1204/07/26(月) 午後
リィンくんたちと別れ、サンクト地区に降り立つと大聖堂前の広場で聖アストライア女学院の制服を着た人たちがバザーを開いているのが見えた。シートの上に広げられているのはアンティークのランプに瀟洒なドレスに小説の途中巻まで。これは……見る人が見ればとんでもない掘り出し物を見つけられそうだな、と思ってしまう。
そんなことを考えていると地区の象徴である大聖堂から人がたくさん出て来始めた。
「午前のミサが終わったところなのかな」
「ちょうど良かったかね」
確かにミサの途中に入っていくのは気が咎めるので、クロウの言う通りタイミングが良かったのかもしれない。とはいえクロウがあんまり教会のそういう行事に参加している姿は思い浮かべられないので、単にミサではない時間に来られて良かった、というだけかもしれないけれど。
家族連れで来られている方が多かったようで、大人と小さな子どもの組み合わせが手を繋いで方々へ歩いていくのを横目に、聖堂の方へ。入ってみると午前から引き続きミサに参加する予定なのかまだそこそこの人が残っていて、あれだけ人が出てきたのに、と内心驚いてしまう。
後ろの席へ座りにいくクロウについて、椅子に座ったところで高い天井を見上げた。
大聖堂の中はすきりと空気が透き通っていて、心なしか涼しささえある。紫を基調としたステンドグラスは陽光を受けてうつくしく輝き、一番奥にある女神さまの似姿も綺麗に彩られて。天井から吊るされているシャンデリアもつるりと曇りひとつなく磨き上げられている。
大切にされている建築物というのは、石造でも、木造でも、どこか息がしやすい。
「……お前って教会好きだよなぁ」
「えっ。そう、かな」
精霊信仰がかなり強い土地で育ったせいか、女神さまに対する信仰は他の人よりも薄い気がしていたのだけれど。
「だって前に課外活動で教会の司祭サマの話聞いてた時も結構熱心だったじゃねえか。後輩の無事を祈ってトリスタの教会に通ったりよ」
「そういうのは信仰心が篤いとはあまり言わないんじゃないかなぁ」
前者は知識欲の問題だし、後者はかなり現金な祈りになる。そういったのがなくても、日常的に祈りを捧げる人がいるからこそ女神さまと教会は成り立つのだろうし。例えば、そう、信仰心が篤いというのは出来る限り教会へ通っているトワのような人を指す。
「……クロウは、その、女神さまが苦手、だったり?」
さすがに場所が場所なだけに耳打ちする形で問いかけると、ほんの僅かな、それこそ私やいつもの面子でないと気付けないだろう間を置いて、信じてるっつうの、と笑った。
「なんせ夏至賞当ててもらわないと困るかんな~」
ニッと私に見せた笑顔は、とてつもなくこなれているけれど、去年何度となく見た"こういう表情"と用意されたものを貼り付けたようなそれだった。つきりと胸のどこかが痛くなる。
嗚呼、きっとクロウは、女神さまを信じていないのだと、単なる自分の思い違いだと信じたい話が、どうしてか確信的なものを秘めて胸に落ちていくのがわかった。
「……そっか」
やんわりと拒絶をされたことは、もちろん悲しいけれど、それ以上にクロウにそんなものを抱かせた今までのことが気になった。そうして、久しぶりにクロウの心のやわらかい場所に触れたような、そんな高揚感も伴って。そんないいものではないけれど、この時だけは敬虔な信徒でなくて良かったとも思った。そうでなければクロウに詰め寄ってしまっていたかもしれないから。
もしかしたら両親が亡くなっていることに関係していたり、今まで故郷のことをあまり話題に出さなかった理由の一つだったり、そういう可能性がある。それは傷を暴くことだ。無理矢理こじ開けることだけはしたくない。
だとしても、クロウは私に隠そうとして、きっと隠し損なった。そんなことが分かるほどに君の近くにいられたことは、やっぱり嬉しいと思ってしまったのだ。ひどい人間である。
クロウに付き合った形だから祈る気はなかったけれどそっと手を組み、こうべを垂れる。
女神さま、空の女神さま。いつか、クロウが私に自分のことをもっと話してくれる日が来たら、その時はどうか見守っていてください。そうであってくれたなら、私はきっと何があっても受け止められると思うのです。
