1204/11/某日
「セリ様」
朝。起きて身嗜みを整えていたらヒエリアさんが何かを持って洗面台にいる私に声をかけてきた。新しい部屋着かな、でも結局ワンピースタイプしか着られないものな、と歯ブラシを立てかけ、渡されたものを広げて首を傾げてしまう。デニムのショートパンツ。
「これがどうかしましたか?」
「以前ワンピースが苦手と仰られていたので、僭越ながら縫わせて頂きました」
その気持ちは嬉しいけれど、思わず自分の足元を見る。じゃらりとした鎖は未だ私の足首に纏わりついているのだから到底着られるものではない。そのことを彼女もわかっていると思っていたのに。
「このズボン、横にファスナーがあるんです」
困惑している私を見てくすりと笑った相手がそっと左足を差し込む部分を広げると、そこには確かに上から下までを両断する金具が付いていた。サイドがすべて開くのなら足枷がついていようとお構いなしに履くことが出来る。まさかそんな画期的な衣服を用意してもらえるとは思わなかった。
「デニムですしファスナーを使う関係上、多少丈は短くなってしまいましたが」
「……いえっ、ありがとうございます」
この内戦が終わるまで、あるいはクロウの気が済むまで、私はもうずっとズボンを履けないのかと、身の危険があまりないとはいえこんな精神的に心許ない衣服と下着を着用していなければいけないのかと、正直そこは本当に暗澹たる気持ちになっていたのにヒエリアさんのおかげであらかた解消された。
「寝巻きの方もスナップボタンのものをお作りしましたので、よろしければ」
「えっ、そっちもですか。すごく嬉しいです、本当にありがとうございます」
渡された服を脇に抱えて、ヒエリアさんの両手を取って私は感謝の意を示す。なんなら飛び跳ねたかったぐらいだけれど、鎖が煩いし擦れて痛いだろうからやめておいた。
昼食も終えた昼下がり。休養を取らされていたクロウに合わせてわりとのんびりする日が続いていたので、重めの筋トレでもしようかな、と前にお借りしたトレーニングマットを部屋の中央に敷いたところでノック音。扉の前にある気配はヒエリアさんでもスカーレットさんでも無論クロウでもない。
これ私が応対していいものなのか。
「セリちゃん? ヴィータ・クロチルダよ。いまどうかしら?」
私が出あぐねていると外からそんな声が聞こえてくる。どうやらクロウではなく私に用事のようで、簡易的に自分の姿を確認してから扉の方へ歩いていった。
「急にごめんなさいね。あら、お邪魔だった?」
「ああ、いえ、やることもないのでやろうとしていただけですしお気になさらず」
部屋の中央に広げてあったマットを見てかクロチルダさんが申し訳ない風情で言うもので、片付けながらソファを勧める。壁際にマットを移動させ私も対面に。
「すみません、いつもお世話してくれる方が今はいないのであまりおもてなしは出来ないのですが」
この部屋は給湯設備がない。一応小さな冷蔵庫にお水などは入れてもらっているけれどその程度だ。お湯を沸かすことも出来ないため紅茶すら提供出来ない。それに不便を覚えないようなるべくヒエリアさんは私についてくれているけれど、まぁこういうこともある。それに私は平民だから始終誰かにお世話される、その為に一緒にいる、というのは慣れておらず気疲れしてしまうので時折距離が離れてくれるのはありがたいことだ。
「それに関しては持って来てもらうよう頼んでいるから大丈夫よ」
「あ、そうなんですね。お気遣いすみません」
一体いつの間に、と思ったけれど部屋に入る前に頼んでおいて、部屋に入れたら動き出すよう頼んでおけば特にタイムロスもなくそういう注文は通る筈、と思ったので気にしないことにした。何よりクロチルダさんは私よりもずっとこの船について詳しいのだろうし。
「それで、ここでの生活はどう?」
蒼のドレスを着たその人は、ゆっくりと笑って私を見た。
長い髪はしかしたっぷりとうつくしく、素肌やソファに落ちて綺麗に世界を縁取っている。紫耀の瞳はあの日と同じように光を通したかのように煌めいて。
「……どうしてクロチルダさんが気にされるんですか?」
「だって私が貴方を連れてこなければ、もう少し別の未来もあったかもしれないでしょう?」
確かにクロウは駐屯地で何か迷うそぶりを見せていた。今ならこんな飛行戦艦にどうやって私を連れて行くのか、という方法で困っていたというのは直ぐに分かる。けれどそれは早いか遅いかだけの話で、クロチルダさんがやったことは単純に早回しをしただけ。きっとクロウは私をここに縛りつけることをどうであれ成し、そして私も、逃げ出さずに受け入れたろう。
「いいえ、たぶんそれはないです。きっとクロウは、数日寄港地に私を軟禁してでもこの戦艦に乗せたと思いますよ」
だからそれについては否定しよう。
「ただクロチルダさんが関与して下さったおかげで、今日も私は美味しいご飯を気兼ねなく食べられるのは間違いないですが」
