「……女子供は追い回せるのに、毛色が変わった相手は無理か?」
と口にした時点では、サトルはまだ自分が魔王
異世界への転移……としか表現のしようのない理解不能な事態に巻き込まれて以来幾日経ったか。
今自身が見、聴き、嗅ぎ、感じているこの世界が、鈴木悟の肉体がゲームコンソールを通して体験している仮想空間である可能性を、サトルは疾うに放棄している。
主観時間で一週間以上、食事はおろか睡眠すら必要としなかった事実は、少なくとも一連のこれがユグドラシル、またはその後継サービスではあり得ないことを
だがしかし。
まだどこかでサトルは、この説明し難い体験が、どこかの誰かによって巧みに仕組まれた仮想世界の演出に過ぎず、肉体の鈴木悟もまた何らかの手段で生存し続けさせられている、という考えを捨て切れずにいた。
否、そのように考えたがっていた。
この事態を説明し得る何者かがいるに違いない。そう思えばこそ、転移直後のしばらくは、GMコールを始めとする、その何者かと接触せんとする試みに多くの時間を割いた。そしてそれらがことごとく功を奏さなかったことが、痛くサトルの心を傷つけていたことは否めない。
問題は、責任の所在である。
サトルの問いかけに応答がないことは、この事態に責任を負うべき何者かの責任放棄に他ならず、そして、仮に応答すべき者がこの世界のどこにもいないのだとすれば、責任の所在は無為に問いかけ続ける彼自身に帰してしまう。それが俄には受け入れられない彼は、果たして存在するのかどうかもわからない架空の責任者に対し、行き場のない苛立ちを募らせ続けた。
そしてどこかの時点で彼が、
上等だクソ運営!そちらがこちらの呼びかけを一切無視するというのなら、オレも勝手気ままに魔王役を続けてやろうじゃないか!
と、半ば逆ギレ的な気分に陥ったとしても、誰もそれを責めることはできまい。
この世界における初の実戦相手に選んだ
同時にそれは、この世界がゲームの延長線上では決してあるまい、ということをほぼ受け入れているにも関わらず、サトルの基本的な思考様式が、いまだゲームの延長線上にあったことを意味している。
事実、<
唯一の不安は、果たして、自分が使えると信じており、実際
だからこそ自分は、介入を決断しここへやってきたのだ。
と、サトルは自分に言い聞かせる。
実際のところは、
が。
だからこそ、後付けでも何でもいいから合理化は必要だ、とサトルは考える。
思いだけに端を発した行動は、その思いが裏切られたときに迷いとなり、いざというときに判断を遅らせ、ときとして致命的な敗北の一因となり得る。理にかなった戦術行動は、たとえ期待外の事態に陥ったとしても、事前にそのことを
といったことを優しく諭すように教えてくれたのは誰だったか……突如目前に乱入した
果たして、自身の魔法はこの世界の住人に通用するのか、の実験。
ユグドラシルにおける魔法の発動は、右手の複数の指で操作するポインティングデバイスと、プレイヤーからは階層リング型メニューとして視認されるフィードバックによって制御されていた。
もっとも、サトルのような上級プレイヤーは最早メニューの視覚情報になど頼ってはおらず、特に多用する得意魔法ともなれば、無意識のうちに発動に必要な
繰り返した実験でわかったことではあるが、この世界における魔法の発動プロセスも、主観的な体験においてはユグドラシル時分と大きな差はない。少なくともサトルはそう感じていた。
魔法は、残り
敢えて言葉にするならば、その感覚は「つなぐ」と表現するのが最もしっくり来るように思われる。
このとき、右手の指がやはり無意識のうちにポインティングデバイスを操作すべく宙を掻いているのではないか、サトルはそう思い実験に際して自身の骨の指を注視してみたが、不思議とそういうことは起こらなかった。
代わりに、そのようにしたいと意識しているわけでもないのに、魔法の発動が始まると、必要なコストを承認して
そう、こんな具合に。
「<
初めてこれを体験したとき、何か
たとえば、足早に退勤していく上司の気配を背後に感じたとき、意識して何かを伝えたいワケでもなく、ましてや心からそう思っていることなどあろうはずもないのに「お疲れ様でしたぁ」と発する自分の声が聞こえていたではないか。
アレは誰かに言わされていたのだろうか。それともあの世界固有の未知の法則か何かに拘束されてのことだったか。そんなことを語り合ったのは、
とまれ、魔法の詠唱もそれと同じだと一度思ってしまえば特に気にもならなくなった。むしろ意識的に無詠唱を選択できるだけこの世界の魔法の方がましかも知れない。
同様に、概ねユグドラシルにおける魔法に付随する
火炎系の魔法であれば標的に向かって右手の掌を開くことになるし、雷撃系の場合はそれが指差しに替わる。これについてもサトルは、電話越しに得意先からの苦情を承るに際し、詫びを口にしながら意味もなく相手には見えない腰を折ることがあるよな、とやはりヘロヘロと語り合ったのを思い出して受け入れることにした。