そうして一応両手を合わせていた女神さまへの祈りも虚しく、クロウが敗れた夏至賞も無事に終わり、落胆するのを連れ回しながら各地を見回ってドライケルス広場で一休みしようかとジェラートを買う。私はミルクで、クロウはレモンだ。
ちょうど空いていた噴水のところに二人で腰掛けて、夏だからこそ感じられる冷たさと美味しさに笑顔になる。何も言っていないのに差し出されたレモンジェラートもありがたく一口齧り、酸っぱさの中にある甘さがすごく美味しくて、明日とかもまた屋台を開いてくれているだろうか、なんて。
二人とも食べ終わって紙屑を屋台横のゴミ箱に捨てたところで、皇居のお堀のところにトワにアンにA班が集まっているのが見えた。
「あそこにみんないるね」
「ん? ああ、ほんとだな」
何を言うでもなく合図をするでもなく、自然とそちらへ爪先を向ける。
「なんだなんだ、揃い踏みかよ?」
「やっほ。A班とは昼ぶりだね」
「あ、セリちゃんにクロウ君」
「ああ、君たちも来てたのか」
「まーな」
私服の相談に乗ってくれた二人なのでまぁ夏至祭に来てるのはお見通しだったろうけれど、二人でいさせてくれようとした気遣いがあったのかな、と面映くなる。おそらくいつもの面子に二人でいるところを見かけられても声をかけられることはなかったろう。
でも私もクロウもみんなと一緒にいるのも好きだから。
「そういえば夏至賞に行くとか言ってましたけど」
「メインレースの結果はどうだったんですか?」
エリオットくんとマキアスくんの台詞に、あっ、と思う暇もなくクロウが顔を覆って泣き崩れるようなジェスチャーを。もうこの仕草で察されたようでいろいろ内容と内面を吐露するその背中をちょっとだけさすった。うん、やっぱり四番の馬だったよなぁ。
「……先輩、本当にこの御仁でよいのか?」
こそっとラウラさんが口元に手を当てて話しかけてくれたので、ちゃらんぽらんだけど結構頼りになるんだよ、と。どうしてクロウを好きになったのか、なんてクラスメイトにも結構聞かれてきたことだけど、その好ましいところは誰かに分かってもらわなくてもいい話だ。
私だけの大切な感情だから。
「それより、いいことあったみたいだね」
「わかりますか」
「うん」
「……先輩のおかげです」
「それは光栄だ」
かなり推測に推測を重ねたお節介な誘いではあったけれど、あの立ち合いが彼女の糧のひとつになったなら何よりだと思う。二人でひっそりと笑い合ったところで、遠くから大聖堂の鐘の音が響き始めた。15時。
「────」
瞬間、何か足元で違和感が駆けずり回る。何だろう。帝都に張り巡らされている中世の地下道に魔獣がいるのは理解していたから、たびたび生き物の気配を道の下に感じることは今までもあったけれど。今回のものは、それじゃない。そうじゃない。
「すみません、先輩たち。俺たちはそろそろ……」
地下に気を配っていたせいでリィンくんの挨拶にハッと顔をあげる。
「うん、気をつけたまえ」
「もう行っちまうのかよ?」
「ARCUSも持って来てるから、何かあったら連絡してね」
「はい、それでは──」
「いや、あの」
ちょっと待って欲しいと全員に声をかけ始めた瞬間、後方からどよめきが広がり始め即座に振り向くと広場の各所にあった噴水から水がとめどなく溢れ続けている光景が目に入った。それに対しアンが、ふむ、と思案するような表情になる。
「何かの圧力が高まっているような……」
「夏至祭の余興……?」
そうであって欲しいかのようなエリオットくんの言葉を否定するタイミングで更にマンホールの蓋が水圧で吹き飛び、辺りへ響き渡る大きな音を立て地上へ落ちる。ゆうに3アージュはある水柱。あんなものに触れたら人体なんて無事じゃ済まない上に、落下するマンホールの蓋はただでさえ凶器だ。足元の煉瓦も割れただろう。
「テロリストの──!」
「そうみたいだね」
リィンくんの言葉に対してトワが瞬時に肯定を返す。全く、本当にこんなことになるなんて。
「アンちゃん、セリちゃん、クロウ君! みんなの避難誘導を手伝って! 憲兵さんたちも混乱してるみたいだから!」
トワの号令に合わせる形でARCUSの耳介装着型通信器をつけ、私たちはあの日々のように走り出した。
近隣にいたHMPの方たちにコンタクトを取ったトワからの要請で、ドライケルス広場から安全だろう近場の公園へのルートを確保しにいく。
