銀河鉄道 " 令和999 "   作:tsunagi

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#1 出発のバラード

  鋼紀七拾八年戊辰

    十二月甲子 辛丑朔甲辰

 

 始発と終列車のみ停車する運命のプラットホームに、少年の吐胸(とむね)に秘めた電鈴(でんれい)木霊(こだま)する。千千(ちぢ)れ舞う小雪の彼方に掠れた、天孫の竹斯(ちくし)()るが(ごと)き一筋の光臨。メガロポリスの方角を見上げながら歩いていた鉄郎は、()の微かな閃きに(すぼ)めていた肩を衝き飛ばされ、暮れ(なず)鈍色(にびいろ)の雪原を、独り遮二無二(しゃにむに)駆け出した。

 「母さん、見てよあれ。999だ。間違いない。十二月(さんじゅう)一日、午後六時着の999だ。999が帰ってきた。」

 追い付ける筈のない遥かなる繊光。白墨(はくぼく)にまみれる宵闇の空を伝い優雅に蛇行しながら舞い降りてくる、此処(ここ)では無い何処(どこ)かへと通ずる幻の架け橋。銀河鉄道株式会社、大銀河本線、銀河超特急999号。乗車出来るチャンスは年に一度。地球での停車時間は僅か六時間。年が明ける午前零時再び地球を発ち、来年の今日、大晦日の夕刻まで帰ってはこない。メガロポリスの上空を旋回するサーチライト。轟然と(そび)える宗主の要塞に溶け込んでいった瑠璃(るり)色の残像。鉄郎は見失った希望の欠片を(みつ)めて立ち止まり、治まらぬ動悸に(はい)()を焦がした。去年もこうして入相の空を見上げ、探し求めた999の機影。其の時は未だ天翔ける鉄道車両への興味、遠い宇宙への憧れでしかなかったが、今は違う。十三歳になった鉄郎にも少し()の星の仕組みが判ってきた。

 電網社会の特異点によって到来すると思われていた、文明の劇的な栄華は欲目に眩んだ妄想でしか無く、ビジネスベースの希望的観測は、有史より同じ過ちを繰り返し続けた人類の最期の過ちと()って、其の驕慢な歴史にピリオドを打った。解析モニターの向こうで蠢く超絶的知性があらゆる高度な社会問題を立て続けに解決していく事はなく、実世界の混沌とした軋轢(あつれき)は思考単体で太刀打ち出来る物ではない事を再確認しただけで、寧ろ、浸食する余地の無くなっていたグローバリズムの起爆剤として暴発し、更なる次元の混迷に人類を突き落としていった。

 原型を留めぬ程に肥大した資本主義。安易な合理化で、立法、行政、司法、選挙の系図をデジタル統合した途端、頃合いを見計らって電網を匐走していた鼠族に、画餅を秒単位で食い尽くされた民主主義。人類は何者かに因って検閲されたアルゴリズムに、主権も主観も主体も明け渡して、農作物と云う工業製品が地球の自然環境を蹂躙した様に、政治も経済も社会も想定を超えた過積載情報の津波に押し流され、法制度と言う首輪を解かれた市場原理の熱狂の坩堝から、電脳武装した機族が光速で爆誕。リベラルと言う羊の皮を被った歪んだ其の選民思想は、知識階級の妄想と制御不能なテクノロジーの融合した、帝国主義と共産主義の結託と言う究極のファシズムへと暴走し、ダボス会議の長老達が謳ったグレートリセットを、陰謀論と呼ばれていた脱法投資家(アナキスト)に因る国際的な談合、諸共リセットすると、旧人類の文化と歴史もオフラインにしたアーカイブの飛び地に幽閉し、先進的超人思想を崇拝して、生命の機械化を受け入れない生身の人間を執行猶予付きのインターンとして分別淘汰。研修事業先という名目の管理区域外に追放し、マイクロチップワクチンで監察する事すら打ち切って、難民から棄民へと突き落とし、機族社会の家畜に成り下がる事すら許され無い。限界強度を越えた車軸が根元からへし折れ、挫傷した人類の命運。()の脱落した車輪の下で鉄郎も又、(あえ)いでいた。

 塵芥(じんかい)の底に突き落とされて敗者が確定してから訴える人権や平和主義。そんな人類の(ざる)の様な浅知恵は、生身の人間の国内法でしかなく、禁を解いて掲げた破防法ですら、人智を超えて自立した重機の力学の前では雑音以上、鼻歌以下の代物だった。パトロンの提灯担ぎと数字だけを追い求める三文記事で公害化し、ジャーナリズムとは名許りのシャーマニズムに堕した、マスコミと言う狼少年と、大衆の絶望的な白痴化によって自己顕示欲の墓場と化したソーシャルメディアは、プライバシーの濫獲、欺瞞と利益誘導の超過積送信に明け暮れ、合法マフィアの資本家に使い捨てられた職業左翼の残党は、機族と全面戦争の最中、機族に易々と買い叩かれ、非暴力や機族の人権を訴えて裏から人類の足を引っ張り、(しか)も其の挙げ句、団結した自由と平等と正義を叫ぶヤラセの反戦デモ迄もが、一定の熱量を超えた途端事務的に一掃され、稀少鉱物より軽い人の命が焼却燃料の山と連なり、形式的な猿芝居として解析処理された民族や国家は、最適化と言うシュレッダーに掛けられ、極度に集積化した事業体を駆け巡る情報と契約のアルゴリズムが、完全に此の星を運用し、進歩と発展を謳うドグマが太陽系を越えて其の菌糸を伸ばし続けている。

 地球は最早、生命の宿り木では無かった。原子力資源を独占する一握りの資本家が石油化学事業に対抗する為、学会を買収してでっち上げた、科学的根拠の無い利権塗れの脱炭素キャンペーンに因って、世界のエネルギー政策と経済は混乱を極め、森林資源は二酸化炭素と言う息の根を止められて枯渇し、再生可能エネルギー増産の名の許に、北極圏と南極大陸の氷河迄をも引き剥がしてレアメタルの採掘した挙げ句、地底に封印されていた天文学的な量の放射性物質を掘り起こし、行き場の無い使用済み太陽光パネルを始めとする非炭素系エネルギーインフラの世紀末的規模の残骸は、一部の先進国がリサイクルの実用化に漕ぎ着けた物の、莫大なコストに因って破滅的な補助金を投入しなければ採算の見通しが立たぬ、死の廃棄物で在る事を再確認しただけで、後は唯只管(ただひたすら)、重金属を垂れ流し、地球の表土と地下水脈を再生不能に貶めた。荒業化を究める機族達は、環境プロパガンダと抱き合わせに、汚染という概念を管理区域外に体良く締め出しただけで、人類の夢見た持続可能社会と言う欺瞞を嘲笑い、一部の激甚放射性廃棄物を大気圏外に投棄する以外あらゆる産業廃棄物を地上に放擲し、気象変動や土壌や海洋の重酸化を単なる物理的表象と却下して、地下資源の濫掘による頻発地震ですら、免震構造のメガロポリスから漫然と見下していた。生態系の保護も数奇者(すきもの)の懐古趣味に過ぎず、一部の自然環境が観賞用のジオラマとして模造されているのみ。絶滅か変異か、機属する術の無い行き詰まった動植物の惨状に、沈黙の春すら眼を伏せて素通りし、他の惑星や遊星コロニーへと移住出来ない生身の人間は、自らが害虫害獣呼ばわりしていた生物と肩を並べ、機族文明の吐き出す汚物の養分を(すす)り生き延びているだけ。今や此の星の未来を語る人類も居なければ、人類の歴史を振り返る者すらいない。()してや、電脳化する遥か以前に、人類が見失っていた其の心なぞ、望む()くも無い。

 今日も一日、鉄郎親子は水と食料、換金出来る廃材を求めて、最終処分場だった埋め立て地を、其の昔、環境循環型都市を(うた)っていた無人の旧市街地を、大型プラントの廃墟を、津波に削られた(まま)千里生色(せんりせいしょく)なき磽确(こうかく)たる更地を歩き続けた。メガロポリス周辺の落ち()を奪い合い殺し合う人々の狂騒、新種と変種が日々更新される感染症ベルト地帯を避け、見捨てられた者達すら見捨てた(あだ)し野に潜む、声なき声に耳を澄ます。其れが二人の生きる知恵だった。汚染物質を蓄積していない草の根や木の実、浄化すれば飲める溜まり水を見極め、メガロポリスの下水処理施設や郊外のプラントで散布される凍結防止剤の塩化カルシウムを回収し、(うづ)もれた鉱物の玲気(れいき)感応(かんのう)し掘り起こす。傍目(はため)には零の確率を鉄郎の母は有り得ない精度で探り当てた。倒木に一輪の花を咲かせ、沙漠(さばく)潮騒(しおさい)を呼び寄せる奇蹟の所業。其の超然とした異能は地震を予知し、メガロポリスの貧民窟で渦巻く詐術、讒言(ざんげん)、背信を看破し、日々生死の淵をなぞる親子の命を導いた。か細き母の指先が告げる(たえ)なる恵示。鉄郎は何の疑念も覚えず、秘やかな羅針の揺らめきを有るが儘に信じて育った。

 風を抱き、地脈と(むつ)み、夜露を爪弾き、暁を待つ。廃材を寄せ集め補強したプレハブの一間で鉄郎が深い眠りから覚めると、母は既に小屋の脇に盛られた残土の頂に身柱(みばしら)を建て(みなぎ)っている。(あたか)()にし()口碑(こうひ)から黄泉帰(よみがえ)った巫女の(ごと)く、東雲(しののめ)静寂間(しじま)に其の身を(すす)ぎ、霞の(もり)に分け入ると、半死半生(はんしはんしょう)()した自然の吐息を神薙(かむな)ぎ、其の堅く閉ざした瞼を走る微かな(おのの)きに心を凝らす。

 時が満ち、盛土に添うて進み出る爪先。顎を引き、左手を軽く結ぶと、(おもむろ)に右の(かいな)を遥か(ゆか)しき明仄(あけぼの)へ手向ける。鉄郎には見えた。真一文字に差し伸べたの手の中で(さかき)が萌え盛り、紫立ちたる英気が(ほとばし)るのを。肩口から水平に(かざ)す甲の先を一点に見据える研ぎ澄まされた面差し。独りの女として期する(りん)とした自負を超え、陶然として犯しえぬ境地。それは母にして母に(あら)ず。人にして人に非ず。天孫の蚕糸(さんし)(まと)い、道無き世に(くだ)り、諦斬(ていざん)緘黙(かんもく)せる焦土を(しげ)く。万里(あまね)旭日(きょくじつ)五色(ごしき)棚引く巻雲(けんうん)神代(かみよ)の調べが聞こえる。太古の眠りを言祝(ことほ)ぎ、陰陽を()して穢魔(えま)(はら)う、忘れ去られた在りし日の舞い。逆光を背に彼我(ひが)真秀場(まほろば)を巡る弱竹(なよたけ)の身ごなし。闇に融けていた黒髪が(きら)めく。吐胸(とむね)の高鳴りに踏み鳴らす大地。天照(あまて)らせ玉緒(たまを)鈴生(すずな)り。(こと)()(さき)はふ(ほま)れ。

 今日一日の収穫を祈り恵方(えほう)を占う恍惚の隻影(せきえい)を、鉄郎は醒めない夢の様に仰ぎ明兆(みょうちょう)を待つ。見えぬ物が見え、聞こえぬ物が聞こえ、形亡(かたちな)き物に触れる。母は偽り無き者の(はか)らいを(たまわ)る何者かであった。然し、その霊活(れいかつ)な洞察力を持ってしても、荒野の不毛に屈するしかない時がある。現に一時間程前から降り始めた雪から逃れる為、明日、新しい年を迎えると言うのに、何の収穫もないまま家に引き返す事を二人は()いられていた。空腹と疲労を引き擦って踏み締める帰路。大気汚染物質で変色した死の結晶は飲む事が出来ぬばかりか、長時間浴び続けると頭痛や吐き気を催し、目眩(めまい)を起こして膝を付けば、氷室(ひむろ)(ひつぎ)に葬られる。茶褐色に変質した土嚢(どのう)袋を継いだ外套(がいとう)の縫い目から、(くつ)の代わりに爪先から踵に掛けて巻いてある葦の隙間から、酸性の痺れを伴う冷烈(れいれつ)がジリジリと染み入る。こうなると暫くは表を出歩く事すらままならない。大した蓄えもない小屋の中でどうやってこの無慈悲な冬を(しの)いだら良いのか。

 極限の飢餓と対峙する予感に鉄郎は戦慄した。本能とは猛り狂う野獣だ。人間の意志なぞ肉体の煉獄(れんごく)に突き落とされた流刑囚でしかない。絶食が五日を越えると、ガラッガラにささくれた胃壁と横隔膜の捻転(ねんてん)が世界を歪曲し、骨の髄から決壊した悪寒が全身の毛穴を駆け巡る。昼日中でも(またた)く度に視野を埋め尽くす星々。三半規管を乱打する半鐘(はんしょう)。膝が抜けて寝返りを打つ事しか出来ず、力の入らない肛門から内圧に負けた腸が捲れ上がる。(わず)かな飲み水だけで約半月、何も口に出来なかった時は、砂埃しかない小屋の中で横になったまま、魔性の化身が(ささや)く有りと有らゆる悪徳と闘い続けた。人の皮を剥げ。理性とか言う化けの皮を引き裂いてしまえと説き伏せる幻聴。

 (きゅう)すれば小人(しょうじん)相濫(あいみだ)れる。メガロポリスの貧民窟にこびり付いている鉄郎と同じ年の孤児達は、旧世紀、未成年者の性交渉権を秘かに吹聴する、LGBTQ+の推進に因って合法的に市場開放された児童売春に身を投じ、一時(ひととき)の間食と引き替えに感染症で死んでいく。空腹は人間のあらゆる屈辱や痛覚を貪り卑賤な臓物を暴き散らす。

 葦を枯らして流れる赤銅(しゃくどう)色の廃液。三途の川に浮かぶ、メガロポリスの私生児と浮浪者達の(もつ)れ合った(しかばね)を喰らい尽くす、肥沃(ひよく)な蛆の(うごめ)き。その艶やかに張り詰めた乳白色の粒の泡立ちが、炊き出しの玄米にしか見えなくなる惑乱。そして実際、鉄郎は知らぬ間に汚染された(むし)の死骸を口にしていた事がある。()れも一度や二度の事ではなく、其の都度、母に頬を打たれて吐き出すまでその衝動に気付かない。ザラザラに干涸(ひか)らびた舌の上に残る節足の爪痕(つめあと)と渋い体液。呑み込む事の出来ない死の影を舐めた後味。母の眼がなければ鉄郎はとうの昔に六道(ろくどう)坩堝(るつぼ)()していた事だろう。

 どうにかして此の終末同然の世界から這い上がりたい。999でなくとも良い。メガロポリスを旋回する一筋の機影が、高圧電流を帯びて垂れ下がる蜘蛛の糸だとしても、地球以外の領域へ行けるのなら、南瓜(かぼちゃ)の馬車でも紙のロケットでも構わない。太陽系外には移住した生身の人間が主権を確保し繁栄している遊星やコロニーもあるという。そこに辿り着くか、それとも、機械の体を手に入れて・・・・・・

 

 

 「鉄郞(てつらう)、雪が眼に入るわよ。」

 闇に色めき闇と消えた狐火に魅入られ、身動ぎ一つせぬ我が子の背に母が声を掛ける。鉄郎は思わず邪険な言葉が喉元で支えた。(まつげ)を掠め頬を刺す酸性雪より()()る其の優しさに、今どんな顔をして振り返れば良いのか判らない。

 「999に()つて(かへ)つてきた人は(ひと)りもゐ無いつて()はれてゐるわ。」

 「そんなの只の噂だよ。」

 「ぢやあ、機械の(からだ)を只で吳れる星に行けると云ふのも、只の噂ね。」

 母の言う通り鉄郎にとって999の存在は、人語に上る断片を寄せ集めた御伽噺(おとぎばなし)でしかない。(まこと)しやかに聞こえるのは、新しい年を告げる汽笛と共に出発し、銀河鉄道全車両の中で唯一、無限軌道を制限解除で走破すると言う事くらいで、現に今、垣間見た思わせ振りな煌めきも本当に999なのかどうかすら判らない。星を売り買う富裕層が銀河を周遊する豪華寝台特急か、異界を流離(さすら)う謎の亡霊列車か、虚蒙(きょもう)(のり)する貧民窟の堕胎した粗雑な都市伝説か。機械の体を只で呉れる星に行けると言っている時点で、真に受けるのは子供だけ。そんな奇特な星が何処にあるのか、何という名前なのか、問い(ただ)した途端、泡となって弾け、惨めな現実に引き戻されるのが落ちだ。それなのに、

 「999に乗る事が出来たら、誰もこんな草臥(くたび)れた星になんか戻って来こないさ。機械化人に好き勝手にやられて何処も彼処(かしこ)も滅茶苦茶だよ。()のメガロポリスだって何時か地殻が崩壊して地の底に沈むに決まってる。そりゃあ、彼奴(あいつ)等はどんな汚染物質もパーツクリーナーで洗えば何て事無いさ。永遠の命を手に入れたエリートには、こんな苦くて酸っぱい雪も空きっ腹も関係無いんだろ。」

 雪を蹴散らし声を荒げた己の浅ましさに鉄郎は打ちのめされた。母の手に頼らず母の手を導かねばならぬ歳だと言うのに、こんな風聞を心の支えにしないと立っていられず、自ら暴いた墓穴に嵌って藻掻(もが)いているのだから(ほどこ)しようがない。疲れと寒さと空腹による苛立ち。そして、こんな空騒ぎをする気力すら、長く苛酷な冬に閉じ込められ、極限の飢餓と衰弱が押し寄せてきたら、根刮(ねこそ)ぎにされてしまうのだ。足許に()ぜた白い(つぶて)が暗示する野垂(のた)れ死にの背中。降りしきる雪を蝕む汚染物質のどれよりも自分の心が穢れている。鉄郎は或る(ひそ)かな目論見を母に押し隠し温めていた。

 木の根や木の実を幾ら囓って腹を満たしても、塩がなければ人は生きてゆけない。鉄郎親子は拾い集めた稀少金属や資材を主に工業用塩化ナトリウムと引き替えていた。貧民窟や最終処分場の周囲をトラックで回収に廻る屑屋が湧いては消え、その善し悪しを見極める事が、交換出来る品物を探し当てる事より重要だった。欺き、奪い、踏み(にじ)る。この星の遣り方を連中も忠実に履行し、隙を見せたら(つい)でに命まで巻き上げる。そんな追い剥ぎと紙一重の狐狸畜生(こりちくしょう)の一人に、外装の電脳ブースターを耳に掛けている、流木の様に干涸らびた、二の腕に筋彫(すじぼ)りの(おかな)がいた。

