銀河鉄道 " 令和999 "   作:tsunagi

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#6 時間城の海賊

 

    客車寒燈獨不眠   客車の寒燈(かんとう) (ひと)不眠(ねむらず)

    客心何事轉凄然   客心(かくしん) 何事(なにごと)ぞ ()凄然(せいぜん)

 

 

 決して明ける事の無い星空に、旧世紀の幻影を連ねる急行スハ43系の悄然とした窓列がストロボ写真の様に明滅し、時辰儀の錆び付いた針を追い越して、乗り遅れた列車を待ち続ける、在りし日のプラットホームを通過していく。居る筈の無い見送りの声に耳を澄まし、冴え切った赭視(しゃし)屡叩(しばた)いて思わず闇を振り返る、開け放たれた最後尾の展望デッキ。手摺りに()れた孤狼の頭上を、猪首の突管から怒髪する烽火(のろし)(はため)き、情理を絶した閑天に焦唇(しょうしん)を濁し、噛み締めた言葉が後塵に呑まれていく。姿無き宙域管制信号に呼応して吹き(すさ)ぶ長緩汽笛。永遠の循環小数かと見紛う茫漠の彼方にピリオドが()たれ、鉄郎は999が亜空間走行から切り替わったのを察知した。鋳鋼(ちゅうこう)台車の羽撥条(はばね)を介しデッキの縞鋼板を突き上げる鼓動が、五拍子から四拍子へと転拍(てんびょう)して在来軌道への合流を告げると、フタル酸の錆止めで分厚く塗り重ねられた手摺りの笠木に腰を掛け、軍勝色(ぐんかっしょく)のBarbourが身を乗り出した。

 シリンダードレインの白瀑を蹴立てる剛脚の進行方向に、次の停車駅と思しき星彩は未だ目視出来無い。当該惑星所轄の重力下で制動体勢に入っている筈だが、999は何処へ向かっているのか。(いぶか)しむ鉄郎の背後で、トライアンフのトゥーチップがデッキの鋼目に爪を立てた。

 「鉄郎様、此処に居らっしゃいましたか。」

 厚みの有る短軀に(まと)った紺碧のダブル。山吹のパイピングに沿って配した金釦(きんぼたん)が車内の戸漏(こも)れ灯を浴びて煌めき、白手袋の拳で軽く咳払いを治めると、車掌は姿勢を(ただ)して鉄郎に正対した。

 「間も無く次の停車駅に到着致します。次の停車駅は惑星ヘビーメルダー。停車時間は一週間と24分で御座います。御降車の準備を整え、今暫く御待ち下さいます様、御願い申し上げます。」

 慇懃に腰を折る判を押した車掌の恭順に、鉄郎は手摺りに箱乗りの儘、再び黒鉄の魔神が突進する進路の先に眼路を飛ばした。

 「でも、車掌さん、其れらしい星は見え無いよ。次の星は小惑星か何かなのかい。」

 「鉄郎様、次の停車駅は目前に迫っております。今一度、注意して御覧下さい。」

 車掌に促されて良く見ると、満天の星屑の中心に風穴を空けた様なドス黒い円環に向かって、十一輛編成の車列は吸い寄せられていた。周囲の星々を浸蝕する様にジリジリと拡がっていく、塗り潰された宙空の闇虚(あんきょ)。光速でも脱出不能な重力の特異点に落ち窪んで空間が湾曲している様子も無く、粛々と満ちていく黒點(こくてん)に、宇宙酔いを克服した筈の鉄郎も流石に吐き気を覚えた。彼が惑星?月の裏側の様な絶望的な欠落を(みつ)めて氷結している鉄郎と、掛ける言葉も無く立ち尽くす車掌。其の固太りなブレザーの無防備な背筋に、何時もの娟悪(けんあく)な嘲りが忍び寄ってくる。

 「何を勿体振っているの。此の茶坊主に教えて上げなさいよ。次の停車駅に御待ち兼ねのトレーダー分岐点が在るって事を。」

 賢しらな露西亜帽を傾げて揺らめく暗澹たる幽鬼の出没。女滝(めだき)の如き鳳髪を掻き上げ、片頬を歪めた蠱惑(こわく)(えくぼ)に悪意が渦巻いている。葬麗な黒装束に身を包んだ奇想の令嬢。相も変わらぬ豪奢な起ち居振る舞いに、鉄郎は一瞥も呉れず吐き気を催す黒點を睨み付けた。

 「鉄郎様、メーテル様から御話は伺っております。次の停車駅の惑星ヘビーメルダーにトレーダー分岐点が御座います。有らゆる空間軌道が一点に集まる宇宙の大分岐点で御座います。」

 気の進まぬ体で話を切り出す車掌に、仏頂面を背けたまま問い質す鉄郎。

 「じゃあ、其処に時間城が在るのかい。」

 「鉄郎様、トレーダー分岐点とは飽く迄も惑星ヘビーメルダーのターミナル駅の事で御座います。其れ以上の物でも其れ以下の物でも御座いません。」

 「じゃあ、ファクトヘイヴンとか時間城とかってのは何処に在るんだよ。」

 「鉄郎様、誠に申し訳御座いませんが、銀河鉄道株式会社の運行業務、並びに車輌、駅舎等の鉄道設備以外の事を尋ねられましても、私は御答えする立場に御座いません。私は此で失礼させて頂きます。」

 一礼を為て去って行く車掌の杓子定規な態度を間接視野で追い乍ら、鉄郎は黒點の吐き気を遙かに凌ぐ虫酸で喉笛を掻き毟った。銀河鉄道株式会社の依頼でエメラルダスが火星に向かうのを知ってい乍ら車掌は隠していた。嘘は云わ無い。だが、本当の事はもっと云わ無い。其れが此奴らの遣り方だ。欲望剥き出しで喰って掛かり、奪い合う貧民窟の連中の方が余程正直だ。(とど)の詰まりは身無し子の独り旅。今更、裏切られたも糞も無い。

 

 

      (つひ)に行く道とはかねて聞きしかど

         きのふけふとは思はざりしを

 

 

 此の日の為に乗り込んだ夢の超特急。併し、無限軌道の剛脚に獅噛憑(しがみつ)き、振り落とされぬ事に精一杯で、本当に此処まで辿り着けるとは思ってもい無かった。数奇な道程(みちのり)とは裏腹に唐突な運命の宣告。地殻の崩壊した地球の天変地異や機賊の気紛れな人間狩りの様に、狼は突然遣って来る。己の命や損得に目移りして、乗り遅れた列車に乗る事は出来無い。彼の日、拝した後塵に今、漸く追い付く事が出来たのだとしたら、もう何も迷う事は無い。白魔に呑まれ己の生きる意味さえ見失った彼の夜。死ぬ事すら出来無かった孤兵の、死に場所を探す旅の終着駅に停車時間なぞ関係無い。母に会いたければ時間城に来いと機械伯爵は確かに云った。漢の約束に証文なぞ無用。其の言葉が本当なら、其処には必ず何かが在る。煮え滾る(かなへ)の如き彼の豪傑だ。牛の小便の様な嘘を垂れ流す筈が無い。刺し違える覚悟は出来ている。其れでも、

 鉄郎は頬に刺さるメーテルの蔑視を突っ撥ねて、時間城は何処に在るのか吐きやがれ、と掴み掛かりたい衝動を堪えた。此の女は総てを知っている。其の上で、俺が破滅するのを楽しんでいる。頭を下げる等、有り得無い。夢だった乗車券にしても呉れると言うから貰って遣った迄の事。機械伯爵とケリが付く迄999に戻るつもりは無い。発車時刻を過ぎようが、俺にはもう乗り遅れて困る列車なんて何処にも無い。去りたければ去れ。総てが片付いたら次は火星だ。何う遣って向かうのか何て知った事か。

 第一義で在る母の生死を直視出来無い鉄郎は、己の惰弱を誤魔化す為、声無き声を吠え立てる。其の荒魂(あらたま)を鎮める様に、

 「手ぶらで戻る気なんて無いんでしょ。其の星で一生彷徨(さまよ)い続ける覚悟が無ければ、時間城には辿り着けないわ。此はママの分よ。御守り代わりに持って行きなさい。」

 馥郁(ふくいく)とした香貴が閃き、ウォバッシュ・ベストの胸ポケットに、何かがそっと差し込まれた。

 

 

      たらちしの母の裳裾(もすそ)に顏を伏し

          泣きし心を忘らえぬかも

 

 

 母の外套が剥ぎ取られていた血の池と999の突進する黒點が重なり、ブリザードの砲吼が襟足を駆け抜ける。照明弾の如きフラッシュバックに鉄郎は箱乗りの笠木からズリ落ち、デッキに架かる屋根の柱に(すが)り付くと、

 「ま(さき)く有らば。」

 ()う言い残して立ち去るメーテルの何時に無く愁いを帯びた横顔が、一瞬、母の励ましに見えて終う。柱にブラ下がったまま胸元に手を遣ると、コードバンのパスケースに無記名のアンドロメダ行き乗車券。友達と文庫本を貸し借りする様に渡された、車外の星明かりを反射して虹む999のホログラムに鉄郎の吐き気は屈辱に(まみ)れ、其の余りの気軽さに人の命を粗末に遣り取りしている者達の傲慢を垣間見て、星間航路に夢を描いていた浅はかさを恥じた。夢にまで見た乗車券が今、胸ポケットと内ポケットに一枚ずつ。其れなのに、もう彼の頃の自分じゃ無い。開け放たれた扉からは車内で控えていた車掌の声が聞こえてくる。鉄郎はデッキの上に降り立ち、車内の戸洩れ灯に背を向けて、手摺りの笠木に再び両肘を突いた。

 「メーテル様、御公務の御準備が整っております。」

 「公務は発車時刻迄に済ませれば良い筈よ。私も此の星で降りるわ。後回しにして。」

 「併し、メーテル様・・・・。」

 「後回しよ。」

 「(かしこ)まりました。」

 何もかも別世界の出来事だ。彼奴らは彼奴ら俺は俺だ。遠離(とほざか)っていくピンヒールの点刻を数え乍ら、宇宙の終わりが差し迫る様に粛然と拡がっていく奥行きの無い暗礁に肩を竦める鉄郎。今は唯、惑星に降り立った後の事だけを考えれば良い。改札を抜けたら、もう二度と会う事も無い。然う考えた方が気が楽だ。其れにしても、

 通常、外気圏を嘗める様に惑星の周回軌道に乗り、大気圏にアプローチしていく筈の999が、膨張し続ける冥府の核心に向かって垂直に盲進している。漆黒の大気に包まれているのかと眼を凝らしても、黯然(あんぜん)とした空漠の表面には気流や成層雲らしき(うね)りや波間処か、何らかの物質に反射する光子の欠片すら確認出来無い。惑星ヘビーメルダー?こんな物を天体と呼べるのか。視界を覆い尽くすパースの崩壊したベタ塗りの怪域に鉄郎は後退り、形振り構わず車内に駆け込むと同時に並列する車窓が一気に暗転し、無限軌道を()ぜる駆動音迄もが一瞬で遮絶した。大気に突入する衝撃波と気圧変動も無ければ、断熱圧縮に因る発光も気体のプラズマ化も無い、無明無音の絶界。幾ら無限軌道の透過隔壁で護られているとは云っても、滑空せずに垂直落下しているのだ。窓ガラスがビビる位の事は在って良さそうな物を。機関車の動力が停止し、予備のバッテリーに切り替わった様に寞然(ばくぜん)とした車内。と云う以前に、走行も滑落もせず時の流れ迄もが途切れて、此処では無い何処かに放置された、麻痺をする感覚すら無い完全に虚脱した洞穴。まるで、客車の内面だけが密封されて、其れ以外の世界は車体の外殻すら存在し無いかの様な次元の狭間。一体、外は何う為っているのか。入り交じる戦慄と好奇が転倒し、鉄郎が発作的に車窓の縁に手を掛け開けようとした。其の瞬間、左右の鼓膜を貫く気圧と音圧が、強化硝子に張り巡らされていた虚無を剥ぎ取り、眼下の眺望を暴き立てた。

 廃液を揺蕩(たゆた)う油膜の煌めき様な都市灯りが点在する漆黒の大地。地平線の輪郭は闇に溶け出し、陰湿な夜景を鈍色(にびいろ)に反射する、鉛を塗した様な切れ目の無い雲が蒙蒙(もうもう)と垂れ籠めている。一目見て杜撰な大気と土壌制御。此では人工太陽なぞ意味を為さぬのだろう。テラフォーミングを放棄した星間物流の要衝で在り、開拓熱量の排積地。一枚の暗幕を挟み唐突に場面が切り替わっただけで、大気圏をパスした実感の全く無い、汚泥の如き闇の沈殿した途方も無い鳥瞰図に鉄郎は瞳を零し、此の星の何処かで母が待っているのだと無理矢理言い聞かせる。時間城とはメガロポリスに類するナノ複合建材の奢侈絢爛な摩天楼なのか。其れとも、此の絶望的な闇に紛れた迷装要塞の魔窟なのか。一週間と云うタイムリミットなぞ有って無きが如き膨大なパノラマ。僅かな可能性に賭けるしか無い気の遠くなる使命を前にして、先ず何から取り掛かれば良いのか見当も付かぬ鉄郎の揺れ惑う心の焦点を、不意に、一粒の紅点が撃ち抜き、窓硝子に砕けて一筋の垂線が(したた)り落ちる。白魔の夜に母の流した血の涙。そんな真逆(まさか)、と思う間も無く、(おびただ)しい紅斑(こうはん)が鉄郎の記憶の扉を叩いて伝染し、赤銅色の驟雨(しゅうう)が窓外を塗り潰すと、理科の実験室を逆さにした複雑な有機化合物の皮膚を侵す刺激臭が車内に滲み込んでくる。地球の管理区域外に降る雨も黒濁していたが、此奴は酸化鉄の粉塵や有害投棄物の断末魔なんて云う生易しい物では無い。(もっと)も、放射性濃度が基準値を超えていれば機関室がアラートを発している筈で、入植する前の大気は此の程度では済ま無かったのだから、開拓民の成仏し切れぬ血と汗の彷徨と云った処か。垂れ籠める毒素に反応して(しず)かに瘴気(しょうき)を振り払うBarbourの空調ファン。鉄郎の焦慮を慰めるのは頬を浚う其の律儀な旋風だけだった。

 不養土に群棲したプラントの光害を浴びて黒鉄の魔神が煌めき、(ひし)めく煙突の原生林から立ち昇る煤煙を、999の放咳(ほうがい)する瀑煙とシリレンダードレインが斜めに限り、凱旋を告げる長緩汽笛が耐熱塗料とモリブデングリスで塗り固めた極夜を巡航高度から滑空する。航空障害灯が燃え盛る鉄塔群と入り乱れる対抗車輌を擦り抜け乍ら、誘導電波を嗅ぎ分けアプローチする機関室。赤銅色に濡れ(そぼ)つ鉄筋コンクリートと波形スレートが折り重なるモザイクの中枢に、増築を繰り返した蟻塚の如き本丸が見えてきた。開拓の歴史と現在の在り様、然して其の末路迄を網羅し体現する()いで()いだ此の星の玄関口。先を争い発着する引きも切らさぬ貨物の編隊が、刺胞動物の触手の様に霏霺(たなび)く重層構造のプラットホームへ、十一輛編成の尊大なグラインドスロープの稜線が、我が物顔で流れ込んでいく。

 過積載のコンテナに襲い掛かる巨人の隻腕がグラブバケットの鉤爪で鉱石を()み、ガントリークレーンの膂力を擁して頭上を交差する蹴汰魂しい構内。無線のワゴンカートと甲脚の複合フォークリフトが走路を奪い合うプラットホームには旅情の欠片も無く、駅舎自体がプラントと連結しているのか、プラントの中に駅舎が在るのか、焼却炉から吐き出された飛灰やスラグがピットへと雪崩れ落ちる粉塵で、Barbourの空調ファンは休む暇が無い。隣のホームの番手も電光掲示も霞んで深呼吸の一つも(ろく)に出来無い打ちっ放しの鉄火場に降り立った鉄郎は、煙幕の向こうに消えていくメーテルの喪身を一瞥しただけで眼路を切ると、乗降デッキに立ち尽くしている紺碧のブレザーを睨み付けた。

 今から車掌の働く会社のオーナーに喧嘩を売りに行くと云うのに、此が最後の見送りかも知れぬのかと思うと、景気付けの捨て台詞が湿気(しけ)って喉に支えて終う。何時もなら御主人の安否に(かま)けて、鉄郎の事なぞ二の次三の次の車掌が、制帽の鍔の奥に(ひそ)黄眸(こうぼう)の輝度を落とし、神妙な足取りでホームに降りてきた。

 「鉄郎様、ヘビーメルダーは物流機能に特化したターミナル惑星で御座いまして、プラットホーム数、乗り入れる路線数、発着数、並びに貨物量で肩を並べる停車駅は御座いません。従いまして、駅舎の規模も銀河鉄道路線内で最大を誇っており、様々な施設が整ってはいるのですが、入植している事業体の機密が輻輳(ふくそう)しておりまして、一般の乗客が駅の構外に出るには惑星総督府からの特別許可が必要で御座います。幸い、999の乗車券を提示すれば駅の構外に出る事は可能なのでは御座いますが、ヘビーメルダーは別名、鉱星ノリリスクとも呼ばれている、希少価値の高い鉱床で覆われた惑星でも御座いまして、採掘や製錬に伴って発生する莫大な重金属の廃棄物や放射性物質が未処理のまま放置されており、大気制御が行き届いておりません。其の為、駅周辺の市街地や準工業地帯から激甚工業地帯、鉱毒指定区域、及び管理区域外に出る場合は、機械化の有無に係わらず、耐放射性のタイペックスとマスクの着用が義務付けられております。どうぞ此方(こちら)を御持参頂きますよう御願い申し上げます。」

 ハザードマークが変身ベルトの様にプリントされているウエストポーチを渡されて、裏面の緻密な注意事項に眉を顰める鉄郎。其の稚気を優しく()で乍ら、車掌は踵を揃えて襟を正し、強張る語気を振り絞った。

 「鉄郎様、御気を付けて御出掛け下さいませ、何うか御無事で戻られますよう、心より御祈り申し上げます。

 

 

     昔來君如僕  昔來たる時 (きみ) (しもべ)の如し

     今見僕如君  今見たれば (しもべ) (くん)の如し

 

 

 一乗務員で在る私が差し出がましい口を挟む立場には御座いませんが、鉄郎様の御成長には眼を見張る物が御座います。鉄郎様ならば必ずや御本懐を遂げられる物と信じております。」

 感極まり制帽の鍔に手を掛け瞳を伏した車掌の熱い激励に、鉄郎は独りで勝手に(いき)り立ち、周りが見え無くなっている事に気付かされた。こんな事では捜し物が眼の前に落ちていたとしても素通りして終う。弾の無い銃を渡され、断じて行えば鬼神も(これ)()く、の一言で送り出された最初の停車駅。気が付けばBarbourの袖丈も身の丈に馴染み、着丈もBEAUFORTからBEDAELへと切り詰めて見える。鉄郎は苦笑いを噛み殺し乍らウエストポーチを装着し、左右両胸の乗車券と腰に提げた得物を確認すると、車掌の目深に被った制帽の鍔を中指で弾き上げて息巻いた。

 「オイオイ、車掌さん、見損なってもらっちゃ困るぜ。此の星野鉄郎様に取っちゃあ、母を訪ねて三千光年も朝飯前の吉牛だ。特盛汁ダクで軽く平らげてやらあ。余計な心配をしてる暇が有ったら、何時もの奴を用意して胡座を掻いて待っていな。」

 「ハア?何時ものと申しますと。」

 「此だよ此。」

 鉄郎は水平に伸ばした人差し指と中指を下顎で掻き上げて、麺を(すす)る真似をし、

 「熱熱のを頼むぜ。夜食のメンラーは別腹だからさあ。」

 と火裂(ほざ)いて、()た一つ七面倒臭せえ痩せ我慢、漢の醍醐味を背負い込んだ。

 「(かしこ)まりました。」

 一週間を切った、発車時刻のカウントダウンを告げる車掌、渾身の最敬礼。鉄郎は身に余る厚志に背を向けて、珪鎳(けいニッケル)の鉱石を積載して追い越していくワゴンカートの制御盤に飛び付くと、マイコンの認証端末に乗車券を押し付けて強引に読み込ませ、改札を抜けて駅の構外まで運ぶよう、パスケースを握った拳で怒耶躾(どやしつ)ける。吹き(こぼ)れた粗金(あらがね)(つぶて)を砕いて疾走する快哉(かいさい)。秒単位で乱れ飛ぶ土砂降りの場内アナウンスが頬を打ち、後景に過ぎ去る今、此の時が一瞬の脇見すら許さ無い。旅装を(まと)った乗客を脇へ追い遣る、二十四時間就労で外装の欠損した汎用アンドロイドの百機繚乱。増築に次ぐ増築で辺り構わずH鋼を建付ける躯体のブレース補強工事。粉塵の発火した廃材を取り囲む鉄道機動隊。情報よりも物資が先行して集積する、炭鉱と造船所が正面衝突した様な騒乱を、箱乗りの儘、団体客兼、業務用改札から強引に突破する。此の星の失われた夜空を取り戻す様に、運行状況と路線図のマトリクスが天井一面を燐舞し、乱高下する地金相場のチャートが電網の限りを尽くす中央エントランス。何うやら此の星を発着する時点での換金レートで、鉱石も精製品も取引されているらしい。現価を見極めてホームや駅上空で待機中の貨物は点滅表示されている。成る程、其れでトレーダー分岐点と云う訳か。腑に落ちて復た一つ御利口に成った鉄郎は、巡回ドローンが連呼する警告を付け馬に雑踏を蹴散すワゴンカートを乗り捨てて、駅前のロータリーに駆け出した。

 血の雨は上がった物のシャークソールに粘着する、焦げているのか濡れているのか判然とし無い酸化したアスファルト。ユトリロが廃油と液体ガスケットで描いた様な街並みを、キックボードの様なアンテナ一本の誘導車が無人トラックのキャラバンを引き連れて練り廻し、自掃式のパッカー車が路面に散水し乍ら廃棄物と有害降下物の回収作業に明け暮れ、有りと有らゆる業務車輌が駅構内の喧噪から決壊した様に車線を奪い合っている。見上げれば、冶金(やきん)コンビナートの煙突から立ち昇る煤煙に泥濘(ぬかる)溝黒(どぶぐろ)の闇夜。集合墳墓の如きプラントの燐火でゼラチン質の大気がギラ付き、継続的な設備投資をせずに強引な連続操業を続ける、老落した工業地帯に有り勝ちな、閉塞した疲弊感と溶解した鉱物色素で何もかもが塗り潰された、資源が掘り尽くされる前の地球に舞い戻った様な鉱山都市だ。

 此処に限った事じゃ無い。宇宙開拓事業全域の中でも、観光化や華やかな商業都市化に成功したのは、太陽系近郊の一握りの小惑星内に整備された僅かな区画のみ。情理を介さぬ現実の星空は独り善がりな夢を思い描く為のキャンバスでは無かった。命からがら辿り着いた未登録の入植地でテラフォーミングに明け暮れ、莫大な労力と事故災害の末に宇宙服を脱いで地表活動が出来る処まで漕ぎ着けたとしても、雀の涙程の緑化とインフラの維持に手一杯で都市開発迄は(とて)も手が回らぬ無人島での漂流生活。今考えるとタイタンの爆発的な原生林なぞ奇跡の産物で、管理区域から半歩でも出たら死の世界と云う極限のストレスと恐怖から逃れる様に、地球を見限り宇宙を目指した人々は生身の躰を棄て、苦役を寄せ付けぬ機械に堕していった。大量の資材と人材を投入しても釣り合う収益は上げられ無いと云うのに、意地の張り合いから撤退する事の出来ぬ自転車操業の開拓事業。地球の劣化コピーを中途半端に造っては余所に移って仕切り直すの繰り返し。何処も彼処も停車駅と云う停車駅が此の星の様な体たらくで、有らゆる空間軌道が一点に集まる宇宙の大分岐点と幾ら(のたま)っても、所詮は枯れ木の賑わいだ。

 1gのレアメタルを製錬精製する為には、其の1000000倍以上の体積の廃棄物と放射性残土を掘り起こす必要が有る筈で、そんなマイナスの努力を続ける惑星に機械伯爵が潜り込んでいる理由は何なのか。此の掃き溜めの何処かに時間城が存在するのだとしても、機械伯爵の逗留していた地球の下屋敷ですら異相の裏側に闇居していたのだ、其の居城とも為れば、おいそれと尻尾をブラ下げている訳が無い。試しに乗車券を取り出して999のホログラムを指でスライドし、エアタブレットを起動させて検索しようとしても、時間城とファクトヘイヴンと入力しただけで初期画面に戻って終う。其れだけなら未だしも、現地の情報を確認しようと開いてみたガイドビューの殆どが市街地を除いて墨殺され、此処から目視出来る郊外のプラントすらブラックボックスを被って緘黙している。何から何まで機密に塗れた地図の無い惑星。併し、余りに徹底した墨守は逆に、時間城の影を色濃く際立たせ、鉄郎を無謀な闇へと挑発する。

 取り敢えず何処から探りを入れるべきなのか。広げて眺めるような蒼写真なんて無い。社会主義体制から解放される以前の東欧諸国に匹敵する息苦しいメインストリートを見渡して、鉄郎はチマチマ遣っていたのでは埒が明かぬ事を覚悟した。此の惑星に入植した当時の儘の低層RC建築が肩を寄せ合う、歓楽のカの字も無い軒の連なり。嘆く事すら諦めた老婆の如き躯体のクラックを辿り乍ら小知を振り絞る。疎らな人通りの殆どは機族だ。擦れ違い様の好奇に満ちた侮瞥(ぶべつ)は親身に為って話を聞く体じゃ無い。此の星に機械化してい無い人類のコミュニティは存在するのか。情報を収集するとしたら其処だが、油脂と粉塵で練り固められた被膜をカップワイヤー刷子(ブラシ)で削ぎ落としたショーウインドウを物色しても、食料品は非常食のマルチシリアルが置いて在る位で生身の人間を相手に為ている店は見当たら無い。斯う為ったら最悪、連中の思い上がった眼差しと搗ち合ったら、手当たり次第に締め上げるか。銀河鉄道指定ホテルにチェックインするのは其の後だ。

 鉄郎を珍獣扱いする機畜を睨み返し乍ら歩いていると、辺り構わぬ斬っ先が業務用整備工具問屋の一画に突き刺さった。若しやと思い入店してみると、案の定、マルチクリーナーや多目的塗料を始めとする有機系からコーキング剤に到る迄、様々な溶剤が取り揃えられている。鉄郎は周り先客の舌打ちや危ない角度で積み上がった一斗缶には眼も呉れず、洗浄剤の棚を彩るクリムゾンレッドの化合物をロックオンするや否や、300mlのボトル型のポリ容器に充填された液体ポリッシュに飛び掛かり、成分表すらチラ見せずレジに直行した。其処で()りげ無く、

 「店員さん、買い物(つい)でに一寸良いかなあ。時間城とかファクトヘイヴンとか云う奴が此の星に在るって話しなんだけど、聞いた事有るかい。端末で調べても全然引っ掛かんねえし困ってんだよ。斯う言うのって、何処で調べたら良いのかね。」