一方で、こちらには無条件に受け入れ難い要素があることにも、サトルは気づいていた。
たとえば、無属性の強大な打撃力と原則回避不能の決定性を好んで、彼が多用してきた第十位階魔法<
体性感覚のフィードバックを欠くユグドラシルにおいて、これが対戦相手から見てどうであったかはともかくとして、サトル自身からすると視界中程を骨の腕のアニメーションが一瞬通過するだけのことであり、実のところ、
が、その骨の腕が紛うことなく自身の腕として体感されるようになった今となっては、思いの外大きく体全体が振られて不意にバランスを崩してしまうし、それこそ<
ユグドラシルにログインしていなくとも、具体的な戦闘状況を想起すれば、無意識のうちに最適な魔法発動に必要とされるモーションを右手の指で再現さえできたサトルなればこそ、この気づきは衝撃的であった。
たちまちにそのような事態が起こり得るか、はともかくとして、実力の拮抗する相手との撃ち合いになった際、この一見何でもない差異が致命傷にならないとは言い切れない。
仮に撃ち負けたとして、この世界における戦闘上の敗北が何を意味するのか、
目下の戦いで魔法の効果のほどが確認された暁には、ユグドラシル時代から培った戦術の、少なくとも一部については抜本的な見直しをおこなわなければならないだろう。と、サトルは、さも生得的な自然な動作であるかのように前方に向かって大きく開いて突き出された自身の骨の指を視界に捉えながら、漠然と考えていた。
最初の違和感を覚えたのは、そのときだった。
サトルは、突き出した掌に、確かに体温を感じた。
厳密に言えば体温よりやや高目。決して生理学の十全な知識を持っているわけではない彼であっても、それが今まさに彼が握り潰さんとする騎士の心臓の温かみであることは本能的に理解できた。
続いて力強くも儚げなその拍動を感じたとき、今までに感じたことのない、俄に言葉で言い表し難い激しい情動が彼を襲った。
一瞬、これから自分がしようとしていることに躊躇いすら覚えるが、超位魔法を例外として、一旦使用を決断した魔法は自身の意思ではその発動を
賽は既に投げられたのである。
サトルの心中の葛藤とは無関係に、骨の手の平は定められた
(……何だコレは?まさか、そんな!)
目前では、あっけなく命を刈り取られた甲冑の騎士が声もなく、ただ鎧の噛み合う音を立てながら膝から崩れ落ちる。
しかし、転移以来最大の情動に心を揺り動かされたサトルには、その光景は大した感慨をもたらさない。ただただその情動に対して自ら立てた仮説を立証すべく、次なる行動を起こす。実験台とするに憚る必要のない甲冑の騎士がもう一人居たことは幸いだ。
「<
魔法の選択自体にはさほど深い意味はなかった。
さきほどよりも幾段か位階の劣る第五位階魔法。
これは当初から考えていたことで、第九位階魔法が有効であった場合、この世界で通用する攻撃魔法の下限を測るべくそうすると決めていたからだが、その生命を奪って直感的に把握した脆弱さからすれば、第三位階ですら必要十分であったかも知れない。
二人目の騎士はそもそもやや後方に控えていた上、同僚の何ら抗うことも出来ないままの昏倒に惑乱し、既に背中を見せて逃げに入っていて少し距離があったが
そしてこの際は、この魔法が呪術的にとは言え相手の肉体に直接接触して破壊する死霊系攻撃魔法とは異なり、魔力によって励起せしめた純然たる物理現象で以て威力を発揮する魔法であること、にサトルとしては意味がある。
骨の指先から放たれた一筋の雷撃は過つことなく甲冑の騎士の背から入って腹側へと一気に貫いた。余勢はたまたま
だが、サトルが衝撃を受けたのは、自ら現出させたところのその光景ではなく、彼の肉のない鼻腔がどのような機序によるものか感じ取った、騎士の体が焼ける
死霊系魔法が特別だったのではない。
手づから殺したことに意味があったのでもない。
殺す手段は問題ではなく、殺すという行為、そして齎される「死」こそが本質だ。
それは最初の騎士の心臓を握り潰した際に生じた情動に対して瞬時に浮かんだ……転移以来薄々とそのことを感じてはいつつも素直にそれを認めることができなかった……サトルの仮説を、立証して余りあるものだったのだ。
そのことに耐え切れず、体を翻して騎士の遺骸から目を逸らすと、結果的に今しがたサトルがその危急を救ったことになる、姉妹であろう二人の村娘が視野に入る。
最早それは確信に至った。
サトルとモモンガは、まったく異なる思いを抱いていたのだ。
この混乱の最中、サトルは、思いにかられての行動の危うさを優しく諭すように教えてくれたのが、死獣天朱雀であったことを思い出す。それは言葉そのものの印象に反して、決して鈴木悟を嗜めるべく発せられた言葉ではなかった。
