アイドルマスター江戸川乱歩『写真と旅する少女』(律子、貴音、美希、響) 作:木下望太郎
私――秋月律子――は、絞り出すようなため息をつき、電車の座席に腰を下ろした。音を立てて首を鳴らし、こりっぱなしの――湿布を貼りっぱなしでもある、十九歳にして――肩を回す。自らに許す休憩はそこまでにして、バッグからノートパソコンを取り出した。
地方でのイベント会場下見と現地スタッフとの打ち合わせに、地元局での営業。それらを終えての帰り道。日はまだ高いけれど、都内に着くのは夜遅くなるはず。世間一般のプロデューサーなら温泉宿にでも泊まるのだろうけど、うちの事務所にそんな経費は期待できないし、何より。今は正直、遊びに費やす時間などない。うちのスタッフの誰にも。
問題は二つあった。一つは頼りにしていたプロデューサーの、突然の退職。誰も責められることではない、お父さんの急な大病も、そのためにご実家の事業を彼が引き継がねばならないことも。
本当の意味で惜しまれつつ彼は職場を後にした。全くよくやってくれていた、十一人もの――あの子が脱退し、私が引退してからは九人――アイドルの面倒を一手に引き受けてくれていたのだから。見送りの日には何人もの子が泣いていた。あの子ももしそこにいたなら、間違いなく泣いていた。
そしてもう一つの問題。私のような凡人の引退はいざ知らず、誰よりも期待していた――厳しくもしていた――アイドルの脱退。それが大きな損失であることは誰の目にも明らかだった。彼女は移籍した先で、トップアイドルとして活躍したのだから。
そこまで考えて私は小さく息をつく。窓の外に広がる海を見やった。
「どうしてるかな……あの子は」
とにかく。二つもの問題が半年間に起これば、我が社の経営も傾こうというものだ。そういうわけで事務所の浮沈は正直、新プロデューサーである私の双肩にかかっているとも言えた。もっとも、私とて無策というわけではない。選抜メンバーからなる企画中の新ユニット、それさえ当たれば他のメンバーもそれなりに注目されるはず。
「そのはず……いいえ、必ず日の目を見せてあげる」
顔を上げた。雲の湧く青空を白ませた、初夏の日差しに目を細める。眼鏡をかけ直し、再びパソコンの画面に向き合った。ボキボキと指を握り鳴らし、キーボードを強く打ち始める。
どれほどそうしていたか。気づけば車内の電灯と、外の明るさが同じになっていた。いや、赤味を帯びた空の方がわずかに暗い。雲はもう炭のように黒く、夕日に照らされたその底だけが燃えるように赤かった。その中で列車の単調な音が響き続ける。
両手を首の後ろで組み、大きく伸びをする。初めて気づいたが、車両内には私の他に乗客はなかった。ただ二人、隅に座った少女らを除けば。
窓の外を見ている少女らは、電車の中だというのに帽子をかぶったままだった。一人は肖像画の中で貴婦人がかぶるような、花飾りのついた帽子。もう一人は麦わら帽子、いやストローハットと言うべきか。子供がかぶるようなものではなく、つばを大きく波打たせた女性的なデザイン。ただ、わずかに気になったのは。彼女らの帽子はどちらも、垂れ下がる形の大きなつばをしていることだった。まるで人目から隠れようとしているみたいに。実際その帽子のせいで、彼女らの顔も髪型も分からない。けれど、花飾りの帽子をかぶった少女の大人びた体の曲線、真っすぐな背筋。ストローハットの少女の健康的に焼けた肌。それらはどこかで見た覚えがあった。同じ業界の子だろうか、何かの収録で見かけたのだろうか。
そう考え始めたとき、花飾りの少女が急に立ち上がる。窓に――二人の少女のちょうど真ん中に――立てかけてあったものを手に取った。それは何かの額
少女は座席に布を広げると、そっ、と額をそこに置いた。丁寧にそれを包み始める。
横でストローハットの少女が大きく伸びをする。身を反らせたせいで帽子が落ち、ポニーテールに結んだ黒髪があらわになった。くっきりとした眉を備えた、手足と同じ色に焼けた顔も。
