銀河鉄道 " 令和999 "   作:tsunagi

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#3 ガラスのクレア

     月色流霞照水晶

     破氷飛雪動琉璃

 

 

 宇宙空母と戦闘機の攻防も、ロボットの斬将八落(チャンバラ)も無い絶界の宇宙。CGで銀幕に投影した点描とは桁が違う、有情を絶した星と闇が厖大に散逸している。其処にあるのは唯、自意識の座標点すら見失う、奥行きも距離感も欠落した静止画の大パノラマ。そんな、人が一人、身を乗り出せる程の小窓から覗く、ゲシュタルト崩壊の御手本の様な車外とは真逆(まぎゃく)の、猛烈な激甚と熱気で運転室は()せ返っていた。開胸手術で暴かれた心臓の様に、銅配管とバルブの集積したグロテスクな其の造形。宇宙を股に翔る機関部の中枢が猥雑な密度で(ひし)めいている。正面上段に迫り出した蒸気配分箱の更に上に連座して、シリンダー、ボイラー、給水ポンプ、暖房用蒸気の圧力計の四天王が、此の聖域を神棚の様に睥睨(へいげい)し、ボイラー内の水量を目視する水面計の硝子管が其の脇を固め、誰も座る事の無い運転席の小振りなシートを、速度計、単独ブレーキ、自動ブレーキ、逆転機ハンドル、加減弁ハンドル、排水弁専用コックに実働機会が有るのか疑わしい砂撒き専用コックが隙間を奪い合って取り囲み、臨界した火室を抱え込んで動力式焚口戸(たきぐちど)が重鎮している。

 車掌がペダルを踏み、泥の中に潜む甲殻類の武骨な鋏の様に半割の扉が左右に開くと、真鍮と銅管で(まつ)り上げた黒鉄(くろがね)(ほこら)を、(おびただ)しい火室の熱波と炎群(ほむら)が染め上げ、今一度ペダルを踏み直して扉が開くと、彼の世を覗き見た様な煉獄は姿を消し、密やかな(うつろ)を硬質な凊気(せいき)が吹き抜けた。

 「さあ、どうぞ、鉄郎様。」

 車掌に促され、鉄郎が未知の仙窟へと通じるが如き(にじ)り口に膝を付いて潜り込むと、天地無用の晦冥(かいめい)に多針メーターの怜悧(れいり)なバックライトに包まれ、匍匐(ほふく)していた背筋を無数の隻眼に監視されている様な慄然が突き抜ける。灼熱の激動とは懸け離れた幽玄杳杳(ゆうげんようよう)たる小宇宙。同じ焚口から垣間見た紅蓮の炎は一体何処へ行ったのか。鉄郎が立ち上がっても優に余裕の有る、室内の高さと幅と奥行きは、外観から確認出来るボイラー室の直径を物理的に超えている。無窮の星空を激走する銀河超特急の核心とは思えぬ、跫音(あしおと)の残響と耳鳴りだけに浸された、闇室(あんしつ)(あざむ)かぬ透徹した静寂。眼が此の暗がりに慣れてきて機関室内の造形と輪郭が見えてきた鉄郎は、インローで嵌め込まれている多針メーターの配列に抱いた違和感が、次第に(さざなみ)の様な凄味に変わっていくのを覚えた。

 此の集積回廊の躯体はCADデータを3D成型器で一括出力した物じゃ無い。鋼材を組み上げて応力除去の焼鈍(しょうどん)処理をしてから機械加工を施している。然も、此の半自動溶接のビードがロボットでも無ければ、機械加工も成型データをチンして終わりじゃ無い。職人の手で座標を計り、削り出して仕上げている。鉄郎の廃材を加工して生きてきた皮膚感が、CADデータの無機質な羅列とは違う何かを嗅ぎ付けた。此の空間には1/100mm台のズレが生み出す独特の畝り、グルーヴが有り、躯体の練度を増している。最新のテクノジーを度外視した其の迫真。まるで、戦士の銃を覆い尽くすダマスカスの文様や、鋳物から削り出した機械伯爵の様に。見覚えの有る隻眼に包囲され、鉄郎の(うなじ)(そばだ)ち、闇の向こうで蠢く影に眼を凝らした。此の列車は曲がり形にも、銀河鉄道株式会社の大株主の息が掛かった奴の土俵だ。どんな小細工をしているか判ら無い。すると、後から這い入ってきた車掌が誇らしげに其の疑懼(ぎく)に割って入った。

 「どうですか鉄郎様。機関室の中は。見ての通り此の列車には機関士が居ません。機関車自身が銀河鉄道管理局と連携し、自分で判断し自分で考えながら、安全に、そして、タイムスケジュール通りに運行しているので御座います。此の機関車自身が機関士、其の物、其れも絶対にミスを犯さ無い機関士で御座います。」

 己の手柄の様に機関室の性能を語る車掌に怪しい素振りは全く無い。鉄郎は只の思い過ごしかと思い、良い機会だからと前々から抱いていた疑問を尋ねてみる。

 「車掌さん、999は地球とアンドロメダの間を一年で往復するんだろ。と言う事は半年でアンドロメダに到着するって事だよね。でも、地球からアンドロメダまでの距離は250万光年も在るんだ。光の速度でも其れだけ掛かるのに、どうやったら、たったの半年でアンドロメダまで往けるんだい。どんな物体も光よりも速く走る事は出来無いんだろ。光速と肩を並べる速度で走ってるのなら、外の景色は歪んで見える筈なのに、そんな様子も無い。ワームホールとか言う奴を使ってワープしてるのかい。でも、相対性理論はワープの存在を否定してるとか聞いた事あるよ。」

 「其の件に関しましては、鉄郎様。」

 と言うが早いか、車掌は何処に隠し持っていたのか、行き成りスケッチブックを左手で肩口に掲げ、手書きの図解を伸縮式の教育ポインターで指しながら説明し始めた。

 「確かに光より速い物体は御座いませんが、三次元に時間軸を加えた時空連続体を歪ませる事で物理法則の通用し無い亜空間を出現させ、其の中の折り畳まれ収縮した空間を列車が一直線に通過する事で、光を越える速度で目的地に到着する事が可能なので御座います。」

 「じゃあ、どうやって空間を伸び縮みさせているんだい。其の伸びている空間と元の空間との間はどうなってて、どういう風に列車は通過するんだい。」

 「否、其れが・・・・誠に、何と申したら宜しいのか、私も勉強不足で御座いまして・・・・・。」

 「何だよ、結局、車掌さんも良く判って無いんじゃないのかよ。」

 「御恥ずかしい限りで御座います。」

 車掌がスケッチブックを後ろ手に回し深々と頭を下げると、機関室の闇から抜け出てきたかの如き喪装の幽女が、他愛も無い歓談の息の根を止めた。

 「そんな社外秘中の社外秘、二等客車の乗客に教える訳が無いでしょ。此の機関室は万物の実相に直結した、悪魔ですら盗み見る事の出来無い機密の宝庫なのよ。電脳化して無い分際で穿鑿(せんさく)する何て烏滸(おこ)がましいにも程が有るわ。」

 光学迷彩の様に闇と戯れる漆黒のフォックスコート。多針メーターの光芒の狭間で黒女(くろめ)の相貌が白磁から青磁へと(うつ)ろい、金無垢の鳳髪を翻して直立不動の車掌に畳み掛ける。

 「食堂車の準備が滞っているようだけど、どうなっているの。此から小惑星帯のトンネルを(くぐ)るのよ。此の機関室の主動力以外、総ての電気系統が遮断されて終うわ。そうなってからじゃ遅いんじゃないの。鉄郎、貴方もトンネルに入る前に食事を済ませておきなさい。」

 女主人の厳告に全身全霊の最敬礼で応える車掌に、

 「此の宇宙空間でトンネルに入るってどう言う事だい。何も無い空間でトンネルだ何て・・・?」

 鉄郎は身を(すく)ませて小声で尋ねると、メーテルは其れを遮って頭熟(あたまごな)しに打ちのめした。

 「でも、列車はトンネルへ入るのよ。小惑星帯なんて都合の良い呼び方をしてるけど、奪い合い殺し合いを繰り返した領域紛争の成れの果て。其処で誤爆した銭ゲバ達の残留思念の吹き溜まりよ。銀河の綺羅星も寝静まる墓場の参道を潜り抜ける時、トンネルの闇は心の闇を映し出す・・・鏡に・・・・・・。」