ギルド長の地位に推されて再三それを固辞していた折、個人的に接触して来た彼からゆっくりと噛みしめるように伝えられたそれを、サトルはその含蓄深い優しげな口調も含めて思い出すことができた。
「モモンガさん。キミは自分で思っているよりもずっと大人だよ。」
ギルドメンバー中最高齢とされていた死獣天朱雀にそう切り出され、サトルは虚を
「誰もが認めるギルドの実力者、たっち・みーさんやウルベルトさんも、口ではいろいろと取り繕いはするが基本的には思いにかられて行動に移し、予想外の反応に裏切られて傷ついてしまう人だ。かと言って、何でも理詰めに組み立てて、計らずも相手の逃げ場まで奪ってしまう、ぷにっと萌えさんのような人ともキミは違う。」
その言葉には反論し難い重みがあった。
「キミは、関わる
この会話が決め手の一つになって、鈴木悟は長く固辞し続けていたギルド、アインズ・ウール・ゴウンの長の地位を受諾した。
真実のところは知らないし実際のところ彼自身はあまり興味もなかったが、リアルでは大学で教鞭を執っているとの触れ込みの人物からこのような評価を受けたことを、鈴木悟はとても誇らしく感じたし、それにも増して、それまで無意識のうちに自分が採っていた……正直褒められたものではないと思っていた人付き合いのあり方に思いがけないポジティブな意味付けが与えられ、それが自覚的に意識されるようになったのが嬉しかったし、後日親しかったペロロンチーノにだけは
結果的には、ギルメン皆それぞれの、リアルに対するそれも含めた思いを何一つ傷つけまいと大切にし続けた末、ただ独りナザリック地下大墳墓の維持に孤軍奮闘する日々を送ることになったのだから、幾分かは自己欺瞞的ながらも彼自身がそれを粛然と受け入れていたとは言え、死獣天朱雀が鈴木悟に見出した善性が、彼にとって本当の意味で良いものであったかどうかについては、いささかの疑問が残るのではあるが。
(死獣天朱雀さん。オレはそんな出来た人間じゃないですよ。)
サトルは独りごちる。
死獣天朱雀が評してみせた通り、確かに彼は自身の思いに呑まれて目先の判断を誤ることがなく、アインズ・ウール・ゴウンのまとめ役、調整役として活躍したし、転じてゲーム戦術における冷静緻密な先読みとリスク管理に天賦の才を示したし、それを自らも認めていたし、その立ち位置とプレイスタイルゆえに、ユグドラシル非公式ラスボスの
が、今はどうしたことだ。
誰かの思い、どころか自分自身、モモンガの思いを読み違え……否、端から無視した……否、直視することから逃げ続けた挙げ句にまったく想定外の事態に陥って、最早潰走するしかない状況に追い込まれているではないか、クソが!
(オレはそんな出来た人間じゃ……)
再び同じことを反芻しかけてサトルの背に冷たいものが走る。
(……そもそも今のオレは、人間なのか?)
ほんの少し前まで……そう、少なくとも「女子供は追い回せるのに、毛色が変わった相手は無理か?」と嘯いた時点まで、サトルは、異世界転移でいろいろと変わってしまい、肉体の鈴木悟に戻れるか、どころかその生死すらわからなくなってしまってはいるけれども、自分自身がユグドラシルプレイヤー、人間・鈴木悟であること、あり続けていること、今後もあり続けること、に疑問を抱いてはいなかった。
が、最早その確信は脆くも崩れ去った。
今自分が、モモンガが、目前の二人の村娘に
サトルはまったくもってそれを承服し難いにも関わらず、モモンガはそれを至極当然のこととして渇望すらしていた。
そして、それらはいずれも疑いなく、サトル=モモンガ、同一人物の思いなのである。
乖離は破綻寸前だった。
「準備に時間がかかり、申し訳ありませんでした。」
「実に良いタイミングだ、アルベドォ!!」
だからサトルは、まさに自身が破綻を迎えようとしていたこのときに、
*
遅れて<
よもや
その二面性の一方、知性のパラメータを極大に設定されたがゆえの冷静沈着なる奸智は、
そもそもからして、この未だ全貌の把握し切れぬ世界について最も慎重論を説いていたのは他ならぬモモンガ自身であったにも関わらず、そのモモンガが
一見したところモモンガはいかなるダメージをも被っているようには見えないし、端からそんなことはあろうはずはないと考えてはいたが、それにしても様子がおかしい。
表情を欠く骸骨の相貌からはたちまちにその内面を読み取ることは難しいものの、常に
どころか、彼女の愛する
思えば、主だった守護者を集めて幾度となく繰り返された討議の場において、自分たち以外のユグドラシルからの転移者の存在を仮定した上で、当面の間は部外者の前で互いの真名を呼び合うことを慎むよう命じたのもまた、他ならぬモモンガではなかったか。
ゆえにアルベドもまた、遅参を復命するに際し愛しく尊き
これが、ただごとでなくてなんであろうか!
