腐りゆく世界   作:彼岸花ノ丘

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終わりの始まり

 ヘリコプターが飛んでいた時間は、果たしてどれぐらいだろうか。

 救助されたという安堵からか、海未達はわいわい騒ぐ事もなく眠っていた。ゾンビに噛まれている紅葉は自分が健康だと証明する必要があると思っていたので、なんとか起きようとしていたが……やはり疲れが溜まっていたようで、結局居眠りをしてしまう。

 

「おーい、もみっちゃーん」

 

 目が覚めたのは、隣りにいる海未に耳許の大声と揺さぶりのダブルアタックを受けた時だった。

 

「…………………………ふが? ……ん? 私、寝ていたのか?」

 

「うん、ぐっすりと」

 

 自分が如何にしっかり眠っていたのか、海未から教わり紅葉は唸る。睡魔というのはなんとも抗い難い。

 等と寝惚けた頭は暢気な考えに浸ろうとして、しかし我を取り戻した紅葉は気付く。わざわざ海未が自分を起こしたという事は、何かしらの用があるのではないかと。

 

「もみっちゃん、外見て。あそこが目的地らしいよ」

 

 その考えを肯定するように、海未は外を指差す。

 しかし紅葉はすぐに外を見ず、ざっと周り……ヘリコプターの中を見回す。寝ている間に状況が変わっていないか、まずはそれを知ろうとした。

 結論を述べると、ヘリコプター内は変わりない。共に救助された六人の女性達、雪男と菜之花、それを救助に来た自衛隊員四名。ゾンビに噛まれた紅葉を受け入れてくれた、恩人と言える自衛隊の『隊長』もいる。外の明るさも変わりなく、飛んでいた時間は精々二〜三時間程度だと窺えた。

 されど特筆すべき点がない訳ではない。

 自衛隊員以外の全員が、機体の片側にある窓から外を眺めていた。菜之花も雪男と一緒に外を見つめている。海未が言うように、目的地とやらが見えてきたに違いない。大型ヘリの横長な機体でなければ、今頃窓際は押し合いへし合いの大混雑になっていただろう。

 現状を認識したところで、紅葉も海未の横に並ぶように窓から外を眺める。

 無論、一言で外と言っても広大だ。ヘリコプターで空を飛んでいる今、地平線は遥か何十キロも彼方にある。視界内に目的地が映ったとしても、どれがそうなのか認識するのは難しい。

 目的地が普通の場所であれば、という前置きは必要だろうが。

 

「成程、あそこが目的地か」

 

 普通でない場所が見えた事で、紅葉も目的地を理解する。

 難しい問題ではない。遥か上空からでも視認可能な平地。その敷地内に建てられた大きな建物と、真っ直ぐ伸びた平地の上に置かれた『戦闘機』を見れば、子供にだって答えは分かる。

 ――――自衛隊基地。

 このヘリコプターが置かれていた拠点、かどうかは分からないが、自衛隊員達の根城が見えてきたのだった。

 ……………

 ………

 …

 ヘリコプターは自衛隊基地の中に、ゆっくりと降りていく。

 降りる中で色々な連絡が行われているようで、操縦士や隊長が何やら通信機に話し掛けていた。内容を知りたいという思いは、紅葉的にはなくはないが……一般人のいる中で重大な情報を話すとは考え難い。話したところで暗号や隠語を使うだろう。期待するだけ無駄と思い、外を眺める。

 ヘリコプターはやがて着陸。機体が安定したところで二人の自衛隊員が降り、機体の扉を開けた。

 

「避難所に案内します! こちらに!」

 

 自衛隊員の呼び掛けに応じ、乗っていた皆が降りる。勿論紅葉も降りる。

 

「すみません。あなたは此処でお待ち下さい」

 

 ただし紅葉だけは呼び止められた。

 海未と菜之花はギョッとしたように驚くが、紅葉としては想定内の対応だ。

 いくら隊長が許可したとはいえ、ゾンビに噛まれた人間をほいほいと避難した市民のいる場所に連れて行く訳がない。紅葉が自衛隊員の立場でも、間違いなく同じ対応をする。

 

「気にするな。流石に、此処まで連れてきて外に追い出される事もないだろうさ」

 

「でも……」

 

「まぁ、何日か経っても戻らなかったら、マスコミ関係者を探して告げ口すると良い。こんな美味しいネタ、調べないとは思えないからな。一部のマスコミ関係者の自衛隊嫌いは筋金入りだし、割と頑張ってくれると思うぞ?」

 