 其処まで言い掛けて、独片(ひとひら)花弁(はなびら)の様な口角が不敵に吊り上がると、メーテルは白檀を焚き()めた鳳尾を颯爽と(ひるがへ)して、猫の額程の躙り口に爪先から滑り込み表に出た。機関室の氷結した空気が一気に弛緩し、鉄郎は舌打ちを飛ばして機関室の暗がりに片手を突き、多針メーターの中を覗き込んだ。

 「此の機関室の構造より女心の方が余っ程複雑さ。特に彼の馬鹿と来たら。」

 「御待ち下さい。幾ら鉄郎様と言えども聞き捨てなりません。御言葉には呉々も御注意願います。」

 「そうは言ってもさあ。」

 「鉄郎様、御推察の通りメーテル様は此の列車の最も大切な御客様なので御座います。神輿は自分の脚で歩いてはいけません。唯、どっしりと構えて行き先さえ告げて頂ければ、後は其処まで運ぶのが私共の務めで御座います。」

 「私共って、真逆(まさか)、俺も頭数に入ってるのかよ。冗談じゃ無いよ。」

 「まあ、そう仰有らずに。閑話休題で御座います。私も小惑星帯のトンネルの事をすっかり忘れておりました。鉄郎様、早速、御食事の御用意をさせて頂きたく存じます。就きましては、其の・・・・御注文は・・・・・矢張り、何時もの・・・・。」

 「勿論、何時もので頼むよ。」

 

 

 機関室を出た鉄郎は食堂車の扉の前に設けられている、名ばかりの喫煙室で何時もの様に何時ものメニューを待っていた。客車の重厚な木枠のモケットでは無い簡易なボックスシートに座り、誰も吸い殻を入れた様子の無い窓枠の灰皿を弄っていると、食堂と書かれた磨り硝子の向こうに人の気配がして、扉に手を掛ける音がする。鉄郎は反射的に両手を擦りながら立ち上がり、一歩前に踏み出そうとした。処が、開いた扉の前に立っていたのは侮蔑と辟易でジットリと澱んだ眼差しで、御待ちかねのメニューでは無かった。

 「又、そんな処で食べるつもりなの。食堂は此の中よ。何度言ったら判るの。貴方は正規の乗客なんだから何も遠慮する事は無いのよ。」

 絶世の娟容(けんよう)を半壊させて、行き成り沸点に達しているメーテルとの出会い頭に、鉄郎は身構える暇も無い。狭い喫煙室に轟く怒号の一方通行。こうなるともう赤信号も青信号も無く、メーテルは顱頂(ろちょう)に錐を立てた様に錯乱していく。

 「何を()ねてるのか知ら無いけど、少しは乗客らしく振る舞ったらどうなの。野良犬じゃ有るまいし、又、例の下品で下ら無い物を注文したんでしょ。あんな物は只の非常食よ。ちゃんとメニューに載っている物を頼みなさい。こんなだらし無い真似をさせる為にパスを渡したんじゃ無いわ。恥を掻くのは私なのよ。自分だけヌケヌケと豪華な食事に有り付くのがそんなに(やま)しいの?何に義理を立ててるのか知らないけど、誰も誉めては暮れないわよ。そんな瓦落多(がらくた)。」

 此のメーテルの激昂は、最早、食前の儀式と化していた。鉄郎は何時もの様に無視を決め込んで其の苛立ちに油を注ぎ、後はメーテルが疲れるのを忍の一字で待つしか無い。そして漸く、

 「此じゃあ、チンパンジーにアメフトのルールを教えてた方が増しだわ。」

 貝の様に緘黙(かんもく)を貫く鉄郎にメーテルが匙を投げて嵐が去ると、鉄郎はシートに躰を投げ出して、食堂内の豪奢な雰囲気から顔を背ける様に窓外に眼路を飛ばした。眼の覚める様な真紅のテーブルクロスに、折り目正しく配置された皿の上を飾る、蓮の蕾の様に折り畳まれた純白のナプキン。宮廷を哨戒する近衛兵の様に銀食器が其の切っ先を閃かせ、フィンガーボールが水晶の惑星を気取って眠る、清潔で華美を究めた別世界。其処に運ばれてくる美食の王道と来たら何をか言わんや。銀河鉄道最上位路線の人も羨む至高の晩餐。然し、其れは鉄郎にとって万死に等しい針の(むしろ)でしか無かった。

 此の待遇を受けるべきなのは、死に物狂いで護り育ててくれた母の筈なのに。()()めと生き残った自分が、世紀を超えた美食に舌鼓を拍つなんて有り得無い。彼の女の言う通り、独り善がりな疚しさに義理立てした処で、所詮、口パクの時はマイクを逆さに持つ歌手みたいな物だ。然し、其れでも鉄郎は己の不甲斐なさで失って終った大切な物を、マイクを逆さにした口パクを突き破ってでも呼び寄せ、取り戻したいと心の底から悔やんでいた。今更、こんな意地を張った処で神様が母に引き合わせてくれる訳でも無いと判っていても、

 

 

    たらちねの母が手離れかくばかり

       すべなきことはいまだせなくに

 

 

 こんな想いをする位なら、何故、彼の時、俺は・・・・。鉄郎は思わず、汚れを知らず取り澄ましている窓枠の灰皿に拳を振り下ろした。爪と皮膚の区別さえ付かぬ程、ドス黒く変質していた指先の角質が剥がれ落ち、血色を取り戻す毎に、産廃を掻き分けていた記憶が、母と過ごした些々(ささ)やかな日々の幸せと共に薄れていく様で、除染されていく己の瑞々しい手を見ているだけで忌々しい。一口の水を探し求めて(やすり)の様な手と手を繋いで母と歩き続けた荒野。其れが此の列車の中では、乗務員に頼むだけで浴びるほど飲む事が出来て終う。待ち望んでいた筈の快適で安全な生活。然し、其の素晴らしい居心地こそが最も息苦しく、鉄郎を追い詰めていく。生きている実感の無い虚栄に(まみ)れた銀河クルーズ。此ではまるで監獄列車だ。星々を箱詰めで買い漁れる程の金額がチャージされた999の乗車券。何故こんな物に目移りをして本当に大切な物を台無しにして終ったのか。苛烈な環境に(ちりば)められていた、決して色褪せる事の無い喜びに愕然とする鉄郎。其処へ不図(ふと)

 「星野、鉄郎様・・・・で御座いますか・・・・。」

 か細く消え入りそうな鈴生(すずな)りの嬌声が、行き場の無い自噴を(たお)やかに挫いた。顳顬(こめかみ)を遡る焦血が(ほぐ)れ、鉄郎の眼路を揺らめく床の上に揃った二筋の可憐な蜻蛉(かげろう)。滑らかに立ち昇っていく其の儚き輪郭線を(しず)かに(なぞ)っていくと、トレーに載せたカップヌードルの力強いロゴが鉄郎を見下ろしている。綴じ蓋から溢れるコンソメの利いた醤油風味の懐かしい薫り。其の立ち昇る芳醇な湯気の向こうで、山吹色のカチューシャだけを身に纏う、アールヌーボーの工房から命を吹き込まれて抜け出た様な、繊細で麗しい全身硝子細工の少女が戸惑っていた。

 「君は・・・・。」

 「私はクレアと申します。今日から此の999号で御務めをさせて頂きます。どうぞ宜しく御願い申し上げます。」

 「其の躰は・・・・・・ホログラムじゃ無いよね。」

 「クリスタル硝子で出来ております。」

 「クリスタル硝子・・・・・こんなの、初めて見た。一体何時999に乗ったんだい。」

 「一つ前の停車駅からで御座います。」

 「そうなんだ。タイタンを出発する時は疲れ切って眠ってたからなあ。何も覚えて無いんだ。俺の名前は星野鉄郎。鉄郎って呼んでくれよ。車掌さんもそう呼んでくれてるしさ。宜しく頼むよ。」

 「此方(こちら)こそ宜しく御願い申し上げます。では鉄郎様、割り箸を御用意するようにと説明を受けたのですが、本当に此で宜しかったので御座いましょうか。銀製のチップスティックも御座いますが・・・・・。」

「ああ、此で十分だよ。割り箸のささくれてる処が良いんだ。丁度上手く引っ掛かってさ。銀で出来た箸なんてツルツル滑って上手く麺を掴め無いよ。」

 「器も移し替えた方が宜しいのではないかと思うのですが。此の容器は発癌性物質の塊で御座いますから。」

 「ハハ、其れはカップーヌードルが出来た当時の話しさ。此はちゃんと、紙の容器で出来てるから大丈夫。大体、発癌性物質位でビビッてたら、今の地球には住め無いよ。其れに、

