銀河鉄道 " 令和999 "   作:tsunagi

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#4 重力の底の墓場

   白日掩荊扉、  白日(はくじつ) 荊扉(けいび)(とざ)し、

   虛室絕塵想。  虛室(きよしつ) 塵想(じんさう)を絕つ。

 

 

 そんな気取りは此の黒鉄の隔離病棟には通用し無い。()してや、相部屋の(ともがら)が重度の狐憑きと来た日には、通電した針の筵で捌かれる鯉だ。光脚を凌ぎ、銀河鉄道網の最長到達点を往復する最上位路線。其の至高のクルーズライフが持て成す脅迫的な迄の閉塞と狭窄に鉄郎は押し潰されていた。衣食住には事欠かず、肉眼では其の変化を感知出来無い、窓外の畏様な星景が催す宇宙酔いにも少しは慣れ、次の停車駅まで手持ち無沙汰な時間と安逸を膝の上で転がしていたのは、精々、天王星の公転半径の辺り迄。其処から先は、耳鳴り程度だった退屈が、今までそっぽを向いていた方の横顔を垣間見せ、()えた吐息を臭わせ始める。

 限られた区画の中で歪に肥大化し続ける車厘()質の時時刻刻。無為に過ごす漫然とした逗留が或る一線を越えた途端、グロテスクに変質していく密室の静物達。しっとりと手に馴染む背摺(せすり)の肘掛けが、メーテルのトランク以外、誰も使う事の無い網棚が、飴色に濁った白熱灯が、乗客の心を落ち着かせる為、謹製錬質で磨き上げられた、重厚な旧家の本邸を思わせる車内の意匠が不協和を奏で、息苦しく鉄郎の肩に伸し掛かってくる。家畜の様に食事、トイレ、風呂、ランドリー、座席のペンタグラムを周回するだけで何処にも逃げ場の無い、窓外を埋め尽くす絶界の宇宙が四塀に(そび)える、脱出不能の天翔けるアルカトラス。隣の車輌に移る為、貫通扉を潜る度に繰り返す永劫回帰な既視感に胃酸が込み上げ、車内の通路を歩いているだけで、其の場に身を投げ出したい衝動に駆られ、ラウンジに(しつら)えた図書室や娯楽室に潜り込んでも、室内に吹き溜まり充満した時流の腐敗臭に圧迫されて、棚から本を抜き取る事すら出来ずにフリーズして終う。恐らく普通の乗客なら、オンラインでUber私娼窟(ポルノ)を呼ぶなり電脳モルヒネカジノにダイヴして快楽の限りを尽くすのだろうが、通信帯域が制限されている現状では其れも(まま)ならず、何より鉄郎の眼の前に相席する狐憑きの存在が其れを許さ無い。

 食堂車と浴室、そして御公務とやら以外、一切席を立つ事の無い、山に籠もった修験者の如き神色自若。(しと)やかな秀眉に険の一筋すら限る事が無く、背摺のモケットに預けた柳麗な物腰は二曲一隻の幽谷を遊墨し、憂いを帯びた俯額(ふがく)(きざはし)で、黒耀(こくえう)に艶めく露西亜(ロシア)帽が、車内の人工重力に逆らって不可思議な角度で完璧に宙止している。退路を塞ぐ、一糸乱れぬ絶世の娟容(けんよう)に、

 「先に席を外した方が負け。」

 そんな勝負を勝手に無言で吹っ掛けては、

 「俺は此の馬鹿の握り金玉じゃねえ。」

 と(うそぶ)いて、鉄郎は自分の首を絞め上げていた。何故、メーテルは出口の無い放置プレイに平然と、否、優雅に耐えられるのか。無尽蔵に反復する勤厳な列車の駆動音を右から左に聞き流して、乗車券のホログラムが虚空に刻む時辰儀の運針は牛歩を究め、銀河を跨ぐ無限軌道が幾つの光を追い抜こうと、鉄郎自身はボックスシートの駕籠の鳥。人生の体感速度は1mmたりとも進んで無い。こんな窒息した石櫃(いしびつ)の中に閉じ込められて、聖母の嗜みを振る舞う狂乱の貴婦人を、逆恨みする以外に遣り場の無い苛立ち。鉄郎は何時しか、永遠に辿り着く事の無い次の停車駅を呪い罵る其の裏で、地球への郷愁が密かに芽生え始めていた。(ようや)御然(おさ)らば出来た筈の死の大地。飢えと徒労に(まみ)れた放浪の遍歴が、爪に火を点す火種すら無い難民の日常が今、当時は気付く事の出来無かった煌めきを湛えて甦ってくる。

 エスキモーや砂漠のキャラバン、酸素濃度の希薄な高地に身を寄せるチベットの民の様に、母が限界領域を生活圏にしていたのは、厳しい環境を生き抜く知恵と勇気さえ有れば、人間同士の(いさか)いに、奪い合い、殺し合いに巻き込まれるリスクを避ける事が出来たからだ。どんなに激劣な汚染地帯も人間に闇討ちされる恐怖に較べたら、身動きの取れぬ毒蛇と変わら無い。どれ程の困窮と天変地異に曝されようと、管理区域外の荒野には絶望を絶叫出来る無制限の開放感が在り、生き延びる為に強いられる苦役にも、余計な邪念に囚われる事無く、己の肉体に没頭出来る健全な白熱が在った。重金属の浸み出す土壌や壊滅した廃墟を巡る切迫の先で待っている、汗と埃(まみ)れの些々(ささ)やかな発見と達成感。其れが此の護送列車の檻の中では、湧き上がる焦燥の総てが発散される事無く、己の内面に向かって逆流し、其の深層を何処迄も掘り起こし、闇に(ひし)めく、時間とは、空間とは、存在とは、精神とは、言語とは、人間とは、生きる価値とは、有らゆる哲学的命題を暴き立てて攪拌し、蠱術(こじゅつ)の如く生き残った虚無の毒牙に鉄郎の腸は喰い千切られる。暖衣飽食のツケと言うには余りにも醜怪で苛烈な代償。糖質、ミネラル、必須アミノ酸で血流が飽和し、生まれて初めて栄養失調と環境ホルモンからリセットされた壮健な肉体が恨めしい、魂の失調。そんな今の今迄経験した事の無い、健全な若さを持て余す無間地獄のドン底で、鉄郎は何時しか、と或る醜怪な悪夢に魘される様に為っていた。

 

 脱ぎ捨てられた墨染めのフォックスコートに顔を埋め、白檀の薫りを纏った雌の臭いを嗅ぎ(なが)ら覗き見る、鍵の掛かってい無いシャワールーム。扉の隙間から溢れた()せ返るミストの向こうに、タイタンで目の当たりにした匂い立つ白磁の柔肌が揺らめいている。磨り硝子一枚を隔てて、官能の限りを尽くすヴィーナスの遊湯。思春期の眩暈(めまひ)に霞む絶世の旺裸(わうら)。俺は何を為ているのか。何時からこんな出歯亀(でばがめ)に身を落として終ったのか。血走った眼光で優雅に滴る蜂腰を追い乍ら、鉄郎は固唾を呑んで、己を(なじ)り倒した。彼程憎み、呪い続ける不倶戴天の宿敵を前にして、荒い息を潜め、恍惚の一時に溺れる屈辱。悩殺された理性を、背徳の色香が更なる悦楽へと引き擦り込む。其れは異性への憧れと神秘を、性春の小さな冒険を逸脱した妖魔との戦いだった。

 銀河の煌めきを一身に集めた饒舌(ぜうぜつ)な美貌に魅入られ、前立腺を掻き分けて脈打つ灼熱の野性。ダックパンツのボタンフライに喰い込んだ尿道の刺激が悲鳴を上げる崖っ縁の自制心。此れは罠だ。常日頃から奔放で無防備な狂おしい其の仕草。鳳髪を掻き上げ、思わせ振りに足を組み替へて危険な遊戯を(ほの)めかす此の女狐は、総ての漢を挑発し、侮辱している。(しつか)りしろ鉄郎。奴は俺に恥を掻かせるのが生き甲斐の女郎蜘蛛(ぢよらうぐも)だ。こんな安い撒き餌に喰らい付いて何うする。()してや、決して見紛(みまが)う事の無い、生まれ変わりの其の面差し。こんな母と同衾(どうきん)するに等しい欲情、(ゆる)される訳が無い。君子の襟帯(きんたい)(ただ)し、斬首を(いと)わぬ其の叱責で、己の頰を打つ鉄郎。併し、メーテルの限度を超えた暴言の数数、殺人的な仕打ちの恨み辛みが、(こじ)れた童貞の鬱勃(うつぼつ)(あぶ)り立てる。

 貴様は此の(まま)、絵に描いた虎で終わる積もりか。喪中の御年賀じゃ有るまいし、遠慮して何の徳が在る。獲物は眼の前だ。()う言う巫山戯(ふざけ)た女には罰が必要で、少し位の痛い目に遭わなければ、捻じ曲がった性根は治ら無い。此奴の馬鹿げた乱痴気騒ぎで、毎回生死をさ迷ってるのは何処(どこ)何奴(どいつ)だ。こんな息の根を止めても飽き足らぬ淫売に、手加減なぞ(もつ)ての(ほか)。甘い顔をして泳がせておくのは此処迄だ。一方的に遣られっ放しで漢の立つ瀬は何処に在る。真逆(まさか)、非の打ち処の無い彼の(からだ)に筆を下ろすのが怖いのか。こんな上玉を前に尻込みをしてたら、次のチャンスは来世を(また)いだ世紀末だ。其れ迄、男の身竿(みさを)を護る積もりか。犬だって飼い主に甘噛み位はするもんだ。漢なら本当の御主人様は誰か躰でタップリ教えてやれ。

 下半身から突き上げる、手懐(てなづ)け様の無い狂牛の雄叫び。併し、そんな劣情を究めた渾身の野次も、既に臨界を超えて蕩壊(たうかい)し、遠退(とほの)いていく意識の前では、舌を抜かれた雀の(さへづ)りでしか無かった。曇り硝子を撃ち貫かんばかりに張り詰め、(いき)り立つ十代の絶倫。顳顬(こめかみ)に爪を立てる静脈が弾け、人の皮を剥いだ本能の煉獄から、百獣のマグマが鉄の(くびき)を引き千切る。

 鉄郎は身を隠していた扉を押し退け、山賊の様に土足で踏み入ると、(ほとばし)るシャワーの(つぶて)を弾く獰猛な膂力(りりよく)でメーテルの唇を奪い、(たは)わに実る瑞瑞(みづみづ)しい乳房に喰らい付いた。母の面影を押し倒して(むさぼ)る禁断の果実。秘密の花園に姦通する蛇蝎(だかつ)の如き毒牙。一心不乱の本性と骨肉に、前戯も無ければ愛撫も糞も無い。迅雷が肛門の括約筋から脊髄へと(さかのぼ)り、沸騰した海綿体に殺到する白烈。堰を切って濁流する化膿した毒素は、幾ら放銃(はうじゆう)しても治まる事を知らず、終わり無き暴発の泥濘(ぬかるみ)(のめ)り込んでいく。(ほふ)る者も(ほふ)られる者も一塊の牡と牝と化した没我の混沌。見殺しにした母を再び裏切り、神をも殺した完全無欠の冒瀆。処が、そんな前後不覚の少年の叛逆とは裏腹に、一糸(まと)わぬ蠱惑(こわく)淑女(しゆくぢよ)は、時ならぬ暴漢に其の身を委ねて、叫ぶ処か(あらが)いもせず、独欠片(ひとかけら)の恐怖も無い、侮蔑に氷血した微笑みで、其の我武者羅(がむしやら)な若さを(みつ)めていた。

 私を征服出来る物なら遣ってみろ、と言わん許りに仰臥(ぎやうぐわ)した、絶対的主従の金字塔。此の揺るぎ無い尊厳は、一体何処から湧いてくるのか。生け贄の分際で生意気な。(うめ)きも(あへ)ぎもせぬ腐ったマグロに跨がり腰を振り続ける、怒りと憎しみに(まみ)れた、糖蜜の様な自己嫌悪。息を継ぐ間も忘れて、穴と言う穴を串刺しにするだけの一本槍な拙攻。激しく凌辱しようと為れば為る程、手応えの無い興奮は空転し、性の下僕に科せられた強制的な苦役に成り下がっていく。此れは最早、色魔の餌食と為って搾取される青臭い欲動ですら無い。鉄郎は何時しか、善悪の彼岸に座礁して立ち尽くし、肩で息を為乍(しなが)ら、己の残忍な不始末を見下ろしていた。

 

 

    み吉野の水隈(みぐま)(すげ)()まなくに

       苅りのみ苅りて(みだ)りてむとや

 

 

 大の字に身を投げ出した儘、もう終わったの?と言わん許りに、()ち撒けられた白濁を拭おうともせず、金絲雀(カナリヤ)色の乱れ髪の隙間から鉄郎を見上げ、少年の未熟な試技を採点する引き裂かれた聖母。一分の恥じらいも無い排水溝の穴が、股を開いて更なる追撃を待ってゐる。メーテルが独りの女に戻り、泣いて許しを乞う様を思い描いていた鉄郎は、決して誰とも絡み合う事の無い、一方的な己の情念に愕然とした。悪魔を(けが)し踏み(にじ)る事は、人の力では(かな)わぬ所業なのか。此の女の魅力と魔力の(とりこ)と為って、母の躰で絶頂し、赤裸裸に曝した無様な性癖。手玉に取られた卑劣な遊戯の敗者は、美人局(つつもたせ)の思う壺に頭から()まり込み、恵んで貰った如何(いかが)わしい快楽の施しを、膝から(かかと)へと舐める様に垂れ流していた。本当の勝利とは相手に指一本触れず、戦わずして相手を投降させる事。所詮、暴徒は奴隷の成れの果てだ。完膚無き迄に挫折した野良犬のレジスタンス。此の列車の主は犬を飼う事になぞ興味は無い。犬に仕込んだ芸を(ひけらか)したいだけだ。こんな(みだ)らな調教師に必死で尻尾を振っていた何て。俺が噛み付いたのは服従のパンだ。奇蹟と神秘と権力に因つて完璧に管理制御された、仮初(かりそ)めの愛と自由。借り物のパスで無賃乗車している身無(みな)()に、反抗期何て烏滸(おこ)がましい。横隔膜で波打つ悪寒が立ち籠める湯気を振り払い、犯行現場の浴室を空疎な地吹雪が駆け抜けていく。こんな稚辱(ちじよく)を繰り返す位なら、彼の時、一思いに殺されていれば良かった物を。下半身を剥き出しにして嗚咽(をえつ)する、夜尿症(やねうしよう)の治らぬ幼児の懺悔。足許を浸すシャワーが人間狩りの血の池に黒変し、根元から()し折られた十字架の様に放置された金色(こんじき)の裸婦を、()いで()いだ母の襤褸外套(ぼろがいたう)が覆い隠していく。鉄郎は己が(かぶ)()き濡れ衣の前に、膝から崩れ落ちて眼を覚ますと、(つね)に其処には、身も世も無い夢路の一部始終を視姦していたかの様に、北叟笑(ほくそゑ)む母の生き写しが、モケットのボックスシートに足を組み替えて待っていた。

 

 

    思ひつつ()ればや人の見えつらむ

       夢と知りせば()めざらましを

 

 

 芸を仕込んだ飼い犬の戸惑いを()でる好奇の眼差し。勝ち誇った気怠(けだる)い沈黙が(ほの)めかす三十一(みそひと)文字を突き付けられる(たび)に、鉄郎は屈辱的な粗相(そさう)を悟られぬ様、生温(なまぬる)い内股を(かば)い乍ら席を立ち、忌忌(いまいま)しい甘美な残尿感を引き擦ってトイレに一時避難し、事後処理をする。判で押した様に日を置いて再生される暴走と絶望。此の淫夢は夢精周期に(のつと)った男の生理か、将亦(はたまた)、相席の()れ者が未成年の深層心理を遠隔送査して焼き付けた他重催夢か。奴なら俺が寝ている隙に其れ位の小細工、(いや)、そんな真逆。下着を履き替え乍ら錯綜する狐疑。黄濁した蛋白質が戒める、行き場の無い若さの濫泌(らんぴつ)。何もかもが(みじ)めで、鼻を摘まんで水に流しても、ジットリと寝汗に粘着している。あんな遊女に欲情し、母をも穢して終う何て。此れは何かの間違いだ。此の無限軌道に(あまね)く、(けぢめ)の無い退屈の仕業だ。悪乗りにも程が在る詐術だ。声を荒げる訳にもいかぬ鈴生(すずな)りの呪詛を、苦苦しく噛み殺す鉄郎。()して不図(ふと)、此の不毛な密室に潜む、もう一人の当事者に思い当たる。

 眼の前に顕現鎮座する豪奢な阿婆擦(あばず)れは常識の(らち)(がい)として、車掌は何う遣って此の奇矯で膨大な倦怠を遣り過ごしているのか。偶に車掌室を覗いても業務に追われている様には(とて)も見えず、定期的に車内を巡回し、たった二人の乗客に頭を下げて去っていくだけで、鉄郎と同じ時間を共有している筈なのに、慇懃至極な振る舞いに終始(かげ)りは無い。(そもそ)も、車掌の存在其の物が謎の塊だ。どんな躰の構造で、機械化しているのか、生身の躰を暗黒瓦斯(ガス)で外装しているのかも判ら無い。外装しているならしているで、何故そんな事をする必要が有るのか。そんな穿鑿(せんさく)を、己の淫業を掻き消す為に、偏頭痛の釜底で煮立てていると、デッキに面した扉を開けて当の車掌が車内に飛び込んできた。