 生命の核を機械化した此の星の勝ち組は、管理放棄した地域に捨てた物なぞ顧みず、文明の残滓(ざんし)に群がり分解する、バクテリアの如き()()の商いは、生身の(やから)御慰(おなぐさ)みで(すた)れた試しがない。そんな百花繚乱の屑屋の中で、筋電義肢(きんでんぎし)やパワードスーツを装備している業者は数あれど、電脳ブースターとなると話しは別だ。筋彫りは見栄やお飾りで掛けているのじゃない。地金相場や換金レートを衛星回線を捕まえて確認しているのを目撃し鉄郎は驚いた。旧世代の外装基板とは言え、仮にも電脳化しているのに屑の回収をしているだなんて。こんな莫迦(ばか)は初めてだ。バッファーオーバーフローを浴びて脳に器質的な欠損でもあるのか。()にも(かく)にも、犬に論語か説法か。単にサイトの閲覧や検索をするだけでなく、演算処理と主補の記憶装置を拡張した大脳皮質で仮想空間の大海原に同期出来れば、世界が変わる。無尽蔵のサイバーハザードやセキュリティブロックの迎撃で、背乗(せの)りされ、訴追され、人格が崩壊するリスクもあるが、チャンスもある。それなのに魔法の杖を薪にして暖を取っているのだから世話がない。しかもその上、ベレッタM92を小脇に挟んだだけで、助手席と後部座席に抗生物質、葉煙草、工業用の塩化ナトリウムと代用アルコールを詰め込み、ピックアップの門型(もんがた)に飲料水のタンクを(くく)り付け、小豆(あずき)色に錆の吹いたランクル79を(ひと)りで転がしているのだ。飢えと絶望で殺気立った落人(おちゅうど)を相手に取引をするには余りに杜撰(ずさん)な備えで、出来心を誘っているとしか思えない。

 何時しか鉄郎は産廃の尾根を探索している時も、メガロポリスの地下を()う淡水化装置の配管から滴る漏水を回収している時も、集めた灌木(かんぼく)で火を(おこ)している時も、(あば)ら屋の補修をしている時も、果ては夢の中にまで筋彫りの事を想い描く様になっていた。

 廃材の基板やハードディスク、モーターやミックスメタルから抜き取った、リチウム電池、コンデンサー、水晶振動子、ネオジム磁石、金鍍金(きんめっき)の端子類、ステンレス316を(せわ)しなく検品し、鉄郎親子の存在その物を値踏みする狡猾(こうかつ)な眼差し。如何(いかが)わしくシャクれた下顎から繰り出す(とげ)しかない一方的な物言い。真冬でも砂埃を吸ったTシャツに多機能ベストを羽織っただけで立ち回る貧躯(ひんく)。腰に提げたジャックダニエルの瓶。中に詰めた代用アルコールのポリッシュで、濃紫に変色した二の腕を這う稚拙な墨の輪郭。

 初めの頃は単なる気の迷いで片付けていた。(しか)し、筋彫りとの交渉を重ねる内に、淡き随想が図太い一本の動線となり、電脳ブースターを避けて振り下ろす、鈍器の感触に逢着(ほうちゃく)した時には既に、鉄郎の意志は鉄郎の手を振り切り逆走していた。掌から肩胛骨へと突き抜ける鋼質な衝撃、物静かに倒壊していく陥没した後頭部。()まわしき邪念を掻き消そうと幾ら藻掻いても、血塗れの電脳ブースターは微粒発光ダイオードのシグナルを忙しなく痙攣させて、顳顬(こめかみ)に喰らい付いてくる。良識なぞ事の根深さを掘り起こすだけで、無駄な抵抗でしかなかった。

 彼の爺を襲撃するのが此の暮らしから這い上がり、此の星の成層圏を突破する最短距離だ。狐疑(こぎ)を巡らせている内に()(ぜん)を下げられでもしたらどうする。今の今まで無傷でいたのが不思議な位の上玉だ。お前が遣らなくとも余所(よそ)のハイエナが手を下す。誰かの餌食(えじき)になってから、奴の墓を暴いた処で何も出てきやしない。襤褸(ぼろ)を纏った自分達を雑巾の様に扱う輩に何を遠慮する必要がある。旋毛(つむじ)曲がりな奴の脳天にハンマーでも鉄パイプでも、この星から御然(おさ)らばする()きの駄賃に呉れてやれ。

 鉄郎は執拗で甘美な眩惑に屈服し、仕事の手が空くと、筋彫りの習性、行動原理、事業半径、生活形態を嗅ぎ周った。燃料を補給する為、マイクロプラスチックを回収したまま放置してある集積所跡に還元装置を持ち込んで、車中泊しているのを突き止め、身寄りもなく、仕事を終えると塩で()したポリッシュを(あお)り、セルの壊れた発電機の様に(うな)って独り眠りこけるのを、易々とその寝顔が拝める処まで近付き幾度と無く盗み見た。ランクルに防犯の人感センサーを装備している訳でもなく、取引の際、有無を言わさず一方的に喋り立てるのは難聴の所為で、陽が落ちると鳥目(とりめ)でランクルの前と後ろの区別も付かなくなるのだから、まるで闇討ちを心待つが如き高枕。鼠賊(そぞく)欲目(よくめ)を通しても、何かの罠でなければ、魔性の御祝儀か。何時でも寝首を掻ける獲物は黒極上々吉(くろごくじょうじょうきち)にて、()ぐ眼と鼻の先。にも(かか)わらず、鉄郎はその妄執にケリを付けられず、豚の様な(いびき)を拝聴しただけで、マイクロプラスチックの山を後にした。

 頭の中で悶絶する電脳ボードを夜霧で醒ます片道四時間の帰り道。筋彫りのベレッタに返り討ちにされるのを恐れたのでもなければ、良心の呵責に(かしづ)いたのでもない。()の道、待っているのは草臥れ儲けと重金属の土埃に埋もれるだけの日々。座して其の身を清めれば衆生済度衆生済度(しゅじょうさいど)の幕が開き、神助(しんじょ)が転がり込むでも無し。生き恥を曝すだけ曝して、息の根が止まるまで楽になる事はない。同じ命を削るなら、(ひぐま)の頸動脈に喰らい付く豺狼(さいろう)の様に、奇骨侠骨(きこつきょうこつ)を打ち鳴らし無法の原野に轟きたい。此の星に蔓延(はびこ)る不条理の喉笛を喰い千切(ちぎ)るのに、多少の無茶や返り血は織り込み済み。苦崖愴谷(くがいそうこく)の絶険に爪を立て、逆賊(ぎゃくぞく)の気概に奮える若い身空(みそら)に、筋彫りの反撃なぞ物足りぬ位だ。折角、腐臭に躍る雑菌を消毒してやるのに、殺生も糞もない。

 鉄郎の決意に立ち(はだ)かるのは、清く正しく美しく、(しな)やかで時に息苦しい崇高な母の生き様だった。虚偽不実の一切通じぬ聖哲(せいてつ)の視座に、強奪した電脳ボードがどう映るか。塵の山に落ちていたと言っても信じる訳がない。此の暮らしから抜け出すのに遠回りをしている余裕はないと訴えても、理路を外れた薄弱の泣き言、無用の饒舌(じょうぜつ)に耳を貸す訳がない。手段を選ばずに物質的な成果を追い求めるとどうなるのか、知りたければこの星を見渡せば良い。そう(さと)すだろう。例えそれが999のパスでも受け取らず、此の星の命に寄り添い殉職するだろう。

 鉄郎にとって、幽谷に滅する御神木(ごしんぼく)か、鍾乳石と(けっ)した仙女(せんにょ)の様な母は余りにも高潔で、己の将来と重ね合わせる事が出来なかった。霞を喰って懊悩(おうのう)(みそ)ぐだけの人生。それは英傑を仰ぐ思春期の鉄郎にとって針の(むしろ)に等しく、誰も誉め讃える事のない光貴(こうき)に浴した処で唯の独り()がりでしかない。母の背中を頼りに、亡者の(いさか)いを(くぐ)り抜け、生き長らえてきた事は確かだ。正義の敗北した此の星で、徳を高める事こそが手堅い生き方で在る事も目の当たりにしてきた。しかし、陋巷(ろうこう)の猥雑に揉まれる事を避け、綺麗事に徹しているだけでは、羽化(うか)せぬ(さなぎ)と変わらない。道無き世なればこそ道を説く、其の耳触(みみざわ)りは結構だが、道理を説いて通らぬ此の星に(みさお)を立てても、袋小路の中で迷子になるだけ。此の這い(つくば)っている汚染された地ベタに、泥に(まみ)れず拓ける道が何処にある。

 己の醜さに(のた)うつ(ぬえ)四肢(しし)の様に、幻滅と愛惜、救済と堕落の狭間(はざま)四分五裂(しぶんごれつ)に入り乱れ、闇に呑まれていく鉄郎。生きて荒魂(あらたま)の化身と成り果てるかに思えた其の時、迷う道すらない雪原に乾いた音が弾けた。立ち枯れた灌木の梢を折り、母が微笑みを浮かべて立っている。雪明かりとは違う何かが、手にした小枝を(かす)かに照らし、二人が寄り添い辿ってきた足跡をなぞる様に、穂先が新雪を駆け抜けた。

 

  遙奈流 夢路乎波世而 浮之空

     餘其騰繼流 雪晚爾轉

 

  遙かなる 夢路を馳せて ()はの空

    吉事(よごと)()がるる 雪暮(ゆきく)れにまろぶ

 

 其の人、紙墨(しぼく)すら選ばず。一点一画(いっかく)、典雅静謐に身を(やつ)楷書(かいしょ)は、黎明の孤碑(こひ)。深山流水、淀みなき草書は、時に移ろう万葉のひとひら。(しと)やかに、(しな)やかに、そして(おごそ)かに。再び帰らざる、一筆にたった一度の巡り合わせ。(しょ)()ぎる(うた)あり、哥に過ぎる()があり、画に過ぎる己の姿、一代(いちだい)過客(かかく)にして歌境(かきょう)此処に極まる。返歌(へんか)なぞ及びも付かない。胸を()一握(いちあく)の温もりに鉄郎の()てついた血潮が、調和を(しっ)した現実の断片が解晶していく。

 劣悪な星の(もと)に生まれ落ち、果てしない苦役を強いられる日々の中にあっても、母は泣き言や恨み(つら)みを決して口にせず、(しょ)(もっ)(せい)()し、(もの)を以て()と為し、絶望の画布(がふ)に花鳥風月を描き続けた。生き長らえているのが不思議な首の皮一枚の暮らし、瓦礫(がれき)の迷宮、そして、激越な気象変動に埋もれる四季の音連(おとづ)れ。其の(やつ)れた機微に眼を配る()めやかな(たしな)み。(うごめ)くだけで(さざなみ)すら立つ事のないゲル状の海、粒子状物質に掻き消された星々、墨で塗り潰した様な汚水の雨、咲く事を諦めた被子植物に往時の幽影(ゆうえい)詩趣(ししゅ)を垣間見、仕事の合間を見ては砂地に歌を(つづ)り、風に(さら)われ無地に()す薄命を(いつく)しむ。幻想への安易な逃げ道や敗北の挽歌なぞでは決してない。忘れ去られた言葉、滅び行く文字。断ち切れた紙縒(こより)を伝う最後の灯火が、(なぶ)り尽くされた風土に眠る和魂(にぎたま)を呼び覚ます。

 清貧と言う気取りすら削ぎ落とした母の古筆(こひつ)が、此の親子以外、読み書きの出来る者が何処に居るとも知れぬ言霊(ことだま)が、降りしきる雪に覆われていく。限りある物達の透徹した憂いが鉄郎の幼さを慰め、白い吐息に紛れ消えていく。雪が滲みる訳でもないのに熱い目頭。裏も表もない母の(ほが)らかな声が、揺るぎなき春の息吹を口ずさむ。

 「さあ、早く家に戾りませう。しつかり休んで新しい歳を迎へませう。」

 気が付けば今も又、鉄郎は垂乳根(たらちね)()(ごころ)の中に居た。鏡に向かって吠える犬を後ろからそっと包み込む、母聖(ぼせい)の羽衣。

 鼻の頭が支えるほど狭い荒ら屋とは言え、骨身を蝕むこの忌まわしい雪を凌ぐ事は出来る。僅かだが薪と飲み水の蓄えも有る。自分達には帰る場所が在り、其処には細やかな寛ぎが在る。食料が底を突いているのは確かに堪えるが、此までも何度となく乗り越えてきた。今は唯、疲れているだけ。風雪を侵し()えて咲き急ぐ寒梅(かんばい)とは訳が違う。こんな真冬に散り場所を探してどうする。百花(ひゃっか)(さきがけ)に眼が(くら)み平地に(つまづ)く、そんな貧民窟の小競り合いに巻き込まれずに済んだのは誰の御陰だ。万有の(かい)行住坐臥(ぎょうじゅうざが)、面前に(はべ)りて、其れを見極め捉える智力が整うまで心の瞼は(ひら)かない。湖底に沈む石の様に母は静かに時を待つ。己の進むべき道は母と辿った正しき道の先に続いている。

 新しい命を賜ったかの様に言葉が内から溢れてくる。実物の花を見た事のない鉄郎の胸の奥に、母の(うた)う花々が咲き乱れる。凱風(がいふう)に翻る洗い(さら)しの稚気。夢魔から醒め、多くを語らぬ母の穏やかな眼差しから逃れる様に、外套を目深に被りながら微かに頷き、葦を幾重にも巻いた爪先で再び新雪を掻き上げる。風が出てきた。此れから吹雪くのだろう。メガロポリスの灯りを背にしたら、後は灌木が僅かに顔を覗かせているだけで、何の目印もない雪景色だ。下手をすれば勝手知ったる我が家ですら見失う。もう眼と鼻の先だからと言って気を抜き間誤付(まごつ)いていたら、芥場(あくたば)を飾る雪化粧も行き倒れの死に化粧。こんな処で道草を喰っている場合じゃない。

 鉄郎は(かし)いだ心を立て直す様に、不確かな足許を一歩一歩踏み締め、雌伏(しふく)の時を刻む。今、自分が()()き事は、此の吹雪が順風に一変する、(きた)()き瞬間に備え集中する事だ。(たと)え何一つ元手の無い身であっても、頭の中を整理し、時局の急所を衝く一撃に狙いを凝縮する事は出来る。堅き心の一徹は、石に矢の立つ(ためし)在り。耐え抜いた嶮路崕峰(けんろがいほう)の先に、必ずや善因善果(ぜんいんぜんか)の誉れ在り。酸性雪の冷鋲(れいびょう)で痺れる(からだ)の芯に一条の火柱が立ち昇る。廃材で組んだ四阿(あずまや)は直ぐ其処だ。野末(のずえ)(うずくま)る小さな影を求めて眼を凝らす。不意に、母の押し殺した声が鉄郎の逸る足取りを遮った。

 「家に近附いては駄目。」

 闇に潜む未知の何物かに感応する母の不随意筋。神聖なる啓示では決して無い。風向きが捻転し、冷烈な寒気が不吉な瘴気(しょうき)に豹変する。

 「鉄郞、逃げて。私とは反對(はんたい)方向に走るのよ。振り向かずに、兔に角逃げて。」

 (かじか)んだ指先を鉄郎の頬に添え、我が子の顔を焼き付ける様に眼を見張る。母がこんな言葉を口にするのは初めてだ。蟻塚を砕いた様な貧民窟の暴動、無差別爆撃でしかないメトロポリスの産廃投棄、その産廃の山を穿(うが)ち掻き上げるF5クラスの竜巻、メトロポリスの免震構造から摘み出された地表の総てを呑み込む津波の逆上。迫り来る惨禍兇変(さんかきょうへん)が壮絶であればある程、此の手を強く握り締めて離さず、一筋の活路へと導いたあの母が、鉄郎を其の場に残し駆け出した。全く状況が掴めず、思わず其の後を追い掛けようとした刹那(せつな)、ヴァイオレットの閃光が遠離(とほざか)る母の背を掠め、(みぞれ)(はら)む横殴りの白魔(はくま)が色めく。新雪を入り乱れる姿無き蹄鉄(ていてつ)。獣臭い息遣いまでもサンプリングされた剛性軍馬(ごうせいぐんば)(いなな)き。怒号が怒号を呼び、闇雲に交錯する光弾の条跡(じょうせき)

 人間狩りだ。メトロポリスの有閑貴族が興じる、自警団の清掃事業が(ちょう)じた、狩りとは名ばかりのジェノサイド。テント村に火を放ち、逃げ惑う者達を女子供の区別なく銃撃し、屍の山を競っては、高笑いを蹴立てて去っていく、機械仕掛けの白日夢。弱者が一ヶ所に固まって共棲(きょうせい)する事は、(かえ)って強者の食指を(くすぐ)り、御狩場はメガロポリス周辺の貧民窟と相場が決まっているのに。其れが何故、鉄郎親子以外、誰も足を運ばぬこんな荒野の果てで。しかも、確実に獲物を仕留めたければレーザーアサルトで水平掃射すれば良い物を、より機動力のあるスノーモービルに乗らず、疑似ボルトアクションとか言う奴なのだろう、連射の利かぬ好古(こうこ)趣味の小口径ライフルで、サイレンサーすら装備せずに目視での狙撃。傷を付けず生け捕りにでもするつもりなのか。

 (ちょう)して(こう)せず。(よく)して宿(しゅく)()ず。奴等は狩りを楽しんでいる。其の甘さと(おご)りが唯一の救いだが、此の吹雪の中、逃げおおせたとして、其れからどうすれば良いのか。眼を付けられて了った家にはもう戻れず、灌木が朽ちているだけの徒し野に、寒さを凌いで身を隠せる場所なぞ何処にもない。どうやって母さんと合流すれば良いのか、否、それ以前に母さんの命は。反対方向へ逃げろと言われたが、此の儘、生き別れて終う事になったらどうする。鉄郎の脚は取り残された其の場を(にじ)るばかりで、母と光弾の残像を震える瞳で追う事しか出来ない。其処へ矢庭に、

 「オイ、居たぞ。」

 誇らしげな声と猛々しき嘶きに背を衝かれ振り向くと、焼きの入った粘りのある光沢を滴らせて、クロムモリブデンの円筒が鉄郎の鼻先を捉えていた。一瞬の白撃(はくげき)見当識(けんとうしき)が砕け散る。鉛錫(えんしゃく)色に(くすぶ)る剛性軍馬の甲殻。鞍笠(くらかさ)に棚引くラインディングコートのフレア。クロム(なめ)しの重厚な胸元、肩章、領袖(りょうしゅう)(ちりば)めた金釦(きんぼたん)。そして、蜷局(とぐろ)を巻くロングマフラーの台座に()り込んだ、炭素同素体をドープしていない旧世代のチタン合金と思しき筐体(きょうたい)が剥き出しの頭部。鉄郎の腰は(くずお)れ、旋雪(せんせつ)の坩堝を引き裂き現れた鋼鉄の神馬(じんば)(ひざまづ)いた。歯の根から舌の先まで痺れて、逃げる処か命を乞う事すら出来ない。レーザーライフルの銃口に魅入られ、死の洞穴が其の隻眼を(すが)めただけで、鉄郎の魂は風穴を空けられ、つい今し方まで筋彫りの強殺(ごうさつ)(いき)がっていた気炎なぞ跡形もない。続々と詰め掛ける蹄鉄の乱拍子(らんびょうし)(きら)びやかな(あぶみ)の鈴生りに取り囲まれ、万事は玉屑(ぎょくせつ)の道連れと()し、風前に滅した。

 人工被膜で覆われていない複眼レンズを小刻みにウィービングして獲物を視姦する騎乗の魔神。こんな異形の電脳機族を鉄郎は見た事がない。機族達は日常、角質を模した合成樹脂で全身をコーティングし、一瞥では生身の人間と見分けが付かない装いをしている。中位機種以下のアンドロイドですら、申し訳程度の目鼻立ちとは言え頭部はカウリングしている物だ。其れを此の奸賊(かんぞく)共は、クラシカルな洋装に亜麻(あま)色の植毛を撫で付けていながら、人類であった頃の名残を拒絶するかの如き険相(けんそう)で、此の塵界(じんかい)(はばか)っている。まるで産廃の墓場から復活した工作機械のゾンビか、排撃に朽ちた邪神像か。その奇鉱怪銕(きこうかいい)堵列(とれつ)を、落天斬地(らくてんざんち)の恫喝が一瞬にして制した。

