ってゐると思ひ込ませ、負ける事と人に先を讓る事を學ばせず、況してや赦さず、スポーツ界で、若しくは實業の卋界で、ロスチャイルドに成れと、ロスチャイルドは此の卋で一人しか成れ勿いと云ふのに、指導する總ての子供達にロスチャイルドに成れと、鼻先に夢と云ふ人參をブラ下げ、其の地獄に埀らした蜘蛛の絲に電氣を流して嗾ける。スポーツに託けて、己の成功體驗を强要する、勝ち組の自己陶醉。此のレジェンドが說く狹き門は本物の登龍門ぢや勿い。廣き門に多くの駱駝が殺到してゐる丈けで、天を昇遙する神龍には成れ勿い。譬へ其の門を潛れたとしても、成功と權威に尻尾を振る座敷犬にしか爲れ勿い。たつた一つの榮冠を奪ひ合つてゐる時點で其奴は負けてゐる。何故、無慈悲な血塗れの勝利を强要する鬼門を、無理矢理突破し勿ければ爲ら勿いのか。見せ掛けの成功へと誘ふダストシュートに詰め込まれて窒息した生身の產業廢棄物達。そんな仕組まれた勝負の先に眞の勝利は勿い。

 稼いだ者勝ち、目立つた者勝ち、騷いだ者勝ちを臆面も勿く公言し、自分の夢を叶へる爲に、競合する他者の夢を踏み潰す。其れが夢の正體なのか。何百万分の一、何千万分の一、何億分の一を賭けた、激越な競爭率を度外視し、夢と夢の奪ひ合ひ殺し合ひを煽り立てて、夢と云ふ破壞行爲を禮讚する。其れは敗者を量產し、使ひ棄てて顧みぬ卋の中を正當化してゐる丈けぢや勿いのか。夢を叶へたスターとは、過當競爭に敗れた者達を量產し、不當に搾取する爲の撒き餌でしか勿い。勝利の榮光や莫大な報酬は、非情な現實と不正な富を覆ひ隱し、敗者の人閒性を暗に否定して奴隸化する爲のイミテーションだ。俺達は共喰ひの味を知つて終つたハイエナでしか勿い。俺達は夢に眼が眩み、騙された情報弱者だ。夢と云ふ、今丈け、金丈け、自分丈けの猥らな慾望に、其の强慾な自分さえ良ければ其れで良いと云ふ人生に踣り込み、他人を出し拔いて儲ける事を「夢を叶える。」の一言で美化し、誤魔化してゐるのだ。俺達は人の不幸を正當化するハイエナだ。否、ハイエナは「夢」何て云ふ口先丈けのインチキな綺麗事を咆えはし勿い。一攫千金を吹聽して射幸心に火を點け、眞面目にコツコツ働く事を暗に否定する。此れは有りつ丈の努力と、夢以外の可能性を一度に總て賭けるギャンブルだ。追ひ掛けてゐるのは努力の先に在る夢では勿く、マハラジャに成れる當たり馬劵だ。其の擧げ句、御前は努力を賭け金にして億萬長者に一點張りする、勝者總取りの獨り占め自由競爭社會で負けたんだから、此れから死ぬ迠、只働きの奴隸だ。一切文句云ふな。と書いた覺えの勿い證文を突き附けられて、ハイ、其れ迠だ。そんな次から次へと新しい敗者を呼び込んで敗者の裾野を廣げ、敗者を喰ひ物にし續け勿くては成り立たぬ鼠講の、眞の勝者とは誰だ。スポーツの皮を被つた西歐傲利主義か、合法的な植民智主義か、將亦、體育會系階級鬭爭か。俺は前卋も來卋もマルクス主義も信じ勿い。だが、經濟的競爭原理が働かずに社會主義國が崩壞したからと云つて、其の眞逆が正しいのか。物事に優劣が有るからと云つて、無器用な手の反對が利き腕だとは限ら勿い。金と名誉と權力の偶像崇拜が織り成すNo.1のカニバリズムは、將にヨハネの描いた終末、其の物だ。反復練習を介した肉體の洗腦で加速する、アスリートの家畜化。ノーサイドの笛が永遠に鳴ら勿い無間地獄。世紀を超えて跋扈するナポレオン主義。必要以上に美化された歪な勝利に溺れて我を忘れた、小さな幸せでは我慢出來ず、夢と現實に引き裂かれる、極限まで肥大し續けるグロテスクな自我。果てし勿き夢の奪ひ合ひが行き著く其の先は、武力を交へた戰禍にまで飛び火するのでは勿いのか。見境の勿い勝利の奪ひ合ひは正義の敗北を意味する。恐らく俺達は有史以前から同じ過ちを繰り返してゐる。俺達は何時迄も夢に現を拔かしている場合では勿い。何もかも勝つた者丈けが總取りし、思ひ通りに爲る卋の中つて奇怪しく勿いか。望んでもゐ勿い勝負に無理矢理卷き込まれて、强引に格差を大量生產してゐる丈けなんぢや勿いか。此の夢の競爭に加はる事が奴隸契約にサインする事では勿いのか。夢を實現した者の得る榮華を、過當競爭から脫落した負け犬を奴隸として搾取し、酷使する爲の方便に利用してゐる丈けなのでは勿いのか。此れは人類の99.9999%を確實に奴隸化する爲の國際的詐欺だ。俺達に今本當に必要なのは、其れ其れの努力に見合つた、公平な富の分配ではないのか。

 皆んなが夢だと思ひ込んでゐる物が本當に總て實現したら、人類は幸せに成れるのか。日本人が全員、大谷翔平に成つたら何う爲るのか。ブラジル人が全員、ネイマールに成つたら何う爲るのか。ディ・ステファノ、マラドーナ、メッシ、各時代のNo.1選手を輩出したアルゼンチンは、後何人、卋界No.1の選手を生み出せば國内經濟を立て直せるのか。アメリカ人が全員、ビル・ゲイツに成つたら何う爲るのか。ヨーロッパの全世帯がロスチャイルドに成つたら何う爲るのか。インド人が全員、マハラジャに成つたら何う爲るのか。China人が全員、中國共產黨員に成つたら何う爲るのか。朝鮮人が全員、ロケットマンに成つたら何う爲るのか。其の時は誰から搾取するんだ。其れとも、地上最後の二人と爲るまで鬭ひ、互ひを奪ひ合ひ、最後に殘つた獨りも肉體と魂で滅ぼし合ふのか。此の沈沒していく卋界の中で、自分丈けが最後迄生き殘る。そんな物、勝利とは呼べ勿い。商業的バイアスで僞裝表記された、夢と云ふ薔薇色の魔物に魅入られた俺達は、途轍も勿い欺瞞の坩堝で踊る、慾望のストリッパーだ。スターシステムと云ふ僞りの浪漫を追ひ求め、眞實を蔑ろに爲た踊り子に次のステージは勿い。今、此の星のヒエラルキーを仕切つてゐるのは、需要に對する供給と成果の分配を意圖的に操作してオッズを誤魔化した、胴元丈けが受かるカジノだ。勝者が總てを獨り占めにするシステムを牛耳つてゐる者に取つて、歡憙の熱狂でデコレートされた此の過當競爭は思ふ壺だ。一握りの主權者を頂點に、帝國主義と共產主義の二重構造で積み上げられたピラミッド。其の階段を踏み外した者達には、大審問官の配給が待つてゐる。口に爲た人閒を舌を拔かれた羊に變へる服縱のパン。其れをスネギリョフは黒い大地に叩き付けた。勝利の僭稱者に爲る位なら、敗北の代辯者に成れと。彼こそは敗者の王だ。へし折れた成長曲線、統合失調したイデオロギー、快樂產業を凌駕する過剩な精慾、資源の濫掘に不良在庫の亂造。然して、ガラガラのスタンドに取り殘された、虛構の經濟と踏み潰されたパン。ゲームは旣に終わつてゐる。其れなのに猶、仕組まれた夢を卷き込んでルーレットは囘り續ける。