 「メーテル様、鉄郎様、銀河鉄道中央管理局からの報告で、太陽系外縁環状線の周遊型臨時列車GL-776が、今から一時間程前に此の領域で軌道から脱線した(まま)行方不明となっており、鉄道公安警備分室と系外連盟捜査局が現場に急行中との事で御座います。誠に申し訳御座いませんが、万が一の場合に備えて、進行方向に背を向けて御座り下さい。」

 ボックスシートの前で深々と最敬礼した紺碧のダブルに閃く、押し付けがましい程の明哲。相変わらずの正規直交を袖にして、メーテルは当て付けの様に鉄郎の隣へ席を移ると、車掌の言葉尻を御通し代わりに摘み始めた。

 「アラ、そうなの。分室と系外連盟って言う事は、元海賊と民間軍事会社の再就職組同士でしょ。どうせ又、一昔前の因縁とか手柄の奪い合いから撃ち合いに為って、現場も証拠も被疑者も被害者も全部(まと)めて星の欠片にして終うんじゃないの。」

 「事故の詳細は随時御報告致します。先ず第一に、身の安全の確保に御留意頂きますよう、何卒宜しく御願い申し上げます。」

 「面白く為ってきたわ。999に装甲車を連結して、連中が揉め始めたら、どさくさに紛れて撃ち落とすのよ。」

 「メーテル様、其れは(いささ)か・・・・・・。」

 「其の程度の事で此の無限軌道に矢を向けるようなら、ハイ、其れ迄よ。どうせ、真っ当に操業している輸送船まで強引に取り締まって賄賂を漁ってる様な連中じゃないの。穀潰し達の忠義が本物かどうか確かめるのよ。」

 何時もの調子で疳の虫が疼いてきたメーテルに、車掌は恐縮した儘硬直し、地雷を踏み分ける様に言葉を探している。後は何処で発作を起こすのか其のタイミングを計るだけ、そんな雲行きに鉄郎が首を竦めて身構えると、腰を沈めていたモケットの起毛から風を孕んだ様に背筋が浮き上がった次の瞬間、重力の糸が断絶し、無限軌道を見失った客車諸共、鉄郎の三半規管は暗転した。

 

 

    飛流直下參仟里  飛流 直下 參仟里

    疑是銀河落玖天  疑ふらくは是 銀河の玖天(きうてん)より落つるかと

 

 

 室内の天地が渦を巻き、虚空に投げ出された車列を逆関節に屈曲する十一輌編成。鉄郎は宙を遊泳し錆止(せいし)していた体内時計のアラームが心の鼓動を拍ち鳴らす。(くわ)え込んだナックルを(よじ)り限界を訴える連結器。車重から解放され光速で空転する動輪に悲鳴を上げる軸受箱のブッシュ。発狂したシリンダーのピストンに激甚するクランクシャフト。猪首の突管から火砕流の様な瀑煙を逆立てて警笛を連呼する鯨背。生温いスポーツ飲料の様な退屈は野良犬の様に蹴散らされ、頻発する天変地異を母の手に引かれ乗り越えてきた第六感が、足場を失った己の命を如何に繋ぎ止めるのか嗅ぎ分ける。此の暴落が軟着陸で納まる訳が無い。床板と張り上げ屋根を跳ね回り(なが)ら、鉄郎は咄嗟に網棚の中に潜り込み、真鍮鍍金の金具に獅噛憑(しがみつ)いた。失踪する無明の奈落に沸き起こる無言の底力。背中合わせで恐怖と好奇が反転する戦慄。窓外を埋め尽くす未知の闇の中に機関車の前照灯を反射して一筋の光跡が閃いた。眼を凝らした途端、波打つ車体に遮られた翡翠(ひすい)の残像と入れ替わりに、迫り来る何物かの高調波が耳骨に爪を立て、短急気笛の連呼が長緩汽笛の絶叫に()け反り、錯乱する電磁ノイズに呑まれた車内放送のスピーカーが何事か喚き立てる。機関室の合成義脳が曝す万策の尽きた痴態に鉄郎が其の時を悟ると、後続の車輌が剛頑な鋼造物に激突する衝撃が、客車の躯体を、鉄郎の脊椎を突き抜けた。

 肋骨と頬骨に喰い込む網棚の編み目が引き千切れて金具の捻子が飛び、ボックスシートに振り落とされてバウンドした鉄郎の脳裏を()ぎる、産廃のボタ山を薙ぎ倒し(なが)ら呑み込んでいく津波の猛威。鼻先を掠め、北叟笑(ほくそゑ)む死の予感。糸が切れ行方不明だった重力が隕石の様に再臨、暴発し、鋼郭を轢き裂き、硝子の砕ける轟音が車内を蹂躙する。転覆した眼界を飛び交う断片化した状況の散弾。其の輻輳した狂瀾の狭間を貫く、窓外で火花を散らしながら999と絡み合う常盤色の機体、と言うより此は、車列。鉄郎は一瞬で騰落が輪転する壁面に殴打され乍ら、間接視野で流線型のレタリング、型式番号“GL-776”が其の銀鱗を翻すのを捉え、ボックスシートの脚に(すが)り付いた。偶然か必然か、迷い込んだのか()められたのか、辿り着いた其の先で、気が付けば神隠しの軍門に降った二匹目の泥鰌(どじょう)。後の祭りが確定した処で、(あざな)える二列の遭難車輌のランデブーは終息し、猛威を揮った隕力が影を潜め、車内が天地を取り戻すと、機関車の駆動音も途絶し、緘黙の膠着が垂れ込めていく。

 床に顎を突いて顔を上げ一息吐いた鉄郎は、ボックスシートの下に挟まって失神している車掌を見付け、骨身に(まと)う打撲を引き擦り乍ら這い寄ると、こんな驚天動地の渦中でも制帽が脱げぬ様に両手で押さえたまま硬直している健気な姿に頬が緩んだ。非常用バッテリーが作動しているのか車内の白熱灯は点いているものの、機関車の動力が作動している気配は無い。車掌には先ず機関室の状況と外部との連絡が取れるのかを確かめてもらわなければ。絡み合っている臨時列車の安否の事も在る。だから何時迄もこんな処で、

 「寝惚けてるんじゃ無いわよ。急いで機関室から中央管理局へ現状を報告させなさい。」

 一体何処に退避していたのか、黒尽(くろづ)くめの痩身を凛然と聳え立ててメーテルが現れると、死に馬同然の車掌に向かって其の怒鎚(いかづち)を振り下ろした。働き蜂をも皆殺しにする女王蜂の恫喝に跳ね起き、怒号のする方角へ鹿威(ししおど)しの様に腰を折る車掌の脊髄反射。其の平伏した後頭部に蜂腰の一檄が更なる追い打ちを掛ける。

 「其れと、隣の周遊列車に乗り移れる様に成層宙絶で結界を張るのよ。向こうの客車から発する重力に999は絡み取られているわ。此の騒ぎの元凶は未だ車内に居る筈よ。こんな場末のサルガッソーに人を突き落として、只で済ませる訳にはいかないわ。」

 切れ上がった眦が怨嗟の火柱(ほばしら)で白檀のオードトワレを焚き()め、鉤爪の様に鋭利な口角を小鼻の脇に抉り立てると、翻る凰金(おうごん)の垂髪が床の上に跪いている鉄郎の頬を張り、子飼いの首輪を有無を言わさず締め上げる。

 「行くわよ。」

 暗礁し息の根の止まった車内を穿(うが)ち先導する、切り立ったピンヒールと、一定の距離を置いて尾行する8897のシャークソール。鉄郎はメーテルの怪気炎に従う気なぞ更々無く、此の規格外な無鉄砲が最悪な末路を辿る決定的瞬間を見逃すな、(あわ)良くば介錯の一つでも執ってやれ、と煽るハイエナ根性に半ば不貞腐れ乍ら引き擦り回されていた。確かに彼の馬鹿の言う事にも一理有る。車窓から覗く難破した周遊列車の様相は只事では無い。999との衝突に()る外傷も()事乍(ことなが)ら、(やに)の様に褪色したコーティングと粉々に剥離した外装のラッピングの下で、腐蝕し膨脹した車体の成れの果ては、数世紀の時を経て引き揚げられた沈没船かと見紛う程で、とても本の一時間前に消息を断ったばかりとは思え無い。討ち敗れた落ち武者の如き其の姿が黙して語る奇怪な惨劇。其の真相を紐解かずに此の奈落の底から御然(おさ)らば出来る程、柔な案件では無い筈だ。幽霊列車の正体を暴くと息巻いてはいるが、当の本人が回収不能な分際で手に負える代物なのか。結局最後は、天衣無縫な無軌道狼藉に巻き込まれて、其の尻拭いを押し付けられるのではないのか。鉄郎はメーテルの傲岸な鼻っ柱がへし折れる奇蹟に期待しつつも、気が付けば何時も負の引力に呑まれている己を戒めた。

 独断専行で宇宙の秩序を台無しにする叛逆のカリスマは、昇降デッキの扉を開け交錯した周遊列車の前に出ると、成層宙絶されているのかどうかも確かめずに、朽廃して枠ごと外れた車窓の一つから、何の迷いも無く乗り込んでいく。磁発性の帯気圏で防御されているかどうかを肉眼で見分けるなんて有り得無い。残骸化した遭難車輌の動力は完全に止まっている。若し、踏み込んだ先が真空状態だったら、全身の水分が煮沸し、物の数秒で熱暴走したシャボン玉。破裂寸前に膨脹した蛋白質は、棺桶に片足を突っ込む事すら出来ずに蒸し上がると言うのに。鉄郎は眉を(しか)め乍ら一呼吸置いて腐壊した開口部に脚を掛けた。重錆化(じゅうしょうか)し軋みを上げて砕ける鋼骨。踵が抜け落ち、危うく隣接した車輌の狭間を縫って広がる放外な宙空に飛び込みそうになる。泡を食って周遊列車の車内に腕を伸ばし、無我夢中で掴んだ塊に体重を預けた途端、其の支えも根本から千切れ、鉄郎は頭から車内に転がり落ちた。

 窮屈な隙間に填り込み、上から覆い被さる雑駁な落下物に埋もれて這い(つくば)る闇の賑わい。打撲に打撲を重ねて身悶え、捥ぎ取れた忌々(いまいま)しい塊を床に叩き付けようとした其の手を、999の車窓から漏れる薄明かりが引き留めた。植毛の絡む五指が掴んだ入出力ポートと放熱ファン。破断面から散華する脊髄ケーブル。電脳カートリッジの埋め込まれた生首が、人工皮膜を突き破って鉄郎を睨み付けている。余りの形相に捥ぎ立ての頭蓋を慌てて放り投げ、片側二列のシートから(くずお)れ伸し掛かる二体の機械化人の躯体を鉄郎が押し退けると、其の無様な狂態に背を向けて雅なオードトワレが閃いた。御扉(みとびら)の隙間から零れる神火の様に通路を縦断する垂髪の隻影。嘲りを含む薄ら寒い蒼唇(そうしん)独片(ひとひら)が、醒め醒めと(むせ)閑吟(かんぎん)に車内の浸陰(しんいん)が色めいた。

 

 

    くらきよりくらき道にぞ入りぬべき

       はるかに照らせ天の岩の戶

 

 

 メーテルの翳したアルマイトスティックの光輪が暴き立てる、四列シートの車内を埋め尽くす遺跡化した乗客の死屍累々。敗滅した人工被膜と衣服から露出した基板のプリントが捲れ上がり、剥落したベアチップが石櫃(いしびつ)に流入した土砂の様に膝の上からシートへと堆積している。永遠の命を焼き尽くす壮絶な時場に引き寄せられて灰燼(かいじん)に帰した機族の葬列。星を巡り光を越える至高の技術を持ってしても逃れる事の出来ぬ万物の摂理。駆け抜けた悠久の歳月に、死神すら息を潜める整然とした車内は粗大な廃材に()し、天国へと脱皮した乗客の抜け殻も、規則的に配置された瓦礫と同化して、反復と差異のモザイクを(かたど)り、物見遊山を満喫していた、天涯に轟く栄誉栄達も、天寿を買い占める豪満な財力も、天理に挑む増長した自意識も露と消え、史実から欠落した古戦場の様に、唯只管(ただひたすら)、枯れ果てている。在りし日の残り香すら寂滅した其の暗黙に、メーテルは翳したスティックを胸元に降ろして灯りを消すと、参列した遺骸を弔うでも無く吐き捨てた。

 

 

    いづくにか世をば(いと)はむ心こそ

       今も昔もまどふべらなれ

 

 

 大方こんな事だろうとは思ってはいたけど、相変わらず趣味の悪い女ね。己の運命を呪うのに、蟻地獄の真似なんてする必要も有るまいに。世を拗ねて自分で掘った穴に閉じ籠もってる癖に、一々誰かを巻き添えにしないと気が済ま無いなんて、承認欲求も此処まで来ると大した物ね。」

 再び闇に包まれた満場の告別式に向かって独りごち、不意に振り返るメーテルの彗眼。其の威迫に鉄郎は思わず座したまま尻で後退るも、氷点下の焼きを入れた虎視の切っ先は、腰の砕けた小兵の頭上を掠めもせずに斬り裂いた。隣の車輌から漂迫する気配に感応して喪然と毛羽立つフォックスコート。華奢な肩口から(みなぎ)り、糸を引いて苛立つ瘴気(しょうき)。何者かが貫通扉の敷居を跨ぎ、通路を閉ざす自動扉の磨り硝子に(ぼや)けた火影が浮かび上がると、メーテルは胸元のスティックを振りかぶり、迅雷(ほとばし)る石火の撻刃(たつじん)を叩き込む。有無を介さぬ誅撃に電壊する彼我の境。アークの(くさび)に散華する亀裂の斬像が、拡散していた瞳孔に燦爛(さんらん)し、視神経から後頭部を貫通する。瞼に焼き付けられた縦横無尽の白熱。黒耀の霹靂(へきれき)に響鳴する四列シートの霊柩車輌。撃ち砕かれた運命の扉が膝を屈し、燃え尽きながら舞い降りていく砂絵の飛沫を看送(みおく)る様に、狐火の様な燈會(ランタン)を提げ、海松(みる)色のチャドルを目深に被った女が悄然と現れた。

 幸の薄い眉、猜疑に沈む三白眼、垂れ下がっている前髪と見分けの付かぬ、小筆の先で線を一本引いただけの鼻筋、削ぎ落ちて表情の失せた頬骨と口角、硝子細工の様に脆弱な下顎、卒塔婆(そとば)を掻き分けて這い出してきた様な土気色の肌。(およ)そ、芳情純朴、衆望醇徳とは無縁の、メーテルとは又一味違う魔性に()した墓場の仙女。そんな違う穴の(むじな)に縄張りを荒らされて、同族嫌悪の狼煙が立ち昇る。

 「竜頭(りゆうづ)、貴方何時からこんな地獄巡りの添乗員に鞍替えしたの。忙しいのは結構だけど、少し派手に遣り過ぎたようね。」

 乱れた垂髪を掻き上げながらメーテルが一歩躙り寄ると、チャドルの女は闇に融け出した墨染めのフォックスコートに向かって燈會を掲げ、表情筋を微動だにせず斬り捨てた。

 「おやおや、私の名前を知ってて、其の(はす)に構えた露西亜帽と言う事は、貴方はメーテル?真逆(まさか)ね、()りに()ってこんな(ざる)の様な定置網に天河無双の超特急が掛かるだなんて。」

 「口が過ぎるわよ。少しばかり時軸と磁場に細工が出来た処で、其れで心が満たせる訳で無し。有るべき力の使い方が判ら無いと言うのなら、教えて上げなきゃいけないようね。有るべき力の遣り方で。」

 「親会社の権威を振り回して、手当たり次第に恨みを買っているだけ在って、流石に言う事が違うわね。でも所詮、999と言う首輪を填めた、人を見れば吠える犬じゃないの。そんな虚仮威(こけおど)しに私が怯むとでも思っているの。私は此の列車が軌道から離脱する不審な動きを観測して様子を見に来たのよ。そうしたら・・・・・。」

 「そうしたら、列車の時間が何千年も進んでて此の有様だったって言うの?こんな芸当、貴方以外に誰が出来るの。乗客を皆殺しにして、999迄引き擦り込んで。」

 「信じる気が無いのなら話す必要も無いわ。」

 「男と女がラブホから出てきて、俺たち一発も遣ってません何て吼えているのを、信じる馬鹿が何処に居るのよ。そんな話を真に受ける位なら、陰陽五行や風水に(そそのか)されてる方が増しだわ。伯爵の肝煎りで側近に納まってるからって、良い気に為ってるんじゃないわよ。」

 蛇蝎(だかつ)の如き光鎖を足許に打ち降ろして雷花を散らすメーテルと、表情を絶した(おもて)を楯に受けて立つ竜頭の攻防。半ば女の痴話喧嘩に流れ始めた其の刹那を不意に掠める舌閃に、蚊帳の外だった鉄郎は思わず身を乗り出した。