 「そんなガキ放つておけ。女だ、女を追へ。時間が無い。この吹雪で暗視スコープは使ひ物にならぬ。解像度は度外視して、赤外線走査をサーモグラフィに切り替へろ。誰だマイクロ波を飛ばしてゐる奴は、五月蠅(うるさ)くて敵はん。さつさと切れ。」

 殿(しんがり)に控えていた頭目が、私刑の円陣を蹴散らして現れると、騎馬の蛮族は犬橇の犬に成り下がった。大取(おおとり)は青銅鋳物(いもの)の化身だった。旧世紀のチタン合金と言う、霊超類(れいちょうるい)の優越に浸った下僕(げぼく)達の謹製(きんせい)趣味とは、囲幕(いばく)する領域の兇度(きょうど)がまるで違う。鉄と鉛の如き似て非なる粗造(そぞう)の死神。取り巻きなぞ糸で吊された機体模型でしかない。漠然とした視覚イメージであろうが、書式での指示であろうが、CADすら介さずに自動補正し、あらゆる素材で直接成形出力し得る時代に、砂型鋳造(すながたいぞう)の地肌を醜老の如き無数の皺襞(しゅうへき)が縦横に走り、殴り込んだ空間を蹂躙している。文明の仮面を剥ぎ、進化を拒絶した呪界からの使者。人工被膜の虚飾を(はい)し、緑青(ろくしやう)の酸化被膜で(ただ)れた憑魔(ひょうま)葬厳(そうごん)。まさか此は完全機械化人が産声を上げた創世記のミイラなのか。

 マシンニングで彫造された犀革(さいかく)の如き団塊の中核に、インローで()め込まれたモノアイから、猟奇を帯びたプラズマが放電している。回転ベゼルに縁取られた風防硝子の眼底で、積算尺(せきさんじゃく)のインデックスを掻き(むし)る長短の神経質な複針(ふくしん)。鏡面研磨された文字盤を血走るカドミウムレッド。頬から襟足に掛けて富士壺の様にこびり付いたベアチップを駆け巡る、珪酸(けいさん)コバルトのフィラメント。下顎のエアフィルターが排気する焼き(ごて)の如き痛罵。

 鉄郎は凡庸な群臣を一撃で睛圧(せいあつ)した総帥の槍眸(そうぼう)に衝き抜かれ、九死(きゅうし)の戦慄すら氷結した。鼻先を擽る銃口の比ではない。モノアイの魔窟に蠢く独善と狂爛(きょうらん)。見てはいけない物を見て(しま)った、禁忌(きんき)に触れた誅撃(ちゅうげき)(しん)(ぞう)を鷲掴みにされて、吐息一つ(あえ)ぐ事すら(かな)わない。

 「伯爵、此のガキを(おとり)にして。彼の女を(おび)き寄せましょう。」

 「(たわ)けが、そんな美人局(つつもたせ)の様な真似が出来るか。漁がしたければ貧民窟で騒いでゐろ。良いか、何時もの獲物とは訳が違ふ。無傷で捕らえなければ意味が無い。レーザーライフルの出力をもつと抑へろ。相手は生身の人間だ。炭にするつもりか。女の足跡を踏み荒らすな。獲物は直ぐ其処だ。行くぞ。

 爵位を冠した鋳鉄(ちゅうてつ)羅刹(らせつ)が踵の拍車を軍馬の腹に蹴立て、瀟洒(しょうしゃ)な軍装を(ひるがえ)すと、配下の機畜(きちく)も其の後を追い、母が姿を消した方角へと殺到する。鉄郎は()(つくば)ったまま蹄鉄の巻き上げる後雪(こうせつ)を被り、己の存在を無視して過ぎ去っていく馬脚を避けて、強張(こわば)っている事しか出来ない。遠離っていく嘶きが死に(ぞこ)ないの雑魚を嘲笑(あざわら)う。踏み散らされた足跡が転がっている以外、露命(ろめい)を拾えたと言う実感なぞ何処にもなく、モノアイの金縛りから解かれたと言うだけで、恐怖と悪寒で骨の継ぎ目すら合わず、母の命が危ないと言うのに、(かさ)を増す雪の粒子が整然と体温を奪っていくのを愕然と承諾している。千切れる程に痛かった鼻筋や頬、指先の感覚は既にあやふやで、肘から先と膝から下も緩慢に麻痺し、魯鈍(ろどん)な睡魔が背後を付け狙う。終末を告げる地吹雪の大勤行(だいごんぎょう)。視界の総てが頭ごなしに()ぎ倒され、此処には今、生を拒絶する物以外何も無い。人間狩りの狂騒が眼の前を素通りし、百鬼夜行の戦列に復帰した事で、死がより深淵を究め、時が限界を刻み、置き去りにされた雪原を研ぎ澄ます。敗北の傍観者と決して眼を合わせない、現実の峻厳(しゅんげん)な素の横顔。文明に冒涜(ぼうとく)されたこの星の寡黙な復讐。その忍びに忍んだ心火(しんか)が決壊した様に、皓皓暗澹(こうこうあんたん)たる地の果てを、突如、荘厳な地響きが轟いた。重機に()る衝撃とは明らかに異なる大地の慟哭(どうこく)。鉄郎の薄弱な意志を震撼する運命の弔鐘(ちょうしょう)壊疽(えそ)寸前の指の先まで痺れる、その忌まわしい余韻を(つんざ)いて、翡翠(ひすい)の光弾と母の断末魔が交錯する。

 震えが止まった。高波の様な暴風雪の(つぶて)が点描となって静止し、地鳴りの如き轟音が途絶え、逆巻く荒天の彼方で、レザーライフルとは異なる金属の炎色反応と思しき光芒が闇を焦がしている。捕らえた獲物を(けみ)する為に投光器で照らしているのか。命の灯火とは程遠い、温もりのない無機質な燃焼。聞こえた筈の絶叫は脳にメスを入れられた様に切除され、恐れていた事が寸分の狂いもなく進行していく銀幕の世界を認識が拒絶し、母さんが撃たれた、と並べ立てる白けた字句が、意味を置き去りにして雪に舞う。石化した心拍の秒針。終息していく遙かなる弧光(ここう)。其の(かす)かな火影(ほかげ)が、住み慣れた荒ら屋の囲炉裏の中で微睡む、健気な種火を呼び覚ます。

 (つくろ)い物をしながら神代の物語を(つむ)ぐ、母の(あつ)き祈りを(かぐわ)し、限られた食料を煮炊きして五節句を祝い、旧市街地から掘り起こした、黴黒(ばいこく)()す教科書や少年誌の単行本を照らした、彼の灯火。母と二人で身を寄せ合った日々の断片が追憶の炎に揺らめき、辛く悲しく惨めだった出来事が、寧ろ無性に懐かしく、愛おしく、狂おしい。甘美な随想に導かれ降り注ぐ憐慕(れんぼ)の清らかな慈雨(じう)。其の仮初めでしかない御恵みが最後のマッチをへし折った。

 豪雪の瀑布(ばくふ)に呑まれ燃え尽きた燐光。思わず取り(すが)ろうと鉄郎が身を乗り出した瞬間、肋骨が波打ち、怒濤の震駭(しんがい)が脊髄から脳髄へと(せき)を切る。表裏が捻転し食道を逆走する胃粘膜。眼圧が軋みを上げ、毛細血管がレッドアウトする網膜。分類不能の感情が声帯を切り裂き、雄叫びが運命の扉に響き渡り、雲母摺(きらずり)の虚空に張り付き静止していた地吹雪が息を吹き返す。鉄郎は氷獄(ひょうごく)の鎖を引き千切り、潰えた光を求め半狂乱で駆け出した。引き返す場所なんてない。生死存亡の節目も見失い、唯只(ひたすら)、蹄鉄の(わだち)を駆逐する。解体現場の破断された鉄骨の様に屈曲して絡み合う凍結した四肢。物の十メートルと進まぬ内に足を取られて、後はもう降り積もる雪に溺れ、藻掻き匍匐(ほふく)する。追っているのか追われているのか、前に進んでいるのか、地の底に潜り込んでいるのかも判らない魂の痙攣。

 隻眼(せきがん)の死神を睨み返す事すら出来ぬ分際で、一体何がしたいのか。厳然たる危機を漠然とした不安の影から覗き見るだけで、未曾有の恐怖に平伏(ひれふ)した腑抜けが、今更、己の肉体を痛め付け、助けには行ったと言うアリバイでも欲しいのか。

 顔面から足許にのめり込み汚染した雪を食むその後頭部を、上から踏み躙る自劾(じがい)のリフレイン。千仭(せんじん)の山を転ずる(いわお)の如くのたうちながら、盲爆の連鎖をブチ撒けていると、何時しか鉄郎はドス黒い泥濘(ぬかるみ)の中で身悶えていた。果てしなき雪原に其処だけが欠落した様に口を開け、敷き詰められた、降りしきる雪を無言で呑み込む漆黒の茫漠(ぼうばく)。其の生臭い闇に憑き物を葬られ放心した鉄郎の眼に、見覚えのある()()ぎの襤褸が止まった。まさかと思い手に取ると、それは脱ぎ捨てられた母の外套で、泥濘と思い掻き分けていたのは、バケツで撒いたかの如き致死量の血溜まりだった。

 凍傷で麻痺した頬に針を刺す様な熱い感覚が本の一瞬(よみがえ)る。接着剤の様に固着し黒ずんだ皮膚に涙が溢れていた。手の中で棚引くポリエチレンの焼け焦げた風穴。血の池を(また)いで何処までも続く蹄鉄の跡。決定的な状況証拠を突き付けられた鉄郎は、幼児帰りでもしたかの様に、

 「どこにいったんだよう。」

 と甘えた声で口籠(くちご)もり、母の外套を胸に抱き(すく)めて血の池に(ぬか)ずいた。涙が襟足を脇腹を背筋を伝う幾筋もの汗と共に醒め、死灰(しはい)の如き暴風雪が丸腰の体温に牙を剥く。壊疽(えそ)した痛覚に昏々(こんこん)(うず)もれていく氷塊した泣血哀慟(きゅうけつあいどう)

 力尽きる程の力すら持ち合わせていない雑魚に、失って途方に暮れる程の未来なぞ元から無かった。筋彫りを殺して電脳化し、此の星から御然(おさ)らばする。そんな御伽噺に一匹狼のつもりで喰らい付き、自慰の屋根裏に閉じ籠もっていただけの夢精病者。たった独りしかいない肉親の命の行方さえ判らず、(おびただ)しい血祭りの跡を前にして、撃ち殺される価値すら無い自分の存在に、薄ら笑いを浮かべる事すら出来ない。朝露を(すす)って木の根を囓り、瓦礫の陰に隠れて機族達の眼から逃れ、襤褸を(まと)って屑を嗅ぎ廻る姿を、貧民窟の餓鬼共から蓑虫(みのむし)呼ばわりされた()()此の様だ。塵外(じんがい)を垣間見る事すら出来ず、(うな)され続けるだけで醒める事のない悪夢。此が神の試練、人類の始祖から受け継いだ原罪、巫山戯(ふざけ)るな。母さんを、母さんを返せ。()れが(かな)わぬのなら、せめて、せめて一目、母さんを・・・・

 

 

    たらちしの母が目見ずして(おほほ)しく

         何方(いづち)向きてか()が別るらむ

 

 

 吹き止まぬ永訣の白墨に組み敷かれ、天地も知れず遠退いていく意識の中で、鉄郎は頭から(のめ)り込んだ新雪に向かって呟いた。他に何かを言い残すも何も無い。唯、母を想う心だけが最期の一点に結晶していく。すると、完全に雪に埋もれる寸前の背中に、香貴(こうき)を散らし歩み寄る、端然とした気配を感じた。息の根を(うかが)う、其の無為な眼差し。喪神(そうしん)の彼方にささめく閑吟低唱(かんぎんていしょう)

 

 

  大口(おほくち)眞神(まがみ)(はら)に降る雪は

 

      いたくな()りそ(いへ)もあらなくに

 

 

 

 

 

 満ち(あふ)れた潤いのある暖気に頬と爪先の凍傷が充血してさざなみ、手足を覆う滑らかな肌触りがしっとりと汗ばんでいる。心地良い朦朧と疲労と弛緩の三和音。(なまく)らな意識の(かたわ)らで何かが(しか)りに()ぜている。囲炉裏で柴を焚いているのか、否、此の音にはもっと芯がある。立ち枯れた灌木の小枝とは訳が違う。閉ざされた瞼の向こうで、(なご)やかな火勢に身を(やつ)す野太い薪の独白。絡み合う樹皮と(やに)燻香(くんこう)。こんな稀少な森林資源、一体、誰が何処から。

 鉄郎は何時以来とも知れぬ安らかな微睡(まどろ)みの中で、僅かに(かし)いだ疑問符を定点に、漂泊する自我と世界を寄せ集める。寒波の訪れと共に厳しさを増す日課の資糧(しりょう)採取、歩いても歩いても外れを引く徒労の行軍、綿雪を纏い降臨する999の光跡、銀箋(ぎんせん)に綴る母の寿哥(ほぎうた)()かれ合う途切れ途切れの時系列。折り重なって広がる波紋と波紋。其の(なめ)らかに解晶していく追憶の曲水(きょくすい)に、形無き小さな(しこ)りが渦を(とも)す。覗き込んだ水面に明滅する己の姿。何かに魅入られ硬直した其の表情に、蹄鉄が雪煙(ゆきけむり)を巻き上げる。白暮(はくぼ)に散った断末魔。小さな痼りに亀裂が走り、芽吹いたカドミウムレッドの隻眼が、黒変した血の池に鉄郎を突き落とす。

 肋骨を穿(うが)心駭(しんがい)。息が詰まって跳ね起き、寝汗に浸かった襟足を地吹雪が駆け抜ける。甦った戦慄と露命に悟性が追い付けない。生きている、のか。記憶と統覚(とうかく)が鮮明に成れば成る程、あやふやで手に付かぬ実感。整えた呼気が(はい)()(すこ)やかに環流している事にすら、素性の知れぬ(うつ)ろな吐き気を催してしまう。

精も根も尽き果て自ら血の池に身を屈した。母の跡を追う事も、我が身を護る事も諦めて、死の逸楽に溺れた。一度捨てた筈の命。塵を拾って生きてきた其の功徳(くどく)を買われて、御仏(みほとけ)に拾われたとでも言うのか。鉄郎は真っ新なシーツを(しつら)えたベッドの上に坐していた。しかも、服を着ている。襟足から爪先まで純綿の柔和な天然繊維に抱かれて、西方(さいほう)十万億土(じゅうまんおくど)を過ぎた、極楽の蓮の(つぼみ)から生まれ変わったかの様な天地転倒。全く身に覚えのない僥倖(ぎょうこう)は、却って鉄郎の疑心を(あぶ)り立てる。

 洗い晒しの霜原(そうげん)を爽やかに敷き詰めたシャンブレーシャツに、点描のストライプで抜染(ばっせん)したインディゴのベストを重ね、丁寧な毛焼きを施された太畝(ふとうね)のコーデュロイパンツは、奥行きのある(とび)色の光沢を湛え、真鍮のファイヤーマンバックルがタンニン(なめ)しの黒革ベルトを慇懃(いんぎん)に施錠し、オーガニックコットンのみで編み上げられたクルーソックスの雲の上へと誘う優しさに、石化して(あかぎれ)を巡らす足の裏の角質が、人の情けを知らずに育った追い剥ぎの様に戸惑っている。化繊の混紡や時流に媚びた模造品とは訳が違う逸品。細部に宿る(こだわ)りと失われた筈の技術が、厳選された素材を磨きに磨き上げている。

 産廃から掘り起こした古着は総て塩や医薬品と交換し、外套とは名ばかりの端切(はぎ)れを継いだ襤褸一枚を被って、夏も冬もなく雨露陰寒(うろいんかん)を凌ぐ。そんな踵の千切れたサンダルに爪先を引っ掛けた事すらない鉄郎にとって、ミシンで縫製された卸し立ての衣服は、夢の続きでなければ何かの策略としか思えなかった。

 見上げれば、直天井(じかてんじょう)を行き交う厳めしい大梁(おおばり)。ウェザーチェックの欠片もない漆喰の壁。オーク材で統一された床板と家材は、油絵のモチーフの様な配置と調和によって整然と完結している。浅浮(あさう)()りのサイドボード、扉にステンドグラスを施したガラスキャビネット、棺桶を立てた様な長躯(ちょうく)のワードロープ、天板に虎斑(とらふ)杢目(もくめ)が踊るドローリーフテーブル、重厚な装幀(そうてい)の全集で埋め尽くされた本棚と、手持ち無沙汰(ぶさた)なマガジンラック、両翼を広げて宙を(せい)す壁掛けのシェルフ、金鍍金の文字盤を掲げた重錘(じゅうすい)式のホールクロック、ガンラックに縦列して横臥(おうが)する中折れ式散弾銃の数々。天涯孤独の主人公が迷い込んだ、眠れる森の(あるじ)無きロッジ。幼き頃、廃校の瓦礫の中で眼にした洋書の挿絵が甦る。訪問客の審美眼を意識した肖像画や小賢(こざか)しい饒舌(じょうぜつ)な陳列、金満趣味の華美な装飾はなく、沈思に(ふけ)る調度品の寡黙な経年変化を囲んで、爆ぜる暖炉の昔語りに、窓外の吹雪が相槌を先走る。

 気象制御されていない処を見ると、メトロポリスの管理区域外だ。文明に追われた棄民の墓場に、こんな(ぜい)を尽くした旧世紀の遺物が現存するなんて。奇妙な部屋だ。非の打ち所のない保存状態は文化財の展示場の様に人を突き放し、自宅の荒ら屋には溢れていた、手の温もりで磨き込まれた色艶も、喜怒哀楽を巡る生活の息吹も、何かが過ぎった残像の欠片もない。忘れ去られた隠し部屋の如く、幽居(ゆうきょ)に秘した空虚。八時半を跨ぐホールクロックの針が、重錘の鎖に縛られた小さな世界を周回している。

 (だま)し絵の仕掛けを探る様に、ザワついた耳閉(じへい)感を(そばだ)てる鉄郎。夢魔の館に一服盛られて、己の拾った命すら妖しく、心を許す事が出来ない。粉飾されたこの部屋の意匠を暴け。漆喰とオールドオークの狭間に(ほころ)びを探る、敏捷な邪視(じゃし)の切っ先。其の一閃が、ドレッシングチェストのオーバルミラーの中に潜んでいた金鱗(きんりん)と擦れ違う。咄嗟(とっさ)に振り返った鉄郎の頬を張る冷や水。細かく(びょう)の打たれた総革張りのウィングバックチェアに、女が深々と身を(うず)めている。何時から其処に座っていたのか。鉄郎の点眼外顎(てんがんがいがく)を意に(かい)さぬ、白檀のオードトワレを(まと)った不敵な物腰。その傲然とした気配に全く気付けなかった驚きを、此の唐突な亜空間の(あるじ)(はる)かに凌駕していた。

