その後発声発音の鍛練を続けること三時間。直は光すらも見えない完全な盲目となることで“声”を手に入れたが、その声一つを出すのに戸惑っていた。
「はぁ……はぁ……」
直は声の出しすぎと息の吐きすぎによる酸素不足で疲労困憊しており、今は地べたに座り込んで休憩を取っている。声を出すという行為を簡単なものと思い込んでいたこと、そして激しい運動を好まず体の鍛えようが雑であったために、ただ“声を出す”行為だけで肺を酷使したことで著しく体力を消耗する結果となった。
(まずいな……時間がわからない……)
光を感じ取れないことは致命的である。光の変化に気付けないことは、時間が分からないことと同義と言って差し支えない。五感から得られる感覚的環境の情報のうち、凡そ八割の情報は視覚が占める。
光が感じられない、文字が読めない、景色が分からないなど、視覚を失うだけで動物が得られる感覚的情報は一気にゼロに近くなる。
(だめだ、真っ暗で何も見えない)
安易に悪魔との取引に応じなければよかった、と思わず後悔したがもはや遅い。今はとにかく、運と偶然に全てを委ねて人間の声とは思えない声を出し続けながら、誰かが自身の近くを通りかかるのを待つしかないと何度目かもわからない発声練習に取りかかった。
「ア、イ、う、ヴェ、ウォ、グァ、キー……」
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結局、日が沈んでからも人どころか野生の動物すら姿 を見せず(尤も、見えるわけがないのたが)まともに食事を摂らないまま時間だけが過ぎていた。空腹と疲労、更に眠気も重なり、体力も限界が近付いて来ている。だが短い時間ながら根気よく発声練習を続けた賜物なのか、直は大分片言ではあるものの簡単な言葉を発することができるようになっていた。
「おはよう……ゴザイます。コンニチは……コンバンは」
「《Juenia gupr yub zhuo saphat'e!?》」
そして直が挨拶の語を発した時、たまたま彼の声を聞き付けたらしい男の声がガチャガチャという独特な金属音に混じって近付いて来る。真正面から声をかけられたことから、目の前に道があったのかと今さら気が付くのは至極自然であった。
「《ぐぷすう……?》」
直は片言な現地語で「何方ですか?」問いを返すが、男はかなり慌てているのか質問を無視して近付いて来る。そして木の根の間に座り込む彼を抱え、強引に自身が乗って来た馬に乗せる。
「《Koat! Dest zhoo jed pumbey ho vacloud!》」
直の瞼の裏には現地語の文字、アルファベット、国際音声符号、カタカナの発音、そして意訳と直訳の日本語が煙の如く揺らめくネオンサインのように浮かび上がっていた。
言葉は理解できる。しかし、まだ声を出せるようになったばかりで発声機能と発音能力が不全である上、語彙や文法の構造と品詞・形容詞・接続語・名詞などの異界の言語に関わる部分を全く理解できていない。
つまり「この世界のことを詳しく教えろ」と言う言葉をこの世界の言葉で言えないのだ。
(まあ……いきなり外国に来るのと大差ないから……)
直は言語の壁を痛感しつつも、生まれて(一度死んだ身だが)初めて乗る馬の乗り心地とその馬に履かされた蹄鉄の音にある種の感動を覚えながら、馬を御す男に問う。
「《ぐぷやびすうお?》」
男は直から「誰ですか?」という再びの問いになんとも呑気な子供かと呆れ果てながらも、確と馬に繋がれた手綱を握り直して返答した。
「《Tol hong “Cebeldh”》」