 「オイ、其の伯爵って言うのは・・・・・真逆(まさか)・・・・。」

 「そうよ、鉄郎、其の真逆よ。何を気に入られたか知ら無いけれど、此の女は時間城に出入りして、機械伯爵の使い走りをしてるのよ。そうだわ、良い事を思い付いた。どうせだから、鉄郎、此の女の事は貴方に任せるわ。こんな土竜(もぐら)の掘った穴、首を突っ込んだ私が馬鹿だった。貴方も伯爵や時間城の事を訊きたいでしょ。竜頭、此の子は親の敵を討つ為に伯爵を捜しているのよ。大切な御主人様を御守りする為に、(つい)でだから今の内に刈り取っておいたらどう。煮て喰おうと焼いて喰おうと貴方の好きにすれば良いわ。どうせ、999の運行が滞って一番困るのは銀河鉄道株式会社の大株主なんだから。精々、御涅(ごね)御涅(ごね)て、権力に(くら)んだ片目の化け物に泥を塗れば良いのよ。じゃあ、鉄郎、後は頼んだわね。私はラウンジで一息吐く事にするから。何だったら御茶の用意をしておくわよ。其れなら其れで、冷めない内に其の土竜を片付けて終いなさい。遣り方は貴方の好きにすれば良いわ。」

 メーテルは険眉を解き、垂髪を振り撒いて踵を返すと、乗り込んできた開口部に手を掛けた肩越しに振り返り、呆気に取られている鉄郎に発破を掛けた。

 「哥枕(うたまくら)見て(まゐ)れ。」

 

 

 メーテルが999に引き揚げ、遭難車輌に放置された鉄郎と竜頭。幾重にも塗り重ねられた闇の僅かな陰影を燈會の瞬きが炙り立て、崩落する扉の破片が息の根の止まった静寂を(くすぐ)る度に、気拙い空気を増幅する。再び、星辰百代を一瞬で飛び越えた時空の奈落に逆戻りした車内。竜頭はメーテルの出て行った開口部を睨み付けたまま石化し、其の脇に佇む鉄郎の存在なぞ完全に眼中に無い。好きにしろと言われて、ハイ、そうですかと竜頭を締め上げる訳にもいかず、鉄郎は足許に転がっている自分が捥ぎ取って終ったダイカスト製の生首を、座席の間に蹲っている元の(あるじ)の肩胛骨の上に供えて軽く手を合わせると、改めて全席を埋め尽くす兵馬俑(へいばよう)の如き死の隊列を見渡した。

 「全く、酷ぇ事しやがる。」

 聞こえよがしに言ったつもりは無いが、思わず口を衝いた唾喝に、無言で背を向ける竜頭の飄然。何方(どっち)が前か後ろか判ら無くなったチャドルが、元来た車輌に燈會を翳し其の場を後にするのを、鉄郎は肩を竦めて見送ると、植毛が(まだら)に剥がれた落ち武者の如き生首に眼路を返した。群がる(うじ)(はらわた)を曝した行き倒れが、其処等中に転がっているのを見て育ち、肉体の死が何時も隣り合わせだった其の反動で、宇宙への飛翔と機械の躰を渇望した少年と、土に還る事も許されず塵界濁世に(はりつけ)にされた鋼鉄の形代(かたしろ)。永遠の命、電脳化、そんな幻を競い合った人の世の浅はかな栄華の幕切れに、有り余る己の若さが冷や水を浴び、無限の可能性を見失った夢と希望の羅針が波打ち、渦を巻いている。妖術の解けた桃源郷に取り残された鉄郎は、漂蕩流落した時の(すみか)の眺茫に自然と言葉が溢れ、絶句した。

 

 

    濡れてほす山路の菊の露の閒に

       いつか千歲(ちとせ)を我は()にけむ

 

 

 不図(ふと)浮かび、為す術も無く闇に零れた偶詠放吟。そんな慰めにも為らぬ三十一文字(みそひともじ)に、貫通扉を潜り隣の車輌に乗り込もうとする、チャドルに覆われた足取りが止まった。燈會の燐火が翻り、鉄郎の元に舞い戻って、其の眼の前に無言で立ち尽くす竜頭の硬直した形相。意表を突かれた鉄郎は鬼気迫る威容に躊躇(たじろ)ぎ、苦し紛れの口火を切った。

 「本当に此の列車の時間を進めたのか?」

 身構えて相手の出方を窺う鉄郎。息の詰まる鉛の様な眼差しが(わず)かに綻び、竜頭が(しず)かに(うなず)くと、横一文字に短く引かれただけの唇が箝口の禁を(かす)かに解いた。

 

 

    濡れつつぞ()ひて折りつる年のうちに 

 

 

 一切の交情を拒絶していた竜頭の瞳が、研ぎ澄まされた審美の切っ先を鉄郎の眉間に突き付ける。余りに唐突で何が起こったのか判ら無い。此の女は一体何者なのか。深まる謎に戸惑う浅知恵を置き去りにして、鉄郎の鼓脈を流れる()にし()より受け継がれてきた血統が、不時の電撃を反射的に弾き返した。

 

 

       春は幾日(いくか)もあらじと思へば

 

 

 誘い込まれる様に無心で口走った下の句の真っ新な余韻。其の衰微と入れ違いで後から追い付いてきた傲慢な詩義が、我に返った鉄郎の顱頂(ろちょう)に灼熱の錐を衝き立てる。

 「巫山戯(ふざけ)んな。時間を自由に操れて遣る事が此かよ。人を生け花と一緒にすんじゃねえ。綺麗なまま切り取ってやるとか、そんな糞みてえな理由で乗客全員の命を奪ったのかよ。」

 「奪う?此の私が?999が此処に降ってくる迄、此の列車の中の物は何一つ増えてもい無いし、減ってもい無いわ。時間を自由に操るのと、質量保存の法則を無効にするのとは話が別よ。調べたければ気の済むまで調べなさい。私は乗客の命処か、髪の毛一本たりとも触れてはい無い。私は此の車内から何も奪ってはい無いわ。」

 竜頭は鉄郎の激昂を撥ね除けると、逃げも隠れもし無いと言わんばかりに、手に提げた燈會諸共、光を失ったオーロラの様なチャドルを脱ぎ捨てた。黴臭い塵風を巻き上げて(ふく)よかに霏霺(たなび)海松(みる)色ドレープ。尾鰭の付いた裳裾に手荒く頬を張られて、咳き込みながら払い除ける鉄郎。錻力(ブリキ)の笠が床の上を()ぜ、燈會の灯りが途切れると、眼路を限った綿渦(めんか)の中から蒼白なバックライトが浮かび上がる。闇よりもドス黒い垂髪と、血の気の無い人工被膜に覆われた剛筋義肢の手足を従えて、胸郭から胎幹を巡る、無数に埋め込まれた真球全方位の多針メーター。風防硝子の小宇宙を有らゆる位相と角速度で指数配列のホログラムが輪転し、蠱壺(こつぼ)の如く過去と未来が入り乱れる電呪の骨頂。天道の(しもべ)か妖魔の手先か、子種の知れぬ時の流れを身籠もり、此の幽霊列車を堕胎した文明の徒花(あだばな)が、荒夜に(そび)えるメガロポリスの様に集積化した石腹(いしばら)を、此見よがしに曝け出している。

 「さあ、隠す物なんて何も無いわ。此が私の総てよ。奪った命が有ると言うのなら、超音波や放射線で気の済むまで精査すれば良い。」

 鎖骨を瞬くアクセスランプに照らし出された石女(うまずめ)の悲相な顴骨(かんこつ)。開き直った量子仕掛けの死神に、鉄郎は動かぬ証拠を鷲掴み、其の足許に叩き付けた。

 「殺生と万引きを一緒にすんな。命を奪ってねえって言うんなら、此の髑髏(しゃれこうべ)は何なんだよ。」

 竜頭の体幹で(うごめ)く未知の異能に呑まれまいと、思わず手を挙げてしまった鉄郎。其の脆弱を見透かして、床の上を跳ね、石榴(ざくろ)の様に砕けた生首を、零れる様な酔眼で愛でながら、竜頭は独白とも傍白とも付かぬ()れ言を(たら)し込む。

 「本の一瞬、夢の様に時が流れただけよ。私独りを置き去りにして。

 

 

    月やあらぬ春や昔の春ならぬ

      我が身ひとつはもとの身にして

 

 

 此の宇宙に、私を時の彼方まで連れ去ってくれる人なんて居無いのよ。誰一人ね。」

 「自分で勝手に時間を進めておいて何なんだ其の言い種は。一体、何年、時間を進めたんだ。」

 「此の宇宙で何万年とか、何光年とか言う地球の周期に縛られているなんて、意味の無い事よ。(そもそ)も、時間の概念なんてエントロピーが増大すると言う人間の錯覚が生み出した副産物。エントロピーの状態に方向なんて無いし、物理学には過去も未来も区別は無いのよ。こんな狭い車内でも精密に計れば、其れぞれの場所でエントロピーはバラバラに変化しているわ。私達が時間と言って区切っている物は一粒一粒の座標点で、10の-44乗秒と言う時の粒子が宇宙には敷き詰められているの。私は其の点描の上をピンポイントで往き来出来る。唯、其れだけ。何を()う遣って往き来しているのかなんて私には興味無い。時間の最小構成単位を把握出来ていれば、過去とか未来とか言われている、たった一粒を進めるのも戻すのも、ジグソーパズルのピースを抓むのと同じ事。其れで何が何う為ろうと、後の事なんて知ら無いわ。」

 そう言って竜頭は鼻を鳴らすと、肩口の回転ベゼルを切り替えて、鉄郎の額に緋彗(ひすい)のポインターを飛ばし、逆に鉄郎を精査した。

 「成る程ね、此は驚いた。彼の女が連れている位だから何か有るのだろうとは思ってはいたけど。鉄郎とか言ったわね。自分が伝世品種だって言う自覚は有るの?」

 「パラサイトチップがどうのとか、DNAの上書きとかタグがどうだとか、そんな物知った事か。生身の躰は生身の躰だ。何か文句が有るのかよ。」

 「文句なんて無いわ。寧ろ羨ましい位よ。所詮、私は此の列車の乗客と同じ、死に方を知ら無い、本当の意味での死に損ない。

 

 

    ことならば咲かずやはあらぬ櫻花

       見る我さへに しづ心なし

 

 

 そう嘆いて、分を(わきま)えず生に執着した者は自然の摂理から外れ、死を恐れる余り旅人は帰る場所を見失う。生を殺す者は死せず、生を生ずる者は生きず。機械の躰で永遠の命に、何て言うけどね、私達には死を受け入れる為の肉体が無いのよ。だから、奪われる様な命も無い。何時か其の内、突発的な事故や過失で機能が遮断されて復旧出来無くなる。つい(さっき)まで動いていた瓦落多(がらくた)が、動か無い瓦落多に成り下がる。其れだけよ。」

 他人事の様に一節口上を垂れると、竜頭は風化した乗客の膝の上の埃を払って腰を下ろし、闇を仰いで一息吐いた。其れを見て、

 「オイ、仏の上に腰を下ろしてんじゃねえよ。」

 犬歯を逆剥(さかむ)怒耶躾(どやしつけ)る鉄郎に、竜頭は祝勝会が終わった後の薬玉(くすだま)の様に転がっている床の上の生首を足の裏で弄び、憫笑を苦遊(くゆ)らせている。

 「どの口が言ってるの?仏ですって?此のスクラップが一体何を悟ったと言うの。死ねば誰でも聖人開祖に崇め立てられるのなら、生きている間はどんな悪逆非道をしても構わないって事に為るわね。」

 「そんな物、茶羅(チャラ)に為る訳ねえだろ馬鹿野郎。」

 「じゃあ、魂は地獄に落ちて打ちのめされているのに、抜け殻の方は腫れ物を触る様に扱うだなんて、此の屑鉄の何がそんなに偉いの。其れとも此の仏様は、機械の躰に為る時に臨終出家は済ませてあって、戒名を提灯代わりに仏門をパスしてるとでも言うの。随分と用意の良い事ね。」

 「誰も好き好んで人の道を外れる訳じゃ無い。逃れられ無い(しがらみ)や運命の荒波に打ち負かされて、身を滅ぼす事だって在るだろう。其れを態々(わざわざ)出しゃばって、死に馬に鞭を打つ必要が有るのかよ。どんな素性で朽ち果てていようと、手を合わせて弔ってやる慈悲の心が御前には無いのかよ。」

 「こんな瓦落多に差し伸べる無償の慈悲が有る位なんだから、私にだって慈悲の情けも有れば、菩提を求める心も有るでしょうよ。一念発起を唱えて、人の心も仏の功徳に劣ら無いって教えを説いて廻っているのは何処の何方(どなた)よ。私みたいな愚か者を救う為に仏は誓願を立てたんでしょ。」

 「そんな心が本当に有るのなら、今直ぐ髪を下ろして出家しやがれ。」

 「そう言う事は戒名に大枚を(はた)いている豚の貯金箱に言いなさい。悟りを金で買うのも出家と言うのなら、機械の躰を金で買って、釈迦の涅槃の五十六億七千万年後に下生(げしょう)する弥勒菩薩を待つのも、仏の道だと言うの。数百億の衆生を済度する為に現れた未来仏を、人類を殲滅した機族が待っていたら、其の電脳化した霊超類を、どんな顔をして極楽浄土へ導くのかしらね。」

 「そんな減らず口を叩く奴の何処に、慈悲の情けや菩提を求める心が有るんだよ。眼の前の亡骸を仏と敬う気もねえ癖しやがって。」

 「仏だと思うからこそ、其の功徳に(あずか)りたくて、こうして御傍(おそば)に居るんじゃないの。」

 「功徳に与りたいのに尻に敷くってのはどう言う料簡だ。心安らかに眠っているのが見ねえのか。」

 「自分は心安らかな(とこ)()の眠りに就いているのに、私が其処で一緒に一休みするのは駄目だなんて。随分と吝嗇(けち)な仏様ね。機械の躰に成りさえすれば死から逃れられると、仏の他力に身を委ねず、浅はかな自力を振り回した私達の方が、生身の人間よりも遙かに業が深いと言うのに。逆縁も漏らさで救う願なればこその功徳じゃ無いの。看板倒れの仏門なら踏み倒した処で(ばち)も当たるまい。」

 「(はな)ッから逆縁を逆手に取って虫の良い事を言ってんじゃねえ。善も悪も、煩悩も菩提も、仏も衆生も、万物も死生も、実体も無ければ隔てもねえだとか、そんな文学と哲学の区別も付かねえ言葉遊びなんざ()んざりだ。

 

    是今日適越而昔至也

    (これ) 今日(えつ)()きて (きのう)至れる(なり)

 

 口先だけなら何とでも言えるぜ。もう沢山だ。彼の馬鹿の言う通り、こんな土竜の穴に首を突っ込んだ俺が馬鹿だった。此じゃあ、鏡の前で吠えてる犬と変わらねえ。人の心の弱さが生み出す神や仏に振り回されるのも此処迄だ。そんな地球のローカルアイドル、太陽系の外に出て迄、担ぎ上げる義理が何処に在る。難を治るは変に応じ、和して唱えずだ。眠った振りをしている奴を起こす事も出来ねえのに、悟った振りをしている奴を(さと)せる訳がねえ。後はもう勝手にしやがれ。蛞蝓(ナメクジ)の落ち零れみてえな面で、糞みてえにベラベラ喋りやがって。地上波の似非(えせ)文化人じゃ有るまいし。黙っていても誰もが認めてくれる。其れが本物って奴だ。テメエの性根を捻曲げた儘で他人を正せるとでも思っているのか。此だけ仏が勢揃いしてんだ。一人ずつ釈迦に説法を垂れて廻れよ。テメエの吐いた屁理屈が、唾と一緒に御天道様にまで届くって言うんなら遣ってみろ。唯なあ、取って付けた浅知恵ってのは残酷だ。テメエの言葉で舌を噛み切らねえように精々用心しやがれ。」

 相手の土俵に転がり込んで砂を被っているだけの鉄郎は、掴み所の無い蒟蒻問答に釘を刺し、朽木(きゅうぼく)()るべからずと、空理空論の元凶から眼路を切った。メーテルに後は頼むと言われた処で知った事では無い。好きにしろと言われたから好きにする迄の事。座席に頽れた遺骸を跨ぎ、元来た開口部に脚を掛けようとする鉄郎。機械伯爵に仕えていると言う竜頭の経緯(いきさつ)に興味が無い訳では無い。然し・・・・・そう逡巡した刹那、(さか)しらな愉悦を(くゆ)らせていた竜頭の口角が不意に精気を失い、踵を載せて転がしていた生首を取り上げると、万華鏡の様に中身の煌めく引き裂かれた額に、潤いの無い唇を重ねて呟いた。

 「そうよ、鉄郎、今日出発して、昨日到着する。確かに、言葉を並べ立てるだけなら、誰にでも出来るわ。頭の中でも、舌の先でも、自由に組み立てる事が出来る。破綻した構文。真実と見紛う偽証。誰も論破する事の出来無い華麗な逆説。でもね、私は其れを頭の外でも形に出来るのよ。時間の流れに限って言えば、私に出来無い事は無い。有りと有らゆる過去と未来の因果を、此の宇宙の摂理を覆し、破壊する事が出来る。でもね、鉄郎、其れが何を意味するか判る?」