 カウンターに肘を突き品物を差し出し乍ら切り出すのだが、機族の店員はセルフレジを顎で(しゃく)り眼を合わせようともし無い。何時も乍ら判り易い連中だ。一見の客とか云う以前に生身の人間など客扱いはし無い。此でも未だ品物を売る気は有るのだから少しは増しな方だ。事と次第に因っては喰って掛かる処だが、此の時ばかりはポリ容器の中で波打つクリムゾンレッドの魔力に急かされて、温和しくセルフレジに品物を持って行く鉄郎。バーコードを読み込んで端末に乗車券をタップし、マイクロチップのタグを剥ぎ取ると、其の場でポリ容器の蓋を開けて深呼吸をし、鼻粘膜を貫通して目頭を突き上げる気化アルコールを嗅ぎ分ける。間違い無い。先走った直感は狂喜に覚変し、後はもう矢も楯も堪らず、希釈せぬまま喇叭(ラッパ)(あお)り、薔薇色の灼熱が食道から胃壁を雪崩れ落ちた。母の眼を盗んで覚えた貧民窟の定番。汚染物質に揉まれて育った鉄郎の躰は、並の蒸留酒では歯が立たぬ耐性に錬磨されていた。

 竹馬(ちくば)竹光(たけみつ)に見立てて剣戟を競った、好誼相和(こうぎあいわ)す悪友と再会した様な思いも掛けぬ龍飲瀧落(りゅういんろうらく)。劇越な一杯に鼓膜が火を噴き、拡張した毛細血管を濁流する濤酔(とうすい)に粟立つ末梢神経。此の星に降り立った決意が一瞬で解晶し、此の一瞬の為に生きていると云う倒錯した実感に(たら)し込まれる悪魔の舌触り。セルフレジの置いてあるテーブルに片手を突き、鉄郎は逆流する胃酸を堪え乍ら深々と溜息を吐いた。様々な代替アルコールを試してきたが、矢張りポリッシュとの相性に優る物は無い。総毛立った(かむ)りを振って、焦点が明後日に飛んでいきそうな意識を引き戻す紅顔の酒呑童子(しゅてんどうじ)。其の痺れた舌尖が魅惑の二口目に手を付けようとした其の時、毒々しい擬物(まがいもの)の甘美に(とろ)け、(なま)めかしい悪寒の走る丸めた背筋に、下心丸出しの裏声が(まつ)はり付いてきた。

 「御客様、御釣りを御忘れですよ。」

 「御釣り?此奴にタップして終わりじゃねえのかよ。」

 折角の余韻を邪魔されて星が飛び交う充血した視界を屡叩(しばた)き乍ら振り返ると、対装甲ベレッタの銃口が鉄郎の顳顬(こめかみ)をノックした。

 「どうぞ御受け取り下さい。就きましては、今お支払いに為られましたカードを当店で御預かりさせて頂きます。誠に御手数とは存じますが御了承下さい。」

 イタリア女の冷たいキスに興醒めした鉄郎は、少し強めの赤ワインをテーブルに置いて、悪酔いしている店員の頭にセルフレジの端末を叩き込むと、怯んだ瞬間に奪った銃で山積みの一斗缶を乱射した。土手っ腹の風穴から紅蓮の炎を噴き上げて瓦解する合成樹脂塗料と洗浄液のドミノ倒し。蜷局(とぐろ)を巻いて店内に充満する黒煙にスプリンクラー等と云う気の利いた備えも無く、床に溢れ出た有機溶剤の火酒が地獄の釜を(くつがえ)す。

 「嗚呼、何て事しやがる。オイ、消化器、消化器を持って来い。」

 セルフレジを頭に刺した儘、(はやて)の如く燃え広がる火の手に駆け寄り、セルフレジの刺さった頭を抱えて狼狽(うろた)える事しか出来無い店員。其の無防備な背中に鉄郎はベレッタの残弾を総て撃ち込み、身に覚えの無い釣り銭を叩き返した。機械仕掛けの何処に、こんな端金(はしたがね)で眼腐れをする出来心が有ると云うのか。余りに罪深い乗車券の魔性。若し店員に因縁を吹っ掛けられてなかったら、棚に在るポリッシュを全部空にして、自分が火酒の海に呑まれていたのかも知れ無い。頭を狙わなかったのは、せめてもの感謝の印だ。銭ゲバの業火に崩れ落ちて藻掻(もが)いている蜂の巣に為った背中に、行き掛けの駄賃と(ばか)り世話に為った銃を放り投げ、テーブルの上で含羞(はにか)む紅いスイトピーを手に取って(たしな)む、一仕事の後の一杯。騒ぎを聞き付け奥から出て来た別の店員に、

 「片付けろ。」

 と顎で決り、ポリッシュを喇叭飲みし乍ら店を出ると、久し振りに一心地付いた鉄郎の背後でラッカースプレーの連鎖爆発がショーウィドウを吹き飛ばした。

 息を為ているだけで気が滅入る()う言う星は、少し派手な位で丁度良い。鉄郎は欣喜亢然(きんきこうぜん)と駆け付ける野次馬と擦れ違いに、飲み干したポリ容器を巡回しているパッカー車の開口したテールゲートに返杯し、リヤパネルの上に駆け上がってボディの上で横になると、御歯黒溝(おはぐろどぶ)(じょう)(ひん)に見える路肩に堆積した汚泥に、酒精で潤んだ瞳を滲ませて清掃ルートのアルゴリズムに身を任せた。此の星の(けが)れを呑み干した様に胃壁から腸壁へと浸蝕していく官能的な不純物。束の間の誘惑に流されまいと肝細胞が必死で絞り出す分解酵素を、易々と懐柔する粗悪なエタノールの徒波(あだなみ)。母の(いさ)めた堕民の習癖に添い寝して鉄郎は短い夢を見た。(ごみ)を漁って一日が終わる、不安と苛立ちの繰り返し。一卦(ちんけ)な慰みで時を濁すしか無い鬱屈した精力。酒毒に屈した者達の壊滅した人格と末路。三半規管で渦巻く幻覚と追憶がパッカー車のサスペンションに揺蕩(たゆた)い、散水洗浄しても目詰まりした排水溝で波を打つだけの(わだち)泥濘(ぬかる)んでいく。時間城と機械伯爵を炙り出す為、死に物狂いで駆け擦り回るべきなのに、999から降り立ってアッと云う間に此の様だ。我乍(われなが)ら生身の躰と云う奴は不調法に出来ている。鉄郎は此の微睡(まどろ)みの後に控えている猛烈な頭痛と懺悔のラッシュを(はぐ)らかし、首を洗う寝汗の雫が鎖骨を伝って降りていくのを数え続けた。己の懦弱な本性を傍観する贅沢で残酷な一時。そんな歪な悦落を降魔の鉄槌が叩き起こした。

 (ぼや)けた意識を蹴散らすクラクションと、急ハンドルに悲鳴を上げるリアタイヤの怒鳴り込み。硝子を砕き、ガードレールを削り乍ら迫り来る喧噪に、乾き切った炸薬が散発し、拡声器の警告が追い縋る。閉じた瞼を駆け抜ける余りにも鮮明な既視感。つい今し方、店員を銃撃した許りの生々しい感触に、俯せになっていた背筋が痙攣して身構えた途端、信号を無視し交差点の右手から左車線を逆走してきたクイックデリバリーにパッカー車が衝突し、振り落とされた鉄郎は宅配車のルーフを撥ねて、アスファルトの上に転がり落ちた。無人巡回のパッカー車は緊急停止し、荷台の脇腹に喰らい付かれたウォークスルーの運転席で、宅配業者の制服とは程遠い、オイルドレザーのPコートにパーカーを合わせた優男(やさおとこ)が必死でエンジンを掛けようとしているが、銃弾を浴びて満身創痍の軽車輛はセルモーターが虫の息を返す許りで完全にへたり込んでいる。

 粘り着くアスファルトから頬を引き剥がして漸く眼の覚めた鉄郎が、原型を失って喘いでいるスクラップの前で放心していると、上空に向かって威嚇射撃をし乍ら駆け付ける鬨の声が聞こえてきた。振り返ると、ルーフラックにマウントしたアップライトを(たてがみ)の様に逆立てて一般車輌を押し退ける甲機動三菱(ジープ)。其れも一台や二台の話しでは無い。此はもう法定速度の取り締まりとは訳が違う。巻き込まれては面倒だと、アスファルトに打ち付けた躰を引き擦って踵を返した其の時、車を乗り捨てて飛び出した男が鉄郎の正面に突っ込んできた。錯綜する状況の中で蹴汰魂(けたたま)しい甲機動三菱(ジープ)の隊列に御互い気を取られ、身を(かわ)す余裕も無ければ、声を上げる(いとま)も無い。鉄郎は出会い頭の一瞬、見覚えの有る幸の薄い瓜実顔(うりざねがお)と眼が合った。此奴は確か、タイタンで帯域解放を叫んでいた職業左翼のスペアノイド。番号で振り分けられただけの粗製濫造が何故此処に。鉄郎は唐突な再会を打ち砕く渾身のタックルを喰らって受け身も取れず、硝子の礫の散乱したアスファルトに再び叩き付けられた。

 (うずくま)った儘の二人を瞬く間に取り囲む、蛇蝎(だかつ)の如きヘッドライトの炯眼(けいがん)。逃げ場を塞ぐ逆光を背に次々と包囲の輪に降り立つ彊化鎧骨殻(きょうかがいこっかく)の壮漢達が、光励起磁動晶銃を起動させ乍ら其の巨歩を詰める。平時とは思えぬ自警団の域を軽く超えた重装備。街のチンピラをスカウトして粋がってる様な民兵組織とも格が違う。隣で転がっているスペアノイドの仲間だと思われたら、時間城を探す処の話しでは無くなる。鉄郎がアスファルトに額を擦り付けた儘、身動(みじろ)ぎもせずに様子を伺っていると、剛快な壮言が頭熟(あたまごな)しに轟いた。

 「フン、手間を取らせおって。我我の堅陣を侵犯するとは良い度胸だ。何処の鼠だ。身分証を出せ。」

 此処で下手に動けば共犯を認める事になる。鉄郎は余計なカロリーは使うまいと狸寝入りを決め込み、アスファルトの()えた臭いを嗅いでいると、片膝を突いて立ち上がり乍ら、隊長格の漢に向かって身分証と思しきパスケースを提示するスペアノイド。透かさず隣の隊員がレーザーポインターの緋照を当て、

 「大佐、本物です。」

 驚きの色を悟られぬ様に耳打ちをすると、現場を睥睨(へいげい)する兜鍔(とうがく)の奥のスペクトルアイが色めき立ち、居丈高だった怒声を絞り苦々しげに問い質した。

 「名前は。」

 「星野鉄郎。」

 不貞不貞(ふてぶて)しく服の埃を払い乍ら答えるスペアノイドに鉄郎は驚き、ベストのポケットに手を当てると乗車券が抜き取られている。潮目が変わった事を悟ったスペアノイドは、大破した盗難車に一瞥を呉れてからヌケヌケと切り出した。

 「大佐さん、職務に邁進する其の熱意は誠に結構。其れはもう尊敬に値しますがね、流石に此処まで御熱心だと、世間一般で云う処の不適正追跡に該当するんじゃ無いんですかね。」

 「貴様、我我の幕営で何を嗅ぎ回っていた。」

 「黙れ、話しを聞くのは俺の方だ。御前達、何処の民間軍事会社だ。此処の民兵を指導しに来ただけじゃ無いのかよ。何の権限が有って、こんな街中に繰り出して警察ごっこ何てしてるんだ。」

 (かさ)に懸かった被害者面に銃を構えて躙り寄る隊員達を大佐は無言で制し、乗車券のホログラムが放つ威光を忌々(いまいま)しげに睨み付けて思案を巡らせている。

 「答える気が無いのなら、さっさと失せろ。不退去条項にも抵触したいのか。総督府に、否、銀河鉄道株式会社に通報するぞ。」

 鉄郎の乗車券を奪い返し、此れ見よがしに突き付けて責め立てる鼠賊(そぞく)に、大佐は其の剛健巨躯を震わせて声を押し殺した。

 「何処で拾ったか知らんが、手首毎切り落とされたく無かったら、サッサと其のパスを仕舞え。名前も顔も覚えたからな。次に会う時は口の利き方に気を付けろ。然も無くば、整備不良の銃が暴発する事になるぞ。」

 決壊寸前のプレゼンスに深追いをしてはならぬと察知したスペアノイドが温和(おとな)しく矛を収めると、大佐は生半可な手打ちに背を向けて隊員達を一喝した。

 「何をしている。総員、速やかに配置に戻れ。」

 不本意な部下達は取り逃した雑魚にメンチを切り乍ら、其の重装備を(いか)らして三菱(ジープ)に乗り込むと、交差点の外で待機している一般車輌を憂さ晴らしに砕兵(さいひょう)バンパーで弾き飛ばし、野牛の群れの如く撤収していく。

 「ハハッ、やれやれだな。」

 基地局に応急信号を発しているパッカー車に凭れ掛かって、怒りの敗軍を見送るスペアノイド。入れ違いで現場に急行しようと藻掻ぐ交安警邏隊のパトランプが瞬き、完全に麻痺した幹線道路の出口を求めて、全方位のクラクションが一斉に息を吹き返す。

 「御前、生身の人間なのか?免許資格も無い歳で飲酒運転に車泥棒とは、良い根性してるなあ。其れに随分と洒落た物も持ってるし。」

 五色妖(ごしきあや)なす乗車券のホログラムを繁繁(しげしげ)と眺め乍ら、自分の事は棚に上げて生洒洒(いけしゃあしゃあ)と話し掛けてくるスペアノイドに、こんな騒ぎに巻き込まれた無駄骨(つい)でと許り、鉄郎は粗無際(ぞんざい)に催促した。

 「勝手に人の名前使って吠えてんじゃねえよ。手癖が悪いのは御前の方だ。盗むのは車だけにしやがれ。」

 何う転んでも、此の旅の通行税は力で払うしか術は無い。鉄郎が乗車券に手を伸ばすと、其れを見計らっていたスペアノイドは一歩後退り、

 「おおっと。()う、慌てなさんなって。」

 アンカーボタンの(はだ)けたPコートの胸元から鉄郎の霊銃を抜き取り、()たり顔で突き付けた。

 「別に良いじゃないか、隣のポケットにも同じ御寶(おたから)が眠ってるんだろ。独り占めは狡いんじゃないのか。欲張ると(ろく)な事が無いぞ。斯う云う物は皆で有効に使わないと。一寸の間、借りるだけさ。必ず返すって。証文なら幾らでも書いてやるよ。」

 蛸も泳げば墨を吐く物だが、此の悦に入った達者な滑舌を何処で覚えたのか。御負けに手も早い。売れ無いカメラマンの様な湿気(しけ)た面は瓜二つでも、タイタンで右往左往していた同機種と較べて、此奴には妙なキレが有る。

 「ったく、何奴も此奴も。」

 鉄郎は舌の上に絡むポリッシュを唾棄して呪詛を食むと、

 「其奴も、そんじょ其処等の玩具とは毛色が違うんだ。火傷しねえ内に返せ。」

 ホロ酔い加減も手伝って、スペアノイドの調子に乗った軽弾みな人間臭さが心地良く、工具屋の店員の時とは違い、力に物を言わせる気には為れ無かった。そんな心からの最後通告に半笑いを浮かべ、銃を構えたまま徐々に距離を空けていくスペアノイド。鉄郎は霊銃の(おぼ)()しに任せて、スペアノイドが意を決して其の場から駆け出しても、鷹揚に構えて一歩だにせず、粗忽者(そこつもの)の功を焦る背中と、貧民窟の(いさか)いを掻き分け、廃棄物の山の中に逃げ込んでいた己の姿を重ねて、泡沫の煌めきに眼を細めるのみ。二束三文の儲けや快楽に群がる軽佻浮薄な視野狭窄。戦士の銃と乗車券は、そんな人の世と心を映す鏡だった。(うつ)け者の地金を暴いて翻弄し、渇しても盗泉を含まぬ者の凛品を奪えぬ様に、自ら仕える主の許から決して離れぬ二つの神器。鉄郎は星々を巡る道程(みちのり)の中で、何時しか其の名義に足ると認められていた。真の逸品とは宿命の如く、手に入れるのでは無く、授けられる。自分に何の資格が有るのかは選ばれた本人も判ら無い。人と物を超えた確かな信頼に身を委ね、鉄郎は遠離っていくスペアノイドが突如絶叫し、アスファルトの上で沼田打(のたう)ち回るのを見定めてから、悠然と歩き始めた。

 「放せ、放せ、畜生。何なんだ此の銃は。ガァアアアアアア、止めろ、止めてくれェエエエエ。」

 掌に癒着したグリップを引き剥がそうと、岸に打ち上げられた雷魚の如く必死で身悶えるスペアノイド。手にした者の闇を、暗病(くらや)みを映す霊銃の洗礼。鉄郎も突き落とされた己の器を推し量る魔窟は、抱え込む闇の浅い者程、其の貧寒とした空疎に耐えられ無い。ダマスカスの文様が蠢く冥路を踏破した者にのみ霊銃は心を許し、其の座右に()す。

 「アンドロイドの羊でも人並みに悪夢を見るんだな。」

 海老反りになって無明の試練から逃れようと狂態の限りを尽くすスペアノイドを見下ろし、脇に落ちている乗車券を拾い上げてポケットに納めると、鉄郎は其の銃身を掴んで鵲を(しず)かに(なだ)め、絡み付いた五指を()(ほぐ)した。霊銃の御眼鏡で電脳の髄まで徹底的に選別されたスペアノイドは、筋電義肢を硬直させて放心している。滞り無く元の鞘に収まった二つの神器。此の身に余る虎の子を手放す事が在るとするなら、其れは無限軌道の行程が終着の汽笛を告げる時。こんな寄り道で路露に(まみ)れている暇は無い。

 交安警邏隊のパトランプを避ける様に其の場を後にする鉄郎。何は扨置(さてお)き、当面の脚が無い事には振り出しにすら戻れ無い。其処で街頭の大気観測モニターの前に停めてある流線型のロングボディーに眼を付け飛び乗ると、早速、仕事に取り掛かった。超低重心の車高短に、何より柄の悪いクリムゾンレッド。つい今し方呷った許りのポリッシュと云い、此の泥溝板(どぶいた)の様な星では無視をする方が難しい。無論、幾ら図体がデカくてもスクーターはスクーター。デニムで云えばジップフライで、ボタンフライ派の鉄郎はマニュアルを御所望なのだが悠長に選んでもいられ無い。此も酒の勢いと云う奴だ。ベストのポケットから取り出したドライバーをイグニッションに突っ込み、乗車券の裏技で触角(アンテナ)回路のプロテクトを麻痺させると、起動したウェルダーの砲吼を合図にシリーズ式ハイブリッドに直結した両輪コイルのエッジが稲光る。

 「へえ、単車を()るのも御手の物だな。車と単車と何方が本職だよ。今度、ジックリ教えてもらわなきゃな。」

  聞き覚えの有る巫山戯(ふざけ)た声色に鉄郎が振り返ると、タンデムシートにスペアノイドが納まっている。何うやら此奴は酢漿草(かたばみ)の様に、叩けば叩くほど伸びるタイプだ。

 「誰が犬みてえに付いて来いって云った。二秒だけ待ってやる。さっさと降りやがれ。」

 「何言ってんだよ。犬には尻尾が付き物だろ。俺、御前の事が気に入ったよ。」

 「気に入ったのは俺じゃ無くて、俺のポケットの中身だろ。」

 「おおっと、御明察。御前は話が早くて助かるよ。取り敢えず、俺達の此から先の話しは、もっと落ち着いた処で御茶でも飲み乍らゆっくりと。なっ、然う為ようぜ。でないと・・・・。」

 勿体振って目配せをするスペアノイドに釣られて鉄郎が首を捻ると、

 「オイ、御前等、俺のバイクに何してんだ。」

 KADOYAのツナギを着た金田(もど)きのコスプレ馬鹿が、クリムゾンレッドのステアハイドを血走らせて怒鳴り込んできた。鉄郎は咄嗟(とっさ)にギアを反転し、フルアクセルのバックスピンから急ブレーキを掛け、スペアノイドを振り落とそうとしたが、コーデュロイの後ろ襟を捕まれて前輪が浮き上がり、仕方無く、空転するホイール放電を撒き散らし乍ら、コールタールの奈落の様な幹線道路を駆け抜けた。

 見た目の通り極端にパワーバンドの狭い、鞭で殴っても足り無い癇馬(かんば)だ。()てて加えて、用も無いのに(いなな)く後ろの荷厄介。飛んだカップルのツーリングに巻き込まれ、鉄郎は何う遣ってスペアノイドを突き落とした物か其のタイミングを窺い乍ら、ハンドルのボトルホルダーに差してあったゴーグルモニターを掛け、角膜制御で両輪駆動の偶力変数と慣性モーメントを微調整するのだが、兎に角、集中出来無い。

 「此の星で元服(げんぷく)前の人類、其れも日本人(マスクマン)に会えるなんてなあ。何処から来たんだ。パスには地球発ってなってたけど、真逆(まさか)なあ。実は俺の前のオーナーも日本人(マスクマン)でさあ。本当だぜ。俺は出鱈目と姑は苦手なんだ。袖擦り合うも何とやらって聖徳太子も云ってただろ。宜しく頼むよ。」

 万事此の調子で捲し立てるスペアノイドに鉄郎は無視を決め込み、経路案内と渋滞状況を表示するエアパネルに意識を張り巡らした。処が、

 「然う云えば、パスのホログラムはトリプルナンバーが9だったよな。開業以来、解析不能な技術的トラブルと遭難事故が頻発して、運行再開の目途が立た無い666は欠番になっているから、現状、銀河鉄道の旗艦列車は555迄だろ。777の稼働は年明けからだし、何なんだい其の999ってのは。」

 「何だって、其れは何う云う事だ。」

 「何う云う事だも何も俺が聞いてるんだよ。アンドロメダ行きなんて書いて在ったが、銀河鉄道路線の運行区域は此のヘビーメルダーが極限だ。此処から先は銀河鉄道株式会社の統制開拓領域で、ヘビーメルダー以上の完全封鎖空間だぞ。」

 「オイ、今、鋼統機元の何年だ。」

 「鋼紀五拾貳年壬寅(じんいん)だ。其れが何うした。」

 スペアノイドの何気無い受け答えに思わずアクセルが緩み、鉄郎は踏み外し掛けた回転域を慌てて立て直した。こんなスプーンを裏返しにしてカレーライスを食べてる様な笨骨(ポンコツ)でも、人の気を引く為に好い加減な出任せを吹き散らかしている口振りじゃ無い。此奴は確かに(のぼ)せ上がった道化師(ピエロ)だが、損得勘定と機智には長けている分、前後不覚の狼少年とは一味違う。若し、スペアノイドの口走った鋼紀が事実だとすると、鉄郎が生まれる遙か昔に時空が(さかのぼ)っている。何故?何時?何う遣って?過去に降り立つ停車駅なんて在るのか。999の吸い寄せられていった満天の星空を浸蝕するドス黒い風穴が、時を逆走する入り口だったのか。其れとも何者かの意図で任意の時軸に引き擦り込まれたのか。こんな芸当が出来るのは宇宙広しと云えども鉄郎が知る限り独りしか居無い。竜頭(りゆうづ)は時間城で機械伯爵に仕えていると云った。然して、時間城に来れば何もかも明らかになり、真実なんて呼べる物は何も無いとも(ほの)めかした。ファクトヘイヴン。其処に真実が無いとするのなら、一体、此の星の何処に何が在るのと云うのか。例え辿り着けたとしても全く違う時間軸だ。自分が生まれる前の時間城に母さんが居ると云うのか。鉄郎は(かむ)りを振ってヘッドライトを擦過する流導車線を睨み付けた。ポリッシュの酒毒が頭に回ったのか、行き摺りの酔夢か。総ては此の塗炭に泥濘(ぬかる)む闇の中だ。

 「鉄郎、御前は此の星に何しに来たんだ。修学旅行や観光で立ち寄る様な処じゃ無いしな此処は。一人で来たのか。御前、只の小倅じゃ無いだろ。何と言っても其の物騒な得物と四次元ポケットみたいなパスだ。遠足のバナナにしてはパンチが効いてる。何だったら今からでも遅く無いから俺が預かっておくぞ。後見人制度って奴だ。利息も付けるぞ。」

 行き成り呼び捨てで、調子の良い事を馴れ馴れしく火裂(ほざ)き続けるスペアノイドの戯言(ざれごと)が、隣りの部屋で点けっ放しのテレビの様に遠くで聞こえ、浮わの空の鉄郎は其の何処かに在るブラウン管の磁力に引き擦り込まれていく。車掌は次の停車駅が過去に接続しているとは云わ無かった。()えて知っていて隠したのか。此の星で降りたメーテルは、今何処で何を為ているのか。(ほど)こうとすればするほど絡まる糸が僅かな弾みで不意に途切れ、鉄郎は描く事の出来無い全貌に向かって力無く(こと)()を零した。

 「御前、時間城って聞いた事有るか?」

 「ハッ?」

 「此の星のファクトヘイヴンって処に在るらしいんだ。」

 「時間城は知ら無いが、ファクトヘイヴンって云うのは(さっき)話した銀河鉄道株式会社の統制開拓領域の俗称だ。銀河鉄道株式会社が全権を握る解放区。要するに治外法権の伏魔殿だ。宙域に限らず、惑星内にも特定機密収監区域って云うのが封鎖区域の上に存在するらしい。首を突っ込んだら其の儘ギロチンにされて、ハイ、其れ迄。何う安く見積もってもミッキーマウスが最低時給で踊ったり、毎日夜の八時に花火が上がる様な処じゃ無い。真逆(まさか)、其処の年間チケットでも拾ったのか。其れとも御前の四次元ポケットみたいなパスに付いてくるクーポン券とか。」

 「まあ、チョイとした野暮用でね。俺のクラリスが閉じ込められてるんだ。」

 「だったら当の伏魔殿に出入りしている奴に聞くのが手っ取り早いな。蛇の道は蛇だ。」

 「誰か心当たりでも有るのか。」

 「ハーロックさ。キャプテン・ハーロック。まあ、面識は無いけどな。」

 「ハーロック!! 海賊王の?」

 「然う、スペースノイド解放戦線総裁、キャプテン・ハーロック様さ。」

 「一寸待て、スペースノイド解放戦線の総裁はエメラルダスだろ。」

 「何云ってるんだ。彼の女王様気取りで騒いでる御侠(おきゃん)は、“杏衛兵”って云うハーロックの親衛隊で売り出し中のペーペーだ。」

 有無を言わさぬ反論に鉄郎は舌を巻いた。悔しいが過去に戻っているとするのなら、確かに辻褄が合っている。

 「銀河鉄道株式会社のケツの穴を覗きたかったら先ずはハーロックだ。スペースノイドの解放なんて綺麗事を謳ってはいるが、一皮剥けば船代も身銭を切れ無いグローバリズムの犬。銀河無双の鉄道開拓事業は宇宙海賊と一蓮托生で、大旦那のヤバイ現場はハーロックの独壇場だ。大旦那のヤバイ現場はハーロックの独壇場だ。御誂(おあつら)え向きに、其の死神も避けて通る舟泥棒(ふなどろぼう)が此処最近ヘビーメルダーに御執心と来てる。」