 

 

   (いへ)なれば手に盛る(いひ)を草枕

      旅にしあれば椎の葉に盛る

 

 

 地球に居た時は食器すら無い時だって在ったのに、此の列車は何もかも贅沢過ぎて頭が可笑しく成っちゃうよ。」

 「鉄郎様、失礼とは存じますが、其の(うた)は死出の旅路に読まれた物。(いにしへ)(ことば)は其の吉凶を選ばず詠い主の身に引き寄せる力が御座います。御慎み下さる事が鉄郎様にとって御賢明な事かと存じます。」

 「ハハ、随分と古風な事言うねえ。クレアさんも哥を詠むのかい。」

 「滅相も御座いません。私のアーカイブデータの中に偶々和歌のストックが換装されていただけの事なので御座います。其れよりも鉄郎様、本当に此処で御食事をなさるので御座いますか。食堂車に御席は御用意して御座います。若し、食堂車内で何か御都合の悪い事が御在りになるのでしたら、私共に何なりと仰有って頂ければ。」

 「良いんだよ此処で。食堂車の中だと豪華過ぎて眼がチカチカしちゃうよ。其れと其の、鉄郎様って言うのと、御座います、御座いますって言うの勘弁してくれよ。聞いてるだけで肩が凝っちゃうからさあ。そう言う堅苦しいのは車掌さんだけで十分だよ。」

 「そう言う訳には参りません。鉄郎様は大切な御客様なので御座いますから。」

 「ホラ、又言ったあ。車掌さんとか鉄道会社の連中には俺から宜しく言っといてやるからさあ。気にし無いで、鉄郎、鉄郎って呼び捨てにしてくれよ。ツー事で、頂きい。」

 そう言うと鉄郎はトレーのカップヌードルをカッ(さら)い、口に(くわ)えた箸を片手で割って蓋を開け、立ち昇る湯気で頬を染めながら一気に麺を啜り上げた。舌の上で白魚(しろうお)の様に弾ける縮れ麺に、鶏肉、豚肉、野菜のエキスが三位一体で(ふく)よかに広がるオリジナルスープが絡み付き、喉元を旨味の大瀑布が迸る。カップ麺のパイオニアにのみ許された、ミンチの歯応え、小海老の跳躍、卵と葱のスクランブルが奏でる主張と調和。そして何より、鉄郎親子の命を点し続けた爆発的なカロリーと塩分量。粉末スープの一滴は地の塩を()した血の涙で在り、(たと)へ其れが廃棄食材で在っても、骨肉に刻む信仰、其の物で在った。思い出のスパイスに目頭が熱くなり、急騰する体温、決壊する汗腺。此の列車の中にいて唯一、母と地球を此の胸に繋ぎ止めてくれる熱き熱きソウルフード。の筈が、

 鉄郎は間接視野を猶予(たゆた)ふ見目麗しい珠玉の容肢に意識を奪われて、味覚が舌の上を擦り抜けていく。可動機構や制御回路が何処にも無い、此の世に在って無い様な雪華の妖精。純潔と貞節の結晶化したクレアの澄み渡る痩身を、穏やかな車内灯が夢の様に透過して足許のデッキに影の欠片すら落とさ無い。同じ一糸(まと)わぬ姿でも、タイタンで目の当たりにした蜂腰を婀娜(あだ)なすメーテルの裸体ですら豪胆で冗漫に映る程の、硝然としたクレアの楚腰(そよう)。其の清謐な佇まいを前にしては、蠱惑(こわく)的なメーテルの魅力ですら押し付けがましく、眼窩(がんか)(もた)れてくる。

 虹彩(こうさい)が欠落し瞬く事を知らぬ目縁。(おとがい)に半ば融け出した幸の薄い唇。本来有るべき明眸皓歯(めいぼうこうし)をも()み流した、眉根と鼻筋の幽かな羞じらいでしか読み取れぬ慎み深い表情。後景を転写し、色と形を滅しただけの光学迷彩では生み出し得無い、肌理細やかな心の(ひだ)を浮き彫りにした様な儚き造形。今にも消えて無くなりそうな其の眩影(げんえい)を、顔を押し付けたカップ麺の縁から鉄郎が盗み見ていると、雨糸(あまいと)の垂髪が霏霺(たなび)き、憂いを帯びた石英の仙女が僅かに小首を傾げた。  

 「何故、鉄郎・・・・さんは、こんな非常食を注文するんですか。食堂車のメニューには素晴らしい食材を贅沢に使った料理が取り揃えてあるのに。」

 「其れはさあ、俺が物心付いたばかりの頃には、地球でも未だ慈善活動をする生身の人間達のグループが幾つか在って、其処が感染症の予防接種なんかの医療支援をしながら炊き出しを遣ってたんだ。母さんはパラサイトチップや遺伝子操作物質の埋め込まれたワクチンや抗生物質には手を出すなって言ってね。二人で炊き出しの列にだけ並んだんだ。其の時に配られてたのが此のカップ麺でさあ。美味しくて、温かくて、地球に居た時の一番の御馳走だったんだ。其れを車掌さんが車掌室で食べてるのを見て吃驚してさ。非常食の賞味期限ギリギリで廃棄寸前の奴だって言うから、後はもう三食全部、此ばっかりさ。」

 「でも、御体に障りますよ。三食総てを加工食品で(まかな)うなんて。」

 「クレアさん、生身の人間が一週間飲まず食わずだとどうなるか知ってるかい。自分の指が食べ物に見えてくるんだ。本当だよ。嘘じゃ無い。俺は一度骨が見えるまで自分の小指を噛んだ事が在る。例え其れを我慢出来たとしても、今度は眼の前に在る物が全部食べ物に見えてくるんだ。生まれ立ての赤ん坊の様に何でも口にして、其の度に母さんに頬を撲たれて正気に戻るんだ。一日に一食でも有れば幸せな方さ。出された物は食えって言われて育ったんだ。其れが食品添加物の塊だろうが、自分の指や重金属の染み込んだ石コロよりは全然増しさ。」

 「撲たれるんですか。御母さんに。」

 「そうさ、完全に意識が飛んでるからね。自分でも気付か無いんだ。自分の指を喰い千切ろうとしてる事を。母さんが居なかったら、今頃こうして箸を持ってラーメンを食べる事も出来無かった筈さ。」

 「鉄郎さんの御母さんって、どんな方だったんですか。」

 「どんなって、一言では説明するのは難しいな。不思議な人でさ。物心付いた時には親父は居なくて、ずっと二人っ切りで生きてきたから、小さな頃は其れが当たり前だと思ってたんだけど、何時何処で天変地異が起こるのか、産廃の山の何処に物々交換出来る何が眠っているのか、高濃度の二酸化炭素が沈澱している窪地や被爆地帯、汚染水を察知して、普通の人には見えない物が見えるんだ。一寸、信じられないだろうけどね。小を尽くして大に入り、人代を尽くして神代を伺ふ、修験僧と歩き巫女を足した様な人でさあ。何時も星や風を読んで、進むべき道を見極めるんだ。其の手に引かれてずっと歩いてきたんだ。芯が強くて、何事にもブレ無くて、何時だって俺の事を身を楯にして護ってくれて、命の道標(みちしるべ)みたいな人さ。地球に住んでる生身の人間は、皆、自分一人が生きるのに必死で、貧民窟の中では自分の子供を平気で捨てたり売ったりしてるのを見てたから、本当に感謝とかそんな言葉じゃ足り無い位、感謝してるよ。そりゃあ、時々、ゾッとする様な事を言い当てたりして怖くなる時とか、嘘も直ぐに見透かされちゃうから、息苦しい時も在るけど、否、何って言ったら良いのかな。どうしても全然上手く説明出来無いな。」

 胸に支えていた物が後から後から溢れ出てくる事に驚いて、鉄郎は言葉を切り、残りのスープを一気に飲み干して空き容器と箸をクレアに差し出した。

 「御馳走様。ヘッ、矢っ張り、何度食べても美味しいや。母さんにも食べさせて上げたいよ。きっと喜ぶだろうからさあ。」

 「鉄郎さんの御母さんは今どう()されて居らっしるのですか。」

 「其れが判ら無いから、こうして999に乗って探してるのさ。気の遠くなる様な話しだけどね。クレアさんの御母さんはどうなんだい。真逆、御母さんの体もクリスタルガラスなんて事は無いよね。」

