腐りゆく世界   作:彼岸花ノ丘

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勝利と失敗

 ビンタは完全に予想外だったようで、夜空はその打撃を頬にもろに受ける。更に、紅葉の手に付いた『血糊』が飛び散り、頬や肩を汚した。

 紅葉渾身の一撃により、夜空は大きく仰け反った。尤も、それだけだ。転倒にすら至らない。むしろ彼の怒りに油を注いだだけ。

 

「っ……コイツ、最後まで嘗めやがって!」

 

 激昂した夜空は、紅葉の腹を蹴飛ばした。

 怪我の痛みもあって、紅葉の方は簡単に転ばされてしまう。屋上の硬いコンクリートの上を滑るだけでも、身体への負担は小さくない。

 藻掻くように動く紅葉の姿は、端的に言って無様だ。夜空は息を荒くしながらも、満足げに笑う。

 

「は、ははは! どうだ!? 俺に逆らうからこうなるんだ! ははははは!」

 

 勝ち誇り、見下し、愉悦に浸る夜空。彼の足下から紅葉はその姿を見つめる。

 

「君、何故ティラノサウルスは絶滅したと思う?」

 

 その情けない体勢のまま、紅葉は脈絡のない話を始めた。

 あまりに今の状況と関係ない話だからか、夜空の顔から一瞬怒りが消えて困惑に染まる。すぐに怒りの表情は戻ってきたが、今までのような純粋なものではない。

 

「……なんの話だ?」

 

「だから、何故ティラノサウルスが絶滅したのか、だ。最強の恐竜、かどうかは諸説あるが、まぁ細かい話は良い。何故だと思う?」

 

「てめぇ、馬鹿にしてんのか」

 

 不機嫌そうに顔を顰める夜空だが、紅葉は話を止めない。止める訳にはいかない。

 これは最後の『忠告』。いくら自分を刺してきた相手とはいえ、これからする事を思えば……忠告ぐらいしなければ人として大事なものを失ってしまうような気がしたから。

 

「様々な説が出ているが、隕石が主な要因とされている。その後起きた生物種の七十五パーセントが絶滅した大量絶滅から、逃げ切れなかった訳だ」

 

「……………」

 

「さて、ティラノサウルスは絶滅した訳だが、哺乳類の祖先は生き延びた。小さなネズミのような種だったと考えられている。当然、ティラノサウルスよりも圧倒的に弱い。なのにネズミは生き延びた。どうしてだと思う?」

 

 紅葉からの問いに、夜空は答えない。答えを考えているようではなく、紅葉が何を企んでいるのかを見破ろうとしている様子だ。

 答えを返さないなら、紅葉としては構わない。話したい事を続けるだけである。

 

「答えは、弱かったからだ。小さくて弱いネズミは、小さな隙間などに身を隠せるし、餌も少なくて良い。対してティラノサウルスは強過ぎた。巨体と身体能力を保つためには大量の獲物が必要になる。隕石衝突により多くの生物が死んだ事で、エネルギー消費が大きいティラノサウルスは餌不足に喘ぎ、死に絶えた訳だ。強ければ全て解決するなんて考えは、現実を甘く見過ぎている」

 

「……何が言いたい?」

 

「君は自分を選ばれた人間だと言った。ああ、全くその通りだ。生物進化の原則で言えば、君はこの時代の適者だろう……だからこそ、弱点がある」

 

 ゾンビに襲われない体質である夜空。彼はゾンビだらけの世界において、圧倒的に優位な存在なのは間違いない。

 しかしその優位性は、さながら天から授かったもの。自分が努力して獲得したものではない。加えて圧倒的であるが故に、彼は検証する事も出来ないだろう。端からゾンビは彼を無視しているのだ。実験をしようにも、観察をしようにも、ゾンビは彼にろくな反応を見せないのだから。

 そしてそれで問題はないのだ。犬猫にとって猛毒であるタマネギを食べる際、人間は何も考えずに齧れば良いのと同じ事。タマネギに含まれる有機チオ硫酸化合物が犬猫の赤血球を破壊して……等という理屈を知らなくても、タマネギは変わらず美味しく、人間の血肉になってくれる。

 だが、理屈を知っていれば悪さも出来る。

 

「君、ゾンビが何に反応しているか、知らないだろう?」

 

「はっ。そんなもの知ってなんになる? 俺は噛まれない! 今までどんなゾンビも俺を無視してんだからな!」

 

「そうだ、君は噛まれない。恐らく臭いがないんだろうな。正確には、特定の揮発性の物質だろうが」

 

「……臭い?」

 

「そうとも。コイツらは臭いに反応する。人間の臭いさ……ああ、ちなみに血にも反応するよ。以前、同居人を助けるためにやったんだ」

 

 紅葉がそう言った時、がしりと夜空の肩を掴む者が現れる。

 夜空は顔を真っ青にしていた。

 まるで錆び付いた機械のように、ゆっくりと後ろを振り返れば、そこには一体のゾンビがいる。

 ゾンビは夜空の肩と腕をしっかり捕まえていた。夜空は身動ぎして振り解こうとするが、されど今度のゾンビは簡単には離れない。おまけにやってきたのは一体だけでなく、この場にいる五体全てのゾンビだ。気付けば夜空は包囲されつつあった。