帽子を拾って座席に置くと、彼女は八重歯がのぞく口を開いた。
「しっかし久しぶりさー、こんな遠くまで来たの」
私は目を見開く。思い出した、彼女には確かに会ったことがあった。我那覇 響。大手芸能事務所、961
考える間に、彼女はもう一人の少女の方へと顔を向けた。
「電車はあんまり得意じゃないけど……でもたまにはいいよな、ずっと同じとこじゃ息詰まっちゃうぞ。なー、美希」
私は反射的に立ち上がっていた。膝の上でパソコンがバランスを崩し、慌てて押さえる。電源を落とすのももどかしく、そのまま座席の上に放った。二人の方へと歩きながら、あの子のことが頭の中を駆け巡る。
星井 美希。元765
二人の前で立ち止まり、我那覇響がけげんそうな顔をするのも構わず。背を向けたままの、花飾りの少女へ声をかける。
「美希。美希……なの?」
星井美希がどこにいるのか、誰も知らない。うちの人間が、という意味ではなく、世間の誰も。
961プロの莫大な資金力もあって、プロジェクト・フェアリーのデビューは華々しいものだった。テレビで彼女らの姿を見ない日はなかったし、男性向け週刊誌の表紙も女性向けファッション誌の表紙も彼女らが飾った。街のどこかではいつも、彼女らの曲が流れていた。裏切られたような悔しさはあったが、スポットライトを浴びて活き活きと歌い踊る美希を見るのは嬉しくもあった。在るべき場所へ移ったのだ、そう思った。
なのに。彼女らは突然消えた。テレビもライブも収録途中のドラマも予定されていたイベントも企業とのタイアップも、全てを蹴って姿を消した。一ヶ月ほど前のことだった。
大きな体調の不良ということだった、事務所側の発表では。誰もそれを信じなかった、記者会見の場に彼女らは姿を見せず、黒井社長が『彼女らの体調とプライバシーを考慮して、これ以上はお答えしかねる』そう繰り返すだけだった。
美希のことについて961プロへ問い合わせても――セキュリティ上当然だが――返答はなかった。彼女の実家へも尋ねてみたが――おそらく、同じ質問を抱えたマスコミも大量に来たのだろう――ご両親は口を閉ざすばかり。
その彼女が、目の前にいる?
急に鼻の奥がつんとして、私は何度か咳払いした。腰に手を当て、胸を張って、私は言ってみる。事務所で一緒にいた、あの頃のように。
「こら、美希。どうしてたの今まで。一言くらいあってもいいじゃない、教えたでしょ? 報告・連絡・相談はどこの社会でも大切だって。そりゃあ、もう同じ事務所じゃないけど…………ねえ、美希。元気にしている? 体は悪くないの? 皆、心配してるのよ」
『律子、さん』そんな風に、あの頃みたいに、取ってつけたような敬語であの子は言うかと思ったけれど。いつまで経ってもこちらへ振り向こうとはしなかった。
もう一度声をかけようとしたとき、目の前の少女は帽子を取る。その下からこぼれたのは美希の金髪ではなく。それとは別に見覚えのある、波打つ銀色の髪。
「久しくお会いしていませんでしたね。765プロの……確か、秋月律子」
人形のように整った顔立ち、舞台劇の役者にも似た、よく通る低めの声。美希ではなかった。我那覇響と同じくプロジェクト・フェアリーの一員、四条 貴音。
隣で我那覇響が声を上げる。
「ホントだ、ひっさしぶりだなー! こんなとこで会うなんてすっごい偶然さー! ねぇ、他の子はいないの? 真は元気にしてる? やよいは、あと何だっけ、あのリボンの子とか――」
人なつっこく笑う彼女を見ながら、私は口を開けていた。思い出したように顔を引き締め、二人の顔を見ながら言う。
「お久し振りです、その節はどうも。それよりお聞きしたいのだけれど、さっき美希のことを――」
話していたみたいだけど、彼女は今どこに。そう言おうとした私をさえぎるように、四条貴音が口を開いた。