頬、正確に言うなら折れていた奥歯付近を指先で叩いて笑うと、それもそうね、と笑って下さった。クロウは基本的にやると決めたことはやり遂げる。それが暗殺という大きなことであれ、学院祭の企画という比較すれば小さなことであれ。故に、私のことも。
そこでノックの音がして、出迎えるとワゴンに色々乗せた方が入ってきた。紅茶とつまめる数種類のクッキーやスコーンなど。バターやクリームにジャムもたっぷりと。美味しそう。
準備を終えてそっとその方はワゴンと共に退室していった。
「ふふ、それじゃあ頂きましょうか」
すらりとした指先がクッキーをつまむので、たったそれだけの行為が絵になる方もいるんだな、とぼんやり思ってしまった。あまり注視しても失礼なので、スコーンが温かいうちに食べてしまおう、と割ってバターを塗る。あちち。
「クロチルダさんはなんか、こう、確認で来られたんですか?」
「それもあるけど、単純にお話ししてみたかったのよね」
「?」
蒼の歌姫と呼ばれる帝都歌劇場のトップスターにそんなお誘いを受けるような人間ではないと思うのだけれど、まあクロウと関係が深いらしいのでそういう意味で興味が湧く対象なのかもしれない。……多少嫉妬しないでもない、けれど、たぶんそれを言ったら二人ともに笑われる気がする。
「そういえば、クロチルダさんって魔術が使えるんですよね」
「ええ」
「この戦艦に何かかけてたりしますか?」
甲板が寒くなかったし、たぶん何かしらの結界のようなものは張られているのだと思うけど、この間のクロウの態度からしてまた別のものもあるんじゃないだろうか。
「……もしかして分かるの?」
「あ、いえ、クロウがうっすらそんな話をしていたので」
魔術的な結界の気配。判別がつけばきっとこれからの斥候に役立つだろうけれど、生憎とそんな気配はまるで分かりはしない。素養がないということだ。
「そう」
一つ相槌を打ったっきり、クロチルダさんは何か考えるように黙り込んでしまった。悪いことを言ったかな、と困りかけたところで、でも気にしても仕方ないな、と二つ目のスコーンに手を伸ばした。
スコーン自体、小麦粉がいいのか凄く美味しいのに加えて、このバターだ。バターが本当にいいものを使っているというかもう食べたことのない味がする。ちょっと多めに乗せてしまったかな、と食べたところで全然くどくなくてむしろバターだけ食べたくなる人もいるのでは?というぐらいで、正直なところ地上に帰った時に口が肥えていない自信がない。うっかりすると美味しいご飯を食べるために仕事を頑張る日々になりそうだ。
「契約上、話せない結界もあるのだけど」
「はい」
今度はクロテッドクリームと苺ジャムを乗せながらクロチルダさんの言葉を待つ。
あっ、このジャムも香りが全然飛んでなくて美味しい。銘柄を訊いてみたいけど、市販品だったら逆に『お金を出せば買える』確率が高いということに他ならないのでいつか苦しむ自分がいるかもしれない。いや貴族御用達で注文するどころか店に入ることすら出来ない、なんてこともありうるのでやっぱり聞かない方が賢明そうな気がしてきた。こわい。
「クロウにごく個人的に頼まれた術式もあるのよ」
「そうなんですか」
クロウは貴族連合軍の重鎮とはいえ別に戦艦の持ち主ではないのだから、クロチルダさんに頼んで戦艦に魔術をかけるなんてのはよろしくないのでは、と思わないではない。ただ『魔術がかけられている』と分かる人間なんてのは一握りだろうから、気付かれなければないも同然という理論も一応罷り通ってしまう。認識出来ないものはどうしようもない。
そして多分、戦艦の持ち主は私と同様素養がない。
「"この艦において何人足りとも胎に命を宿すこと能わず"。意味わかるかしら。自然の摂理に反するモノを敷いているのよ」
胎に、命を宿すこと能わず。それはつまり人の営みのとある結果を阻害するという、結構人体にダイレクトな影響を与える術式なのではなかろうか。どうしてそんなもの、を……。
「気付いた? 貴方が乗せられて直ぐに頼まれたの」
「……自分に術式をかけるんじゃなく、私に術式をかけるのでもなく、戦艦自体にかけてもらうというところが何というか、クロウらしいですね」
自分に術式をかけたなら万が一私に何かあった時に意味をなさず、私個人に術式をかけた場合は何か不備があった際に気が付きにくく、乗艦している人間全員を巻き込めば術式の穴が判明しやすく、また実行者が何を考えていてもその規模の人間に影響及ぼすことを是とはしないだろう、という信頼。本当に、なんというか、よく気が回る。
「愛されてるってことよ」
「……」
「そういえば、あの日はお見送りには行ったの?」
一瞬考えて、ああミスティさんの格好で早朝に出会った日のことだ、と理解した。
「いえ、結局見送りには行きませんでした。ちょっと精神が荒れていたのは確かですし」
「相手がクロウだと分かってたら、いっそ不満をぶつけてやりなさいって言ったのだけど」