 人間狩りの顛末を口にして、折角の晩餐の後味を台無しにしたく無い鉄郎は、()()無く話しを逸らしたつもりでいたのだが、当たり障りの無いと思った言の葉の一片が、舞い降りた地雷の信管を此でもかと踏み躙った。石英の清流が氷結して、朽ち果てた砕石の如き険相が、淡青な秀眉に(くさび)穿(うが)ち、空気が一変する。煌めきを失った蜻蛉が最期の時を迎えた様にクレアは声を振り絞った。

 「私には鉄郎さんの様に人に自慢出来る母は居ません。私をこんな躰にして終った人の事を世間では母と呼ぶのでしょうけど。」

 「こんな躰って、とても綺麗で素敵じゃないか。」

 「今は補修と研磨をしたばかりだからそう見えるだけです。流動化したクリスタルの硬度なんて高が知れてます。普通に生活しているだけで傷だらけになって終うんです。強い衝撃にも耐えられ無いので、直ぐに欠けて罅も入ます。元々、ディスプレイ用アンドロイドの筐体で実用的な物では在りません。鉄郎さんは此の躰を綺麗だと言ってくれますけど、余り嬉しくありません。私は好奇の眼を気にせず踊り続けるアンドロイドとは違います。誰もが私の躰に興味を持って逃げ場の無い眼差しを投げ付けてきます。でも其の視線は私の躰を擦り抜けて、決して私の心を(みつ)めてはくれません。本当は人目に付かない内職や、服を着て働ける仕事がしたいのです。でも其れでは此の躰の維持費と新しい躰を買う費用を作る事が出来ません。高額な報酬が保証されている此の列車で働くのも、裸での接客を条件に採用してもらいました。少しでも早く新しい躰を手に入れる為に。私が此の躰を乗り捨てて新しい躰になりたいのは、手入れが大変で好奇の目に曝されるからと言うだけでは在りません。本当の自分に成りたいんです。生まれ変わりたいと言った方が良いのかもしれません。」

 「本当の・・・・自分。」

 「そうです。自分探しの旅なんて言う、子供の家出に尾鰭が付いた様な物じゃ在りません。私の電脳海馬には統合されて無い他人の記憶が幾つも錯綜していて、どれが本当の自分の記憶か判ら無いんです。生身の躰から機械の躰に電脳換装する時に、別のアーカイブが紛れ込んだのかもと説明されただけで、術後のリハビリをした以外、業者のアフターケアも無ければ、保証も有りません。抑も、何故、機械の躰に成ったのか、其の経緯に関する記憶が全く無いんです。其処だけ完全に欠落しているんです。目覚めた時には手術台の上に居て、硝子の躰の中に私の意識は閉じ込められていました。私の母だと名乗る人に会っても、記憶の中に在るどの母とも別人です。其の人が本当に母親なのか後見人なのかすら判りません。其の人に私が生身の躰だった頃の写真や動画、身分証を見せられても、一致する記憶が有りません。機械化する前の生身の躰が何処に在るのか尋ねても、(はぐ)らかすばかりで真面(まとも)に答えてくれません。其の人が私をクレアと呼ぶのも本当の名前なのか判りません。本当に女だったのかも判りません。私の母とか言う人は、私の生身の躰を売ったのかもしれません。遺伝子培養した物で無い生身の健体で希少価値の有る物は、時に高額で取引されますから。私のオリジナルの躰を気に入って、どうしても欲しいと言う買い手の提示した大金に、眼が(くら)んだのかもしれません。そんな都合の悪い事実を誤魔化す為に、私の記憶を(いじ)ったのだとしたら。其れとも、硝子の個体に適当な記憶を載せただけで、オリジナルの私なんて元々存在し無いんじゃないのか。機械化した心と体にオリジナルと呼べる物なんて在るのか。リミッターを外して疑い始めると、覗き込んだ闇の中から二度と戻ってこられ無くなりそうで、とても気持の整理なんて付きません。」

 堰を切って捲し立てるクレアの鬼気迫る語気が、生半可な気休めの言葉で水を差す事を許さ無い。

 

 

    身也者、父母之遺體也。   身は父母の遺體(いたい)なり。

    行父母之遺體、       父母の遺體を行う、

    敢不敬乎。         ()へて(けい)せざらんや。

 

 

 そんな御為ごかしを超越した硝子細工の精霊が、星屑のベールを引き裂いて自ら暴き立てる、口減らしで投げ売りにされた其の痛恨。安否不詳とは言え実の母を拠り所に、貰い物の乗車券で御客様面をし、物見遊山の旅をしている己の厚遇に鉄郎は愕然とした。

 「御免なさい鉄郎さん。私の事を嫌いになら無いで下さい。今更、私の母と名乗る人を(なじ)った処で何が変わる訳でも在りません。元の自分の躰や記憶を取り戻す事も半ば諦めてます。私が其の人の話をする時、感情を抑える事が出来無いのは、敢えて汚い言葉を放熱して熱暴走を防ぐ様に設定しているからです。情操回路のフィルタリングで其処に捌け口を残しておかないと、自分の存在の総てが崩壊して終いそうなんです。私は新しい躰を手に入れたら、新しい記憶に上書きしようと思っています。其の時にはクレアと言う名前も変わっているかもしれません。」

 受け入れられない過去ならば寧ろ捨て去って、成りたい自分に生まれ変わる。クレアの自分独りで此の宇宙を泳ぎ切る決意が、希薄に虚ろう仮初めの姿を再結晶し、蒼然とした石英の化身が荒波を迎え撃つ断崖の如く、鉄郎の前に立ち(はだ)かっている。自然の摂理から見放された異次元の苦悩と再生。然し、一旦狂った歯車を新しい躰と新しい記憶に()げ替えて本当に総てが丸く治まるのか。其処には更に深い落とし穴が在るのではないか。鉄郎は人智の及ばぬ危うさに胸が騒ぎ、かと言って其れを(いさ)める言葉も勇気も無かった。クレアの幽かな希望の灯火に冷や水を浴びせる資格が自分に有るのか。誰の為でも無い自分の為。其の絶望的な孤独は、生半可に寄り添ってくる者達の有らゆる欺瞞を暴き立て、焼き尽くす事だろう。二重遭難を覚悟の上で足を踏み込む事すら許さぬ硝子の結界。自然の摂理を逸脱した其の先にどんな救いが在ると言うのか。999の機関室が多針メーターの蛍火を断たれた様な天地無用の晦冥を垣間見て、鉄郎は一粒の傍点(ぼうてん)と為って無明の境地に立ち尽くしていた。眼が覚めたら其処は問答無用の闇。手術台と言う俎板(まないた)に放置されたクレアの見当識。総てを曝け出す光は(むし)ろ残酷だ。闇と言う執行猶予に戸惑う事の出来る温情。其れにしても此は、本当に何も見え無い。と言うより、実際に灯りが落ちている。

 何時の間に、と戸惑う意識が暗黙の(とばり)に焦点を見失い、後退(あとずさ)った(ふく)(はぎ)が座席の縁に触れ、シャークソールの踵が床板に軋み、完食した容器で燻る醤油風味の(ほの)かな残り香が、鉄郎の小鼻を爪弾いた。張り上げ屋根の白熱灯が飛び、窓外の星明かりも幕を降ろして、無限軌道を蹴立てるドラフトの輪乗感すら遮られた視界の中で、辛うじて食堂車の喫煙室に居ると言う見当識だけが漠然と座礁している。

 「小惑星帯のトンネルに入ったようです。安全弁を閉じて(しばら)くの間は電気系統が作動しないと聞いています。御食事の容器の方は私が後で御下げしますから、鉄郎さんの席に戻りましょう。私が御案内します。私の手を握って決して離さないで下さい。」

