※性別問わずフラッシュバックの懸念がある方は、次話前書きにあらすじを記載するので今話は飛ばしてそちらをお読みください。
1204/11/06(土) 昼過ぎ
軟禁開始から一週間が過ぎた。
連合軍から言い渡されているのは校内の敷地から出るな、という程度のお達しなので完全な監禁ではない辺りが不幸中の幸いといったところだろうか。とはいえ少なからぬ人数が消えているため見回りに来る兵士も違和感を覚えたらしく、生徒会に現在学院内に確認が出来る生徒の名簿を出すよう指示が下された。これ以降の脱出は難しくなったといってもいいだろう。
元より私はここを離れるつもりはないけれど。
人が少なくなった敷地内の、更に静かな旧校舎を見上げてため息をつく。
例の灰色の騎士人形が出て行ったというのに傷一つないということは、中にある転位石のような機能を有していたとみるべきか。であるのなら蒼い騎士人形も同等の機能を持っている可能性が高い。ああでも旧校舎から直接街道へ転位したわけじゃないから、転位距離はかなり短いのかもしれない。あり得そうだ。
……トワたちは、大丈夫だろうか。
この間は生徒会役員の人にああ言いはしたけれど、心配でないはずがない。時間との勝負だと考えていたから碌に装備も整えさせられずに送り出してしまったから、どうにか頼れる人と出会えていたらと思う。例えば、トヴァルさんのような遊撃士の方とかに。
一年間の学院生活と課外活動を経ているからある程度のことや、野道には慣れたろうけれどそれでも二人では手が回らないところも出てくるだろう。やっぱり自分も一緒に行くべきだったか。いや、行かないと決めたんだ。その選択の是非を問うのはまた今度にしよう。
VII組も、灰色の騎士人形が北へ飛んでいくのは見えたっきり、結局彼らは学院に戻ることなくどこかへ行ってしまった。だけどきっと彼らもこの半年で得たものを無駄にせずに走り回っているのだろうと信じられる人たちだ。リィンくん共々、まず無事であって欲しい。
……そういえば修練場の地下にサラ教官やナイトハルト教官の気配がないのは理解するけれど、トマス教官のものもなかったような気がする。一体どうやってあの戦場を抜け出したのだろう。メアリー教官はあの時学院にいたから、そのまま他の生徒と脱出しているのでいるわけもない。貴族といえど教官であるあの人は逃げておいた方が何かとよかったろう。
非戦闘員で貴族だから交渉の矢面に立てるというのもわかるけれど、学院生だから相手も手が出せないというのに賭けたともいう。まぁ、学院生に手を出したら囚われている教職員を黙らせる手札を捨てるも同然だから勝率は高かった。兵士たちの噂を集めてわかったことだけれど、装甲車を袈裟斬りにする個人となんて戦いたくないだろう。
何にせよ、考えることが多過ぎるし気も張り詰めっぱなしだし、何に憚ることなく思い切り寝たいというのが今一番身体が求めているものかもしれない。
はあ、とため息を吐いたところで本校舎側から複数の足音が聞こえてくる。逃げてもいいけれど、明確なその指向性に私に言いたいことがあるのだろうと諦めた。
鬱憤は、適宜晴らさなければより捻じ曲がっていくものだから。
「おい」
声をかけられて、さもいま気が付きましたという体で振り返る。視界内には学年混在の標準制服の男性五人、小路入口の方に見張りらしき気配も一つ。
私を見る彼らの顔はどう見積もっても友好的なものではない。これは、どうやら予想通りみたいだ。
「なんで、なんでクロウはあんなことをしたんだよ」
そんなこと私が知りたい。あまり他者の感情と自分のものを比較するのはかなり非合理だと思うけれど、それでも、おそらく、この世界で一番それを知りたい人間の一人だという自負はある。問われたってわかるわけがない。
「……知るわけないじゃないか」
「お前、あいつの恋人なんだろ!」
強く言葉が突き刺さり、フェイクだと言い切ったあの声が脳裏によぎった。
そう絆を築いたと信じていたのは、こちらからだけだったことをまざまざと思い知らされる。トワ、アン、ジョルジュ、みんなと一緒にいたあの日々が呆気なく踏み躙られたのだと。
「知ってて加担してたんだったらここに残ってるわけない」
「知らないなんてことがあるかよ! 宰相閣下は俺たちの希望だったんだ!」
距離が詰められると同時に、ドン、と肩を殴られ、多少よろける。よろけたフリをする。その言葉で理解する。彼らは帝都民だ。確か、鉄血宰相殿は帝都の民からは慕われている。特に平民からは。成り上がって要人となった、平民の希望の星というわけだ。
「それは、本人に言うべき話だ」
私に言ったってどうしようもない。このトールズに通っているんだからそんなことが分からないほど馬鹿じゃないだろう。それでもその憎悪を向けるべき相手はとうに居ないからと、その側にいた人間に矛先を向けるというのはあまりに愚かしい。感情は理屈ではないとはいえ。