「これでございますね」
的外れな返答をした彼女の表情は、しかし先ほどと変わらなかった。その瞳は私ではなく、座席の上の包みに向けられていた。
「これを御覧になりたいのでございますね」
尋ねるように私の目を見る。やはり表情は変わらない。
頬がぎこちなく固まるのを感じながら、私は言う。
「いえ、そうではなく。美希のことを、うかがいたいのだけれど」
そこで初めて、四条貴音は微笑んだ。小さく、花が咲くみたいにふわりと。
「ええ、喜んでお見せ致しましょう。わたくし、ずっと考えておりました……いつかはこれを、貴女方にお見せしなければいけない、と」
包みに手をやる四条貴音の瞳は澄んでいて、何のてらいも嘘もなくて。それで私は、わずかに後ずさっていた。
極度のストレスによる精神的な疾患。世間一般で考えられている、彼女らの引退理由はそれだった。もっともらしいことだ、まだ中高生でしかない女の子たちが突如世間の目にさらされ、連日連夜舞台に立つ。ドサ回りの凡人アイドルでしかなかった私にだって、その重圧は容易に想像できた。記者会見に姿を見せなかったことも、人前に立てる精神状態ではなかったと考えれば説明はつく。
そして、もしそうだったとしたら。美希はどうしているのだろう? そう考えて、肌があわ立つ。
「さあ、御覧下さいませ」
その間にも貴音は包みを取り去り、中の額をこちらへ向けた。
そこに入っていたのは写真だった。何人もの人物が写っている、大きめに引き伸ばされた写真。ただしそれには見覚えがあって、私は思わず眼鏡をかけ直す。
集合写真だった、765プロの。ただ、今とは髪型が違う子もいたし、私も田舎くさいお下げ髪のままだった。一年ほど前だったか、プロデューサーを真ん中に引っ張ってきて、アイドル十人で囲んで撮ったもの。
そう、十人。まだ美希が入っていない頃に撮ったもの、そのはずなのに。なぜかその写真には美希がいた。プロデューサーの横で、彼と腕を組んで。幸せそうに、笑っていた。
「え……」
目を瞬かせ、私は貴音の顔を見た。
貴音は薄く微笑んだままうなずいた。
「御覧頂けましたね。御覧、頂けましたね」
この写真は何、大体なぜここに? 以前事務所に飾っていたけどいつの間にかなくなって、ああそうか美希が持ち出したのか移籍したときに、でもなぜ美希が写って? ――言いたいこと、聞くべきことは胸の中で渦巻いていたけれど。それらは喉で詰まって口からは出ず、私はただうなずいていた。
貴音はなおも、ふわり、と笑う。
「ああ、貴女ならお分かり頂けるかも知れません」
言いながら、傍らに置いていた荷物から黒革のケースを取り出す。古びた真鍮
「さあ、この遠眼
双眼鏡を押しつけられ、わずかに早口となった貴音に押されるように私は数歩後ずさった。貴音はこちらから見えるように額を掲げ、響はといえばそんな友人を止める様子もなく、まじめな顔で額の片側を支えている。元アイドルが三人集まったにしては、あまりに異様な光景だった。
どうしてこうなったのか、何でそんなことをしなければならないのか。胸の奥でわだかまるものを感じつつ、私は双眼鏡を眺めていた。それはずいぶん古風な品で、骨董屋の棚の奥で眠っているのがお似合いに見えた。少なくとも百年以上は前のものだろう、手擦れで黒革の覆いが剥げて、所々真鍮
物珍しさから色々触ってみて、その後で目の前にレンズを持っていったとき。突然、貴音が声を上げる。
「いけません! ……いけません。それは逆さですよ。逆さに覗いてはいけません。いけません」
貴音は顔をこわばらせ、目を大きく見開いて、私を止めるように手を上げていた。
なぜそこまで怯えたようにするのか理解はできなかったが。確かに私は大きな対物レンズの方を自分の目に向けてしまっていた。
「ああ。そうね、逆でしたね」