 クレアの少し(やつ)れた声が闇を限って鎖骨から襟足を掠め、鉄郎は思わず肩を(すく)めた。此が例のトンネル?手を握る、どうやって?光の絶した冥底(めいてい)に臆せぬ、落ち着いた口振りが引き擦る異妖な(ひびき)。列車が運行している様子の無い漆黒の緘黙行(しじま)に向かって身構える鉄郎。すると、鳥肌の和毛(にこげ)を逆撫でする不吉な予感をそっと(なだ)める様に、闇に融け出した幽かな気配が琥珀色に(ほの)めき、糖蜜の様な晶像が浮かび上がった。清楚な物腰を()でる、柔和で質素なフィラメントの光芒。翼の折れた蜻蛉が其の薄命を燐焼し、喫煙室の輪郭を健気に照らし出している。夢の続きの様な幻影。生まれ変わったクレアの姿に鉄郎の疑念は解晶し、伏し眼勝ちに立ち尽くす其の羞じらいに(ひざまづ)き、(あが)める様に見上げていた。好奇の眼を(おそ)れ両の(かいな)支度解甚(しどけな)く身を隠すクレアの媚態。ディスプレイ用の個体と言う事でネオンサインの様に発光する機能が装備されているのだろう。もっと輝度を上げる事も出来る筈だ。然し、クレアの硝子の純朴が其れを許さ無い。過美な己の躰に(さいな)まれる光の女神。折れた翼で舞う様にクレアが其の手を差し伸べる。

 「行きましょう。」

 誘蛾灯に惹き込まれる様にクレアの手を握ると、母を(なじ)り続けた余熱なのか、燐晶発振させているからなのか(ほの)かな温もりが伝わってくる。妻引戸(つまひきど)を開け鉄郎を導くクレアの硬直した横顔。時の流れを逆行する旧式の客車。折り目正しき木工と真鍮細工の意匠が息を潜め、空席が列を為す床板の通路を、覚束無い跫音(おしおと)だけが、律儀に時を刻んでいく。半径1mにも満た無い最小限の輝度に包まれた二人だけの世界。星空から銀河の舞い降りた様なクレアの垂髪が揺らめき、半歩先の闇を無言で掻き分ける。宇宙の果てを目指し、光速をも振り切る夢の超特急とは思えぬ重厚な静寂。何時の間にか鉄郎は今が何両目なのかも忘れて、妻引戸を開けては元の車輌へと舞い戻る無限のループの中を、物語に読まれた死者の魂を弔う精霊列車の中を彷徨(さまよ)っていた。実体の在る自分独りだけが空席に見えているだけで、999の全車輌は天国への指定席で埋まっているのではないのか。生身の躰の自分が割って入る席は無いのではないのか。其れとも、妻引戸を境に生と死の狭間を行き交う永久(とわ)の終身刑に引き込まれ、囚われて終ったのか。そんな止め処無く流転する随想の断片に、不図(ふと)、母の手に引かれて家路を急いだ闇夜の記憶が()ぎり、クレアが身を(やつ)す幽微な灯火を遮った。

 朧気に照らし出されていた背摺(せすり)と床板の木肌が、細めていた其の(まなじり)を閉じて二人の跫音が途絶えると、置き去りにされた暗黙に一瞬心拍が裏返る。再び小惑星帯のトンネルの底に突き落とされた鉄郎は、掌に留まるフィラメントの微熱を握り替えそうとして宙を泳いだ。前後不覚の闇が母と逸れて白魔に没した人間狩りの陰画(ネガフィルム)へと反転し、幼児返りした彼の時の様に独り声を潤ませる。

 「クレア、何処だ。」

 己の声に耳骨(じこつ)が痺れ、クレアの気配どころか大気が(そよ)ぐ素振りさえ見せぬ果てし無き昏絶。胸の鼓動と乱れた呼気が高まるばかりで、奪われた視野に抗う術が無い。クレアは何処へ消えたのか。何故返事をし無い。此は何かの事故なのか、罠なのか、罰なのか。鉄郎の心の暗渠(あんきょ)と共鳴して淫らな憶測を増幅する完全無欠の漆黒。手探りで前に進むも何も、此処が何両目なのかも判らなければ、此処に留まっていて安全なのかも判ら無い。鉄郎は乗車券のエアディスプレイの輝度を上げて灯りにならないか、ベストの胸ポケットを探ってみた。

 すると、まるでタッチセンサーに触れた様に、電気系統のリレーが弾ける音と共に視界が拓け、拡散していた瞳孔が軋みを上げる。乳白色の張り上げ屋根を照らして降り注ぐ白熱灯に、立ち昇る調度品の木香。通路を挟んで左右に列を為す座席のモケットが(しず)かに息を整え、堅調な駆動音がシャークソールを突き上げて無限軌道の遙かなる一歩を再び刻み始めた。硝子窓に溢れる星屑がトンネルを抜けた事を告げ、何事も無かった様に、何時もの空席が列を為している。たった一席を除いて。

 鉄郎とメーテル以外に座る者の無いボックスシートに、見覚えの有る土嚢袋を継ぎ接ぎした塊りが蹲っている。貧民窟の餓鬼共に蓑虫と詰られた襤褸外套(ぼろがいとう)。其の切りっ放しを目深に被る窶れた影が立ち上がり、慈愛と憂いに満ちた眼差しで鉄郎を包み込む。見間違える訳が無いからこそ信じられぬ紛れも無き母の姿。血の池に沈んでいた筈の外套には狙撃された風穴も無ければ、血痕の一雫さえ落ちてい無い。そんな馬鹿な。此は夢か幻だ。母さんが999に乗っているなんて有り得無い。だが、其れがどうしたと言うのか。例え夢でも幻でも全く構わ無い。

 

 

   命にもまさりて惜しくあるものは

      見はてぬ夢の()むるなりけり

 

 

 鉄郎は何かの間違いだと百も承知で駆け出した。疑っている暇なんて無い。本の束の間の錯覚が醒めてしまう前に、鉄郎は母に抱き付いた。兎に角、会いたかった。そして、謝りたい。だが、余りにも想いが強過ぎて言葉が胸に支え、何も考える事が出来無い。母の痩せ細った躰が、お互いに抱き合った腕が強く強く絡み合う。母と(はぐ)れていた幼子の崩壊した涙腺が、押し殺していた悔恨の焦熱を洗い流していく。此は夢だ。だからこそ醒め無いでくれ。今、手を離したら二度と会え無くなる事を承知で我武者羅(がむしゃら)に縋り付く鉄郎。然し、其の熱い抱擁がジリジリと限度を超えて、次第に鉄郎の胸骨や肋骨、肩胛骨に喰い込んできた。尋常な力じゃ無い。

 「いっ息が・・・・一寸、待って・・・・。」

 「何だって、息がどうかしたのかよ。意地汚ねえ乳呑み児みてえにグズグズ泣きやがって。母さんの受けた苦しみはこんなもんじゃねえぞ。」

 「だっ、誰だお前は。」

 身動きの取れ無い鉄郎が薄目を開けると、其処には、彼の日の夜、吹雪の中を彷徨った凍傷(まみ)れの鉄郎が鉄郎の首を絞めていた。

 「俺が誰だか判らねえのか。(しっか)りと眼を凝らしやがれ。此の兵六玉(ひょうろくだま)。ヌケヌケと生き長らえやがって。何故、母さんを見殺しにした。何故、死に物狂いで追わなかった。己の罪を数えろ。母さんを殺したのは機械化人なんかじゃ無い。お前だ。お前が母さんを殺したんだ。草木一本生え無い荒野で此処まで育ててもらった癖しやがって。本当に死ぬべきなのはお前だ。お前の方だ。」

 墓穴から抜け出てきたかの様に黒変した鼻っ柱と頬を突き付けて吼え立てる己の姿に、鉄郎は心の臓を撃ち抜かれた。彼の夜の真実を告発しに現れた合わせ鏡の分身。己の犯した過ちの総てを知る張本人の弾劾が一切の反駁(はんばく)を許さ無い。メーテルに助けられる事無く、人間狩りの白魔に呑まれて息絶えたもう独りの星野鉄郎、死に神を越えた死に我身が、(ただ)れた本心を剥き出しにして鉄郎の頸動脈に爪を立てる。

 「お前は母さんが未だ生きてると本当に信じてるのか。本当に命懸けで母さんを助け出す為に999に乗っているのか。物見遊山の宇宙旅行に呆けやがって。何が俺にはカップラーメンで十分だ。懐かしくて最高の御馳走だと。何処の口が火裂(ほざ)いてやがる。雪の上に広がる黒い血の海を忘れたか。良く其れでラーメンが喉を通るな。卑しい口をしやがって。最初に食堂車で喰ったビフテキに驚いて喉に詰まらせたのは何処の何奴だ。舌の上で(とろ)けて消えたタンシチューを御代わりしたのは何処の何奴だ。オイ、何か言ってみろ。其の糞みたいな言い訳を幾らでも聞いてやる。お前の吐いた唾が御天道様にまで届くってんなら、今直ぐ此処で遣ってみやがれ。其れとも命乞いが先か。銃を突き付けられただけでブルった蓑虫がどうやって拝み倒すのか見せてくれよ。オイ、何とか言え。此の犬畜生。」