 「母さん?」

 鉄郎の絶句した眼路の先に鎮座するたった独りの肉親。凄惨(せいさん)な最期を一度は覚悟した悲衷(ひちゅう)の人が今、其処に居る。それなのに、渇望していた筈の奇蹟の再会に、鉄郎は犬歯を剥いて身構えていた。此奴は誰だ。欲目に(くら)んだ幻にしても度が過ぎる。

 彫金細工の様に繊細な肢線をなぞる、艶やかで毛足の深いフォックスコートに露西亜(ロシア)帽のロングを合わせた、輝ける闇の様な黒装束。肩口から小脇へ豊かに波打ち、蜂腰(ほうよう)を抱いて(こむら)(くすぐ)る糖蜜の様な金色(こんじき)垂髪(すいはつ)。光と陰が(せめ)ぎ合う魔性のコントラストに、鉄郎は冷徹な狂気を直感した。仙山桃質(せんざんとうしつ)、偽りを知らぬ瑞々(みずみず)しい頬。研ぎ澄まされた(おとがい)に眠る独片(ひとひら)丹唇(たんしん)。切れ上がった秀鼻(しゅうび)の子午線から解き放たれて棚引く蛾眉翠彩(かびすいさい)。翻った鳳尾(ほうび)が如き雅な睫毛に縁取られた、絶世の星眸(せいぼう)。完璧なデッサンによって構築された生みの親の生き写しは、オリジナルを超えて若々しく、現世から逸脱し、最早、天来の美、神来(じんらい)の妙とは程遠く、其の容色、()みを含まず、無菌漂白された痛ましさで、瞬き一つせずに窒塞(ちっそく)している。

 これは何の模倣劇だ。無断複製にも程がある。一体、何様のつもりだ。此の贋作野郎。鉄郎は理路の通じぬ女の存在感に呑まれるまいと、空回りする思考に罵辞(ばじ)を殺到させる事で防塁を築き、己を奮い立たせた。

 肘掛けに添えられた女の手の肌理は白磁の玲瓏(れいろう)を奏で、五指を滴る爪甲(そうこう)月長石(げっちょうせき)神韻(しんいん)(たた)え、荒れ果てた大地を、産廃の蟻地獄を素手で掻き分け、掘り起こす日々とは無縁の安逸に浸っている。母の手は鉄郎と同様に、指と爪の区別さえ付かぬほど角質化し、ラッカーシンナーに浸して削っても落ちぬ程、ドス黒く汚染されていた。其の懸命に生きてきた証を、無自覚に嘲笑う女の洗練された(たたず)まい。何より、柩の中に納められた黒耀石(こくえうせき)の様に透徹した其の眼差し。生き別れていた息子を無言で視姦し続ける親が何処にいる。こんな魂の入っていない猿真似でも良いから、母さんには生きていて欲しい。だが、違う。鉄郎は塵汗(じんかん)()して(なほ)()を放つ母の面影とは真逆な、女の硬質な面の皮を睨み返した。

 見れば見る程、訳が判らない。この肌の艶、潤い、発色からして、女が血の通った生身の人間である事は()ず間違いない。どれほど精巧に加工、改良されていようと、人工被膜はポリウレタンや塩化ビニールの塊だ。表情筋のモデリングにも限界がある。体の線は細いが栄養状態が悪いとはとても思えず、汚染物質の蓄積や遺伝子障害も見当たらぬ、相当な優良種だ。筋電義肢や人工臓器をマウントしている事もないだろう。鉄郎が(かつ)て見た事がない程の衛生的な健体。それなのに女の令顔清色(れいがんせいしょく)は掛け替えのない生の恩寵(おんちょう)を無視した、破戒の彼方に傲座(ごうざ)している。(あたか)も機械化人を超絶した究極のエリート。遺伝子ドーピングの生み落とした第三の人類。麗しき即身成仏(そくしんじょうぶつ)が辿り着いた至高のマネキン。

 慈悲の欠片も垣間見せぬ、母の仮面を被った此の幽女(ゆうじょ)が、自分を血の池の底から救い出したのか。彼の惨劇の現場を見たのなら、何故、平然としていられるのか。(そもそ)も何故、其処に居た。偶然立ち寄る様な場所じゃない。人間狩りの探査の網も張られていた。数え上げたら切りがない、些細な糸口の総てが蛇影(じゃえい)と化し、母が襲われた其の場所で、母の生き写しに助けられると言う奇僻(きへき)に迷い込む。そして、本の僅かでも嫌疑の手綱を緩めると、弾除(たまよ)けにすらなれなかった母への贖罪(しょくざい)と思慕が決壊し、女の足許に縋り付きそうになる。其処へ不意に、

 

 「具合はどう?ああいう物しか用意出来ないけれど、良かったら召し上がれ。」

 

 素っ気ない事務的な響きが、女の口を掠めた。母と寸分違わぬ声色に揺すぶられる、鉄郎の張り詰めていた虚勢。そして、女が眼で促す先に(あつら)えた()()しに、息を潜めていた獣性が唸りを上げる。引き()った小鼻の奥で、想定外の芳醇な粒子に感応する鼻粘膜。振り返ると、ドローリーフテーブルの上にコバルト絵具で彩色されたティーセットが湯気を立てている。何時の間にと(いぶか)る暇もない。鉄郎は女への穿鑿(せんさく)を薙ぎ倒し、車座(くるまざ)(かしこ)まったボーンチャイナの鈴生りに飛び掛かった。

 ポットから沸き立つ浄水の香気。腰の括れた小瓶の中に眠る上白糖は、石英(せきえい)の煌めきを湛え、小皿に盛られたチョコチップクッキーの尾根が、ゴツゴツと肩を小突き合っている。鉄郎は茶葉を無視して砂糖を瓶ごと呷り、ティーポッドの注ぎ口を(くわ)えて何の躊躇(ためら)いもなく流し込んだ。喉を焦がす熱湯。垂直落下の火砕流が急き立てる圧倒的なリアル。夢じゃない。小皿に頭から突っ込んでクッキーを犬食いし、ティーポッドを呷っては、クッキーの欠片を抱き込む様に掻き集めて皿に齧り付く。

 粗造遺伝子による工業野菜や培養肉の、取って付けた様な口当たりとは一線を画す、天然の原料によって練り上げられた、偽りのない純朴なる滋味。蟻がバターとマーガリンを嗅ぎ分ける様に、鉄郎の舌は豊饒(ほうじょう)無雑(むざつ)にのめり込んだ。グルテンの顆粒から(ほぐ)れる炭水化物の甘味とカカオの苦味を、円やかに包み込む全卵と乳脂乳糖。塩と油脂を摂取する為に、腐敗した石鹸ですら噛み砕き飲み干してきた、(やすり)の様な味蕾が望外の慈雨に戦いている。富貴を究めても叶わぬ珠玉の稀少食材を、どうやって手に入れたのかなぞ今は構っていられない。

 歯の根を濁流する鉄砲水の様な唾液の氾濫。額から噴き出す荒玉(あらだま)の汗。胃酸が渦を巻き、血糖が毛細血管を急激に押し広げ、首筋から二の腕に発疹が駆け巡り、網膜に星が飛ぶ。物を噛んでいるのか、唸り狂っているのか、呑み込んでいるのか、痙攣しているのか判らない。体中の細胞が押し寄せる養分と水分の一粒一粒を奪い合い、分解から合成に転じた筋繊維の一筋一筋が弾けて、撓垂(しなだ)れていた肩胛骨が脊椎がグツグツと隆起する。復活した敗者の肉体。ブレーキの壊れたカロリーの激流は、延髄から前頭葉へと絶頂する脳血流の熱暴走と繚乱(りょうらん)し、神経回路の活動電位をブッ千切る。見境を失った食欲と暴力。底知れず精力が漲ってくる。衰弱と疲労によって虐げられていた怒りが、母に手を掛けた機賊(きぞく)と、()(すべ)もなく傍観した非力な己に対する問答無用の憎悪が、喉に支える焼き菓子とは逆流する様に込み上げ、鉄郎は肩で息をしながら徐に振り返った。女は(さか)しらに左の口角を吊り上げ、侮蔑と愉悦の入り混じった狐視(こし)(くゆ)らせている。家畜を値踏みする粘着質の涙腺。鉄郎は息を吹き返えした獣心を(かろ)うじて組み伏せ、其の巫山戯た眼差しを睨み返した。

 「君は大丈夫だったのかい。」

 「大丈夫って、何が?」

 「人間狩りだよ。」

 緊張感の欠片もない女の反応に、鉄郎は助けてもらった礼すら忘れ、チョコチップを飛ばして噛み付いた。

 「人間狩り?どうせ機械伯爵と其の取り巻きでしょ。此の辺りでそんな下品な気晴らしに繰り出すのは。」

 「機械伯爵?知っているのか。」

 「知ってるも何も、片目の赤いのが威張り散らしていたでしょ。(あれ)がそうよ。宇宙開拓事業で財を成した銀河鉄道株式会社の筆頭株主で、財界の盟主。名声と罵声の小競り合いが絶えなくて、無駄に有名だから、耳を塞いでいても聞こえてくるわ。会社の総会でもあるんじゃないの。何時も此の時期は湾岸の旧本社跡地に逗留しているわ。」

 「湾岸?何でメガロポリスじゃなくて、そんな管理区域外に。」

 「さあね、敵が多いから、寝首を掻かれない様にしてるんじゃないの。」

 「其の旧本社跡地って湾岸の何処に在るんだ。もっと詳しく教えてくれ。母さんを助けるんだ。」

 「どうやって行く気。つい今し方、外の吹雪で死にかけてたのに。例え辿り着けても、返り討ちにあうだけよ。助けるとか言ってるけど、連れ去られたのなら今頃、床の間の剥製にでもなってるわ。一緒に並べて飾られたいの。幾ら彼の男でも、其処(そこ)まで酷い趣味じゃない筈よ。」

 黙っていればゾッとする程の妍容(けんよう)が、救いなき過言を連ねる毎に卑しく身悶え、生き生きと幻滅していく。滑らかな表情筋を利して狡猾に歪む翠翼(すいよく)(まなじり)、陰湿に険を刻む(しと)やかな鼻梁(びりょう)。美醜入り乱れ、妖艶に狂い咲く、魔に取り憑かれた異形の女神。恩に着せた物言いにしても程がある。被災者の嗜みも此処までだ。助けてもらった負い目なら、(あだ)熨斗(のし)を付けて返してやれ。此のイカレた女には其れが御似合いだ。筋彫りを殺れと(そそのか)した彼の声が再び木霊(こだま)する。鉄郎はガンラックの散弾銃を奪い取り、其の銃口を突き付けた。

 「余計な口を叩いてる暇があったら、言われた通りに案内しろ。」

 全身に浸透した糖質が獲物を求めて爆ぜている。機械伯爵の前に先ずこのドス黒い女狐からケリを付けろ。激情が快感に達し、凶賊の酔美な熱狂に惚気(のろけ)ていく。(ところ)が女は鉄郎の血走った眼睛(がんせい)を平然と正視して、微動だにしない。寧ろ思春期の御乱心を楽しんでいる。

 「そう言うの撃った事有るの?」

 ウィングバックチェアに深々と身を沈めて、軽挙妄動を誘発する、幼子(おさなご)(あや)す微笑み。如何(いか)なる災禍にも動じなかった母の面影が、(いか)めしく構えた銃口の先で(くつろ)いでいる。小兵(こひょう)の鉄郎には(たけ)の余る長躯(ちょうく)の銃身。鈍重なクロムモリブデンの塊が、当ての外れた逆上に()し掛かる。此は飾り物で弾は込められていないのか。銃爪(ひきがね)に食い込む人差し指の第二関節。行き場のない若さを(いさ)める其の冷徹な肌触り。(いや)、こんな物は只のブラフだ。俺はサーカスのライオンじゃない。一発脅して、口の聞き方を教えてやる。若し手元が狂ったら、生身の体を恨むが良い。鉄郎は女の頭上を狙って銃爪に力を込めた。白熱無晶(はくねつむしょう)した意識の中で一点に集中する重厚な手応え。撃針が雷管を姦通(かんつう)し、肩に抱いた銃床(じゅうしょう)が官能に激甚する、筈が、

 弓形(ゆみなり)の鋼芯は、錆で檻の腐着した地下牢の如く、軋みを上げて微かに(かし)ぐと、少年の焦がれる雄々しき英雄譚を()()けた。何を囓って終っているのか、安全ピンをスライドさせようとしても頑として動かない。照星(しょうせい)越しの銃軸線上で、噴飯(ふんぱん)を堪え切れぬ女の口角が含みを(かも)す、どうしたの坊やの一言。不屈の銃爪に鉄郎の鬱血した人差し指は悲鳴を上げ、襟足に噴き溜まる冷や汗と脂汗が先を争って背筋を洗う。整備不良でも何でも良い、責めて此の一発だけでも、どうにかしやがれ。使い込まれた擦り傷や打痕が物語る歴戦とは裏腹に、揺すぶっても、()(さす)っても(らち)の明かぬ、眠れる往古(おうこ)の銃身。痺れを切らした鉄郎は女から眼路(めじ)(かぎ)り、足許にライフルを叩き付け、奇想(あまね)く千夜一夜の口火を切った。

 床の上を活魚(いきうお)の如く跳ねてライフルは暴発し、レースのカーテンを巻き上げて、砕け散った窓枠から地吹雪が激龍(げきりゅう)となって躍り込む。雑兵(ぞうひょう)の独り相撲を虚仮(こけ)にする古鉄(こてつ)咆哮(ほうこう)。黒服の深い毛足と鳳尾の如き金髪を棚引かせながら雪の女王は立ち上がり、不意の撃発に腰から砕け落ちた鉄郎を見下ろして、傲然(ごうぜん)と高笑う。まともじゃない。異彩に煌めく見開かれた瞳孔、突き抜けた焦点。崩壊した顔面神経。心の底から(ほとばし)る一点の曇りも無い卑劣な歓喜。荒れ狂う旋雪を纏い、其の美貌と白檀のオードトワレを振り乱して発情する、鬼界(きかい)の化身。見目麗(みめうるわ)しき容姿以外あらゆる物が欠落している。例え首を切り飛ばしても、此の下品な嘲弄(ちょうろう)を止める事は出来ないのだろう。溺れている子供に石を投げる様な奴だ。自分を暴風雪の渦中から救い出したのも、死神の気紛(きまぐ)れか、より残酷な最期を(あつら)える為か。鉄郎は床の上に這い蹲って、人の不幸を肥やしに咲き誇る悪の華を睨み付ける。蹴汰魂(けたたま)しい高笑いと、吹き止まぬ嵐を引き連れ、悠々と部屋を出て行く女。

 恩を仇で返す事すら叶わず、とんだ俄狂言(にわかきょうげん)を振る舞って、何の御咎(おとが)めもなく取り残された雪の御白洲(おしらす)。吹雪の中でくたばり損ねただけでは飽きたらず、自ら注いだ恥辱に泥を塗る(てい)たらくに、行き場のない憤りが、吹き飛ばされた調度品に紛れ床に散乱している。ガンホルダーには未だ数挺のライフルが縦列待機していると言うのに、二の矢、三の矢を物色すらせず、鉄郎は只、恍然(こうぜん)と見上げるばかり。

 彼の女の言う通り、機賊の巣窟を単独で突破し、母を助け出すなんてハリウッドの三文オペラだ。今は小腹が満ちて血の巡りが良く、逆上に拍車が掛かって、犬死にを物の数にも入れていないが、此の熱病が(つい)えたら、後は何一つ残らない。母が命懸けで(まも)り抜いてくれた此の命を粗末にして、どんな面目が立つというのか。塵を漁って生き延びる。其れが鉄郎に出来る唯一の弔い。母の死に次ぐ、最も耐え難き現実。死にかけようと生き残ろうと、欲動と貧苦の尽きぬ肉体で簀巻(すま)きにされ、無情な運命に押し流されている事に変わりはない。結局、絶望の裏返しでしかない激昂に翻弄されている、何時もの自分に鉄郎は不時着していた。

 真鍮のドアノブが小首を傾げ、更なる激動の扉が開く。死神が帰ってきた。暴風雪の出迎えを無言で制し、常闇(とこやみ)幽姿(ゆうし)金襴(きんらん)(たてがみ)(なび)かせて、橋掛(はしが)かりを(くぐ)(のち)シテの殺気。夢幻の禁域を破った狂愕(きょうがく)御息所(みやすどころ)。隣の部屋から再び姿を現して、ウイングバックチェアを素通りすると、鉄郎の前に立ちはだかり、迷える子羊が途方に暮れる事すら許さない。黒い雪女は左手に黒革のPコート、右手にA4サイズのツールボックスを提げている。

 「フルチャージされてるわ。例しに彼の鏡を撃ってみなさい。」

 顎で指図し、女が右手を振り上げると、宙を舞うツールボックスは硬質な連結音で痙攣し、受け止めた鉄郎の手の中で。短身のレーザーアサルトに可変した。リアサイトに浮遊するエアディスプレイ、光発振器へと通ずるオートレンジの銃口、老竹(おいたけ)色のカーボンファイバーで成形された玩具の様に軽量な本体は、銃爪を添えたグリップとハンドガードがなければ、計測機器の(たぐい)だと言われても鵜呑みにしただろう。

 オーバルミラーに眼を遣ると、凍傷で黒変した孤児が放心している。時化(しけ)た面しやがって。気合いが足りねえんだよ、此の煤被(すすかぶ)り。鉄郎はドレッシングチェストの流麗なレリーフの中に埋め込まれた、惨めな肖像へポインターを飛ばした。エアディスプレイを透かして、炭を()いた様な頬の上に点る(あか)い粒子。鏡面の呪力に惹き込まれ、嘘の様に軽い銃爪を引くと、広角モードに設定された銃口はポインターを中心に120°の範囲を、左から右へ何の反動もなく一瞬で水平に掃射した。A4サイズのハンドツールは武器ではなく兵器だった。閃烈と爆風が室内を席巻し、床の上に散乱していた様々な破片や調度品が再び宙を舞った。撃ち抜かれた漆喰の壁を亀裂が駆け巡り、散弾銃の餌食となった以外の窓硝子も総て崩壊し、屋根を根刮(ねこそ)ぎ吹き飛ばされた様な暴風雪が視界を埋め尽くす。目眩(めくるめ)く白魔の暴虐、網膜に明滅する走査線の残像、甦る母の断末魔。そんな氷点下の阿鼻叫喚に黒い雪女は欲情し、痴塗(ちまみ)れの呵呵絶笑(かかぜっしょう)が響き渡る。

 「どうしたの、(おとこ)なら撃って撃って撃ちまくるのよ。遠慮してる場合じゃないでしょ。貸しなさい。こうやって撃つのよ。もっとレンジを絞って出力を一点に集束しないと、彼の連中は(さば)けないわ。ママを助けたかったら皆殺しにする位の覚悟がなきゃ駄目よ。命乞いをする者がいたら真っ先に片付けて、誰がお前達の主人なのかを叩き込む。頭を狙うのよ。無線で自我をオンラインに退避される前にケリを付けないと、厄介な事になるわ。其れが出来ないのなら、水鉄砲を振り回すのは、御庭のプール遊びだけになさい。」

 鉄郎の手から取り上げられたレーザーアサルトが、今だ原型を留めるキャビネットやワードローブを次から次へと血祭りに上げ、撃ち砕かれた屋敷の柱が、梁と筋交(すじか)いを道連れにして傾ぎ始める。市街戦に巻き込まれたかの如き半壊家屋の直中(ただなか)で、雄叫びを上げる死のレクチャー。