小さな方のレンズを自分の目に向け直す。眼鏡に当たらないよう気をつけながら写真の方をのぞきこんだ。調子を合わせるのは早く切り上げて、美希のことを聞かなくてはいけないと考えながら。
ぼやけていた焦点が合った後、最初に目へ飛び込んできたのは金色の髪だった。輝くような金色だった、本当に。いつだったか天気の良い日、ダンスレッスンの帰り道。上機嫌な美希が戯れに、練習中のステップを踏んでみせたことがあったが。日差しの中、彼女の動きにつれてなびく髪は光を受けて、太陽そのものみたいに輝いて見えた。あのときの彼女の髪も、こんなふうだった。
視界一杯に拡大された写真の中、美希は笑っていた。微笑むというより、顔中で笑っていた。うちの事務所にいた頃は、彼女のこんな表情を何度も見たことがある。移籍してから、少なくともテレビの中では見たことのない顔だった。
その隣では美希にしなだれかかられたプロデューサーが、はにかむように笑っていた。後ろではお下げ髪だった頃の私が苦笑している。その横では真が珍妙な――本人は可愛いと信じている――ポーズを決め、亜美と真美が肩を寄せ合い、春香が転びそうになりながら、みんなが――みんな、笑っていた。
懐かしさが胸に込み上げるのを感じながら、違和感がどこかに引っかかる。こんな写真だったろうか、これは? いなかったはずの美希がいることはもちろん、プロデューサーはこんな表情で写っていただろうか? それに。事務所の安カメラで、ここまでの写真が撮れたっけ?
つやつやと輝くみんなの髪が、レンズに拡大されるまま一筋一筋まで見えた。本人そのものを見ているかのように。張りのある肌は弾力性さえも感じられ、まるで生きているようだった。
そう、生きているようだ。
もう一度美希に目をやる。輝くような瞳、満面の笑顔、生気がにじみ出るような艶のある肌。プロデューサーの腕に押しつけた胸は張りを保ったまま膨らみを見せて――
そのとき。私は確かに鼓動を聞いた。一度大きく鳴った、心臓の音を。美希の――いや、まさか。私の鼓動だ、緊張に高鳴った、きっと。
思わず双眼鏡から目を離す私に、貴音が声をかける。その顔は笑っていなかった。
「御覧頂いたとおり。御覧頂いた、とおりです」
何も言えず、私は貴音の顔を見た。
「あれは、生きておりましたでしょう」
変わらぬ表情で言った貴音から、私は目をそらしてしまった。
「……大変、よくできた写真ですね」
貴音の顔を見ないまま続けて言う。
「961プロの宣伝部なら、あれぐらいの加工はできるでしょうね。写真は美希が持ち込んだんですか? まったくあの子も何を考えて……」
喋りながら、自分の中の違和感には気づいていた。それでも喋ることを止められなかった。
貴音は小さくため息をつく。何か口を開きかけたが、それより早く響が言った。
「貴音―。さっきからヒドいぞ、あれ、とか、これ、とか。美希をまるで物扱い――」
「ふざけないで!」
叩きつけるように、私は言ってしまっていた。
「ふざけないで。……はぐらかす気ならやめてちょうだい。教えて、美希がどこにいるのか。仲間だったあなたたちなら知っているでしょう」
響は小さく口を開けたまま、目を瞬かせていた。
貴音はまっすぐに私の目を見る。
「……何故
目をそらさずに答えた。
「仲間だったから……いいえ。仲間だから」
うなずいた後、今度は貴音が顔をそらした。写真の額を胸に抱え、窓の方へと向き直る。その姿はまるで遺影を抱いた遺族のようにも見えた。
「お話致しましょう。ですが……いえ、そうですね。身の上話を致しましょう。この写真の。その中で、貴女のお聞きになりたいこともお分かり頂けるかと存じます」
言って、ゆっくりと写真をなでる。
「……ぜひ、うかがいたいわ」
私はそう答え、貴音と同じ方向を見た。
窓ガラスの上では私たちの姿が反射し、私たちと同じに揺れていた。その向こうではとうに日が落ち、夜の黒が辺りを塗り潰して、今はもう、空とも海ともつかない。