「うるさい!」
今度は強く突き飛ばされ、どうも想像以上に参っていたのか上手く受け流せず、ベンチの方へがしゃんと倒れ込んでしまった。若干鋭利な角が強く脇腹を殴打した。反射的に受け身を取らない選択をしたのは自分だけど、痛いのが平気なわけじゃない。当たり前のように痛い。
さて、一体どうしたものだろうか。本気でやればある程度どうにかは出来るだろうけれど、相手は一応、同じカリキュラムを経ている男性陣だ。ARCUSは通信波で捕捉されると面倒なため必要な時以外は導力を落としているから、生身でやりあうしかない。しかも、時間による展望もない。それなら、殴りたいだけ殴らせた方がいいのでは?とさえ思う。
……この人数相手に本気で何とかしようと思ったら、素手で殺すしかないのだから。誰かが起き上がってくるという可能性を潰して一人一人消すしかない。膝だけを砕く方法もあるけれどピンポイントだし上半身が動くというのは面倒なことになる。再起不能な傷を負わせずに丁寧に気絶だけさせるなんて芸当をしている暇もないだろう。切り札の腰の銃もここで露呈させたくはない。
「何で抵抗しないんだよ!」
「────っ」
思考を巡らせていると一人が馬乗りになってきて、膝で腹を固定しながら襟を掴み顔面を思い切り殴りつけてきた。視界が白む。耳の奥もわずかに痛む。士官学院は、軍人の養成校だ。いくら大半が軍に進まないトールズとはいえ、男女の垣根は二年生ともなると恐ろしく低くなる。これは、そういうことなんだろう。でもこの体勢はすこしマズい気がする。今は単なる暴力で済んでいるけれど、私の属性を理解するならば、もっと効率の良い尊厳破壊方法が、ある。
お願いだから、最後まで気が付かないでほしい。
「抵抗しないってことは、やっぱり知ってたんじゃないのか?! 贖罪か!?」
知らないと言っているし、そも本当に知っていたとしたら論理的にここに残っているのはおかしいとも伝えているのに、どうしてもそれを理解しない。理解したくないのだろう。怒りをぶつけるサンドバッグが欲しいだけなのだ。鬱憤を晴らすための。
そして実は、いつかこんな日が来ると思っていた。だってあの人物と私が付き合っているのなんて学院……いやトリスタの人たちでさえ知っていたから。
犯罪者の親族の家に火がつけられるなんて、まま聞く話だ。これはそういう話で。ここに残る選択をした時点で、予想出来ていなかったわけじゃない。
「つっ……!」
今度は裏拳でもう片頬が殴られ、次いで両襟を持ち上げられて頭をベンチの角にぶつけられる。熱さを感じた数瞬後にはぬるりとした物が首筋を通っていくのを理解した。ああ、人はここまで暴力的になれるのか。閉鎖空間というのはこわいものだ。心の拠り所の破壊というのは、おそろしいものだ。妙に冷静な部分で、自分がそう思考する。
「おい、さすがにもう」
襟がじわりと赤くなっているのに誰かが気がついたのか、周囲にいた一人がそう声をかけたらしい。ああ、もう、頭が酷く痛むし、視界も霞んでよくわからない。
「うるさい! こいつが、こいつさえ、気がついてくれていたら!」
鉄道憲兵隊や情報局にさえ尻尾を掴ませなかった相手を、どうして私が看破し得ると思うのだろうか。あの演説時にようやくクレアさんが……あの有名な氷の乙女が彼を突き止めてくれたというのに。
もう一度握り拳が頬をえぐり、今度は奥歯が折れたらしい。横向いてえずくと同時に口内からこぼれ落とす。飲み込んでも噛んでもかなりやばい。ふと気付けば、襟を掴む手が震えている。
「なあ、どうして、抵抗しないんだ」
「……抵抗をしたら、もっと酷くなる気がして」
殺さないで突破できる自信はないよ、とは、さすがに言わなかった。相手を逆上させるだけだろう。なんせ、殺すことを決意したら抜けられるというのと同義なのだから。それに、抵抗されなければ殴れないというのなら、それは結局、自分が正義ではないと思っているに他ならない。
理解してくれただろうか。諦めてくれただろうか。横に向けていた顔からちらりと見上げると、暗く澱んだ視線とかち合ってしまった。あっ、まずい。
瞬間、制服の前が露わになり、混乱しているところへ立て続けにネクタイを無視してシャツに手をかけられ、霞む視界の中で舞い飛ぶボタンだけがいやにくっきりと見えた。肌着が、普段晒すことのない場所が、寒空の下で知らない相手の眼前に出ている。その、恐怖が。
「おい、さすがにやめろって!」
他の人間が割って入ったところを、うるさいとそいつは振り払う。もう自分の目的以外見えていないんだろう。
「いいか、お前はクロウに対する餌になるんだ。絶対に、あいつを後悔させてやる」
無遠慮に首筋に土のついた手が滑り込んできて全身が悪寒に苛まれた。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。嫌だ。やめろ!