テロリストたちがドライケルス広場を水浸しにしただけで終えたのは、おそらく皇居を守る近衛隊の手を民衆保護に割かせたかった撒き餌だったのだろうと思う。大聖堂と競馬場の方はTMPが警備を敷いているけれど、マーテル公園の方は近衛隊がメインに警備をしているはずで、その応援となる手数を減らしたかったと見るべきだろう。
そうじゃなかったら────。
「こんな風にあそこにも魔獣を解き放てばいいだけだもんなぁ」
到着した当初は安全に思えた公園も、どこからともなく──とはいえおそらく地下道から──這い出てきた鰐型魔獣が闊歩し始める。
ケルディックやノルドのことから、相手が持っている笛が古代遺物だろう予測は出来ていたけれどこんな風に広範囲に亘って、数量をものともせず操れる代物だとは思わなかった。
こういった物がたまにあるのだから古代遺物ってのは厄介極まりない。七耀教会が"生きている"遺物の回収に力を入れるのも無理からぬ話で。
近くにあった石ころに戦技を乗せて魔獣へ投擲すると、見た目から得る印象よりも遥かに俊敏なそれらはしかし上手く挑発にかかってくれたようで私へ一目散に走ってきた。
手に馴染んだナイフはここぞと言うときの為に使うべきだから、こうして石で釣れるのならありがたい。
アルフィン皇女殿下が居られるマーテル公園にはVII組A班が急行している。今はただそれを信じて、私は私の仕事を果たすだけだ。
パニックになった人たちは自分を守るためのことすら出来ない。どんな行動が自分の身を守ることに繋がるのか判断がつかなくなる。ましてやそれが幼い子どもであるのなら尚更。
「────っ」
攻撃のモーションへ入っていたら挑発戦技に意味はない。だから割って入って一撃を弾いたわけだけれど、これじゃあ駄目だ。後ろに無力な人を置いて戦う術を私は持ち合わせていない。強固な前衛がいてこそ、補助してくれる後衛がいてこそ、私は回避という防御で敵と戦える。
「大丈夫、私が絶対に守ります」
だけど、歯を慣らし合わせる少女を後ろにして、そんな弱音を吐いてはいられない。
思い出せ、ナイトハルト教官の戦い方を、ジョルジュの立ち方を、エミリーの豪胆さを、クレインの太刀筋を、ラウラさんの在り方を。私はとても近くで彼らの戦いを見て来たじゃないか。回避が出来ないなら相手の攻撃をダガーでいなし続けるだけだ。
多対一でもその程度のことが出来ないなんて言わせないぞ、セリ・ローランド。
自分を鼓舞するためにダガーを少しだけ回して、唸る魔獣たちへ踏み出した。
少しでも隙を見せてくれたら、子どもを連れて離脱が出来るっていうのに、一体倒せばまた一体とキリがない。魔獣は一定数倒すと天敵と見做して逃げ帰ってくれるモノもいるけれど、この魔獣たちは魔笛の効果なのかそういう在り方ではないらしい。
迷うそぶりもないから、倒すべき存在と私が認識されてしまっているのだろう。
「きゃあっ」
集中を全て前に注いでいたせいで後ろへの対応が遅れたかと意識を一瞬割いたところで、背後にいた少女を侍従服の女性が抱き抱えていた。
「こちらの方は私にお任せください!」
見えた震える手は、戦闘なんて身近な方ではないのだろうということを私に知らせる。それでも、自分に出来ることはないかと一歩を踏み出してくれたのだ。危険極まりないけれど、一般人を死地に踏み入れさせたことを恥じるしかないけれど、今はその勇気に甘えよう。
「助かりました!」
そうして汗を軽く拭い、目の前の敵にだけ集中出来ることに笑いが抑えられなかった。
そうして、公園だけでなくあらゆる場所へトワから飛ばされた指示に従い、通りを駆けずり回って数時間経ち、ようやく魔獣掃討終了の連絡がもたらされた。鰐型魔獣には魔笛の効果もあったろうけれど、それ以外にも彼らが出てきた地下道から操られていないのだろう魔獣まで出始めてきて地下道入口の封鎖も急務だった。そちらは人手のある憲兵隊に任せて、私たちは遊撃として戦い続けた。
ARCUSで現在の位置をお互い確認したところ、レイフト広場が均等に近いということでそこに集まることに。クロウだけは連絡がつかなかったけれど、途中でテロリストらしき人物を発見し、そのまま追いかけて地下道へ入ったため通信圏外になっているんだろう。一抹の不安はあれど、探しに行ける体力はない。自分の現状を把握するのも重要なことだ。