つまり、別にクロウ繋がりで私に話しかけていたわけではない、ということらしい。それが建前かどうなのかはわからないけれど、ここで嘘をつく理由もない、と思う。たぶん。
「クロチルダさんはクロウと長いんですか?」
「そうでもないわよ。解放戦線の面々や、パトロンであるカイエン公の方が長いもの」
目の前の方は紅茶の香りを楽しむようにカップに口をつける。
カイエン公。ラマール貴族の筆頭者。その人物がクロウに帝国解放戦線という手段を可能にさせたのだ。もちろん本人がそう望んだというのは大きいだろうけれど、可能にさせるというのは存外、強い。お金も後ろ盾もコネもなければこんなことは出来ようもなかった。それは間違いない。
「けれど蒼の騎神……貴方を掌に乗せた蒼い騎士人形にクロウを導いたのは私ね」
「蒼の騎神、というからにはおそらく複数体あるんですね。灰色以外にも」
一騎や二騎であれば色を銘にする必要性は薄い。となると五騎ぐらいはありそうだ。もしくは御伽噺に出てくる女神の七至宝が表すように、円環や完全を示す七の数字を冠していても据わりがいい。元々騎士人形──騎神は人智を超えた存在であるのだから、御伽噺を引き合いに出してもさして変じゃない。
「ええ。だけどそれらを貴方が見る機会はない、といいのだけれど」
蒼と灰。その二騎だけでも機甲戦に特化しつつある帝国正規軍を過去のものに出来るポテンシャルを秘めている。しかしそれが複数あるとすれば戦場の概念は覆る。たかが一騎で出来ることは限られる、と切り捨てることは出来ない。
旧校舎が破壊されていない以上、灰の騎神は短距離だとしても空間転位をしている。それが、たとえば搭乗者の練度によって距離が伸びるとしたら?西の戦場にいたからといって東の戦場に来られない、時間がかかるとは言えない。戦車を投げることだって戦法の一つになる場合、おいそれと機甲師団を出すのも憚られる。そういう時代に突入する。……ただ、ここまでの思考は全部"表"の話だ。
魔術を扱う者が騎神へ人を導く、となればそれは表の世界で生きている私たちが絶対に感知・関与出来ない何かに関係しているのだろう。国家転覆が瑣末だとは言わないけれど、それすらも瑣末だと表現していいような事態が進行しているのかもしれない。大陸全土が危機に陥るような。
「クロチルダさんは、他の色が現れるのは歓迎ではない、と」
問えば、曖昧な微笑みで口を閉ざされた。なるほど、私に話せるのはここまでのようだ。
それからは他愛のない話をしてクロチルダさんは帰っていった。
そして入れ替わりに帰ってきたヒエリアさんに相談し、扉横にベッドが見えないよう衝立を設置してもらうことにした。人が来ることもないと思っていたけれど、案外と訪問者がいるので寝床が入って直ぐ丸見えというのはちょっと恥ずかしい。気にするのは自分だけかもしれないけれど。
さて、予定にないおやつを食べてしまったし、ズボンも履けたし、トレーニングしようか。
「おかえり」
シャワーを浴びて上がったところでクロウが帰ってきたので出迎えたら、くるりと背中を向けられて何かを確認している。確認し終えたようで視線がこちらに戻ってきた。
「お前、なんでズボン」
パイル生地のショートパンツを指摘されて、指先で裾を引っ張る。
「かわいいでしょ。ヒエリアさんが作ってくれたんだって」
左サイドのボタンを見せると、鍵落としたのかと思ったわ、なんて。どうやらさっきの不審な行動は鍵の在処の確認だったようだ。いつも身につけているというのはちょっと、なんか、嬉しくなってしまう。いや私がこの部屋にいるしどうせ誰に預けるつもりもない以上持ち歩くしかないだろうけれど。
「でもショーパン、なあ」
言いながらコートを脱いでソファに放り、手袋も机の上に。そうして目の前に来たクロウはするりと足を撫でてくる。うん、これは予測出来てた。
「嫌?」
「………………まあ、外に出るわけじゃねえかんな」
何だか若干自分に言い聞かせているところもあるような気がしたけれど、そうそう、と同意して、お尻や太ももをゆるく撫でる手から逃れてぽすんとベッドの上に座る。シャワー浴びて来なよと促したら、そうすっか、と笑って部屋の奥へ消えていった。
クロウが浴室へ入った音をしっかりと確認してから、ころんと寝転がりソファへ無造作に置かれた上着を見る。もしかしたらあそこに鎖の鍵が入っているかもしれない。確認は胸元のみで行われ、今日着ていたインナーに胸ポケットはない。チェーン類をつけてペンダントにしていない限り、コートの内ポケットなどに入っている確率はそれなりに期待出来る。
そこまで推測をして、私は肌がけのシーツに潜り込んだ。
この鎖はクロウの感情だ。いつか本人が外してもいいと思う日までそのままにしておくしかない。それがいつになるのかは全くわからないし徹頭徹尾不本意ではあるのだけれど、それでも、私の身の安全を気にしているというのは確かだから。
「……あーあ、ほんと、好きなんだよなぁ」
そうひとりごちて、瞼はゆるやかに閉じていった。