 「ママを愛しているのなら、力尽くで証明するのよ。機械に身を()とした連中の作り物の命なんて、物の数じゃないわ。死を直視出来ない愚か者達を、偽りの無い地獄の底に沈めるのよ。」

 瓦礫の山に光弾を叩き込む衝撃と錯乱が、破滅の女神を更なる陶酔と享楽の境地へとエスコートする。忘我の果てに成就する魂の浄化。此の女が(まみ)れている穢れは尋常じゃない。焦点のイカれた(やぶ)睨みの血相で、鉄郎の顔にPコートを投げ付け怒鳴り付ける。

 「行くわよ。」

 其れは命令だった。

 

 

 

 厩舎(きゅうしゃ)にプラグインしていた四頭立ての半磁動鹿駆(ロック)を起動し、ジャイロブレードの起ち(そり)に乗り込んだ黒服の女は、アークを帯電した双角アンテナに鞭を飛ばすと、迸る火粒で頬を染め、管理区域外の定点を一気に暗唱した。

 「$8q7XmQ86+9h=GPzLD,021438.299,3566.5978,n,

   13976.1469,e,5,27,0.2,3.2,m,32.7,m,,,,000000*44」

 此奴(こいつ)、電脳化しているのか?レーザーアサルトを小脇に抱えて、Pコートの(ぼたん)()めていた鉄郎は意表を突かれ、チームハーネスが弾け走り出した橇に慌てて(つか)まり、箱乗りの儘、屋敷を出発した。左手に見覚えのあるの湖影(こえい)が横殴りの雪を呑み込んでいる。彼は確か窪地に漏出した重金属の泥沼だ。其の(ほとり)には犬小屋どころか草木一本生えていなかった筈だが、今更もう、そんな疑義の一つや二つ怪異の内に入らない。白瀑の彼方へ遠離っていく屋敷と、氷山の様に(ひし)めく、機畜の隆起した脊梁(せきりょう)を叩きのめす、正確無比な女の鞭捌き。先導機のサードアイから放たれるハイビームが照らし出す点景が、何の迷いもなく一直線に過去へと葬り去られていく。此の猛烈な速度の先に何が待っているのか何て見当も付かない。母を救い出す一縷(いちる)の望みに縄を掛けられて身動きが取れず、女の奇矯(ききょう)なエゴに引き擦られ、連れ去られているだけで、鉄郎の意志は完全に取り残されていた。血糖が行き渡って火照(ほて)る躰に、情け容赦ない暴風雪と蹄の蹴立てる雪煙が、沙漠を吹きすさぶ熱波の如く打ち付ける。

 彼程の血の海に沈んだのだ。例え母を救い出せたとして、どんな手当が出来るというのか。機賊の突き付けたライフルの銃口に黄泉の洞穴を覗き見、血に(まみ)れた母の外套を抱き(すく)めて白魔に屈し、際限のない苦しみと悲しみに疲れ果て、此の命を一度は自ら手放した。己の心の奥底にめり込んでいる卑しさと弱さを暴き出してしまった以上、もう何も元には戻らない。どんなに此の橇を飛ばしても、昨日までの自分には追い付けない。運命に引き裂かれた其の断絶を、強壮な機畜の嘶きが吹き抜ける。

 

 

   ゆく先は雪の吹雪に閉じ込めて

 

      雲に分けいる鹿の八十吠(やそぼ)

 

 

 鉄郎は耳を疑った。母に生き写しの横顔が不意に吟じた三十一文字(みそひともじ)。血を分けた温もりとは違う醒めた息遣いが、燃え盛る流星の様に棚引く金髪に掻き乱され、白い闇に消えた。女は従卒(じゅうそつ)扱いの鉄郎を一顧だにせず鞭を(ふる)い続けている。長い睫に(ちりば)められた雪の結晶。風を切る高貴な身のこなし。母の面影に息を呑む助手席の孤児。其の(やわ)な鼻っ面を捨て鉢な舌尖(ぜつせん)が切り刻む。

 「機の利かない男ね。(うた)の一つも(ろく)に返せないの?御里(おさと)が知れるわね。」

 夢から叩き起こされた鉄郎は、本の一瞬でも心を()いた己を(なじ)り、女の売り言葉を買い叩いた。

 

 

   黑銀之果弄荒天  黑銀の果て 荒天を(ろう)

   玉手探鞭舞影輕  玉手 鞭を探り舞影輕し

   汗血鹿知焦春色  汗血鹿(かんけつろく) 春色を焦がれるを知り

   四蹄總散落雪行  四蹄()べて 落雪を散らして行く

 

 

 美人調馬(びじんちょうば)の当て(こす)りを女は軽く鼻で笑った。母以外の人間が哥を詠むのを、鉄郎は生まれて初めて耳にした。清謐(せいひつ)な容姿と言い、韻微(いんび)な嗜みと言い、何から何まで紛らわしい女だ。眼に映る機族は皆殺しにしろと(けしか)けておいて、悠長に返歌がどうのとは、此の御公家(おくげ)気取りが所望する七色の気紛れで、次はどんな御手前を振られる事やら。血の池に屈し、遠退いていく意識の中で聞いた、

 

 

  大口(おほくち)眞神(まがみ)(はら)に降る雪は

 

      いたくな降りそ(いへ)もあらなくに

 

 

 彼の独片(ひとひら)もどうやら空耳ではないらしい。いっそ古歌(こか)卒塔婆(そとば)に、そっと見過ごしてくれれば良い物を、此の吹雪の中、意趣返(いしゅがえ)しを()いて連れ回すのだから、差し出がましいにも程がある。そうまでして、狼の住処(すみか)に迷い込んだ窮鼠(きゅうそ)の散り華を拝みたいのなら、御望み通り派手な御眼汚(おめよご)しで、其の退屈が見えなくなるまで塗り潰してやる。精々、流れ弾には気を付けろ。鉄郎はカーボンファイバーに巻かれたラバーグリップを握り締め、人差し指に絡む銃爪の感触を確かめた。

 女の鞭の跳ねっ返りが鉄郎の顳顬(こめかみ)を掠める。本の数時間前、恐怖と寒さと衰弱でたった一歩を踏み出す事すらままならなかった吹雪の中を、ジャイロブレードの犀利(さいり)刃文(はもん)は硝子の軌道を()める様に駆け抜けていく。鉄郎の理解を超えた異相を加速する世界。砕け散った星屑の極点に突き落とされた錯覚。動体視力を振り切ってハイビームと氷沙(ひょうさ)が乱反射する、破局への失踪。突き立てたダブルフロントの襟に頬を埋め、鉄郎はちっぽけな運命を翻弄する得体の知れぬ潮力(ちょうりょく)にしがみついた。

 何物とも行き交う事のない、見当識が漂白する程の嵐の中を、どれ程走り続けたのか。先導機がレーザーポインターを進行方向の彼方に飛ばし、捕捉した座標までの距離をエアディスプレイでカウントし始める。新雪を駆る鹿脚(ろっきゃく)は計数に(なら)って減速し、巌健(がんけん)背躯(はいく)から湯気を上げて機畜の隊列が停止すると、女は鞭を後部座席に投げ捨て、橇から飛び降りた。辺りは遮る物一つ無い雪原が広がっているだけで、衰えを知らぬ暴風雪が果て知れぬ闇を跳弄(ちょうろう)し続けている。鉄郎は金糸(きんし)はためく萎竹(なよたけ)の背中に怒鳴り散らした。

 「オイ、此処は何処なんだ。こんな処に機械伯爵とか言う奴が居るのか。何もないじゃないか。」

 スリープに切り替わった機畜が片耳を峙て、筋電義肢の接合部から一瞬カーボンの火花が弾ける。橇のキャビネット端末が自動でマップを起動し、(まば)らな等高線と海岸線以外何もない何処かが点滅している。女は鉄郎を見向きもせずに、黒革のパスケースを宙に(かざ)した。発行銀河鉄道株式会社、地球⇔アンドロメダ、無期限と印字された乗車券に、隠し刷りされた三文字、999のホログラムが七色に浮かび上がる。

 二の句を継ごうとした鉄郎は息を呑んだ。何かが稼働している。文明から見捨てられた不毛の雪原を潜行する重厚な気配。女の対峙する氷堝(ひょうか)の宙空に何かが煌めいた。吹き荒れる茫漠に忽然と針を落とす実体のない燐点。其の微かな瞬きが一筋の破線となって垂直に屹立(きつりつ)し、疑視驚目(ぎしきょうもく)を限る。禁を解かれた秘蹟(ひせき)(ささや)き。重量鉄骨の(きし)む律動が地の底から這い上がり、身の丈を越えた光糸の輝裂(きれつ)から横溢する未知の現影(げんえい)が、女の足許を交わし雪原に伸びていく。凶門(きょうもん)は暴かれた。

 大理石の中央階段が傲然と(そび)える吹き抜けのエントランス。日輪のモザイクを冠した踊り場の壁時計。乳白と琥珀(こはく)の輪舞するステンドグラス。ランプの彫金やエッチングを愛撫する唐草のレリーフ。礼容(れいよう)な意匠で構築された荘重典雅な館内が、果てしなく新雪を敷き詰めた絶界の虚空に刃物を入れて(めく)れた様に覗いている。

 整合性のない実景に焦点が定まらず、鉄郎は失調した視覚と悟性の迷路に(はま)り込んだ。姿無き殿堂の開館。錯視でもプロジェクターでもない。破断した時空の彼岸に垣間見る別次元。世界と世界が座礁した裂傷か、幽界仙窟(ゆうかいせんくつ)への裏口か。光学迷彩なら建物の外郭(がいかく)に沿って雪が降り積もっている筈だが、観音開きの門扉(もんぴ)の裏手を吹雪は駆け抜け、表を過ぎる旋雪は屋内に流れ込んでいく。

 ワームホール?機族達の科学技術はそんな超絶的物理領域にまで達しているのか。幾らなんでも地球の平素な重力下で、そんな時空の継ぎ接ぎなんて出来るのか。(そもそ)も何故、彼の女は眼に見えぬ結界の封を解けるのか。鉄郎は仕組まれた絡繰(からく)りの中にいる事を覚悟した。洋館のエントランスの前に立つ黒い影が(おもむろ)に振り返る。海割りを背に民を()べる、モーゼの如き皇然(こうぜん)とした神色(しんしょく)が激しく歪み、雪のベールを鏤めたフォックスコートが総毛立つ。

 「何をしているの、ママを助けるんじゃなかったの。其れとも、私を銃で脅した時の威勢の良い言葉は只の出任せ?ママを愛しているのなら、今此処でそれを証明しなさい。さあ、奪い返すのよ。大切な宝物を。相手は生身の体じゃないわ。貴方も戦う機械に成りなさい。」

 其れは命令ではなく踏み絵だった。此処が機械伯爵の屋敷なのか、本当に母は此処にいるのか。母の生き霊の如き此の黒服が何者なのか。今更、騒いだ処で始まらない。鉄郎は橇から飛び降りて、亜空間の裂け目に進み出る。額装された細密画の様に、嵐の直中を区画する異界の断層。至近距離で差し向かうと、二つの錯綜する宇宙に角膜が屈曲し、隣り合う凸面(とつめん)凹面(おうめん)が遠近感を覆す。

 こんな大袈裟な仕掛けを組んで獲物が鼠一匹では、間尺に合わなくて心苦しいが、趣味の悪い手品に付き合ってやるのだから、差し引きゼロだ。鉄郎は無人の館内に無理矢理視座を()じ伏せ、レーザーアサルトを起動した。其れを見て黒い女狐が耳を掻き上げ、指に絡めた金髪を口元に添えてほくそ笑む。

 「ま(さき)()らば。」

 こんな嫌味でも聞き納めかも知れないのだから、袖にするのも忍びない。

 「磐女(いわめ)(まじな)いなら余所で遣れ。」

 入場したが最後、戻ってこられるか判らない。そんな心配は帰る場所のある者がする事だ。鉄郎は鬼界の敷居を跨ぎ、輝度を抑えた照明に沈む、何者の気配もない館内に踏み込んだ。

 人類が人類であった頃の尊厳を積み重ねた大理石の団塊。ナノ複合建材が可能にした無制限な構造設計が暴走する、自己顕示欲剥き出しのメガロポリス建築とは地金(じがね)が違う。黙して時の重さを統べる堅牢な階段のスロープ。天倫と格式を掛け合わせた折上格天井(おりあげごうてんじょう)。模造品では築き得ぬ気位の横溢。旧人類から接収したのだろう。今もこの戦利品は何者にも媚びず、自己完結している。鉄郎の存在など意に介さぬ半醒半睡(はんせいはんすい)。母の行方を(ほの)めかす素振りすらなく、踊り場に昇坐(しょうざ)した壁時計が唯、万理を刻むのみ。

 虱潰しに探すしかない。正面階段に向かって歩を踏み出した鉄郎。その間接視野をドス黒い異物が掠めた。右手の開け放たれた扉の影に伏す黒鉄(くろがね)の巨漢。まさかと思い、レーザーアサルトを構えるのも忘れて歩み寄ると、幾層にも塗り重ねられたフタル酸錆止め塗料の黒光りする地肌に、山吹色で銘打たれた「C62 48」のプレートが、在りし日の熱狂を静かに物語っている。破格の大型ボイラーを誇る豪胆な缶胴(かんどう)を横たえた不惑のモニュメント。全長21,475 mm、全高3,980 mm、総重量145.17t、最大出力2,163 PS、最高運転速度100 km/h、国鉄C62形旅客用テンダー式蒸気機関車。

 鋼顔(こうがん)の煙室ドアに冠した前照灯と補助灯、猪首(いくび)型の煙突、(たてがみ)の如き除煙板の鋭角なエプロンの傾斜、鯨背(げいはい)を模した幅広で扁平な蒸気ドーム、ランボードの下で犇めく大直径動輪の隊列、迅雷の様に鍔迫(つばぜ)り合うメインロッドとサイドロッド、躯体を駆け巡る放熱管、送油管、空気作用管の枝葉末節。堅実な鍛冶仕事の集積した圧巻の造形から滲む、車両限界を超克した満身創痍の矜持に館内は心酔し、息を潜めている。

 鉄郎は唐突な展開が途切れる事のない世界に、心の中で張り詰めていた物を見失ってしまった。連結している炭水車の先にも、黒塗りの機影が続いている。時の流れを逆行する何者かに導かれ、未知の回廊に呑み込まれていく招かざる客。分解展示された鋳造(ちゅうぞう)の二軸従台車、機炭間を結ぶ自動給炭機、ボイラー内の煙管に、アセチレン瓦斯(がす)の圧接溶断機材を積載したトロッコが、其れ々々に区画され晦冥(かいめい)(ふけ)っている。

 

 鉄道博物館?

 

 鉄郎は響き渡る跫音(あしおと)を止めて、先台車の板バネから眼路を上げた。宇宙開拓事業で財を成した銀河鉄道株式会社の筆頭株主。黒服の女が苦々しく吐き捨てた言葉が甦る。回廊の角部屋を埋め尽くす各路線歴代のヘッドマーク。其の先に続くギャラリーでは、投炭スコップ、機関士ゴーグル、旧式カンテラ、手持ちの標識灯、砲金製の製造銘板、換算銘板、対進駐軍用表示板、通行証が、古代陵墓の玄室(げんしつ)に所狭しと納められた副葬明器(ふくそうめいき)の如き威彩(いさい)を、硝子ケースの中に封じ込めている。人類の手放した伝世品。機械化人の発掘した人類の遺跡。一つ一つの展示品が寸刻を争う身である筈の鉄郎を、文明の傍観者から、たった独りの弔客(ちょうきゃく)へと(いざな)い、会葬の順路へ送り出す。

 馬車鉄道から鉄索(てっさく)、鉄索から牛車軌道、牛車軌道から蒸気軌道へと変遷していく年表。拡大の一途を辿る路線図。往時の賑わいと風俗を伝える鬼瓦の駅馬舎、泥だらけのゲートルで山を穿つ、敷設工事の褪色した画素の荒いスチール。タイルの欠片を土壁に鏤めたイスラムモザイクのラウンジを挟んで、創業の軌跡を綴る厖大な物量の展示室が、一筋の木漏れ陽すらない樹海の様に続いている。

 時に(うず)もれた史料の堆積が放つ黎気(れいき)に触れて、澄み渡る鉄郎の神性。怒りも焦りも迷いも放熱して、鍾滴(しょうてき)一つ(こぼ)れる事のない地底湖の様に鎮まり返っている。空襲で焼け落ちた駅舎の鉄骨、終戦後の復員・引き揚げ輸送、電気軌道への転換、驚異的経済復興、複合的都市開発のミニチュア模型。右肩上がりの沿革をなぞり、血と汗と涙が報われていた僅かな時代に眼を細める。山を越え谷を跨ぐ定尺の資材の束。人差し指から迸る作業員の点呼。瓦斯圧接による飴色に熔けた鉄と廃油の焦げた匂い。鳴り止まぬ発車のベルが胸に迫る、と言うより此はもう、漠然としたイメージではない。硝子ケース内の陳列物から想起され、押し寄せるのではなく、館内を浸す耳鳴りの内側で現に反響し、一方的に頭骨を攪拌(かくはん)し始める。

 高速鉄道の列島縦断。様々な線形の車輌が最速を競い合う其の外れで(かち)を拾う、花飾りを纏った単線のワンマン列車。西日に染まる田園地帯に鈍行の長い影が伸びる。用水路の脇で見上げる鉄郎に車窓から身を乗り出して手を振る乗客の涙。花電車じゃない。これは廃線の最終列車。鉄郎は其の現場に臨場していた。知覚野をプロジェクターにして投影しているのか、其れとも伝送海馬か。機械伯爵の屋敷と言う現実を上書きして、別れを告げる警笛のドップラー効果が、木造車体から換装した燐寸(マッチ)箱の様な一両編成を追い掛けていく。

 ヤバイ、呑み込まれる。背乗りする気か。手の込んだ細工をしやがって。鉄郎は見当識を固持する為、強制的な合成記憶の狭間から覗く、現実世界の片鱗に眼を凝らした。オーバーフローする前に抜け出さないと、器質的昏睡に滑落する。そう判ってはいても、神経伝達モデムのヘッドギヤすら介さずに、此程の実体感を無線で焼き付けてくるのだから、送信経路を断つ処か、今自分が展示室の何処を向いているのかすら藪の中だ。遠い追憶の彼方で水平線が煌めいている。小雪混じりの重苦しい曇天。何故、陽も射していないのに、と(しか)めた眉間を撃ち抜く衝撃波。管理区域外の蹂躙された更地が脳裏を()ぎり、押し寄せる地鳴りが脊椎に刻み込まれた暴威を呼び覚ます。津波・・・・と言う言葉を無意識の闇へと抑圧する薄弱な自我。メガロポリスから見捨てられた死の大地とは違う、罪なき人々の営みを殲滅する瓦礫の逆流。高台で放心した人垣の頭上を行き交う、地方整備局と報道機関のヘリ。潮の退いた荒野を埋め尽くす文明の残骸と削ぎ残された住宅の基礎。避難所から溢れ夜道を彷徨(さまよ)う人々。先を譲り合う炊き出しの列。唯、其処に居てくれるだけで心強い自衛隊員の背中。碁盤の目の様に整然と建ち並ぶプレハブに自宅を見失う仮設村。海岸線を子供達が駆けてくる。漁業組合の若い衆が押し寄せたホーム。紺碧の空の下、幾重にも打ち振られる大漁旗に迎えられて到着する復興電車。