 遠退いていく意識の中で、鉄郎は此の瞬間を心の何処かで待ち望んでいた事に気が付いた。鉄郎を裁く為に現れた此の生き霊は、言う事、為す事、何一つとして間違ってい無い。自分で自分を罰する勇気の無かった其の背中を押してくれている介護者に、鉄郎は総てを委ねていた。今、首を締めているのは誰の為でも無い星野鉄郎の代弁者だ。科学の粋を集めた999をどんなに飛ばした処で、此の無尽無窮の大海原、母さんを助ける処か、巡り会う事すら有り得無い。己の首を絞める魔の手に抗う力が次第に解け、鉄郎は彼の日の夜に没した吹雪の続きを(なまくら)に辿り始めた。

 「オイ、どうした、何で刃向かってこねえんだよ。母さんの命も、自分の命も、そんなに簡単に諦めて良いのかよ。そんな腑抜けの為に母さんは躰を、命を投げ出してテメエを護ったんじゃねえ。人の命を何だと思ってやがる。」

 一々急所を衝いて首を揺さぶるもう独りの自分に、されるが儘の鉄郎は、だらし無く頷き続ける事しか出来無かった。此で漸く楽になれる。メーテルとか言う女に助けられた事の方が、寧ろ何かの間違いだったのだ。無一文の孤児が銀河超特急の999に乗っているだなんて、そんな馬鹿な。奇怪(おか)しな夢から覚める時が来た。唯、其れだけの事。身の丈に合わぬ冒険を垣間見れただけでも拾い物だと、甘く(ぼや)けた意識の中に鉄郎は溺れていく。其の失禁寸前の安逸を、岩清水の様に凍み渡る鈴生りの声音が(おもむろ)に引き留めた。

 「鉄郎さん、此以上、自分で自分を傷付ける事は無いわ。もう御止(およ)しなさい。」

 (もつ)れ合う二人の鉄郎の前に忽然と閃いた石英の晶像。999がトンネルを抜けた後、車内のどの影に紛れていたのか。玉響(たまゆら)に揺れ惑うクレアの指先から二の腕が、色素の無い蔦葛(つたかずら)の様に、鉄郎の頸動脈に爪を立てるもう独りの鉄郎を後ろから抱き(すく)め、其の耳元に(ささや)いた。

 「傷付けるのなら私の体を傷付ければ良いわ。こんな躰、磨けば幾らでも元に戻るのだから。癒されて治る傷なんて本当の傷じゃ無いわ。心の弱さが嘘を産み落とす様に、耐える事の出来無い悲しみが、憎しみと怒りを振り翳すのよ。そんな空威張りで私を傷付ける事は出来無いわ。」

 クレアの冴え冴えとした声が母の唱えた祖述(そじゅつ)と重なり、鉄郎の途切れかけた意識が針で衝かれた様に反応すると、其れを目聡(めざと)く捕らえたもう独りの鉄郎は、好都合な闖入者に愚劣な愉悦を(まく)り上げ(はや)し立てる。

 「オイ、ラーメンを(すす)りながら盗み見てた、お前の食後の御菜(オカズ)が助けに来てくれたぞ。冥土の土産に、小便にしか遣った事のねえ赤ちゃん筆を下ろしてもらえよ。折角、素っ裸でウロウロしてんだからよお。どうせ、上手く乗客に取り入って、少しでも早く身請けしてもらいてえって腹だろ。でなけりゃ、クレア、お前は鉄郎の何なんだよ。」

 「鉄郎さん、私は貴方の心が点してくれた二酸化珪素(けいそ)の結晶。朝日を待たずに夢と消える今宵限りの夜露。「鉄郎さん、私は貴方の心が点してくれた二酸化珪素の結晶。朝日を待たずに夢と消える今宵限りの夜露。其のたった一雫を唯独り覗き込んでくれた貴方の瞳が今、私の躰を全反射して虹色に瞬いている。見えるわ。何時も空ばかりを見上げて平地に(つまづ)き、瓦礫の山の中で独り声を荒げている姿が。

 

 

    (をのこ)やも(むな)しくあるべき萬代(よろづよ)

      語り繼ぐべき名は立てずして

 

 

 闇夜に煌煌(こうこう)(そび)えるメガロポリスの絢爛に胸を焦がす、飢えと絶望と暴発寸前の有り余る若さが。」

 「黙れ、テメエみてえなデレデレした飴細工に何が判る。

 

 

    不立非常功    非常(ひじやう)の功を立て()んば

    身後誰能賓    身後(しんご) 誰が()(ひん)せん

 

 

 漢が生きた証を立てずに、蚤や虱と肩を並べて塵拾い何て遣ってられるか。」

 「鉄郎さん、自分の足跡を永遠に残したかったら、誰にも知られ無い場所を独りで歩いて、一生其処に隠れているしか無いのよ。どんなに遠くまで歩いても、其の足跡を踏み荒らされずに自分の辿り着いた場所を知ってもらう事なんて、誰にも出来無いわ。其れに、

 

 

    朽ちもせぬその名ばかりを(とど)め置きて

      枯野のすすき形見にぞ見る

 

 

 輝かしい名誉栄達をどんなに深く刻み込んでも、肉体が朽ち果てた其の後は、素文(そぶん)の剥落した碑石の様に土に還るのを待つだけよ。そんな独り善がりに(うつつ)を抜かして、本当に大切な物から次第に心を背け、護る事も庇う事も出来無かった。そうじゃ無いの。」

 「巫山戯(ふざけ)んな此のパン助、判った様な口を叩いてんじゃねえよ。」

 気が付くと、鉄郎の首を絞めていたもう独りの鉄郎の姿は消え、逆に鉄郎本人がクレアの首を絞め怒鳴り散らしていた。己の手の中で澄み渡る石英の微笑みが、総てを曝け出して終った身無し子を(みつ)めている。クレアは髪を掻き上げる様に其の手を(しと)やかに払い除け、鉄郎を抱き締めて心と心を重ね合わせた。

 

 

   たらちねの母が手(はな)れかくばかり

     すべなきことはいまだせなくに

 

 

 「此の世で最も麗しく尊い物は、取り返しの付か無い過ちを心の底から後悔する事よ。人の心に熱い血が通つてゐるからこそ、二度と元に戻ら無い大切な物を、永遠に追ひ求め、(おも)ひ続ける事が出来るの。

 

 

   蓮花のにごりに染まぬ心もて

      なにかは露を玉とあざむく

 

 

 鉄郎さん、自分の大切な(おも)ひに嘘を吐かないで。貴方は素晴らしいわ。」

 硝子細工では無い人肌の温もりに包まれて、鉄郎は滂沱(ぼうだ)の涙に灌没(かんぼつ)した。掌に残る力任せに締め上げたクレアの首の感触が、醒め醒めとした虹彩の無い瞳が呼び起こす母の面差しが、良く寝かせた下肥(しもごえ)の様に撲ち撒けた、ギラギラと泡彿(ほうふつ)する己の性根が漂白し、悔悟の念に打ち砕かれ粉々になった心の欠片が、吹き荒ぶ時の螺旋を遡っていく。

 遠い遠い()の日の原風景。記憶の糸が途切れて立ち止まると、其処は何時も雪が舞っていた。鉄郎を背負い誰も踏み荒らす事の無い雪原を独り掻き分ける母の姿。

 

 

   雪灑笠擔風捲袂   雪は笠擔(りふえん)(そそ)いで風は(たもと)()

   呱呱覓乳若爲情   呱呱(ここ)乳を(もと)むるは若爲(いかん)(じょう)

 

 