 「何う言う事だ。」

 「今、此の星では惑星内の全工業用核融合炉の稼働を停止していて、順次廃炉作業が進められているんだが、CAEAが耐用年数の引き下げを強行した(とばっち)りに因る廃炉と云うのは表向きで、実は爆撃して地の底に沈めていると云う話しが出回っている。解体作業には厳重な箝口令が敷かれていて、尚且つ封鎖区域内で詳しい事は判ら無いが、空爆が在ったと思しき時間帯には夥しい光源や火柱、体感地震に関する多くの証言が在るんだ。市販のガイガーカウンターで測っても基準値の範囲内とは云え周囲の放射線レベルには顕著な変化が在る。にも拘わらず、総督府、原子力規制委員会、核安全保障局、核緊急支援隊から何の発表も無い許りか、大気観測や地震観測の公共データにも在って(しか)()き現象が一切記録されて無い。其れに輪を掛けて怪しいのが、廃炉事業の着工と足並みを揃える様に常態化した、帯域障害の頻発だ。(ほぼ)一週間置きに此の星の全域を機能不全に叩き落とす惑星規模のシステムダウンは、空爆時間帯の帯域封鎖をカモフラージュする為の物だと云う見方も在る。意図的に帯域制限を掛けているのだとしら、其の間に起こった真実は総てブラックアウトだ。一体其処に何が隠されているのか。解体作業が終了したと発表された後も、施設の跡地一帯は依然として猫の子一匹近付け無い。然して、そんな現場上空で度々アルカディア號の機影が確認されている。勿論、相手は常時死覚化している幽霊船だ。目視や航空管制レベルのレーダーで確認する事は出来無いが、現場周辺の大気から発見された核濫粒子の残留波形を解析すると、アルカディア號の物と一致するらしい。」

 間に合わせの作り話にしては筋が込み入っていて、其の口振りにも浮付いた処が無い。鉄郎は何時しか肩越しに差し出された(まこと)しやかな中間報告書に耳を奪われ、緘黙に屈する事で其の続きを促していく。

 「(そもそ)も今、原子力規制委員会が進めている廃炉事業は奇怪(おか)しな事だらけだ。放射線の安定化技術も進歩して従来の二十分の一、約五年で百万分の一にまで線量を減衰出来るんだから、廃炉をするにしても放射線リスクが無効化するのを待って取り掛かれば良い物を、何故、事を急ぐのか。廃炉にした後の代替エネルギーの目途も立ってい無ければ、新規に核融合炉を建設する計画も無い。然して、廃炉の現場を固める民間軍事会社の暗躍。始めの頃、空爆は中疆(ちゅうきょう)マテリアルに因る企業テロだと云う噂だった。」

 「中疆マテリアルって何だ。」

 「旧世紀に合衆国のネオコンを駆畜して()し上がった、銀河鉄道株式会社と天河を二分する究極のグローバル企業で、帝政投資家(アナキスト)達も巻き込んだ、喰って喰われての蠱壺(こつぼ)の中で生き残った最後の二匹の内の一匹だ。宇宙開拓とは(せん)ずる所、天体資源の搾取と独占。連中は其の覇権を争ってきて、初めの内は星空の冷戦なんぞと云われていたが、民営化した戦争も今じゃ護るべき一線を完全に越えている。ヘビーメルダーはレアメタルの宝石箱だ。此の星の入植は矯正労働研修施設の設立に端を発して、其れ以来、銀河鉄道株式会社の主力事業。其のドル箱に(くさび)穿(うが)ち、底板を抜く。動機は十分だ。処が今、中疆マテリアルは其れ処じゃ無い。」

 弁の達者なスペアノイドも其の鋼吻(こうふん)に熱が籠もり、流石に此処で一息吐くと、其の先は鉄郎の才器才量を遙かに超えていた。

 「中疆マテリアルの黃圡(こうど)ストリームとパワー・オブ・滿洲(まんじゅ)が壊滅した。建設当初から銀河鉄道株式会社の標的で、爆撃されれば中疆傘下の紅衛警備が、即座に報復行為を敢行するんだが、何と今回は梨の礫。若し中疆マテリアルの自作自演なら、銀河鉄道株式会社に因る物だと、子飼いの宣争広告代理店を介して一大キャンペーンに乗り出す筈なのに、寧ろ自体を過少報告し内密に処理しようとしていた程で、誰もが(いぶか)しく思っていると、其れも其の筈、事業の中核を成す産業軍事インフラの指令系統が(ことごと)く麻痺していて、中疆マテリアル御自慢の強制収容労働システム迄もが完全にダウンしていた。当初、一時的なトラブルで速やかに復旧すると発表されていたが、豈図(あにはか)らんや、其の対応状況を逐一アナウンスしていた自社サーバーから新種の電脳黴毒(ばいどく)が検出され、汚染された社内の資産と機密が決壊した。此の同時多発テロで銀河鉄道株式会社の一強独裁が確定し、最早、中疆マテリアルに斬って返す余力も無ければ、此の宇宙で銀河鉄道株式会社に面と向かって刃向かう者は誰も居無い。と為れば(なほ)の事、此の星の原子力事業で何が起こっているのかって話しだ。最大のライバルを蹴散らして、銀河を股に掛けたグレートゲームにケリ付け、絶世を謳歌する絶対王者が、何を躍起になって火消しに回る事が在るのか。解体状況の視察に来たCAEAの職員が丸ごと行方不明になったって噂も在れば、核融合炉がジャックされたって云っている奴も居る。が、そんな玉石混淆の伝言ゲームの中でも一番ヤバイのが、施設内で素粒子の連鎖衝突が起きたって話しだ。宇宙が壊れかけた、と云うより、生まれかけた。」

 其処迄一気に捲し立てると、後はもう御手挙げと許りにスペアノイドは天を仰いだ。

 「其れが真実か何うか調べるのが今の俺の仕事さ。俺は前のオーナーが潜入取材をする為にカスタムされたんだ。俺が何処にでも在る汎用機種なのも、何処の現場でも潜り込める様にする為さ。前のオーナーは凄く情熱的な人で、セコハンの俺を使い捨てのドローンみたいに扱う事は無かった。只の片腕じゃ無く、我が子の様に接してくれた。其れが・・・・・・。」

 脂の乗ったスペアノイドの口上が不意に途切れた。弱きを助け強きを(くじ)く。そんな人の道理を前のオーナーは貫き通したのだろう。煙たがられた火の始末で何が在ったのか。其れは話せる様になった時に話せば良い。鉄郎は其の沈黙を底流する確かな血潮の(さざなみ)に耳を澄ました。

 「俺は保守系の機関誌を前のオーナーから引き継いで運営しているんだ。取材に、編集に、出版を独りでな。蕎麦で云ったら三立てだ。先代も社長兼、編集長兼、配達員だった。」

 「出版?紙かよ。」

 「然うさ、紙って云っても人工繊維だけどな。」

 「ケッ、云いたい事が有るならネットに上げて、直接電脳にロードさせれば済む事った。」

 「其れが此の帯域制限と検閲で二進(にっち)三進(さっち)も行かないのさ。確かに冊子だと拡散力は無い。でもな、逆に紙ってのは一旦輪転機に掛けたら後はもう誤魔化しが利か無い。下手なデジタルデータより紙媒体の方がアーカイヴとしての寿命が長いって云う調査結果も在る。然して何より、俺は紙が好きなんだ。先代も然うだった。徹底的に紙に(こだわ)った。寝転がって頁を捲る彼の感触。刷り上がったインクと、陽に灼けた紙の匂いが堪ら無いってな。俺も然うだ。機械もアナクロに焦がれる物なのさ。人間から学ぶ事は沢山有る。」

 「じゃあ、御前の手癖も人間譲りかよ。」

 「多分、然うだ。今度御教授願いますよ。何だったら内の機関誌でコラムの一つも書いてみるかい。独りで切り盛りしてるとは云っても、其処の頭を務めてるんだ。編集長って読んで呉れよ。」

 「然うか、じゃあ、野暮編(やぼへん)、良い事を教えてやる。其の機関誌を皆に読んで貰いたいんだろ。」

 「何か良いアイデアが有るのか。早速採用させて貰うよ。」

 「良いか、野暮編(やぼへん)、人に話を聞いて貰いたかったら、先ず人の話を聞くモンだ。其の昔、赤旗って云うロリコン左翼が四コマ漫画を書いてた機関誌が、自分達に都合の良い言論テロを繰り返した挙げ句、結局、身内以外誰も読まなかったそうだ。」

 「判ったよ、俺の話を聞いてくれるのなら、先ず御前の話を聞いてやる。けどな、其の野暮編(やぼへん)ってのは何だ?こんな素敵で知的なアンドロイドを玉葱しか入って無い掻き揚げみたいに云うんじゃ無いよ。御前だって、オーイ、鉄ちゃあん、何て、牛モツを煮込んだみたいに云われたら厭だろ。」

 「俺は時間城に行きたい。其れだけだ。後は別に、錻力(ブリキ)の九官鳥に話す事なんて何もねえ。結局、御前は先代ってのが(くたば)る前に組んだアルゴリズムに縛られてるだけだろ。」

 「先代の熱い意志を引き継いでるって云ってくれよ。」

 「御役御免になったんだから隠居して番茶でも(すす)ってろ。」

 「耄碌(もうろく)なんてしていられるかよ。俺には夢が有るんだ。引き継いだ身代を盛り返し、紙で此の荒廃した宇宙を変える事だ。」

 「成る程ね、アンドロイドには少し難しい話しかもしれねえけどな。夢ってのは抑も、布団の中で見るモンだ。布団の外で見るのは夢じゃ無くって寝惚けてるだけだ。俺が先、此奴を直結する時に使ったドライバーを貸してやるから、顳顬(こめかみ)の処を探って飛び出してる処が在ったら締め直せよ。先みたいに危ない橋を渡るのも危機管理回路がガタ付いてるからだ。」

 「彼の程度でビビってたら何も出来無いさ。其れに敵が増えれば味方も増える。特に御前みたいに頼りになる奴がな。」

 「こんな口の減ら無いアンドロイドは初めてだ。」

 「アンドロイドにだって個体差も有れば、当たり外れも有るさ。」

 「じゃあ、前のオーナーは一番の貧乏籤を引いたって訳だ。」

 「口が減らないのは御前の方だ。何時迄こんな御喋りを続けてるつもりだ。さっさと此の貧乏籤に賭けてみろよ。俺はハーロックが出没する現場に潜り込む伝手(つて)が有る。御前はハーロックに会いたくて、俺も取材がしたい。其れだけだ。厭なら此処で降ろしてくれ。」

 御伽噺には夢が有るが、此奴の甘言には急所を突く毒が有る。何うやら俺も一服盛られたらしい。何が何処まで本当かは判ら無い。此奴は999の乗車券を当てにして俺を最大限利用したいだけ。併し、大蛇(おろち)の尻尾を掴まぬ事には三種(みくさ)神劍(しんけん)も勝ち得無い。此奴の口車に乗り遅れている様では、時間城なぞ夢の又夢。例え時間軸はズレていても其処に行けば何かが在る筈。取り敢えず、頭の鈍い正直者より、小回りの利く曲者(くせもの)の方が幾らか増しだ。犬より鼻の利く鼠が一匹。若しかしたら俺はツイているのかも知れ無い。鉄郎は自動運転に切り替えてハンドルから手を放すと、メインモニターにスペアノイドの指定する区画コードを告げて振り返った。

 「もう御替わりは要らねえって云う迄、ゲップが出る程スクープを稼がせてやる。其の代わり、御互いの命は割り勘だ。」

 「俺をマスコミの丁稚奉公と一緒にするな。俺が欲しいのはスクープじゃ無い。真実だ。マスコミの仕事は真実を伝える事じゃ無く隠す事だ。其れを真に受けた連中は皆、平地に躓き、水溜まりで溺れていった。先代は其れが許せずに、マスコミとネットの検閲から世論を取り戻そうと、独りで立ち向かったんだ。」

 「マスコミも、役人も、政治家も、メジャーリーガーも、ゴールデンルーキーってのは皆、然う息巻いて堕落していったんじゃねえのか。人類の最大の敵は最初から最後迄エリート気取りの銭ゲバだった。俺は頭が良い。だから俺は正しい。俺は頭が良い。だから金も持ってて、俺は頭が良くて正しいんだから、何を遣っても構わ無い。然う勘違いした連中が総てを滅茶苦茶にしていった。」

 「俺の事は野暮編だろうがイカ天だろうが好きに云えば良い。だがな、先代の事を当て(こす)ってるのなら見当違いだ。口を慎め。」

 「ケッ、其の鼻息が何時まで保つのか見物だな。マスコミの犬なら未だしも、思想警察の覆面モニターと判った日には遠慮無く後ろから撃ち殺す。良く覚えとけ。」

 スペアノイドが固持し、身を(やつ)す真実と云う穢れを知らぬ瑞々しい気概。そんな、本来、人が説くべき条理の沙汰が、ファクトヘイヴンに向かって突き進む鉄郎には、儚く、危うい奴隷契約に見えた。

 

 

 

 乗車券の御威光で各ブロック毎の検問を楽々とパスする行き摺りのタンデム。鉄郎は腕組みをした儘、自律両輪駆動の赴くに任せ、酔い覚ましの風を浴びていると、ナビが目的地迄の距離をカウントし始め、装甲車両の違法駐車で塞がった路地裏にアラームを鳴らして停車した。一瞥して益荒男(ますらお)達の溜まり場と判る殺伐した猥雑。御目当ては外装の彫物師が経営するカスタムショップで、隊規の範囲内で彊化鎧骨殻(きょうかがいこっかく)を盛り付ける為に、電飾仕様のボルトやリベット、貴金属のスタッズやエンブレム、ユニコーンの様なエアロパーツを物色する非番の傭兵達で賑わい、コンセプトの良く判ら無い、原型を見失ったガンダムやウルトラマンとしか思えぬ、施術前後を撮ったパネルが軒先を飾っている。此処最近はスケルトンボディにして、可視化した表層基板を蛍光チップに組み替え、デコトラの様にするのが流行っているらしい。何の時代もガテン系と云うのは遣る事が決まっている。

 スペアノイドは常連風を吹かせて暖簾(のれん)を潜り、鉄郎も其の後を追って店に入ると、場の空気は一変した。猛者の休息を横切る目障りな余所者に無言の虎視が突き刺ささり、ズケズケと奥に進むスペアノイドの跫音(あしおと)がだけが打ちっ放しの床に響き渡る。此処に(たむろ)している連中は交差点での騒ぎを知ら無いから未だ増しとは云え、とても社交辞令の通用する相手じゃ無い。虎児を探るのは結構だが、此処は何う見ても虎の穴と云うより胃袋だ。そんな相方の御手並みに鉄郎が呆れていると、スペアノイドは施術台の上で俯せになり、メタルジェットプリンターで背中に白銀の観音菩薩立像を焼き付けている漢に眼を付けて、其の脇に後ろから近付き、襟足を舐める様に耳打ちをした。

 「旦那、精が出ますね。」

 「アッ、貴様。」

 聞き覚えの有る声に身を捩る傭兵A。其の一兵卒と思しき二の腕の階級章を押さえてスペアノイドが(たしな)める。

 「オオット、旦那、彫り物がブレますぜ。」

 「チッ、幾ら何でも最近派手に遣り過ぎだぞ。」

 周りの眼を気にして顎を乗せていた手の甲に顔を伏せるペーのペー。

 「旦那、其れは内としても大枚を(はた)いて取材をしている以上、少しでも元が取りたいんでね。御察し下さいよ。御互い持ちつ持たれつじゃないですか。確かにね、物の弾みの出来心、彼も此もと摘まみ食いする手癖に関しちゃ、旦那の御叱りも御尤(ごもっとも)も。其処でねえ、御詫びと云っちゃ何ですが、今夜の処はチョイと色を点けて、此の辺りの線で何卒(なにとぞ)宜しく・・・・・。」

 スペアノイドは然う(へりくだ)り乍ら、足軽の左手首を固めるG-shock Tabをタッチして振込画面を呼び出し、其の鼻先で算盤(そろばん)を弾くと、謀援鏡(ゴーグル)の奥に潜む色目が変わった。

 「オイ、何うしたんだ、こんな・・・・・・本当に払えるのか?」

 「心配御無用。二つ返事で笑顔の決済。」

 と、我が物顔のスペアノイドは、何時の間にか鉄郎から抜き取ったパスをG-shockに翳して送金し、相手の欲目を見透かして本題を突き付ける。

 「今夜は最後のマハラジャと呼ばれたパトロンが居るんでね。何だったら此処の払いも済ませておきますよ。其の代わり、例の原発銀座の件なんですけどね。」

 「復た其の話しか。身の安全は保証出来んぞ。」

 「其の時は此奴が物を云うさ。」

 スペアノイドが鉄郎のBarbourから戦士の銃を抜き取って見せると、三下の欲目が裏返った。

 「何、其のダマスカスの文様は、真逆(まさか)。」

 「オオット、其処迄だ。内の踊り子に手を触れて貰っちゃ困りますよ。旦那も此奴を御存知とはねえ。宇宙って奴も(あん)(がい)に狭いモンだ。」

 思わぬ釣果に憫笑を堪え切れぬスペアノイドとは裏腹に、 鋼目(こうもく)の蠢く黒耀(こくえう)の流線型に心を奪われる傭兵A。更に、其の一刀彫りの霊銃と乗車券を奪い返し、元の鞘に収める鉄郎に、

 「こんな小僧が其の銃を・・・・・信じられん・・・・・。」

 二の句を継ごうにも驚顎の(つがい)が噛み合わず、銀粉を焼き付けるプリンターヘッドの走査音だけが反復する亡漠。其処へ不意に、高圧的なアラートを受信してG-shockのバイブ機能が傭兵Aの手首を掻き毟る。顔を見合わせた兵士達の携帯端末に連鎖する、有無を云わさぬ軍鼓のヒステリー。蒼然とする店内が瞬く間に戦場の大気で張り詰め、傭兵Aは指を鳴らしてメタルジェットプリンターを制止すると、右半身の無い観音菩薩は、施術台から起き上がるなり、スペアノイドの胸倉を締め上げた。

 「御望みの現場から召集命令だ。今日の支払いと、貯まった附けも払っとけ。脚は何時もの護送車だ。乗り遅れたら其れ迄だ。」

 山が動き出す前の地鳴りの様にレジへと駆け込む軍靴を掻き分け、店内に居た全兵士の支払いを一括で決済すると、鉄郎はスペアノイドの生意気なエスコートで輸送防護車の隙間に滑り込んだ。本来、要人達を護送する為の後部座席には補給物資が詰め込まれ、足の踏み場処か、腰を降ろせる余地も無い。運転席の小窓から、

 「温和しくしてろよ。」

 と釘を刺す傭兵Aに、

 「こんな瓦落多(がらくた)の缶詰の中で何を何う遣って暴れるんだよ。」

 と噛み付くスペアノイドを余所に、鉄郎は直感で足許に在った段ボールを開け、4Lの錻力(ブリキ)缶を取り出した。

 「何だ其れ。」

 「乾パンだ。一応用意して有るんだな。誰が喰うのか知らねえけど。」

 「俺よりも鼻が利くんだな。其の嗅覚は現場記者に向いてるよ。でも、其れ何時の奴だ。賞味期限なんて()っくに切れてるだろ。」

 「糖質と脂質、タンパク質の塊なら何だって構わねえよ。石鹸なんて塩と油のキャラメルみたいなモンだからな、御菓子代わりに囓ってた。」

 「此から鉄火場に殴り込むってのに、腹を下したら何うするんだ。」

 「俺が食中毒で(くたば)ればパスを二枚とも使い放題だぞ。」

 「然うか、其の手が有ったか。」

 膝を叩くスペアノイドの隣で缶を空け、湿気った乾パンを頬張る鉄郎。グルテンの粉粒が溢れ返る唾液を吸い上げて、炭水化物の甘味を()(ほぐ)し、全卵と乳脂の芳醇な二重奏が響き合って、ポリッシュに押し広げられた毛細血管を縦環する骨太の血糖が、襟足から二の腕へと歓喜の発疹を駆り立てる。999の食堂車で驕慢に肥えた味蕾を戒める、出された物を喰う。其処に在る物を喰うと云う星野家の家訓。母の手に引かれ、瓦礫の荒野に死に物狂いで齧り付いていた頃を呼び覚ます粗雑な養分が、鉄郎の闘志に蒼い炎を焚き付ける。

 地雷や爆撃を想定したA3サイズの格子窓から覗く車外の景色から構造物が消えて、管理区域外のブラックボックスに侵入した事を告げ、立ったまま寄り掛かっているしか無い山積みの物資の向こうから、運転席で息巻く喧嘩腰の会話が聞こえてきた。

 「一体、何が何うなってんだよ。此の儘じぁ、此処も中疆(ちゅうきょう)の二の舞だ。本当に誰も帯域内に戦略核因子(クラスター)()ち込んで無いのか?」

 「NLFも哨戒してるんだ。そんな馬鹿が居たら一瞬で蜂の巣だ。兎に角、もう対岸の火事じゃ無い。中疆マテリアルに対しても銀河鉄道の本社は事態を終息させる為に、水面下でワクチンプログラムを提供してるんだ。最早、形振りを構って等いられ無い。処が其のワクチンまで核醒して、アッと云う間に中疆を呑み込んだ。今じゃあ、騙されたと泣き喚く事すら出来無い死に馬。問題なのは、其れで其の儘、黙って御寝ん寝してくれてれば良い物を、化けて暴れて、木乃伊(ミイラ)捕りが木乃伊(ミイラ)にだ。全く、堪ったモンじゃ無い。」

 二匹の鼠が紛れ込んでいると云うのに、大枚を叩いたスペアノイドへのリップサービスのつもりか声高に現状をリークする傭兵A。

 「オイ、NLFって・・・・・」

 「だから云ったろ。」

 乾パンを飛ばして振り向いた鉄郎に、為て遣ったりな窄眼(すぼめ)を返すスペアノイド。人類の復興を掲げて宙域を闊歩する数多(あまた)解放戦線(ごろつき)の中で“The NLF”と冠詞が付くのは“National Liberation Front of Spacenoid”唯、独つ。指数関数的に高まる期待と武者震いを(なだ)める様に、鉄郎は噛み砕いたグルテンの塊で逆巻く胃液を飲み下す。

 「オイ、見ろ現場に虹励起防塁(バリア)が掛かってやがる。流石、休日返上の案件は一味違うな。」

 「何う云う事だ。彼じゃ明日の空爆処か、建屋にすら近寄れ無いぞ。一体誰が動力を一から立ち上げて防空システムを起動したんだ。建屋の中に居た連中は職員も兵士も全滅している筈じゃないか。真逆(まさか)、敷地の擁壁(ようへき)を取り囲んでいる部隊が鼠に突破されたのか。」

 「否、警備は盤石だ。例え侵入出来たとしても何が出来る。蕎麦屋の岡持ちが出入りするのとは訳が違う。部隊が取り囲んでいるのにしても、警備の為と云うより、敷地内に近寄れず、指を咥えて見ているしか無いからだ。」

 「じゃあ、免震重要棟に閉じ込められた連中が化けて出て、統合管制室を操作したって云うのか。」

 「落ち着け。御前も好い加減、現実を受け止めろ。発電所を呑み込んだのは彼の波の化け物だ。総ては奴等の仕業だ。奴等は生きている。意志を持って行動している。然うとしか思えん。」

 「奴等ってのは、分析オタクの情報将校が顫動(せんどう)波形とか廻癬(かいせん)波形とか云って騒いでる電影の事か。馬鹿な。あんな物は核融合炉から漏洩したプラズマじゃないか。」

 「然う思いたいのは山山だが、二の足を踏んでいたら総てが手遅れになる。恐ろしいのは皆、一緒だ。あんな物を目の当たりにして落ち着けと云うのも無理な話だが、奴等が学習し乍ら制御棟を支配して核融合炉を操作してるのだとしたら、虹励起防塁(バリア)を起動する何てのは散歩(つい)でのコンビニだ。此の惑星の重力下で素粒子を連続で正確に衝突させようと思ったら、最低でも直径8km以上のサーキットと莫大な電力が必要な筈なのに、其れを炉心内で隔壁を溶解せずに引き起こして、増幅、否、増殖しようとしている。連中はもう、俺達の追い付け無い知的領域に達してるのかも知れん。」

 「じゃあ、彼の波の化け物が、本当に原始的祖粒子を精製しているとでも云うのか。」

 「然うだな、精製する、蘇生する、招喚する、呼び覚ます。何と云ったら良いのかは判らんが、若し然うなったら、宇宙の何処に居ても同じ事だ。逃げ場なんて無い。寧ろ、何故、核融合炉を母胎にして宇宙を産み落とす。そんな自滅するだけの無茶をしようとするのかだ。俺には単なる知的好奇心で遣ってる様にしか見えん。其れも稚拙な。子供が玩具を弄って飽きたら踏み躙る。無邪気な残忍さが其処には在る。人格が在る様に見えるが、其れは対峙した者の精神を反鏡しているだけで、意志の萌芽は在っても、其処に連動する情感を持っている様には思え無い。虹励起防塁(バリア)の網を張ったのも空爆を察知してと云うより防衛反応から然うするだけ。発電所を占拠したのも、只、憑依する環境として条件が揃っていたからで、テロを巻き起こして()うの()うの何て云う他意は無い。栄養素を求めて菌糸が伸びるのに、政治的意図なんて必要無い様にな。だが、其れも今の処は、と云う話しだ。奴等が未だ発展途上の段階に在るとするなら、叩ける内に叩き潰さなければ、機族に屈した人類の(てつ)を、我我が踏む事に為る。」

 微に入り細を穿(うが)つ雄弁なリークを背に、鉄郎は傭兵Aの自己顕示欲に白羽の矢を立てたスペアノイドの洞察に脱帽した。(さぞ)かし当の慧眼(けいがん)は御満悦の事で在ろうと思いきや、余剰知覚を遮絶して放心状態のスペアノイドは、集音解析をし乍ら一音一句を電脳海馬に刻印している。睡魔と戦う受験生にしか見え無い其の健気(けなげ)な姿が壺に()まった鉄郎は、吹き出しそうになるのを堪えて顔を背け、A3サイズの格子窓を覗き込んだ。プラズマ放電を密閉する磁気シールド等も併用しているのだろう、進行方向の丘の上で原発銀座を包み込む虹色のドームが肩を並べ、汚泥の底から押し出された桜貝の様に(うずくま)っている。丹毒の禍々しさで腫れ上がった極彩色の光源。渦中の現場に惹き寄せられて、蟻集(ぎしゅう)の隊列が連ねる装甲車輌のテールライト。傭兵Aのリークで大凡(おおよそ)の当たりが付いてきた鉄郎は、段ボールの底からミネラルウォーターのペットボトルを探り当てると、乾パンを頬張っては流し込み、詰め込めるだけのカロリーを詰め込んだ。

