記憶のオーバーロード   作:wash I/O

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第1話 乖離する二つの自己

「……女子供は追い回せるのに、毛色が変わった相手は無理か?」

 

と口にした時点では、サトルはまだ自分が魔王(ロール)を演じていることに自覚的だった。

 

 

 異世界への転移……としか表現のしようのない理解不能な事態に巻き込まれて以来幾日経ったか。

 今自身が見、聴き、嗅ぎ、感じているこの世界が、鈴木悟の肉体がゲームコンソールを通して体験している仮想空間である可能性を、サトルは疾うに放棄している。

 主観時間で一週間以上、食事はおろか睡眠すら必要としなかった事実は、少なくとも一連のこれがユグドラシル、またはその後継サービスではあり得ないことを(あかし)していたし、それにもまして、自我を持ったかの如く言動し始めたNPC(しもべ)たちとの、諸々困惑させられつつも心地よい触れ合いが、ゲームの設定が丸ごと異世界において現実化した、という突拍子もない仮説に信憑性を与えていた。

 

 だがしかし。

 

 まだどこかでサトルは、この説明し難い体験が、どこかの誰かによって巧みに仕組まれた仮想世界の演出に過ぎず、肉体の鈴木悟もまた何らかの手段で生存し続けさせられている、という考えを捨て切れずにいた。

 

 否、そのように考えたがっていた。

 

 この事態を説明し得る何者かがいるに違いない。そう思えばこそ、転移直後のしばらくは、GMコールを始めとする、その何者かと接触せんとする試みに多くの時間を割いた。そしてそれらがことごとく功を奏さなかったことが、痛くサトルの心を傷つけていたことは否めない。

 

 問題は、責任の所在である。

 

 サトルの問いかけに応答がないことは、この事態に責任を負うべき何者かの責任放棄に他ならず、そして、仮に応答すべき者がこの世界のどこにもいないのだとすれば、責任の所在は無為に問いかけ続ける彼自身に帰してしまう。それが俄には受け入れられない彼は、果たして存在するのかどうかもわからない架空の責任者に対し、行き場のない苛立ちを募らせ続けた。

 そしてどこかの時点で彼が、

 

 上等だクソ運営!そちらがこちらの呼びかけを一切無視するというのなら、オレも勝手気ままに魔王役を続けてやろうじゃないか!

 

と、半ば逆ギレ的な気分に陥ったとしても、誰もそれを責めることはできまい。

 

 この世界における初の実戦相手に選んだ全身甲冑(フルプレート)姿の騎士達(キャラクタ)に対して、特段その必然性もないのに煽り混じりに放たれたかの台詞は、彼のそのような心理を背景にしていた。

 同時にそれは、この世界がゲームの延長線上では決してあるまい、ということをほぼ受け入れているにも関わらず、サトルの基本的な思考様式が、いまだゲームの延長線上にあったことを意味している。

 事実、<転移門(ゲート)>を潜り抜ける僅かな時間の間に彼は初手の決断を済ませていたが、外見から判断して人間種、レベル不明の相手を転移強襲(ブリッツ・クリーク)するに当たり、標的(ターゲット)を定める時間コストが比較的小さく、かつ、基本即死で、仮に耐久(レジスト)されたとしても意識朦朧効果を与えて撤退の数(ターン)を稼ぐことができる第九位階死霊系魔法、の選択に至る思考様式は、ユグドラシルにおけるPK戦の極々基本的な戦術理論に基づいたものであり、この時点でのサトルは、その判断に何の迷いも疑いも感じてはいなかったのである。

 

 唯一の不安は、果たして、自分が使えると信じており、実際地下大墳墓(ナザリック)内で繰り返しおこなった実験においても間違いなく見た目(じょう)は発動してみせたユグドラシルの魔法が、期待通りの効果を発揮するのか、という不確実性だった。

 

 だからこそ自分は、介入を決断しここへやってきたのだ。

 

と、サトルは自分に言い聞かせる。

 

 実際のところは、遠隔視の鏡(ミラー・オブ・リモート・ビューイング)越しに気づいた村人に対する騎士の虐殺行為に一旦は不介入を決めたものの、自身に投げかけられた執事(セバス)の物言いたげな視線の背後にかつての恩人(たっち・みー)の影を垣間見て、自分もまた恩人の信条であった「困った人がいたら助けるのは当たり前」に従うのだ、という、いささか子供じみた思いに駆られてしまったからだ、ということは、自分でちゃんとわかっていた。