張り裂けそうなほどに心は叫んでいるのに、声は出なくて、その手が、目が、あまりにも恐ろしくて、ああやっぱり自分は女なんだと思い知らされる。やっぱり早々に覚悟を決めて全員殺しておくべきだったのかもしれない。────いや、こいつだけでも。
憤怒で心を焼き、手足に力が入ることを確認し、手始めにその眼球を抉り取ってやると力を籠めかけた、まさにその時。
「何をやっている!」
とても真っ直ぐな声が割って入ってきた。この、声は……。
「ハ、ハイアームズ……見張りは何やってんだ!」
「何をやっているも何もない! 先輩から直ぐに離れたまえ!」
パトリックくんの怒号を伴う足音と共に乱暴に襟は外され、圧迫されていた腹から重さが退いた。すると妙に胃のあたりがうずくまり、寝転んだままうつ伏せになって胃の気持ち悪さを全部吐き出しそうになる。圧迫されていた事で妙なところへ入ったらしい。いや、でも、だめだ。パトリックくんが隣に膝をついている。その制服を汚すわけには。
「先輩、吐きましょう。全部」
そっと宥めるように背中に手を当てられて、さっき私のそばにあった手とまるで違うそれに促される形ですべての気持ち悪さを地面にぶちまけてしまった。まともな量も食べていないのに、それでも地面はぐちゃぐちゃになっていく。
あ、は、と言葉にならない音を終わりの合図のようにこぼし、喉の奥のひりつきを残して流れは一旦止まる。それでもぐるぐるぐるぐる、視界が回転してうまく起きられそうにない。
「パトリック様!」
「担架を持って参りました!」
その言葉にまた別の人たちが来てくれたのだと理解する。そっとまた誰かが傍に膝をつき、肩に手がかかる。
「持ち上げるため、少々傷が痛むやもしれません。ご勘弁を」
今の私は吐瀉物でぐちゃぐちゃだろうに、それでもその人は嫌がる気配もなく丁寧に担架へ乗せてくれた。しっかりとした清潔な布の気配に、心がほっとする。
「セレスタン、任せた。……お前たちには話を聞かせてもらう必要がありそうだ」
そう低く暗い声で威圧するパトリックくんの声だけが、その時私に認識できた、最後の。
目が覚めたら、知らない天井、ではなかった。一週間前にも見たそれは忘れることも出来ない。むくりと身体を起こして周囲を確認すると、思った通り保健室のベッドに寝かされていたらしい。しかも一番奥に、カーテンまで引かれて。衣服は誰かがやってくれたのか、備え付けのだろう寝巻きが体を包んでいる。
首元を触ると包帯の感触。頬や頭にも、ガーゼや湿布が貼られていて満身創痍だ。まぁ、戦術オーブメントは取り上げられているからここの設備で出来得る限りのことをしてくれたんだろう。
誰かはわからないけれど、とりあえずパトリックくんにはお礼を言わねばなるまい。その流れで手当てをしてくれた人のこともわかるだろう。
そっとベッドから降り、置かれていたスリッパを履いてカーテンの外へ出ると窓の外は既に暗くなっている。そんなに眠っていたのか、と暗澹たる気持ちになった。
窓を開け、夜風に当たる。月明かりだけでも十分なほどの夜だ。
────絶対に、あいつを後悔させてやる。
投げつけられた言葉が耳の奥で響いた。
もし、仮に、あそこで私が犯されていたとしたら後悔してくれただろうか。……いや、後悔するのなら、こんなところに置いて行ったりはしないだろう。だって、私が誰と付き合っていたのか知っている人なんてこの町にはごまんといる。自分が事を成したら、自分への憎悪が私に向かうとわからないはずがない。後悔するほど大事なら、置いていくというのは不合理すぎる。
……たった一言だけでも、一緒に来るかって、言ってくれたらよかったのに。たとえ断ったとしても、そうしてくれたなら選択は私にあったのだから。問わなかったのは優しさなのかどうなのか。
窓辺で感傷に浸っていると、保健室の扉の前に誰かが来た気配。
「起きているから、入ってきて大丈夫ですよ」