 生々流転の劇情に鉄郎は為す術もなく(はりつけ)にされ、加速する怒濤の実録が頭頂に過積送信されていく。飽和した鉄道事業と自動運転輸送の台頭による私鉄各社の連鎖的統廃合。起死回生を狙い参入した宇宙開拓事業。度重なる事故の隠蔽。資源と領有の独占を優先し、大気圏外で飛び交う提携と条約の破棄。無人探査機のニアミスを合図に雪崩れ込む武力衝突。契約満了になった民間軍事会社の海賊化と、そんな破落戸(ごろつき)達との更なる蜜月。其れは最早、社史や業積と呼べる様な代物ではなく、顧みる事を許さず切り替わる一場面一場面が、時軸が屈折する程の回転数で高調していく。

 折り重なるシグナルが顳顬(こめかみ)にめり込んでヘルニア化し、眼圧が悲鳴を上げる。片膝を突き髪の毛を掻き(むし)る鉄郎に殺到する、絶海の宇宙。小惑星に停泊した採掘船。扉という扉に真紅のスプレーで殴り書きにされたハザードマーク。防護テープでミイラの様にグルグル巻きにされた人体と思しき塊を、工作機械が通路の床に並べている。医療機器を脇へ押し退け、非破壊検査器が犇めく集中治療室。崩壊した皮膚から染み出す体液で浸水したベットの上に、スパゲッティ状態の小児患者。蚯蚓の様に蠕動する臍帯コード。強制的に胸郭を伸縮させている人工呼吸器の掠れた音漏れ。(しき)りに頭部をスキャンしている無脊椎アーム。遠隔操作で開頭した前頭葉。蛋白質溶接で皮質結合したケーブルの束に絡む金色(こんじき)の乱れ髪。

 此は治療と呼べる代物なのか。幼気な肉塊に群がる解析装置の挙動不審な痙攣。脳細胞蛋白質の局在と動態状況をモデリングした断面画像を、半透明のレイヤーに出力されたバイナリの羅列がゲリラ豪雨の様に塗り潰している。鉄郎は偏頭痛に足許を取られながら、藤棚(ふじだな)の様に垂れ下がっている無数のケーブルを掻き分けて少女のベッドに近付こうとした。すると、16進数の大瀑布が液晶のフレームから旺溢(おういつ)し、鉄郎の視界を埋め尽くして輪転し始める。過積送信の車輪の下で悶絶する三半規管。天地を見失った鉄郎が咄嗟(とっさ)に目の前のケーブルを掴んだ途端、駆け巡る数列が波を打ち、隣り合うゴシックのフォントが解けて連結し、一筋の曲線となって滑らかに蛇行しながら右から左へと走査しては改行していく。眼を凝らすと其れはアルファベットの筆記体。しかも、左右が反転した儘、先走っていく。

 これは鏡越しのカルテ・・・と思う間もなく、握り込んだケーブルの端子が引き千切れ、前のめりに倒壊していく鉄郎の後を追う様に、鏡面文字の筆跡が傾ぎ、注ぎ落ちる様に流れて縦列し、硬質なペン先の屈曲が、毛筆の(まろ)やかな万葉仮名の草書体へと転調していく。花と散り掠れる墨痕(ぼっこん)泡沫(うたかた)微睡(まどろ)みに揺蕩(たゆた)ふ曲水。紐解(ひもと)かれし一幅の書画。圧迫した意識の中で、情報の下僕になる前の文字が、に苛文字(さいな)まれる前の言葉が、言葉を(ろう)する前の心が押し寄せてくる。

 

 

   (たぶて)にも投げ越しつべき天の川

        (へだ)てればかもあまたすべなき

 

 

 ()んでいる。過積送信の嵐が不意に止み、胸を突く大気の鼓動。此は伝送海馬でも、合成記憶でもない。時空を超えて魂振(たまふ)りの哥が聞こえる。色取り取りに閃く短冊の祈りが頬を掠め、天蓋に架かる銀河の渡しへと駆け昇っていく。星屑の岸辺に立つ隻影。笹舟を見送る遠い眼差し。鉄郎は応えた。雲母(きら)の河面を蹴立てて、其の幽かな吐息に手を差し伸べる。

 

 

   天の川水蔭草(みずかげぐさ)の秋風に

      (なび)かふ見れば時は()にけり

 

 

 (こと)()は研ぎ澄まされた夜気に屹立する(しょう)の神韻。万物を生起する聖聾(せいろう)なる音連(おとづ)れ。鉄郎は人の世に降りた(あま)領布(ひれ)()に触れた気がした。()きしめた名香に(むせ)ぶ、白玉(しらたま)五百(いほ)つ集ひ。隔てた逢瀬(おうせ)に踵を浸し、水晶の琉冷(るれい)(そぼ)足荘厳(あしかざり)。景と情が映発する二星会合の夕べ。(ほころ)んだ口元から零れる吟誦(ぎんしょう)に、()(わらわ)、其の身を尽くす澪標(みをつくし)

 

 

   (はたもの)蹋木(ふみぎ)持ち行きて天の河

      打橋(うちはし)わたす君が()むため

 

 

 神慮(しんりょ)を仰ぎ天翔ける木霊返(こだまがえ)しの相聞(そうもん)。鉄郎の白想(はくそう)に降り注ぐ流星群。光の慈雨に包まれて、(ひら)かれる約束の地。何時も胸に焦がれていた此処ではない何処か。の筈が、鉄郎は額に舞い降り、頬を伝う星の粒子に、身覚えのある陰湿な痒みを察し身構える。眼を落とした掌を刻々と穿つ斑点に塗り潰され、酸化していく世界。光明はドス黒い死の雨となって暗転し、後退った一歩が落盤した銀河の底に呑まれて空を切り、見失った重力を道連れに鉄郎は不帰(ふき)の奈落に叩き付けられた。

 

 

 

 

 

 ほと ほと ほと

 

 磐肌(いわはだ)を絞って滴る雫の音が射干玉(ぬばたま)の闇の緘黙行(しじま)を浸している。自ずと開かれていく瞼と瞼。磐床(いわとこ)に臥した頬を上げると、壁一面を埋め尽くす多針メーターが鉄郎を見下ろしている。インデックスを照らす蒼白なバックライトに浮かび上がる磐室(いわむろ)。古墳の中で甦った様な錯覚。夥しい計器の集積したモザイクに立ち()める霊徴(れいちょう)と感応する鉄郎。何と言う事だ。少女は此の壁の中にいる。

 

  俺を()んだのは君か?

 

 言葉を発する必要はない。鉄郎は唯、幽閉された(うつ)し身の息吹に心を澄ました。随分と旧式で大掛かりなストレージだ。全脳器質をエミュレーションした汎用人工知能の様なマネキンとは物が違う。まさか此が帯域核醒自我、ZONEとか言う奴なのか。だとしても、超絶的知性の活動は外から観察出来るだけで、意図の理解出来る交信に成功した事例は未だに無いと言われている。爆弾低気圧の様に破砕データを巻き上げて何者も寄せ付けぬストームや、データベース内に擬態化したまま昏睡しているデッドリーフ、占有している物理回路を熱暴走して基板ごと溶解してしまうレミングス。其の(いず)れもが人智を超えたフォーマットで蠢き、結晶化したブラックボックスだ。此の壁の中に身を(やつ)しているのは、そんな混信した超工学現象なんかじゃない。自ら人柱を乞い投坑(とうこう)した斎女(いつきめ)の崇高なる沈痛で、此の石櫃(いしびつ)の様な磐室は満たされている。

 

  どうして君はそんな処に、否、そんな(からだ)に。君は一体・・・

 

 鉄郎は己の中に彼女へ通じる心の扉を探した。立ちはだかるバックライトのマトリクスが波打ち、磐壁(いわかべ)を掻き毟る様にシーク音が連鎖する。鉄郎は気付いた。(いま)(かつ)て母以外、誰にも心を許した事がなかった事を。神撼(しんかん)する玄室。磐戸(いわと)の隙間から零れる薄光。

 

 

   七重八重(ななへやへ)花は咲けども山吹の

       ()のひとつだになきぞ悲しき

 

 

      私は雪の・・・や・・・・・

 

 

 (ほの)かに点った少女の幼気(いたいけ)な恥じらいが途切れ、鉄郎は身を乗り出した。思わず喉笛に込み上げる、待ってくれの一言。浄域の禁に背いたとでも言うのか、甲骨を走る凶示の様に多針(たしん)メーターの風防硝子に亀裂が入り、(ひら)き掛けた心が氷結して、石火光中(せっかこうちゅう)の幻影を(つんざ)き、鈍器の様な怒号が後頭部に打ち下ろされた。

 

 「貴様、何処から入ってきた。」

 

 鉄郎が振り返ると、其処は集団肖像画を展示した博物館の絵廊(かいろう)で、歴代の社長、事業部長、運輸長、械関庫長、械関士が肩を連ねて、招かざる客を睨み付けている。全く悟性が追い付かない。館内に反響する恫喝(どうかつ)。油彩の刷毛目が身悶えて隆起し、500号のキャンバスの中から公安服を着た漢が、額縁の中から手脚を掛けて、ブロックノイズを放電しながら大理石の床に飛び降りた。

 「此の御屋敷の哲人君主を何方(どなた)と心得る。」

 色相と輪郭の末尾が崩壊と再生を繰り返す烈丈頑夫(れつじょうがんぷ)の肖像。何処迄が現実で、何処迄が伝送で背乗りした欺覚(ぎかく)の残滓なのか見分けが付かない。公安服の後を追って、額縁の中から鉄郎の間接視野に雪崩れ込む、ナッパ服、車掌服、アノラックを羽織った職員達。ブロックノイズが切り刻む形相の狭間から覗くチタン合金の筐体。

 「此処は貴様の如き棒振(ぼうふら)の湧いて這いずる場所ではないわ。」

 「狼藉者だ。出合え、出合え。」

 (とき)の声を挙げ押し寄せる虚実争爛(そうらん)の万華鏡。其の放逸したレンズの焦点が集束し、鉄郎が眼を凝らす覗き穴の旋恍(せんこう)が、吹雪の中で突き付けられた銃口のライフリングに豹変する。魔法は解けた。ブロックノイズの砂嵐は去り、伯爵の下僕を従えて、鉄郎を撃ち殺そうとした複眼レンズの機賊が其処に居た。フラッシュバックする闇を裂く母の断末魔、血の池に染まる襤褸外套、幼児返りをして母の庇護を求め、暴風雪に屈した絶望。其の元凶が、人工被膜を暴いた機界の亡者が、今再び鉄郎の網膜に(えぐ)り込む。創造主の意に反したダイカスト削り出しの頭蓋。黒光りした背徳の美学に、弥勃(よだ)つ身の毛が逆鱗となって戦慄を突き破る。

 電脳化による知の集積によって、人は世界を知り、己を知り、崇高なる人格を、其の心髄を磨き上げていくのではなかったのか。こんな合金の鹿威(ししおど)しが、最後の審判をパスした新世紀の精選華族だと?肌に墨を入れる様に、腕から足へ、義肢からオールインワンへと衣替え、身を持ち崩していった分際で、何が天涯到智(とうち)の霊超類だ。虚栄の移り気に(かま)ける、こんな聖賢(せいけん)面した二石(にごく)三文の大名気取りに(ぬか)ずいている位なら、棒振の浮いた泥水を啜っていた方が増しだ。

 燃え盛る血糖が頸動脈を掻き毟り、空腹と寒さで衰弱していた彼の時とは同名異人の鉄郎が、白瀑に没した鉄郎を押し退け、指先に絡む銃爪の冷利な感触が甦る。鉄郎は雄叫びを挙げ、虚を突かれ足の止まった鋼漢(こうかん)の左胸が、瞬いた蒼烈な残像の彼方に消滅した。過去と未来が転倒する駿速。動体視力を置き去りにして姦通した鈷藍(コバルト)の光弾。老竹色のカーボンファイバーを纏う、ショートスケールの銃身が仄かに余熱を帯びている。情事の後の一服に(ふけ)るが如く、オートレンジの銃口を舐める昇煙。息を呑む緩慢な時の流れの中で、両肘を交差し頭部を庇う無防備な下腹部に、リアサイトで浮遊するエアディスプレイが緋彗(ひすい)のポインターを飛ばし捕測する。ゆっくりと腰を落とした鉄郎の十指を伝導する光励起(こうれいき)結晶の臨界。脳髄にめり込む雷管を官能が撃針し、整錬された強靱な波長の光源が標的を爆撃する。吹き飛ばされた胴体の空漠に、コマ送りで落下していくダイカスト製の頭部。圧倒的な火力に鉄郎の意識は漂白し、眠っていた嗜虐本能が腐蝕した鎖縛(さばく)を引き千切る。

 踵を返す機賊の群れを追撃する発兇(はっきょう)したアークの咆哮。恍惚の浄火と瀑布が館内を盲爆し、フルオートの弾幕に(けぶ)(くずお)れる機影の団塊が宙を爆ぜる。泥人形の様に溶解した繊維強化樹脂。其の帰すべきを異にした首躰(しゅたい)末節から迸る油圧のオイル。鉄とグリスの類焼した喉を突く臭素。屑鉄の墓場を幾重にも掃射する弾圧から逃れようと、片腕一本で這いずる右半身。失った脊椎を見捨てて彷徨う下半身。生首と化した電脳ユニット同士が額を小突き合って転げ回り、股関節からもげた片足が蜥蜴(とかげ)の尻尾の様に飛び跳ねて、バラバラになったパズルを掻き集めようとする者なぞ独りもない。鉄片の飛沫を喰らって(めし)いた間接照明。闇に(ろう)した館内を刻む、跳ね馬の如き小兵の心拍。

 「母さんは何処だ。」

 舞い落ちる粉塵を被りながら、鉄郎は慙肢が絡み合い、(うね)り狂う画廊を踏み分け、仰向けの(まま)、懸命に蠕動(ぜんどう)している惨骸の一つを見下ろした。

 「貴様は、彼の時の小僧。生身の分際で善くも・・・・・、こんな事をして只で済むと思っているのか。」

 未だ辛うじて息が有るのを良い事に、現世の階位を問い質す霊超類の虚栄。鉄郎は肩で息をしながら、投棄されたデッサンの胸像の様に、足許で朽ち果てている機賊に銃口を突き付ける。

 「俺はなあ流れ星なんだよ。瞬きなんかしてんじゃねえぞ。」

 遊機発光素子を波打たせて複眼レンズの輝度を絞り込む、血の気の失せたクリムゾンレッド。露出したデバイスの制御基板をフィラメントが明滅するばかりで、出力経路の断絶している敗残兵は、寝返りを打つ事すら(まま)なら無い。

 「まっ、待ってくれ、頭だけは、頭だけは撃たないでくれ。」

 口を開けば石榴(ざくろ)(はらわた)を晒すが如しか。生身の人間なら即死の処を、暢々(のうのう)と命乞いが出来るだから良い御身分だ。こんな奴等に怯えて、時には汚水の中に身を潜め、地の果てに幽居していたのか。鉄郎は植毛が焼け焦げて煤まみれの顳顬を蹴散らして、(うつぶ)せになった其の後頭部に誅告(ちゅうこく)した。

 「お前の頭の話しなら、母さんが無事に戻ってくれば、幾らでも聞いてやる。母さんの身に()しもの事があったら、其の時は最終処分場で代わりの頭を探すんだな。母さんは何処だ。寝惚(ねぼ)けた事を言うなら、地獄で目覚める事になるぞ。」

 威嚇射撃が床を爆ぜ、灼けた大理石の礫に頬を張られて身悶える傷痍(しょうい)の猿芝居。鉄郎が銃爪に掛けた指の力を発射寸前の位置で溜め、昂調(こうちょう)する光励起結晶のチャージ音を聞き付けると、

 「判った。話す。何でも話すから、兎に角、銃を仕舞ってくれ。頼む。彼の女の事なら、伯爵が・・・」

 其処まで言い掛けた処で、銃を構えて(にじ)り寄る鉄郎の背後から、無明(むみょう)の迅雷が砲落(ほうらく)し、複眼レンズの頭蓋を撃ち抜いた。朽ちて(かし)ぐ卒塔婆の様に突き刺さった諸刃(もろは)直劍(ちょっけん)。工学反応を滅した電脳ボードから飛沫するアーク。雷撃の余韻に(さら)われ、氷変する館内の騒乱。

 

 唔左治天河令作此百鍊利刀

 

 武骨な剣身の(むね)に刻まれた金象嵌(きんぞうがん)の銘文が、海嶺(かいれい)の亀裂から覗く岩漿(がんしょう)の様に揺らめいている。電解合金とは毛並みが違う、剥落した皮鉄(かわがね)から覗く、炒鋼精鍛(しょうこうせいたん)(いにしえ)心金(しんがね)。蓋石を断ち甦った副葬品の如き其の瘴気(しょうき)に鉄郎の脊髄は(うず)き、身に覚えのある絶望的な因果の磁力に引き擦り込まれる。

 「全く、見苦しいにも程が有る。(しぬる)は案の(ない)の事。(いきる)は存の(ほか)の事(なり)。看過道断、流星一衰の矜持。斬華倒弾に(じゅん)じてこそ男子の本懐。味噌も糞も無い似非(えせ)忠義に、哲人君主と担がれる覚えなぞ無いわ。」

 地の底から轟く音素の荒い恫喝に鉄郎が振り返ると、執務室を描いた額装の中から、機賊を束ねる鋳物の死神が生乾きの瘡蓋(かさぶた)を剥ぎ取る様に身を乗り出し、瓦礫の白洲(しらす)に降り立った。緑青(ろくしやう)の酸化被膜に蝕まれた頭蓋を穿つ爆心の如き隻眼。双肩から迸る夥しき猟奇。此の卦体(けたい)な見世物小屋の真打ちに鉄郎は眼を見張った。機械仕掛けの下僕を睛圧(せいあつ)する超常的な幽渾(ゆうこん)()る事(なが)ら、無惨に破れ果てた其の変容。確かに此の漢は人間狩りを指揮して母を襲った機械伯爵に相違ないが、一体、此の奸賊の身に何が起こったと言うのか。華麗なる軍装は爆撃を掻い(くぐ)ったかの如く焼け落ち、右腕は肩口から切り落とされ、左脇腹の裂傷は脊椎にまで達し、背後のキャンバスが覗いている。事故や過失とは到底思えぬ、鋭利な切り口に残留する凄絶な殺意。(しか)も、此程の致命傷を負っていながら、露出した患部は淫らな愉悦に煌めき、寧ろ生き生きと駆動している。此の死神は本物だ。死神は機物だった。己の身の破滅すら命の水か、地の塩か。メガロポリスの貧民窟で目の当たりにしてきた有りと有らゆる亡者も、鉄郎の凶弾を浴び、大理石の床の節目を舐めている義肢累々(るいるい)も、此の漢と較べたら気質(かたぎ)の様な物だ。

 鉄郎はゆっくりと銃を構え、リアサイトに浮遊するレイヤーに視認カーソルを走らせると、左右の瞬きでモードを切り替え、機械伯爵の隻眼に緋照(ひしょう)を合わせた。アイスピックの如き一瞥で心の臓を鷲掴みにされた彼の時とは、此の身を巡る血の灼度(しゃくど)が違う。