 竜頭の上目遣いの三白眼が白目を剥いて鉄郎に問い質すと、死の接吻を受けた古鉄(こてつ)の生首が掌の上で見る間に変蝕し、粒状化した合成樹脂と錆尽(しょうじん)が砂絵の様に指の間を擦り抜けて、竜頭の足許へ辿り着く事すら叶かなわずに、(ほの)かな煙霞(えんか)を巻き上げ消え失せた。質量保存の法則は(らち)(がい)なぞと(のたま)っておきながら、上の空だった空理空論が、現実を超え微塵の寸借も許さず具象化する瞬間を目の当たりにして、鉄郎は(おとがい)を失し、溜息の糸口一つ掴め無い。気に入らない物に吝嗇を付けるのは誰にでも出来る。然し、此は・・・・。多針メーターのバックライトが照らし出す秘儀の神韻。墨に五色在りとは言え、余りにも懐の深い闇の彼方。捲れ上がっていた三白眼が虹彩を取り戻し、掌に残った砂礫を(みつ)める竜頭の面妖が、鬼女の妄執から、壊れて終った玩具に戸惑う幼女に、本の束の間、憑解した。

 「扨々(さてさて)、機械の躰に埋め込まれる前の、生身の前世で、一体私が何を犯したと言うのか。どんな罪の報いでこんな底の知れぬ力を宿したのか。(そもそ)も此の機械の躰、其の物に全く身に覚えが無いと言うのに。悪縁(ちぎ)り深し。身の丈を越え、手懐(てなず)ける事も(かな)わず、(おそ)れられ、利用されるだけの怪力乱神。同舟相没す、共棲共済(まま)ならぬ別人の私。其れとも、此の機械の躰の方が寧ろ、厖大な力の落とす影なのか。」

 (すみれ)色に色褪せた口吻(こうふん)が言葉を探して空を(そよ)ぎ、竜頭は立ち上がって窓外を遮る星の無い宇宙に一歩踏み出した。運命の(くびき)を科せられた虚ろな蒼貌(そうぼう)を肩に載せ、集積と増殖が(せめ)ぎ合う、呪胎刻知の電相交管機で艤態(ぎたい)化した()き身のコルセットが、換算と同期の変拍子で混線し、本の僅かでも手綱を緩めると暴発する内圧で張り詰めている。富士壺の様に群棲した脱ぎ捨てる事の出来ぬ、盤根錯節(ばんこんさくせつ)の時界と自戒。散弾銃で蜂の巣にされた様に体幹を覆う、五臓六腑の多針メーターが、小刻みな電磁ノイズで競い合う焦点のズレた独語症。不離一体の時幻装置から伸びる粘土細工の様な四肢は、滑らかに老落して揺蕩(たゆた)い、本の片時、筋束が閃く事すら無い。()わの空の竜頭を二の次にして(うごめ)く、頸椎から下の多動質な別人核の衆塊。電網化した骨憎腫の爛熟を目の当たりにした鉄郎は、肋骨の髄が疼き、腰に提げたホルスターで黒耀の光を湛えて眠る彗星の(やじり)が、一瞬、其の身を(よじ)り、感応した。

 (かささぎ)()んでいる。タイタンの(おみな)から預かった戦士の銃を、己の神通力に隷属する魂の囚人、竜頭の宿した鬼胎の疝気(せなき)が、喚んでいる。否、そんな、真逆(まさか)。鉄郎がホルスターに手を当てると、竜頭が息を詰める声を上げ、喉を()け反らせて硬直した途端、重力の底の墓場を点す、時系列の位相を(あまね)く網羅した多針メーターの狐火が反転し、暗礁した車内を漂泊する(かす)かな残滓を、ブラックライトで翳す様に炙り出した。

 無明無窮の窓外に融け出した車内に瞬くヘキサの数列。敷き詰められた四列シートを下から上へと瀧昇るビットマップの奔流が、隣り合わせで何事か囁き交わしている。此はアセンブルされてい無い機械語のバイナリ。電脳ボードのレジスタを擦過した遭難前の乗客の歓談。其の残留思念の輪郭が川面に(つど)う蛍の様に闇と戯れている。シートに(もた)れた遺骸と折り重なる賑々(にぎにぎ)しい光素のレイヤー。時流を交錯した機族の優越と享楽が、虚無と栄華のコントラストを描き出す。鉄郎の額を駆ける、押し付けがましいレイトショーの照り返し。其の顰めた眉の狭間を、一筋の疑念が渓流を()ぜる銀鱗の様に掠めた。此は単に視覚化された過去の断片なのか。寧ろ、確かに残存しているからこそ投影出来るのではないのか。遺骸と其れを取り巻く空間に、素粒子の波長レベルで息付いているのではないのか。竜頭の言う通り、機躰と情動因子が分離しているだけで宇宙に拡散せず、風化した電脳ボードやデバイス、そして、車内に、記憶や意思が閉じ込められているのか。此処まで朽ち果てても、生きていると言うのか。数千年の時を経ても(なほ)。此のブラックライトを亜麻布(あまぬの)を纏った木乃伊(ミイラ)に、荼毘(だび)に付した遺骨に照射したら何を語り始めるのか。量子に刻まれた過去。其処に心は在るのか。()しや戦士の銃は、鬼界に伏した竜頭の官能に共鳴したのでは無く、人智を超えた命と精神の根源、生死の境を超えた宇宙の摂理、其の深淵に(かしこ)み、(おのの)いたのか。

重力の吹き溜まりに沈澱した、時と命と精神が織りなす蛍素の託宣。一変した異境の景相に鉄郎は悟性を揺すぶられ、神の扉の鍵穴を覗き込む恍惚に包まれていく。眼の前に在って手を触れる処か、翳す事さえ許されぬ、名付けようの無い玄妙なる聖謐。其の結界を、半醒半睡で窒息していたサルガッソーの墓守が、ピアノ線を弾いた様な痙攣で引き裂いた。

 「嗚呼(ああ)寂莫(じやくばく)非情の天象は因果の合はせ鏡か。重力の墓石に組み敷かれ己の屍に鞭打つ鬼女、潸潸(さめざめ)と前生の宿痾(しゆくあ)(そそ)ぎ。我が()を肥やしに奈落の底を耕す修女、楚楚(そそ)として花咲く三世の果報。右隻左隻の理非曲直。貳曲壹双(にきよくいつさう)生生世世(しやうじやうせぜ)。」

 四列シートに挟まれた通路を厳かな禹歩(うほ)で摺り歩き、蛍火の川面に入水(じゅすい)する竜頭の憔身(しょうしん)。張り詰めた(こと)()が抑揚を帯びて、峻然とした諧調と漣律(れんりつ)に拍車が掛かり、死に化粧を被った頬が(にわか)に紅潮し始める。様子が奇怪(おか)しい。盆の窪から鎖骨の窪、腋の下から臍の下、膝の裏から土踏まずへ、粟粟(ぞくぞく)と舌を這わせて鉄郎に絡み付く蠕動質の悪寒。老女を美しく演ずる様な竜頭の幽艶に、腐蝕し鉱物に先祖返りした遺骸の錆気(しょうき)が霜烈に引き締まり、熱を帯びた口奮が転調する。

 「()(あら)ず。明蒙渾然。淸濁壹如(せいだくいちじよ)。業を背負つて改悛(かいしゆん)し、德を積み重ね報はれた(ところ)で、所詮は(をり)ふし吳竹の、世の淺儚(あさはかな)(こしら)へ事。見渡せば無心の(ことわり)壹邊(いつぺん)の翳り無し。萬有齊同にして至至錚錚(ししさうさう)。銀河渺渺(べうべう)として、時儀轉轉(じぎてんてん)たり。星又星。(いづ)れの匠が北辰の睛火(せいくわ)(とも)し。(はて)(はて)()が舟の杭にて銀潭(ぎんたん)を限ると云ふのか。有りの儘の天景、(てら)はずして成り、大象は無形、(おの)づから()べず。」

 余りにも硬質な語彙で耳が追い付かぬ竜頭の神さびた音吐(おんと)。次第に其の声色が幾重にも切り替わり、表情を失した石仮面(せっかめん)が、(かす)かに角度を変えただけで、鬼女から貴女へと憑変して、竜頭の躰を弄ぶ様に人格が反転して掛け合い、鉄郎を置き去りにした(まま)、クロノスからセイレーンへ、シテからツレへと入り乱れ、(のめ)り込んでいく。

 「星屑の死灰(しかい)(まみ)れた烏羽玉(ぬばたま)の、闇路に潛む其の影は。」

 「()しやと(ただ)す迄も無く。常盤の流人(るにん)、死に(はぐ)れ。膂力(りりよく)に任せた時暴時棄。」

 「姿詞(すがたことば)は人なれど。」

 「萬雷焦怒の逆髮に。」

 「絕對零度の藪睨み。」

 「(やつ)れた頬は雲母(きら)摺りの。」

 「綺羅を削がれた鉛首(なまりくび)。」

 「今宵始めて見る事を。」

 「星系無比の其の怪相(けさう)。」

 「人面獸心、(はべ)る世に。」

 「鋼顏人心、鬼牙佛掌(きがぶつしやう)。」

 耳に聞こえし(いにし)への、鬼一口に人を食う禍事(まがごと)を、阿吽(あうん)の呼吸で交互に合い拍つ語り節。人を恐れ、(うと)み、憎んだ挙げ句、人恋しさで野に下る、時化(しけ)化生(けしょう)の放浪譚と(おぼ)しき物を、竜頭は一方的に謡い上げるが、酔いに任せた言葉の奔流に語義の半ばも掴み取れ無い。気質的な電脳障害で人格が分裂しているにしても、心の隙間を突かれて背乗りされているにしても、芝居掛かった其の威風、芸が達者なのは結構だが、破格の付き合にも程が在る。

 「オイ、竜頭、独りで勝手に逆上(のぼ)せてんじゃねえぞ。田舎侍の煮え切らねえ糞田楽なら余所(よそ)で遣りやがれ。」

 竜頭の物狂いにケリを付ける為、啖呵(たんか)を切ろうとした鉄郎。然し、込み上げた卑語は喉元を突いて根詰まりし、追突する後続の悪罵に胸が支えるばかりで、思いの丈が舌の根にすら届か無い。知らぬ間に鉄郎も竜頭の乱痴気に一服盛られて、木乃伊(ミイラ)捕りが木乃伊(みいら)に、マル暴がチンピラに成り下がっていた。竜頭の(かん)の虫が毛虱の様に伝染した訳でも有るまいし。瓦落多(がらくた)の闇鍋と斬り捨てていた車内を、何物かが小聡明(あざと)く牛耳っているとでも。戦士の銃が(いき)り立つのも、湯気に紛れた鍋奉行の火箸に引火したとなれば符牒が合う。とは言え、そうと察した処で後の祭り。残骸の橋掛かりを渡る竜頭を問い詰めようにも、手ぶらの丸腰が肩肘一つ挙げられず、ワキ柱に縛られた様に硬直した鉄郎の知覚野、感覚領の中枢を、(かそ)けき峡谷に潜んでいた鬼女の隻影が駆け下りる。

 「星が生まれ自らの輝きで初めての朝を迎へる壹刻(ひととき)は、彌勒(みろく)下生(げしょう)にも譬へられ、其の巡り合はせの様に導かれた今宵の宿緣。(わず)かな(いとま)も惜しまれる望外の臨席。()ても()てもと世評を飾り、久世舞(くせまい)を囃す其の調べ。早早(はやはや)、謠ひ(たま)ふべし。」

 「()に此上は兔も角も。云ふに及ばぬ不時刻限。」

 「東雲(しののめ)白み()めぬ内。」

 「淺瀨に淀む喉笛で。」

 「天の河原の曲水に。」

 「逆月(さかづき)を注ぎ浮かべれば。」

 「(みだ)れ鼓の鳴瀧に。」

 「舞ひ散る紅葉は唐織の。」

 「移らう雪が狩衣の。」

 「仮の宿りを惜しむ君。」

 「心とむなと。」

 「遊び()の。」

 「よし足引(あしびき)の。」

 「(いら)()の。」

 「巡る苦しみ。星曆(ほしごよみ)。」

 錐を揉み込む様に気凛とした竜頭の掛け合い。其の互い違いに行き交う声の一方に鉄郎は耳を疑った。聞き覚えが有り、其れは誰なのか、等と言う問題では無い。向かい合う竜頭の鬼魄(きはく)に呼応して、絶句した筈の舌の根を衝く朗々たる節回し。気が付くと鉄郎は、喉輪を喰らい支えていた筈の吐胸(とむね)を解かれ、天頂から頭頂へ舞い降りる詞章を、竜頭の曲舞(くせまい)に合わせ返誦(へんしょう)していた。

 「(そも)天津日(あまつひ)とは塵芥(じんかい)の。」

 「雲渦(うんか)を凝らし燃え出ずる。」

 「人智の彼方。仟載(せんざい)の。」

 「其の天露(あまつゆ)下垂(しただ)りて。」

 「銀河を(さざ)なむ、萬浩(ばんかう)の。」

 「(くら)(うろ)より放たれる。」

 「()()無き周波、昏昏と。」

 「(こゑ)無き(こゑ)星標(ほししるべ)。」

 「光及ばぬ其の先に。」

 「天我無境の在ると言う。」

 「()れど(あた)りを見渡せば。」

 「逃げも隱れも出来ぬ此の。」

 「時の(すみか)の破れ堂。」

 「無實無形(むじつむけい)の吹き抜ける。」

 「(はりつけ)られた(とき)の針。」

 「(おのの)く時限の星星が。」

 「眼裡(まなうら)に融け流轉(るてん)する。」

 「(たが)へた次元の斷層に。」

 倒壊寸前の見当識と、自他の統合認知を突き飛ばして逆走する造語症の車輪の下で、返歌を吐瀉し続ける鉄郎の脳髄を、姿無き孤独の投影が彷徨い、幻の舞が吹き荒ぶ。賤女(しづめ)が古歌を(すさ)びながら、己の憂き身の侘びしさを愛でる、垂簾(すいれん)の佳人にも劣らぬ其の雅。在り来たりの現実を削ぎ落とした、不易なる美の中の美が、鉄でも無く、石でも無い鉄郎の生身の躰を、肛姦の如く強引に突き破り唱華する。全く抗う事の出来ぬ白撃に貫かれ、絶頂する以外に術の無いツレの穴埋め。鉄郎は舞い降りてくる詞章を吐き尽くすと、逆さ吊りの屠畜の様に尽き果て、車内を席巻する暴威に打ち捨てられ、座席の肘掛けに(もた)れて崩れ落ちた。遺骸を巻き込んで舞い上がる()びた粉塵。息の根の止まった幕間(まくあい)の震閑。始まる。此処からはシテの独り舞台。予感とも確信とも付かぬ寒気が和毛(にこげ)を逆撫で、呼び水に使い回されただけの鉄郎は、桟敷の(へり)に追い遣られ座視に屈した。唱導の手綱を解いた竜頭は、糸の切れた傀儡(くぐつ)から眼路を上げ、人の世に(まつろ)わぬ者が流される遠島(をんとう)へ独り漕ぎ出していく。四列シートに挟まれた通路が、人外魔濤の冥海を掻き分けて波打ち、死の水域に垂れ込む迷霧の裾を(くぐ)って、海図無き航路へ掻き消されていく。

 「滿天の大海原に注ぐ銀河の細流、()む時を知らず。淺瀨の仇波(あだなみ)に呑まれる玉響(たまゆら)の治世。羅針亂振に目眩(めくるめ)く舟中敵國の(はて)水底(みなそこ)瓦石(がせき)に紛れ、仟仟(ちぢ)泡沫(はうまつ)()す。帝星を巡る辰宿列張(しんしゆくれつちやう)も、輪廻の(くびき)(あへ)ぐ馬車馬。上求菩提(じやうぐぼだい)を指差す流星の灰燼(くわいじん)は手を合はせる(いとま)(あた)へず、法性(ほつしやう)(あらは)す無盡の天象、茫外無色な下化衆生(げけしゆじやう)腹底(ふくてい)を曝す。我が()(さなが)ら、(ともがら)(はぐ)れた步き巫女。生所(せいじょ)も知らずば、壹夜(いちや)限りの渡しも在らず。唯、星雲の霞を()み、舵を切る星見(ほしみ)占象(うらかた)は、見送る者無き流し雛。亡き人を()に起こした人形(ひとがた)は、(はた)(わざ)なる繰り事、人にして人に(あら)ず。」

 己を断じ、金輪際をも打ち()く足拍子が車内に轟き、一変した大気を(まと)って竜頭が曲舞(くせまい)に身を転じると、捨て置かれていた燈會(ランタン)迄もが狐火を起こして宙に翻り、竜頭の型に合わせて輪舞する。