私がそう声をかけると、遠慮がちに扉が開き、パトリックくんと彼の執事さんが姿を現した。
「昼間はありがとうございました。本当に危ないところを助けて頂いて」
あそこで、彼が入ってきてくれなかったら何が起きていたのかはあまりにも明白だ。女相手に五人来て、止めに入る人は一人だけだったから、そのまま────。
想像だけでもぞっとする思考に少し身震いして腕を組む。
「いえ、貴族……人として当然のことをしたまでです」
実質この学院では最上位の家格を持つ彼の言葉に誰が逆らえるわけもない、という話ではなく、あの時の彼は確かに、人の上に立つ存在だった。
「先輩」
「……お話しするならお茶でもどうですか?」
私がこの間教えてもらった棚に爪先を向けると、セレスタンさんが先に戸棚に手をかけてにこりと微笑まれるので、なるほど本職に任せた方が良さそうだ、と身を引いた。椅子はどうしようか、と見回したら、先輩はそちらの椅子をどうぞ、と普段教官が座られている立派な方を示されてしまう。
「怪我人ですから」
「では、お言葉に甘えて」
机の上を片付けつつ腰を落ち着けると、それに話し方ももっと砕けてくれて構いません、と声をかけられてしまい、そんな滅多なことありはしないのでは、と思わず彼の顔をまじまじと見てしまった。すると横から、VII組の方々と話されているような形で大丈夫ですので、と助言が飛んでくる。
「……ええと、じゃあ、よろしく、ね?」
「ふふっ、硬すぎじゃないですか」
私のぎこちない言葉に、パトリックくんが思わずといった風に笑うので、だって君は貴族生徒じゃないか、と私もちょっと半笑いで反論してしまった。何だかとても変わったなぁ。
というか私の方が砕けた口調なのに君がそうなのは納得がいかない、と言ったら、エリゼ嬢を助けた方ですから、と言われてしまい、そういうことかとこれについて追及することはやめようと思った。他人の恋愛に口を出すのは野暮というものだ。
あともしかしたらハイアームズ侯爵閣下からティルフィル元締めの関係者だと教えられたのかもしれない。私は直接お会いしたことはないけれど、叔父さん叔母さんは度々旧都を訪れて面会していた筈だ。芸術の都である旧都近くの職人街を抱える街だから、それなりに便宜が図られていたというのはわりと簡単に推測が立てられる。
「お伝えしておきますと、セリ様の衣服を交換したのは第一寮管理人のロッテですからどうかご安心ください」
「それは、その、お気遣いありがとうございます。正直ほっとしました」
そんなやりとりのなかでセレスタンさんが紅茶を注いでくれて、伝えられた言葉も合わせてカップからのぼる香りに心がゆるんでいく。今日のことだけじゃなくて、ずっと張り詰めていた緊張が、いい塩梅に解けていくような。
導力灯は誰もつけず、月の光で紅茶を飲むというのもなんだか贅沢な楽しみ方かもしれない。
「……先輩は、どうして抵抗をされなかったんでしょうか」
暫く無言で飲んでいたところに、そっと言葉が差し込まれた。かちゃり、とソーサーにカップを戻して、曖昧に笑う。
「異性五人相手に、ARCUSの恩恵も武器もなく、殺さないで突破はさすがに無理だよ」
「それは嘘ですね」
貴方ならやってやれないことはないでしょう、と事もなげにばさりと切り捨てられた。嘘じゃないんだけどなぁ。パトリックくんの中の私は超人的過ぎやしないだろうか。
「だから、あれは自傷に見えました」
言葉に、首を傾げる。意味がわからない。
「恋人が反政府組織の人間だと知り、自暴自棄になっているんじゃないか、と」
「……自暴自棄には、なっていないと思うのだけれど」
トリスタの保全のために、学院生徒の安全のために、教職員の安否を確認するために、だけどあくまでそれは究極的に言えば自分のために、出来る限り走り回っていたと考えていた。すべてを投げ出すようなことなんて、全く。