 「男子の本懐だか、団子と善哉(ぜんざい)だか知らないが。お前達の仲が良いのは其れ位にして、今夜の大切なゲストに挨拶の一つもしたらどうだい。ええっ、機械伯爵さんよお。まさか、そんな糞みたいな口封じで、手打ちにしよう何て思ってないだろうな。此以上俺の用件を後回にされちゃあ、肩慣らしが済んで漸く調子の出てきた此奴が冷めちまうぜ。」

 やさぐれた啖呵(たんか)で口火を切る銃爪。インジェクターによる補正を解除した激甚する憎悪が銃口から決壊し、鈷藍(コバルト)の閃条が爆ぜる。例え此の一撃で奴の息の根を止めても構わない。其れがせめてもの弔いになるのなら。母の安否を度外視して迸る光弾のスパイラルが、仁王立ちで待ち構える標的を捉えて鬼道を馳せる。道楽が過ぎた報いだ。地獄の釜で身も心も()(かえ)ろ。(かさ)に罹った鉄郎の讐念(しゅうねん)。光芒が絶頂に達した其の時、火眼金睛(かがんきんせい)、機械伯爵のモノアイが血走り、紅蓮(ぐれん)の鋭気を発すると、面前の空間が膨脹して(ひず)み、頭蓋に直撃すべき光弾は軌道を屈して、逸れた閃条が油彩の執務室を撃ち砕いた。

 爆風を背に鉄郎の突き付けるアサルトのポインターを傲然と睨み返す狂爛(きょうらん)のカドミウムレッド。常軌を逸するとは此の漢の為にあるのか。今迄も()うして、(どれ)程の条理を捻子(ねじ)曲げて来たのか。鉄郎は一瞬氷血した熱狂の継ぎ目から、(したた)かな随喜が込み上げてくるのを覚えた。理学の寸尺を虚仮(こけ)にして、果ては電呪(でんじゅ)の誉れ有りか。怪相(けそう)の輩も此処まで来ると神(がか)ってやがる。超常的な暴威に鉄郎は半ば見惚(みと)れ、梟雄(きょうゆう)への憧れが其の根を降ろしていく快痒(かいよう)に身を拒む術もない。此の香具師(やし)を前にしては正邪の詮議なぞ些末(さまつ)な言い掛かり。弱者の(ひが)みこそ強者万能の証。神と悪魔の両性具有に、こんな玩具を振り回した処で、花に水を差す様な物。そうと判っていても、伯爵の放つ人の闇に問い掛ける磁力が、鉄郎の銃爪に息吐く事を許さない。

 何が戦う機械になれだ。とぼけた事ぬかしやがって彼の女狐。此の物の怪が重機の膂力(りりょく)でどうにかなるタマかよ。鉄郎は()()ぜの鬼胎(きたい)と官能を振り払い、蛮勇に飢えた銃口が再び光子の波動を慟哭する。悪への糾弾(きょうだん)とも、神への冒涜とも知れぬ相剋に挑む鈷藍の閃条。(しか)し、撃ち放たれた渾身の虚勢も、居丈高(いたけだか)建立(こんりゅう)する鋳物の化身には大旱雲霓(たいかんうんげい)。其の肩口の煤を払う事すら及ばず、モノアイの虹彩(こうさい)から(ほとばし)る結界に屈して弾道は変節し、残像が減衰する間を与えずに銃撃し続けても、左右に逸れた流弾がキャンバス諸共、屋敷の躯体を誤爆するばかり。定格を超えて悲鳴を上げるアサルトの発振器。警戒色でレッドアウトするエアディスプレイ。層射重弾の感極まった其の時、

 

  「喝ッ。」

 

 伯爵の()した気焔雷魄(らいはく)の叱責が鈷藍の弾雨を一掃し、鉄郎を宙に吹き飛ばした。徒手空拳を一指も労せぬ怒濤の迫撃。一体、何がどうやって、こんな崇高なる悪徳を八つ裂きにしたのか。星を掴む様な気の遠くなる彼我(ひが)の差を目の当たりにして、鉄郎は叩き付けられた大理石の床を馳せる衝撃波の残響に痺れる事しか出来ない。降り注ぐ瓦礫と湧き返る塵埃を透かして揺らめく隻影。砂型の禁を断ち息を吹き返したかの如く、昇煙を纏い歩を踏み出した伯爵の形相が、鉄郎の網膜に焼き付いた。

 

 

   昔、夏之方有德也、遠方圖物、

   貢金九牧、鑄鼎象物、

   百物而爲之備、使民知神姦。

 

 

   昔、()(まさ)に德有るや、遠方には物を(ゑが)き、

   金を九牧(きうぼく)(こう)せしめ、(かなへ)()て物を(かたど)り、

   百物(ひやくぶつ)にして(これ)が備へを()し、民をして神姦(しんかん)を知らしむ。

 

 

 緑青の疥癬(かいせん)に犯された酸化被膜を走る無数の皺襞(しゅうへき)が、飽熱した集積回路の様に身悶え渦巻き、古代の文様を呼び覚ます。伯爵の削ぎ落ちた顴骨(かんこつ)に浮かぶ貪婪(どんらん)なる獣神(じゅうしん)綾並(あやな)み。鉄郎は今、(ようや)く得心した。此奴は何処ぞの僧侶が酔いに任せて被った悪巫山戯でもなければ、ビックテックの成れの果てでもない。饕餮(たうてつ)の魔性に問鼎軽重(もんていけいじゅう)を吹っ掛けるなぞ、血迷うにしても烏滸(おこ)がましい。義肢の甲冑(かっちゅう)を打ち鳴らして歩む朽ちた砲金の魁偉(かいい)。息の根の絶えた館内に噎ぶ、上顎に組み込まれたメタルフィルター。怯懦(きょうだ)粉飾を射抜くカドミウムレッドの眼精。鉄郎は完全に此の漢の毒にやられていた。

 「如何(どう)した鉄郎、其処(そこ)迄か。()の若さで何を失ふ物が有る。死を賭して己の魂を満たさずに、何の立つ瀬が在ると言ふのか。

 

    早歲那知世事艱  早歲(さうさい) (なん)ぞ知らん世事の(かた)きを

    中原北望氣如山  中原 北望して氣 山の如し

 

 

 起て、星野鉄郎。未だ何も始まつてはゐ無い。」

 不意に己の名を暴かれて、鉄郎は原名調伏(げんめいちょうふく)鎖術(さじゅつ)に組み敷かれた。何故、伯爵が行きずりの孤児の素性を掌握しているのか。問い(ただ)す言葉すら(つか)えて、其の(あか)き千里眼の睥睨(へいげい)に、畏怖とも神奇とも知れぬ眼差しを返す事しか出来ない。伯爵は朽ち果てた部下の前まで歩み寄り、象嵌(ぞうがん)の刻印から滴る火の粉を振り払って直劍を抜き取ると、メタルフィルターのカートリッジで()した、解像度の粗い音源を舌鋒(ぜっぽう)に、鉄郎を烈々(れつれつ)と痛罵した。

 「偉大なる母の血に泥を塗りたく無ければ起て。」

 怒号が背に負う厳格な仁慈(じんじ)と悲哀の翳り。偉大な母と断言する其の真意。鉄郎が置き去りにされた吹雪の彼方で何が起こったのか。一生飼い慣らす事の出来ぬ慙愧(ざんき)の念が、断腸の牙を剥く。

 「母さんを撃ったのはお前か。」

 打ちのめされた不甲斐ない節々を(なじ)りながら起き上がる鉄郎に、伯爵は高調したローファイのPCMを一旦低域に引き絞った。

 「だとしたら?」

 「巫山戯るな。そんな蒟蒻(こんにゃく)問答に一々味噌を付けてる暇なんてねえんだよ。」

 白漠(はくばく)に散った血飛沫の泥濘(ぬかるみ)に藻掻きながら、鉄郎がアサルトを構えると、伯爵は其の荒ぶる銃口に向かって一刀懲伐(ちょうばつ)、振り翳した直劍を突き付けた。老竹色のカーボンファイバーを握り込んだ掌に走る石火の電撃。酸鼻な刺激臭を巻き上げて飴色に熔け落ちる銃身。五指に灼き付くグリップパネルを鉄郎が咄嗟(とっさ)に振り払うと、斬り裂かれた脇腹から絞り出す様に、伯爵は言の葉を継いだ。

 「鉄郎、母に会ひたければ時間城に来い。(うぢ)()(たまは)る漢に大人も子供も無い。貴様の旅は此処からだ。」

 出会った事の無い、実の父親が(たく)す訓戒の如き響きに、戸惑う鉄郎。

 「時間城?本当に其処に行けば母さんに・・・。」

 「漢の約束に証文なぞ無用。」

 伯爵はそう言い放つと、片腕で大仰(おおぎょう)に直劍を納め、唯一弾雨を逃れた無人の油彩の前に歩み寄る。

 

 

    嘉會難再遇    嘉會(かくわい) 再び遇ひ難く

    歡樂殊未央    歡樂(くわんらく) (こと)(いま)()きず

 

 

 「名残(なごり)惜しいが、出発の時が迫つてゐる。()らばだ、鉄郎。」

 饕餮(たうてつ)文身(ぶんしん)に彩られた屈強な背中が額装の中に身を乗り出すと、赤錆に暮れる在りし日の検査場に降り立ち、残酷な角度で追憶を画する光と陰の狭間に紛れていく。

 「オイ、時間城って何だ。其れは何処に在るんだ。オイ、ちょと待て、此の野郎。」

 物憂げな油彩の刷毛目に揺らめく、隻腕肋裂(せきわんろくれつ)に傾いだ益荒男(ますらお)の後を追って駆け出す鉄郎。タブローの彼方に塗り込められていく伯爵の背中だけじゃない。額縁のレリーフが、剥落した壁を走る鉄筋が、折り重なる機賊の屍が、色を失い、輪郭も掠れ、合金と合成樹脂の灼け焦げた臭素と、立ち籠める粉塵諸共、其処に在る筈の実体の総てが稀薄になっていく。鉄郎の頬を張る一陣の白烈。ピアノ線の様に張り詰めた寒気が逆巻き、キャンバスに向かって振り上げた拳が空を切る。大理石と鉄筋コンクリートの厖大なる堆積が、松濤(しょうとう)微睡(まどろ)む砂絵の様に、驟雨(しゅうう)を待っていた山鳴(やまな)りの様に、漂白していく。胡蝶(こちょう)の夢に舞う鉄郎の小智(しょうち)忽然(こつぜん)と時空を割いて現れた伯爵の居城が、今再び忽然と無に帰していった。

 憑依の去った巫者(ふしゃ)の様に白墨の渦を(みつ)め続ける鉄郎と、四辺不覚の雪原。最早、何を見失ったのか、何処が振り出しだったのかすら判らない。入り乱れていた憎悪と戦慄は胸骨を吹き抜け、身も心も絶界に()した一粒の点描となって解脱した。誰かに何かを命じられた様な気がする。併し、それを思い出せた処で何をどうしろと言うのか。置き去りにされた荒漠一景。地吹雪が巻き上がるだけの総てが欠落した地の果ての果て。其の右も左もない無窮の圏外に、獲物を付け狙う猛禽の(ひそや)かな跫音が新雪を()む。

 振り返ると、旋雪を鏤めた黒服の女が押し付けがましい微笑みを(くゆ)らせている。未だこんな処に居たのか。鉄郎は妖艶に揺らめく黒変種の蜻蛉(かげろう)に、屋敷が消えたのも此の傾城(けいじょう)の為せる業であるやも知れぬ、と奇想して鼻を鳴らした。瞬き一つで反転し続けた虚実の取りを務めるのか、将又(はたまた)、更なる迷宮への露払(つゆはら)いか。黒服の女は頬を棚引く豊髪を掻き上げた指先を口元に添えて呟いた。

 「五体満足で戻ってこられるなんて、磐女(いわめ)(まじな)いが利いたようね。」

 白魔を従え、冷やかしに来たとしか思えぬ悦に入った其の態度。一体今度は何を(けしか)けるつもりなのか。本来、帰る場所も身寄りもなく、こんな天涯の死地に見捨てられているのだ。唯一つ残された頼みの綱に怪事(けじ)を付けている場合じゃない。そうと判ってはいても、こんな怨害(おんがい)の化身の様な黒猫に尻尾を振ってまで、澆薄(ぎょうはく)の末世に(すが)って何になる。今此処で雪棺(せっかん)に臥したからとて土竜(もぐら)の生き埋め。誰に断る義理がある。鉄郎は女の挑発を袖にして、雪煙の舞う無明の彼方に意を凝らした。すると、

 「時間城はトレーダー分岐点の排他的帝層帯域、ファクトヘイブンを漂流している銀河鉄道財団の電影要塞よ。最短距離で往ける星間特急を選んでいる時間は無いわ。

 

   近江の(うみ) 波恐(かしこ)みと風守り 

     年はや()なむ漕ぐとはなしに

 

 名前さえ書き込めば此は貴方の物よ。まさか、機械伯爵に逃げられましたで、引き下がるつもりじゃないでしょうね。」

 鉄郎の鼻先に突き付けられた、黒革のパスケースが縁取る無限軌道の乗車券。記名欄の空白を透かして虹色に浮かび上がる999のホログラムから顔を上げると、女の(さか)しらな賤瞥(せんべつ)が冷や水を浴びせ掛ける。野良犬にお手を強要する幻のチケット。鉄郎の胸倉を嗚咽とも嘔吐とも知れぬ異物が蠕動(ぜんどう)し、喉笛を衝いて零れ落ちた。

 「お前は・・・・・・誰だ。」

 足の踏み場もなく収拾不能で止め処なき夢魔の繚爛(りょうらん)。一夜にして乱高下する運命の気紛れ。此は何かの罠だと罵る事でしか正気を保つ事が出来ない。

 「私はメーテル。」

 母に生き写しの女が子供をあやす様に蛾眉(がび)を解き、(しと)やかな口元から皓歯(こうし)(ほころ)ぶ。弥増(いや)す地吹雪に蹌踉(よろ)めきながら鉄郎は吼えた。倒壊する世界の御柱(みばしら)、其の石据(いしず)えに獅噛附(しがみつ)き、声の限りに激昂した。

 「名前なんか聞いてない。お前は一体何なんだ。」

 

 

 

 重力から解放され、(いただき)を競い合うナノ複合建材の摩天楼。癌細胞の様に増殖し続ける、規制無き都市開発の厖大な物量の氾濫を回遊する、プロジェクションマッピングの蹴汰魂(けたたま)しい街宣。統制と共有により最適化した交通システムを無視して、幹線道路を錯走するステルスモービルのドッグレース。管理区域外の荒天とは無縁な、完璧に気象征御(せいぎょ)された商用空域を蝗害(こうがい)の如く埋め尽くすドローン。(のき)を連ねる旗艦(きかん)店舗のショーウィンドウで輪舞するアンドロイドのマネキン。昼夜を問わず遊歩道で絶世を謳歌する機族達の放埒な群像。

 貧民窟の酒場に張り巡らされたオッズモニターが中継する燦然(さんぜん)たる栄華の断片は、入場する術のない鉄郎の垣間見る事の出来たメトロポリスの総て。其れが今、心停止した状態で先入観から現実へと視界を擦過していく。弾丸道路の全車線を独占する孤高のジャイロブレード。メーテルが鞭を揮う半磁動鹿駆が、皓々と照らし出されているだけの死後硬直した構造物の峡谷をアークを飛ばし滑走する。綺羅星が犇めく機族達の絢爛たる雑踏は、999と(おぼ)しき光源が舞い降りた宵闇の空を哨戒(しょうかい)していたサーチライトは何処へ消え失せたのか。人の気配処かシグナルの瞬き一つ無い、永久凍土に封印された都市機能。鉄郎の憧れと憎悪を掻き立ててきたメガロポリスに一体何が起こったのか。

 普段なら検問待ちの夥しい車列で塞がれた、選民と棄民を分別する入管ゲートを、メーテルとか言う女は無言で一顧だにせず突破して終った。にも(かか)わらず、自警団の装甲車輌が追撃に出動する様子もなければ、警報システムが反応した形跡すらない。こんな状況で本当に999は発車出来るのか。鉄郎は肩鋼骨(けんこうこつ)を鞭で打ちのめされている機畜の放つポインターが、カーブ一つ無い真一文字の弾丸道路を射抜いて目的地を捕捉している事に気が付いた。入管ゲートからメガロポリス東京中央駅まで一直線に縦断する都市の動線。此の機人街の設計思想の中核が銀河鉄道株式会社だとでも。そんな、まさか。

 神聖文字を刻む太古の碑石を模した天を衝く駅ビル。貪婪な機賊を睥睨(へいげい)する機械伯爵の如く、奔放な躯体のメガロポリス建築の中に在って一線を画す、皇然(こうぜん)たる其の偉容が鉄郎の疑念に()し掛かる。虚栄と乱脈を戒めるバベルの廃墟か、将又(はたまた)、幽霊列車を(とむら)御影石(みかげいし)か。喪に服した摩天楼の葬列に機畜の蹄鉄と鞭の電撃が木霊する。凍結した時の流れを逆走する錯覚。左手で立ち橇の手摺りを掴んだ儘、鉄郎はPコートのポケットに右手を突っ込んだ。滑らかに指先を舐める黒革の磨き込まれたコバ。夢を掴んだ実感とは程遠い、拾った財布を懐に隠した様な危うさに、機畜の嘶きが突き刺さる。

 駅前のロータリーに到着すると、メーテルはアタッシュケースを手に取り橇を乗り捨た。傷一つ、継ぎ目一つ無い、一枚床の広大な自動復元セラミックタイルを蹴立てるピンヒール。白亜の躯体が聳える列柱構造のエントランスホールに、在って然るべき発着のアナウンスも運休遅延のプロジェクションもなく、旅客も職員も消え失せた忘却の緘黙行(しじま)に、中央改札を見下ろす吊り時計までもが、午後十一時五十九分で公務を失し硬直している。構内で乗車券を翳せば運行状況や乗車ホームと現在地の位置が面前に空間表示される筈だが、メーテルはパスケースを一瞥する処か、アンテナパネルに提示すらせずゲートを通過した。華美な装飾を廃し、洗練された機能美が整然と空洞化している各路線への階層。見上げれば首が痛くなる高さの吹き抜けに、何の準備も出来ていない宇宙へ旅立つ覚悟が呑み込まれていく。勝手知ったるとばかりに人を突き放した足取りで、99番線の表示を過ぎるメーテルの痩貌(そうぼう)。後を付いていた鉄郎はふと立ち止まり、無人の構内を振り返った。

 引き留める者も、思い残す事もない分際で何を戸惑う事が在る。彼の女狐の正体なんてどうでも良い。道は前にしかない。本当に己の求めている物が何なのかは、行き詰まってから考えろ。空転する立志のリフレインと、白磁の柱廊を爆ぜ、遠離るピンヒールの爪音。其れ等を不意に、野太い咆哮が掻き消し、鉄郎の粗骨(そこつ)胸郭(きょうかく)に轟いた。眼路を返すと、霞みがかった暗がりに黒装束と金髪の艶やかなコントラストが紛れていく。今の号放はまさか。鉄郎は鮮烈な直感に衝き動かされて、メーテルの滅した厚く垂れ込める仙娥(せんが)(とばり)に駆け込んだ。清冽(せいれつ)な涼気かと思いきや、熱気と煤燼(ばいじん)で噎せ返る妖霧。炭と鉄の灼ける匂いで弥増(いやま)す予断に誘われ、閉ざされた視界を突き抜けると、其処は、フィラメントの柔和な白熱に追憶の終着駅が照らし出されていた。