 

 が。

 

 だからこそ、後付けでも何でもいいから合理化は必要だ、とサトルは考える。

 

 思いだけに端を発した行動は、その思いが裏切られたときに迷いとなり、いざというときに判断を遅らせ、ときとして致命的な敗北の一因となり得る。理にかなった戦術行動は、たとえ期待外の事態に陥ったとしても、事前にそのことを危険度(リスク)として見積もってさえいれば即座に対処可能であるし、仮にまったく想定外の事態に陥ることがあったとしても、それもまた危険度(リスク)として受容している限りにおいては、計画的な即時撤退は決して壊滅的な敗走にはなり得ない。

 

 といったことを優しく諭すように教えてくれたのは誰だったか……突如目前に乱入した髑髏姿の怪物(モモンガ)に狼狽する騎士の様子を傍目に留めつつ、サトルは不意に浮かんだ感傷を一旦脇へ置いて、既に自身の中では確定事項となっている行動を開始する。

 

 果たして、自身の魔法はこの世界の住人に通用するのか、の実験。

 

 ユグドラシルにおける魔法の発動は、右手の複数の指で操作するポインティングデバイスと、プレイヤーからは階層リング型メニューとして視認されるフィードバックによって制御されていた。

 もっとも、サトルのような上級プレイヤーは最早メニューの視覚情報になど頼ってはおらず、特に多用する得意魔法ともなれば、無意識のうちに発動に必要な指の動き(モーション)が再現できたものだ。

 

 繰り返した実験でわかったことではあるが、この世界における魔法の発動プロセスも、主観的な体験においてはユグドラシル時分と大きな差はない。少なくともサトルはそう感じていた。

 

 魔法は、残りMP(魔力)やリキャストタイム等、発動条件さえ事前に満たされていれば、やはり階層的に記憶内に整理されている目的のそれへと強く意識を向けることで自動的に発動される。

 敢えて言葉にするならば、その感覚は「つなぐ」と表現するのが最もしっくり来るように思われる。

 このとき、右手の指がやはり無意識のうちにポインティングデバイスを操作すべく宙を掻いているのではないか、サトルはそう思い実験に際して自身の骨の指を注視してみたが、不思議とそういうことは起こらなかった。

 

 代わりに、そのようにしたいと意識しているわけでもないのに、魔法の発動が始まると、必要なコストを承認して無詠唱(サイレント)を選択している場合を除き、魔法の名称が言葉として口腔から紡ぎ出される。

 

 そう、こんな具合に。

 

「<心臓掌握(グラスプ・ハート)>!」

 

 初めてこれを体験したとき、何か(あらが)いようのない力に自身の体が支配されているように感じ、サトルはひとときの不愉快を覚えたが、少し考えて、鈴木悟として過ごした日々においても同じようなことが多々あったことを思い出した。

 

 たとえば、足早に退勤していく上司の気配を背後に感じたとき、意識して何かを伝えたいワケでもなく、ましてや心からそう思っていることなどあろうはずもないのに「お疲れ様でしたぁ」と発する自分の声が聞こえていたではないか。

 アレは誰かに言わされていたのだろうか。それともあの世界固有の未知の法則か何かに拘束されてのことだったか。そんなことを語り合ったのは、被酷使(ブラック)会社員仲間の同志ヘロヘロだったか。

 

 とまれ、魔法の詠唱もそれと同じだと一度思ってしまえば特に気にもならなくなった。むしろ意識的に無詠唱を選択できるだけこの世界の魔法の方がましかも知れない。

 

 同様に、概ねユグドラシルにおける魔法に付随する演出(エフェクト)に一致するが、それぞれの魔法に固有の身体の挙動が強制されることも確認済みだ。これについても、何度試してみてもまったくサトルの意思では抗うことはできなかった。

 火炎系の魔法であれば標的に向かって右手の掌を開くことになるし、雷撃系の場合はそれが指差しに替わる。これについてもサトルは、電話越しに得意先からの苦情を承るに際し、詫びを口にしながら意味もなく相手には見えない腰を折ることがあるよな、とやはりヘロヘロと語り合ったのを思い出して受け入れることにした。