 不安そうな海未に対し、紅葉は笑いながらそう答える。元気付けるためのジョーク……というのが半分。

 それと自衛隊員への牽制が半分。仕方ない対応だとは思うが、大人しく受け入れるかどうかは別問題。『万一』に備えて反撃の仕込みぐらいはしておく。

 ……効果があるかはさておいて。何分相手は国家権力が持つ圧倒的な武力だ。本気で黙らせようとすれば、やりようはいくらでもあるだろう。とはいえ(ネットの普及や不祥事の発覚で衰え気味とはいえ)マスコミの力は絶大だ。それがきっと助けてくれると伝えた事で、海未は少なからず安心したらしい。こくんと頷き、菜之花と共に自衛隊員達に連れて行かれた。

 

「……こちらです」

 

「迎えの車がもうすぐ来る。少し待っていてくれ」

 

 海未達を見送った後、残った自衛隊員と隊長が紅葉を案内する。

 隊長が言ったように、間もなく車がやってきた。自衛隊らしい立派なジープ……ではなく普通の自動車。四人が乗り込むだけなのだから、ジープよりこちらの方が好都合と言えばその通り。

 紅葉はその車に乗せられ、運ばれていく。紅葉が座った後部座席には、一緒に隊長も座った。

 そして道中はそこそこ長いようで、隊長が淡々と話を始める。

 

「まず、今の日本、そして人類について話そう」

 

「……日本と人類について、ですか。随分と大仰というか、不穏な言い回しですね」

 

「君が感じた通りだ。日本については現在、ゾンビ達は全国の都市に拡散している。理由の一つは、映画やゲームと違い頭を撃ち抜いても行動不能にならない不死性の影響。要するに物理攻撃じゃどうにもならなくて、手に負えない」

 

「……素人意見で申し訳ないのですが、除草剤をばら撒けば良くないですか? コンビニに置かれていたやつを撒いただけで、六時間もあれば倒せたのですが」

 

「ああ、そうだな。ゾンビの弱点……除草剤への抵抗性の低さが判明した時は、それで解決すると思われた。実際、一時的にはかなり個体数を減らす事が出来ている」

 

 しかし、と言って隊長は一旦話を区切る。ため息と呼気の間ぐらいな息を間に挟み、また話し出す。

 

「根絶には遠く及ばなかった。まず、除草剤で一度倒したゾンビでも、時間が経てば『復活』する事。特に日当たりが良い場所だと、復活が早い。遺体を焼けば復活はないが、場所も燃料も足りず、おまけに何時復活するか分からない死体を運ぶ必要がある」

 

「……まさか本当に復活するとは」

 

「この復活が明らかとなった時、自衛隊の多くの部隊が都市部の奥深くに入っていてな。退却しようにも包囲されていて……少し話し過ぎたか」

 

 わざと話した癖に。そう思いながらも、紅葉は口を閉ざしておく。嬉しくないものだが、情報が得られた事には変わりないのだから。

 

「兎も角、除草剤だけではゾンビを倒しきれない。これが厄介な点だ。とはいえ時間と手間さえ掛ければ、少しずつ減らしていける訳だが……もう一つの性質の影響で、減らす事も出来ていない」

 

「もう一つ……」

 

「空気感染する事だ」

 

 空気感染、という言葉に、紅葉は身体が強張るほどの緊張を覚える。

 仮に、ゾンビの感染手段が噛み付く事だけであれば、防止策は極めて簡単だ。ゾンビを見たら近付かない。噛まれた人間は隔離する。コストも時間も殆ど必要とせず、一般人でも真似出来るお手軽さ。勿論自分が感染したかどうかは、当人が一番よく分かっている。

 しかし空気感染となると、一気に危険性と難易度が増す。ゾンビと接近するのは勿論、極端な話ゾンビが通った道を通過するだけでも感染するかも知れない。条件次第で感染力が数十時間続くようなら、最早回避は不可能だ。

 挙句感染したとして、自分がどうなっているかはゾンビ化するまで分からない。血液検査などを行えば判明するかも知れないが、それには時間と専門家(高度な労働力)が必要だ。一般人に出来る事はなく、人手不足から対策は後手に回る。これではゾンビの発生を抑え込むなど不可能だろう。

 そしてゾンビの拡散が空気感染だと判明しているからには……

 

「感染経路が判明しているという事は、ゾンビ化の原因は既に判明していると思っていいのですか?」

 

「ああ。コケ植物の一種と聞いている」

 

「コケ植物ですか……成程、胞子を飛ばしていた訳か」

 