 「取引先の銀河鉄道株式会社は不思議な会社だ。利益最優先のグローバル企業の中に在って、下請けでも星態系でも、護るべき処は護り抜く。日本と云う創業地の御国柄が然うさせるのか、変に義理堅い処が有る。其の本社が鉄道開拓事業の次に拘り続けたのが原子力事業だ。原子力技術の人道的な平和利用の方策を(つね)に模索、研鑽し乍らも、核の脅威こそが究極の軍事抑止力で在り、星間秩序の構築に不可欠な事実から眼を逸らさず、雨後の竹の子の様に沸いては消えていく、微々たる出力で御茶を濁すだけの、欺瞞に満ちた再生可能エネルギーなぞ、宇宙時代の天文学的な電力需要の前では、真冬に燐寸(マッチ)一本で暖を取るに等しいと、一切見向きもし無かった。此の世界は放射線と云う原子の(ちから)に因って網羅されている。其の天が定めた不滅の摂理を汚染と決め付け、放射線量で善悪を裁くのは、命有る物を害虫と益虫に、害獣と家畜に、雑草と農作物に分け、人類をプロレタリアとブルジョアで分ける様な物。天に唾を吐くとは此の事だ。実際、原子力の(ちから)がなければ、入植した星の地獄の様な環境をテラフォーミングしていく処か、隣の星にすら辿り着け無い。反原発ポルノも、反戦ポルノも、環境保護ポルノも、人権ポルノも、障礙者(しょうがいしゃ)ポルノも、感動ポルノも、真空、無法、無重力の宙域では木霊し無い、口パクのアイドルだ。開拓事業の未来を見越し、環境左翼と其のプロパガンダに溺れた世論と戦い乍ら積み重ねた技術が、最終的に他社との差を生む事にも繋がっていった。旧世紀に中疆マテリアルとの提携を破棄し、以後、恒久的に取引を停止したのも、連中が其の破滅的な被災リスクから国際的な監視下に置かれる事になった高エネルギー物理実験を、承認を受けずに陰でコソコソ遣っていただけでは飽き足らず、移民事業から取り残された難民を拉致し、核の人体実験にまで手を染めていたからだ。我が社の誇る最優良顧客は、冥府魔道に堕した所業には、何れ程の暴利が在ろうとも一切関与せず、廉直な経営を戒め、其れこそが銀河鉄道と云う未曾有の事業を支えてきた。今は帯域制限を巡って叩かれては居るが、其れも筋の通った信義が有っての事。然う思えてなら無い。苛烈な開拓競争で生き残ったのも一事業を超えた思想的な柱が有ったからで、他の会社は皆、欲目に眩み、己で仕掛けた墓穴に飛び込んでいった。併し今、世紀を跨いで築き上げてきた其の柱が、踏み固められた石据(いしず)ゑ諸とも崩れ落ちようとしている。来年に新設の旗艦路線、888の開業を控え、次に計画されているメモリアル事業では、888と連番での投入を視野に、鉄道博物館に展示されている創業当時のSLを飛ばすと息巻いているも、総ては此の星の案件次第。心血を注いだ主力事業で足を取られる等、在っては成ら無い事だ。」

 聞こえる様に弁を揮う一傭兵の其処(そこ)()と無い御得意先へのシンパシー。民兵を指揮、指導する立場に在るとは云え、連中も個人のスキルを切り売りして口に糊する民間人だ。嘱託、派遣、臨時、請負、外注、と手を替え品を替え契約を区切られ、商品として流通するしか術の無い覚え書き一枚の其の身分。正真正銘の軍人には成り得ぬ悲哀が滲む其の語り口が、鉄郎と同じ、帰属する国家や民族を失った新世紀の被害者なのだと訴えている様に聞こえた。

 敷地外の資材置き場の更地に陣を取る部隊に輸送防護車が合流して停車すると、バックドアを僅かに開けた隙間から、傭兵Aが覗き込んだ謀援鏡(ゴーグル)を光らせる。

 「オイ、中で待ってろ。周りの様子を見てくる。」

 「あいよッ。」

 スペアノイドは的屋の親父の様に景気良く返すと、乾パンを平らげて脳血流が胃壁に降り、陶然としている鉄郎の鼓腹に肘を入れた。

 「オイ、此処は管理区域外で原発の敷地内だ。そろそろタイペックスか何か着ておかないと拙いぞ。御前の分も頼んでみようか。」

 「心配すんな。放射性濃度が上がれば、此奴がアラートで知らせてくれる。御前なんかより余程頼りになるぜ。」

 鉄郎はウエストポーチを叩いて、(こな)れてきたグルテンの波糖に浸り乍ら、既に何かを嗅ぎ付け、盛りの付いた腰の得物の頼もしさに皓歯が零れた。今夜の祭りの山車(だし)は、もう直ぐ其処まで来ていやがる。重量鉄骨の如き護送車の装甲越しに押し寄せ、取り囲む軍靴の澎湃(ほうはい)。其の折り重なる一群の跫騒(きょうそう)が鎮まると、装甲車のドアノブに手が掛かる。其れを見て何も勘付いてい無いスペアノイドが、

 「悪いんだけどさあ、タイペックスか何か無いかな。」

 と身を乗り出した途端、対地雷仕様のバックドアが力任せに開け放たれた。

 「ナッ、貴様は。」

 逆光を背負い現れた見覚えの有る頑強なシルエットが、交差点で別れてから半日と経たぬスペアノイドと出会い頭の再会に絶句すると、傭兵Aが其の脇から鉄郎を指差した。

 「大佐、違います。其方(そっち)の小僧です。」

 「何ッ。此の小僧が・・・・・・。」

 次に会う時はと吐き棄てた言霊の呪能に我乍(われなが)ら呆れ果て、祭りを仕切る破落戸(ごろつき)(おさ)は其の厳つい頬殻(きょうかく)を緩めた。死線を超えた証を刻む弾痕被片を研磨する事無く、黥面文身(げめんぶんしん)の如く(まと)って(はばか)らぬ歴戦の剛傑。其の鋼骨漢が兜角(とうかく)(ただ)して鉄郎を見定める様に目礼し、

 「戦士の銃を御持参と伺った。是非拝見したい。私は此の機甲師団で大佐を務める。」

 と、其処まで言い掛けると、鉄郎は抜き取った霊銃で薙ぎ払い、手に余る大佐の恭敬を制した。

 「余計な挨拶は抜きだ。名前なんて何うだって良い。現場だ。現場は何処だ。」

 千早振(ちはやぶ)るダマスカスの文様に、低頭した大佐のスペクトルアイが上目遣いに凝結し、群がる隊員の鋼顔に(どよ)めきの波紋が幾重にも広がっていく。

 「要するに、此の逸物(いちもつ)で、アンタ等が何と呼んでるのかは知ら無いが、プラズマの(もののけ)を始末しろってんだろ。」

 「流石、此の宇宙に四丁しか無い銃の主君だ。話しが早い。」

 「俺は時間城に用が有る。ハーロックなら何処に在るか知ってると聞いて此処に来た。招待状みてえなのを持ってるんなら、其れと取引だ。」

 「然うか、然う云う事か。成る程、其れで合点が入った。案ずる事は無い。其の話し引き受けた。」

 大佐は謀援鏡(ゴーグル)を外して鉄郎に渡すと闇夜の虚空を指さした。真逆(まさか)と思い鉄郎が翳した偏光フィルターの先に、光覚冥彩を乱数解析で炙り出された舶鯨の尊大な機影が待機している。艦首に頂く髑髏の蛮章こそ確認出来無いが、(まご)う方無き其の威容。全長400m、全幅260m、全高163m。鉱石グラビューム3006に因る燃晶推進機構。参連装パルサーカノンを主軸に居並ぶ艦砲群、蟻の忍び足を拾う触角宙枢(コスモソナー)から一騎当千の搭載機に到る迄、語り継がれる総てのスペックを鉄郎は空で唱える事が出来る。クイーン・エメラルダス号と双璧を成す、自由と冒険のイコン。本物は黙して語らず。旗幟泰然(きしたいぜん)。動く山は山じゃ無い。唯、時が満ちるのを見守るのみ。

 「漢の約束に証文は無用。頼む。此の星が、否、宇宙が朽ち果てるやもしれん。」

 「じゃあ、原子炉内で素粒子の連鎖衝突が起きてるってのは本当か?」

 「止せ、インタビューは後回しだ。」

 蚊帳の外だったスペアノイドが喰って掛かるのを引き留め、鉄郎が其の先を促すと、大佐は恥も外聞も掻殴(かなぐ)り捨て鉄郎に総てを託した。

 「奴等に占拠された免震重要棟の統合司令室を破壊し虹励起防塁(ディフレクター)を解いてくれ。情け無い話しだが全く我々の手に負えん。アルカディア号艦底主砲の火力では、極地空爆の限定領域を越えて終う。其の銃の(ちから)が必要だ。最早、一時(ひととき)の猶予もならん。作戦を前倒しして、排他的征層帯域を発動し、原子炉、並びに周辺建屋を爆撃後、鉛化凝固剤を投下して爆心地一帯をコーキングする。一旦敷地内に入ったら一切援護が出来ん。場所は此のコンパスの指示に従ってくれ。虹励起防塁(ディフレクター)を一点突破出来る様に、今、光襲波ランチャーの準備を進めている。タイペックスも用意した。試着してくれ。」

 「余計な御世話だ。ファッションショー何て遣ってる暇が有んのかよ。何ちゃらランチャーって云うのにしても、そんなモンで穴が空くんなら、アルカディア號だって苦労しねえだろ。其れ位此の銃で何とか出来無くて、悪魔払いが出来るかよ。」

 鉄郎は大佐から受け取ったG-shockを手首に装着し乍らバックドアを潜ると、車内を一切振り返らずに捲し立てた。

 「オイ、編集長、恩に着るぜ。俺は此から一仕事して来っから、此処で解散だ。大佐、此奴の粗相は大目に見て遣ってくれよ。此奴の御陰で此処にも来れたんだ。根はそんなに悪い奴じゃねえ。俺が保証する。唯、手癖が悪いのだけは直らねえから、其処だけは注意しろ。」

 「良かろう。心得た。」

 「じゃあな、編集長、良い記事書けよ。」

 鉄郎は大佐に謀援鏡(ゴーグル)を投げ返して護送車のテールバンパーから飛び降りると、

 「達者でな。」

 ストラップに内蔵されたジャイロモーターで手首を牽引する、G-shockの導く儘に駆け出した。兵士達はモーゼの海割りの如く道を空けて、綱を引き千切った駻馬(かんば)の跳梁を見送り、

 「大佐、彼はまるで・・・・・・。」

 と、固唾を呑む傭兵Aに、

 「まるで、若き日の総裁、とでも云いたいのか。然うで無ければ、彼の銃が易易と其の身を任せておく物か。

 

 

    紅顏如烙鬢如鋼  紅顏 (やきがね)の如く (びん) 鋼の如し

    紫石稜稜電射人  紫石 稜稜 電 人を射る

    五尺小身渾是膽  五尺の小身(せうしん) (すべ)て是れ(たん)

    今極時機畫麒麟  今こそ時機(とき)は極れり 麒麟に(ゑが)かるるを

 

 

 天は未だ我我を見捨ててはおらん。其の御心は鬼界の扉と共に必ずや開かれる。総員、直ちに側方援護の配置に就き、空爆に備えよ。」

 大佐は九死の現場を課せられた重責をも忘れて、往時を馳せる感佩(かんぱい)に震撼していた。(つはもの)達の頬を掠めて跡形も無き突風。垂れ籠めていた暗雲と疑心を笑い飛ばした救世主の誕生。其の一部始終を護送車の中に潜り込んだまま傍観する鼠が一匹、報道と王道の絶望的な彼我の差に打ちのめされていた。非戦闘員以下の野次馬なぞ意に介さず進行する戦場の現実。盗撮紛いの粗探しに明け暮れているだけの三文記者を一瞬で置き去りにし、降り懸かる火の粉を旭日の恵みと浴びて(さん)ざめく鉄郎の雄姿。本物には訳が有る。彼の小僧には足許に落とす影にすら価値が有る。其れに較べて、

 スペアノイドは屈辱から蹴落とされる様に車内から飛び出した。あんな小僧に乗り遅れて堪るか。俺には俺の活路が在る。兵士達を掻き分け乍ら、粗製な合成義脳の認知を超えた生身のダイナミズムに逸脱するアルゴリズムが、プリセットされてい無い衝動に駆られて、無限ループする自問自答を振り払う。気が付けば眼の前を(ひるがえ)軍勝色(ぐんかっしょく)の乗馬服。其の小さな背中が電脳海馬に焼き付いた先代の生き様とリンクする。そんな熱暴走を地で行く、撥条(バネ)の逝かれた機械仕掛けを、

 「何で付いて来んだよ。」

 振り返った鉄郎が怒耶躾(どやしつ)けると、スペアノイドは顔を背け、

 「勘違いするな。別に御前の事なんて知った事じゃ無い。俺は只。」

 と其処まで云い掛けて口を濁す場都(バツ)の悪さ諸共、一息に突っ撥ねた。

 「真実を追い掛けてるだけだ。」

 「ケッ、勝手に為やがれ。」

 スペアノイドの幸の薄い蒼貌に(みなぎ)る、人工被膜とは思えぬ血威に一瞬我が眼を疑う鉄郎。其の紅潮した頬に、何故か、凍傷で(ただ)れた在りし日の自分が甦る。初めて999の乗車券を車掌に見せた時、車窓に映ったドス黒い顔。恥ずかしさと悔しさだけが一人前だった出発のプラットホーム。右も左も判らず無我夢中だった非力な自分が、今は唯、懐かしく愛おしい。此のアンドロイドも先代と別れてから独りで其の影を追い、消耗品と云う宿命に食い下がってきたのだ。だからこそ通じ合い、響き合える。

 土管を積み上げた様な光襲波ランチャーとやらを追い抜いて、開放された搬入ゲートへ向かって罵り合う二人。チームプレーも糞も無い。第一の案件を前にして、スペアノイドが高みの見物と許りに喧嘩腰で囃し立てる。

 「オイ、大風呂敷広げて請け負うのは良いがな。彼の偏向シールドの巖盤を本当に其の逸物(いちもつ)()じ開けられるのかよ。」

 錻力(ブリキ)の付け馬が吠えるのも無理は無い。擁壁と擁壁の断絶した峡谷から覗く、厚さ2mの耐プラズマSRC構造で封印された、高さ50mを優に超えて(ひし)めく正六面体の原子炉建屋。然乍(さなが)ら王家の(おか)に迷い込んだ錯覚。其の間近に差し迫った群墓の威容をも凌ぐ、荘厳なる聖域をマッピングした電磁の結界。決裂した地殻から岩漿(マントル)が剥き出しになったかの如く隆起し、流動する紅炎(プロミネンス)の繭玉を見上げて、未曾有の現場に呑まれまいと、スペアノイドは鉄郎に喚き続ける。矜大(きょうだい)なる虹梁(こうりょう)を描いて放射する水素原子の烈騰。怪力乱神にも程が有る、強靱な熱量の氾濫。処が、此の墓荒らしは磁力線が飛び交う鬼門と正対して大上段に腰の得物を構えると、黒耀の銃身を(おもむろ)に振り下ろし乍ら、暴虐の逸楽に絶頂していた。

 

 

    兵戰其心者勝   兵 其の心に戰ふ者は勝つ

 

    不破樓蘭終不還  樓蘭(ろうらん)を破らずんば(つひ)(かへ)らじ

 

 

 良いか撥条(ぜんまい)仕掛け、然う云うのをなあ、孫子に兵法って云うんだよ。」

 鉄郎の拡散した瞳孔が燐晶し、一点に捉える(かささぎ)の照星。機を満たし勇を鼓す荒魂(あらみたま)顱頂(ろちょう)を突き抜けて、総毛立つ逆髪(さかがみ)。重心を落とし諸手に構えた霊銃から緊緊(ひしひし)と伝わる光励起の羽動。ダマスカスの渦文が(あや)なす呪能に導かれて高鳴る心筋。黒耀の彗翼が天を扇ぎ、鉄郎は()にし()の息吹を唱え、其の銃爪(ひきがね)に注ぎ込む。

 

 

    壬寅(じんいん)(ぼく)して、星()う。

        王入るに、(じやく)なるか。

 

 

 口寄せの撃針に舞い降りてきた壞詛(えそ)発莢(はっきょう)する雷管。施条を(えぐ)る光量子のスパイラルが嘴裂(しれつ)(つんざ)く、星辰一到の霹靂(へきれき)。誘起発光する原子団(イオン)(いか)()霏霺(たなび)かせ、撃ち放たれた鈷藍(コバルト)の閃条痕が鬼窟の結界を姦通する。紅炎(プロミネンス)の土手っ腹を電解し、(ほとばし)るアークの弾沫。衝き暴かれた天津日(あまつひ)の扉に霊銃の砲哮を叩き込み乍ら、覚変した小さな英傑が雄叫びを上げる。

 「オイ、何うした、何を(ほう)けてやがる、此の三文記者。真実が逃げちまうぞ。捕まえられるモンなら、捕まえてみやがれ。」

 無尽蔵の光弾を楯に、鳳雷の坩堝(るつぼ)に飛び込む鉄郎。凡眼俗解を寄せ付けぬ異能の豪腕に、取り巻いていた兵士達の鋼顔剛躯が氷結する。高天原(たかまがはら)を蹂躙した須佐之男(すさのを)の如き傍若無人な其の颯爽。迷いを知らぬ神懸かった荒業を目の当たりにして、物理的推考が追い付か無い。一体、彼の小僧は何に取り憑かれているのか。プラズマの彼方に消えた鉄郎の影に眼を凝らすスペアノイド。併し、()()ている間にも鈷藍(コバルト)の光圧が減衰し、決壊した鬼門が閉ざされていく。狐疑に(すく)んでいる猶予は無い。スペアノイドは意を決して鉄郎が謳歌する狂喜の直中に突入した。

 フォトダイオードが灼き付く程の白烈と、バーストした超伝導コイルの中を駆け抜ける様なゲリラ雷舞。蹴汰魂(けたたま)しい高周波ノイズの濁流に知覚の演算解析が飛び、筋電義肢を引き千切ろうとする猛烈な磁束密度の螺旋に呑まれ、弾き出されると、アスファルトに()(つくば)ったスペアノイドの後頭部を上から踏み付ける様に、何事かを(しき)りに訴え続ける滅裂なロゴスが、ダイナミックマイクを介さず、直接、コンバーターに反響してくる。

 「螳壽悄轤ケ讀懊?荳ュ豁「縺?縲ら峩縺。縺ォ髯、譟楢サ翫r蜃コ蜍輔&縺帙m縲」

 「髮?クュ蛻カ蠕。螳、縺ッ菴輔≧轤コ縺」縺ヲ縺?k繧薙□縲」

 「蛻カ蠕。譽溘?謇峨′蜀??縺九i繝ュ繝?け縺輔l縺ヲ縺?∪縺吶?」

 虹励起の結界から放り出された発電所敷地内を激甚する、電脳ボードが捻れる程の喧噪と電磁干渉。ブロックノイズの飛沫が明滅する視界の色相と天地が断続的に混線し、平衡感覚を保つ事が出来無い。既に圧力容器の崩壊が始まって放射線が乱反射しているのか。スペアノイドが四つん這いのまま跪拝する様に顔を上げると、辛うじて其れと視認出来る建屋の外壁にクラック等の目立った損傷は無い。半導体樹脂を透過してガンマ線がメモリー内で保持している電位を反転させているのなら、バイナリーのサムチェックを徹底的に繰り返す事で補正出来るが、此の過積載送信は遮断した通信ポートを度外視し、ノイズゲートを乗り越えCPUバスに力尽くで乗り込んでくる。腸内で垈打(のたう)蛔虫(かいちゅう)の様にスペアノイドの頭載自我に絡み付き、増設海馬から書き換え始める複数のアセンブラ化した偽想誰何(ぎそうすいか)。拙い、背乗(はいの)りされる。スペアノイドが頭を抱え込んだ其の瞬間、

 「早速、(やっこ)さんの御出迎えかよ。千客万来は結構だがなあ、漢の花道を塞いでんじゃねえよ、此の野郎。」

 (とき)の声を出囃子(でばやし)鈷藍(コバルト)の光弾が散華して邪気を払うと、霧が晴れる様に磁歪(じわい)した視界が(ひら)け、拡散していた焦点が爆風に(はため)く軍勝色の乗馬服を捉えた。総てがコマ送りで流れ、鉄郎の頭上で宙を舞う煉獄の爆炎。降り注ぐ熱波に手を翳すスペアノイド。炉心が倒壊したのかと錯覚し、視覚補正しかけたスペクトルアイを怒耶躾(どやしつ)ける様に、火達磨の可搬型車輌が地に伏した兵士と職員達の(むくろ)の上でバウンドし、矩形波と三角波を反復する蠢敏(しゅんびん)な繊光が、不協和な合成周波音を掻き毟り乍ら、アスファルトを走る衝撃を伝って這い回る。総重量が10屯を優に越す鋼物が霊銃の(いか)りに触れたと云う以外、スペアノイドには全く状況が呑み込め無い。兎に角、電脳ボードのオーバーフローが緩和し、筋電義肢を駆動するサーボモーターのデバイス信号が回復したのを幸いに、快哉(かいさい)を上げて駆け出す鉄郎の背中を追い掛ける。

 敷地内に散乱した外傷の無い行き倒れを飛び越えて、目指すは治制を失した免震重要棟。G-shockの羅針に導かれて迷う事の無い鉄郎の健脚。一体、此の子鼠は今の今迄、何んな星を巡り、何んな修羅場を潜り抜けて来たと云うのか。スペアノイドが見てきた紛争地域の最前線には殺伐とした混沌の中にも、企業戦士達の矜恃、連帯と士気が息衝いていた。総ての戦争が民営化し、国家や民族のアイデンティティを失っても、辛うじて(せめ)ぎ合っていた希望と絶望、使命感と達成感、貫徹と挫折、憎悪と尊崇。其れが此の現場には中毒化した戦慄への陶酔も無ければ、破格の報酬に対する貪婪な執着の片鱗すら転がってはい無い。在るのは唯、未知の合成波を帯電した廃棄物の氾濫と、理性を逸した暴発寸前の核融合炉。其れを生身の躰で単独突破する何て。幾ら未成年の酔った勢いとは云え物には限度が在る。

 一旦減衰していたブロックノイズと共に湧き上がる後悔を振り切り乍ら、翼が生えた様に躍動する鉄郎の背中をスペアノイドが睨み付けると、無人の可搬型車輌が今度は高所作業車を引き連れて雪崩れ込んでくる。思慮深い滑らかな自動運転とは程遠い発作的な挙動と、死のステアリングに同期して(ほとばし)る奇ッ矯な幾何学放電。此が傭兵達の口吻(こうふん)(のぼ)った顫動(せんどう)波形とか廻癬(かいせん)波形とか云う奴か。何う見ても核融合炉から漏洩したプラズマ処の話しじゃ無い。牛追い祭りの如く先を争い、其の骨肉相食む揉み合いで砕け散り乍ら突進してくる、心神喪失の車列。鉄郎は亡霊達の盛大なパレードに口角に垂涎を湛えて相対し、君子、災いを(いと)わず、呵呵(かか)として一向(ひたぶる)霊銃を振り下ろすと、肩甲骨から襟足へと遡る旺羅(オーラ)が髪光し、片輪が脱落し横転し乍ら襲い掛かる除染車に、降魔の弔砲を叩き込む。スペアノイドの点眸(てんぼう)を皇然と覆い尽くす一撃必誅の燦弾。子供が蹴り上げた空き缶の様に軽々と(はじ)け、昇天する獣機の盲爆。其の断末魔を呼び水に後続車両が殺到し、数珠繋ぎで大破していく集団自殺のヒステリー。総ては(かささぎ)の鉤爪に心の臓を鷲掴みにされた鉄郎の、()(ごころ)の中で夜風の露と消えていく。神の物語に遭遇した法悦と恐懼(きょうく)。霊銃の呪能と寸分違わぬ鉄郎の蛮勇を前にしては、工業製品の妖かしなぞ全く物の数では無い。生け贄達の熱狂と恍惚で湧き返る、宴も(たけなわ)の血祭りに飛来してきた多目的ドローンの援軍も、所詮は暦を知らぬ夏の虫。沙漠の蝗害(こうがい)と許りに黒耀の(やじり)が一掃し、調伏された浄化の火沫が濁世の塵と為って降り注ぐ。

 粛正された怪生(けしょう)の瓦礫で燻る焦土を、唯独り総攬する少年の脊影が揺らめき、次の獲物を求めて(みなぎ)っている。天地神明より選び抜かれた軍神(つはものがみ)鎧袖一触(がいしゅういっしょく)。其の荒ぶる奇蹟に触れてクロックバーストした算譜厘求(さんぷりんぐ)ニューロンが、突然振り返った鉄郎が何事か喚いているのを解析しようとしたまま氷結し、不思議な気持ちで其の形相を眺めていると、不意に集音回路が復活し、

 「伏せろ。」

 と一喝するなり、スペアノイドの顳顬(こめかみ)を光励起の皇弾が掠め、背後から倒壊してきたクローラクレーンを衝き貫けた。爆砕する機関部の光芒に、ラチスブームの首長竜が鎌首を擡げて轟沈していく。燃え尽きたマッチ棒の様に天秤格子が(くずお)れる寂滅(じゃくめつ)の美学。其の返り火を浴びて朱に染め上げたスペアノイドの頬を、餓殺な雑言が張り倒す。

 「何うした、三文記者、もう電池が切れたのかよ。何なら其処の高圧開閉所でチャージして来やがれ。」

 茶気に溢れる弥猛心(やたけごころ)(から)げて駆け出す鉄郎の怪気炎。己の背中が燃えているのに眼も呉れぬ、書き入れ時の火事場泥棒に発破を掛けられて眼の覚めたスペアノイドは、怒りに任せて足許の残骸を蹴散らすと、盛りの付いた火の玉に再び喰らい付いていく。目指すは原子炉建屋集落とは一線を画す豪壮な遮蔽壁の城郭。鉄郎が突進する直線上に(そび)え立つ、本丸の免震重要棟は彼の囲いの中だ。元服前の怪童が血迷う速攻不惑の快進撃。其の一点突破を阻止するべく、行き倒れていた筈の死屍累々が漣み、無機無情な合成波に吊り上げられて死のダンスを謡い踊り始める。

 「蜈埼怫驥崎ヲ∵」溘↓謖?サ、邉サ邨ア繧貞?繧頑崛縺医m縲」

 「蜈医★縲∵?ク螳牙?菫晞囿螻?縲∵?ク邱頑?・謾ッ謠エ髫翫↓騾」邨。縺?縲らキ頑?・蜿る寔隕∝藤繧定ヲ∬ォ九@繧阪?ょ次蟄仙鴨隕丞宛蟋泌藤莨壹d邱冗撻蠎懊↓縺ッ譛ェ縺?遏・繧峨○繧九↑縲」

 「CNES繧値evel4縺九ilevel5縺ォ蠑輔″荳翫£繧阪?」

 スペアノイドが逝かれ飛んだ言語中枢のエンコードを再変換すると、成る程、電脳黴毒に寄生されて五月蠅(さばへ)なす此の木乃伊(ミイラ)木乃伊(ミイラ)なりに、懸命な復旧作業を悪夢の中で続けているらしい。併し、気の毒だが、(のぼ)せ上がった彼の小僧にそんな回り(くど)いアピールは通用し無い。人海戦術で立ち塞がるマリオネットに、鉄郎は情状酌量の欠片も無い弾幕を浴びせて駆逐し乍ら、遮蔽壁の搬入路に殴り込む。出汁を搾り取られた煮干しの様に討ち棄てられていく遺骸の山を乗り越えた其の先に現れた、工事の差し止めを喰らって放置された鉄筋コンクリートの基礎にしか見えぬ莫大な構造物。激甚災害への耐久強度を優先して、展望用途の外窓を一切備えぬ防御一徹の異様な社屋が、今、魔の巣窟と化して反旗を翻している。そんな原子炉建屋に引けを取らぬ万難を排した無言の凶威に向かって、独断専行の一撃を名刺代わりに強化扉を吹き飛ばすと、