 誰もが夢を持ち、夢を叶へる爲に努力するのが當たり前。人は夢勿しには生きられ勿い。そんな事は常識だと人は叫ぶだらう。見上げれば其處に廣がる青空の樣に、在って然る可き物だと。倂し、常識と大書されたレッテルで議論を遮るのは、大した根據の勿い固定概念や、自己撞着で身動きの取れ勿くなつた、思考停止の常套手段でしか勿く、感情的に爲つた者が迷ひ込む出口の勿い幻覺の森だ。其の錯誤は曆史のパラダイムシフトに依つて悉く暴かれ、今も闇に葬られるのを待つてゐる。常識を疑は勿いのは何も考へてゐ勿いのと同じ事だ。考へるとは鯔の詰まり常識にメスを入れる事で在り、思ひ込みを打ち碎く事だ。日頃、不可能なんて勿い。常識に囚はれるな、常識を覆せと謳つておき乍ら、誰もが念佛の樣に唱へて縋る、夢と云ふ常識は覆さ勿くて良いのか。何故、夢と云ふ思ひ込みを疑は勿いのか。夢を信じるのは思ひ込みと云ふ個人願望の墓穴を掘り下げてゐる丈けだ。勝つ事を疑ふ事こそが、本當の勝利への第一步ぢや勿いのか。センメルヴェイス反射のボリュームを幾ら上げても、個人的な夢を叶へれば叶へる程、其の裏で健全な中流階級が喰ひ潰され、不當な格差が廣がつていく矛盾。一攫千金を追ひ求め、狂つた齒車の儘、强引に自転車操業を續ける社會。膨張し續けるスポーツビジネスと、其の國の發展が全く正比例してゐ勿い現狀。然して、こんな球蹴りに泡錢をバラ撒く位なら、其の金で多くの人達を助けられる事實を、搔き消す事は出來勿い。

 勝者や夢を稱贊して擔ぎ上げ、無數の敗者と勝者が共に失つてゐる物を直視し勿いのは、當たつた時だけ大騷ぎする占ひと同じだ。こんな物、見せ掛け丈けの物に目移りをして、總てを臺勿しにしてゐる丈けだ。遙か遠い夢を諦めずに追ひ續ける事で、眼の前の現實から逃避し、此の國の將來を、此の卋界の未來を諦め、抛り投げてゐる事に氣付か勿い。盡きる事の勿い遙か遠くの慾望を追ひ掛けて、眼の前の本當に大切な物を踏み躙る。卋閒が推奬する夢とは獨り善がりな噓だ。何んなに華麗な卋俗的成功も欺瞞の免罪符には爲ら勿い。現代人が信仰する夢と云ふドグマは、此の星で今、最も盛大な宗敎ビジネスで、俺達はマーガリンをバターと、サッカリンを砂糖と勘違ひし、糖尿病の小便で溺れる働き蟻だ。黃金蟲を幾ら輯めても純金を精製出來勿い樣に、眞實を多數決で決める事は出來勿い。マスコミやSNS、J-popやコミック雑誌に溢れた、夢を應援する一大プロモーション。俺達の社會は夢に强迫された精神病棟だ。叶はぬ夢を追ひ掛ける事で、何を遣つても上手く行か勿い現實を誤魔化し、不可能は勿いの唯一言で、自分自身を騙し續けてゐる。誰しもが、此の血走つた欲目に眩む、意地の張り合ひが奇怪しいと、夢と云ふデマゴギーに苦しめられてゐると、心の奧底では氣付いてゐるのに、吿發する勇氣が勿くて硬直してゐる。個人的な慾望や自己顯示慾に振り囘され、己の爲す可き事を見失つた亡者の隊列。夢を追ひ掛けてゐるのでは勿く、己の成す可き責任から遁れてゐる者の行き先に、魂の自由は勿い。夢の爲に打ち捨てられた本當に大切な物は何處だ。御前の罪の數を數へ、夢に依つて踏み躙られた大地に接吻しろ。今こそ、齒止めの利か勿い競爭原理に因つて、粉粉に破壞された人と人の絆を顧み、夢を捨てて果たす可き責任を果たし、家族を護つた無名の人達の勇氣を、俺達は讚へる可きだ。此のブッ壞れた卋界を目の當たりにして、サッカーなんて遣つてる場合ぢや勿いだらう。

 若し人が第一の者に成り度いと思ふならば、彼は萬人の最後の者に爲るで在らう。復た、貴方達の閒で筆頭で在り度いと思ふ者は、萬人の奴隸と爲るで在らう。亡国を救ふ勝利の人だと思はれてゐたメシアは、總ての罪を贖ふ苦難の人で在つた。超人的英雄では勿く悲劇的罪人に神は宿る。眞の强い心の持ち主は地上を支配する權力を放棄し、自己認識と魂を探求する旅に出る事で、襲ひ掛かる總ての物を退けた。眞の勝者は敗北の運命を受け入れて、逆說的勝利に目覺めた究極の敗者から生まれ、眞の敗者は勝利と云ふ蜃氣樓で、砂漠化した心を灼き盡くす。强き者を倒す慾求と、神聖化された勝利至上主義は、敗者の復讐劇でしか勿い。ローマの皇帝より偉大に成り度ければ、カエサルの物はカエサルに返せ。此の地上に卋俗の寳を幾ら積み上げても、天には届か勿い。弱者は小さな惡に感けてきた者達だが、勝利はより大きな惡へと人を誑し込む。負けた事を認めず、勝つ迠ゲームを續行し、地上の覇権に獅嚙憑く權力惡。强情な虛榮心と自負心は、屈辱と恐怖の裏返しだ。僞りの勿い弱さ、裸の自分こそが最强で在り、譬へ人は奴隸の身に墮ちても「幸ひ。」で有り得る。自他の優劣に拘つてゐる時點で、其處に本當の自分は勿い。勝利への渇望の影に潛む、人の不幸しか愛せ勿い、歪な自己愛の孤獨。往往にして人は己の膂力に惡醉ひし、落伍者に息の根が止まる迄戰ひ續けろと、荷を牽け勿くなつた老馬に鞭を打つ。將に「えせ者の從者かうがへたる。」が如しだ。眞の勝者は誰とも爭は勿い。己に都合の良い物しか愛せ勿い、ロスチャイルドを目指す者に、スメルジャコフは愛せ勿い。スメルジャコフは俺達を試すメシアの假の姿だ。勝者と敗者は恆に鄰り合はせだと云ふのに、一番焦臭いロスチャイルドが鄰人の臭ひに耐へられ勿い。二人の友情が一方の忍耐に拠つて成り立つてゐる樣に、勝者の榮光も所詮、敗者の忍耐に拠つて成り立つてゐる丈けだ。敗者が負けを認めず、勝者を勝者と認め勿くなつた時、敗者は敗者で勿くなり、勝者も勝者で勿くなる。敗者は愚者や弱者とは限らず、勝者も賢者や勇者とは限ら勿い。如何に數字を分けやうと、偶數と奇數に上下が勿い樣に、人を勝者と敗者で分けるのは、人を断頭台で雙つに分けるのと同じ事だ。

 人閒が人閒より素晴らしい事を證明する必要が何處に在る。自分以外の何者かに成る必要何て全く勿い。自分以外の者に目移りするのは、本當の自分を蔑ろにしてゐるからだ。存在其の物が人閒の總てで在り、誰かを追ひ拔き、少しでも自分を有利に、特別に、別格に見せやうとした處で、所詮、ペンキで塗つた白馬でしか勿い。嚴しい試練を己に課し、其れを乘り越えて初めて得られる極上の達成感と精神的肉體的成長。誠に素晴らしい事なのだらうが、果たして、爆發的で破格の達成感や成功體驗何て、本當に人生に必要なのか。俺達は爆竹の火藥ぢや勿い。顱頂を劈く熱狂こそが人生の本質なんて、そんな馬鹿な。苦行主義と快樂主義の混濁した精神と肉體。卋閒が喧傳する激越な成功と栄誉。裏を返せば其の煌めく快感も、己の矛盾と鬱屈と暴力衝動を誤魔化す或る種の痲藥では勿いのか。そんな力盡くのカタルシスで何もかも有耶無耶にされて堪るか。他人を蹴落として天下を獲る劇的な自己滿足より、野の花を慈しむ心の方が遙かに尊い。人に磨く可き物が有るとして、其れは誰かを出し拔く爲の體力や技術や智惠ぢや勿い。俺達が立ち向かひ、乘り越える可き物は、人生に立ち開かる障壁ぢや勿く、夢に擬態して己を蝕む心の癌細胞だ。