 母の耳元で泣き(じゃく)る己の声に胸が張り裂ける。物心が付く前の覚えている筈の無い荒景。我が子の楯と為って進む、恐怖も絶望も寄せ付けぬ決然とした母の眦。不実の飛び交う人の世と決別し、どんな困難にも立ち向かい乗り越えてしまう、余りにも強靱で壮絶な削ぎ落ちた横顔。其の偉大な背中の影で鉄郎は何時も震えていた。隠修士の様に地の果てを引き擦り回され、身の潔白を常に強いる、神の眼を背負った母の後ろ姿。過酷な境遇をより一層、被虐の坩堝(るつぼ)へと追い込む強行軍の連続。母の存在こそが此の鉛の様な艱難辛苦の根源なのではないかと讒言(ざんげん)する心の声。貧民窟の享楽と堕落と丁々発止に目移りをしては、其の迷いや嘘を見透かされて(おのの)き、非の打ち処の無い道理に屈服して、己の怯懦(きょうだ)と傷を舐め合った。(そば)に居て息が出来ぬほど研ぎ澄まされていく母に唯々圧倒されて、血の繋がりと命の重さに喘ぎ、そして再び、吹雪が其の勢いを増していく。新雪を駆る剛性軍馬の蹄が聞こえてきた。逃げ出そうとして踏み込んだ一歩が血の海で泥濘(ぬかる)み、膝から腰へと引き擦り込まれる。総てを失って初めて思い知る母への甘え。冬の稲妻が討ち下ろす萬謝(ばんしゃ)の鉄槌。母の背負っていた(あつ)い荷役に押し潰されて、生け贄となった母の血潮に顳顬(こめかみ)まで浸かり、藻掻こうとして振り上げた腕に地吹雪が絡み付く。手首を掴んで逆巻く旋雪の一陣。白魔の(つぶて)が再結晶し、石英の手弱女(たおやめ)が其の垂髪を霏霺(たなび)かせて、時の雫が頬を滴る鉄郎を記憶の底から汲み上げる。

 「鉄郎さん、出口が見えてきました。貴方の心を借りて、本の束の間とは言え、()うして外の光を垣間見る事が出来ました。本当に有り難う御座います。私が御仕え出来るのは此処迄です。もう時間が有りません。然様(さよう)なら鉄郎さん。」

水引の紙縒(こより)が解かれる様にクレアの腕が鉄郎の肩と脇を擦り抜けると、白墨の瞬く吹きッ晒しの銀幕が翻り、記憶の回廊を馳せる風洞が一気に拓けて、逆光の彼方からドラフトの鼓動が押し寄せてくる。拡散していた瞳孔が悲鳴を上げ、色と形を取り戻していく999の二等客車。見慣れている筈の木の温もりに包まれた平穏な意匠。然し、立ち(すく)む鉄郎の肌に刻まれたブリザードの残晶と、頭骨を反響する白魔の雄叫びが、安逸に運行する銀河超特急の車内を夢の中の絵空事だと斬り捨てる。何に目覚めたとも呼べぬ空々しい見当識の傍観。虚実の狭間に取り残された鉄郎は、再び姿を見失ったクレアの名を呼ぼうとした。すると、安全弁の蹴汰魂(けたたま)しい咆哮が其の出鼻を挫き、動輪が一瞬ロックして車体が跳ねた衝撃に追突され、額から通路の床板に叩き付けられた。睫毛の先で星々が弾け、其の遥か彼方に吹き飛ぶ生半可な微睡み。動輪のフランジが火花を散らして、減速する素振りさえ見せぬ999の剛脚が三半規管を打ちのめす。編集し損ねたモンタージュの様に目紛(めまぐ)るしい現況。此の逸脱した常軌を立て直すべく、乗降デッキの扉が開き、銀河鉄道のルールブックが床に投げ出されている鉄郎に駆け寄った。

 「大丈夫ですか、鉄郎様。御怪我は御座いませんか。」

 車掌の差し出すハンカチで己の涙に気付いた鉄郎は、慌てて二の腕で拭いながら、しとどに濡れた床板を突き飛ばした。

 「車掌さん、何なんだよ一体。脱線でもしたのかよ。」

 「小惑星帯のトンネルを抜けた直後に、機関室から火室内に異物が混入したとの警報を受け、今、確認に向かっている処で御座います。事は緊急を要します。此にて失礼させて頂きます。」

 鉄郎の無事を確認して一礼を献ずると、車掌は間髪入れずに機関室へと駆け出した。銀河鉄道網最上位路線に有間敷(あるまじ)き運行トラブル。噴慨に(いなな)く安全弁の暴騰と、車外を覆い尽くす迅雷を孕んだ煤煙に窓硝子が怯震し、不整脈を連鼓する動力に車内灯の輝度が乱高下する。無尽無情の天涯に()めず(おく)せず、堅調に操業していた999の怒張息巻く狂躁に駆り立てられ、鉄郎も車掌の後を追って現場に急行した。

 炭水車を乗り越えて運転室に辿り着くと、只でさえ気焔万丈の鉄火場が、焚口戸(たきぐちど)を中心に飴色に灼けて大気が揺らめき、配管のエルボーやチーズ、プラグキャップの捻子込みから蒸気が漏吹して、振り切れた各バルブの圧力ゲージが御互いを罵り合っている。運転室のオープンデッキに降りただけで糸を引くシャークソール。迸る汗が見る間に揮発し、有らゆる体毛の末梢がチリチリと燻る熔解の坩堝。先刻、車掌から機関室に案内された時には、泰然と旺臥していた豪胆なボイラーが、灼熱の鬼胎を抱えて身悶えている。何時破裂するとも知れぬ危険を顧みず、運転台の交換機に打電する車掌。放電ノイズの砂嵐越しに機関室の合成義脳が応答すると、後は只管(ひたすら)、テキストデータを読み上げる平坦な口調を連呼した。

 「二酸化珪素ト思シキ酸化鉱物ガ焚口戸ヲ突破シ火室内ニテ暴発。圧力ノ急騰ニ因リ火格子ガ熔壊シ、汽罐内壁ノ破損スル恐レ在リ。至急、灰箱ノ排出口ヲ手動ニテ開放セヨ。手動以外ノ制動操作ハ、不具合、誤動作、動輪固撃ノ恐レ在リ。至急、灰箱ノ排出口ヲ手動ニテ開放セヨ。」

 業務連絡と同じ基調で朗読される醒め切った緊急警報。其の辿々しい文節が上手く聞き取れぬ鉄郎は、他人事の様な声の主に問い返した。

 「ニサンカケイソって何なんだよ?」

 「二酸化珪素とは化学式SiO2で表記される、原子番号14元素の酸化物で、天然の鉱物として産出される結晶状態の物には石英、瑪瑙(メノウ)蛋白石(オパール)、玉髄等が御座います。」

 「石英って、水晶の事かい?」

 「其の通りで御座います。」

 合成義脳を代弁する車掌の一言に鉄郎は、恰幅の良い紺碧のブレサーを押し退けて焚口戸のペダルを踏み込んだ。

 「何を為さいます。御止め下さい。鉄郎様。」

 車掌の制止を振り切り、湯気を立てる半割の扉が開放されると、火室内で暴張していた熱量と(ひょう)の如き散弾が一気に噴射して炭水車の躯体に直撃し、其の撥ね返りが作動したスプリンクラーと攪拌して、水蒸気の煙霧に呑み込まれる運転室。焼夷の(つぶて)を浴びて車掌と鉄郎が運転席の隙間で揉み合い、其の頭上で繰り言を警告し続ける合成義脳と、肺の腑を焼き尽くす程の噎せ返しが、間違いで在ってくれと願う胸騒ぎを逆撫でする。何に抗っているのかも見失って終いそうな混濁を掻き分け、引き千切った車掌の腕章を手に白瀑とした煙幕の塊から首を出す鉄郎。焚口戸が封じられてスプリンクラーが停止し、充満していた水蒸気が車外に放逸されると、油を引いた鉄板焼きの様なオープンデッキに、涙の雫を凝結した石英の勾玉(まがたま)が散乱している。鉄郎が慌てて拾い上げると、氷菓子と見紛う澄み切った結晶とは裏腹の焦熱に指を焼かれ、零れた其の一欠片が縞鋼板の上を硬質に撥ねた。

 「クレアだ。クレアが此の中に居る。」

 火室を指して訴える鉄郎に、車掌は危うく暗黒瓦斯の頭部からズレ落ちかけた制帽を直しながら、其の目深に構えた鍔の奥に潜む二つの黄芒(こうぼう)屡叩(しばた)いた。

 「クレア?誰で御座いますか、其の方は。メーテル様と鉄郎様以外に御乗車している御客様は御座いませんが。」

 「何言ってんだよ。ウエイトレスのクレアだよ。食堂車の。」

 「鉄郎様、申し訳御座いませんが、此の列車に乗務しているのは私一人で御座います。何かの思い違いなのでは御座いませんか。」

 「そんな、真逆・・・・・。」

 「鉄郎様、其れは若しや、トンネル内の・・・・・、否、何れにせよ、今は不正乗車の有無を穿鑿している場合では御座いません。最優先されるべきは999号の安全な運行の復旧で御座います。灰箱を開放して不純物を軌道外に廃棄致します。鉄郎様、万一の場合に備えて、御席に御戻り下さい。」