 

 一方で、こちらには無条件に受け入れ難い要素があることにも、サトルは気づいていた。

 

 たとえば、無属性の強大な打撃力と原則回避不能の決定性を好んで、彼が多用してきた第十位階魔法<現断(リアリティ・スラッシュ)>があるが、これを発動すると右手が手刀の形を採り、自身の向かって左下(ひだりした)から右上(みぎうえ)へ向かって振り抜かれる動作(アクション)が強制される。

 体性感覚のフィードバックを欠くユグドラシルにおいて、これが対戦相手から見てどうであったかはともかくとして、サトル自身からすると視界中程を骨の腕のアニメーションが一瞬通過するだけのことであり、実のところ、今日(こんにち)に至るまでやっている本人自身、そのような演出があること自体明確に意識していたわけではなかった。

 が、その骨の腕が紛うことなく自身の腕として体感されるようになった今となっては、思いの外大きく体全体が振られて不意にバランスを崩してしまうし、それこそ<飛行(フライ)>の魔法と併用して発動でもしようものなら、一瞬なりとも気を抜けばたちまち空間識失調(バーディゴ)に陥るのは免れまい。

 

 ユグドラシルにログインしていなくとも、具体的な戦闘状況を想起すれば、無意識のうちに最適な魔法発動に必要とされるモーションを右手の指で再現さえできたサトルなればこそ、この気づきは衝撃的であった。

 

 たちまちにそのような事態が起こり得るか、はともかくとして、実力の拮抗する相手との撃ち合いになった際、この一見何でもない差異が致命傷にならないとは言い切れない。

 仮に撃ち負けたとして、この世界における戦闘上の敗北が何を意味するのか、HP(生命力)が尽きれば自分は死ぬことになるのか……そもそも今のサトルは自分が果たして、生きている、と言えるのかについても今ひとつ確信が持てないままでいるので、その辺りについては切迫した危機感を感じることが出来ずにいるのであるが、ユグドラシル非公式ラスボスの(ふた)()をほしいままにしたその矜持が、アインズ・ウール・ゴウンのギルド長たる者、万が一の敗北もあってはならない、との半ば脅迫的観念を彼に与えていたこともまた事実である。

 

 目下の戦いで魔法の効果のほどが確認された暁には、ユグドラシル時代から培った戦術の、少なくとも一部については抜本的な見直しをおこなわなければならないだろう。と、サトルは、さも生得的な自然な動作であるかのように前方に向かって大きく開いて突き出された自身の骨の指を視界に捉えながら、漠然と考えていた。

 

 

 

 最初の違和感を覚えたのは、そのときだった。

 

 サトルは、突き出した掌に、確かに体温を感じた。

 

 厳密に言えば体温よりやや高目。決して生理学の十全な知識を持っているわけではない彼であっても、それが今まさに彼が握り潰さんとする騎士の心臓の温かみであることは本能的に理解できた。

 

 続いて力強くも儚げなその拍動を感じたとき、今までに感じたことのない、俄に言葉で言い表し難い激しい情動が彼を襲った。

 

 一瞬、これから自分がしようとしていることに躊躇いすら覚えるが、超位魔法を例外として、一旦使用を決断した魔法は自身の意思ではその発動を中止(キャンセル)できないことは実験で確認済みだ。

 

 賽は既に投げられたのである。

 

 サトルの心中の葛藤とは無関係に、骨の手の平は定められた演出(エフェクト)に従い、掌中の温もりを何の躊躇いもなく握り潰した。骨の指の隙間から熱を帯びた血液……生命そのもの、がこぼれ落ちていくのを感じると、なお増してサトルの心は揺り動かされた。

 

(……何だコレは?まさか、そんな!)