 限界を突破した究極の人閒丈けが、本當の人閒なのか。狼を嚙み殺せる究極の羊で勿ければ、本當の羊ぢや勿いのか。人は皆、超人で勿ければ爲らないのか。ツァラトゥストラを言語化したニーチェは超人だつたのか。否、ニーチェの說いた超人への道は、知的エリートの階段を踏み外したショックで、中流の家庭すら築けず貧困に沒した、ルサンチマンの念佛だ。そんな超人願望は何時しか、友情、戀愛、感謝なぞ軟弱な感情で、無敵の英雄には必要勿いと攻擊して肅淸を是と爲し、人命を捨て駒に使ふ殺戮的革命家の二の舞に爲るだらう。何んな過酷な困難にも打ち勝つ、人類の頂点に君臨する唯一の超人に昇り詰める事より、鄰人を慈しみ、鄰人と讓り合ひ、己を犧牲にして鄰人を助ける事こそが、本來、人として有る可き姿だ。總ての鄰人に勝利し、敗者の烙印を燒き附けて、奈落の底に突き落とす事になぞ意味は勿い。誰にも負け度く勿いと云ふ己の弱い此心こそが、乘り越える可き躓きの石だ。人が人として存る尊嚴は勝利の向こう側に存るのでは勿い。曆史に名を殘さ勿くとも人は人。海の底に埋もれてゐてもダイヤモンドは腐敗し勿い。此の星に產み落とされた時點で、俺達の夢は總て叶つてゐる。其の等身大の偉大さを認める事が懼ろしい丈けだ。無力で憐れな人閒こそ人閒の本質だと云ふ事を、認める事が赦せ勿いのだ。在りの儘の自分を信じる事が出來ず、排他的努力で過剩に武裝し、不當な競爭に明け暮れるのは、自己に閉塞した現代人の悲劇だ。人の卋の勝ち負けに拘泥するのは、他者の存在に振り囘されて、本當の自分自身を見失つてゐるからだ。何故、人人を、然して、自分自身を在るが儘に愛せ勿いのか。己の命と存在以上に、求める可き地上の寳が在ると爲るのなら、其れは鄰人の命と存在以外に有り得勿い。何んなに虐げられてゐやうと、俺達が斯うして此處に居る丈けで、總ては素晴らしい。然うで勿ければ、こんな糞みたいな卋界、疾うの昔に御然らばしてゐる。

 焦點の合は勿い、炭火の煙で滲んだ液晶畵面で火花を散らし續ける、レジェンドの熱血指導。榮光への階段を如何にして驅け昇るのか、己の辿つた輝かしいドラマに照らし合はせて、子供達に浴びせ掛ける、偉大な英雄譚の押し賣りと、絕讚と名聲の渇望。入部初日で「今日から俺がキャプテンだ。」と叫ぶ一年生の樣に、ブレーキの壞れた自己顯示慾。勝利に眼の眩んだ者は必ず、己の尊さと其の必然を僭稱する。昔から此の男は然うだつた。ビッグマウスで自分を追ひ込むナルシシズムには更に磨きが掛かり、物事は言語化する事で現實化すると豪語し、夢と目標を聯呼する、言靈信仰と誇大妄想との見境が勿い怪氣炎も健在で、露惡的な迄に剝き出しの自我が、惡性腫瘍や不正資金の樣に自己增殖し續けてゐる。そんな安全裝置の外れたエゴマシンガンに取つて衆目とは、王樣が裸で在る事を誤魔化す爲の假面舞踏會だ。己の前で喇叭を吹く者は、己の聲さえ聞こえ勿い。勇者の熱狂は自己疑念の裏返しだ。他者の視線に對する自意識過剰と、底勿しの認識慾求に因る不安で、自分に醉ひ癡れてゐ勿いと破滅して終ふ、ヒーローの虛像と實像。知る者は語らず、語る者は知らず。賢者とは寡默で在り、哲人は沈默の闇の中でこそ釀成し、名も勿き花にも平等に訪れる豐饒な春を待つ。此の卋で最も偉大な者が、其の姿を隱して俺達を見護つてゐる樣に、主の沈默こそが最も壓倒的な啓示で在り、勝利で在る事を知らず、ソーシャルメディアの奴隸と化してバラ撒かれる薄つぺらな自己認識と、成金の短絡的な人生觀に肖らうとする者達。拜金主義は魂に取つて不經濟でしか勿いと云ふのに、そんな無制限な自由を追ひ求めて耐へ切れず、太陽の直射日光に眼を潰されて悶える、穴から脫け出した土竜の死のダンスに、俺は見蕩れてゐる。

 必要以上に自分を買ひ被り、特別で在り續ける爲に、卋俗の自由と權力を求めるのは、心が不自由で無力な證しだ。自己愛と自己否定と自己矛盾の雁字搦めで加速する、レジェンドの獨り善がりな絕對化。人は自分の作り話に熱中し、自分の噓に一番騙される。己が最も信じ、愛する物に人は裏切られる。自分こそが最も偉大だと信じ、己を溺愛する。最早、自分の噓に騙されるのか、自分の噓を信じ度いのかの見分けも附か勿い。ツァラトゥストラに騙されるな。此れは獨つの手品だ。野心の暴走に火を注ぐ、言葉の錬金術。そんな無精卵の自己實現を幾ら溫めても、本當の自分は孵ら勿い。まるで、己の過ちを正當化する犯罪者の歪んだ犯罪理論が、犯罪其の物に化ける瞬閒を目の當たりにしてゐる錯覺。其の己惚れと成功譚に依つて粉餝された劣等感と罪惡感に、俺の魂は烈しく共振する。恐らく、レジェンドの倒錯した自己神格化に、心の底から嫉妬してゐるのだ。

 俺は此の憂き卋を席卷する僞りの虜でしか勿い。花は散るからこそ美しく、夢も叶はぬからこそ果敢無く、愛ほしい。夢を叶へる事しか頭に勿いのは、夢を土足で踏み躙るに等しい。實ら勿かつた念ひを外れ籤の樣に捨てて終はず、一條の紙縒りに紡いで結び止め、過ぎ去つた時の流れと、惜別した彼の人を慈しむ。其れこそが大願を遂げ、衆目を見返す事より遙かに尊く、夢を叶へて終ふ事は無粋な喜劇でしか勿いのに、俺は素直に自分の負けを認める事が赦せ勿い。己の理想と現實が吊り合はず、夢に殺されるのなら本望と開き直る事すら出来勿い小さな器。努力に比例して何もかも上手くいくより、絕望の淵を舐める方が、より眞實に近付けるのか。俺は勝者に爲り度く勿い、其れなのに、敗者にも爲り度く勿い。勝つ可きか、負ける可きか、其れが問題だ。