 「流されし物か、捨てられし物か、人知れず時の(みぎは)に打ち寄せる人形(ひとがた)の不成佛。藻屑と散れぬ木偶(でく)の沈み損ね、躬を持ち崩した化生轉生(けしやうてんせい)に宿るは時遊時在の鬼能。名にし()ふ竜頭が()べる時辰儀の、天網怪怪、其の()にそぐはず。畸矯なる因果の變調に立ち盡くすのみ。魔道も天道も同根通底の叉路(さろ)。なぞと笛吹く金句寶傳(きんくほうでん)、懷の足しにも爲らず、鈍覺な耳にも痒し。公理在れば空理在り、科學在れば擬學(ぎがく)在り。僞學(ぎがく)欺學(ぎがく)の祖の果てに、血族を()つて機族在り、機族が在れば蠱鐵(こてつ)も在り。水と油の睨み合ひ。(しかう)して、己が力を(のろ)ふ、()かる身空の草隱れ。()れど里心抑へ難く、星閒航路を逍謠(せうえう)する事、壹度爲らず。或る時は基幹衞星に降り注ぐ流星の飛脚を(とど)め、警外軌道まで送る折りも在り、又、或る時は電劾(でんがい)に墮ちた機塊を、星霜の氷室に封じて事無きを得、仟重(ちへ)()()くに躬を呈すも、賤眼(しづめ)冥鬼(くらき)と人の云ふ。」

 不意に竜頭の謡いを()ぎった不穏な詞章が、魔魅(まみ)に骨を抜かれた鉄郎の顳顬(こめかみ)を弾いた。星霜の氷室に封じるとは、時空の谷底に葬る事。だとしたら、電劾に堕ちた機塊とは、()しや。山水母(やまくらげ)の乾涸らびた水脳を脈打つ疑懼(ぎく)の漣。其の逆潮(さかしお)を張り詰めた竜頭の鬼迫が薙ぎ払う。唯ならぬ斎傑(さいけつ)恭畏(きょうい)。節と節との僅かな間隙に潜む、秘義の核心を射抜き、鉄郎の臍下丹田(せいかたんでん)に轟く高拍子(たかびょうし)()える。黒髪に映る藤紫が。袖に構える白魚の指に大振りな舞扇が。銀地に散らした金雲を昇る、紺青(こんじょう)の月の一輪が。御白洲(おしらす)篝火(かがりび)に照らし出されて、鉄郎の情念に浮かび上がる。其処は最早、重力の墓場に没した遭難列車の一画では無かった。扇を揮い、張り巡らした結界。仕切られた亜空間を紅無(いろなし)の唐織りを纏う竜頭が、カマエ、サシ、ハコビ、カケる。

 (みなぎ)る心に島田の元結いが断ち切れ、神品を醸す(かんばせ)から片肌へと枝垂(しだ)れる黒耀の垂髪。柾目(まさめ)の檜を(もすそ)が掠めて一塵も留めず、天来の一鶴(いっかく)、一翼を坦前に差し向け、魔を払う。嬌娜(なよやか)にして筋の通った、竜頭にして竜頭に在らぬ幻影。(いら)()にして斎女(いつきめ)の隻影が、荒屋(あばらや)の脇に盛った残土の頂きで、今日一日の成果を祈り恵方を占う母の幽姿と重なり、卒然と背に(あぶら)を絞る鉄郎。其の高鳴る鼓動を老練な手捌きが、陰陽の気合いを絡め指弾する。姿無き芸の(ひじり)が鉄郎を羽交(はが)い、振る舞う、心の(つづみ)

 緩急の(あか)()の調べ竜田川。月の裏皮、表の皮と、拍つや(うつつ)(きぬた)の招魂。肩に綾なす鼓の手影。天に届けと雲井の銘なる、秘蔵の塗胴(ぬりどう)、名誉が籠めた、咲いて誇るは悲願華(ひがんばな)

 舞いも舞い、拍ちも拍ち、謡いも謡う、()にし()の秘曲。其の氾濫を、無礼講の乱盃を頭から被る様に鉄郎は浴び、彼我の佳境に没落していく。

 「()るとても世を空蝉(うつせみ)唐衣(からころも)、仟秋萬夢、寢ても覺めても、朝暮の(けぢめ)無く。御簾(みす)の透き影を()ぎる追慕、袖手低枕(しうしゆていしん)にして、彗脚(すいきやく)を凌ぎ、寄る()無き孤客(こかく)の醉歩、跛跛(ひひ)蹌蹌(そうそう)にして、振り出しに()す。(せん)ずる(ところ)、今生を移ろう雲水は一塵法界の假面(かりおもて)()ぬも()なずも各々が道。其れを()も、大悟を得たりと聞こえよがしの聲。積年の妄執、豈図(あにはか)らんや。()くも歪な己の地金、打って直すか、捨てるのか。よし足引の、(いら)()が。巡る苦しみ、星曆(ほしごよみ)。」

 天文時計の文字盤を立ち回る禹歩(うほ)のハコビ。交錯する時針と時針の狭間を流浪し、遊星歯車と戯れる扇情と燈會(ランタン)の篝火。目眩(めくるめ)く万感の舞台、無限に広がる銀河の地図に息を呑む、其の刹那、(さっ)と翻る竜頭の唐織りが、見世(みせ)出しに酔った雛妓(おしゃく)の様に膝を折った。鉄郎は思わず身を乗り出し、蹌踉(よろ)めく(せな)を支えた其の(かいな)に、女波(めなみ)の袖と赤い襟が包み込まれる。後見の盤石に海松(みる)の黒髪が降り注ぎ、鉄郎の小鼻を掠める白檀の馥郁(ふくいく)とした名香。其の清涼なる一鮮に張り詰めていた眼圧が弾け、気が付くと、竜頭を支えたと思った鉄郎の方が、四列シートの遺骸の上に仰向けで(もた)れ懸かっていた。

 合成知覚の投影で車内を上書きしていた濁流が一先ず途切れ、頭骨を反響する影像と囃子と足拍子の残塊が、偏頭痛と耳鳴りの中に減衰していく。駆け巡っていた幻灯機のリールから振り落とされた小鼠の放心。砕け散った硝子細工の様に煌めき、鉄郎の心に突き刺さった硬質な詞章の破片が解晶し、緊を解かれた筋肉の隙間に疲労が滲み込んで、忘れ去られていた人工重力が無言で伸し掛かってくる。崩壊しながら地滑りを起こす尻に敷いた乗客の(むくろ)。シートからズレ落ちるのを鉄郎が咄嗟(とっさ)に堪えると、天井を仰いだ其の間接視野で、巫術(ふじゅつ)のヒステリーから釈放された竜頭が、燈會を提げた肩を落とし漂っていた。全力で舞い終えた後の充足した虚脱しとか言う(てい)では(とて)も無い。(まさ)に、過ぎ去った夏に見捨てられた空蝉。胴体を埋め尽くす多針メーターのモニターは、ブラックライトから可視光線に切り替わり、幽魂の蛍火で照らし出されていた車内は元の難破車輌に淪落(りんらく)し、竜頭自身は半睡半醒で未だ夢から覚め切ってい無い。狂おしく舞い散らし、蓬蓬茫茫(ほうほうぼうぼう)に取り乱した垂髪。吊り下げられたまま放置された絞首刑囚の様な剛筋義肢。五臓六腑を神経質に痙攣し続ける、蒼白な時界のホログラム。感情を絶した土気色の表情筋。そして、生気の無い唇が再び、寝息の様な譫言(うわごと)を手繰り始めた。

 「本当なのよ。本当に、此の列車が幹線軌道から離脱して、不可侵協定領域を暴走していたのよ。其れも、帯域冥彩を施した亡隷ノイズを撒き散らして、排他的星間プロテクトを壊析しながら。別に、取り立てて何かを嗅ぎ廻っていた訳じゃ無いわ。(なまじ)、余計な力が有るから、見たく無い物まで見えて終う。どうせ又、余計な世話を焼いた挙げ句に、有らぬ疑いを掛けられるだけなんだし、見て見ぬ振りをしようと思えば幾らでも出来たわ。でも、此の列車の脱線した進路の先に999が在る以上、見過ごす訳にはいかなかった。此はテロよ。軌道計算は嘘を吐か無いわ。御丁寧に、機関車のボイラー、一点を狙い撃つ、999への呪縛テロ。だから、私は・・・・・。」

 「だから、何なんだよ、竜頭。其れで此の列車を破壊したのか。時間を進めて。重力の底に突き落としたのか。999を守る為に。其れは本当なのか。オイ、竜頭、だとしても、乗客まで巻き込む事は無いだろう。もっと他に列車の暴走を止める方法は無かったのかよ。其れに、999迄こんな底の抜けた墓穴に突き落とす必要もねえだろう。」

 子供に飽きられた玩具の様に、逆関節で(くずお)れている遺骸から腰を跳ね上げ、鉄郎は竜頭に喰らい付いた。信じる気が無いのなら話す必要も無い、と断舌した鋭角な(おとがい)の綻び。然し、竜頭は鉄郎を見向きもせず、己の手で引導を渡した遺骸の植毛を撫でながら、我が子をあやす様に独り()ちる。

 「私が車内に降り立った時には既にもう、乗客の総てが電脳黴毒(ばいどく)を発芽していて、穴と言う穴から飛黴(ひばい)の胞子を吹いていたわ。私に出来たのは唯、時軸のレンジを振り切って、生き恥に泥を塗り重ねぬ様に後仕舞いをする事だけ。其れですら、電劾重合体を本当に封じ込める事が出来るのかどうか、遣ってみなければ判ら無い賭けだったのよ。何故、此処迄して私が999を守るのか。此の私にも判ら無い。私が仕えている伯爵の主力事業、銀河鉄道の旗艦路線だから。と言えば通りが良いけど、こんな危険を冒してまで守らなければならない義理が何処に在るのか。抑も何故、私が伯爵に仕えているのかも判らなければ、私と999の間にどんな(いわ)くが有るのかも判ら無い。私に判っているのは、電脳海馬の容量が上限に達すると、強制的に記憶が初期化されると言う、唯、其れだけ。」

 会話とも供述とも取れぬ、途切れ途切れで朦朧とした自動筆記の如き独白が零した禍々しき合成言語。奇矯な語感の塊が、鉄郎の内耳の内壁を掻き毟りながら転がり落ちていく。電罪を(あば)く非実体の重合した何物か。タイタンで目の当たりにした得体の知れぬ造殖情報腫の濁流。(かささぎ)の武者震いが、今、点と点で結ばれた。

 「電劾重合体なのか。此の列車に背乗りしたのは。其れも、999を襲う為に。何故だ竜頭。電劾重合体が999を狙っているってのは、一体どう言う事なんだよ。そんなウィルスやスパイウエアの変種に意思があるのか。其れとも、誰かが遠隔操作しているのか。」

 唯でさえ厄介な泥沼に填り込んでいる処に、鰐の尻尾が見えてきたのだ。優しく(なだ)(すか)してはいられ無い。鉄郎は竜頭の両肩を掴んで揺さ振り、虚ろな三白眼に烈火の詰先を突き付けるのだが、夢遊に耽る竜頭の薄弱な面差しは、虚実の浪裏(うらなみ)を擦り抜けていく。

 「記憶をリセットされてはロムを読み込んで目覚めるの。まるで工業用アンドロイドの様に。リミットに達したらリセットして、伯爵の元に出向き指示を待つ。今迄に其れを何度繰り返してきたのか。カウントのしようも無ければ、其れが奇怪(おか)しな事だと判っていても、感情のフィードバックが切られていて、心が張り裂ける程に悩み苦しむ事も出来無いの。再起動した私の手元には名前とアーカイブデータが有るだけで、自分の出自も判ら無い。機械化する前の記憶は完全に欠落しているのに、リセットされた記憶の方は、インデックスを切り離しただけで残存していて、首の無い過去の数々が首塚を探す人魂の様に、電荷を帯びてストレージの潜在領域を彷徨(さまよ)い、其れが時に、超細密な既視感を呼び覚まして、前生を席巻した紅蓮の因果を炙り立てる。」

 竜頭のか細い肩が消磁したデータの様に鉄郎の手を擦り抜け、レイテンシーの狭間の永遠を踏み分ける垂髪の影絵。鉄郎は雲隠れした竜頭の心に届く言葉を探した。今此処で何が起き、起ころうとしているのか。鍵を握る竜頭は其の禍中に呑まれている。若し、本当に電劾重合体の支配下に在るのだとしたら、寝惚けている場合じゃ無い。

 「哥枕(うたまくら)見て參れ。」

 頭を()ぎる小賢(こざか)しいメーテルの発破。タイタンの騒動では彼の馬鹿の出鱈目な宇気比(うけひ)が物を言ったが、()う言う時に限って、茶菓を片手に日和っているのだから、始末が悪い。絡み合った怒りと焦りで頭の回らぬ鉄郎を余所に、此処では無い何処かに向かって竜頭は言葉を尽くし、(あたか)も、過去の自分や、未来の自分に語り掛ける様な、現世を超えた自己催眠の繰り言を引き擦って、異相の闇路を行脚する。

 「私には誰かと一緒に振り返る事の出来る彼の頃なんて無い。私には過去も無ければ未来も無い。心を時の流れで区切られる事も無ければ遮られる事も無い。そして何時しか、記憶と言う、時の鎖縛から解き放たれた者にのみ許された力が芽生え、疎まれ、利用されていた。記憶は人と時とを司る天府(てんぷ)のタクト。失った記憶と入れ違いに、私の意の中で戯れる時の輪列。永遠に再起動を繰り返す記憶の狭間を、過去と未来を(かたど)った振り子の残像が行き交い、其の揺らめきに、私がそっと指を添えただけで、どんなに胸に深く刻み込んだ想いも、瞬き一つで眼裡(まなうら)に霞み、指の間を擦り抜けていく。煎じ詰めれば、量子の物性を究め、如何(いか)に電脳化の精度と強度を上げようと、符号化して格納したデータの劣化を防ぎ切る事なんて夢の又夢。不滅の記憶も永遠の命も、無から無へ移ろう叙情詩の一(ページ)。再起動しては、次の再起動を待つ私も、インデックスを書き換えられた首の無い記憶と同じ、機械仕掛けの時流の中に幽閉された、遊び方の判ら無い玩具。時めく心を失い、己の力に振り回される裳抜(もぬ)けの傀儡(かいらい)。生身の躰だった時の面影処か、今此処に在る実体すら危うい、身空の身空。」

 発条(バネ)の切れた絡繰り時計の様に途切れた竜頭の独り芝居。聞いている己の耳が鳴っていただけなのではと錯覚する程の、儚い囁きが掠れ、竜頭の窶れた輪郭が車内の暗墟に薄れていく。我が眼を疑う余裕も無い。放置された残骸の隊伍に透けていく多針メーターの明滅。引き留めようとして甲走る、鉄郎の声と言葉と意味が衝突して弾き合い、逸る気持ちが喉に支えた。其の瞬間、忽然と、機械伯爵の館で遭遇した玄覚が、磐室(いわむろ)の霊徹な息吹きが脳裏を遡る。集中治療室で壊暴される少女。天津河(あまつかわ)を挟んで黄泉交(よみか)わす相聞歌。多針メーターの集積化した磐壁(いわかべ)のモザイク。何故、今、こんな時に。天から降って湧いた追憶に戸惑う鉄郎。殺到する白想に額を突かれ、弾き飛ばされた頸椎から思わず発した一声が、蒼古草伝の三十一文字(みそひともじ)に散華する。

 

 

    七重八重(ななへやへ)花は咲けども山吹の

        ()の一つだになきぞ悲しき

 

 

 鉄郎の現身(うつしみ)(なかだち)にして木霊(こだま)する、地球を発った彼の日、磐室の闇に閃いた独片(ひとひら)の古歌。其の森閑とした風韻に感応し、一瞬、竜頭の背負う烏玉(ぬばたま)の垂髪が山吹の錦糸に(ひるがえ)り、艤態化した()き身のコルセットと、投げ遣りな剛筋義肢に熱い血潮が(ほとばし)る。絶えて久しい歌枕と錯綜する(うら)ぶれた時の歯車。鉄郎の眼路を掠めた見覚えの有る煌びやかな金色(こんじき)鳳髪(ほうはつ)。そんな真逆(まさか)と見返す間隙を突き、(まばた)く術も忘れ、硬直した其の瞳孔に最上段の一喝が轟いた。

 「否、其の身、(ひと)つのみに(あら)ず。」

 昇魄(しょうはく)し顎の根の外れた竜頭の気道から、竜頭の地声とユニゾンで放たれた、地の底から這い上がる解像度の粗い怒鑼(どら)声に氷変する車内。忘れたくとも耳小骨(じしょうこつ)に刻み込まれた、メタルフィルター()しの焼き(ごて)の如き悪罵。聞き(たが)える訳が無い。甦る、暴風雪の白魔を蹴散らした剛性軍馬の蹄鉄。騎乗から鉄郎を睥睨する緋色の千里眼。ブラックホールよりドス黒い、銀河鉄道財団が誇る稀代の資叛家(しほんか)。粟立つ皮膚に擦り込まれた(おぞ)ましい記憶に、鉄郎は胸の奥所(おくが)(まさぐ)られ、今宵の真打ちが励起する腰の据わった猟奇に、腰から提げた鵲の銃身がホルスターを振り解かんばかりに身悶える。天河(てんが)(あまね)く無限軌道を旅する限り、此の悪縁が途切れる事は無いのか。