 「軌道外に廃棄って、宇宙に放り出すって事かよ。巫山戯(ふざけ)んな。止めろ。999を止めろ。」

 「鉄郎様、申し訳御座いませんが、其れは致しかねます。手動以外での制動操作は、不具合、誤動作、動輪固撃の恐れが在ると機関室から警告が出ております。999号に装備されている自動ブレーキは空気圧に()る物では無く、全車輌を電子制御で束ねる貫通ブレーキで御座います。何卒、御了承頂きますよう御願い申し上げます。」

 「其のブレーキ弁のハンドルを手で回せば良いんだろ。其れだって手動じゃねえのかよ。兎に角、其処を退()きやがれ。」

 自動ブレーキ弁のハンドルを挟んで再び揉み合う鉄郎と車掌。其の背後から無言の一太刀が火を噴いた。脊椎を走る電撃に叩きのめされ、デッキの上で垈打(のたう)つ鉄郎。其の顔面に向かって足許の勾玉を蹴散らし、アークを飛ばすコスメスティックの撻刃(たつじん)を突き付けて、鳳髪の黒女(くろめ)が吐き捨てる。

 「騒がしいと思って来てみれば、何の事は無い。トンネルの闇に呑まれたのね。クレアですって?貴方、一体何を見たと言うの。だから食堂車で食事をしなさいと言ったのよ。どうせ成仏出来無かった残留思念にでも(そその)かされたんでしょ。亡霊風情が態々(わざわざ)結晶化してボイラーに身投げする何て良い迷惑よ。こんな人に当て付ける様な真似をして、余程構って欲しいのね。自殺ごっこなら誰も居ない処で独りで遣れば良い物を。そんな(くたば)り損ないに入れ上げて、(ざま)あ無いわね。」

 放電霏霺(たなび)く煤煙を背に傲然と聳える女帝の御出座(おでま)しに、鉄火場の灼度が跳ね上がる。制帽と背筋を正して一礼する車掌の足許で、親の敵に巡り会ったかの如く睨み返す鉄郎の険眉。水を差す処か油を撲ち撒けて(けしか)ける相変わらずの言い草も、今回ばかりは限度を超えていた。

 「何だとテメエ、刺し違えるつもりで言えよ此の野郎。」

 蹴散らされた石英の身霊(みたま)を左手で(いたわ)る様に掻き集め(なが)ら右手を腰に回した鉄郎は、立ち上がり様に戦士の銃をメーテルの鼻っ柱に突き付けた。白け切っている(かささぎ)の照星なぞ知った事では無い。啼かぬなら此の銃爪(ひきがね)をへし折ってでも啼かせる迄の事。遅かれ早かれこうなる巡り合わせだった物を、今の今迄、泳がせていた己が許せ無い。殺意すら蒸発する程の衝動で脳動脈が濁流し、レッドアウトする網膜。怒張した脳圧で頭骨が軋み、土足で踏み躙られた様に歪んでいく意識。其の毛細血管が弾ける顳顬(こめかみ)を背後からモリブデンの直管が冷徹にノックした。

 「銃を御納め下さい鉄郎様。威しでは御座いません。」

 南部式小型自動拳銃を握り込んだ車掌の黄眸(こうぼう)に偽りの曇りは無い。鉄郎は7㎜口径の小生意気な銃口を逆立てた眉間に突き当て、ジットリと押し返した。

 「社畜は引っ込んでろ。」

 人間狩りの凶弾に平伏した身無し子は確変し、ベビー南部の銃身を掴んで、睫毛の先に張られた死線を引き千切る。トンネルの闇の続きを見ているのか、熔解した石英の熱暴走に呑み込まれて焼天する鉄郎。其の(いき)り立つ肩骨に、背後から再び討ち降ろされた電撃が、思春期のレジスタンスに止めを刺した。頸椎に爪を立て髄液を駆け昇る光鎖の迅雷、出口の無い頭骨を乱氾煮(らんはんしゃ)する脳漿。顱頂(ろちょう)を突き抜けた懲伐に、稲光る視界が煤けた配管と圧力ゲージを虚ろに仰ぎながら倒壊していく。

 「こんな馬鹿、放っておけば良いのよ。さあ早く、灰箱を開放なさい。」

 肉体と精神を断絶され運転席に濡れタオルの様に(もた)れ、泡を吹いて失神している鉄郎に背を向け、メーテルがアークの散った鞭尖を巻き上げると、車掌はデッキから身を乗り出して排出用の梃子を引き、灰箱の蓋を吹き飛ばす様に撃ち出された滂沱(ぼうだ)(つぶて)が、零カラットの涙となって無限軌道と併走し、星屑の渦に紛れていく。

 

 

    白露に風のふきしく(あま)の野は

       つらぬきとめぬ玉ぞちりける

 

 

 良い気味だとばかりに小鼻を吊り上げ其の場を後にする黒耀(こくえう)の麗人。ボイラーの減圧に呼応して安全弁が終息し、クロスヘッドと大動輪が足並みを揃え、シリンダードレンが安堵の慨嘆を噴き上げる。何事も無かったと平静を装い、タイムテーブルの遅れを整然と取り戻す鋼顔(こうがん)の銀河超特急。其の後塵に掻き消されていく少年の心を透過した独片(ひとひら)の韻影は、本当にクレアと言う晶女(しょうじょ)は存在したのか、確かめる術も無く、白眼を剥いた威力業務妨害の現行犯は、車掌に担がれ元居た席へと運ばれていく。瓦解した(おとがい)から垂れ下がり糸を引く舌尖。鼻と言わず口と言わず筋を束ね、頬で泥濘(ぬかる)洟泗(ていし)の煌めき。持て余した若さと仮借無き真実に苛まれ、鉄郎は束の間の休息に陥落した。

 

 

    心思不能言  心思(しんし) 言ふこと(あた)はず

    腸中車輪轉  腸中(ちやうちゆう) 車輪(てん)

 

 

 往路の半ばにも満たぬ行き摺りの白宙夢。太母(たいぼ)の慈愛と抑圧の狭間で擦れ違った硝子の少女と永遠の少年。路露に消えた出会いとも呼べぬ瞬きを(ちりば)めて、十一輌編成の車窓の帯が千切れた8mmフィルムの様に、百数十億平方光年の銀幕を失踪する。

 

 

    離家參肆月   家を離れて參肆月(さんしげつ)

    落淚陌阡行   淚を落とす陌阡行(ひやくせんかう)

    萬事皆如夢   萬事 皆 夢の如し

    時時仰彼蒼   時時(じじ) 彼蒼(ひさう)を仰ぐ

 

 

 車掌の肩から二等客車のボックスシートに降架した鉄郎は、モケットの窪みの中で胎児の様に身を丸め、羊水の源泉を遡った。肉体と追憶に縛られた空蝉(うつせみ)の、後一歩の処で遠離(とほざか)る、終わり無き影踏みの末に迷い込む鬼界のトンネル。鉄郎は其の風穴の出口を、涙の乾いた瞼の向こうに探し求める。闇を点した晶女の残像を頼りに、踏み躙った心の欠片を拾い歩き、決して滅ぼす事の出来ぬ罪の数と照らし合わせる魂の巡礼。萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。

 前後不覺(ぜんごふかく)鉄郞(てつらう)未智連(みちづ)れに、畸相(きさう)の天涯を漂泊する鋼鐵(こうてつ)の搖り駕籠。()の星を目指してゐるやら、皆目見當(けんたう)定まらぬ辰宿列張を前にして、銀河に流された捨て子の笹舟が健氣(けなげ)舳先(へさき)を突き立てる。押し寄せる(なみ)に飜弄され、巡り會つては引き離される、參文淨璢璃(さんもんじやうるり)のドサ廻り。

 

    擧頭望天象   (こうべ)()げて天象を望み

    低頭覗虛胸   頭を()れて虛胸(こきよう)を覗く

 

 

 鉄郞(てつらう)睛眸(せいぼう)、此の先、果たして、如何なる稀覯怪聞(きこうかいぶん)相見(あひまみ)えるや。未だ嘗てと枕に翳す、瞠然必須(だうぜんひつす)玖死轉轉(くしてんてん)。其れは復た次囘の講釋で。

 


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