 植物にも色々種類があるが、コケ植物は胞子で増える生物だ。湿り気があれば何処にでも生えてくる事から分かる通り、通常のコケの胞子ならばそこら中を飛んでいる。

 ゾンビが復活するメカニズムもその胞子に依るものだろう。ゾンビ化を引き起こすコケ……ゾンビ苔と呼ぼう……が感染したゾンビを動かす。除草剤はこのゾンビ苔を殺し、コケが綺麗にいなくなった事でゾンビは死体へと戻る。しかしゾンビ苔が再び死体に付着(或いは生き延びた少数の個体が繁殖)すれば、またゾンビとして動き回る訳だ。日当たりが良いと復活が早まるのは、除草剤の成分が早く分解されて定着しやすくなるのか、はたまた増殖速度が増して除草剤を素早く分解出来るのか。

 いずれにせよ、隊長が言ったようにゾンビを完全に殺すには死体を燃やすしかない。もしも日本が土葬主体の国だったなら、一昔前の映画よろしく墓地からゾンビが溢れ出した事だろう。

 

「……そのコケ植物の胞子は、ゾンビから常に出ているのでしょうか?」

 

「そうらしい」

 

 らしい、とは随分と曖昧な言い方だと紅葉は感じる。とはいえ彼は自衛隊員。ゾンビ化の原因調査は科学者の領分だと思えば、彼は又聞きだとしてもおかしくない。

 だから言葉の誠実さは、この際どうでも良い。聞いた情報が正しいと仮定して、紅葉は思考を巡らせる。

 

「(胞子に感染能力があるなら、正直どうにも出来ないな)」

 

 胞子の利点は風に乗り、遠くまで飛んでいける事。風任せと言えばなんとも不確実な方法に思え、実際あまり確実なやり方ではない。しかし言い換えれば、風さえあれば何処までも飛んでいける。

 建物の隙間だろうがなんだろうが、空気さえ通れば胞子は入り込む。中の人間は吸い込んだ事を自覚する術はなく、あえなく感染するという訳だ。クリーンルームのように無菌状態を保つための仕組みがあればまだマシだが、あくまでもマシというだけ。これでは防ぎようがない。

 だとすると。

 

「……一つ、疑問があります。もし空気感染の場合、私達は――――感染しているのでしょうか?」

 

 思い付く中で最悪の可能性を、紅葉は問う。

 ゾンビと隣り合って暮らしていた訳ではない。しかし校舎という閉鎖空間で、何日も生活を共にしたのだ。間違いなくゾンビが出しているという胞子は吸い込んでいる。

 空気感染するほど感染力の強い胞子だ。ほぼ確実に、自分達は感染していると紅葉は思っている。だが今のところ、自分がゾンビになる気配は特に感じていない。

 奇跡的にも胞子を吸い込まなかったのか? その可能性は、高くないと紅葉は考える。そしてより自然な考えは、既に思い付いていた。

 つまり自分達は既に感染しているが、症状が出ていないのではないか。

 

「正解だ」

 

 隊長は、紅葉の疑問に答えてくれた。

 

「未だ調査中だが、三人に一人程度、ゾンビ化に対する強い抗体を持っているらしい。この耐性を持っていない場合、感染後三日でゾンビ化する。尤も耐性があっても完全には駆逐出来ず、体内に残留し続けるようだが」

 

「抗体……」

 

 言葉をオウム返ししながら、ふたたび考え込む紅葉。

 一見して健康なのに、ウイルスや菌が体内に残り続けるという例は珍しいものではない。身近な例で言うと水ぼうそうのウイルスがその一つだ。幼少期に自然感染した場合、基本的が回復した後も背骨の周りに定着して残り続ける。老化などで免疫力が落ちるとこの潜伏していたウイルスが再び暴れ出し、帯状疱疹という形で現れるという。

 他にもエイズウイルスや結核菌も、似たような性質を持つ。これらは感染後しばらく免疫系の細胞内に潜み、そのまま数年間、時には十年以上症状を出さずに居座る。そしてある時一気にその数を増やして発症、宿主の生命を脅かす。ゾンビ苔は、性質的にはこちらに近いかも知れない。

 そして人間側にゾンビ化への抵抗力がある事も、何も不思議な話ではない。

 人間の免疫というのは、実は最初から身体に用意されている。というより身体の中にある抗体の型から、病原体に対し使えそうなものを選んでいるのだ。また人が持っている免疫の型は、遺伝子により決まっている。このため免疫には個人差があり、掛かりやすい病気が人によって違う。