 インチキな混ぜ物の飮みホに組み伏せられて、拍車の掛かつた惡醉ひが誤爆する雜言の催涙弾。此れは生活に疲れ、己の人生に無感動に爲つた男の僻みだ。酒の勢いを借り勿いと火の點か勿い、落ち目のルサンチマンで、時流に取り殘された燒け糞な老荘思想だ。獨りの體から分裂した敗者と敗者の相克が叫ぶ、姑息なアンチテーゼで、賢しらなパラドクスだ。閒違ひ勿い。此れは正眞正銘、俺の默示錄だ。貪婪な勝者の默示錄と、カウンターに突つ伏した飮んだくれの默示錄。其の亂反射した神の聲が俺の右脳から左脳へ木霊する。暴論だと斬り捨てられて構は勿い。誰かの稱贊や共感何て無意味だ。オフサイドのギリギリを狙はずにゴールは奪へ勿い。俺はこんな糞みたいな自分が赦せず、愛ほしく、一番大切な寳物なんだ。そんな糞みたいな寳物を夢見る俺達は皆、開店前のパチンコ屋に竝ぶ猿だ。同じ如何樣のルーレットを轉がつてゐるのなら、俺は逆の目に張り續ける。こんな勝負、サッサと終はらせて了へ。

 居酒屋の便所に雪崩れ込んで蒼褪めたタイルに跪き、滲んだ瞳に沁み入る、便座に撲ち撒けた吐瀉物の煌めきに向かつて、俺は醉ひどれの懺悔を咳き込み續けた。仲閒と別れた後もアメ横で飮み倒し、終電に轉がり損ねて、上野のカプセルサウナから出社する月曜日。長い一週閒の始まり。ヒュームと機械油と粉塵と屈辱に塗れて、俺は魔法の解けた敗者だ。次の舞踏會は日曜日の石巻。今シーズン初の遠征が待つてゐる。財布の底を叩いて夜行バスに飛び乘る週末の始まり。橫斷幕を詰め込んで北上する夜行バスは、王子樣の白馬か南瓜の馬車か。總ては此の俺に取り憑いて離れ勿い、貧乏神の思し召しだ。

 

 

 

 

 三列獨立シートをフルリクライニングし、首枕に埋もれて夜を明かす東北自動車道。国產單氣筒のトップランナー、SRで通勤してゐる勞働者階級に取つて、電子サスペンションを裝備した夜行バスは王樣の搖り籠だ。始發の準備に勤しむ仙臺驛のロータリーに滑り込み、コンビニの御握りを咥へて改札をパスすると、JR仙石線に搖られて二度寢に勤しむ旅の東雲は、復た格別。太平洋の彼方から水平に射し込む朝日は、婚期を逃し、漢の更年期に慄くオッさんの目頭を熱くする。そんな、一寸センチな第四節、四月廿日(日)アウェイの仙臺戰、石巻運動公園サッカー場。最寄り駅の石巻驛に下車すると、早速、石ノ森章太郞先生の描いたキャラクターが御出迎へ。漫画界の巨匠の作品を網羅した博物館が在ると話しには聞いてゐたが、原色でカラーリングされた等身大のフィギュアは、殺風景な驛前のローターリーの閑散と相俟つて、孤獨を秘めたヒーローの宿命を浮き彫りにし、無言で語り掛けてくる其の穢れの勿い硬直した瞳には、此の國に生を受けた者達の心を總て呑み込んだ、未曾有の記憶が灼き附いてゐる。

 「いやあ、もう、凄まじいよ。」

 自家用車で試合會場に前乘りしてゐたスズリンさんが、開口一番、漏らした溜め息に返す言葉は勿い。下道を走つて海岸線の被災地を巡つた然うだが、物見遊山で足を運べる現場ぢや勿い。木造や2×4の建屋は基礎ごと剝ぎ取られ、重量鐵骨のマンションですら骨組み丈けが辛うじて殘つてゐる地獄の一丁目だ。震災から丁度丸三年。跡形も勿く消えた街が、彼の日の彼の時の儘、直ぐ其處に在り、今、斯うして自分も同じ空の下に居る衝擊。津波に因つて暴き出された滿身創痍の原野は、現代の病を貪る俺達の殺伐とした心象風景と、殘酷なカタルシスを投影し、未だに其れを何う受け止めたら良いのか判ら勿い。何故、此の街は震災で總てを失つたのか。何故此の街で勿ければ爲ら勿かつたのか。何故、日頃から卋閒に不貞腐れて、總てを地震でリセットして終へ、と呪詛を吐いてゐた俺では勿かつたのか。悲劇を超えた悲劇をニュース映像の一つとして消費する、傍觀者の疚しさは誰にも裁かれず、何不自由勿い日常に放置された儘、生溫い懲罰を持て餘す永遠の執行猶予。誰もが罪を背負ひ、總ての者に對して贖ふ責任が有ると云ふのに、巨惡は蔓延り、弱者が津波に押し流された。俺の無神論は增長し、神の不在を罵つて、抉られた神の大地に跪く。ヨブは神の試練を乘り越えたが、殺された家族は歸つてこ勿かつた。そんな茶番に何の意味が有る。

 幼き頃、母の手に引かれ御詣りした古刹で、極彩色の地獄繪卷が嚴かに開覧されてゐた。精緻な爛筆を驅使し、業火と血飛沫で塗り重ねた紅蓮の狂宴。阿鼻叫喚の責め苦に悶絕する亡者の末路に怯え、見てはいけ勿い物を見て終つた瞳を堅く閉じて通り過ぎた、遠い遠い夏の日の大伽藍。彼の抹香臭ひ敎迫も、今、思へば、心洗はれる佛の御加護で、卷物に描かれた地獄の暴虐は勸善懲惡の代辯者だ。鬼畜共が完遂する魂の制裁に不義は勿く、其れが繪空事で勿ければ、誰も讒な心になぞ流されぬ物を。現實の地獄繪圖は筆舌を盡くして太刀打ち出來る代物では勿かつた。

 津波と原色の繪卷物が交錯する追憶の二重フィルム。鬼畜と亡者を呑み込んだ濁流の潮が引いていく其の向かふ側に、夥しい數のプレハブが整然と列を成してゐる。運動公園の敷地内に建てられた被災者の假設住宅。倂設されてゐるのは病院や役場の出張所なのだらうか、人の氣配も生活の臭ひも勿い、眞新しいクリーム色のパネルと建具の聯續が、好奇と憐憫の眼差しを拒んで冷たく硬直してゐる。選りに選つて、試合會場の鄰りに現在進行形の震災本人が橫たはつてゐる何て。三年経つた今も猶、幾つもの時間軸が其れ其れバラバラに、卷き戻しとコマ送りと一時停止を繰り返して、失はれた日日を再生し續けてゐる。

 女子のサッカー觀戰で始めて訪れた東北は福島で、今日の樣に淸淸しい青空が廣がつてゐた。當時、東京電力の企業チームは女子サッカー界で最も資金力があり、一萬人キャンペーンを謳つたホームゲームは、目標にこそ屆か勿かつた物の八千人を超える觀客を輯め、場末のマイナーゲームを覗きに來た物好きの度肝を拔いた。スタジアムを取り囲む大掛かりなイベントとアトラクション。入場時に配られる持ち切れぬ程の豪華な粗品。試合前に熱辯を揮つた県知事の挨拶。總ては日本屈指の巨大企業だからこそ成せる大盤振る舞ひ。東電が福島に落とす巨額の資金に、依存してゐたと云つて良いのか、癒著してゐたと云つて良いのか、今思へば、女子サッカーの興行を逸した異次元の盛況は、企業に買收された地方自治體の悲哀を隱す、厚化粧でしか勿かつた。其の後、挨拶に顏を出した知事は別件の收賄か何かでパクられたらしいが、若し、津波に因る原發事故を回避して日本がW杯に優勝してゐたら、東電は手塩に掛けたチームを更に潤沢な資金で梃子入れし、亞細亞の白い巨人に成つてゐた事だらう。其れが、なでしこバブルと逆行する樣に、活動停止から仙臺へのチームの讓渡が決まり、震災の前年に、經營難でエレーラからプロ契約を切られて移籍してきた、W杯優勝メンバーの知名度に依り、新興チームの神戶が女子サッカー界の盟主に躍り出る。何もかも本の紙一重だ。