 「旧世代の重合体ってのは何うして斯う歯ごたえが無いのかねえ。タイタンで()ちのめした最新モデルと較べたら離乳食だぜ。」

 鉄郎は歓喜の雄叫びを挙げて免震重要棟に特攻した。

 彼の馬鹿は誰にも止められ無い。奴の後に付いていけば何んなに堅牢な伏魔殿でも唯の通過駅だ。スペアノイドは問答無用の弾丸列車にイの一番で飛び乗ると、鉄郎の粉砕した正面ゲートに一歩踏み込んだ途端、無賃乗車のツケに打ちのめされた。磁性化した筐体(ボディ)触媒(アンテナ)に、建屋の躯体を乱反射する有らゆる周波の電磁放射が偏頭痛となって兇振し、電網中枢を逆上する蠱酸(むしず)が型落ちの合成義脳に襲い掛かってくる。スペアノイドは頭を抱え乍ら壁に片手を突き、銃撃が聞こえてくる地下に向かって、自律制御の利かぬ筋電義肢を引き擦っていくと、気が付いた時には階段を転がり落ちて、電脳黴毒に寄生された職員を鎮圧している鉄郎の足許に倒れ込んでいた。頭上を交錯する鉄郎の絶叫と(まばゆ)い皇弾。其の銃声の狭間で爆ぜるビープ音に真逆(まさか)と思い集音回路を絞り込むと、

 「オイ、アラートが鳴ってるぞ。」

 「然うだな。」

 「然うだなって、御前、死にたいのか。」

 「手が放せねえんだから仕方ねえだろ。代わりに御前が着ておけよ。」

 鉄郎は霊銃を乱射し乍ら片手でウエストポーチを引き千切って放り投げ、スペアノイドは余りの無頓着に顎が地を叩いた。

 「大佐は俺の腕を見込んで頼んできた。然して、俺の話も聞いてくれた。其れを放っぽらかして、自分の損得だけで動けるかよ。そんな風だから機械は機械なんだよ。云っただろ。自分の話を聞いてもらいたかったら、先ず他人の話を聞けってな。」

 「あんな堅物の何を聞くって言うんだよ。」

 「奴は打算で動いて無い。俺は彼の大佐が気に入ったのさ。御前も俺の事が気に入ったから付いて来てるんだろ。」

 「今は、そんな場合じゃ無いだろ。」

 「そんな場合じゃ無いって、じゃあ、何んな場合なんだよ。」

 「時間城に行くんじゃなかったのかよ。」

 「其奴は此処を片付けてからだ。臆病風で腹が冷えるんなら、表に出て夜泣き蕎麦でも啜ってろ。御前の云う通りだった。確かに此のヤマは時間城と繋がってる。御負けにハーロックに会ってサインも貰えそうだしな。感謝してるぜ。」

 鉄郎はウィンクを飛ばし、スペアノイドの手首を掴んで抱き起こすと、其の儘、強引に通路を引き擦り廻し、サーベイメータ、酸素濃度計、二酸化炭素濃度計、放射線モニターが錯乱する除染エリアとサーベイエリアを征圧して、統合司令室に怒鳴り込んだ。燃料プール、サプレッションプールの各水位。チェンバ、ドライウェルの圧力、温度、水位。格納容器水素濃度、格納容器スプレイ流量、放水路水及び、排気筒レンジの各モニタ、主蒸気管放射線異常高トリップ、原子炉建屋の内外気圧。中央制御室と連動する千差万別のパラメータで埋め尽くされた室内の、何の端末が防空システムを統制しているのかを精査している暇は無い。雷獣の獄舎の如き電呪の臨界に興じる職員達の輪舞に向かって、戦士の銃を諸手に構え発皇する鉄郎。其の閃光に立ち眩み、スペアノイドは壁に凭れて腰から砕け落ちると、後はもう、重合体の磁縛に浸蝕された躰を床に投げ出して、天井の送風口を眺めた儘、遠い日の花火の様に繰り広げられる落花狼藉に耳を傾け、辛うじて意識を繋ぎ止める事しか出来無い。

 此は人間の所業なのか、其れとも此こそが人間なのか。鉄郎の天衣無縫な神通力では無く、其の豪放磊落な胆力にスペアノイドは酔没していた。統合司令室の阿鼻叫喚と入れ違いに薄れていく偽計周波の過積載送信。併し、電脳ボードの器質的損失と一部上書きされて終った不揮発性(フラッシュ)自我のダメージで意識が断続的にブラックアウトし、頸椎から下のデバイス信号が完全に欠落している。此以上、自力で動け無ぬ許りか、後、何れ程意識を保っていられるのかも判ら無い。其れでも、鉄郎の後を追い掛けて此処迄来たスペアノイドは、知性や理性を超えた生存(せいあ)る者の、(しん)(ずい)に、此の宇宙を象創(かたちづく)った大いなる御心(みこころ)に触れた気がして、満更でも無かった。

 サムチェックの偏頭痛を抱えて己の非力を腕枕に、サバサバとした不貞寝を決め込むスペアノイド。其の微睡(まどろ)みを、天井から免震構造の基礎へと躯体を突き抜ける重鋼な激震が叩き起こした。地上階から降り注ぐ、天地を取り違えた直下型地震の如き、耳を(ろう)する轟音。銃撃を切り上げ、統合司令室から出てきた鉄郎は、スペアノイドに肩を貸して抱き起こし乍ら、殺気立った笑みで吐き捨てた。

 「何うやら、押っ始めやがった様だな。」

 「始めたって、何をだ。」

 「空爆さ。此奴は虹励起防塁(バリア)が解けたって云う、大佐からの合図だ。」

 「合図って、俺達は未だ此処に・・・・・、聞いてないぞ、そんな事。」

 「熟々(つくづく)、判ってねえなあ。然う云う野暮な事を口にしねえ処が、大佐の奥床しい処じゃねえかよ。(やっこ)さんも俺と同じ様に如何様(いかさま)烏賊墨(いかすみ)が苦手なのさ。」

 「じゃあ、虹励起防塁(バリア)が解けたら直ぐに空爆すると判ってて引き受けたのかよ。」

 「然うさ、でなきゃ封じ込める意味がねえだろ。俺も大佐と同じ立場だったら、首尾良く逃げ(おお)せたか何うかは二の次で爆撃する。此の糞みたいな騒ぎを本気で鎮めたかったらな。」

 「御前、人が好いにも程が在るぞ。」

 「俺が遣ら無きゃ、大佐が身を挺して此処の後始末をしていた筈さ。奴は然う云う漢だ。然して今、側方支援をし乍ら、俺達が生きて帰ってくる事も信じてる。期待を裏切るのはスーパースターの流儀じゃねえ。御前も助演男優賞候補の端くれなら、レッドカーペットは直ぐ其処だ。(しっか)りしやかれ。」

 空爆の衝撃で波打つ免震構造の床に足を取られ乍ら、スペアノイドを抱えて鉄郎は歩き始めた。警報装置と鉄筋コンクリートを打ち砕く爆音が此の世の終わりを喚き立て、焦気(しょうき)が立ち籠めてきた棟内。バランスを崩し手を突いた壁にクラックが走り、天井から飛び散るモルタルの欠片が(あられ)の様に打ち付ける。エレベーターを使う訳にもいかず、階段の手前まで引き擦って来たのは良いが、脱力し切ったスペアノイドを担いで上がるのは生易しい事では無い。

 「鉄郎、俺を置いて逃げろ。自分の事は自分が一番良く判ってる。此の儘じゃあ、二重遭難するだけだ。」

 「ケッ、泣きを入れる位なら端っから付いて来んじゃねえよ。其れと、此からは余計なオプションは換装しねえ事だな。糞みたいに重くて敵わねえや。」

 「良く聞け。俺はアンドロイドだ。俺のスペアなら幾らでも作れる。でも、御前の替わりは此の宇宙の何処にも無い。御前はこんな処で死んじゃ駄目だ。」

 人間に成り切れなかったピノキオの哀訴が、白魔の中で最期の別れを告げた母の姿と重なり、鉄郎は何も出来なかった己を詰る様に怒鳴り付けた。

 「本当に口の減ら無い野郎だなあ。俺はもう、独りで逃げ回るのには飽き飽きしてんだ。良いから歩け。」

 必死で踊り場へと引き擦り上げようとする鉄郎に、スペアノイドは糸の切れたマリオネットの様に項垂(うなだ)れたまま沁み沁みと呟いた。

 「鉄郎、一度で良いから御前に俺の書いた記事を読ませたかったよ。御前に銀河鉄道株式会社の事で聞きたい事も山程有ったしな。」

 「巫山戯(ふざけ)んな、そんなモン何時だって読めるじゃねえか。何だったら定期購読してやらあ。支払いは此で済ませとけ。」

 鉄郎は無記名のパスをスペアノイドのPコートのポケットに捻じ込んだ。

 「二代目編集長、其の機関誌の名前は何て云うんだ。」

 鉄郎の無造作な計らいにスペアノイドは喉が支えた。

 「will・・・・・。」

 「聞こえねえ、もっと胸と声を張って云いやがれ。」

 「W、I、L、Lで、Willだ。何度も云わせるな。」 

 「ケッ、高麗(こま)っしゃくれた名前付けやがって。」

 鉄郎が鼻を鳴らして顔を背けると、スペアノイドは遠退いていく意識の中で最期のインタビューを切り出した。

 「鉄郎、御前は、何うして旅をしているんだ。此のパスは一体、何う言う代物なんだ。時間城には何が在るんだ。」

 「母さんが待っているのさ。俺の事をな。もう眼と鼻の先だ。正直、此処迄来れるとは思って無かったけどな。」

 「・・・・・・・・。」

 「其れと時間城では仲間に会えるかも知れ無いしな。今から楽しみだぜ。」

 「仲間?」

 「竜頭(りゆうづ)って云うんだ。二代目みたいに瓜実顔(うりざねがお)で幸の薄い顔をしててな。」

 「りゆうづ・・・・・。」

 「然う、蜻蛉(かげろう)みたいな女でさあ。一度しか会った事は無いし、アッと云う間の出来事だったから、向こうは俺の事を仲間なんて思って無いだろけどな。

 

 

むすぶ手の雫に濁る山の井の

       飽かでも人に別れぬるかな

 

 

 然う云って、分かつ(たもと)は音信不通。もう一度会って何が為たいって訳じゃ無い。でも、本当に会いたいってのは然う云う事だろ。」

 鉄郎が自虐気味に答えると、スペアノイドの虚ろな瞳孔が眼裡(まなうら)に雲隠れし、白目を剥いた能面が聞き覚えの有る掠れた声色に裏返った。

 

 

 「私を()ぶのは誰?」

 

 

 不意の尋問と同時に怒濤の空爆が自稼発電設備に達して動力が断絶し、甚大なる暗哭に突き落とされる棟内。鉄郎が後ろから()(かか)えているスペアノイドの、心神を逸した瞳だけが燐火を(とも)し、爆震に(おのの)いている。余りにも唐突な、再会と呼べるのかどうかも判らぬ数奇な因力。天与の宿縁か、悪魔の詐術か。何が起こっているのか、全く脈絡の無い闇討ちに、迫り来る空爆の脅威も忘れて、神懸かった声の主に(すが)り付く。

 「其の声は竜頭、竜頭だろ。俺だよ。鉄郎だ。星野鉄郎だよ。」

 鉄郎が両肩を掴んで激しく揺すぶると、完全に失神したスペアノイドに伸し掛かる重力が不図(ふと)、和らいで、ピアノ線で吊り上げられる様に立ち上がり、憑依した竜頭の言霊が半醒半睡で逆に問い質した。

 「鉄郎・・・・・誰?何うして私の名前を知っているの。」

 「竜頭、()た記憶をリセットされたのかよ。重力の底に突き落とされた闇の中で会っただろ。999を助けてくれたじゃないか。本当に、何も覚えてい無いのかよ。」

 「記憶を・・・・・そんな事まで知っているの。確かに、初期化されて其の時の事はもう閲覧出来ないのかも知れ無いわ。」

 「竜頭、何うして此処に居るんだ。一体、何が何うなってるんだよ。」

 「私はファクトヘイヴンで降りる乗客が居ると云うから、真逆と思って見に来たのよ。999は通常、此の領域を通過するだけなのに、然うしたら・・・・・。」

 「ファクトヘイヴン?何う云う事だよ。此処の停車駅は惑星ヘビーメルダーじゃ無いのか。ヘビーメルダーがファクトヘイヴンって事なのか?其れじゃあ、空間軌道が一点に集まるトレーダー分岐点って云うのは・・・・・。」

 「貴方が999に乗車していた時間軸ではヘビーメルダーは既に星滅(しょうめつ)しているわ。トレーダー分岐点も他の星系に機能を移設されて、此処にはもう思い出の欠片しか無いのよ。」

 「思い出の欠片?」

 「貴方は何故、ファクトヘイヴンに、否、もう存在し無いヘビーメルダーで降りようと思ったの。」

 「機械伯爵だ。機械伯爵が時間城に来いと言ったんだ。奴が俺の母さんを(さら)っていったんだ。母さんに会いたければ時間城に来い。地球に在る屋敷で奴は然う云ったんだ。」

 「機械伯爵に会ったの?地球の鉄道博物館に入れたの。」

 「然うだ。」

 「其れが本当なら、貴方の力で此の扉を開けられる筈よ。」

 竜頭の言霊が言切(ことき)れた途端、憑解したスペアノイドの重力が復活し、鉄郎の手から擦り抜けて階段を雪崩れ落ちると、メーテルが降車前に渡した無記名の乗車券がスペアノイドのポケットの中で煌めいている。そんな事は有り得無いと判っていても、鉄郎には最早、抗う術も何も無い。スペアノイドのポケットから乗車券を取り出して完全無欠の闇の中に翳すと、真実なんて呼べる物は何も無いと竜頭の仄めかした幻想譚が、其の幕を開けた。

 漆黒の激甚に虹を架ける999のホログラム。緊急災害時の統合司令本部として建造された、鋼紀五拾貮年の免震重要棟と云う、時を超えた見当識を、魔性の煌めきが消却していく。此の独片(ひとひら)の呪符に取っては、銀河鉄道株式会社が誇る旗艦路線で周遊出来る権利等、刺身のツマでしか無かった。メガロポリスから見棄てられた辺境の銀世界に忽然と現れた鉄道博物館。虚実の継ぎ目が地吹雪に散った彼の戦慄が、鉄郎のタクトに再び霏霺(たなび)いた。闇から闇へと輪転する追憶のネガフィルム。終末を告げる雷霆万鈞(らいていばんきん)の空爆がトンネルの彼方へと遠離り、降り注ぐモルタルの礫が塵雨(ちりさめ)となって掠れ、受け皿を失った心の砂時計を擦り抜けていく。(はら)い清められた暗転に澄み渡る感度。取り残された無明の緘黙行(しじま)に立ち尽くし、忍び寄る玲瓏な大気に肌を(そばだ)てる。死に境の(ふか)い陶然を(ぬぐ)うと夢落ちで在った。地の底が黄泉復(よみがえ)った。

 

 

 

 

 ほと ほと ほと

 

 

 射干玉(ぬばたま)の闇に滴る時の雫に浸されて、昏昏と眠り続ける黒耀の(つぶ)らな原石。()ざされた眼裡(まなうら)(くる)まり結晶化した追憶の欠片が(しず)かに瞬き、薄らとした意識を手探る其の指先が、此処では無い何処かへの糸口に触れ、(ほの)めいた。磐肌(いわはだ)を伝う岩清水の呟きに合わせて、(ひと)つ又(ひと)つと点る多針メーターの蒼白なバックライトが、磐室(いわむろ)の奥へ奥へと鉄郎の半瞑半目(はんめいはんもく)を導いていく。閉塞石で封じられた王墓の中で甦った錯覚。地球の鉄道博物館で呑み込まれた伝送海馬、其の儘に浮かび上がる、(おびただ)しい計器の集積したモザイクが磐壁(いわかべ)となって、天井知らずの吹き抜けへと繁茂し、唯一筋の羨道を左右から挟み込む様に(そび)え立っている。

 「此処が・・・・・・時間城?」

 想像していた豪壮な牙城とはまるで異なる聖謐な幽境。999の機関室にも似た黒妙(くろたへ)の神韻に戸惑う鉄郎の背後を、此の磐肌の陰に紛れていた気配が揺らめいた。

 「然うよ。此処は機械伯爵の()べる時間城。」

 背筋を逆撫でる物憂げな囁きに振り返ると、重力の底の墓場で巡り会った海松色(みるいろ)のチャドルが悄然と垂れ籠めている。地に堕したオーロラから覗く鈍色に沈む三白眼。スペアノイドの瓜実顔を凄絶にした石女(うまずめ)の死相。再会の喜びを一切受け付けぬ、初めて対峙した時の儘の竜頭が其処に居た。

 「此処まで辿り着けると云う事は、私と会った事が在ると云うのも、(あなが)ち嘘では無いようね。」

 表情が削げ落ち硬直した土気色の頬が微かに引き攣り、線で引いただけの口角が書き損ねた様に歪むと、鉄郎は其の鉄壁の能面に噛み付いた。

 「竜頭、此れの何処が城なんだよ。時間城って何なんだ。一体、ヘビーメルダーは何うなったんだよ。星滅したって云ったな。じゃあ、ヘビーメルダーの人達は何う為ったんだ。」

 「其の人達なら・・・・・。」

 捲し立てる其の舌鋒に臆せず、竜頭は多針メーターの独つに手を翳し、醒め醒めとしたバックライトの狐火を()でてから、鉄郎の背後に広がる磐壁を見渡した。

 「此処に居るわよ。」

 皹割(ひびわ)れた心の殻の隙間から漏れる掠れた声。竜頭の遠い眼差しの後を追って鉄郎が振り返ると、玄室へと続く羨道の双壁に敷き詰められた、インデックスと風防硝子の瞬く膨大なマトリクスが、左右の複眼レンズとなって、鉄郎に(そそ)いでいた衆目を一斉に伏せた。真逆(まさか)、此の多針メーターの独つ独つが魂の憑代(よりしろ)?此の埋め尽くされた底光り中にスペアノイドや大佐も()していると云うのか。鉄郎は尽きる事の無い闇黙(あんもく)に向かって何処迄も続く精霊(しょうろう)の灯火を見上げて絶句し、竜頭は検索したテキストデータを走査する様に淡々と(こと)()を紡いでいく。

 「中疆マテリアルのサーバーで発牙した電脳黴毒は、星間通信の帯域制限を突破して、ヘビーメルダーの核融合炉内で電劾重合体に覚変した。旧世紀のアーカイヴを貪る内に偽計因子(ウイルス)が共産化したのか、共産主義が偽計因子(ウイルス)化したのか。今と為っては誰にも判ら無い。判っているのは、サイバーテロの切磋琢磨に因って、原子炉の局地空爆でも押さえ込め無い程の力を身に付けて終ったと云う事だけ。アルカディア號は銀河鉄道株式会社の決裁を待たずに、鋼紀五拾貳年壬寅(じんいん)、惑星ヘビーメルダーを破壊したわ。表向き、鉄道公安警備に拿捕された仲間の釈放要求を呑まなかった銀河鉄道株式会社に対する、スペースノイド解放戦線の報復行為として処理された惑星テロ。其の犠牲者達の残留思念が時縛した、亜空間の乱反射を利用して宙装冥彩を施し、総てを隠蔽した星の墓場がファクトヘイヴンよ。停車駅とは名許りの、通過した事すら気付いてもらえぬ、忘れ去られた記憶の防波堤。誰も乗り降りする事の無い、折り重なる墓石を敷き詰めた追弔のプラットホーム。然して何時しか、此の統制封鎖宙域を銀河鉄道株式会社は不都合な事業の実態を葬り去るブラックボックスに重用し始め、人は此処をファクトヘイヴンと呼ぶ様になった。時間城は其の墓暴きに遣って来る者達を返り討ちにする為の物見櫓(ものみやぐら)よ。排他的帝層帯域だ電影要塞だ何て(いか)めしい事を言っていても、遣っている事は墓守に毛が生えた様な物。其れでも、伯爵は自ら手を下した者達を弔う為、此処に留まっているの。」

 竜頭の引き攣っていた口角が(かす)かに綻び、鉄郎の顔を覗き込む様にチャドルの袖の中から燈會(ランタン)を差し伸べた。

 「鉄郎・・・・と云ったわね。御免なさい。貴方の顔を見ても何も思い出せ無い。でも、貴方が大切な御客様だと云う事は判るわ。伯爵に会いたいんでしょ。案内するわ。ようこそ、鉄郎。ようこそ、時間城へ。」

 血の気の無い竜頭の頬が硝子に()した火影で(ほの)かに色付き、(うしな)われた時を刻む跫音(あしおと)が石畳に木霊(こだま)した。斎女(いらつめ)のドレープが誘う(つい)(すみか)。重力の底の墓場から、星の墓場と、()()衆生回向(しゅじょうえこう)に縁の有る女だ。仏性を()めた多針メーターの鈴生(すずな)りに見守られて進む魂の廃坑。彼の空爆を以て為ても助ける事の出来無かった者達の深閑とした眼差しを背負い、何故、何時も自分独りだけが生き残って終うのか、自問自答する途切れる事の無い数奇な道程(みちのり)。若し、此の灯火の中に母さんも葬られているのだとしたら、何者かに仕組まれた様な星星を巡る旅は、此処で終わりを告げるのか。鉄郎を取り巻く謎と運命が、今、踏み締めている一筋の舗石の彼方に収束していく。

 「漢の約束に証文は無用。」

 と言い放ったのだ。総ての鍵は彼の漢が握っている。一歩、又、一歩と近付いていく嘗て無い凶兆を腰の得物も嗅ぎ付けた。()()を求めて千早振(ちはやぶ)る、平素の猛々しさとは程遠い(かしこ)まった(おのの)き。磐室を鎮める霊徴(れいちょう)が死地へと(おもむ)く透徹した覚悟を研ぎ澄ます。伯爵の屋敷では虚実争爛に入り乱れ、勝手の判らぬ儘、煙に巻かれて終ったが、己の骨を埋める腹積もりでなければ此程の居城を築いて弔う物か。此の奥津城(おくつき)意外に奴の帰る場所など無い。例え不帰の先客に連座する事に相成ろうとも、此処に極まる男子の本懐。何を悔い、誰に恥じ入る事が有ろう。崇高な沈痛を津津(しんしん)と湛える(とこ)()の浄域に、不届きな随喜が込み上げ、竜頭の丁重で臈長(ろうた)けた足取りすら今は(もど)かしい。磐肌を伝い文字盤の裏でムーヴメントを掻き毟るシーク音が聞こえてきた。地の底に突き刺さった王墓の峡谷が(ひら)かれていく。質朴な副葬品すら排した、四方を取り囲む多針メーターが昇魂となって天の河の様に吹き抜けているだけの玄室(げんしつ)。中央の石櫃(いしびつ)の脇に(そそ)り立つ益荒男(ますらお)は、金象嵌(きんぞうがん)の銘文が煌めく直劍(ちょっけん)を右下段に構え、既に漲っていた。

 立ち昇る幽渾に後背が揺らめき、頑健な双肩と重厚な胸郭、胆力の座った腰鎧(ようがい)に天地を支える剛脚。鉄道博物館で集団肖像画の中から降り立った、利き腕を()がれ、左脇腹を(えぐ)られた満身創痍の落ち武者は、剛性軍馬の騎乗から機賊を睥睨(へいげい)した雄々しき軍装となって甦り、霊超類の頂に建立している。無縁仏の番人と云うには余りにも苛烈な其の疆格(きょうかく)緑青(ろくしやう)を吹いた酸化被膜の頬に集積する古代の文様が(ざわ)めいて、其の皺襞(しゅうへき)を極める渋面に陥没した、火眼金睛(かがんきんせい)のモノアイが血走り、

 「伯爵、御客様を御連れしました。」

 と竜頭が取り次ごうとするのを制した鋳造(ちゅうぞう)の魔神が、其の鼎沸(ていふつ)(くつがえ)す。

 「貴様、其の銃を何処で。」

 伯爵の怒号が袋小路の聖謐を焼き尽くし、氷変する磐壁の精霊(しょうろう)達。Barbourの裾を挟んで霊銃の鋼目と、伯爵の鋳殻(ちゅうかく)に刻印された獣神の綾並(あやな)みが、()(かみ)音羽(おとは)()らし兇振している。タイタンから連れ添ってきたダマスカスの化鳥(けちょう)気色(けしき)ばむのも無理は無い。何せ、カドミウムレッドの眼力、其の一喝でレーザーアサルトの弾幕を撥ね除けるのだ。此の堅物は今迄の獲物とは物が違う。併し、鉄郎も人間狩りの闇討ちに蹂躙され、白魔に屈した彼の時の御薦(おこも)では最早無い。

 

 

   男兒立志出鄕關  男兒(だんじ) 志を立てて鄕關(きやうくわん)()

   仇若無成不復還  (きう) 若し成る無くんば()た還らず

 

 

 鉄郎は竜頭の肩口から覗く饕餮(たうてつ)の機畜に脊髄が反射し、引き千切れん許りに握り込んだ銃爪(ひきがね)から衝き貫ける嘴裂(しれつ)鳳吼(ほうこう)が、挨拶代わりの皇弾を問答無用で叩き込む。逆波の如きドレープを巻き上げてチャドルを掠める光量子のスパイラル。怒りに任せた彗翼の(やじり)が死者の冥福を(つんざ)き、剛頑な伯爵の額に炸裂した。避雷針に直撃した(いか)()の如く燦爛するアークの飛沫。仁王立ちの壮躯が白烈に包まれ、鬼界に没した玄室が発昂する。鈷藍(コバルト)の閃条を伝って鉄郎の肩甲骨から腰椎へと伸し掛かる光励起の反動。全身全霊の晶撃に鵲が息を継ぎ、盲滅法の弾劾が途絶えると、立ち籠める焦煙の狭間から、電呪の誉れと名にし()う怪偉が、其の本領を現した。

 

 

   唔左治天河令作此百鍊利刀

 

 

 其の鼻面から眉間に掛けて垂直に突き立てた、無粋な剣身の棟を刻む()にし()の矜恃。金象嵌の裂傷から飴色の岩漿(マグマ)が滴り、焼け(ただ)れた植毛と軍装に際立つ不撓不屈の鋼骨漢。渾身の暴発を(しの)がれて、構えた銃を解けず強張(こわば)る鉄郎に、獣紋の這い擦る外顎(がいがく)が不敵な賛嘆を苦遊(くゆ)らせる。

 「生半可な主君では易易と喰い殺されて終ふ其の霊鳥を、良くぞ其処まで手懐(てなづ)けた物だ。誉めてやるぞ、小僧。冥土の土産代わりだ。耳汚しに覚えておいてやる。名を名乗れ。」

 「巫山戯(ふざけ)るな。俺の事を忘れたか。時間城に来いと云った事も覚えて無いのか。刺し違えるつもりで云えよ、此の野郎。母さんは何処だ。母さんを出せ。若し、此処の墓の何処かに埋もれていると云うのなら、貴様が地獄に突き落とされて、連れ戻してくる事になるぞ。」

 「何、貴様は真逆(まさか)、彼の時の小僧。吹雪の中で行き倒れたのでは無いのか。其れでは貴様は星野加奈江の息子の・・・・。」

 「星野鉄郎だ。思い出したか。母さんは何処だ。母さんは無事なのか。」

 鉄郎は逆上の余り、伯爵が母の実名を漏らした不審な言い回しを聞き逃し、鵲の照星に有らん限りの憎悪を充填してポインターを飛ばすと、伯爵は正面に構えていた神劍を解き、額に点る緋照に苦渋を滲ませて鉄郎の穢れ無き激情に隻眼を凝らした。