 竜頭の三白眼が眼裏(まなうら)に吊り上がり、本の束の間、金無垢に煌めいた垂髪が再び溝黒(どぶぐろ)蓬髪(ほうはつ)に塗り潰され、薄氷を透かした様に張り詰めた形相に亀卜(きぼく)の亀裂が駆け巡る。絶頂に達した兆刻(ちょうこく)から立ち昇る瘴気(しょうき)。其の垂れ込めたベールを益荒(ますら)う影が、竜頭の抜け殻に乗り移り、緑青(ろくしやう)の酸化被膜で(むしば)みながら、鋳造(ちゅうぞう)の化身、機械伯爵の筐体(きょうたい)が実体化していく。竜頭がチャドルを脱ぎ捨ててから、息を吐く間も無く畳み掛けてきた夢魔の連続も、此処が先途(せんど)の最終コーナーとか言う奴だ。煮え滾る(あかがね)の鉱炉から褐色(かちいろ)炎群(ほむら)を巻き上げて鎌首を(もた)げる、不瞑不屈(ふみょうふくつ)の隻眼。見渡す限りの万象を一瞥を以て睛圧する、頭蓋に埋め込まれた洞孔(どうこう)が狂爛のカドミウムレッドで血走り、錆粉(しょうふん)(まみ)れた地肌を縦横に走る、(はらわた)を捲り上げた様な皺襞(しゅうへき)が、蒼蒼(そうそう)とした古代の文様を綾並(あやな)み、貪婪なる獣面を蠕動(ぜんどう)している。

 相も変わらず峨峨(がが)として立ち(はだ)かる、尊大な機界の鼎王(ていおう)。此の饕餮(たうてつ)の魔性を前にしては、夢か(うつつ)か、憑き物が降りてきたのか、老想化した錯視の反響かを分別した処で意味が無い。些細な穿鑿(せんさく)を寄せ付けぬ圧倒的な魁偉(かいい)。鉄道資料を網羅した邸宅で遭遇した朽ち果てた姿で無く、隙の無い軍装で身を固めた伯爵の壮肩から(ほとばし)る幽渾で、時空が歪んで見える。

 此の漢が首を出して、血の一筋も流さず、挨拶だけして虎穴に戻るなぞ有り得無い。背の低い客車の天井を突く、居丈高な義肢の甲冑が重厚な一歩を踏み出し、外顎(がいがく)膠着(こびりつ)いた漆気触(うるしかぶ)れの様なベアチップが瞬いた。

 「(かつ)()て玉を(いだ)く、とは此の事か。」

 嗷嗷(ごうごう)と車内に響き渡る一節(ひとふし)の呻吟。回転ベゼルで縁取られた、火の玉の如き千里眼に射竦(いすく)められた鉄郎は、鉛の玉を飲み下した様に息が詰まり、血気に逸る戦士の銃に縋る思いで手を掛けた。其の時、

 「星野加奈江、否、旧姓、雪野加奈江だな。」

 伯爵は鉄郎に向かって慇懃無礼に問い質した。管理区域外の屋敷でも、此の漢は鉄郎を原名調伏してみせたが、其の比では無い。唐突に浴びせられた母の名。其れも旧姓に鉄郎は震駭(しんがい)した。

 「間違ひ無い。真逆(まさか)、此程の優良種が伝世されてゐたとは。」

 モノアイを縁取る回転ベゼルを指で切り替え、鉄郎に非破壊光子を掃射して感嘆する伯爵。其の炯炯(けいけい)と見開かれた独眼を覆う風防硝子の鏡面に、対峙している鉄郎では無く、吹雪を纏って身構える母の姿が映り込んでいる。九死の瀬戸際に瀕して(なほ)規矩(きく)を正した其の気丈。此は()しや、雪原に独り取り残された、彼の日の白魔の続き。追い(すが)り、駆け付ける事の出来無かった惨劇、其の決定的実況を目の当たりにして、鉄郎は慙愧(ざんき)鉄鎚(てっつい)に討ち伏せられ、些塵の舞い散る通路を膝で叩いた。

 「調べは付いてゐる。手荒な真似をするつもりは無い。我々の指示に従つてもらはう。服を脱げ。力尽くで剥ぎ取るのは容易(たやす)いが、時間が惜しい。早くしろ。」

 (ひざまづ)いて舐める様に見上げる、伯爵の意味不明な錯誤。伯爵は目の前の鉄郎では無く、彼の日の母に命じている。此の機畜の凶像は此処に居て此処に無い。此の伯爵は、母を狙撃し、奪い去った、彼の日の伯爵。鉄郎は仇役の眼中に閉じ込められた母の影を眼で追った。

 「己の分限を(わきま)へろ。得物も持たぬ生身の躰で、何をどう刺し違へると云ふのか。」

 山の背を負うが(ごと)き呵責に屈した鉄郎を見下し、呵呵(からから)と嘲る伯爵の威容。然し、鉄郎は怯む事無く、寧ろ、巻き戻された彼の夜に、常に待ち焦がれていた此の時に感謝した。(ようや)(あがな)う事が出来る母への不実。其れが例え夢でも構わ無い。母の身代わりに此の命を捧げる事が出来るのなら。鉄郎は機賊の脅弾の前に胸臆を曝し、其の瞬間に満を持した。すると、伯爵が突如後退り、粒の粗い蛮声に畏怖と随喜が入り乱れる。

 「知つた様な口を叩きおつて。其れも又、伝世された血の為せる業と云ふ奴か。卦体(けたい)(ちから)よ。(しか)し、其れでこそ玉体の務めを果たせると云ふ物。良いか、御前達は下がつてゐろ。雑兵の手に負へる相手では無い。」

 大振りに配した金釦(きんぼたん)と差し色の赫いステッチが燃え盛る国防色のコートの袖を僅かに(たく)し、伯爵は勿体振った好古趣味で艶めく小口径のレーザライフルを、襷掛けにした肩から外した。彼の夜の暴風雪が陶然とした戦慄を霏霺(なび)かせて肺の腑を吹き荒ぶ。伯爵の錯視の(まま)に自らの肉体を母の凶運と重ね合わせる鉄郎。土を頭から被せられながら、神の(ゆる)しを待つ人柱の恍惚。鉄郎は天の差配に其の身を一心に捧げている。処が、無抵抗な贖罪の子羊を前にして伯爵は硬直し、堅牢な外顎から(ほとばし)る、荒々しくは有っても悠を以て律した呼気が、(にわか)に乱れ始めた。何に怯えているのか、様子が奇怪しい。後は手を下すだけで在る筈の伯爵が、却って鉄郎の纏った母の幻影に追い込まれている。

 「地獄へ落ちる前に舌を抜かれたく無ければ、余計な説教は其処迄にしろ。」

 被害妄想に取り憑かれた様に、当て()無く漂う廃塵を水平に薙ぎ払う上腕。虚を吐いた怒号からは、仁義と礼智に裏打ちされた厳格な響きが失せ、豪壮な体躯を誇る鋳造の羅刹(らせつ)が、(なまくら)木偶(でく)御上(おのぼ)りに品下(しなさが)り、半ば及び腰で身構えている。取り乱した伯爵の眼底で、何事か語り続ける母の投影。

 

 「偉大なる母の血に泥を塗りたく無ければ起て。」

 

 リフレインする、彼の夜、伯爵が屋敷で振り下ろした面罵。此の漢が知悉する鉄郎の思いも寄らぬ母の真実。

 

 「母に会ひたければ時間城に來い。」

 

 其処に行けば、本当に真実と出合えるのか。(そもそ)も、鉄郎に取って真実と呼べる物なんて在るのか。此の宇宙に真実に値する物なんて在るのか。鉄郎の母に真実を突き付けられて狼狽(うろた)えているのは、寧ろ伯爵の方だろう。鉄郎の心拍に合わせて再び揺れ惑う信疑の天秤。此の遭難列車に乗り込んだ時点で、総ては藪の中の迷路だ。

 竜頭の神憑りを語り部に、前口上の一つも無く、暗幕が降りたまま突如開演した影絵芝居。台本も無ければ脈絡も無く畳み掛ける、嫌味な禅問答と独り善がりな長広舌。そして遂には此の時空を超えた押し付けがましい再現ビデオだ。トラウマの焼き直しでリメークした悲劇に、武者振(むしゃぶ)り憑く悪食なパロディ。順不同で()()ぐコマの欠けたモンタージュがリールから弾け飛ぶ。主客の転倒した記憶を傍観する鉄郎。何処迄が脚色か粉飾かも判らぬ自己盗作の三文オペラに、法廷桟敷の被告席が強要するヤラセの懺悔。そんな見世物の書き割りを突き破って、伯爵の悶絶が火を噴いた。

 「黙れ、黙れ。」

 臣下の(いさ)(ごと)を振り解く様に怒号を上げ、色と光の褪せていた火眼金睛のモノアイから飛沫するアーク。文身に彩られた鋼顔が飴色に焦熱し、植毛に覆われた電脳ボードのフィラメントが顳顬(こめかみ)を掻き毟る。銃床を肩骨で(くわ)え込み、組み伏せる様にレーザライフルを構える伯爵の形振り構わぬ其の大仰。親の尾に縋る子狐の様に、鋳鉄(ちゅうてつ)の偉丈夫が銃身の影に身を隠して震えている。鉄郎の眉間に突き付けた銃口から筒抜けの虚勢と恐怖。母と生き別れた彼の夜、(ほぼ)、同じ至近距離で同口径の鉛管から覗き見た死の宣告を、鉄郎は今、飄然と(みつ)めていた。どうやら苛烈な運命に付け狙われているのは、鉄郎だけでは無いらしい。伯爵も鉄郎と同様、何等かの重荷を背負って喘いでいる。只でさえ、一足欠けた二脚の(かなへ)だ。座りが悪くて当たり前。此の漢の纏う破滅のオーラは己の身をも焼き尽くす被虐の業火だ。鉄郎は不図(ふと)、伯爵が内に秘す深手の瑕疵(かし)を愛せる様な気がした。

 終幕を告げる伯爵の雄叫びが地吹雪を切り裂き、這い(つくば)って掻き集めた物々しき殺意が、銃口の鼻面に座した照星に殺到する。狙う者も狙われる者も一つに和した、永遠の懺悔を環流する始発と終着。生き延びる事こそが母の遺訓と痛暁して(なほ)、時空を超えて母の身代わりに此の命を捧げる倒錯に取り憑かれ、そんな奇蹟が成立する筈が無いと判っていながら、鉄郎は勝手口の脇に立て掛けた(かんぬき)の様に、漠然と傾いだ儘の心で、光励起結晶の昂調する銃身を眺めていた。鉄郎の母が誇示する威迫に、有りっ丈の狂気を振り絞って抗う伯爵の偽悪も限界に達している。一体自分達は何を護り、何に打ち克とうとしているのか。強権を揮い敵も味方も寄せ付けぬ、伯爵の悲愴な気概。此の炸薬の禍中に在って、鋳型で(くすぶ)(ほの)かな酸鼻が鉄郎の小鼻を(くすぐ)った。

 物心の付いた時には、貧民窟の子供とは一切口を利くなと断じた母の極言。感染症から生活習慣、価値観に至る迄、母は鉄郎を人が巣くう市井(しせい)の穢れから隔離した。息苦しい母の謹厳な愛とは違う交情を、同世代の子供達と温める事を知らずに育った鉄郎は、たった独りの母と言う十字架を背負う、血縁の離島に置き去りにされた流刑者だった。孤独を紛らわす様に塵を拾い続けた鉄郎。人影の無い産廃の峰を辿りながら、西日に伸びた己の影を友に見立てて語り掛ける日常を、虚しいとすら気付かずに育った。其の独語に暮れる己の姿と折り重なる、鉄郎に向かって独り芝居を打つ伯爵の哀切。親の仇と判っていながら、焼き(がね)で刻んだ宿縁の片隅で、微かに疼く心の(つぶて)。そんな矢庭に芽生えた歪な(しこ)りを、冥盲閃墨、黒耀の(やじり)(ついば)み、冴え渡る玲鳴(れいめい)が鉄郎の止め()無い錯想を(つんざ)いた。止水を()ぎる(かささぎ)の飛影。鉄郎の肩胛骨から僧帽筋を彗翼の羽撃(はばた)きが突き抜ける。

 

 

     鵲飛隸天  鵲 飛んで天に(したが)

     蠱厄于淵  () (ふち)にて(くる)しむ

 

 

 ()んでいる。戦士の銃が、眼を醒ませと(いき)り立ち、鉄郎の骨盤を(はや)るに任せて蹴り上げる。タイタンで手にした時以来、此の化鳥(けちょう)の勘所が外れた例しは一度も無い。羽繕(はづくろ)いを切り上げて、此処からが本当の後仕舞い。満を持して登壇する、積層鍛造から削り出された流線型の霊銃。川面を蹴立てて鱗舞する若鮎の様にホルスターから跳ね飛び、有無を言わさぬ淫力で鉄郎の腕を黒妙(くろたえ)のグリップに引き擦り込む。顚倒した主従に振り回され、汗ばんだ五指を(くわ)え込む硬骨な握り応えが、掌の生命線から手首、肱、肩と貫いた其の瞬間、車内の膠着した大気を、不協和な合成周波のラップ音が掻き毟り、

 「雋エ讒倥?∝?縺ョ驫?r菴募?縺ァ縲」

 竜頭の時縛を以てしても調伏し切れなかった残党が、目深に結わいた狂言強盗の頬被りを掻殴(かなぐ)り捨てて吼え立て、伯爵のモノアイに映る母の投影が鉄郎の実像に復元した。此の田舎芝居の全てが、竜頭を歩き巫女に見立てて取り憑いた、電脳蠕虫の旅興行だと言う事か。本の束の間でも、伯爵に抱いた御情けを返しやがれ。

 「逕溷濠蜿ッ縺ェ荳サ蜷帙〒縺ッ譏薙??→蝟ー縺?ョコ縺輔l縺ヲ邨ゅ≧蜈カ縺ョ髴企ウ・繧偵?∬憶縺上◇蜈カ蜃ヲ縺セ縺ァ謇区≒縺代◆迚ゥ縺?縲りェ峨a縺ヲ繧?k縺槭?∝ー丞Ι縲ょ?蝨溘?蝨溽肇莉」繧上j縺?縲り?ウ豎壹@縺ォ隕壹∴縺ヲ縺翫>縺ヲ繧?k縲ょ錐繧貞錐荵励l縲」

 油蝉を埋め込まれた様に鉄郎の側頭葉を掻き乱す、エンコードの破綻した算譜厘求(さんぷりんぐ)の金切り声。ライフルを構えたまま喚き立てる伯爵の輪郭線を多動質な光子が駆け巡り、其の残像から迸る蛍素が見覚えの有る矩形波と三角波を掻き鳴らしながら、車内の全方位に放電する蛛網怪怪(ちゅうもうかいかい)。タイタンで廃ダムの湖面を席巻した電呪の文波(あやなみ)が、座席と通路に降り積もった死灰(しかい)を巻き上げ、隊伍を組んで遺棄された乗客の抜け殻を召電し、集積化した兵馬俑(へいばよう)が一斉に息を吹き返す。類感呪術の避雷針と化した伯爵を同心円に、異形のパルスを輪廻する再活性した電脳黴毒(でんのうばいどく)のアルペジオ。四列シートから総立ちの亡骸(なきがら)が、隣り合う同類に絡み付いて逆関節を取り合い、スパークを飛ばして犇めく鋼物の団塊から、引き千切れた剛筋義肢が宙を舞う。

 「菴輔?∬イエ讒倥?逵滄???∝スシ縺ョ譎ゅ?蟆丞Ι縲ょ聖髮ェ縺ョ荳ュ縺ァ陦後″蛟偵l縺溘?縺ァ縺ッ辟。縺??縺九?ょ?繧後〒縺ッ雋エ讒倥?譏滄㍽蜉?螂域ア溘?諱ッ蟄舌?繝サ繝サ繝サ繝サ縲」

 ホルスターから飛び立った鵲が鉄郎の手中に納まった途端、眼の色を変えた鬼界の輪舞輪誦。人もウィルスも粗相がバレて開き直るのは同じ事。こんな悪巫山戯(わるふざけ)を裏から糸で引いているなんて、余程、(うだつ)が上がら無いのだろう。壁に耳を当てて隣の部屋をリモートしてる位なら、大人しくベランダで星の数でも数えていれば良い物を。逆巻く飛黴(ひばい)とプラズマが転調と変拍子を打電する、幾何学模様の無限ループに包囲された鉄郎は、諸手を合わせて拝む様に流線型の霊銃を上段に構え、奇色ばんで(ども)り立てる伯爵の隻眼に照星を合わせて、(おもむろ)に振り下ろした。

 

 

      靈爪封蠱  靈爪(れいそう)にて()を封じ

      靈觜殺毒  靈觜(れいし)にて毒を()

 

 

