アイドルマスター江戸川乱歩『写真と旅する少女』(律子、貴音、美希、響) 作:木下望太郎
今日一日は休日をくれてやる。苦々しげにそう言いました、黒井社長は。『明日の予定も全てキャンセルだ、カウンセリングの手配をしておく』とも。
それでわたくしたちは、一様に口を開けておりました。あまり急でしたので。丸一日、それも三人が揃ってのお休みなど、遠い昔にあったきりのように思えました。
ぽっかりと空いた休日に、わたくしたちは何も言わずに歩きました。足は自然と、あのかふぇてらすへ向かっていました。
いつもの席、何も言わず美希が写真を取り出して抱き、遠眼鏡を公園へと向けます。何も言わずわたくしたちはお茶を飲み、しばらくすれば何も言わないまま交代で遠眼鏡を受け取ります。
どれほどそうしていたか。気づけば、遠眼鏡を目に当てたまま、美希は涙を流していました。泣き声も上げず、静かに。
『ミキね、ホントは分かってるんだ』
遠眼鏡を目から離さず、美希は続けました。
『ミキが勝手に出ていっちゃったから、ハニーやみんなを裏切ったから……ハニー、きっと怒ってるの。それできっと、もう。いないの』
わたくしは無理にも口を動かしました。
『……いいえ、いいえ、きっとそうでは……美希が活躍すれば、きっとどこかで見ていて下さいます、その御方は』
美希は唇を微笑の形に歪め、首を横に振りました。
『ううん。ミキをプロデュースしてくれるハニーは、もういないの。ハニーがプロデュースしたいミキも、きっと、どこにも』
遠眼鏡を置くと、写真を両の手に取りました。
『きっと、もう。ここにしかいないの』
写真の中では彼が微笑んでいます。十人の、美希の仲間と一緒に。なのにその写真の中にさえ、彼女の居場所は無いのでした。
美希がきつく目をつむります。絞るように涙がこぼれました。写真を抱き、背を折り曲げ、歯を噛み締める彼女は。初めて、泣き声を上げました。
『ハニー……ハニー……!』
美希がしばらく泣いていた後で。響が椅子の音を立てて立ち上がります。
『……あー、もう! 美希、これ借りるぞ!』
引ったくるように写真を取り、少し離れた所まで駆けました。写真を顔の高さに上げ、美希へ向けて掲げます。
『美希! こっち見るんだ、双眼鏡だ! 探してたハニーここにいるから、ちゃんと見つけられるからー!』
子供だましのよう、とはお思いでしょう。それでも響はそうしてくれました。わたくしは何もできませんでした。美希はゆっくりと、遠眼鏡を目に当てました。
『いる……の』
ほんのわずか、笑うように美希の口元が歪みます。
『いるの。ハニー、いるの。みんなも、キラキラして……』
そうして、どれほどの時が経ったでしょうか。遠眼鏡を離した美希は、もう泣いてはいませんでした。穏やかに、微笑んでさえいました。
『分かったの』
何が、と聞く前に美希は言います。
『お願いがあるの。あのね、写真をね、向こうに立てかけるから。ミキがそっちにいるから、双眼鏡で見てほしいの』
響から写真を受け取り、少し背の高いテラスの手すりに立てかけ。その前に美希は立ちます。
『双眼鏡を逆さにして、大きなレンズの方を目に当てて、そこからミキを見てほしいの』
わたくしと響は顔を見合わせます。けれどもとにかく、美希の方に向き直り。二人で遠眼鏡を手にしました。それぞれが片方の目でのぞけるように。
その間に美希が言います。
『ミキね、分かったの。ハニーといたかったし、ハニーと一緒にキラキラしたかったけど――』
わたくしたちは片目をつむり、大きなレンズを覗き込みます。
『――本当はね、それは。もう、してたことなの――』
逆さに覗き込んだレンズの中、美希の姿が小さく見えました。その姿は妙にはっきりと、浮き上がって見えました。他のものは何も映らず、小さくなった美希の姿だけが、遠眼鏡の真ん中に立っているのです。
『――みんなと一緒だったあの頃、ハニーと一緒だったあの頃。一番、みんなでキラキラしてたの』
後ずさりに歩いていったのでしょう、美希の姿が見る見るうちに小さくなってゆきました。人形ほどもない、手の内にも納まってしまいそうな姿でした。そんな小さな姿でしたのに。何故か、唇が動くのが見えました。
バイバイ、と。
わたくしはすぐさま顔を上げていました。響も同様でした。
『美希……!』
いませんでした。どこにもいませんでした、美希は。すぐに美希のいた方に駆け、探し回りましたのに。どこかへ隠れる時間も、あったはずはありませんのに。どこを探しても、いませんでした。
ところが、長い間探し疲れて、元の場所へ戻ってきたときのことです。響が、笑っているではありませんか。先ほどの写真を前にして、肩さえ震わせ、笑っているではありませんか。
『響?』
わたくしの問いにも応えようとせず、響はただ笑っていました、座り込んで、涙さえ浮かべて。
『なぁんだ、よかったぞ、よかった。ちゃんと帰れたな、戻りたかったんだよな……美希』
見れば。立てかけられたままの写真の中、その中央で。美希は嬉しそうに笑って、プロデューサーに抱きついておりました。
それはあるいは、この遠眼鏡の何か、魔性によるものであったのかも知れません。いかにも面妖なことではありますが。ですが、誓って申します。そのような魔性が宿っているなどと、わたくしは露とも存じませんでした。