 勿論、今も夜空はゾンビ達に無視されている。奴等が反応しているのは、あくまでも紅葉の血の臭い。

 ただしそれは今、夜空の頬や肩にべったりと付着しているのだが。腐りきった頭のゾンビに、夜空を噛まないようになんて発想が湧く筈もない。

 

「ところで君、襲われないとは言っていたけど……噛まれても平気なのかい?」

 

 紅葉が慈悲なく告げた言葉に対する夜空の答えは、情けないほどに大きく甲高い悲鳴だった。

 

「ひ、ひぃいやああああぁあ!? た、た、助け……!」

 

 助けを求められたが、紅葉はこれを無視。ゾンビ達に押し倒された夜空の横を通り抜け、彼が塞いでいた扉を開けた。

 そこで一瞬、立ち止まってしまう。

 

「(これは、正当防衛……と言えるだろうか)」

 

 やらなければ殺されるところだった――――言葉で言うのは簡単だ。

 しかし殺す必要はあったのだろうか。

 いいや、そんなものはなかった。他の生存者達と話し合い、みんなで対処すれば彼の捕縛は難しくなかった筈である。カッターナイフを持っていたが、だとしてもやはり数で圧倒すれば被害なしで取り上げるのは難しくなかっただろう。

 そうしなかったのは、夜空に告げた通り彼がゾンビに襲われない体質なのは既に見抜いていたため。夜空の『攻撃』方法としてゾンビを連れてくるのは容易に想像が出来、故に一人で対応する方が全体的に安全だと考えていた……その結果がこれだ。

 命を奪うという選択を一度でもしたなら、次からその選択肢が頭に浮かぶようになる。

 何処かで聞いた言葉は果たして本当なのか。本当ならば、これから自分は元の生活に戻れるのだろうか。何か他人に苛立つ事があっても、その考えを迷いなく切り捨てられるのか――――

 

「……っ」

 

 考え込みたくなる頭を、力強く左右に振る。

 今は思索に耽っている場合ではない。夜空を襲ったゾンビ達が何時までも彼に夢中とは限らないのだ。

 急いで此処から離れよう。悩むのはその後だ。心の中で自分に言い聞かせながら、紅葉は逃げるように駆け足で校内へと戻った。

 ――――それがいけなかった。

 普段の紅葉ならば、気付いただろう。自分がどれだけ追い詰められた状態だろうと、危険はそんな事などお構いなしにやってくると。大きな事故というのは不幸な連鎖が繋がる事で起きるもの。追い詰められた時こそ、基本に立ち返らなければならない。

 しかし紅葉は怠った。扉の向こう側に誰もいない事の確認を。或いは気配を探らなかった。後ろで蠢く気配から、意識を逸らせなかったばかりに。

 何時もなら見落とさない、足下で這いずる()()()のゾンビの存在に紅葉が気付いたのは、その足を掴まれた時だった。

 

「――――あっ」

 

 無意識に声が出た時、紅葉は自分の失態をようやく理解した。

 次いで顔が青ざめ、全身の血の気が引いていく。そして恐怖したところで何も現実は変わらない。

 

「かぁ」

 

 ゾンビの吐息が掛かった、瞬間、足に走る鈍痛。

 食い込み、刺さり、千切れていく。何をされているのか、理性では考える間もないが、本能的に察した。

 反射的にもう片方の足で顔面を蹴り上げるも、ゾンビは離れない。いや、自らの動きで離れようとはしている……口は噛み締めたままで。

 ぎちりと嫌な音を鳴らし、激痛と共にゾンビの頭が紅葉の足から離れた。

 

「う、ぅああああああああっ!」

 

 これが最後のチャンス。そう思い、雄叫びと共に紅葉はもう一度ゾンビの顔を蹴る。

 今度のゾンビは僅かに後退。紅葉の足も手放した。このチャンスを逃すまいと、紅葉は再び走り出す。

 しかしその足は、途方もなく遅い。身体的問題ではなく、精神的な問題によって。例え傷跡を見ずとも、何をされたかは分かる。

 噛まれたのだ。体液が体内に侵入するぐらい深々と。

 

「ああクソッ、クソックソクソッ!」

 

 悪態を吐かねば、怒りで塗り潰さねば心が保てない。ゾンビに噛まれた人間がどうなるか、紅葉はこの目で見ているのだから。

 噛まれても、百パーセント助からないとは限らない。しかし例えば狂犬病のような、処置なしでは現在までに数人しか生存者がいない絶対的な病も存在している。ゾンビの数の多さを考えれば、恐らくゾンビ化は狂犬病並に高い発症率を誇るだろう。

 このままでは自分は助からない。知性なく歩き回る屍の仲間入りを果たす。

 だが、まだ策はある。

 

「諦めるものか……諦めて、堪るか……!」

 

 気力を奮い立たせる言葉を発しながら、紅葉は歩を進めていく。

 自分の帰りを待っている、仲間達の下へと……

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