 アングルとリベットで組み上げた軟鋼鉄骨の緻密なアーチが駆け巡る天蓋。凝灰岩(ぎょうかいがん)と採光硝子のモザイクが奏でる重厚なアルペジオ。ロールアップした鋼帯(こうたい)(つた)手摺(てすり)と架台の葉脈(ようみゃく)。午前零時零分にのみ発車表記のある楷書の時刻表。頭端(とうたん)式プラットホームを縁取る白線のタイル。出立の巖頭(がんとう)に爪先を揃え、望郷と惜別の幻影が、溢れ返る水蒸気の噴塊を背負い立ち尽くす。一過星霜の大伽藍に再び感極まった号放が轟いた。夢の中で頬を張られた様な震駭。鉄郎は雄叫びの主を見据え、雲の上に揺蕩(たゆた)ふが如き99番線ホームを踏み締める。

 伯爵の屋敷で遭遇した車輌と寸分違わぬ黒鉄(くろがね)の魔神、国鉄C62形旅客用テンダー式蒸気機関車。世紀を跨ぎ復活した車籍に鎮座するヘッドマークの“999”。何故こんな旧式の、と()しく(いぶか)るより寧ろ、崇高な敬意が自然と湧き上がる。年に一度、宵闇の空に見上げる事しか出来ぬ、選民にのみ許された天空の方舟。無限軌道を()べる伝説の超特急に相応しい豪壮な機影が、今、眼の前で待機している。圧倒的な造形から迸る地獄の釜の如き熱量と磁力。柵の中に安置され火種を断たれた展示物とは訳が違う、器物を超えた気概に鉄郎は引き寄せられていく。

 タールの水底(みなそこ)から浮上した座頭鯨の如き、黒濁した兇躯(きょうく)のボイラーが暴発寸前の張力で漲り、猪首(いくび)突管(とつかん)から天を衝く煤煙と、開放された安全弁の放出する積乱雲の如き蒸気(りゅう)(せめ)ぎ合いに、ランボード下の空気圧縮機とシリンダードレンの呻吟(しんぎん)が連鎖する。生きて帰れぬ旅路の予感と感傷を焼き尽くす、血起に逸る灼熱の息吹。構外に直立した腕木(うでぎ)式信号機の遙か彼方を瞠活(どうかつ)する前照灯。除煙板で遮られた煙室に翳る哲人の横顔。其の肌理の粗いフタル酸のタッチアップが、機械伯爵の超然とした鋳造(ちゅうぞう)鋼顔(こうがん)と交差する。数百万光年を走破する無限軌道。果てしなき宇宙が啓示する存在と無の迷宮を、馬車馬の様に蹴散らす疾黒(しっこく)の弾丸。銀河を巡る未知の狭間で、此の熱暴走の隕鉄(いんてつ)は一体どんな真理と遭遇したのか。到徹した悟性を秘めた傲岸な風格に、鉄郎は過酷な宇宙の片鱗を垣間見た気がした。

 (まなじり)を上げると、ホームの支柱に設置された時計の針が、改札口の吊り時計同様、五十九分を指した儘、年に一度しかない列車の出発を、否、彼の女が乗車するのを待って静態している。99番線ホームのもう一人の主役が、荒ぶる蒸気を切り裂いて柳麗(りゅうれい)な妖姿を紐解いた。メーテルの(しな)やかな足取りが向かう、客車のプレス製手動扉の前に独りの男が立っている。金釦(きんぼたん)と山吹のパイピングが映える紺碧のダブルに、車掌長の腕章と巡査章を配した寸胴短躯を深々と折り曲げ、最敬礼した帽章の桐紋(きりもん)と動輪。

 「御待ちしておりました。メーテル様。処で、此方(こちら)の方は?」

 「新しいボディーガードよ。噛み殺されない様に気を付けてね。」

 招かざる客の紹介に、制帽の(つば)から覗く暗黒瓦斯状の頭部に点る二つの黄芒(こうぼう)が、怪訝(けげん)な相を帯びて萎縮し、ハアと一言、溜息の様な生返事を漏らしてから鉄郎に一礼した。

 「乗車券を拝借します。」

 車掌は慇懃にパスケースを受け取ると、

 「星野鉄郎様・・・・。」

 と(つぶや)いた切り黙り込み、乗車券に記名された持ち主の顔を取り調べる様に覗き込んだ。鉄郎が思わず車掌の視線から眼を逸らすと、客車の窓硝子に凍傷で(ただ)れ炭を吹いた己の顔が映っている。

 「後で角質蘇生シートを持ってきて。こんなコソ泥みたいな顔で車内を彷徨(うろつ)かれたら、折角の旅が台無しだわ。」

 半ば叱責に近い指示を飛ばしメーテルは車内に消えた。開け放たれた儘の手動式扉に向かって、車掌が再び深々と頭を垂れる。

 「(かしこ)まりました。」

 疑う余地はない。彼の女は此の列車の主賓ではなく主人。誰も同乗する事のない御忍びの独り旅。そんな星間鉄道の聖域に迷い込んだ弧鼠(こねずみ)の鉄郎は、整然と連なる十一輌編成の最後尾に随従する、巨大な見えざる影の隊列に胸が騒いだ。水泡で腫れ上がった凍傷の手に戻ってきた乗車券が謳うアンドロメダ巡礼。機械伯爵が待つと言うトレーダー分岐点の時間城。今更、何を迷ったら良いのかすら判らない。鉄郎は煮え切らぬ(おの)が惰弱を衝き飛ばし、乗降デッキに踏み込んだ。

 乳白色の張り上げ屋根に配した、二列の白熱灯が飴色に照らし出す、磨き込まれたニス塗りの木肌。仄かに湛えた液体ワックスの匂いが小鼻を擽り、板張りの通路が名の在る旧家に招かれた様な心地良い軋みを上げる。踏み締めただけで合板でないと判る此の感触。(はなだ)色のモケットを張ったボックスシートの背摺(せずり)の木枠も、車窓を巡る壁板も、節のない単材を贅沢に使って仕上げられている。添えた手を、そっと握り返す古木の穏やかで厳かな風合い。世紀を超えて息吐く質実な作り手の想い。そんな旅愁を誘う意匠に服して、弔客の居ない葬列の如く通路を挟んで連なる、誰も座る事のない空席の陰から、棘の数しか取り柄のない例の耳障りな声が飛んできた。

 「何時までそんな処に立っているつもりなの。」

 モケットの木枠から覗く露西亜帽と、網で編まれた本物の網棚に置かれた馬革のアタッシュケース。欠席の会葬者達は喪主のヒステリーを完全に黙殺している。不承々々、誰を(とむら)うのかも知れぬ告別式に(まか)り出る鉄郎。彼の黒いのに此以上ガヤを入れられたのでは、浮かばれる物も浮かばれまい。車窓の上部に振られた律儀な座席番号。何処に座ろうと自由な筈だが、鉄郎は敢えてメーテルの正面に対席した。挑む様に窓外を睨み付けた儘、腰を下ろす優待席。乗車券の恩義を蹴り返す様に足を組んで、ハイ、其れ迄。御悔(おく)やみの言葉なんて無い。額を押し付けた強化硝子に映える喪服に身を窶した深窓の佳人。黙ってさえいれば花も恥じらい星も消え入る、此の女にのみ許された固有形容詞の如き美しさに息が詰まる。()してや、母と見紛う其の面影。合わせ鏡の罪と罰に、思わず声を張り上げて燃え尽きてしまいそうな慙愧の岩漿を、蹴汰魂しい電鈴(でんれい)の連打が掻き消した。過電流を吹き込まれてデッキ扉のスピーカーが激白する低域の割れたアナウンス。

 「午前零時発、99番乗り場、アンドロメダ行き急行999号発車します。」

 旅が始まる。否、始まってしまう。此れは人生の出発なのか脱線なのか。無人のプラットホームを(つんざ)くホイッスルの舌鋒(ぜっぽう)を合図に、緩解するブレーキシリンダーの慨嘆。満を持して雄叫びを上げる野太い二声の長緩汽笛に、ドームの屋根が順風を孕む帆布の如く張り詰め、アングルで編み上げられた鉄骨の枝葉末節が共鳴する。塞き止められていた時の流れが溢れ返る新しい年の幕開け。今更、待ってくれと切り出した処でどうにもならぬ震駭と熱波の奔流。高圧水蒸気で(みなぎ)る鋼鉄の鯨背が隆起し、豪快なドラフトの鼓動を轟かせながら、直径1,750 mmを連ねた大動輪の繰り出す不貞々々しい巨人の一歩が鉄路を掘削する。座骨を衝き上げる力強いトルクに粛然と押し流されていく鉄郎の運命。最早立ち止まって振り返る事も許されず、乗客という当事者としての自覚をも置き去りにして加速するメインロッド。

 自分は一体何処へ連れ去られようとしているのか。未知の世界で待っている新しい出会い。夢と希望に満ちた無限の宇宙。そんな御花畑のピクニックとは程遠い、護送車輌の殺伐とした遽動(きょどう)(ようや)く此の文明に呪われた死の星から御然(おさ)らば出来るというのに、時めきの一欠片すらなく、彼程、想い焦がれていた筈の瞬間に愕然としている。現実以上の現実に追い付けない意志と、逆方向に拘引されていく肉体。鉄郎の虚ろな表情を映した窓硝子を限るプラットホーム諸共、押し付けられた唐突な未来が強制スクロールしていく。

 本当に此で良いのか。自分に此の星から旅立つ資格はあるのか。血の海に消えた母を救い出せると心の底から信じているのか。鉄郎、(そもそ)もお前は人に胸を張って誇れる何かを成し遂げた事があるのか。今の今迄、母の背中越しに人生を傍観し続けてきた落ち()拾いの分際で、一体何を乗り越えられると言うのか。そんな拾い物の乗車券で何処に辿り着けると言うのか。出世払いで払える程、無賃乗車する冒険のツケは甘くない。

 集煙装置を廃した剥き身の突管から怒髪天を衝く煤煙が、鋼殻で擬した天蓋を埋め尽くして棚引き、シリンダーから迸る憤怒の激蒸がランボードを掻き上げて、赤腕(せきわん)の斜傾した信号機を振り切ると、煙室ドアの頂く前照灯が瞬き、一気に啓けた視界を輻輳(ふくそう)するメガロポリスの摩天楼に、(ウラン)硝子を透過したカクテル光線の日輪が降り注ぐ。鉄筋コンクリート・ラーメン高架橋が迫り上がり、陸路から空路へと巨大竜脚類の如き鎌首を(もた)げる無限軌道。成層圏を仰いで(そび)え建つ急勾配の橋脚に導かれて、黒鉄(くろがね)の魔神が重力を逆送する。

 地上から引き剥がされていく未曾有のパノラマに、鉄郎は矢も盾も堪らず窓を押上げ其の身を乗り出した。目眩(めくるめ)く虚栄の限りを尽くした機族趣味の建築群。眼下を見渡すと、999が発車するのを待っていたとでも言うのか、自警団の自律装甲車が巡回に繰り出し、幹線道路の車線流動システムと無段連結ジャンクションが復帰して、戒厳令を解かれたかの様に都市が起動し始める。此の眼に焼き付ける最後の景色が、見え透いた小細工の種明かしとは、気の利かない奴等だ。そんなにも此の御料車輌(ごりょうしゃりょう)が恐れ多いのか。巨人の肩を借りて見下ろす機族達の牙城。ブートメニューを曝した儘、ナノ複合建材の峡谷をプロジェクションマッピングが彩り、夜降ち(よぐたち)行幸(ぎょうこう)(あが)め仰ぐ素振りさえ見せずに、鋼僕(こうぼく)地辺汰(ぢべた)を這い擦り回っている。

 煤煙を蒸し返して翻る窓外に鼻膜を突かれ、鉄郎は充血した目頭に不覚にも込み上げてくる熱い物を、加速し続ける戸惑いと結びつける事が出来ない。不意の汽笛に凍傷で黒変した頬を張られて振り向くと、サーチライトが再び哨戒し始めた虚空に忽然と鉄路が途切れている。アッと声を上げる間もなく、万有引力の圏外に飛び発つ銀河の方舟(はこぶね)。軌条を駆る動輪の鼓動が弛緩し、気圧と音圧の大瀑布が擦過して風塵に帰した。

 一直線に天頂を目指すの十一輌編成の車列。メガロポリスの蕩尽(とうじん)に飽かせた燦爛(けんらん)たる光源が、緻密な点描となって遠離り、禍々(まがまが)しさの薄れていく其の栄華を、管理区域外の暗黙が見渡す限り取り囲んでいる。絶望的な闇の何処かに埋もれている、母と過ごした一間の記憶。此の星の中で唯一別れを告げておきたかった愛惜の我が家に鉄郎が眼を凝らすと、無限軌道は気象征御網を突破して暴風雪の弾幕に呑み込まれ、手を翳し顔を背けようとした迫間(つかのま)に雲海を抜けて、十三夜に満たぬ孤航(ここう)寒月(かんげつ)が新世界の宗主の如く現れた。粒子状物質の呪縛から解かれ澄み渡る大気。初めて眼にした天体の宝庫が宣告する地表との決別。鉄郎の原風景も(はら)い清められた芥子粒(けしつぶ)となって、本の束の間の追憶すら叶わない。廃材を寄せ集めた折り紙が、酸性雪を転がして積み重ねた雪達磨が、笹の葉を模して灌木に吊す短冊が、数千億の煌めきを湛える銀河の水脈に没し、塵想(じんそう)を断つ絶天の超望。壮大な時空を超え到達した光矢を反射して、弐百萬コスモ馬力を誇る黒耀(こくえう)の駆体が徐に旋回する。

 

   太古黎星爛無盡   太古の黎星(れいせい) (らん)として無盡(むじん)

   長天一月滅後煤   長天の一月(いちげつ) 後煤(こうばい)に滅す

 

 鉄郎の(つがい)を逸した(おとがい)から零れる歎舌(たんぜつ)。眼下を反転し弓形(ゆみなり)乾坤(けんこん)を分かつ漆黒の水平線に一縷(いちる)輝裂(きれつ)が走り、此の星系を司る天津日(あまつひ)の来光が無穀(むこく)の大地を染め上げる。海原との見境無き灰褐色の堆積と沈澱。死灰に(まみ)れた巻雲(けんうん)と気流。蒼い星と呼ばれていた頃の面影など何処にも無い。五大陸の各地に点在している筈のメガロポリスすら、枯葉に埋もれた独片(ひとひら)の紅葉。落魄した其の様を太陽に暴かれる儘に暴かれて絶息している。悪趣味な天体ショーを破格の出力で遊覧する20世紀の精霊(しょうりょう)列車。スペースデブリの銃撃を蹴散らしながら周回軌道を越え、人類を堕胎した母なる星の全貌が視界に納まる距離まで瞬く間に翔破(しょうは)して、重力の追随を許さない。

 窓外に身を乗り出していた筈の鉄郎は、何時しか絶海に打ち捨てられた漂流者の様に窓枠にしがみついていた。永遠の輪廻を巡り巡っても測り知る事の出来ない無量無辺の宇宙に灯された一抹の太陽系第三惑星。其れは余りにも卑小で、砂が地球の欠片だとしても、地球は宇宙の欠片ですらない。地表からは(うかが)い知る事の出来なかった厖大な銀河の雲塊は、廃屋から掘り起こした図鑑で観た絵葉書の様なスナップとは訳が違った。余りにも底知れぬ不気味な実体に、鉄郎は悪寒と吐き気を堪える事しか出来ない。其れは存在の皮を被った不条理に対する知覚過敏なぞと言う御上品な代物ではなかった。グロテスクと一口に言っても、行き倒れの腸を貪る蛆虫の群像ですら、快活な精力に溢れている物だ。なのに此の途方もない星々の世界は、人の心を全く寄せ付けぬ瘴気(しょうき)を湛え、昏々とギラ付いている。天を大公無私にして聡明神智なる物と崇めた先人達の錯誤。創造主の厳格な啓示も、慈愛に満ちた眼差しも、救済も断罪も無い。天界の一里塚に刻まれた解読不能な完黙の洗礼。得体の知れぬ茫漠に呑まれていく地球を目の当たりにした鉄郎は、初めて其の尊さを思い知らされた。

 シールドされた無限軌道の外へ一歩踏み出せば、物の十数秒で永遠に意識が飛ぶ、微生物でもない限り生存不能な彼劫(ひごう)滅却の世界。星々を股に掛ける冒険と浪漫を謳うのは、地球に帰れる当てのある好事家(こうずか)達の御惚気でしかない。文明の老廃物と決め付け罵り続けた死の星が、今、引き離されるほど胸に迫り愛おしい。在りし日の輝きを失い、汚辱の限りを尽くしても、水と大気を宿した地球が生命の奇蹟で在る事に一片の翳りも無く、其の健気(けなげ)な姿は理不尽な迫害と苦難から身を挺して鉄郎を護った、気高き母と重なり合う。地球を脱出すれば自由になれると夢想していた。此の宇宙が突き付ける無限の自由には錨を降ろす場所も、錘鉛(すいえん)を吊して測る上下も、命を繋ぎ止める何物もないとも知らずに、限られた境遇の中で人事を尽くし、掛け替えのない今、此の時を全うする事から眼を逸らしていた。

 999渾身のドラフトがシリンダードレンの放咳(ほうがい)を蹴立てて母なる星を後にする。不可解な隕力(いんりょく)に引き擦り込まれていくだけの、銀幕に投影された他人事の様な疾走感。不吉な威容を誇示する人智を超克した銀河の奔流。慙愧にまみれた地球への恋慕が交錯し、(うつ)けの如く昇魄(しょうはく)した鉄郎を、旅の狂言師を気取った連れ合いが半笑いで(はや)し立てる。

 

 

    見渡せば神も岩戶(いわと)もなかりけり

        高天原(たかまのはら)(うろ)彌果(いやはて)

 

 

 背摺(せずり)の木枠に露西亜帽を傾け、淫らに吊るし上げた眦が愛でる窓外の天玄洪荒(てんげんこうこう)。其の輝ける闇に毛足の艶やかなフォックスコートが溶け出して、滝津瀬(たきつせ)の如き琥珀色の垂髪(すいはつ)が雪崩れ落ちる。客室の慇懃(いんぎん)なる調度に和して、美しく瓦解した比倫(ひりん)を絶する不埒(ふらち)な気品。永遠の夢路に封じ込められた時の旅人か、将又(はたまた)、心の羅針を惑わすセイレーンか。鉄郎にはメーテルと言う女の存在が、宇宙の謎、其の物に見えた。

 鯨背に煤煙を棚引かせ吼え立てる鋼顔の銀河超特急。萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。無法無窮の大海原へと脫輪した運命の(わだち)晦冥(くわいめい)(かく)車窗(しやさう)の閃きは走馬燈の如くして、既視轉生(きしてんせい)の錯誤に目眩(めくるめ)く。

 

 

    墜入天網 幾銀河

    航航歲歲 星又星

 

 

 光脚(くわうきやく)を凌ぎ、緘默(かんもく)を貫く無限軌道(むげんきだう)絕望(ぜつばう)から産み落とされた遙かなる旅の始まり。稀望(きばう)缺片(かけら)(かぞ)へる事すら儘ならず、唯、黑耀(こくえう)の女神が手向ける魔性の微笑(ほほゑ)みを睨み返す。限りある命に瞬く泡沫(うたかた)の靑春。數畸(すうき)を究める鉄郞(てつらう)の行く末、果たして相成(あひな)るや如何(いか)に。其れは()次囘(じかい)講釋(かうしやく)で。


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