 「母を捜し求めて此の時間城迄辿り着いたと云ふのか。(しか)も其の行き掛けに戦士の銃迄・・・・・・見上げた奴だ。」

 放駭な語気は陰を秘そめ、(えぐ)れた頬骨から剥離する酸化被膜。怒張した鼎の魔神は其の肩を落とし、焼け落ちた身形が敗走に疲れた落人の末路に成り下がる。

 「鉄郎、貴様の母の事なら案ずる事は無い。旅の駄賃に会はせてやらう。貴様には真実を知る資格が有る。竜頭、案内してやれ。」

 伯爵が石櫃に片手を翳して起動させると、唇に人差し指を添えて振り返った竜頭は、其の指先を銃を構えたまま張り詰めている鉄郎の唇に、そっと重ね合わせた。人工被膜の醒めた肌触りに心のリセットを押されて膝の力が抜け、不意に重力から解放される鉄郎の逆鱗。竜頭の胡乱(うろん)な三白眼が霞み、ビットマップのドットが欠け落ちる様に視界が暗転していく。鉄郎が何処に連れて行くのか問い質そうとして一歩踏み出すと、(いわ)く有り気に立ち尽くす竜頭のチャドルがプロジェクターの様に体を擦り抜け、光を失ったオーロラのドレープに跡形も無く包み込まれた。

 鉄郎の立っていた磐床を、(うつろ)蜻蛉(かげろ)燈會(ランタン)の火影が己の抜け殻を見下ろす様に照らし出している。時の雫が弾けて再び冥夢の底に臥した(とこ)()の聖謐。何も見なかったと、星眸を(すぼ)める多針メーター。又、独り、葬り去られたかの様に闇が深まり、噛み締めた其の沈痛に一筆書きの口吻が掠れた。

 「其れでは伯爵、私も此から彼の少年の後を・・・・・。」

 「待て、竜頭。彼の小僧には未だ用が有る。私も行く。だが、其れは彼の狐を片付けてからだ。」

 伯爵の隻眼が再び丹力を取り戻し、竜頭が其の視線の先に燈會の(ひさし)を掲げると、鉄郎が辿ってきた羨道の暗鬱と同化していた二人目の招かざる客が、(くろ)き双鶴と見紛うピンヒールを、泉下の浄域に突き立てた。

 「何時迄そんな処に隠れてゐるつもりだ、メーテル。」

 身を持ち崩した義理の娘を半ば見放した養父の口振りに、黒妙(くろたへ)の斜に構えた露西亜帽が精霊(しょうろう)達の隠影を擦り抜け、多針メーターの炎群(ほむら)で其の鳳髪を()()めた絶世の稀人(まれびと)が、秀麗な睫を逆立てる凄絶な娟容(けんよう)で現れた。此の秘所を弔うに相応しい喪装の幽女。亡き者が降霊したかの如き勿体振った主賓の来場に、伯爵は笑止に堪えぬと許り、饕餮(たうてつ)の相好を崩して囃し立てる。

 「あんな野良犬を拾つてきて何うするつもりだ。」

 「鉄郎を何処に遣ったの。」

 「そんなに彼の小僧の事が気になるか。一緒に旅を続けて情が移つたか。其れとも、

 

 

     速川(はやかは)の瀨に()る鳥のよしをなみ

        思ひてありし我が子はもあれ

 

 

 上書きした自我の安い鍍金(メッキ)が剥がれて、母性の地金が(うず)くのか。」

 「訊いているのは私よ。答えなさい。」

 「フン、母親は何処だと云ふから案内して遣つた迄の事。彼の日の夜にな。」

 艶やかなフォックスコートの毛並みを逆撫でする、粒の粗い算譜厘求(サンプリング)錆声(さびごゑ)(しわぶ)き乍ら、伯爵が灼熱のモノアイに物を云わせて竜頭に下がるよう促すと、金紗の垂髪を掻き上げて襟足からスティックを取り出したメーテルは、光励起の雷刃を振り降ろし、()い交ぜになった胸臆と虫酸を噛み殺した。

 「余計な事を。」

 小鼻の脇から眉尻に掛けて顔面神経が痙攣し、死神も其の眼を逸らす、獲物に向かって一点を見据えた絶対零度の雪視霜眸(せっしそうぼう)。メーテルは硝子細工の様な顎を引き、(ふる)える左手を軽く結ぶと、(おもむろ)に、磁雷を帯びた剣先を伯爵の鳩尾(みぞおち)に手向け、静止した。肩口から斬っ先へ水平に差し伸べた、蒼く燃え盛る真一文字の殺意。

 「竜頭、もう二度と此の漢の事を思い出さなくて済む様にして上げるわ。今から私が貴方の主人よ。今直ぐ鉄郎を連れ戻しなさい。さあ、早く。」

 伯爵を真正面に見据えた儘、漆黒の鶴声が磐室に轟くと、其の残響を鎮める様に、一呼吸置いた弱竹(なよたけ)後為手(のちシテ)が渾身の禹歩(うほ)を繰り出し、独片(ひとひら)の冥利を口荒(くちすさ)ぶ。

 

 

    とく死なせたまひて

       菩提かなへたまへ

 

 

 墓穴を彷徨う亡者の譫言(うわごと)か、将亦(はたまた)、血迷った呪詛か。誰の心にも届かぬ、地を這う呻吟。其の死斑の浮いたメーテルの口吻を、犀皮(さいひ)の如き軍靴が事も無げに踏み躙った。

 「討ち死に覚悟で辞世の句を(のたま)ふとは、何を然う生き急ぐ事が有る。」

 心の臓を捉えて放さぬ弔刃(ちょうじん)を突き付けられても猶、片手に提げた霊劍を構えもせずに北叟笑(ほくそえ)む伯爵。其の傲岸に痺れを切らした墨染めの白拍子(しらびょうし)は、プラズマの絶尖を手向けた儘、粉骨砕身の足拍子を磐床に叩き込む。激甚する玄室の岩盤と石櫃。埋め尽くされた多針メーターが複合するサブダイアルを一斉に見開き、磐肌を伝う岩清水が霧を吹いた様に飛沫して、露西亜帽の毛先に降り注ぐ。

 「其の耳が聞こえる内に、貴方の代わりに謳って上げるのがせめてもの情けよ。」

 メーテルの歪んだ白磁の蒼貌が、一瞬、慈母の生色を取り戻し、瞳の奥で氷結した怨嗟の結晶に、悲愴の翳りが閃いた。

 「宇宙の歴史に魔女と書き残されても良い。悪魔と書き残されても良い。私は鉄郎の為に貴方を殺す。死んでいった沢山の若者達の為に貴方を破壊する。」

 血意の哀哭に光背を焦がして逆立つフォックスコート。再び垂直に振り上げたピンヒールを黄泉の三和土(たたき)に撃ち降ろし、奈落の底を洞喝する天地鳴慟の足拍子。激情に傾ぐ秘層の巌窟が乱高下し、虚空を()ぜる岩清水の慈雨を、星辰一刀、光量子の魔刃が斬り裂いた。

 伯爵の頸椎を一閃する飛燕の斬像。横殴りの瞬雷に益荒男(ますらお)の鋳像が白烈し、宙を(はため)く鳳髪が金燐を散らして舞い降りる。軌道半径に迷い込んだ愚鈍愚物を立ち所に決裁する、二の太刀を知らぬ虹周波(こうしゅうは)の刀身。手弱女(たおやめ)手練(てだ)れとは思えぬ、其の熾烈な手応えが、今、未知の領域に抵触した。降り注ぐミストを焼き尽くし、天を逆巻く男瀧(おだき)かと見紛う水蒸気の狼煙(のろし)を掻き分けて皇然と聳り立つ、放電ノイズを絡めた護国の化身。天下を左治せし百練の利刀が地獄の釜から湧き出で、伯爵の壮絶な形相に幽閉された玄室の神気が()せ返る。

 「取つて付けた応急処置で、自我も本体も崩壊せずに此の時間城まで辿り着いただけでも御の字だと云ふのに、猶以(なほもつ)て、此程の力を揮へるとは。矢張り、其の伝世品種は大した物だ。探し求めてゐた強制換装に耐へ得る血統が本当に存在するとはな・・・・・・併し。」

 伯爵は楯に仕立てた霊劍の脇に(あか)き千里眼を忍ばせて、メーテルの瞳の奥を覗き込んだ。

 「譬へ転写や経年に因る劣化を最小限に押さへ込めても、重複したエゴの歪みは度為難(どしがた)いか。メーテル、何うだ其の女の乗り味は。活きが良いのは寧ろ、苦しみと悲しみの裏返し。もつと早く、其の験体と出会ふ事が出来てゐれば、手の施し様も有つた物を。」

 饕餮(たうてつ)の下顎に組み込まれたエアフィルターが排気する焼き(ごて)の如き慨嘆。其の居丈高な憐憫をメーテルは痺れる程の手応えが残る二の太刀で振り払う。

 「竜頭も私も貴方達のモルモットや人柱じゃ無いのよ。」

 己の運命に抗うべく、一心不乱に()ち込まれる光励起の兇刃。伯爵は傲胆な膂力(りりょく)を秘めた剛腕を揮わず護りに徹し、小手先の剣撃なぞ意に介さぬと千閃萬烈を弾き返す霊劍が、哀糸豪竹を奏でて躙り出る。不滅の旺羅(オーラ)を発して押し返す圧倒的な鬼魄(きはく)。一撃必誅を期して喉笛を執拗に狙う、メーテルの一刀迅雷を易々と受け止め、鍔を競り合うと、崩落した磐壁が伸し掛かる様に、呪能が滲む其の丹眼で頭熟(あたまごな)しに肉薄し、音素の潰れた灼熱の蛮声で戒める。

 「そんな(いか)りに任せた(なまくら)で何が斬れると云ふのか。メーテル、死に場所を探してゐるのなら御門違ひだ。貴様には()()き使命が有る。人に愛されて死にたければ、憎まれてでも生き続け、己の職責を(まっと)ふしろ。」

 伯爵はメーテルを力任せに突き放し、襟元で煌めいた光鎖に斬っ先を飛ばして引き裂くと、息をも吐かせぬ瞬殺に弾けた翡翠(ひすい)勾玉(まがたま)が、コマ送りの宙空に舞い上がる。寸断された永遠の狭間を掠め、(ふか)い眠りの中を寝返る弥栄(いやさか)の珠宝。龍虎の視線が交錯し、メーテルの雷刃が伯爵の振り上げた一太刀を肩口から斬り落とすのと入れ違いに、伯爵は左手で勾玉を掴み取り、其の曝け出した左の脇腹を、光励起の一陣が返す刀で居合い貫く。霊劍を握り込んだまま磐床を()ぜる右腕。心の臓にまで達した裂傷が火花を散らす光彩を返り血の様に浴びる、メーテルの茫然とした白亜の娟容(けんよう)。竜頭は磐陰に紛れて唯只管(ただひたすら)、気配を殺し、斬壊した躯体を物ともせず、勾玉を天に突き上げて勝ち誇る鋳造の魔神が、大上段から面罵した。

「こんな形見(もの)(すが)るのも此で最後だ。999に戻つて公務に専心するが良い。」

 勝者とは思えぬ満身創痍の叱責。朽ち果てて寧ろ凄味を増した其の幽姿に、メーテルは死に物狂いで飛び掛かる。

 「返せ、御父様を、御父様を返せ。」

 血も涙も無かった筈の蠱惑(こわく)の令嬢が其の仮面を脱ぎ捨て、祭りの人混みで(はぐ)れた稚児の様に取り乱す様を睥睨(へいげい)し、伯爵は指の間から千切れたネックレスが(したた)る拳を、爛熟したモノアイの前に突き出して握り込むと、

 

  「喝ッ。」

 

 無数の皺襞(しゅうへき)が蠕動する貪婪な獣面に、インローで嵌め込まれた回転ベゼルがインデックスを捲り上げて拡張し、気焔雷魄(きえんらいはく)を鼓して轟く眼精が、黒変した落ち葉の様にメーテルを吹き飛ばした。一瞬にして勝負は決し、メーテルは伯爵の足許に獅噛憑(しがみつ)こうとするのだが、凱風怪睛を真面(まとも)に浴びた衝撃に痺れ、起き上がっては膝が砕け、岩清水に濡れた磐床に足を取られては体が泳ぎ、敗者の舞に振り回される。血の気の失せた蒼貌に粟立つ汗。藪睨(やぶにら)みで朦朧と独り()ちる悶舌。鋳鉄の纏う文身の毒が廻った様に、伯爵の手の中で瞬く宝玉に腕を伸ばし乍ら、千々に乱れた蓬髪を掻き毟り、狂い咲く黒薔薇。海松色(みるいろ)のドレープが其の醜態を覆う様に歩み寄り、

 「伯爵、如何為(いかがな)さいますか。」

 竜頭が頭を抱えて蹲っているメーテルに眼を遣ると、伯爵は斬壊した背を向けて、鬼魄の抜けた肩から其の荷を(しず)かに降ろした。

 「放つておけ。此の験体を過去に遡つて投入した処で、血で血を(あら)ふ、新たな因果を生み出すだけだ。所詮、何う足掻いても電脳の浅知恵。乗り遅れた列車に譬へ追ひ付けたとしても、其れはもう、彼の時の列車とは違ふのだ。」

 (かなへ)の獣紋が蠢く手の甲を石櫃に翳して転送アドレスを入力すると、伯爵は斬り落とされて有る筈の無い右腕を時空の彼方に振り上げた。

 「竜頭、タイムゲートを開放しろ。私は屋敷に向かふ。」

 「伯爵、逆転相とは申しましても、其の御躰の儘では。」

 「構はん。此の老骨を労る等、恥の上塗りでしか無い。竜頭、彼の小僧の事を頼んだぞ。奴は我々の無様な輪廻を断ち切る為に招喚された、最後の後見なのやもしれん。遅れを取るな。」

 

 

 

 

 雪と闇、たった二枚のセル画が折り重なっただけで、一コマも進む事の無い白墨の世界。鉄郎が其の壊れた映写機の投射レンズを横切り、何が引っ掛かっているのかとリールに手を添えた瞬間、モノクロフィルムに焼き付けられた記憶の扉が不意に開け放たれ、死灰の如き地吹雪が一気に決壊した。

 (みぞれ)混じりの狂嵐(きょうらん)に面罵されて叩き起こされた鉄郎は、真っ白な頭の中を横殴りで霏霺(たなび)く銀幕のオープニングと、寸分の狂いも無い肉眼の眺望に、情景と現実の二重露光に見当識の焦点が合わず、語尾を見失った感嘆符の様に立ち尽くしていた。生命の気配が全く無い見渡す限りの雪原。猛烈な寒気が渦巻く情け容赦無い白瀑。頬を刺し、睫から滲み入る酸性雪の(つぶて)。骨の髄まで刻み込まれた苛烈な汚染環境に、鼻腔を突き上げる甘酸っぱい充血。もう二度と帰る事は無いと心の底では諦めていた。(ゴミ)を漁って生き延びる以外、徒労と絶望が無限に繰り返されるだけの無慈悲な管理区域外。薔薇色の夢から醒めて其処が荒野の(あば)ら屋と気付く度に愕然とした、生き地獄の続きを照らす不吉な旭。此処が自分の掛け替えの無い故郷だ等と、本の一瞬でも頭を(よぎ)る事の無かった忌まわしき地の果ての果て。其れが今、愛おしく、狂おしく胸に迫り、星々を巡る旅の中で独り気丈に振る舞っていた硝子の少年は、抱えきれぬ郷愁に膝から砕け落ちそうになる。帰ってきた。地球に。人類の母なる星に。生まれ育った母なる大地に。例え積雪に埋もれていようと、見間違える訳が無い。酸性雪と()い交ぜに潤む熱き涙腺。喉元を締め上げて込み上げる怒濤の嗚咽。併し、現状は鉄郎が感傷に浸る事を許さ無かった。

 新雪の上に寄り添う二組の足跡が、見覚えの有る方角を目指し、闇夜の彼方に呑み込まれている。欲目に眩んでいるのでは無い。足跡は確かに住み慣れた荒ら屋へと向かっている。彼の日、彼の夜、置き去りにされた雪原が広がっている。脳裏を過る翡翠(ひすい)の光弾と母の断末魔、ドス黒い血の池に浮かぶ焼け焦げた外套。鉄郎は震える手でBarbourのフロントジップを引き上げ、(そばだ)てたコーデュロイの襟をフラップで留めた。空調ファンの温風が裏地のタータンチェックを対流し、頬を吹き抜けて前髪から襟足を掻き上げる。併し、其れでも震えが止まら無い。肺の腑から胆の臓まで迸る狂喜に顳顬(こめかみ)の毛細血管が弾け飛ぶ。未だ足跡は新しい。今なら間に合う。

 レーザーライフルの銃口から覗いた死神の洞穴に怯え、酸性雪の冷鋲に痺れ、(かじか)んだ手足で藻掻き乍ら匍匐した絶望の坩堝を、鉄郎は復讐の火の玉となって駆け出した。新雪をはむシャークソールが、北極圏を攻略する砕氷船の如く、鉄郎の劇情に牙を立てる。空調服にダックパンツ、サイドゴアの3190に一刀彫りの霊銃を握り締め、胸には士魂の金剛石(ダイヤモンド)。暴風雪に(ひざまづ)き、自ら其の命を手放した御薦(おこも)の孤児が、氷獄の鎖を蹴散らして巻き戻された時計の針を飛び越え、沙漠の熱波となって頬を撃つ暴風雪に雄叫びを上げる。遂に追い付いた。彼の日の夜、乗り遅れた列車に。運命の列車は999じゃ無かった。此処が本当の俺の終着駅だ。敵は伯爵、唯、独り。残りは試し打ちにもなら無い、雁首を並べただけの頭数。刺し違るつもりは無い。必ず生きて助け出す。血の海に独り取り残される彼の地獄に、母さんを突き落とす訳にはいか無い。此以上、母さんを悲しませる訳にはいか無い。もう直ぐだよ、母さん。家はもう眼と鼻の先だ。奴等を全員片付けて、帰ろう。母さん、一緒に家に帰ろう。鉄郎は此の時間軸で重複している、もう一人の鉄郎の存在や、タイムパラドク等と云う些末な理窟は何うでも良かった。舞い降りた過去と(おぼ)しき世界が、例え本の束の間の幻で在ったとしても構わ無い。二度と巡り会う事の無い、此の一瞬こそが総てなのだと、鉄郎は一点に見据えた男子の本懐を、唯、我武者羅に突き進む。

 吹き荒ぶ白魔の轟音を押し退け、蹄鉄を蹴立てて殺到する剛性軍馬の(いなな)きと、機賊達の怒号が聞こえてきた。雑魚は後回しで良い。伯爵の不意を突いて至近距離から一発で仕留める。鉄郎は(かささぎ)に気配を消せと命じてホルスターから抜き取ると、ヴァイオレットの閃光が旋雪を貫き人間狩りが始まった。時計の針を先回りして血の池の在った場所に急ぐ鉄郎。意に違わぬ展開に完爾(かんじ)として犬歯を逆剥き、雪煙を上げて皚然(がいぜん)と燃え盛る。漢の約束に証文なぞ無用。確かに奴の云った通りだ。彼の鋳物の屑鉄、少し回り(くど)いが、味な真似をしやがる。折角の御膳立てを台無しにして()(もの)か。タップリ礼を返さなければ気が済ま無い。

 必誅を期す鉄郎の後を追う様に、禍々(まがまが)しい彼の喧噪が押し寄せてきた。緋彗の光弾の束を背負い暴風雪を逆走する独片(ひとひら)の影。土嚢袋を()いで()いだ外套が(はため)く決死の逃亡。生きている。母さんが。唯、其れだけで崩壊しそうな涙腺を堪え、ライフルの光源に眼を凝らす。落ち着け。未だ何も成就してはい無い。伯爵は何処だ。奴の目玉を後ろから撃ち抜いてやる。手段なんて何うでも良い。美しい勝利も、誇り高き敗北も要ら無い。伯爵を始末してから、皆殺しだ。今度は奴等が狩られる番だ。冷徹と暴虐の入り乱れる悶雪(もんぜつ)坩堝(るつぼ)。血の池の在った其の場所へ、運命の因力に導かれ駆け込む鉄郎の母。退路を断ち、(おもむろ)に振り返る襤褸(ボロ)を纏った賤女(しずめ)が、一瞬、雪の女王に氷変して見えた。母にして母に(あら)ず。人にして人に非ず。超然とした異能を誇る稀人(まれびと)の鬼概に、感応する大気。何処を目指しても刃向かってくる逆風が其の息を潜め、鉄郎の母の足許から放射状に敷き詰められた新雪が舞い上がると、剛性軍馬の兇脚が先を争って雪崩れ込んできた。

 「(かつ)()て玉を(いだ)く、とは此の事か。」

 蹴汰魂(けたたま)しい機畜の蛮勇を制して響き渡る雅量に富む放咳(ほうがい)。地の底から湧き上がる、相も変わらぬ大仰な言い草が、標的を探す手間を省いた。闇夜を囲う白幕を利して突進する時を超えた刺客。己の獲物に(かま)けて、奴は未だ鵲の気配に気付いてい無い。

 「星野加奈江、否、旧姓、雪野加奈江だな。」

 下僕達が道を開けて、馬群の中から進み出た騎乗の鋳将(ちゅうじょう)はポインターの照点を鉄郎の母の額に飛ばすと、鉄郎も諸手に構えた霊銃を頭上から(しず)かに振り降ろした。

 「間違ひ無い。真逆(まさか)、此程の優良種が伝世されてゐたとは。」

 望外の釣果(ちょうか)に身を乗り出し、思わず鞍壺から腰の浮く伯爵。鉄郎は睫の先を斜めに限る旋雪に、肺の腑で暴発しそうな英気を皓皓(こうこう)と吐き乍ら、不純物の無い澄み切った殺意を銃爪に掛ける。水平に構えた銃口に背を向けて、機畜から悠然と降りてくる軍装の仇敵。今しか無い。(ここ)先途(せんど)と、天の手向(たむ)けた畢生の攻機。襟髪の霏霺(たなび)く伯爵の後頭部に照星を定め、鵲の呪能に()り移る。彗翼よ目覚め、調伏しろ。化生(けしょう)は無明の星と()れ。光励起の誘発電位に羽搏(はばた)く鉄郎の逆髪(さかがみ)。霊鳥の鉤爪が心の臓を鷲掴み、嘴裂(しれつ)を極めた、其の刹那、鉄郎は背後から飛び掛かってきた電撃に手足を絡み取られ、白銀の奈落に引き倒された。

 「鉄郎、貴方は此の時代に干渉出来る資格を持ち合わせてい無いわ。」

 新雪に没した頭上を、地吹雪と共に駆け抜ける生気の掠れた諫告(かんこく)。其の聞き覚えの有る声に、

 「竜頭、何しやがる。放せ。邪魔すんじゃねえよ、此の機水母(きくらげ)。」

 口角雪を()怒耶躾(どやしつ)ける鉄郎を、白け切った追撃が餓狼の如き(おとがい)諸共、茨の(くつわ)で締め上げる。

 「乗り遅れた列車に例え追い付けたと思っても、其れはもう、彼の時の列車とは違うのよ。」

 光の失せたオーロラを巻き上げて現れた伯爵の女官が、闇に溶けた海松色(みるいろ)のドレープから目元だけを覗かせて、磁戒の捕縄に身悶える鉄郎を、其の手綱を緩めずに(たしな)めた。

 「伯爵には伯爵の考えが有る筈だわ。私達は此処で見守るしか無いのよ。」

 時を駆ける(いら)()の三白眼は主君の御手並みに撮像感度を拡張し、鉄郎の運命に息を潜めて立会う影に身を(やつ)す。鉄郎の追い越した筈の時計の針が、再び何事も無かったかの様に新雪に埋もれた鉄郎を跨いだ。竜頭の胎内に宿した時の歯車は(たゆ)まず、唯、鎖に繋がれた輪廻の周回を刻み続ける。

 「調べは付いてゐる。手荒な真似をするつもりは無い。我々の指示に従つてもらはう。服を脱げ。力尽くで剥ぎ取るのは容易いが、時間が惜しい。早くしろ。」

 騎乗を辞して猶、居丈高でドスの利いた伯爵の最後通告。襷掛(たすきが)けのライフルを手に取ろうとすらせず、取って付けただけの鷹揚な物腰に秘めた破滅的な猟奇。其の壱視萬征の炯眼(けいがん)に鉄郎の母は一切(ひる)まず、天を衝く饕餮(たうてつ)の威容を皇然と侮瞥して、烈火の如く斬り捨てた。

 「貴方達に指圖(さしず)を受ける()はれは無い。力と(かず)に賴つて何が得られると云ふのか。機械仕掛けの傀儡(くぐつ)に隸落した、誇りの缺片(かけら)も無者達の虛勢に屈する私では無い。其れ以上近寄ると云ふのなら、其の身を滅ぼすだけでは濟まぬと覺悟しろ。さあ、立ち去るが良い。己の還るべき場所に還れ。機械にも心が有ると云ふのなら、魂の還るべき場所に還れ。」

 「己の分限を(わきま)へろ。得物も持たぬ生身の躰で、何をどう刺し違へると云ふのか。」

 「貴方は裸の王樣だ。得物を持たずに(いき)り立つてゐるのは貴方の方だ。そんな造り物の裸體(らたい)を曝して、其れが私に取つて何だと云ふのか。眞實を以て爲れば、積み重ねた虛僞と欺瞞を倒す事なぞ、指で()れる必要すら無い。」

 (よこしま)な凶威に敢然と相対峙する鉄郎の母を中心にして地吹雪が逆巻き、伯爵の実像に向かって猛然と打ち付ける。倒木に一輪の花を咲かせ、沙漠に潮騒(しおさい)を呼び寄せる奇蹟の所業。神代の調べが聞こえる。太古の眠りを言祝(ことほ)ぎ、陰陽を(ぎょ)して穢魔(えま)(はら)う、選ばれし呪能。襤褸を(まと)(やつ)れた躰が、有りと有らゆる天変地異を予覚し、見えぬ物が見え、聞こえぬ物が聞こえ、形亡き物に()れる一柱(ひとはしら)の触媒と鳴って、()(まじな)う。

 

 

    拾有參(じふいうさん)春秋

    逝者已如水 ()く者は(すで)に水の如し

    天地無始終 天地に始終無く

    人生有生死 人生に生死有り

    安得類古人 (いずく)んぞ古人(こじん)に類して

    仟載列靑史 仟載(せんざい) 靑史(せいし)に列するを得ん

 

 

 飾る可き心の錦を見失ひ、(いたづら)に時を弄した流れ者こそ、棄て去つた故鄕に投降す可きでは無いのか。紅顏に(かがや)く熱き志は何處(どこ)へ行つた。恥を知れ。」

 荒天に神薙(かむな)ぐ、クリムゾンレッドの隻眼を凌駕する千里眼。人の皮を剥ぎ、憑変した物狂いに、(かなへ)の渋面が其の皺襞(しゅうへき)を歪め、伯爵は御飾りの筈だった得物に手を掛ける。