 とかで良いんだろうか。見様見真似の言挙(ことあ)げを口にする鉄郎。付け焼き刃の安売りは火傷の元と判ってはいても、調和制伏の四文字熟語が載っている漢字ドリルで、予習出来る訳で無し。悔しいが、今頃、999のラウンジで茶餅(さべい)(たしな)んでいる黒猫の唱えた(うけ)ひの祷命(とうみょう)がタイタンでは一役買ったのは確かだ。古儀の卜辞(ぼくじ)で確変した鵲の千早振(ちはやぶ)る鳳雷。言霊(ことだま)(たす)くる戦士の銃の真骨頂は今も此の身に刻み込まれている。(しか)し、歌枕を見てこいと言われて手土産の一つも見当たらず、ウロウロした挙げ句に御知恵を拝借なんて以ての外。76のAカップがシャシャリ出て来る前に方を付けずして、漢の立つ瀬が在るものか。獲物を嗅ぎ付け、漸く目覚めた霊鳥の武者震い。其れでも未だ何かが足り無い。黒耀に煌めく星の鏃が暴発寸前の怒張に達する、一向(ひたぶる)に敏な英気が。ダマスカス鋼の銃身に秘めた獣祖の雷管を撃針する決定的な(こと)()が。

 「驩?ヮ縲∬イエ讒倥?豈阪?莠九↑繧画。医★繧倶コ九?辟。縺??よ羅縺ョ鬧?ウ?↓莨壹o縺帙※繧?m縺??りイエ讒倥↓縺ッ逵溷ョ溘r遏・繧玖ウ??シ縺悟惠繧九?らォ憺?ュ縲∵。亥?縺励※繧?l縲」

 鼓膜に錐を突き立てる、解読不能な奇語の羅列に険眉の極まる鉄郎。一方的に捲し立てる伯爵と銃を突き付け合い、士魂の欠けた途端、一撃で遣られる喉剣胸矢(こうけんきょうし)。其の刹那、耳障りな喧騒の最中に不図(ふと)、新奇な直感が中耳を限った。此の出鱈目なPCMの激情は、鉄郎の思考を攪乱する騒霊の手管(てくだ)と言うより、何処か真に迫る物で漲っている。まるで本当に語り掛けている様に。真逆(まさか)と思い耳を凝らした其の時、伯爵のモノアイに映る鉄郎の投影がメーテルの黒装束に切り替わった。

 「菴墓凾霑?◎繧薙↑蜃ヲ縺ォ髫?繧後※縺?k縺、繧ゅj縺?縲ゅΓ繝シ繝?Ν縲」

 ライフルを構えたまま硬直してはいる物の、伯爵の躁言には明かな感情の起伏が息吐いている。

 「縺ゅs縺ェ驥手憶迥ャ繧呈鏡縺」縺ヲ縺阪※菴輔≧縺吶k縺、繧ゅj縺?縲」

 疑いの余地は無い。其処に居るのだ。伯爵のカドミウムレッドの血涙に染まるメーテルが。時空を超えた其の眼路の先に。

 「縺昴s縺ェ縺ォ蠖シ縺ョ蟆丞Ι縺梧ー励↓縺ェ繧九°縲ゆク?邱偵↓譌?r邯壹¢縺ヲ諠?′遘サ縺」縺溘°縲」

 鉄郎は伯爵のモノアイに神経を集中した。銀河鉄道という天河無双のコンマグリッドを介して対峙する二極の異分子。其の浅からぬ因縁に、突き付けられた銃口の凶威も忘れて。処が、

 「縺薙s縺ェ蠖「隕九↓邵九k縺ョ繧よュ、縺ァ譛?蠕後□縲?99縺ォ謌サ縺」縺ヲ蜈ャ蜍吶↓蟆ょソ?☆繧九′濶ッ縺??」

 微かな糸口を掴む事すら儘ならず、モノアイの鏡面に閉じ込められていたメーテルが再び鉄郎に寝返った。

 「蠖シ縺ョ螂ウ縺ォ縺ッ縲∝ョ?ョ吶?譫懊※縺ァ譛ス縺。縺溘→縺ァ繧りィ?縺」縺ヲ縺翫¢縺ー濶ッ縺??」

 伯爵が何を喚いているのかは判ら無い。其れなのに、一体何処から込み上げてきたのか、鉄郎は間髪を入れず火語を散らして捻じ伏せた。

 「彼の女だと。巫山戯(ふざけ)るな。母さんと呼べ。

 

 

    思爾爲雛日  思へ(なんじ)(たり)し日

    高飛背母時  高飛(かうひ)して母に背ける時

 

 

 死に場所を探してるのなら俺に任せろ。御前には帰る場所が在る。」

 (さなが)ら、伯爵の隻眼に映る己の不義を正すかの如き激昂。憑き物に言わされているのでは無い真実の言葉。逼迫した悲憤が仙骨から頭頂を貫き、喉笛を締め上げ、眦を熱くする。此は唯の俄芝居なんかじゃ無い。脚本に書き込まれた山場でも無ければ、転寝(うたたね)の夢枕でも無い。何者にも扮してい無い鉄郎と伯爵が決する魂と魂の衝突。鉄郎と伯爵を巡る何事かが切り取られた決定的瞬間。不吉な好奇心を差し挟む余地も無く、鉄郎の顳顬(こめかみ)を走る動脈が頭骨に喰い込み、犬歯を()ぜる心火の砲舌が、鉄郎の胸裡に巣くう惰弱諸共、伯爵の瓦解した威迫を焼き尽くす。

 「繝輔Φ縲∫謙蜿」謇阪↑縲」

 熾烈な面罵を撥ね除け、伯爵の得物がライフルから金象嵌(きんぞうがん)直劍(ちょくけん)に兇変した。(かなへ)の蒼貌に群がる渦紋の(ひだ)を苦汁が滴り、カドミウムレッドの血壊した眼精が捲れ上がる。其の沈痛な荒魂に向かって、神気心頭に達した鉄郎は呼吸を整える様に古哥(こか)()した。

 

 

    歸去来兮     (かへ)りなんいざ

    田園將蕪胡不帰  田園(まさ)()れなんとす(なん)ぞ歸らざる

    既自以心爲形役  (すで)に心を以つて形の役と()

    奚惆悵而獨悲   (つい)惆悵(ちゆうちよう)として獨り悲しむ

    悟已往之不諌   已往(いわう)(いさ)められざるを悟り

    知來者之可追   來者(らしや)の追ふ()きを知る

    実迷途其未遠   (まこと)(みち)に迷ふこと其れ未だ遠からず

    覺今是而昨非   今の是にして(さく)の非なるを(さと)

 

 

 錬鉄の技を研ぎ澄ます錚錚(そうそう)たる詩境に鵲の慧眼が煌めいた。二等辺に構えたグリップから骨伝導し、鉄郎の心の臓を鷲掴む霊鳥の鉤爪。ダマスカスの鋼目に獣詛が(みなぎ)り、母を襲った翡翠(ひすい)の凶弾が、車内を網羅する飛黴(ひばい)と放電を引き裂いて、鉄郎の眉間を()()けた。怜悧(れいり)な閃光と共振音が呼び覚ます、白魔に散った母の断末魔。地吹雪を置き去りにして闇に消えた蹄鉄と(いなな)き。()える。新雪に潜り、身を隠す事も出来ずに立ち尽くした光量子のスパイラルが。前後不覚の雪原で、荘厳な屋敷で、彼程、雄々しく見えた機賊の纏う慙愧が、歴々(まざまざ)と。

 鉄郎の瞳に乗り移った黒耀の秘石。迫り来る機畜の逆鱗を焦点に捉えて放さぬ、星辰一到に徹した霊銃の気概。精錬されたダマスカスの波紋が鉄郎の毛細血管を駆け巡り、真核細胞にまで染み付いた(よこしま)な小智に()きを入れる。泡沸絶騰の頸動脈。一瞬にして蒸揮する俗身。再結晶し息を吹き返す天性と血統。賊軍の銃撃を(かわ)すなぞ論の外だ。鉄郎は自ら、K点を越えた悲愴な弾道の面前に立ち(はだ)かり、捨て身の盲虎を迎え撃つ。

 諸手に構えた戦士の銃が謳歌する皇剛性の絶倫。鉄郎は稲光る弾頭の一点を睨み付け、握り込んだグリップに身命(しんみょう)を賭した。破れかぶれの(なまくら)な粗撃に此の俺が屈する訳が無い。誰に媚びる事の無い渾身の矜持と、死神をも寄せ付けぬ強靱な覇気。眉間に集中した其の核心に弾かれて、(わず)かに屈折した弾道が鉄郎の眦を掠め、小鬢(こびん)を削いだ。後部座席で絡み合う乗客の団塊諸共、撃ち砕かれる客車の躯体。爆風に(そよ)ぐ、炭化して縮れた焦眉と蛋白質の燻る臭素。減衰する翡翠の条痕を舐める様に(みつ)めながら、鉄郎は何発撃とうと弾の無駄だと微笑んだ。

 伯爵の屋敷で全く手も足も出なかった彼の時の、(まさ)に勝手違い。至近距離の一撃を捻じ伏せられて、二の矢も継げずに立ち尽くす伯爵の隻眼が、標的を見失った照星の中を泳いでいる。相手の器を見切って迎える余裕の後番に、鉄郎は光励起結晶の真髄が(しず)かに臨界してる銃身を、諸手を解いて振り降ろした。名刀は鞘の中に治まっている物。此の鵲が本物の霊銃なら弾を込める必要すら無い筈だ。調伏されるのを待つだけの、鏃の錆びに堕した伯爵を前にして、私憤も宿縁も、背に負った母の眼差しも解晶し、冷淡な膂力(りりょく)に満ちた心の臓が、唯、昂然と拍動している。降魔(ごうま)(いか)()を振り翳し、発莢(はっきょう)したアークの咆哮に酔いしれ、盲管銃創に腹を抱えるなぞ趣味じゃ無い。勝負の判定や、力の優劣なぞ二の次だ。此の騒ぎの介錯を執る前に確かめる事が有る。鉄郎はインローで()め込まれた伯爵のモノアイを覗き込む為に、カドミウムの赫眼が何を映し出す鏡なのか確かめる為に歩を踏み出した。(おごそ)かな異端審問官の第一歩に震撼する車内。不埒なプラズマと死灰の獺祭(だっさい)で鉄郎を取り巻いていた騒霊が、栓を抜いた排水溝に引き擦り込まれる汚水の様に終息していく。複合調和音の冥奏が闇に呑まれ、座席と通路に雪崩れる糸の切れた乗客の義肢を踏み分ける鉄郎。伯爵のライフルは未だ其の禁を解かずに張り詰めている。幾ら腹が据わり、車内を睛圧しているからと言って、此の至近距離を超えた面前で再び銃撃されたら一溜まりも無い物を、ならば猶の事と言わんばかりに、勇を鼓す歩武堂堂の漸進(ぜんしん)が突き付けられた銃口を押し戻す。伯爵の頑躯を(かたど)る輪郭線を、鼎の渦文を縦横に疾走していた蛍素が燃え尽き、発散していた瘴気が揮発して、御神木の幹を彷彿とする其の堅腰が傾いだ。

 「私事に溺れ、職責を見失ふとは、一生の不覚。」

 手元から擦り抜けたライフルと同時に、片膝が床を叩き、左手で髪を掻き毟りながら右手を突き出し、其処にいる筈の無い臣下に向かって声を荒げる伯爵。

 「何うした、トランクだ。何を呆けてゐる。伝送トランクを用意しろ。」

 目の前に立ち止まって見下ろす鉄郎の姿にも気付かず、(めし)いた御薦(おこも)の様に振り回す(かつ)ての豪腕。鉄郎が救いを差し伸べる様に其の手を取り、ハッとする程に華奢な、闇を探る其の指先が不意に吊り上がると、

 「鉄郎、此の女を母と思ふな。撃て。然して、999を・・・・・。」

 辞世の覚悟も儘ならぬ絶筆の様に、粒の粗い算譜厘求(サンプリング)の蛮声が息絶えた。伯爵の幽渾な鋳像が明滅して、呪縛の解けた鉄郎の錯視を希釈して霞み、嵐の後の静けさに頭から前のめりで崩れ落ちるのを、鉄郎が()(かか)えた其の腕に墨染めの垂髪が降り注ぐ。光を取り戻した窓外の満天の星明かりが射し込む車内。四列シートに乗客の遺骸が整列し、伯爵の撃ち抜いた車体の風穴が掻き消され、気の遠くなる様な歳月の経年劣化が、再び息を(ひそ)めて(にじ)み始める。何もかもが夢の様に過ぎ去った一幕の余韻を胸に。永遠の橋掛かりへと踵を返すシテの背に拍手は無用。鉄郎の腕の中で憔悴し血気の無い四肢が撓垂(しなだ)れ、富士壺の様に集積化した石腹を覆う多針メーターのバックライトが(かじか)む様に点滅している。艤態化した体幹とは裏腹に、張り子の様に軽い竜頭の人形(ひとがた)。時の旅路に疲れ伏した其の虚世身(うつせみ)に、鉄郎が労る言葉を探していると、星明かりを湛えて墨の五色を(ちりば)めた垂髪が揺らめき、新月の波間から浮かび上がる様に竜頭が小首を(もた)げた。微かに緩む眦の奥を光が走り、線を引いただけの鼻筋の下で、宛名の無い封筒に浅く鋏を入れた様な口元が(ほころ)んでいる。

 「鉄郎・・・・・・、そう、どうやら不覚にも助けられて終ったようね。」

 竜頭はピアノ線で引き揚げられる様に上体を起こし、鉛色の三白眼に虹彩が戻ると、海松色(みるいろ)蜷局(とぐろ)を巻き上げてチャドルを羽織り、水平に振り翳した左手に打ち捨てられていた燈會(ランタン)を引き寄せ、右手の中指で錻力(ブリキ)の笠を弾いて点した狐火に向かって呟いた。

 「車内の隅に紛れていた重合体の残滓に揚げ足を取られて、御負(おま)けに、行き摺りの小童(こわっぱ)に、其れも生身の三下(さんした)に尻を拭ってもらうだなんて、良い面の皮だわ。」

 厄が落ちたのか毒が抜けたのか、焼きが回って切れの無い憎まれ口を叩きながら、燈會を掲げて車内を一望する竜頭。チャドルの(ふく)よかなドレープの下に隠れた薄い肩が、秘めやかに嘆美を()して角を落とし、表情を絶した横顔が眩しそうに其の眼を細め、微かに頷いた様に見える。

 「どんな具合だい、物の怪との二人羽織は。中々の見物だったぜ。」

 再び穏やかに流れ始めた時の営みに其の身を委ね、端然と寛ぐ竜頭の姿が少しばかり癪に障り、減らず口を叩いて(あげつら)う鉄郎。

 「辻説法を吹っ掛けてきた時の元気はどうした。エエッ、オイ、蛞蝓(なめくじ)の落ち零れみてえな面しやがって。」

 重力の底に降って墜ちた禍事(まがごと)(かた)が付き、気の緩んだ弾みで口が滑るのを、竜頭は目深に被ったチャドルの奥で聞き流し、囁き交わす星々の(せせらぎ)を眼路で辿りながら、銀河の歌枕を氷雪に見立てた。

 

 

   忘れては夢かとぞ思ふおもひきや 

         雪踏みわけて君を見んとは

 

 

 憑き物に憑かれて意識と時辰儀の針が飛んでいる間に、私の方も面白い物を見て回れたわ。伯爵の血腥(ちなまぐさ)い眼も借りて。土産話の一つでもと思っていたけれど、どうやら余計なお世話のようね。」

 「オイ、どういう事だ。真逆(まさか)、見たのか。人間狩りを。母さんが襲われるのを。」

 「見たわよ、鉄郎・・・・・・貴方と一緒に。」

 「俺と?過去に戻ってか。」

 「そうよ。憑き物が鉄郎の情念に感応したようね。」

 「好い加減な事を()かしてんじゃねえぞ。竜頭、もっとちゃんと判る様に説明しろ。」

 「時間城に来れば何もかも明らかになるわ。(ただ)し、其れ相応の覚悟が出来ていればの話よ。其処まで来たら後ろを振り返る事すら命懸け。真実なんて物を期待しているのなら、聞かなかった事にしておきなさい。此の宇宙の何処をどう探した処で、真実なんて呼べる様な代物は見付かりっこ無いわ。唯、在るが儘の事実が横たわっているだけ。どんなに遠くまで辿り着けても、真新しい物なんて何一つ無い。旅とは己の内面を巡る、()ざされた回廊でしか無いわ。」

 何を墨守(ぼくしゅ)しているのか。銀河鉄道財団が誇る要害の陰に再び覆われた母の行方。匹夫(ひっぷ)の勇を(たしな)める(しず)かな語り口が纏う畏迫に生き肝を掴まれ、鉄郎は芯を突いて畳み掛ける二の句が泳いだ。

 「竜頭、御前は本当に機械伯爵に仕えているのか?」

 「()う言う事に為っているらしいわね、世間では。私が時間城に出入り出来る限られた一人で在る事は確かよ。利権のブラックホールの様な処だから濁った色眼鏡で見られる事には慣れてるわ。実際には仕えていると言うより、囲われていると言った方が良いのにね。私の力を他人に利用されない為に。」

 「其れじゃあ、今も伯爵の監視下に在るのか。」

 「時間軸は別にして、何処に居るのか位は把握はしてる筈よ。でもね鉄郎、勘違いし無いで。夷狄(いてき)にも君在り。飼い主を失った犬は狼と変わら無い。四六時中喪に服している彼の女の様にね。其処には本当の自由なんて無い。人は無制限な世界や、圧倒的な力の支配から逃れる事を自由と錯覚しているわ。本当に掛け替えの無い自由と言うのは、逃れる事の出来無い限界や、心に決めた主従の中にこそ在るものよ。闇の中で煌めく黒耀石の様にね。伯爵の便利な道具になるつもりは無いけど、私を必要として束縛している事自体は満更じゃ無いわ。」