 約束された物なんて何も勿い。東電のチームを引き繼いだ仙臺の此からも、入閒の一部殘畱も、捨て鉢な俺の行く末も、詮ずるに、気儘な風の吹き回し。地球と云ふ惑星の摂理からすれば、津波の被害なぞ物の數では勿く、俺は俺で、本當のサポートが必要な人達を横目に、此れからサポーターごつこに現を拔かすのだから、此の天邪鬼な卋界は面白く出來てゐやがる。捏造した同胞愛を吿發されにノコノコ遣つて來る餘所者何て、良い面の皮だ。此處でリーグ戰を開催する事が復興への一步に繫がる。然う理窟では判つてはゐても、被害者と加害者と部外者のモノトーンに塗り分けられた會場で、相手に花を持たせる爲、氣の拔けた花相撲をする餘裕も勿い。そんな取つて附けた感傷に、ゴンちやんの怒声が割り込んでくる。

 「何で向かふは良くて、俺達は駄目何だよ。巫山戲んな。」

 アウェイ側入場口で準備をしてゐたスタッフの生溫い應對に苛立つ我等がコールリーダー。確かに、開門前の筈なのにホーム側の橫斷幕は旣に張り巡らされてゐる。ホーム側の運營に取つては、顏馴染みの仙臺サポへ、何時も通りに取り計らつた丈けなのだらう。其れを違ふ立場で見たら何う爲るか何て、埓の外。こんな下つ端の、何の權限も勿いボランティアを摑まえても無駄だ。杓子定規の運營に嚙み付いてゐる位なら、此の開門前の閒に、仙臺サポに挨拶に行つておいた方が、後後、面倒な事に爲らずに濟むのだが、頭に血の騰つたゴンちやんは、輕率な自尊心にカロリーを燃やして、其れ處では勿い。斯う云ふ時に、傳法肌つて奴は髙く附く許りで、割りに合は勿い。

 Jのトップチームからサポが繰り出してくる仙臺のゴール裏は、立ち上げ當初から新興チームとは思へぬ活況を呈してゐるが、リーグに參入して未だ日が浅い事も有り、關東を中心とする、なでしこサポのユニオンとは略、面識が勿く、代表の試合でもゴール裏の輪に加はらず、其の大所帶の中が何う爲つてゐるのか全く見えて來勿い。日頃、試合後の飮み會で盛り上がる閒柄でも、本の些細な行き違ひで火達磨に爲るのがコアサポの宿痾だ。顏の見え勿い者同士とも爲れば、其の疑心暗鬼には餘計な尾鰭が附いて來る。此から先のトラブルを避ける爲にも、顏合はせをして少しでも距離を縮めてゐた方が良いのだが、後の祭りに繰り出す御囃しで、チューニングが合つてゐる例しは勿い。案の定、スタッフに幾ら云つても埓が明かず、運營責任者の五木さんを通してクレームを、と息卷く蒼きウルトラス。處が、會場に到著した入閒の選手バスに五木さんの姿は勿かつた。

 アシスタント以外に代はりの役員が同乘してゐる樣子も勿く、御負けに、荒川が練習中の怪我で、遠征に帶同してはゐる物のメンバー外と吿げられ、泣きつ面に蜂。申し譯勿さそうにバスから降りてくるボンバーヘッドが、何時もより小さく見えた。全く意味が判ら勿い。二部のドサ囘りなら、いざ知らず、一部の公式戰で運營責任者が不在と云ふ此の爲體。もう、橫斷幕の搬入、試合前の顏合はせが何う斯うの話しぢや勿い。運營責任者を聯れて來てもゐ勿いのにクレームを附ける何て、恥の上塗りだ。リーグの更なる發展の爲にクラブライセンスの敷居を上げ、脆弱な體制のチームは篩に掛ける方針を打ち出した協會の嚴しい姿勢を、内のフロントは何と心得てゐるのか。マッチコミッショナーを挾んで、両チームの監督と運營責任者が同席する試合前のミーティングは、何うやら監督が兼任するやうだが、マッチコミッショナーは當然、此の不始末をリーグに報告するだらう。

 部活の合宿ぢや有るまいし、遠征のコーディネートや、現場での手續きを爲す可き責任者を缺いてサッカーに輯中出來るのか。そんな素人の勘繰りを裏切る事勿く、キックオフの笛が鳴り止まぬ内から、眼も當てられぬワンサイドゲーム。自陣のPAエリアから搔き出したボールを、センターラインの近くに運ぶので精一杯だ。今日の試合も個個のポリバレントな能力を上げる爲なのか、スタメンとポジションをシャッフルしてゐるのだが、此の調子だと髙い授業料を拂つてゐる内にリーグが閉幕して終ふ。今季初先発のDF内海とFW山崎に、レギュラー陣を脅かす丈けの光るプレーは見受けられず、逆にDF齊籐の樣な、ビルドアップに難は有る物の、髙さと速さと若き伸び代を兼ね備へ、1對1の强さは荒川と遜色勿い旬の選手を、ベンチで塩漬けにしてゐるのは擬かしく、爆發的なポテンシャルを秘めてゐる薊を覺醒させ度いのは判るが、SBからFW迠、毎試合、猫の目の樣に入れ替はるタスクに、觀てゐる此方が附いていけ勿い。其處に持つて來て荒川の怪我。自陣からのクリアボールに喰らひ附き、體を張つてキープ出來る爆彈娘が居てくれれば、少しは反擊の絲口を摑めるのだらうが、如何せん、入場前からケチの附いた斯う云ふ日は、何を遣つても嚙み合はず、相手を何う斯う云ふ前に、自分達の遣る可き準備が莵に角出來て勿い。

 レイズやエレーラと云つた優勝爭ひをするチームにボコられるなら未だしも、仙臺の様な中堅クラスに龜の缶詰にされてゐる樣ぢや、一部殘畱何て天竺よりも遠い道程だ。大敗した前節の悪い流れを斷ち切るもの何も、息吐く閒の勿いピンチの聯續に、引つ切り勿しの冷や汗が背筋を驅け昇り、襲ひ掛かる怒濤の攻撃を津波に譬へても悪趣味な丈けで、何の慰めにも爲ら勿い。シュート練習の樣に放たれる五號球の殆どが枠を捉え、決定的な場面はレイズ戰より寧ろ多いだらう。倂し、こんな藻掻けば藻掻く程、墓穴に嵌まり込んでいく厄日でも、一つ位は救ひが有る物だ。

 幸ひ爲るかな。日の丸のゴールを護り續けたレジェンドが、今日は當たりに當たつてゐる。神憑つたセーブの聯發で俺達の士魂に訴へる守護神の躍動。鳴り止まぬ山郷コールでZONEに達した輯中力を繋ぎ止め、敗北の二文字を燒き拂へ。一瞬でも声が途切れたら終はりだ。こんな糞試合でも勝ち點一を死守する事に意味が有る。カウンターで蜂の一刺し何て蟲の良い話しは勿しだ。一部に殘畱したければ餘計な考へは捨てて終へ。内容も自尊心も二の次、三の次。何せ今日は山郷さんの特異日だ。俺は熟熟、イカれたルーレットに緣が有るらしい。始めから零にしか賭ける事の出來勿い勝負だから、迷ひ樣が勿い。四十路に王手を掛けたリーグ最年長GKの經驗と意地に、肺活量の總てを注ぎ込んで押し通し、時計の針を無意味に進めて、試合をクローズする。今日はもう其れで勘辯してくれ。。長いリーグ戰、斯う云ふ試合の一つ二つは有る物だ。前半を折り返しても破られぬ首の皮一枚の均衡。怪しく爲つて來た勝ち點3の皮算用に、苛立つホームチームの雜なプレー。此れで良い。此處から先の一分一秒は針の筵だ。飛び魚の樣にゴールポストからゴールポストへと宙を舞ふ守護神の反射神經。イケる。此の儘、勝ち點1を强奪しろ。反省會なら時計の針が日を跨いでからだ。マイアミの奇蹟を彷彿とさせるキャプテンの怪力亂神。貴方に會へて良かつた。此の神通力が續く限り俺達は無敵だ。然う、確信した刹那、ゴール前のクリアボールを拾つた仙臺のレジスタ、上辻のミドルが入閒の結界を突き破つた。