 

 目前では、あっけなく命を刈り取られた甲冑の騎士が声もなく、ただ鎧の噛み合う音を立てながら膝から崩れ落ちる。

 しかし、転移以来最大の情動に心を揺り動かされたサトルには、その光景は大した感慨をもたらさない。ただただその情動に対して自ら立てた仮説を立証すべく、次なる行動を起こす。実験台とするに憚る必要のない甲冑の騎士がもう一人居たことは幸いだ。

 

「<龍雷(ドラゴン・ライトニング)>!」

 

 魔法の選択自体にはさほど深い意味はなかった。

 

 さきほどよりも幾段か位階の劣る第五位階魔法。

 これは当初から考えていたことで、第九位階魔法が有効であった場合、この世界で通用する攻撃魔法の下限を測るべくそうすると決めていたからだが、その生命を奪って直感的に把握した脆弱さからすれば、第三位階ですら必要十分であったかも知れない。

 二人目の騎士はそもそもやや後方に控えていた上、同僚の何ら抗うことも出来ないままの昏倒に惑乱し、既に背中を見せて逃げに入っていて少し距離があったが射線(しゃせん)は開けている。こうした場面において、直線的に攻撃の通る雷撃系魔法による追撃はセオリー通りだ。

 

 そしてこの際は、この魔法が呪術的にとは言え相手の肉体に直接接触して破壊する死霊系攻撃魔法とは異なり、魔力によって励起せしめた純然たる物理現象で以て威力を発揮する魔法であること、にサトルとしては意味がある。

 

 骨の指先から放たれた一筋の雷撃は過つことなく甲冑の騎士の背から入って腹側へと一気に貫いた。余勢はたまたま同一線上(どういつせんじょう)にあった随分遠くの立木へと至り、たちまちにそれを炎上させる。騎士の甲冑の隙間という隙間から白い煙が漏れ出していて、その中身の惨状を想起させた。即死か否かはともかく、最早再起は叶うことはないだろう。事実、次の瞬間には先程の同僚同様に力なくその体は膝から崩れ落ちた。

 

 だが、サトルが衝撃を受けたのは、自ら現出させたところのその光景ではなく、彼の肉のない鼻腔がどのような機序によるものか感じ取った、騎士の体が焼ける(にお)い……否、甘く蠱惑的で逃れがたい芳香、だった。より正しく言うならば、その()も言われぬ、としか表現のしようのない香りに対して、自分が……サトルはそれが真に自分の思いであると受け入れ難かったので、ここは、モモンガが、とすべきであるかも知れない……がどのように感じたか、にであった。

 

 死霊系魔法が特別だったのではない。

 

 手づから殺したことに意味があったのでもない。

 

 殺す手段は問題ではなく、殺すという行為、そして齎される「死」こそが本質だ。

 

 それは最初の騎士の心臓を握り潰した際に生じた情動に対して瞬時に浮かんだ……転移以来薄々とそのことを感じてはいつつも素直にそれを認めることができなかった……サトルの仮説を、立証して余りあるものだったのだ。

 

 そのことに耐え切れず、体を翻して騎士の遺骸から目を逸らすと、結果的に今しがたサトルがその危急を救ったことになる、姉妹であろう二人の村娘が視野に入る。

 

 最早それは確信に至った。

 

 サトルとモモンガは、まったく異なる思いを抱いていたのだ。

 

 

 

 この混乱の最中、サトルは、思いにかられての行動の危うさを優しく諭すように教えてくれたのが、死獣天朱雀であったことを思い出す。それは言葉そのものの印象に反して、決して鈴木悟を嗜めるべく発せられた言葉ではなかった。

 

 ギルド長の地位に推されて再三それを固辞していた折、個人的に接触して来た彼からゆっくりと噛みしめるように伝えられたそれを、サトルはその含蓄深い優しげな口調も含めて思い出すことができた。

 

「モモンガさん。キミは自分で思っているよりもずっと大人だよ。」

 

 ギルドメンバー中最高齢とされていた死獣天朱雀にそう切り出され、サトルは虚を()かれた気がしていた。

 

「誰もが認めるギルドの実力者、たっち・みーさんやウルベルトさんも、口ではいろいろと取り繕いはするが基本的には思いにかられて行動に移し、予想外の反応に裏切られて傷ついてしまう人だ。かと言って、何でも理詰めに組み立てて、計らずも相手の逃げ場まで奪ってしまう、ぷにっと萌えさんのような人ともキミは違う。」

 

 その言葉には反論し難い重みがあった。

 