……と、冷静に状況を分析しつつも、彼女のもう一つの一面、すなわち遮二無二モモンガを愛する情深き一人の女、そうあれと命じられた存在としてのアルベドは、己の名を声に出して
その声色は、母を求める幼子であるかのような不安を内包しており、それは恐ろしくアルベドの庇護欲を掻き立てた。足元に泥臭い田舎娘二人が転がっていることが画竜点睛を欠く感がなきにしもあらずではあるが、少なくともこの場にはシャルティアやアウラといったモモンガに対する
と、本来守護者統括として期待されており、事実その通りに発揮された無比な状況分析対処能力を、不毛な妄想で綺麗さっぱり上書きし終えたところで、
「この村を襲っている騎士を殺せ。」
……はぁ!?
それって、栄えあるナザリックの守護者統括たるこの
「オレはナザリックに戻る。追ってシャルティアを迎えに出す。その間、他に村人を襲う者が現れるようならすべて殲滅せよ。」
アルベドの困惑を余所に、矢継ぎ早に
「これを村人にくれてやれ。不足するようならばシャルティアに運ばせるといい。」
と、いつの間にやらインベントリから取り出された
いくら治癒系としては最低レベルのアイテムとは言え、ナザリックに何らの益ももたらしそうにもない人間どもに、分不相応にもくれてやる云われはあるまい。第一、未知の勢力に我が方の情報を不意に与えてしまうことのないよう、どんな些細なものであれ我々の存在の痕跡を残さぬよう留意して行動せよ、と命じたのもまた、他ならぬモモンガではなかったのか。
「お言葉ですが……」
彼女の純粋に知的な部分が、流石にこれは、と抗弁を試みさせるが、その言葉は中途で、まったく耳を傾ける様子もなく既に帰路の<
「くれぐれも無理はするな。勝利が確実でない場合は即時撤退せよ……この上、オマエが僅かたりとも傷つけられるようなことがあれば、オレはこの世界を滅ぼしかねん。」
苛立たしげにそう言い捨てると、モモンガはアルベドを顧みることもなく足早に<
かくして、彼女は完全武装で後詰めせよと命じられ、駆けつけてみればまったく納得もいかないことをがなりたてられた挙げ句に、自身には縁も
恐るべきは愛の軛。
再びアルベドの知性のバロメータは真逆の方向へと振り抜かれる。
モモンガ様が、私に傷一つでもつこうものならこの世界を滅ぼしてやる、とおっしゃってくだされた。そこまで……私に自らを愛せよと設定された至高の御方は、そこまで私を愛してくださっている、と。
嗚呼、感無量。
思い極まったアルベドには、傷つけられるのがシャルティアやアウラといった他の下僕であってもモモンガは世界を滅ぼしにかかるだろう、などという、少し考えてみればわかりそうな自明の事実などは既に思考の埒外である。
むしろ、アルベドの女としての悪い一面がむくむくと首をもたげる。
(いっそのこと、故意に傷つけられて、モモンガ様が私のためにこの世界を滅ぼすところを見てみたい……)
鎧兜のスリットから遠い空をうっとりと眺め眇めつつ危険な妄想を弄ぶも、不意に知性溢れる彼女のもう一つの一面が、
(お優しいモモンガ様のこと。傷ついた私をご覧になれば、如何なる理由があるにせよ私をここへ置き去ったご自身をお責めになり深く傷つかれるはず。その痛みはこの世界を滅ぼそうとも決して癒やされるはずもなく、そうであるならば、そのようなことは断じて起こってはならないことだわ。)
かくして。
壮大な愛の三段論法で以て辛くも世界はひとまず滅亡の危機を脱したのであるが、漸くにして思考がバランスの取れたところで拮抗したアルベドは、そうとなれば行動は早かった。
モモンガから受け取った治療薬の一本の栓を素早く抜くやその中身を、足下で情緒不安定な甲冑女を不安げに見上げて震えている小便
「私が屠るべき敵のところへ……案内なさい。」
と。