 夢の樣な大當たりが後半の25分で打ち止めになると、後はもう、殘り時閒を最少失點で乘り切つた事を御の字とする以外、へし折れた筆の置き場が勿い。野球で云へば完全試合の樣な慘敗。相手チームに與へた20囘のFKと17囘のGK。シュート数、15對2と云ふスタッズも、實感として喰らつたピンチは其の倍の倍。花相撲も糞も勿い、奇蹟の缺片を摑み損ね、思ひ返す丈けで疲れて終ふ負け戰。試合後のエール交換も勿く、嚙ませ犬の後片付けを終へてスタジアムから出ると、其處には被災者の假設住宅。一刻も早く此の場から、掠り傷一つ勿い僞りの敗北から逃れて終ひ度い。波に掠われていつた人人の眼差しに背を向け、何に生きる可きかを問い質す、聲勿き聲を搔き分ける。遠くの被災者には手を差し伸べても、鄰の被災者には近寄る事すら出來勿い俺に、今更何を償へと云ふのか。鄰の他人より遠くの他人。誰かに寄り添ふ度に挫折してきた俺には、其れが人としての限界だ。スズリンさんの車に便乘し、石卷驛から仙台驛へと乘り繼いで潛り込んだ新幹線の自由席。適當に買つた驛瓣を開封するのも煩はしく、行樂地の土產物を手にした親子連れで賑はふ車内で獨り、寳の缶酎ハイを親の仇の樣にカラッカラの胃粘膜へ流し込み、何に意地を張れば良いのか判らぬ、中途半端な弱者の腹の蟲を灼き拂ふ。

 酒精で潤んだ窗外の夜景に額を擦り付けて、リクライニングシートの微振動に惚けていく心の遠近法。痙攣の治まら勿い、鎖ぢた眼裡に廣がる燐光の波紋が、何時か視た景色を再生する。入閒から乘り換へる前の福岡で每年嵌まり込んだ、聯敗、聯敗、復た、聯敗の地獄巡り。此の東北新幹線は定刻通り上野に到著出來ても、殘畱爭ひのチームに一息吐ける停車驛は勿い。鈍行の昇格列車とは裏腹に、二部への降格列車は瞬きすら赦さぬ超特急だ。何處にも辿り著く事の勿い悪夢の遠征は今始まつた許り。後戾りする事の出來勿いトンネルの闇は人の心を惑はし、出口の塞がつた排水溝の樣に逆流して、配管に詰まつた汚物を撒き散らす。運營責任者の不在なんて未だ未だ序の口、宵の口。負けの込んだ内輪の啀み合ひから何んな醜聞が飛び出すのか。ガス拔きのガスに引火して、ボヤ騒ぎで濟めば御の字だ。首を突つ込んだクラブの先先で卷き込まれた誤爆の應酬。そんな悲憙交交を樂しむ智惠や餘裕が有るのなら、卋閒の莫迦莫迦しさを輕く笑ひ飛ばして、俺はチェーホフにだつて成れただらう。二部のドサ廻りで散々田舎芝居を演じてきて、旅に醉ふ歲でも勿いオッサンに、今更、何の出合ひが有ると云ふのか。首筋から肩甲骨を誑し込み、腰椎から膝の皿、脹ら脛から土踏まずへと墮落していく甘美な血中老廃物の泥濘に、止めの氣違ひ水を注ぎ込んで、不貞寢を決め込む人生の自由席。何のアナウンスも勿く通過する更年期の曲がり角に乾杯。明日から復た、化粧をして衣裝を選び、儀禮と演戲に滿ちたピエロの日常が幕を開ける。會社の業務も、學校の授業も、夕食の團欒も、純粹で一途な戀愛も總て演技だ。環境を變へる度に別の役柄を演じる屈辱を、取つて置きの笑顏で假裝し、他人の演技に演技で返す茶番劇。俺は歯を磨き、朝礼で點呼と復唱をし、入荷した材料の檢品をし乍ら、ベアリングをシャフトに叩き込んで、終末にはゴンちやん達と合流し、選手に發破を掛け、〆の缶酎ハイを繰り返すのだらう。心は旣に此處では勿い何處かへ飛んでゐる。俺に取つて旅とは焦れつたい現狀に對する拒絕反應でしか勿い。其の擧げ句、歸りの行樂列車に充滿する家族連れの團欒に、肩身の狹い此の自由席すら御前の居場所ぢや勿いと責め立てられ、薄目を開けると、前の座席に座つてゐる子供が身を乘り出し、エビフライを葉卷の樣に銜へて俺を見下ろしてゐる。澑め息混じりの酒気を含羞む、陸奧の獨り旅。此處で一緖に死ねたら良いと、縋る淚は露も勿く。其の場凌ぎの慰めに、呷る酎ハイも底を盡いた。充血した醉夢のメリーゴーランドに搖られて、空つぽの350ml罐の中で轉がる、賽子の目よりも當てに爲ら勿い己の行く末。明日は何方だ。

 

 

 

 

 塗裝場の床の上に積み上げられた配管サポートの山。今週中に出荷する某プラントの品物に澁々步を進め、半ば諦め加減で覗き込んでみると、案の定、L6×50、SS400のアングルで組み上げられた鋼造物の總てが、腸捻轉で悶える溶接ビードと、鳥肌の如きスパッタで蹂躙されてゐた。仕上げのペンキがフタル酸なのかエポなのか、指定色は何なのか、塗裝屋の苫野さんに引き繼ぎの聲を一言も掛けずに放置された、不法投棄紛ひの建築金物。否、こんな屑鐵、金物なんて呼べ勿い。素人仕事の產廢を現場に出荷して誰が得をするのか。好い歲をした大の大人が、恥ぢを恥ぢとも思はずに白化つ吳れる子供の粗相。此れが先日入つてきた新入社員の仕業で、其の手直しをするのが今の俺の仕事だ。ホトホト泣けてくる。圖面が讀め勿くて當然寸法出しも出來ず、仮組も精度に難が有り、溶接だけ遣らせてゐるのに此の樣だ。電圧と電流の調節が偶々合つてゐた初日の溶接は單なる紛れで、次の日からは總て此の調子。板厚に應じて電圧と電流を調節しろと作業前に指示しても、フリーズして全く調節せず、

 「調節しました。」

 と口籠もる許りで、只管、干涸らびた蚯蚓の如き溶接ビードを量產し續ける。其の手直しで俺の作業時閒を奪ふのだから、時給で云へばマイナス參千円分以上の仕事つぷり。經驗者を僭稱する此の新しい部下は、飛んでも勿い稼ぎ頭だ。而も其の上、筋金入りの人類アレルギーと來てゐるのだから、神樣の悪巫山戲てのは氣が利いてゐる。此の老衰したリアルな鼠男を、寡黙な職人タイプだらうと髙を括つてゐた俺が莫迦だつた。單に墓石の如く口が重い奴なら幾らでも居たが、此處迄酷いのは見た事が勿い。此の男の闇は本物だ。

 先づ自分から話し掛けてくる事は一切勿い。作業の判ら勿い處や各ポイントの確認を聞く事も勿ければ、業務上の報連相も完全に無視。仕事の指示から逃れる爲、頑なに視線を合はせやうとせず、過剩な生存本能と姑息な習性で恆に物蔭に隱れ、作業著の儘、始業時閒ギリギリに出社して、終業のチャイムと同時に、汗と油に塗れた作業著を著替へもせずに、無言で突風の樣に退社する。休憩時閒も仕事の打ち合わせや情報交換の場でも在る社員の輪に近寄ろうとすらせず、晝食時は社内の食堂を素通りして町内のスーパーに退避し、倂設のイートインコーナーで時閒を潰す。其れも向かひのコンビニにはウチの社員が顏を出すから、態態、スーパーの方を選んでゐる徹底振り。心の捻子が一本足り勿いとか、そんな問題ぢや勿い。タイムカードとタイムカードの狹閒で、社内の片隅に地下室を掘つて引き籠もり、莵に角、云はれなければ何一つ遣らず、新しい仕事を覺えやうとせず、凡ゆる責任を逃れ、拘束時閒を一秒でも縮める爲に、唯只管、氣配を殺し續ける、齧歯類の猜疑心と土竜の穴藏根性。ネズヲ。何時しか俺は此のリアルな鼠男を、工場の職人達との閒で、澑め息混じりに然う呼んでゐた。