「キミは、関わる(みな)の思いを守る、ということを戦術目標に立てることができる。そういう人だ。さながら魔法効果範囲拡大化(ワイデン・マジック)での標的複数化(マス・ターゲティング)のように。それでいて、高次の戦略目標に叶わないときは個々の戦術目標を取捨選択できる。これはなかなか一朝一夕にできることじゃぁないよ。意識せずにやっているなら、それこそ天賦の才というヤツさ。一癖(ひとくせ)二癖(ふたくせ)もある面々の集まったギルメンの中でも、キミがそこに最も長けていることに、キミ以外の誰もが明に暗に気づいているよ。キミはそのことに、もっと自信を持っていいと思うのだけどねぇ。」

 

 この会話が決め手の一つになって、鈴木悟は長く固辞し続けていたギルド、アインズ・ウール・ゴウンの長の地位を受諾した。

 

 真実のところは知らないし実際のところ彼自身はあまり興味もなかったが、リアルでは大学で教鞭を執っているとの触れ込みの人物からこのような評価を受けたことを、鈴木悟はとても誇らしく感じたし、それにも増して、それまで無意識のうちに自分が採っていた……正直褒められたものではないと思っていた人付き合いのあり方に思いがけないポジティブな意味付けが与えられ、それが自覚的に意識されるようになったのが嬉しかったし、後日親しかったペロロンチーノにだけは自慢気(じまんげ)に話してしまったほどだ。

 

 結果的には、ギルメン皆それぞれの、リアルに対するそれも含めた思いを何一つ傷つけまいと大切にし続けた末、ただ独りナザリック地下大墳墓の維持に孤軍奮闘する日々を送ることになったのだから、幾分かは自己欺瞞的ながらも彼自身がそれを粛然と受け入れていたとは言え、死獣天朱雀が鈴木悟に見出した善性が、彼にとって本当の意味で良いものであったかどうかについては、いささかの疑問が残るのではあるが。

 

(死獣天朱雀さん。オレはそんな出来た人間じゃないですよ。)

 

 サトルは独りごちる。

 

 死獣天朱雀が評してみせた通り、確かに彼は自身の思いに呑まれて目先の判断を誤ることがなく、アインズ・ウール・ゴウンのまとめ役、調整役として活躍したし、転じてゲーム戦術における冷静緻密な先読みとリスク管理に天賦の才を示したし、それを自らも認めていたし、その立ち位置とプレイスタイルゆえに、ユグドラシル非公式ラスボスの(ふた)()までをも得た。

 

 が、今はどうしたことだ。

 

 誰かの思い、どころか自分自身、モモンガの思いを読み違え……否、端から無視した……否、直視することから逃げ続けた挙げ句にまったく想定外の事態に陥って、最早潰走するしかない状況に追い込まれているではないか、クソが!

 

(オレはそんな出来た人間じゃ……)

 

 再び同じことを反芻しかけてサトルの背に冷たいものが走る。

 

(……そもそも今のオレは、人間なのか?)

 

 ほんの少し前まで……そう、少なくとも「女子供は追い回せるのに、毛色が変わった相手は無理か?」と嘯いた時点まで、サトルは、異世界転移でいろいろと変わってしまい、肉体の鈴木悟に戻れるか、どころかその生死すらわからなくなってしまってはいるけれども、自分自身がユグドラシルプレイヤー、人間・鈴木悟であること、あり続けていること、今後もあり続けること、に疑問を抱いてはいなかった。

 

 が、最早その確信は脆くも崩れ去った。

 

 今自分が、モモンガが、目前の二人の村娘に(いだ)いているこの思い、がその証拠だ。

 

 サトルはまったくもってそれを承服し難いにも関わらず、モモンガはそれを至極当然のこととして渇望すらしていた。

 

 そして、それらはいずれも疑いなく、サトル=モモンガ、同一人物の思いなのである。

 

 乖離は破綻寸前だった。

 

「準備に時間がかかり、申し訳ありませんでした。」

「実に良いタイミングだ、アルベドォ!!」

 

 だからサトルは、まさに自身が破綻を迎えようとしていたこのときに、漆黒の全身鎧(ヘルメス・トリスメギストス)を身に纏い<転移門(ゲート)>を潜って現れた救いの船に、無様にもすがる他なかったのである。