ふらりふらりと重い体を引きずって何とか広場へ辿り着くと、中央の時計台に背を預けて座るトワとアンが見えた。手を振ろうとして、全然上がらない腕に乾いた笑いがこぼれる。
なんだ、もう、体力ないなぁ。
「おつ、かれ」
二人のそばに行って何とかそれだけ絞り出し、どしゃりとトワの横へ崩れるように座り込む。
「セリちゃん、本当に本当にお疲れ様」
「あは、トワのおかげだよ。こんな時間まで、ずうっと頑張れたのは」
指揮系統が信頼出来るということがどれほど頼もしかったことか。それに割く労力を戦闘に回せたのは非常に大きいし、何百人……いや近衛隊やHMP、果てはTMPとも連携したと聞くので下手したら何千人もの命を彼女は救ったのだ。
これで政府筋からの勧誘はより強固なものになるだろう。間違いない。
「ああ、私もそう思う。そして、そんなトワの下で動けたというのはいい経験になった」
トワは私たちよりもずっと物事を俯瞰してみる能力に長けている。それを遺憾なく発揮できたのがテロ活動への対処だなんていうのは、トワ的に喜ばしいことではなかったろうけれど。
「ほんとにね」
制服はぼろぼろになって、あちこち擦り傷切り傷打ち傷で傷の種類を挙げれば枚挙にいとまがない状態ではあるけれど、それでも、自分の前で被害者を出さずに済んだのは不幸中の幸いだった。
「あ」
覚えのある気配に顔をあげると、広場の入り口の方に見慣れた姿が見えた。
────生きててくれた。
「よっす、おつかれ~」
「あ、お疲れ様、クロウ君! そっちも大変だったみたいだね」
たぶん私たちが連絡を取った後に、先に広場で休んでいたトワが連絡を取ろうと試みてくれていたのだろう。こうして対処に当たった四人全員がまた揃ったことに強い安堵感を覚える。よかった、本当に。誰も欠けなくて。
「マジでこんな日にテロとか起こさなくてもいいだろ」
遠慮なくクロウが隣に座ってきて、その姿を見て、どことなく、違和感。導力銃を使う中衛だからか、途中から地下道に入ったせいか、妙に傷が少ない気がした。いや、私に比べたら誰しも傷は少ないのだけれど。
まぁ、でも、いいか。こうしてまた集まれたなら、わりと、なん、でも……。
《C》として、帝国解放戦線の長として、鉄道憲兵隊並びにVII組へ名乗りを上げて地下道から脱出したところで、後のことは他の幹部に任せてアリバイ作りに奔走することになった。途中から消えたこともあんまり気にされちゃいねえみたいだな、と胸を撫で下ろす。
地下道に来たVII組は、まぁあんだけ頑張ってても所詮は学生だ。俺一人に三人でも相手になりゃしねえ。若干肩透かしをくらった気分もなくはねえけど、障害になりようもないってんなら大歓迎だ。
「よりにもよって終戦記念日だもんねぇ」
「まあむしろそういう意味なんじゃないか? 市民にそのメッセージが届いているかは定かではないけれど」
ゼリカの言う意味もないわけじゃねえが、目的としてはやっぱり『帝国で一番警備が厚い場所』を襲撃したことによる俺たちへの脅威度は計り知れねえだろ。あれだけ厳重に警備をしておいてマーテル公園の下に地下墓所へ通じる道を把握漏れしてたっつうのは、本当に笑える話だ。競馬場と大聖堂の方にも手を伸ばしちゃいたが、本命がマーテル公園の皇女だったことに変わりはない。
「でも本当、重傷の人とか出なくてよかった」
「トワはよくやったよ。ありがとう」
「みんなのおかげだよ。……あれ、セリちゃん?」
トワの言葉に、徐々に肩へ体重がかかってきた隣を見ると目を閉じて健やかに寝ている姿が目に入った。授業中にも図書館でも居眠りをしないっつう話だから、地味にレアな寝顔だ。
「……寝てるな」
よく見下ろしてみると普段肌が露出している顔や手指以外にも、特殊繊維が混紡された実戦用の制服もところどころ切り裂かれ、そこから滲んだ赤色が裂け跡を色付けている。きっと見えない箇所にも傷をこさえてんだろうな。
ほんと、知らねえ誰かのために一生懸命になれるってのは危なっかしい。
「セリちゃん今日はずっと慣れないことしてたもんね」
「なんかあったのか?」
セリの寝落ちで、得心したようにトワが頷いてほんのり笑う。
「私も状況からの把握なんだけど、セリちゃんが担当してくれた辺りで魔獣騒ぎもあってね、だけど近くに急行できる憲兵さんたちもいなくて……セリちゃん回避特化でしょ?」
「そうだな。自分に注目させる、避ける、カウンター、が基本だ」