 「でも、竜頭の記憶が定期的にリセットするのにしたって、彼の青侍(あおざむらい)が仕込んでるんじゃねえのかよ。」

 「アラ、良く後存知で。取り憑かれている間に、そんな事まで打ち明けたの?此の口が。フフッ、余程人恋しいのね。」

 竜頭は初めて蒼好(そうごう)を崩し、人差し指の第二関節で(たしな)みを欠いた唇を戒めると、座席の肘掛けの上に腰を下ろして、人工被膜の剥落した乗客の頭部に燈會を翳し、

 「知らない方が良い過去が在る事位、察しが付いてるわ。伯爵も私の出自について触れる素振りも見せないし。(いか)つい顔をしてるけど、ああ見えて気遣いの人なのよ。」

 昔遊んだ着せ替え人形を愛でる様に、埃を被った遺骸の植毛をしっとりと撫で付けながら、ピースの足り無いジグソーパズルに眼を伏せた。

 「過去がどう在れ、浮世の果ては皆小町なり。躰を機械化して寿命を延ばした処で、時を計るスケールが変わるだけ。何時かは総てを失って、其処で初めて(うつ)ろう時の本質と、限り有る世界の意図を知るのよ。そして、

 

 

     ながらへばまたこの頃やしのばれん

        ()しと見し世ぞ今は恋しき

 

 

 満ち足りた記憶の冗漫より寧ろ、不義不遇に暮れた悲哀の透度に心を浸し、(あら)われる。其処には機械も人間も無いわ。」

 銀河の真砂(まさご)を数え尽くした竜頭の悟得。鉄郎は有り余る若さを無為に過ごした地球への郷愁を衝かれて面映(おもは)ゆく、其れを誤魔化す様にガチガチに握り込んでいた戦士の銃から指を解き、ホルスターに捻じ込んだ。

 「鉄郎、重合体の磁縛は解けたわ。999に戻って幹線軌道へ復旧の手配をなさい。」

 「竜頭はどうするんだ。(かえ)る脚は有るのかい。此の列車はもう動か無いだろう。良いのかよ。先に行って。」

 「良いのよ、鉄郎。人に先を譲る。其れが本当の近道よ。道に迷った時は特にね。私には此処で乗客を(とむら)う義務が有るわ。元々、抹香臭(まっこうくさ)仏弄(ほとけいじ)りが御似合いなのよ。メーテルが999で待ってるわ。早く行って上げなさい。」

 「フンッ、あんなゴキブリみてえにドス黒い、ゴッキーナ。どうせ今頃、ラウンジに踏ん反り返って、金玉の皺でも伸ばしてんだろ。幾らでも待たしておけば良いんだよ。」

 「鉄郎、何故メーテルが狐の塚を踏んだ物狂いの様に心を荒げるのか考えた事は在るの?私だって好き好んでこんな地獄巡りを続けている訳じゃ無いわ。鉄郎だって()うでしょ。本当に自ら進んで999に乗車したの?貴方は今、望み通りの旅を続けているの?メーテルの物狂いは鉄郎を映す鏡なのよ。他人の欠点を愛せない者は自分自身を愛する事が出来無いわ。他人の欠点を理解出来無い者は自分自身を理解する事も出来無いわ。」

 瞬き一つで星の生き死にをも裁く竜頭の三白眼が、子を想う母の気持ちを代弁する様に憂いを帯びて潤み、鉄郎の軽口を包み込む。

「メーテルを護るのが貴方の仕事よ。鉄郎にしか出来無い仕事なの。私にも其れが何故だかは判ら無い。でも、999に乗車すると云う事は然う云う事なの。貴方は機械伯爵に選ばれた。恐らく、メーテルを護る理由も時間城に来れば判る筈だわ。」

 「ケッ、何奴も此奴も彼の馬鹿を俺に押し付けやがって。」

 教え(さと)す様に謎を仄めかす竜頭の優しさに耐え切れず、鉄郎は座席に仰臥した遺骸を飛び越え、枠の外れた車窓に片足を掛けた。再び始まる無限軌道への第一歩。新しい星を探す旅の続きへと舵を切る。筈が、999の車内を皓々と照らし出す乳黄色の白熱灯が、燈會で点しただけの遺跡化した遭難車輌に居残る竜頭の隻影を浮き彫りにして、鉄郎の足を止めた。振り返る事も出来ず、屈み込んだ(まま)で固まる褐色(かちいろ)の乗馬服。其の掠れたオイルドコットンを羽織る伸び盛りの背中に、竜頭がそっと(こと)()を添えた。

 

 

むすぶ手の(しづく)に濁る山の井の

       ()かでも人に別れぬるかな

 

 

 此の口で汚すのを躊躇(ためら)う程に透き徹った、珠を解いて流れる銀河の岩清水。心の(ひだ)を滴る其の精寂が告げる、新しい出会いの為の一区切り。鉄郎は時の(やすり)で研ぎ上げた晶句に見合う言葉が見付からず、何も返せる物が無い空っぽな自分の後腐れに、

 「達者でな。」

 と後塵を蹴立て、999に乗り込んだ。

 

 

 

 「アラ、早かったわね。もう片付いたの?あんな網に掛かった海鼠(なまこ)の様な女、良く手懐(てなづ)けたわね。」

 機関室に向かう途中、避けては通れぬラウンジで、案の定、茶菓を抓んで寛ぎながら鬼の関所が待ち構えていた。足萎(あしな)えの斜肢跛行(しゃしはこう)を付け回し、後ろから(つぶて)を投げるに等しい心無き児戯。どんな冷やかしを浴びようと鹿十(しかと)で素通りと決め込む鉄郎の堅脚に、老獪な鞭捌きが絡み付く。

 「どうしたの?栄螺(さざえ)の蓋じゃ有るまいし。彼の生娘(きむすめ)の干し(あわび)に止めを刺してきたんでしょ。蒲魚振(かまととぶ)って無いで吐きなさいよ。其れとも、漢の身竿(みさお)を降ろす勇気が無くて逃げ出してきたとか、そんな真逆(まさか)ね。」

 総革張りのウィングバックチェアに蛇蝎(だかつ)の如く()()り、蠱毒(こどく)の限りを尽くすメーテルの粘着執。相手にしたら負け。()うと判ってはいるのに、喰い縛った筈の奥歯が火語に弾けて、

 「便女は引っ込んでろ。」

 茶器の花咲く茶盤に添えられた、五代の青磁輪花皿に切り分けられて鎮座する茶餅(さべい)の塊を鉄郎は鷲掴み、メーテルの睫毛スレスレに強化硝子で遮られた星空へ叩き付けた。

 ラウンジを抜けて次の車輌に乗り込み、総ての元凶が視界の外に消え去っても鉄郎の苛立ちは治まらず、メーテルを護るのが鉄郎の仕事と諭した竜頭の言葉が渦を巻く。()りに()って、あんなパンツの穴を何故俺が。稲妻を素手で捕まえる。そんな事が出来る位なら、始めから母さんを機賊に奪われる事もなければ、同族に蓑虫呼ばわりされる事も無い。鉄郎は怒りに任せて薙ぎ倒す様に立ち塞がるドアを開け、無駆動の鎮まり返った客車を破れかぶれに突進した。再び始まる無限軌道と銘打った監獄列車の護衛輸送。相席の黒猫と向かい合わせで仕切り直す永遠の我慢較べ。こんな事なら遭難列車に舞い戻り、乗客の供養をしていた方が、と頭を過ぎった途端に炭水車を抜け、鉄郎は機関室に飛び込んだ。

 「嗚呼、鉄郎様、良くぞ御無事で。」

 運転台から交換機を介して合成義脳と遣り取りをしていた車掌が振り返ると、機関室はボイラーの予熱で既に沸き上がっていた。各バルブの圧力ゲージが舌の上で転がすアイドリング。マングローブの様な配管を枝分かれして伝う鈍色の脈動。内壁を()ぜる火力に呵呵(かか)として(つがい)を鳴らす焚口戸。中央管理局への応信と、パフォーマンスモニターの各数値の羅列を、粛々と棒読みする合成義脳。復旧の目途は付いている。自分が口を挟む余地は無い。と鉄郎が察した其の時、交換機のマイクを憚りながら車掌が神妙に切り出した。

 「鉄郎様、776の遭難は矢張り、竜頭様が。」

 「車掌さん、竜頭の事を知ってるのかい。そうなんだ、竜頭が、でも、車掌さん、聞いてくれ。竜頭は決して・・・・。」

 「御推察致します。鉄郎様。」

 車掌は機先を制し、制帽の鍔の奥に湛えた二つの黄芒を和ませて、竜頭の人品は心得ていると言わんばかりに鉄郎の懸念を包み込むと、形式を超えた最敬礼を献じて其の労を(ねがら)った。

 「本来、事故の復旧は私共乗務員の務めで御座います。其れを此の度は、大切な御客様で在る鉄郎様の御尽力に頼る結果となって終い、誠に面目次第も御座いません。」

 下げた頭一つで総てを被る車掌の温義に救われて、恐縮した鉄郎はデッキの外で999と肩を並べる遭難車輌に眼を逸らした。

 「別に俺は何の役にも立っちゃい無いよ。竜頭が体を張って999を護ってくれた御陰さ。其れよりも車掌さん、此から遅れた分を取り戻すのが大変なんじゃないの。」

 「鉄郎様、其の御心配には及びません。竜頭様が999の運行時刻のみを脱線する前の状態に戻して下さっております。竜頭様の事を悪く仰有(おっしゃ)る方は御座いません。万が一、悪く仰有る方が居られたら、其の口が悪いので御座いましょう。」

 「成る程ね、ラウンジで茶托を突ついてる、飛べ無い(からす)のヒステリーの事か。」

 「鉄郎様、車内の風紀良俗を護るのも私の務めで御座います。譬へ多意は無いとは申しましても過言は禁物。御慎み下さい。」

 (おもて)を上げたブレザーの金釦(きんぼたん)が煌めき、車掌が真鍮製の警笛を取り出すと、車内放送のマイクを片手に復旧作業と発車準備の完了をアナウンスした。時の旅人の粋な計らい。些々(ささ)やかな陰徳陽報に一息吐くシリンダードレインの健顎(けんがく)。時が満ち、沸沸と紅潮する火室の燃焼曲線が、(かじか)む星屑の(みぞれ)の中で一基の篝火(かがりび)を起こした様に、勇を孤している。茹で上がったボイラーの胴管が灼ける臭いを、更に炙り立てる焦気の陽炎(かげろう)。安全弁を(くゆ)らせて喝喝(かつかつ)(いき)り立つ蒸気ドームの鯨背が、脊椎から尾骨へと波を打つ。精工舎の懐中時計を一瞥した車掌が、機関室の窓枠から身を乗り出すと、最後尾から進行方向へと下弦の弧を描いて振り放った白手袋の人差し指が、光を争う綺羅星の中から()りすぐられた一点を捉え、栄職の気概を装填した渾身の警笛が、黒鉄(くろがね)の土手っ腹を駆け抜ける。

 「出発信号、進行現示。出発信号、進行現示。999号、発車します。」

 合成義脳の御株を奪い、機関士気取りで天河に轟く一世一呼の大号令。顱頂(ろちょう)(つんざ)く歓喜の長緩汽笛に、精勤貫徹の使命を吹き込まれた不屈のドラフト。メインロッドを(から)げて繰り出す弩級(どきゅう)の一歩が軌道外の座礁宙域を踏み(しだ)き、客車から客車へと牽引する連結器の鉤爪が軋みを上げて、鋼顔の十一輌編成が悠然と匍匐(ほふく)し始めた。其の矢先に、

 「嗚呼、メーテル様に出発の御報告をしておりませんでした。」

 窓枠に肘を掛けて悦に入っていた車掌が血相を変えて振り返り、炭水車の中に慌てて駆け込んだ。車掌の狂奔と入れ違いに、999の後方へ引き離されていくGL-776の朽ち果てた車輌。虎口を脱する安堵の片隅で、今も独り闇に呑まれた乗客を見守る、竜頭の提げた燈會の火影(ほかげ)が鉄郎の吐胸に瞬いている。流線型の最新鋭機から幽体離脱の如く擦り抜けていく時代錯誤の蒸気機関車。遭難車輌の亡骸から乗り換え昇魄(しょうはく)する銀河の方舟。大動輪を掻き消す激蒸で捲れ上がったランボードが幹線軌道へと旋回し、精悍無比な駆動力がオープンデッキの縞鋼板(しまこうはん)を衝き上げる。鉄郎は進行方向に背を向けて運転台に座り、逆転機に背を(もた)れて窓外に眼を転じた。猪首(いくび)の突管から立ち昇る墨痕逞しき煤煙の怒咳流(どせきりゅう)が、追い縋る重力と遭難車輌を呑み尽くし、疾黒の超特柩は平常の運行スケジュールへと加速していく。玉手箱を紐解かれて後塵に紛れる、見当識を脱線した幻想譚。天架(あまか)ける鉄路の行き摺りに、鉄郎は又一つ奇想な夢を見た。

 行き交う星の営みは絶えずして、幾千光年を一夜に数える天涯の孤客。(かち)を競う己の影も宵に紛れて、帰する処は又、独り(なり)。寄る辺無き人恋しさに不図(ふと)、崩れた貨車の荷に肩を借かし、千筋(ちすじ)に乱れた五百機(いほはた)の糸を解いては何事も告げず、雨の宿りの玉響(たまゆら)に袖を擦り合う、世を空蝉(うつせみ)唐衣(からころも)。伏した仮面の僅かな節穴から覗く人の(わだち)、満目の天景は唯、心に在り。思うに任せず(たが)えた路も時として先達(せんだつ)の水先。寒山の(さび)れた葛折(つづれお)りは無為に過ごした日々の曲折。寄り添う様に滲み入る夜気に、尾羽打ち枯らした悔悟が(すす)がれて清々しく、(つまづ)いた石の礫に願を掛け、又懲りもせず痩骨に鞭を打つ。(しづ)の眼を忍び、チャドルの裾で因果の鎖を引き擦る禹歩(うほ)の爪音。時の真砂(まさご)を手に掬い、降り注ぐ夭星(ようせい)の遺灰を、地の塩と()して踏み固め、後一つ後一つと数えて九十九(つくも)を巡る百宙夜。萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。

 竜頭の身、(ひと)つを靈媒(れいばい)に幕を開けた幽玄泡影の夢芝居。打ち(くだ)かれた砂時計を裸足で渡るヒロインに魅入られた束の閒の永遠。鉄郞(てつらう)は紙吹雪の積もつた追憶の肩に腕を回し、遠離(とほざか)る哥枕の獨片(ひとひら)に唇を添へ、

 

 

     瀨を早み岩にせかるる瀧川の

       割れても末に會はむとぞ思ふ

 

 

 時閒城での再会、逃れ得ぬ運命の豫感(よかん)と密約を交はした。瀑煙の霏霺(たなび)く光脚に海松色(みるいろ)のドレープが(ひるがへ)り、幕を降ろすオーロラのチャドル。時の(すみか)を後にして、星()ける銀濫の海神(わだつみ)へと繰り出す無限軌道。胸を(とも)澪標(みをつくし)(ほの)かに謎めき、數佰萬光年先で待つ何物かを目指して壹輪の光蔭が馳せる。(まばた)(たび)佰代(はくたい)を擦過する莫大な天望。炭酸の彈けるが如き壹顆粒粒の小宇宙に、鉄郞は時空の尺度を見失ふ。昔、男在りけり、と語られた處で、所詮は浮世の果ての果て。卒塔婆を杖に黃泉復(よみがへ)(わけ)で無し。盛年、重ねて來たらず。壹日(いちじつ)再び(あした)なり難し。いざ、渾是膽塊、伍尺の少身。紅顏霜鬢の石火を散らし、衆星の壹等を期す。(よし)んば、嶮路(けんろ)(あまね)く壹寸先の客死に足を()られやうとも旅の本懷。

 

 

   勸君莫惜金縷衣  君に(すす)む 惜しむ(なか)れ 金縷(きんる)の衣

   勸君惜取少年時  君に勸む (すべか)らく惜しむべし 少年の時

   花開堪折直須折  花開き折るに堪へなば 直ちに須らく折るべし

   莫待無花空折枝  花無きを待ちて 空しく枝を折ること莫れ

 

 

 軌條(きでう)の結露に映える天象の壹滴(いつてき)にして星星朗朗(せいせいらうらう)。行く路の(かた)きは、水に在らず、山に在らず。()だ淺智反覆の(かん)に在り。針路を塞ぎ身に迫る凶事も、總ては迷鏡恣水の照り返し。()して若氣(じやくき)に逸る鉄郞の心模樣、豈圖(あにはか)らんや。壹刀絕筆(いつたうぜつぴつ)を振り翳し、空想彩色で毆り描く、()ても蠱惑(こわく)な、電網佰畸(でんまうひやくき)夜行繪卷(やかうえまき)。果たして相成るや如何(いか)に。其れは()た、次囘の講釋で。


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