 

 

                    *

 

 

 遅れて<転移門(ゲート)>を潜り抜け、予期した通りに愛しい己が(あるじ)の姿を認めたナザリック地下大墳墓守護者統括にして女淫魔(サキュバス)アルベドは、いささか困惑していた。

 

 よもや(あるじ)が、自身の内部に乖離する二つの自己を抱え込み悶え苦しんでいることなど知る由もない彼女ではあったが、自身の中に相反する二面性を抱え込んでいるという点においては、彼女もまた(あるじ)に引けを取るものではない。

 

 その二面性の一方、知性のパラメータを極大に設定されたがゆえの冷静沈着なる奸智は、(あるじ)モモンガのただならぬ様子を素早く察知していた。

 

 そもそもからして、この未だ全貌の把握し切れぬ世界について最も慎重論を説いていたのは他ならぬモモンガ自身であったにも関わらず、そのモモンガが下僕(しもべ)達に諮ることもなく、後詰めのみを執事に言伝(ことづ)てして単騎の出陣に及んだことが、知の下僕アルベドとしてはまったくもって理解し難い異常事態であった。

 

 一見したところモモンガはいかなるダメージをも被っているようには見えないし、端からそんなことはあろうはずはないと考えてはいたが、それにしても様子がおかしい。

 表情を欠く骸骨の相貌からはたちまちにその内面を読み取ることは難しいものの、常に(そば)近く仕え、かつ、手づからにモモンガを愛すよう命じられたアルベドなればこそ、(あるじ)の細微な立ち振舞から、今のモモンガが、その原因はまったく想像がつかないながらも、普段の威厳と慈愛に満ちた彼とはまったく異なっていることは容易に見て取れた。

 

 どころか、彼女の愛する(あるじ)は、まるで何か追い詰められ、ありえないことではあるが、怯えているようにすら見える。

 

 思えば、主だった守護者を集めて幾度となく繰り返された討議の場において、自分たち以外のユグドラシルからの転移者の存在を仮定した上で、当面の間は部外者の前で互いの真名を呼び合うことを慎むよう命じたのもまた、他ならぬモモンガではなかったか。

 ゆえにアルベドもまた、遅参を復命するに際し愛しく尊き御名(みな)を口にすることを惜しみつつも憚ったものだが、対する(あるじ)は、アルベドの姿を認めるや、何の知性も脅威も感じぬ村娘二人のみの前とは言え、紛れもない部外者の前でアルベドの名を大声で呼ばわるではないか。

 

 これが、ただごとでなくてなんであろうか!

 

……と、冷静に状況を分析しつつも、彼女のもう一つの一面、すなわち遮二無二モモンガを愛する情深き一人の女、そうあれと命じられた存在としてのアルベドは、己の名を声に出して(あるじ)に呼ばれた、ただその一事によって、あらゆる危惧をすべて帳消しにして無上の喜びに浸ってしまっていた。

 

 その声色は、母を求める幼子であるかのような不安を内包しており、それは恐ろしくアルベドの庇護欲を掻き立てた。足元に泥臭い田舎娘二人が転がっていることが画竜点睛を欠く感がなきにしもあらずではあるが、少なくともこの場にはシャルティアやアウラといったモモンガに対する恋敵(ライバル)はおらず、しかも自分の名を呼ぶモモンガのその声色は、それが如何様(いかよう)な意図によるものであれ明らかにアルベドを強く欲し求めている。いささかあるべきロマンチックさが足りないような気がしなくもないが、鬱蒼とした森の中での青姦、転がり焼け焦げる死体、大いに結構。此処で己の初めてを愛する至高の主へ捧げても、よろしいのではないでしょうか?

 

 と、本来守護者統括として期待されており、事実その通りに発揮された無比な状況分析対処能力を、不毛な妄想で綺麗さっぱり上書きし終えたところで、(あるじ)から思いも寄らない、彼女に対する情を欠いた命が下る。

 

「この村を襲っている騎士を殺せ。」

 

 ……はぁ!?

 

 それって、栄えあるナザリックの守護者統括たるこの(わたくし)が、承るようなことでしょうか?