 四六時中、人目を避け、身を秘そめてゐると云ふのに、ヒュームに噎ぶ社内の熱氣をもコールタールの樣にドス黒く塗り潰す、ジメジメとした負の存在感。無表情と云ふには餘りにも息苦しい、何が何でも人を寄せ附けぬと云ふ、壞疽寸前の顏色。ジュラ紀の彼方に絕滅した其の笑顏。ネズヲを眺めてゐると、絞め殺された感情が橫たはる墓穴の闇に、引き擦り込まれて終ひそうだ。殺處分を待つ野良犬の悲哀なぞ一切勿い、其の凄惨で威壓的な鉄壁の拒絕反應。死んだ魚の眼だつて照らせば光る物だが、足許を瞠めて硬直した儘、終業時閒に達する迠、假死狀態を平氣で續けるネズヲの瞳には何の濟ひも勿い。思春期のレジスタンスにしては遲過ぎるオッサンの默否權。言論や表現の自由以上に、沈默の自由程厄介な物は勿い。自分の揭た叛逆を支へ切る丈けの膂力も勿い癖に、良くもまあ此處迠、抗ひ續ける事が出來る物だ。内気で自分の容姿や智力を羞づかしがつてゐるのなら未だしも、臆病な自分と卋閒への嫌惡感を合理化し、健氣に生きる事を放棄した儘、敗者復活に廻らうともし勿い此の强情な怯懦。死に度く勿いから生きてゐる。其れ以外に何も勿い、腐り切つた虛無。要するに此奴は、徹底的に見下し、逆恨みしてゐる筈の卋の中に甘え、其の脛に武者振り憑いてゐるのだ。こんなモラトリアムの失敗作を雇つてゐるのだから、内の會社も難民のセーフティネットとして社會的に機能してゐると云ふ事か。其奴は誠に結構な事だが、實際にネズヲの卋話を押し附けられてゐる、後見人の身にも爲つて吳れ。

 從順で無氣力な現代人の拔け殼を、俺は星の數程見て來た。本當は働き度くも勿い3Kの會社に迷ひ込んできた競爭社會の子羊は、適當な雜用で遊ばせて置けば、過酷な労働環境に耐へ切れず、此處も自分の居場所では勿いと、身の程を知つて自分からフェードアウトしていく。其れがネズヲには一切通用し勿い。我が社が誇る、粉塵と機械油で汚染された屈辱的な屑鐵の牢獄には、奇妙な免疫力と耐性を發揮して、社員と云ふアリバイ造りの塹壕に自ら窒息し、持久戰を挑む不思議な脫走兵。溶接トーチやハンマーを握るのも、鋼材を運んで寸法切り爲るのも、支給された作業服を著てゐるのも、總ては此の會社の業務に擬態化してゐる丈けで、後は何一つ望ま勿い。こんな生き方を器用と呼ぶ可きか、無器用と呼ぶ可きか。そんなに獨りが良いのなら、人類を信じられず、卋の中に倦んざりしてゐるのなら、無人㠀で自給自足するなり、山寺にでも出家して法體と成るなり、無神論の神を目指して銀河系から出て行くなり、其れ相應の身の振り方が有る筈だ。ウチの田舍の山奧を步けば、卋を捨てた變はり者のサバイバルハウスなんて、幾らでも轉がつてゐる。野に降りて魂の安賣り等せず、氣髙く獨りで其の生を全うすれば良い物を、文明社會の人付き合ひはスルーして、文明の利器には肖り度いと云ふのだから圖圖しいにも程が有る。何故、態態、人里に居座る目障りな生き方で、他人に己の孤獨を押し附けるのか。氣が知れ勿い。此の人生の否定主義者に、己の所業を言語化して整理し、客觀的に俯瞰する事何て不可能だ。此の腐り切つた卋界に生きてゐる眞面な人閒は、己獨りの積もりなのだらうが、人閒社會の養分を啜つて生きる限り、蚤と虱の同屬嫌惡でしか勿い。己の存在のパラドクスに氣付かずに、一匹狼を氣取る針鼠の逆立てた、御門違ひなルサンチマン。本人は十字架を背負ふ苦行僧氣取りで、髙潔な生き方を爲てゐる積もりなのだらうが、取り敢へず鬱陶しく、迷惑だ。被害者面と云ふのは恆に、加害者の分厚い面の皮で出來てゐる。

 此の全人類に齒向かふ無言の叛逆者には、勞働の憙びも、向上心も、會社への忠誠も勿い。仕事を覺え、手際良く捌ける樣に爲ると、其の分、新しい仕事が増える事を熟知してゐるからだ。溶接を爲て滓を取る丈け。其れ以上は極力遣らずに濟む樣に、呆れる程、愚鈍で存り續ける。政治的サボタージュですら勿い計畵的無氣力と、自分の缺點を幾重にも曝け出して防御する、恐ろしい生存戰略。無用の用も此處迄來るとテロだ。何の未來も見出せぬ社内自滅テロ。ネズヲは無駄に張り詰めた警戒心を發散し乍ら、凡ゆる責任を退け、いぢけた自分のルールの中丈けで生きてゐる。癒やされる事の勿い心の傷を堪へ忍んでゐる樣には迚も見え勿い、世閒と己自身に對する無盡藏の嫌惡と歪な努力。敗北の美學とは程遠い其の暗鬭を續けて、善くぞ此處迄、セルフネグレクトにも陷らず生き延びてきた物だとは思ふが、所詮、穴から出てきた蚯蚓の冒險だ。卋閒と云ふ灼けたアスファルトで干涸らび、腐臭を放つてゐる事に變はりは勿い。

 終業のチャイムに振り返ると、何の進歩も勿く、遣りつ放しの仕事を殘して、案の定、ネズヲは煙の樣に退社してゐた。甘い蜜の吸えるポジションで背任行爲を繰り返すのがブラック社員だが、ウチの會社の樣なドン底の袋小路で幽靈社員を決め込むのだから相當な逸材だ。餘計な殘業でネズヲの手直しをし、一日を〆る殘念なルーティーン。地縛靈を背負ひ込んだ、報はれる事の勿い疲れを引き擦り乍ら、晚酌の肴を求めて家路をさ迷ふと、コンビニの棚に並ぶ週刊誌に紛れて、「部下が心を啓く七つの習慣。」と云ふタイトルが俺に向かつてニヤついてゐた。食べて瘦せると豪語するダイエット詐欺に、億を謳つた貯蓄術と投資術、腰痛解消三分ヨガと肩甲骨剝がしに、エリートアスリートの金言輯。安物の疑似餌を埀らして消費者を誑し込むマーケティングの禿鷹達が、今夜も首を長くして犇めいてゐる。スナック菓子感覺の、こんな其の場限りで讀み捨てられる本を手に取る聯中は、古典や曆史的文獻なんて讀んだ事の勿い活字音癡だ。頁を繙く迠も勿い。どうせ、

 「駄目な部下は居勿い。駄目なリーダーが居る丈けだ。」

 何ぞと書いてゐるのだらう。そんな上つ面の言葉で事が足りるなら、俺がネズヲを飼ひ馴らせ勿いのも、俺が駄目なのぢや勿く、俺の上司と會社が駄目だと簡單に責任轉嫁が出來る。そんな無責任な云ひ種が法廷で通用するのなら、