「あるいは他の打たれ強い前衛の補佐だね」
「だけど周りは混乱した人たちで、だいぶ長い間、直に受けないといけなかったみたい」
「なるほどな」
そう言う意味で、こいつは他の前衛がいない、あるいは一人でいられない状況ってのが大層苦手なんだろう。前に聞いたクロスベルでの魔獣襲撃は、一般人がバスという小さな砦の中にいてくれたからこそそれなりに戦えたってのもあったに違いない。
オレがいたらこんな傷をつけさせなかった、なんてのは今回に限って言えば無しだ。どの面さげて言えるんだっつうの。せめてもと回復魔法をかけてやるが、深い傷はしばらく皮膚の下で痛むだろう。
「おつかれさま、セリちゃん」
今までで一番、やさしい声音でトワがセリの頭を撫でる。誰かに触れられて起きない筈がないだろうセリは、ただただそれを受け入れていた。……マジで寝てるなこりゃ。導力切れても動き続けてたところで、他の三人がいるから完全に緊張の糸が切れたって感じか。
体力ねえなぁ、って言いたいところだが、継戦することに慣れちゃいないから仕方ねえか。
「だけどどうしよう……。起こすのもかわいそうだけど……そもそも起きるかなぁ?」
トワの懸念はもっともなもんで、こうなっちまったら最後、しばらく起きねえだろう。
「なんだ、それならいい人材がいるじゃないか」
「……おいまさか」
「恋人一人くらい背負って帰りたまえよ。私はバイクを回収してトワと帰る役目がある」
ここで眠りから覚めるのを待つのもいいんじゃねえかなあ、と代替案を出しかけたところで、いや起きるかどうかはちょっと博打だなと口をつぐんだ。もう既に夕方だ。夏とはいえ夜までここで座ってるってわけにもいくまい。
「……クロウ君、お願い出来る?」
「断れる気もしねーんだが。まぁそんならちょっくら手伝ってくれよ」
「ん……」
「あ、起きたか」
背中から少しだけ意味のありそうな吐息がこぼれたのが聞こえて立ち止まる。
しばらくふにゃふにゃしていたそいつは、ん~、と若干唸りながら意識が浮上してくる気配。
「くろ、う……? ……、……?!」
「おっと、暴れんな暴れんな」
オレのジャケットとネクタイで体とか腕を固定して落ちないようにしちゃいるが、それにも限度があるっつうの。横抱きは眠ってる人間だと長距離移動するには安定性に欠けるし、肩の上に乗せるキャリー方法はガチすぎてたぶん通報されっし、今回はどっちもなしだ。
「えっ、ちょ、これは……どういう状況……?」
「集合したところでお前、寝たんだよ」
「……あ、あーーー」
ようやく意識と記憶が重なってきたのか、間抜けな声がだんだんと輪郭を得ていくのが面白くて思わず笑っちまった。
「そんで例の騒ぎでトラムは止まったまんま、徒歩で駅まで向かってるってワケよ」
「それは……ご迷惑を……。お、降りるから止まってよ」
落ちないよう下腕同士をネクタイで縛っていたのに気が付いたのか、それを器用に外してセリはオレの肩をやんわりと押す。
「いんや、慣れねーことして疲れてるみたいだし、駅まではこのまんまでいいぜ」
こんなことが贖罪になるとはこれっぽっちも考えてねえけど、今はまだ背中にお前の温度を背負っていたいって思っちまったんだよな。目の前のことに精一杯対応する、不器用なオレの彼女。こんなテロリストの横にいていいヤツじゃない。いつか、手酷く手放す日が来るってわかってるのに。
「あ、ありが」
「背中の感触も楽しみたいからな」
「……!」
自分の内心を隠すよう、真実を織り交ぜた軽口を叩くと一瞬拳が振り上げられたような気がして覚悟したってのに、それは振り下ろされず、ぽすんとまた胸の感触が背中に戻ってきた。
「ねぇ、クロウ」
「ん~?」
「……いや、やっぱ、いいや。ごめん」
思わせぶりなその中断は、だけどどうしてか追求する気にはなれなかった。もし聞いたら、何か要らないことまで喋っちまいそうで。
ようやく公に名乗りを上げたから気でも昂ってんのかね。
「そうかよ。ま、言いたくなったらいつでも聞いてやんぜ」
「うん、ありがとう。……だいすき」
ぎゅっと、自分の体を支える意味じゃなく、明らかに抱き締めてきたセリの思いを俺は受け止め切れず、ただただ、返事も出来ずに駅へと歩いて行った。
『すき』だなんて、そんな、たったそれだけでいられたならどれだけよかったことか。