 

「オレはナザリックに戻る。追ってシャルティアを迎えに出す。その間、他に村人を襲う者が現れるようならすべて殲滅せよ。」

 

 アルベドの困惑を余所に、矢継ぎ早に(めい)が下る。至高の御方の御命(ぎょめい)とあらば従うに吝かではないが、彼女の怜悧な知性は、不遜とは知りつつも(あるじ)の判断の合理性に疑問符を呈さざるを得ない。ましてや、

 

「これを村人にくれてやれ。不足するようならばシャルティアに運ばせるといい。」

 

と、いつの間にやらインベントリから取り出された治療薬(ポーション)を手渡されるに至っては、流石のアルベドも盲目的にその(めい)に従うべきか迷いが生じる。

 

 いくら治癒系としては最低レベルのアイテムとは言え、ナザリックに何らの益ももたらしそうにもない人間どもに、分不相応にもくれてやる云われはあるまい。第一、未知の勢力に我が方の情報を不意に与えてしまうことのないよう、どんな些細なものであれ我々の存在の痕跡を残さぬよう留意して行動せよ、と命じたのもまた、他ならぬモモンガではなかったのか。

 

「お言葉ですが……」

 

 彼女の純粋に知的な部分が、流石にこれは、と抗弁を試みさせるが、その言葉は中途で、まったく耳を傾ける様子もなく既に帰路の<転移門(ゲート)>へ向けてその身を翻しつつある(あるじ)の言葉に遮られる。

 

「くれぐれも無理はするな。勝利が確実でない場合は即時撤退せよ……この上、オマエが僅かたりとも傷つけられるようなことがあれば、オレはこの世界を滅ぼしかねん。」

 

 苛立たしげにそう言い捨てると、モモンガはアルベドを顧みることもなく足早に<転移門(ゲート)>の中にその姿を消した。程なくして、<転移門(ゲート)>もまたアルベドの前から消失する。

 

 かくして、彼女は完全武装で後詰めせよと命じられ、駆けつけてみればまったく納得もいかないことをがなりたてられた挙げ句に、自身には縁も所縁(ゆかり)も思い入れもない地に置き去りにされる体とあいなったワケだが、最早彼女にとってそんなことはどうでもいいことだった。

 

 恐るべきは愛の軛。

 

 再びアルベドの知性のバロメータは真逆の方向へと振り抜かれる。

 

 モモンガ様が、私に傷一つでもつこうものならこの世界を滅ぼしてやる、とおっしゃってくだされた。そこまで……私に自らを愛せよと設定された至高の御方は、そこまで私を愛してくださっている、と。

 

 嗚呼、感無量。

 

 思い極まったアルベドには、傷つけられるのがシャルティアやアウラといった他の下僕であってもモモンガは世界を滅ぼしにかかるだろう、などという、少し考えてみればわかりそうな自明の事実などは既に思考の埒外である。

 

 むしろ、アルベドの女としての悪い一面がむくむくと首をもたげる。

 

(いっそのこと、故意に傷つけられて、モモンガ様が私のためにこの世界を滅ぼすところを見てみたい……)

 

 鎧兜のスリットから遠い空をうっとりと眺め眇めつつ危険な妄想を弄ぶも、不意に知性溢れる彼女のもう一つの一面が、(すんで)のところで手綱を引き絞る。

 

(お優しいモモンガ様のこと。傷ついた私をご覧になれば、如何なる理由があるにせよ私をここへ置き去ったご自身をお責めになり深く傷つかれるはず。その痛みはこの世界を滅ぼそうとも決して癒やされるはずもなく、そうであるならば、そのようなことは断じて起こってはならないことだわ。)

 

 かくして。

 

 壮大な愛の三段論法で以て辛くも世界はひとまず滅亡の危機を脱したのであるが、漸くにして思考がバランスの取れたところで拮抗したアルベドは、そうとなれば行動は早かった。

 

 モモンガから受け取った治療薬の一本の栓を素早く抜くやその中身を、足下で情緒不安定な甲冑女を不安げに見上げて震えている小便(くさ)い村娘二人に無造作に振りかける。そして、たちまちに騎士に斬られた背中の傷が癒やされたことに驚く姉妹の困惑を余所に、高らかにこう告げたのである。

 

「私が屠るべき敵のところへ……案内なさい。」

 

と。

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