 「知つた様な口を叩きおつて。其れも又、伝世された血の為せる業と云ふ奴か。卦体(けたい)(ちから)よ。併し、其れでこそ玉体の務めを果たせると云ふ物。良いか、御前達は下がつてゐろ。雑兵の手に負へる相手では無い。」

 ()している。機賊を束ねる鋳造の権化を、徒手空拳の母が圧倒している。足掻(あが)けば足掻くほど締め上げる磁縛の電撃に垈打(のだう)ち回っていた鉄郎は息を呑み、頭に被った新雪の隙間から眼を見張った。

 「臆病者は眼を閉じて矢を射る。卑怯者は心を閉じて矢を射る。見定めよ。眞の正鵠(せいこく)を。其の矢、人へ向かひしは天に到らず。力に(かま)け、()を招き、矢を(ろう)するは、射手(いて)の誉れに(あら)ず。」

 (さと)す者の居無くなった、たった一筋の天の(ことわり)を楯に立ち向かう、枯れ枝の如き無双の手弱女(たおやめ)。其の肉体を超克した太母(たいぼ)(おお)いなる矜恃に、半死半生に臥した此の星の魂緒(たまのを)鈴生(すずな)りが(おのの)き、管理区域外と云う(そし)りを受けた、実り無き大地が慟哭する。招かざる客を指弾し、鉄郎の母を庇護する氷刃の斬っ先。知らぬ間に迷い込み、取り囲まれた文明の治外法権に、一兵卒の機賊達は浮き足立ち、伯爵が落ち着けと許りに声を荒げた。

 「地獄へ落ちる前に舌を抜かれたくなければ、余計な説教は其処迄にしろ。」

 恐怖を掻き消す一喝が暴風雪に虚しく掻き消され、微動だにせぬ鉄郎の母が其の左拳を軽く握り込み、眼には見えぬ何かを執り上げた右手を水平に手向け、伯爵を無言で指名した。鉄郎の鳩尾(みぞおち)穿(うが)吐胸(とむね)の高鳴り。垂直に持ち上がった母の踵が宙に留まって漲り、息の詰まった肺の腑が、一拍置いて踏み降ろされた鉄鎚に撃ち貫かれ、地の底が木霊(こだま)した。此の星の鼓動を呼び覚ます天の授けた足拍子。其の雄々しき激甚に片膝を挫き、雪原に屈した伯爵を、鉄郎の母が畳み掛ける。

 

 

    徑万萬兮度沙幕  萬里を(ゆきす)ぎ沙幕を(わた)

    爲君將兮奮匈奴  君が(しやう)()りて匈奴(きょうど)(ふる)

    路窮絕兮矢刃摧  (みち) (きはま)り絕えて矢刃(しじん)(くだ)

    士衆滅兮名已隤  士衆(ししゅう)滅び名(すで)()

    老母已死     老母(すで)に死せり

    雖欲報恩將安歸  恩に報ひんと欲すると(いへど)

             ()(いづ)くにか()せん

 

 

 鉄郎の蒼心を吹き抜け、其の節義を問い質す生生流転の風雪。星々を巡る旅の果てに待つ凄絶な寂寥が、999の(から)げる剛脚を醒め醒めと見送り、哀惜に(むせ)ぶ汽笛が(えぐ)れた頬を(はた)いて擦れ違う。

 伯爵を討ち伏せて猶、身動ぎ一つせぬ母の隻影。其の凜然とした品格が身命(しんみょう)を賭して伝える謹厳皇潔な家学。鉄郎は今、総てを悟った。反対方向に走れと云われた彼の時に、何を託されたのか。誰しも何時かは訪れる其の瞬間。併し、余りにも過酷な通過儀式に鉄郎は玉と砕けた。

 少年の(つむり)を飾る初冠(ういこうむり)となって、降り積もる新雪。元服を迎えた我が子への、決別こそが人生の(はなむけ)。其の旅に大義が有るのなら、孤独すら(おそ)れはし無い筈。孤独が旅の(かて)ならば、母をも路傍の石となせ。時を越え懸命に此処まで辿り着いた我が子を突き放す、一度見限った己の命を顧みる等、心の迷いでしか無いと道破する、神神しき教え。鉄郎の救いの手の及ばぬ処に、母は既に召されていた。

 (しこう)して、少年は立志に(のっと)る冠雪に没して漂白し、外道を(ただ)す明鏡にのみ留まらぬ鬼子母の威光が、もう独りの鉄の(をのこ)を焼き尽くす。

 「黙れ、黙れ。」

 伯爵の耳を聾する唱導と、氷塵の銀幕に灼き付く在りし日の幻影。積み重ねてきた自責と自重に耐え切れず、溺れる鋳型の少年が自傷の凶弾に(すが)り付く。機族の栄華を掻殴(かなぐ)り捨て、怯懦(きょうだ)に屈した益荒男(ますらお)が、拝む様に構えたレーザーライフル。吹き荒れる旋雪にポインターの緋照が乱れ飛び、総てを(うべな)う恩赦の眼差しで、突き付けられた銃口に微笑む鉄郎の母。伯爵は見透かされた己の過ちに向かって、リアサイトに顔を伏せたまま銃爪を引き、胸骨を突き破る程に張り詰めた鉄郎の心搏を、彼の断末魔が再び撃ち貫いた。

 翡翠(ひすい)の弾道で串刺しにされた母の幽姿が宙を舞い、漠然とした瞬間を切り取って並べた、無限に連続する静止画のストロボを緩慢に横切っていく。肉眼で捉えた事実を頑として弾き返す認識の壁。絶望が感情で在る事を放棄して立ち尽くし、地吹雪の咆哮が他人事の様に遠離っていく。絶叫の余韻に引っ掛かったまま小刻みに痙攣している時計の針。鉄郎は乗り遅れた列車に再び追い越され、擦過する車窓から投げ出された、誰も受け取る者の無い襤褸外套に包まれた赫い花束が、真っ更な雪原に舞い降りた。

 意識の緒が完全に途切れた、か細い四肢が黄泉の底で波打ち、巻き上がった粉雪が暴風に浚われると、()いで()いだ土嚢袋の裾が此の場から脱け出そうと(はため)くだけで、闇夜に向かって見開かれた瞳孔に雪のレースが掛けられ、清閑な死に化粧に昏昏と埋もれていく。荒れ狂う白瀑以外の何もかもが息絶えた滅景。何んなに時空の輪列を巻き戻しても逃れる事の出来ぬ沙汰女(さだめ)を前にして、鉄郎は白紙に打たれた一抹の句読点でしか無かった。其処に母の亡骸が在ると云うのに、駆け寄って其の死を確かめる勇気も無く、此は何かの間違いだと、有りっ丈の詐術を濫造して覆い隠す事も出来ずに、唯、醒める事の無い悪夢が白暮に呑まれていくのを眺めている。此が伯爵の会わせてやると云った意味なのか。こんな惨劇を繰り返す為に必死で999に獅噛憑(しがみつ)いてきたのか。事の次第を見届けた竜頭が手綱を緩め、磁戒の拘束から解かれても、鉄郎は輪廻の鎖縛に囚われて其の身を捩る事すら敵わ無い。真綿の様に一息で絞め殺さぬ、因果の(くびき)。其の非情な仕打ちに、もう独りの鉄の(をのこ)も新雪に片手を突き、屈疆(くっきょう)な胸郭と脊椎を(すく)ませて、(あえ)ぎに(あえ)いでいた。

 「私事に溺れ、職責を見失ふとは、一生の不覚。」

 頬を這う苦悶の皺襞(しゅうへき)が更なる険相を刻み、緑青(ろくしやう)を吹いて捲れ上がる酸化皮膜。何方が撃ち取られたのか見分けの付かぬ、打ち拉がれた饕餮(たうてつ)の文身に、硝煙の(いさお)を誇る余勢は無い。伯爵はライフルを払い除けて、満身創痍の躯体に鞭を打ち、揺らめき乍ら仕留めた獲物に歩み寄り、荼毘(だび)を乞う襤褸外套を引き剥がすと、振り落とされた母の亡骸が血壊し、彼の漆黒の泥濘(ぬかるみ)()ち撒かれた。血の海に浮かぶ母の背を貫通して、燻り続ける破滅的な銃痕。追い剥ぎの如く死に様を暴く其の所業が、鉄郎の想像を絶して追い打ちを掛ける。

 「何うした、トランクだ。何を呆けてゐる。伝送トランクを用意しろ。」

 吐血の如き苦患(くげん)(しわぶ)算譜厘求(サンプリング)掠れたの嘆息。剛性軍馬から降りた部下の一人が見覚えの有るアタッシュケースを丁重に差し出すと、伯爵は打ち上げられた人魚の様に血溜まりに浸かる遺体の脇へ、粗無際(ぞんざい)に放り投げた。ロックが外れ(おとがい)を解く革張りの二枚貝。開け放たれた殻壁の真珠層が虹虹(こうこう)耀(かがや)き、銀泥(ぎんでい)を塗り潰して猶、湯気を立てる鮮血が闇夜に燃え盛る。アタッシュケースから溢れ返り、紅蓮の氷沫(ひまつ)を上げる浄火の(さざなみ)(ちりばめ)められた光燐に血塗(ちまみ)れの裸婦が陶然と包み込まれていく。鉄郎は最早、認めざるを得なかった。其れは悲劇の追体験等と云う生易しい物では無かった。伯爵は確かに母を殺したのだ。(しか)も、一度ならず二度迄も。

 (うつ)()から離脱した幽体の様に重力を擦り抜け、プラズマの繭の中を浮遊する機賊の生け贄。潤いの欠片も無い母の栗色の髪が亜麻色から山吹色へと艶めき、栄養不良と蓄積した汚染物質で黄濁した皮膚が(そそ)がれて、白磁の桃質が甦る。伯爵の描いた青写真の儘に、彫金細工の如き繊細な肢線へとトレースされていく、人間狩りの戦利品。見目麗しく若返り、瑞々しく変貌する惨死体が常軌を逸して華やぎ、狂おしき母への思慕を打ち砕く。粉々になった真実が燐焼し、氷点下の陽炎(かげろう)が揮発していく。何を信じ、何を頼りにして、其処に存る事物を組み立てて良いのか判ら無い。乗り遅れた列車は、もう彼の時の列車とは違う。管理区域外の一軒家で初めて出会った鏡越しの錯覚が、今、総てを見破る事の出来無かった罰として現実になった。

 

 

   忘れては夢かとぞ思ふおもひきや 

         雪踏みわけて君を見んとは

 

 

 名筆を揮うが如き睫尾(しょうび)を広げて瞬く気怠(けだる)い星眸。鳳髪を(ひるがえ)した蜂腰が、日月の(しょく)すが如き輝ける闇を纏い、喪装の令嬢が氷血の荒野に舞い降りる。地吹雪に(もた)れて物憂げに傾ぐ露西亜帽。危うい程に煌びやかな絶佳絶唱の娟容(けんよう)(かす)かに眉を顰め、十全十美を備えた痩墨(そうぼく)の仙姿が(しな)やかに蹌踉(よろ)めいた。只の剽窃(ひょうせつ)では無かった聖母の面影。小兵の雪辱は白銀に紛れ、最後のピースが揃って終った残酷なパズルを覆す気力も無い。伯爵は鉄郎の母が生まれ変わったのを見届けると、半醒半睡のメーテルに一言も掛けず、飛び乗った剛性軍馬の手綱を絞り、曝け出した醜態を押し退ける様に訓令を()した。

 「半磁動鹿駆(ロック)の手筈は何うなつてゐる。抜かりは無いか。」

 「ハッ、滞り無く。ジャイロブレードを牽引して、間も無く現地に到着の予定です。乗車時刻迄の待機施設も万全を期し、既に完工しております。」

 「良し、然うと判れば長居は無用だ、私は此から時間城に戻る。留守を頼むぞ。」

 銀瀾の地雷原を蹴散らして蹄鉄が()ぜ、雪花の彼方に突進する機畜の剛脚。雑兵達も踵を返し、湾岸の屋敷へと向かうのだろう、隊伍順列を問わず、思い思いに此の数奇な現場を後にする。狩りの終りと入れ違いに、ギヤの切り替わる撥条(ぜんまい)仕掛けの日常。帰る場所が在る者達の束の間の安逸を、退場する出口の無い客席から鉄郎は眺めていた。巻き戻された予定調和が刻む淡々とした天府(テンプ)。程無くして襤褸を纏ったもう一人の自分が血の海に迷い込み、其の僅か十数メートル先で力尽きると、闇に融け出していたメーテルが虚ろな瞳を零して口遊(くちずさ)む。

 

 

    大口(おほくち)眞神(まがみ)の原に降る雪は

       いたくな降りそ家もあらなくに

 

 

 降架したイエスを愛でる様に鉄郎を()(かか)える、さ乱れし鳳髪。妖しき聖母の眼差しが凍傷で炭化した少年の頬から(そよ)ぎ、放埒な(いなな)きと共に滑り込む四頭立ての半自動鹿駆が、黒妙(くろたへ)の金瀾を(さら)って駆け抜けると、そんな惨劇は無かったと許りに血の海を積雪が覆い隠し、下ろし立ての白墨へと塗り重ねられて、何もかもが振り出しに戻っていく。

 

 

    是今日適越而昔至也

    (これ) 今日越に()きて (きのう)至れる也

 

 

 夢の中に又た其の夢を占い、エッシャーの版画の様に粛々と輪転し始める、メビウスの帯に封じ込められた永劫回帰。記憶を其の都度初期化されて、ゴールもスタートも無く閉じた捻れの中を彷徨い続ける。そんな馬鹿げた話しが不図(ふと)、鉄郎の頭を(よき)った。

 「彼がメーテル・・・・其れとも、彼もメーテル・・・・・・。」

 半自動鹿駆の走り去った白銀の(わだち)(みつ)めて竜頭が独り()ち、チャドルのドレープを擦り抜けて翳した燈會(ランタン)が、土気色に枯れた頬を染め上げる。何を想うのか、切れ上がった(まなじり)を焦がす邪知の(くすぶ)り。(しず)かな時の渡し守が、錻力(ブリキ)の笠を傾けて薄く線を引いただけの唇を寄せ、玻璃(びいどろ)火屋(ほや)で凍える狐火を吹き消すと、夜の底に敷き詰められた白銀を道連れに、世界は一瞬にして暗転した。

 

 

 

 

 ほと ほと ほと

 

 

 射干玉(ぬばたま)の闇に滴る時の雫に浸されて、昏昏と眠り続ける黒耀の(つぶ)らな原石。眼裡(まなうら)に鎖ざされた先史の欠片は(うつろ)流離(さすら)い、追憶を手探る其の指先が、掻き消された灯心に触れ、(ほの)めいた。磐肌を伝う岩清水の呟きに合わせて、(ひと)つ又(ひと)つと点る多針メーターの冷冽なバックライト。朦朧とした鉄郎の焦点が集積化した命の篝火(かがりび)を数え、蒼古の神韻に(しず)む玄室へと(ひら)かれていく。此を帰ってきたと呼んで良いのか。息を呑む荘厳な磐壁のマトリクス。時間城と云う名の何時か見た夢の続き。此の旅は一体、何度振り出しに戻ったら気が済むのか。今とは何時か、此処とは何処か。自分が存在すべき時代と場所を見失う鏡の迷路。再び目の当たりにした白魔を粛々と葬り去る、血も涙も無い聖謐が、鉄郎を更なる幻惑へ誘い込む。

 肌を刺す程に玲瓏(れいろう)な大気が闇天井の吹き抜けに聳え、鎮魂に押し潰された亜空間。城の主は姿を消し、留守を預かったのか、生け贄として献げられたのか、999から鉄郎の後を追ってきたのか、彼の夜の地吹雪に攫われてきたのか、母に生き写しの淑女が石櫃(いしびつ)に縋り付いたまま力尽きている。凶弾に倒れて猶、朽ちる事の無い花を咲かせた鬼女とは程遠い、支度解甚(しどけな)く乱れ散った其の媚態。此の化け猫を母と呼べるのか。何と云って声を掛けて良いのか。全く整理の付か無い心の支えが傾ぎ、一気に伸し掛かる時を股に掛けた疲労。

 「名前なんか聞いてない。お前は一体何なんだ。」

 恐る恐る歩み寄る鉄郎の脳裏に、999の乗車券を差し出し、自らをメーテルと名乗った魔女に浴びせた痛罵がリフレインする。何故、伯爵は母さんの名を知っていたのか。何故、母さんを襲ったのか、否、探していたのか。石櫃に俯せで散乱する鳳髪とフォックスコートの毛足が、粉々のパズルとなって、()た一から組み直せと、振り出しよりも前に巻き戻された謎を突き返す。御自慢の露西亜帽は冠落し、渾筆を払うが如き睫は萎れ、星も恥じらう雅な光眸は宙を泳いで、小刻みな譫言を反芻している、メーテルと云う名の誰かに美しく変わり果てた母。撃ち殺された筈の惨死体に取り憑いた、得体の知れぬ狐疑の影に挑む鉄郎。処が、繊細な硝子細工を扱う様に浮わの空の(うつ)()を抱き起こすと、腕の中で撓垂(しなだ)れた襟足から、小鼻を(くすぐ)る華やかな香貴が立ち昇り、張り詰めていた警戒心、絡み合う邪推と懊悩は一瞬で揮発した。何故、今の今迄気付か無かったのか。こんなに近くに居て、何故、信じ無かったのか。馥郁(ふくいく)たる白檀のヴェールに隠れて仄かに淡立(あわだ)つ朴訥な母の匂い。答えは常に眼の前に在った。鉄郎は眼に()える物しか()てい無かった己を恥じた。

 汚染物質で黒変し、ガサガサに逆剥け、産廃の山を掘り起こして爪が摩滅した母の指とは似ても似つかぬ、ブラックフォックスの袖口から覗く白絹の様な手膚の肌理。握り込んだ鉄郎の掌を拒絶する其の滑らかで優雅な潤い。併し、母の温もりに満ちた血と汗の薫陶が呼び覚ます記憶の鈴生(すずな)りが、堪えようとして閉じた瞳から溢れ、頬を雪崩れ落ちる。廃材を組んだ(あば)ら屋で肩を寄せ合い二人で囲む灯火。今を凌ぐだけの食料と水以外何も無い、一つを二人で分け合う些々やかな一間の団欒。子守歌の様に微睡みの中で覚えた三十一文字(みそひともじ)。粒子状物質に掻き消された星を見上げて伝え聞く、神代の物語。尽きる事の無い太陽の恵みに手を合わせ、(かす)かな風の節目を読む真剣な横顔。決して離す事の無い手に引かれ、死の荒野を踏破し、天変地異の激動を乗り越えてきた。如何(いか)なる苦難にも屈せず、命の楯となって護ってくれた巨いなる背中。時に畏ろしく、近寄り難い程に研ぎ澄まされる異能の覚醒。母の深意を何も汲み取る事が出来ず、心の底で気高過ぎる厳格な生き様から逃れる事ばかりを考えていた怯懦の日々。其の総てが今、滂沱(ぼうだ)(さざなみ)と生って心を(あら)い、ドス黒い狂女のヒステリーの数々迄もが、我が子の独り旅を導き、迷いを断つ愛の鞭として鮮やかに甦る。もう此から先、何んなに罵られ、打ちのめされても構わ無い。例え身も心もメーテルの儘で在っても構わ無い。此の儘、何処迄も一緒に旅を続けていく。無限軌道を燃え尽きるまで周回する星の一雫で構わ無い。家で独り、母の帰りを待つ心細さ。一日経ち二日経ち、三日、四日と待ち続け、飢えも渇きも忘れて狂った様に泣き喚き、母の名を叫び続け、然して、食料と物資を抱え、痩せ衰え、落ち窪んだ瞳を炯炯(けいけい)と輝かせて、夕陽を背に現れた母に抱き付いたまま気を失った。彼の日の涙の続きが此から始まる。メーテルが母さんなのか何うかを穿鑿(せんさく)する資格なんて自分には無い。今、此処に存るが儘で良い。後はもう、何も要ら無い。唯、独つ、確かめておかなければなら無い事以外は。

 「竜頭、出て来い。」

 鉄郎が頬を拭い声を奮い立たせると、(みだ)りに時を司る石女(うまずめ)は、背後の晦病(くらや)みから、流す川の無い灯籠流しの様に、燈會を提げて炙り出てきた。

 「伯爵は何処だ。奴に聞きたい事が有る。彼の目玉の糞親父は何処に行きやがった。」

 鉄郎には確信が存る。無限軌道を巡る、もう独りの鉄郎の物語。心の片隅に仕舞っていた行き摺りの約束が、火屋(ほや)の狐火に浮かび上がる。此処で逃したら復た何時出会えるのか判ら無い。もう此以上遠回りは御免だ。鉄郎は肩越しに振り返り、伯爵の女官に泣き腫らした赭視(しゃし)を飛ばして吠え立てる。処が、磐壁の多針メーターから甦った亡霊の様に立ち尽くす竜頭の瞳は、鉄郎の剣幕を透過して意識の彼方に飛散し、垂髪の(すだれ)から垣間見えるメーテルの蒼貌に燈會の火影を翳して呟いた。

 

 

   七重八重(ななへやへ)花は咲けども山吹の

       実のひとつだになきぞ悲しき

 

 

 否、其のみ、独つのみに(あら)ず。」

 何を執拗に思い詰めているのか、井戸の底を覗き込む様に虚ろな竜頭の怪相(けそう)。愕然とした言の葉が途切れ、繋ぎ止めていた心の(いと)が弾けると、磐壁から滴る時の雫がチューブを伝う点滴となって、鉄郎の(あから)む頬を叩いた。全く聞き取れ無かったメーテルの譫言が十六進数の葬列を唱え始め、多針メーターのアラームとピンヒールの雑踏を巻き込んで、膨大なバイナリの瀑布が磐床に反響する。磐室の吹き抜けを垂直に改行していくゴシックの蛍蛍(けいけい)としたフォント。其の輪郭が(ほど)けて絡み合い、一筆の曲水となって淀み無く蛇行し乍ら右から左へと走査しては昇天していく。メーテルと竜頭、二人の相反する奇女が触発し、上書き消去されていた何かがシンクロし始め、気付いた時には既に、鉄郎は反転したアルファベットの筆記体に呑み込まれていた。何処迄も何処迄も鏡越しに先走っていく殴り書きの電子カルテ。其の鏡面文字の片隅を(よぎ)る「C62 48」のナンバープレート。精密な意匠を凝らして飾られた、往年の旅客用テンダー式蒸気機関車。此は鉄道模型?炭水車の側面にプリントされたANNIVERSARYの文字。

 

 

   なつかしき 地球はいづこ いまははや

          ふせど仰げどありかもわかず

 

 

 

 

 

 

 「此が・・・・・・お父さん・・・・。」

 全身をオールインワンで電脳化した父親が差し伸べる剛性義手を払い除け、母親の背に隠れた少女の、途切れ途切れに明滅する悪夢。其の(かす)かな電位を造影解析する脳象デジタイザと連動して、無脊椎マニピュレーターが開頭した前頭葉を小刻みにスキャンしている。有りと有らゆる医療ケーブルとチューブを張り巡らせた集中治療室に、筋肉組織が剥き出しで閉じ込められた肉塊。崩壊した皮膚から染み出す体液でベットは浸水し、辛うじて性差を確認出来るのは、腰まで届く(まだら)に脱色した乱れ髪だけで、其れが無ければ猿との区別すら危うい、患者と呼ぶ事すら憚る、原型を失った廃人が、偽装された生命を強要されている。

 此は確か、伯爵の屋敷で過積載送信された、伝送海馬のスライドショー。銀河鉄道株式会社の社史に迷い込み、鉄郎の見当識を蹂躙した合成記憶の土石流が、再び堰を切って襲い掛かる。岩清水に濡れた玄室の神気は吹き飛び、地に足が着いている感覚すら無い。鉄郎は輻輳(ふくそう)する走馬灯から絶界の宇宙に振り落とされて、小惑星に停泊した採掘船の一室で飛び交う怒号が、為す術も無く背乗りされていく頭骨に木霊(こだま)した。

 「何故、前もって交流船に乗る事を云わ無かった。其れも選りに選って中疆(ちゅうきょう)マテリアルの。」

 「云ったわよ。潜対本部に引き籠もって、私達の話に耳を貸さなかったのは貴方じゃないの。LINEで知り合えた子に、やっと会えるって喜んでいたのに。何でこんな・・・・。」

 「LINE?未だそんな物を使っていたのか。彼は中疆に筒抜けのスパイウェアだ。何度云ったら判るんだ。交流活動にしても、あんな物は慈善事業に(かこつ)けた奴等のプロパガンダだ。何故其れが判らん。」

 「開拓団の船の中で産まれて、食べて寝るだけの居住スペースに押し込められて、地球の大気も重力も、友達も知らずに育ったのよ。貴方達の会社の(いさか)い何て彼の子には関係無いわ。地球はもう御終いだ。無限の可能性の存る宇宙に逃げよう。そんな体の良い嘘に釣られて。完全に騙されたわ。こんな監獄の様な生活。気が狂いそうよ。彼の子は何処。何処に居るの。地球に帰るのよ。一緒に連れて帰るわ。私達だけで帰るのよ。こんな馬鹿げた開拓事業に一生閉じ込められている位なら、地球を目指して野垂れ死んだ方が増しよ。彼の子は何処に居るの。」

 「安心しろ。ラボで治療を続けている。」

 「ラボは汚染濃度が振り切れて封鎖されてるんじゃないの。」

 「開発室に機材を持ち込んで、急造だがラボを移設した。抜かりは無い。」

 「真逆(まさか)、彼の子を機械の躰にする気じゃあ。」

 「彼の(ちから)を機械に換装出来るのか、遣ってみる価値が在る。時間が無い。モデリングした全脳器質の治験も良好だ。臓器、骨格、相貌、採取出来得る限り、全身のDNA組成マップも補完した。生体なら後で幾らでも再生出来る。」

 「換装だとか再生だとか、軽々しく云うんじゃ無いわよ。彼の子を何だと思ってるの。スペアノイドやモルモットじゃ無いのよ。未成年の電脳換装は承認されて無いわ。本人の同意も無しに、何を勝手に話しを進めてるの。(そもそ)も、交流先の事業所が全滅したのは、貴方が採掘資源に付着している在来のウイルスに戦略核因子(クラスター)を混入してバラ撒いた所為じゃないの。髪の毛の色素まで破壊するウイルスが、此の宇宙の何処に在るって云うのよ。復た宣争広告代理店を使って揉み消すつもりなの。其れとも、スペースノイド解放戦線とか云う彼のチンピラに尻拭いを頼むの。天河無双の銀河鉄道株式会社が聞いて呆れるわ。」

 「共同開拓と称しては合弁会社を後ろから突き落とし、取引先の技術と資産を強奪しては、刃向かう前に爆撃する。そんな(やから)の何処に遠慮する必要が在る。銭ゲバに聞く耳が有るのなら誰も苦労はせん。奴等に理解出来る言語は力だけだ。最彼の子の(ちから)が必要なのだ。貨物路線の一つや二つなら未だしも、帯域制御の基地局を攻撃されたら眼も当てられん。」

 「戦争紛いの委細巨細(いざこざ)なんて、もう懲り懲りよ。」

 「其程争いを止めさせたいのなら、直接ハーロックに頼めば良い。御前達のLINEを通してな。」

 「貴方、真逆(まさか)・・・・・。」

 「だから云ったのだ。そんな巫山戯(ふざけ)た物は使うなと。」

 妻の仮面を剥ぎ取り、情婦の素顔を俯瞰する勝ち誇った剛顔。其の剥き出しのコックピットの如き形相が鉄郎の視覚野で増殖し、開発室のコンソールへと変貌していく。

 