ともかく。わたくしはいつしか涙を流しておりました。何も言わず、立ち尽くし、目を見開いて涙を流して……そしていつしか、笑っていました。本当に、美希は幸せそうに笑っておりましたので。本当に、わたくしも笑っておりました。響も同じ顔で。三人でずっと――。
語り終えて、四条貴音は笑っていた。我那覇響も同じ顔で。写真の美希と同じ顔で。
「その後は貴女も御存知のとおり、プロジェクト・フェアリーは活動を停止致しました」
響が口を挟む。
「その前に、さんざんいろんなお医者に連れてかれたけどなー」
「まったく。おかしなことではありませんか。あの人たちは皆、人が写真になどなるものではないと思い込んでいるのですから。それこそ面妖ではありませんか、ふふ。うふふふ」
貴音が肩を揺すって笑い、響も声を上げて笑った。
私は、笑えなかった。
「……ふざけないで」
笑い声がやむ。
私は二人の前に立ち上がり、さらに声を上げた。
「あなたたちのお話は興味深いけれど、何度も言わせないで。美希はどこ」
貴音が小さくため息をつく。寂しげに笑った。
「同じことをおっしゃるのですね、律子嬢」
「同じこと?」
「美希の御両親と。……わたくし、人に殴られたことは初めてでした。塩を撒かれたことも」
足元が揺れている。列車は走り続け、乗客は誰も乗ってこない。窓の外には何も見えない。
私は考えていた。考えまいともしていた。考えていたのは、何としても美希のことを聞きださなければということ。考えまいとしていたのは――
そのとき、列車が大きく揺れた。貴音の抱いた額が明かりを反射し、私はふとそちらを見る。
笑っていた、はずの美希が。笑ってはいなかった。写真の中で、申し訳なさげに視線を下げていた。その唇が動いた、ように見えた。
――『ごめんさい、なの』
「美――」
思わず私は応えかけたが。再び列車が揺らぎ、足を継いで踏みとどまる。もう一度写真を見たときには、美希は笑ったままだった。
絶対に、目の錯角だとは分かっているが。それでも私の呼吸は早く、肩がわずかに上下していた。
そんな私を眺めながら、貴音はもう笑っていなかった。
「律子嬢。一つ、御願いがございます」
返事も聞かず続ける。
「写真を立てかけておきますので、わたくしはその前におりますので。この遠眼鏡で、どうか御覧下さいませ。……逆さにして、わたくしを」
響が目を見開き、何か言いたげに口を開いた。それにも構わず、貴音は語った。
「もう、潮時かと存じます。貴女に伝えることができた今となっては」
長く息をつくと顔を上げ、どこをともなく遠い目で見る。
「不甲斐無い友であったと、そう思うのです。わたくしは、自らのことを。もっと、傍にいれば良かったと」
うなだれる。自らの腕ごと、強く写真を抱き締めた。
「……せめて、只今からは傍にいたい、とも」
響は彼女をじっと見ていたが。不意に、大きく息をついた。
「そっか。……そうだな。自分もそうする」
笑って続けた。
「美希は笑ってくれてるけど。できれば、自分も一緒に笑いたかったんだぞ。もちろん貴音も一緒に」
目を見開いた貴音に、響は大きくうなずいてみせた。貴音も小さくうなずき返し。
二人は笑ってこちらを見た。
「さ、律子嬢。もう一度、この遠眼鏡で御覧下さいませ。いえ、そこからでは近過ぎます。無礼ながら、もう少しあちらの方から」
私は後ずさっていたが、追いかけるように貴音が双眼鏡を手渡す。頬は花のように上気していたのに、その手は妙に冷たかった。
いそいそと響が窓に写真を立てかけ、二人が笑ってこちらを見る。写真の中では笑っていた、プロデューサーも、春香も、やよいも、真も、みんな。お下げ髪だった頃の、私も。ただ、美希の顔だけは見ることができなかった。笑っているに違いないのだけれど、私は目をそらしていた。列車は平坦な道を走っていたはずだが、私の足は震えていた。双眼鏡を握る手も同様に。
どうしてこうなったのだろう、何でこんなことをしているのだろう。そもそもあんな話、信じてなんかいないのに……なら、なぜ震えている? ――思考が様々に渦を巻き、いっこうにまとまろうとはしない。そうするうちにも私の手はゆっくりと上がり、目の前にレンズを持ち上げようとしていた。二人は写真の前でいっそうにこやかに笑い、写真の中では――
不意に、写真の額が震えた。表面のガラスが揺れて明かりを反射し、中の写真が見えなくなる。金属を引きずるようなブレーキ音が響き、列車が大きく減速した。その反動で額は窓枠から落ちた、座席の上に。二人がそちらへ駆け寄る中、駅への到着を告げるアナウンスが流れていた。
貴音は何も言わなかった。響も。私は何も言えず、ただ二人の様子を見ていた。
「……とんだ、長話を致しました」
静かに貴音がそう言い、写真をなでる。布を広げ、額を包み始めた。
列車は動きを止め、窓の外にはちらちらと、二つ三つ明かりが見えていた。小さな駅ではプラットフォームにたった一人、駅員がぽつりと立っていた。
小さく息をついた貴音が、うつむいたまま言う。
「それでは……お先へ。こちらへ宿を取っておりますので」
響はなぜだか口を開け、貴音の顔を見ていたが。思い出したように何度もうなずき、手早く荷物を取った。
駅員へ切符を渡した二人は、溶け入るように闇の中へと消えていった。こちらを振り向くこともなかった。
排気音と共にドアが閉まり、列車が再び動き出す。私は全身に揺れを感じながら、二人が消えていった方をじっと見ていた。
思えば。貴音が額を包んでいたとき、隙間からわずかに見えた気がする。写真の中で美希が、苦く笑うのが。
(了)