「ええ、対外のことについては、僕も交渉の場に立つこともありましたから先輩は裏方に徹し本当によくやっていたと思います。けれど治安維持にご自身のことは含まれていましたか?」
「……」
含んでいた、とは咄嗟に切り返せなかった。
だって私はこんな日のことを予想していたから。その上で、手を打たなかった。憎悪が自分に向けば、少なくとも他の内側には向かないだろうと思っていたから。あそこまで品のない手段に出ると思っていなかったというのは、さすがに甘く見すぎていたことに他ならないけれど。
「学院生、とはもちろん先輩も含まれるんですよ」
「……パトリックくんは変わったねえ」
まるでとても大人びた言葉に、思わずしみじみとそう感情を吐露してしまった。
「どうもVII組の方々と交流されたのがいいきっかけとなったみたいで」
「セレスタン!」
今の彼なら生徒会の面々と協力しながら学院を先導する立場にもなれるかもしれない。うん、きっと、悪い方向に舵を取りはしないだろう。だって平民の私にもこうして当たり前のように話しかけて、心配してくれる彼なら。
「ともかく、怪我もありますし今は大人しくしていてください。それだけです」
パトリックくんは紅茶を飲み干して立ち上がり、セレスタンさんさえ置いてさっさと出て行ってしまった。止める暇もない。
「坊っちゃまはああいう方ですが、心配しておられるのは本当のことですよ」
その補足には、案外と恥ずかしがり屋ですよね、と二人で笑い合った。
1204/11/09(火)
やることがなくて暇、というのはこういう時に使うのだろうなぁ、とあくびを噛み締めながら思った。あれ以降、動き回ると簡単に傷が開いて衣服を汚してしまうので講堂での間仕切り雑魚寝は許されず、清潔な保健室で寝泊まりするようにと厳命されてしまい今はずっと保健室の住人をしている。
直ぐ開く傷に関しては縫う設備はなく技術を持つ人もおらず、外に出ることも許されず、軍からの派遣もなく、戦術オーブメントも軍が管理しているため生徒には手が出せず、私はなんとあろうことか回復クオーツを持っていなかったという。こういう時のためにEPの上限がどうとか考えずにきちんと最上位のものを一つ持っておくべきだと改めて。
今はロシュが気分転換にと二階の談話スペースに誘ってくれたところだ。
あんなことがあったせいで、私が本当に一人になることなんて殆どなくなっていた。心配されているというのもそうだし、もしかしたら、パトリックくんが発したことは周囲の誰もが持っていた感情なのかもな、と。
「顔の腫れはもうかなり引いたね」
「うん。というかあの時はロシュの取り乱しようが酷かったというか」
「あんたの顔をどこのやつとも知れないやつに台無しにされたらそりゃ怒るでしょ」
行方を知ってたら私がぎたぎたにしたのに、と憤懣やるかたない風情で虚空に拳を投げる。どこのやつともというか、おそらく学院生なんだけれど。たぶん。そうでなきゃあんな凶行に出る理由もなかったろうし。
「ま、ハイアームズの坊ちゃんが決着つけてくれたみたいだし、一番キツいかもね」
あの後、彼らがどのような"処分"を受けたのか。私は知らない。
校舎を歩き回っても、誰一人として出会うことはなかったのだ。中心にいた人間として、ことの顛末はきちんと聞くべきだったのかもしれない。それでも、私はあの理不尽な暴力を思い出すと今でも僅かながらに震えてしまう。ああいう可能性を排除していたなんて本当にどうかしていた。今後は逃げる一択にしよう。
「────?」
不意に、聞き慣れない音がどこか遠くの空からやってきた。覚えている限り飛行艇でも巡洋艦でもなく、ましてや戦車や装甲車でもない。まさかあの騎士人形を模した兵器が飛来しているのだろうかと急いで窓を開けたら、そこには。
『よう、久しぶりだな』
嵐のような色が風を率いて本校舎前に降り立った。
まるですべてを塗りつぶすかのように。