 

 「こんな析算計器(メーテル)の化け物を、二束三文のスペアノイドに換装して大丈夫なのかね。オバーフローするのが落ちだろ。どうせ暗号工作にしか使わ無いんだから、此の儘で良いんじゃないのかね。」

 「モバイル化して各基地局に配置したいんだろ。前線に護送車輌が出払ってて、物資が入ってこ無いから、取り敢えず、御試し価格の機種で見切り発車って奴さ。実際に乗っけて動かしてみない事には、何んな蠕虫(バグ)が湧いてくるかも判らんしな。総ては此の析算計器(メーテル)が何処迄保つかだ。」

 「・・・・・・・・析算計器(メーテル)・・・・・・?」

 「オイ、此奴、喋ったぞ。」

 「私は・・・・・メーテル・・・・・・此処は・・・・何処?」

 

 

 「所長、集中治療室のエントロピーが急速に増大して、二体目も手が付けられません。猛烈な時束線の渦です。矢張り、験体が時起単極子に変容していると見て間違い有りません。験体に近付いただけで瞬く間に腐蝕して終います。復旧作業をしていたエンジニアは皆、粒状化して跡形も在りません。」

 「無人探査機を呼び戻し、電網解析した全脳気質のデータベースを積載して艦外に離脱しろ。先ずはサーバーの死守だ。物理的に分断しろ。騒乱状態の験体に換装ポートでアクセス出来る余地は未だ在るのか。在るなら戦略核因子(クラスター)を投入してみろ。躊躇(ためら)うな。コブラにマングースと云うのなら、其の逆も又、(しか)りだ。膠着した処を見計らってジョイントを切断し、デブリシュートから宙域に破棄すれば良い。次の験体はスペアノイドの胸郭に脳象を符号化した培養シャーレを直接マウントしろ。拒絶反応には海馬と情操領域のリミッターレンジを段階的に絞って、着地点を探せ。空洞(ロボトミー)化しても構わん。小康状態に為った処で筐体を封印し、速やかに最終デバッグと再教育プログラムに移行しろ。」

 

 

  艦内を飛び交う指示と機密と機材。防護服のクルーが駆け付けては壊滅する、恥も外聞も無い人海戦術。其の百家争鳴から置き去りにされた集中治療室で、全方位の無影灯は謀略の残骸を皓皓(こうこう)と照らし続けている。人体解剖模型と見紛う少女の心筋が(きざ)末葉(まつよう)片期(かたとき)。跡切れ勝ちな変拍子の刻一刻を描き出す、活動電位筋電図モニターの脇に停車した小さなSL模型。不帰への過客を待つ健気な姿が不図(ふと)眼に止まり、鉄郎は恐る恐る手を伸ばした。其の指先が、

 

 

   検温器の 青びかりの水銀

     はてもなくのぼり行くとき

         目をつむれり われ

 

 

 その心ついえて(ことば)あまりし、三十六文字(みそむちもじ)に触れ、思わず後退った背中が壁に突き当たって振り返ると、電網解析された少女の自我を読み込み、再構築したエミュレーターが、蒼蒼(あおあお)と血走った多針メーターを集積し、慄然と犇めいている。

 

 

 「名前なんか聞いてない。お前は一体何なんだ。」

 

 

 999の乗車券を差し出されて噛み付いた、彼の日の言葉が星々を巡り、振り出しに戻った鉄郎の吐胸(とむね)を込み上げる。今こそ其れを解き明かし、(つまび)らかにしなければ。

 

 

   七重八重(ななへやへ)花は咲けども山吹の

       ()のひとつだになきぞ悲しき

 

 

 然うだ。君は、君の名は、雪野や・・・・・。」

 と其処迄言い掛けた処で、原名調伏の禁に触れた鉄郎の間接視野を、壊滅したログメッセージが瞬き、独片(ひとひら)のバイナリが肩に舞い降りた。見上げれば、綿雪の様に乱れ散る十六進数の膨大な素数。其の無限数列を、ケーブルとチューブの束に吊り上げられて上体を起こした少女の残骸が、徐かに暗唱し始める。メインインデックスとサブダイヤルを時の(やじり)が駆け巡り、虚ろな呟きを解析する多針メーターの群像。鉄郎が崩壊していく少女の肉体を慌てて()(かか)えると、体液で()(そぼ)つ腕の中で八重(やへ)山吹の鳳髪が撓垂(しなだ)れ、ロックの外れたアタッシュケースから迸る閃光に包み込まれた。

 

 

 

 

 「御帰りなさいませ、鉄郎様。」

 減衰する眩暈の中から浮かび上がった紺碧のダブルに、映える金釦の縦列が屈曲し、堅調な無限軌道の駆動音が機関室に甦った。腕の中では抱え込んだメーテルが、燦然と煌めくアタッシュケースに(うつむ)いて十六進数の呪詛を唱え、車掌は制帽の鍔の奥に其の瞳を隠した儘、最敬礼を解かずに粛然と言い放つ。

 「先程、惑星ヘビーメルダーを通過致しました。鉄郎様、()くぞ御無事で。」

 鉄郎は監視モニターの向こうに津津(しんしん)と広がる、辰宿列張の大海原に、トレーダー分岐点、ファクトヘイヴン、時間城、白魔の人間狩り、追憶の少女の残像を探した。時間軸と座標軸が、運命と摂理が破綻し、幽界と顕界が入り乱れ、本当に此の足で降車したのかすら定かで無い儘、邯鄲(かんたん)の夢の如く過ぎ去った停車駅。

 「此は一体・・・・・・。」

 と、何に対して言葉を詰まらせているのかも判らぬ鉄郎に、車掌は背を向けて、多針メーターに埋もれたコンソールをタップし、続々と出力されていくデータログの蛍火に眼を細めた。

 「御公務で御座います。」

 「公務、此が?」

 星の彼方の異相から降り(そそ)ぐ何物かに感応し、腕の中で戦き続ける瞳孔の開き切ったメーテルに瞳を零すと、鉄郎は時と場所を選ばず不意に()()けを起こし、心神喪失に陥った母の姿を思い出した。荒野の直中で在ろうと、産廃の尾根で在ろうと、身を投げ出して神撼する彼の恍惚。填まり込んだハードディスクや、遺影に向かって語り続ける独居老人とは訳が違う。天変地異の啓示に襲われて白目を剥いた母が舌を噛み切らぬ様、襤褸外套を脱いで口の中に詰め込み、唯只管(ただひたすら)、祈り続けるしか無い絶対不可侵の異能。其れが今、合成義脳を網羅した機関室の輝ける闇を(しず)かに支配している。絶え間ぬ演算処理のシーク音で澄み渡った無限軌道の走る聖域。車掌はデータログを眼で追い乍ら、己の半生を書き留める様に語り始めた。

 「検閲産業複合体に因る情報官僚機構の整備、(すなは)ち、言論プラットフォームの覇権と天体資源の独占は、我が社が宇宙開拓と云う殺伐とした過当競争を突き進む為の両輪で御座いました。通信帯域の利権を争奪する、暗号化の粋を究めた神経戦は、何時しか物理的な武力衝突を凌駕し、民営化した戦争の主戦場はモバイル化された論理空間に、企業スパイによる諜報活動は雌雄を決する総力戦へ、業績と共に拡大していき、然して、サイバー兵器の応酬と開発の過熱に因って行き着いた必然が、暴徒化した戦略核因子(クラスター)の覚変、電劾重合体の誕生で御座います。旧世紀の時点で既に警鐘されておりました、言語モデルの開発が特異点に達し、自己保存のアルゴリズムを超越して君臨する自我の顕在。其れは文明の敗北で御座いました。制御不能な先端技術の徒花(あだばな)を、人々は(こぞ)って己の利益を拡張する為の魔法の杖として濫用し、其の存在や発生源を検証する事も、門閥、財閥、学閥を越えて対策を講ずる事も無く、総てを隠蔽し、競合相手の帯域が駆逐されていくのを嬉嬉として眺めている許り。欲望と云う水を得た魚は大海を巡り、漁夫の利を得る形で、我が社が星間通信の全権を掌握した時には、無限軌道内に敷設された僅かな帯域しか残されてはおりませんでした。帯域核醒した自我の猛威は凄まじく、最早、風前の灯火。此の様な状況を辛うじて持ち堪えておりますのは、御覧になられている通り、(ひとへ)にメーテル様の宇気比(うけひ)に因る神技(しんぎ)(たまもの)なので御座います。何う遣って比の御能(おちから)を見出した物か、其の経緯は私等の思慮の及ぶ処では御座いません。メーテル様の御公務に全力で御奉仕する。私の務めで在り領分は、萬事、其処に尽きるので御座います。」

 「其れじゃあ、各基地局を廻り、帯域プロテクトの更新と解析を、暗号化の攻防をする為に、其の為に999は・・・・・。」

 「御明察の通りで御座います。999は無限軌道という最前線を直走(ひたはし)る最後の砦。其の防戦一方だった長い戦局に、(かす)かにでは在りますが出口の光が見えて参りました。有り難う御座います、鉄郎様。鉄郎様の御盡力(ごじんりょく)に因り核醒したメーテル様の御能(おちから)が、巻き返しを図る突破口になるやも知れません。」

 「巫山戯(ふざけ)るな。メーテル様、メーテル様って、こんな(ちから)を背負わせる為に、今迄、何人のメーテルを使い捨ててきたんだ。言ってみろ。」

 山積みになった生け贄の下敷きになって喘ぐ母の姿が、鉄郎の怒張を(つんざ)き、折り目正しい白々しさに噛み付くと、背を向けていた紺碧のアクションプリーツが翻り、制帽の鍔の奥に潜む黄眸(こうぼう)()ぜた。

 「鉄郎様の御怒りは御尤(ごもっと)もで御座います。メーテル様の御心労は如何ばかりかと察するに、側仕(そばづか)えでしか無い私とて心痛の極み。併し乍ら、メーテル様の宇気比(うけひ)(ちから)無くして、此の現状を打破する方策は御座いません。無責任な知性と欺瞞に(まみ)れた理性の成れの果てとは申しましても、一度手を出したら手放す事の出来ぬ、文明とは麻薬で御座います。漢意(からごころ)と云う(さか)しら、欧化政策と云う卑屈を例に挙げる迄も無く、遙かなる時の風雪に耐え抜いた古典と、心を込めて受け継がれてきた伝統や文化から学ぶ研鑽を怠った挙げ句、「新義は真義、古義は誇欺。」唯、其れだけの短絡的な空理空論が(まか)り通り、既成の価値観や事物を刷新し、破壊する事こそが進化で在り、真理で在り、正義で在ると決め付けた思い上がり。学術、芸術、法術の皮を被った権威主義と拝金主義の詐術。歴史とは繰り返された過ちの時系列で御座います。()を信じて()を信ぜず。()を信じて()を信ぜず。科学の無い信仰が盲目で在る様に、信仰の無い科学も又、有害でしか御座いません。野に(くだ)った先端技術に歯止めが掛かった例し無し。今こそ進歩の名を騙る独り善がりな虚妄を断ち切らねばなりません。其の為に白羽の矢が立てられたのが、文明が生み落とされる前の、生命の根源的な(ちから)とは皮肉な物で御座います。人の世が時を超えて伝世してきた伝統や文化、社会システムは決して知性や理性のみに因って積み重ねられた物では御座いません。今と為っては意味の解せぬ習俗や儀式には、()にし()人の心と(ちから)が宿っているので在り、形骸化した語義不詳の祝詞や枕詞で在っても、先史より語り継がれた千載難逢の玉手箱(タイムカプセル)なので御座います。文明は宇気比(うけひ)と云う伝承を未開のシャーマニズムだ、野蛮人の迷信だと蔑み、顧みようと致しません。私とてユングの様にオカルトを肯定する気は毛頭御座いませんし、先程も()を信じて()を信ぜぬのは盲目で在ると申しました。併し乍ら、宇気比(うけひ)や祈祷に籠められた心の真実に嘘偽りは御座いません。文明が其れを蔑むのは己が生まれた心の源泉を忘れ、辿ってきた心の道程を見失っているからで御座います。天も地も、神も人も、生も死も、渾然一体と為って蠢き、(ことば)が有るが儘の姿で漲っていた太古の時代。日の出と共に人々は歓喜し、樹木の影に精霊の姿を垣間見て、未開の山河に分け入り、星と月の輪舞を夜が明けるまで仰ぎ見る。感嘆の声が一つ一つの(ことば)を生み、夢と(うつつ)を行き交う日々に世界は酔い痴れておりました。人々の暮らしに文字など必要は無く、一言一言に呪能の籠められた(ことば)は聞く者の心と響き合い、人々の(ことば)は神の(ことば)で在り、(ことば)に神と人の違いは無く、世界は神と人とが通じ合う(ことば)で満たされておりました。(ことば)とは祈りで在り、祈りとは心で在り、心とは命で在り、命を讃える(こと)()で其の()()る。大いなる自然の神秘と脅威を(うやま)い、(おそ)れ、人々は祈りました。自然の神秘は何時しか形の無い幽遠な存在へと、人々の精神世界で昇華し、其の形無き物への祈りが豊かに咲き誇っていくので御座います。狩りに出た夫の帰りを、出産の無事を、病に伏した我が子の回復を、失われた命の安らぎを、一心に祈り続ける。眼には見えぬ者達と交感する心で溢れ返る命。遠く離れた掛け替えの無い人々に想いを馳せ、未来に向かって無限に広がる夢を描き、どんなに困難な状況で在っても希望の光を灯し続け、此の世界に遍く崇高な意義に身を心を律して、祈り、誓う、人が人として在るべき心。其れ等は総て、禍々(まがまが)しき呪いの(そし)りを受け、(さげす)まれた巫術(ふじゅつ)の中から芽生え、育まれてきたので御座います。」

 「車掌さん、朗々と弁が立つのは結構だがな、生憎(あいにく)、俺が知りたいのは、そんな信心の御利益なんかじゃねえ。氏子の勧誘なら余所で遣ってくれ。」

 耳を疑う車掌の熱烈な長広舌に耐え切れず、鉄郎は青侍の竹光を振り翳した。焼き尽くされそうな語気に(よぎ)る不死鳥の嘴烈(しれつ)な絶唱。一乗務員の職責を越えて迸る知勇が、女王の手向けた激励を呼び覚ます。

 

 

   (ことば)を、然して、心を遡れ。

   答へは常に我我の伝承に在る。

   メーテルは其の答へと力を(たまは)つた女だ。

   メーテルを護れ。

   其れが御前の使命だ。

 

   神の物語を()け。

 

 

 車掌の(ことば)に乗り移り、此の旅の源流へと逆流するエメラルダスの(ことば)が、幾つもの出会いを辿り、鉄郎が生まれ落ちた星の下へと集約していく。直立不動で一点に正対し、(あか)く燃え盛る紺碧(こんぺき)のダブル。一体、何を買い被っているのか。鉄郎は有り余る若さに託された想いの眩しさに、逡巡(たじろ)ぐ事しか出来無い。右も左も判らぬ鉄郎を見守り続けた車掌の(ことば)の厳しさは、鉄郎に許された時間が残り少ない事を告げる優しさの裏返し。運命の代弁者は息を整え、(しず)かに(ことば)を紡ぎ始めた。

 「鉄郎様、今暫(いましばら)く、私の話に御耳を御貸し頂きたく存じます。神学で在れ、哲学で在れ、自然科学で在れ、文明の営みが高度に体系化し膨大な教義で理論武装するのは、所詮、付け焼き刃の権威を取り繕う為の虚勢で在り、(やま)しき脆弱の証で御座います。文明とは宇宙の摂理が落とした影を追い回し、其の裾の端を本の僅かに切り取っただけの物。本来、真理とは一糸纏わぬ有るが儘の姿で、逃げも隠れも致しません。其の存在は花を()でるのに知性も理性も必要が無い様に、心から求めさえすれば老少善悪を選ばず、信じる必要すら御座いません。花が美しければ蝶は自然に集まる物。心に偽りが在るからこそ信じようとするので在り、疑わぬよう張り詰めた瞳の前に現れるのは、夢幻泡影(むげんほうよう)の類いと相場が決まっております。物理学者が幾らビッグバン理論の証左を並べ立てようと、宇宙とは人の心から生まれた壮大な物語の投影で御座います。人の心が存在しなければ、賢しらな理窟を吠え立てる事すら敵いません。鉄郎様、私とて安易な文明批判で口吻(こうふん)(けが)したくも無ければ、原始共産主義等と云った、社会契約説を真に受けている者達の、左翼的ノスタルジーに(くみ)するつもりも御座いません。バベルの塔に端を発した神への挑戦。天に代わって世を支配すると云う思い上がった中華思想。文明と云う新しい種を保存する為の戦略的因子(クラスター)に、心の遺伝子を背乗りされた人々は、真理の探究の名の許に真理の神意を覆い隠し、嘘で嘘を塗り重ねて参りました。人々が見失った(ことば)と妙なる(ちから)を今一度、甦らせねばなりません。(よろず)(こと)()で彩られた()にし()此処路(こころ)を巡礼する、無限軌道に其の身を献げたメーテル様の御能(おちから)御勤(おつと)めが、鉄郎様の眼に(よこしま)な物と映るのなら其処迄で御座います。」

 車掌の舌尖(ぜっせん)が其の(ほこ)を納め、999の駆動音が橋の無い河と為って鉄郎との間に横たわると、メーテルの宇気比(うけひ)看護(みまも)る多針メーターの演算ノイズが、蛍火の様に其の沈痛な底流を取り巻いて瞬き、頑黙(がんもく)暗渠(あんきょ)から、より多くの(ことば)が押し寄せてくる。車掌の胸臆に秘した雄弁なる絶句。語らぬ事で相手を選び、(さと)すべき者には其の(きん)を解く、量産化したテキストの鋳型では拘束不能な、(ことば)、本来の真価に促され、鉄郎は血の底から湧き上がる己の(ことば)に耳を澄ました。

 行き倒れの屍肉を奪い合う野良犬の唸り声。メガロポリスが垂れ流す養分と情報を貪る、貧民窟の嘲罵と慨嘆が聞こえてくる。(うた)う事も祈る事も忘れ、民族の(ことば)と抱き合わせで己の出自と総ての属性を投げ出した、還る場所も護る物も無い人面獣心の咆徨(ほうこう)。機族にも成り切れず、電脳ボードをマウントしただけで、エンコードの半壊した肉声無き言語モデルの応酬に明け暮れる鋼顔獣身の同属嫌悪(カニバリズム)。文明と廃棄物の狭間で、原始の泰然とした営みに戻る事も敵わぬ蛮族の退廃に、決して交わらなかった母の無言の教えが、孤独の研鑽に因って磨き込まれた(ことば)の結晶が、鉄郎の耳骨に、吐胸に突き刺さる。

 経済的成果を最短距離で独占する為、歯止めの利か無い熾烈な合理化に血道を上げ、構文解析のアウトソースに思考の総てを丸投げし、何者かの都合でフィルタリングされた文字の羅列を、己の智力と履き違え、言辞の精錬と検証を怠り、放棄して、暗躍するシステムの傀儡(かいらい)へと凋落した人類の残滓(ざんし)。繁栄とは程遠い狂乱に巻き込まれ、(ことば)を見限った亡者達がモデリングされた絶叫で幾ら助けを求めても、心無き(ことば)は誰の心にも届かず、狼少年のデマゴギーに変換されて、屍肉の奪い合いから弾き出された野良犬の遠吠えと同化し、空洞化した自我の辺縁を徘徊する。昼夜を問わず貧民窟を乱れ飛ぶ雑言(ぞうごん)嗚咽(おえつ)。併し、其の喧騒は何一つとして意味を成す(ことば)を発する事は無く、然して、鉄郎も又、享楽的な破滅を求め、野良犬に紛れてメガロポリスの最底辺に甘美な死臭を嗅ぎ廻っていた。

 欲望の巣窟から未練を引き擦る帰り道。鉄郎とて同じ穴の(むじな)だった。肉体の求める儘に絶望が溶けて形を失う迄、淫蕩に堕して終いたい。思春期の過敏で未熟な心と躰が吠え立てる野性の衝動。其の有り余る若さを(いさ)めず、独り家で待つ、息子への揺るがぬ信義が、暴発寸前の鉄郎を片時も放さず、日々繋ぎ止めてくれていた。欲より()づれど、(ふか)く情に(あづか)れば(うた)と生る。語らずとも伝わる(ことば)の因力。除染不能な原野の(あば)ら屋で、(うた)と祈りを唱え続けた母の聖謐な横顔が、今も鉄郎の腕の中で、鳳髪を振り乱し、眼には見えぬ何物かに向かって一心に(ことば)を捧げている。

 何故、(ことば)は生まれ、人は語り、語り合うのか。何故、人は(うた)い、相聞(あいき)こえるのか。何故、(ことば)()ざすと孤毒が廻るのか。(ことば)と獣語の(さかい)には、文字と文様の(さかい)には何が在るのか。大地を(なぞ)り、砂絵の様に風を纏った母の草書は、文字を越えて何を描こうとしていたのか。幼い頃、睡魔を堪えて耳を傾けていた、夢の中の不思議な(まじな)い。

 

 

    古事(ふるごと)の うたをらよめば いにしへの

        てぶりこととひ 聞見るごとし

 

 

 些々(ささ)やかな膳を立て、慎ましい暖を囲み、夜毎、母が玉垂(たまだ)れの()を辿り、百伝(ももつた)ふ謂われの(つづ)れ織り。鉄郎は母の膝の温もりの中で(ちい)さな笹舟を漕ぎ、幾つもの國を(わた)り、海神(わたつみ)の彼方を目指した。見上げる空は、雲居(くもい)なす心を映す真澄鏡(まそかがみ)。幸せだった。砂を()む様な日々の中でも、(ことば)が順風に帆を張り、何処迄も広がり続けた、母の膝の上を巡る草枕。人の幸せに優劣も甲乙も、大も小も無い。其れを、

 (よろ)づの事を(ことわり)を以て測る小量の見識が、呉竹(くれたけ)(こと)()を弄び、魂極(たまきは)る命を買い叩いてきた。神の物語を人の世から()けるのは、首を切り落として生きるに等しい。祖国とは国語で在り、人は(ことば)(わだち)を拾って歩んできた。タイタンの茶店で鉄郎の手を取り、婆心を供した、(おみな)慧眼(けいがん)を借りて見霽(みはる)かす心の軌跡。御前は誰だと(とが)められて、己の起源を往古の(ことば)で誇れる幸甚に鉄郎は(ふる)えていた。ちちの実の父を失い、柞葉(ははそば)の母が独り背負い続けた殉難(じゅんなん)口碑(こうひ)。其の荷役(にやく)を解き、未来へ引き継ぐのは、

 

 

 

     鹿兒自物(かこじもの) 独粒種(ひとつぶだね)で血を()けた

           己の他に誰が務まる

 

 

 荒ぶる矜恃の烈しさに網膜が血壊し、耳を聾する天彦(あまびこ)が鉄郎の掴み掛けていた(ことば)を掻き消した。メーテルの虚ろな瞳から顔を上げると、ズレ落ちた腕章と制帽を直して背筋を伸ばし、揃えた踵を鳴らして改まる車掌。燃え盛っていた黄眸が暗黒瓦斯の相貌に滲んで、恰幅の良い体躯が一回り小さく、遠離(とほざか)って見える。不意の胸騒ぎに、

 

 「待ってくれ。」

 

 然う云い掛けた刹那、運命の重厚な扉が喪然と軋みを上げた。

 「鉄郎様、銀河超特急999号を御利用下さいまして誠に有り難う御座います。永らく御待たせ致しました。次が終点の停車駅で御座います。御手回り品に御忘れ物など御座いませんよう、御準備を整え、到着迄、今暫く御待ち下さいませ。」

 一乗務員のアナウンスを越えて、忽然と宣告された最後の審判。神の物語へと続く門戸は(ひら)かれたのか()じたのか。厳格な最敬礼で更なる試練を暗示する紺碧の大審問官。墨守一徹(ぼくしゅいってつ)の職務に(じゅん)じ、決して(おもて)を上げようとし無い車掌の忠節に秘した愛惜が、堅忍と慚愧(ざんき)で硬直している。未だ銀河系内を馳せる999が一体何処に終着すると云うのか。乗車券に刻印されたアンドロメダの荘大な威名を覆す唐突な欠末。鉄郎は有終の美に胸が弾む事も、掉尾(とうび)の勇を鼓舞する事も不能(あたわず)、唯、未知と云うだけの空疎な迷妄に(ひる)む事をのみ戒めた。覚悟や決意の欠片を掻き集めた処で、己の非力を粉飾するだけの事。身の丈を凌ぐ凶事に逆らうのは、天に(そむ)くに等しく、身を委ねるに()くは無い。鉄郎は五月蠅(さばへ)なす心を鎮め、一握りの信義と表裏を為す、疑懼(ぎく)(しこ)りに、其の(かす)かな一理に耳を澄ました。

 合成義脳の核種(こあ)が宿る、煙室を背に(まつら)られた燦面鏡(さんめんきょう)と、砕け散った様に取り巻く多針メータの小宇宙。鉄郎の骨身に染み付いた機関室の胎動が、残された(とき)の陰影を(きざ)み、乗り越えてきた嶮難嶮路(けんなんけんろ)が脳裏を逆走する。此の儘、何処迄も旅を続けたい等と、虫の良い事を口に出来る資格なぞ毛頭無く、込み上げる物が喉に熱く(つか)える許り。其の心余りて、(ことば)足らず、今は何を口にして良いのか判らぬ鉄郎は、宇気比(うけひ)力勉(つと)め終えて撓垂(しなだ)れたメーテルを()(かか)えると、平身低頭の車掌に目礼し、二等客車に向かって歩を踏み出した。旅の空に舞う行き摺りの(ことば)(ことば)が星明かりとなって満天を埋め尽し、黒鉄(くろがね)の剛脚を蹴立てて天網を(あまね)く無限軌道、

 

 

     路遙知馬力  路 遙かにして馬の力を知り

     日久見人心  日 久しければ人の心を見る

 

 

 窓硝子一枚を隔てた車外を覆う無情の宙域に、己の闇を投影し、さ迷い続けた討匪行(とうひこう)。引き裂かれた旅装を振り切り、萬感の想ひを乘せて汽笛は鳴る。

 

 

    前相見古人   前に古人(こじん)を相ひ見て

    後不見來者   後に來者(らいしや)を見ず

    念銀河之悠悠  銀河の悠悠たるを(おも)

    獨愴然而涕下  獨り愴然(さうぜん)として悌下(なみだくだ)

 

 

 始發の電鈴(でんれい)も浮はの空に、天離(あまざか)る日日の幾星霜(いくせいさう)。人生とは(これ)(およ)そ獨學を以て杖と爲し、角髮(みづら)を解いた少年の、無宿を師とする旅も復た(しか)り。仟錯萬錯(せんさくばんさく)(つひ)(これ)壹錯(いつさく)と成す、壹片の紅志。(とき)は來たりて、奏でるは泪流銀河(るいりうぎんが)の最終樂章、別有洞天(べついうどうてん)(みぎは)相轟(あひとどろ)き、此にて見納めの壹條龍路(いちじようりゆうろ)、詮ずる(ところ)は大團円か、雲に隱れし非業の星か。螢窗(けいそう)火影(ほかげ)に揮う渾身の末筆、果たして相成るや如何に。總ては最後の講釋で。


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