 「人が人を殺せる樣に造つた神が惡い。」

 と殺人犯が訴へれば、何人殺しても無罪だ。言葉と物事には表と裏が有るのに、表だけを眞に受けるのは、何も聞いてゐ勿いのと變はら勿い。

 「缺點を矯正するのでは勿く、正しい方向へ導くのでも勿く、部下の可能性を信じて引き出すのが上司の仕事。」

 「襃めて伸ばせば信頼關係も築けて一石二鳥。」

 「本人の遣る氣が目覺める迄、何も焦る必要は勿い。内發的動機付けのタイミングを見逃すな。」

 成る程、日頃本を讀まない奴は、こんな耳觸りが良い丈けで何の役にも立た勿い噓に騙されるのか。言葉つて便利だ。「太陽に向かつて芽を伸ばす樣に。」とか火裂いて成長モデルをチラ附かせる似非コンサルタントは、催眠術と錬金術のレトックに氣付か勿い莫迦を轉がすの仕事だ。詐欺師つてのは人を騙してるんぢや勿い。自分から進んで勘違ひをする、御目出度い奴を數へてる丈けだ。人類つて奴は一番最初にインプットした情報を精査せず、トコトン信じて服縱する。其れが動物の本能、刷り込みで在り、權力者が応用する常套手段、プロパガンダだ。

 缺點だらけで修正不能だから本當に遣り度い仕事に就けず、正しい方向を人に敎へて貰つても道に迷ふから、働き度くも勿い會社に冷やかしで入社して來るので在つて、墮ちる可くして墮ちて來た者に、一體何んな可能性が有ると云ふのか。アドラーにロジャース、スキナー、カーネマンと心理学者を引き合ひに出して、弱者の人閒讚歌を說いた處で鼠は鼠。こんな綺麗事で御茶を濁してゐる有識者は、便所で自分の尻も拭いた事が勿いのだらう。二束三文の噓を吹聽して活字化してゐる暇が有るのなら、先づ俺の可能性を何うにかしやがれ。少なくとも、ネズヲの才能と可能性を引き出せる場所は、ウチの會社ぢや勿い。人類の絕滅した地球か、居酒屋のポリバケツの中だ。そんな微に入り細を穿つリクルート情報誌が有るのなら誰も苦勞し勿いし、抑も、人閒關係で惱んでゐる奴は、他者と折り合ひが附か勿いのでは勿く、自分自身と折り合ひが附いて勿いので在つて、俺の害獣關係とは次元が違ふ。

 或る意味ネズヲは面白い男だ。彼の腐つた果實は只のニヒリストぢや勿い。どうせ、ちつぽけな絕望に躓いた丈けの癖に、王族クラスの不貞腐れた態度を取れるのだから、恐れ入谷の朝顏市は、呆れて酸漿市の後。初めて遭遇する奇異な存在は、往往にして其の時代や社會を象徵してゐる物だ。若し奴が、神に依る實驗のモルモットで、人類の鍵を握つてゐるのだとしたら、卋界を濟ふのか、止めを刺すのか。ネズヲの精神的去勢にも何か、糞みたいな意味が有るのかも知れ勿い。前卋紀なら此の手の孤獨と云ふ自己愛の奴隸は、病氣、不眠、譫妄のトライアングルを冥走し、犯罪者か革命の捨て駒で終はつてゐた筈だ。其れがネズヲの手に掛かると、罰ゲームの樣な社内テロに幼兒返りするのだから、人閒の自意識つて奴は不思議な塊だ。

 自己愛と自己嫌惡の相克と云ふ、二匹のネズヲの狹閒で軋む無意識の力學。自ら會社組織の一員と爲つた癖に、獨りに爲り度い。そんな自己矛盾の獨り芝居を怨じ續けた處で、自閉とは外の卋界に助けを求める心の裏返しでしか勿い。本當は構つて慾しいが、其の素振りを見せたら負けと云ふ、己を騙すマインドゲーム。そんな煩はしい事を爲てゐる位なら、人生の不條理を笑ひ、不完全な神の失敗作から、快く御然らば爲れば良い物を。此の下賤な社會から逸脫し、假の宿りで在る己の肉體の牢獄を捨て去つて、神聖な本質を手に入れる。物質卋界の無法な掟では勿く眞實に從ふ、沙漠の蜃氣樓に神を見出したグノーシス派の恍惚。實に結構な話しだと思ふが、ネズヲの專守防衞に徹した引き籠もりは、何う見ても己の肉體と現卋に固執してゐる。彼の擧動不審で凝り固まつた瞳の奧に、崇髙な精神卋界なんて在る譯が勿い。奴の原理原則は、神が居勿いのだから何を遣つても構は勿い、と云ふ身勝手な無神論だ。其れは自己責任で結束したアナーキズムですら勿い。こんな蟲の良い卑怯者が何の爲に今を生きる必要が有るのか。何を心の支へにし、何んな偶像を拜んでゐるのか。ネズヲの魂は何に服縱し、悔い改めるのか。斯う云ふのに限つて、小便みたいなアニメを觀るの丈けが樂しみで生きてゐたり爲るのだから、眞實つて奴は時に空つぽの酒樽だ。

 卋界一に成つたチームと選手に憧れ、海外でプレーする事を夢見、小學校卒業と同時に親元を離れて强豪校へ越境入學し、どんな嚴しい指導にも淚を堪へて附いて行き、試合に出る爲、サッカーを續ける爲に靑春の總てを捧げ、サッカーを通して其れ其れが自立し、生涯現役で繫がり續ける。ネズヲも俺も、そんな選手達とは全く別の生き物だ。日本一の製罐工に、世界一のエンジニアに成り度い。沈沒寸前の此の國の製造業を立て直す何て大志を持つて、ウチの會社に入社する莫迦はゐ勿い。燃え盡きる事の勿いモチベーションを始めから持ち合はせ、一點の目標に向かつて邁進する選手を指導するのと、抑も、こんな會社で働き度く勿い、競爭社會で揉まれ度く勿い、永遠のモラトリアムのリハビリに從事のとでは、敎育と医療程の違ひが在る。週末に試合を熟し乍ら、サッカースクールで子供達を敎へ、選手も生徒も共に學ぶ憙び何てウチの會社には勿い。然して其れは、ウチ丈けの話しぢや勿いだらう。

 社會の嚴しさと己の醜さに打ち負かされた、ネズヲの有りの儘を愛して、其の心を釋き解すのは、御釋迦様やキリストの仕事だ。惡魔に神父が說敎を爲て通じるのはハリウッドホラーの臺本の中丈け。氷點下の心を灯す爲に幾ら燐寸を擦つても、指を火傷するのが落ちだ。タイムカードを押し逃げするブラック社員の中でも、此奴は筋金入りの黑だ。烏を幾ら洗つても白くは爲ら勿い。ネズヲに必要なのは再敎育ぢや勿く、開頭手術だ。薄つぺらな自我を張り通す爲に、人の優しさに背を向け、無樣に成長したリアルな大人の姿。腐つてゐやうが壞れてゐやうが、メンタル何て所詮、メンタルの問題だ。自分でバラバラにした心のパズルは自分でしか直せ勿い。元々何んな原型だつたのか、本人ですら判ら勿くなつてゐる物を、俺に何うしろと云ふのか。知的好奇心をフル稼働し、此の壞れた玩具を楽しむ余裕何て、今の俺にも、明日の俺にも、明後日の俺にも勿い。現實の人心掌握は、駄目な奴の中から少しでも增しな奴を選び、希望を持たずに我慢する事だが、こんな笨骨に態々懇切丁寧に謙る程、俺は御人好しぢや勿い。穀潰しに優しい噓を竝べる位なら、舌を嚙み切つた方が増しだ。俺だつて己を生き寫した樣に、卑劣で懦弱な此の卋の中が憎い。其れでも俺はネズヲとは違ふ。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧 ※ログインせずに感想を書き込みたい場合はこちら
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。