 ゾンビ化というとんでもない症状を引き起こすが、それでも病原体の正体はあくまでもコケ植物。宇宙からの物体Xではなく、地球の生命体の筈だ。人間の中に抵抗力を持つ者がいてもおかしくない。尤も、だから噛まれても安心、と考えるのは甘い見込みだろうが。恐らく噛まれた場合大量の胞子を送り込まれる。いくら抵抗力を持とうと、多勢に無勢では負ける可能性があるだろう。或いは漂う胞子と、口の中にいる胞子は性質が異なる可能性もある。

 何より、「今は」という文言が頭に付く事を意識すべきだ。

 

「感染していても発症しないのは、免疫により胞子の増殖が抑えられているから。なら、言い換えれば免疫が弱まったなら……」

 

「発症すると思われる。現に今、日本で生き延びている老人はごく少数だ。耐性を持ち、尚且つ免疫が元気でなければならないからな。それに、俺達も油断は出来ない」

 

 人間の免疫というのは、二十四時間三百六十五日変わりないものではない。栄養失調や睡眠不足、老化など様々な要因で弱体化する。例え完全無欠の抗体を持とうと、不摂生で免疫系が死滅していては意味がないのだ。そしてどれだけ健康に気を遣っても、何時か必ず人は衰える。

 結核や帯状疱疹のような病気は、そういうタイミングで発症する。今はゾンビ化していない紅葉達も、いずれゾンビとなる可能性は高い。

 

「……そうなると、例えゾンビを全滅させても根絶は難しいですね」

 

「ああ。生きている人間は恐らく全員保菌者だ。根絶するには生存者の根絶やしが必要であり、無論それは人類の絶滅と変わりない」

 

 どこぞの独裁国家ではやっていて、国力が急速に衰退した結果ゾンビを抑えられなくなったそうだが――――笑いながら隊長は語るが、笑い話ではない。

 何時か誰もがゾンビ化する。ゾンビの掃討が成功しても、何処かでまたゾンビが現れ、大増殖を始めるかも知れない。

 そして恐らく、それは遠い未来の話ではなく、今正にあちこちで起きているのだろう。

 

「(私達に伝えられた自衛隊の救助期間が一日だけなのは、恐らく自衛隊員の『人手不足』が原因か。指揮系統もボロボロだろうから、果たして正規の命令なのかどうかも怪しいな)」

 

 組織を指揮する立場の人間というのは、大概にして年寄りだ。指導者には知識と経験が必要で、それを積むには相応の時間を重ねるしかないのだから、余程の事がない限りそうなるのは必然である。

 しかし年寄りの免疫機能は、お世辞にも優れているとは言い難い。つまり胞子に感染したら、抗体の有無に関わらずゾンビ化する可能性が高い。そして自衛隊上層部は勿論、その自衛隊を操る政治家も年寄りだらけ。年寄りの大部分を失えば、自衛隊は機能不全に陥るだろう。

 ましてや自衛隊はゾンビに対し、直接対峙してきた者達だ。ガスマスクなど防疫装備をしたとしても、ゾンビ苔の胞子を完全に取り除くのは恐らく困難。ましてや原因不明だった初期に正しい対処が出来ていたとは思えない。ネットが使えなくなって以降の情勢は分からないが、自衛隊基地内でゾンビの発生があってもおかしくない。

 自衛隊指揮権の喪失と、基地内での奇襲的なパンデミック。ダブルパンチを受けた自衛隊は、大きな被害を出した筈だ。人手が不足し、救助活動をする余裕がないのも頷ける。

 ……これが日本だけの事態なら、まだ復興のチャンスもあったのだが。

 

「世界にも、今ではすっかりゾンビ化が広まっている。都市部から逃げ出した『無傷』の人々が、飛行機などで海外に逃げた影響だ。各国も検疫はしていたが、怪我も熱もなければ、普通の法治国家なら通さざるを得ないからな」

 

「……世界の情勢は?」

 

「アメリカはかなり酷い。映画を真に受けた若者が銃で戦いを挑んで、映画通りにならず噛まれて感染した例が多いと聞く。そもそも胞子で感染するから、活動圏に入るだけでアウトなんだがな。それを地元に持ち帰り、アウトブレイクだそうだ。中国とロシアは人権を無視した封じ込めをしているようだが、政治家や閣僚で感染が広まり始めていると聞く」

 

「ヨーロッパやアフリカは、どうなっているのですか?」

 

「ヨーロッパ側は人権団体に感染者が出て、揉めに揉めているそうだ。デモ活動で歩き回った事も悪い方に働いている。アフリカは分からない。恐らく、何も抑えられていない」

 

 隊長から伝えられた世界情勢。あまり信じたくはない。だが、あり得る、と紅葉は思う。空気感染し、長期間の潜伏までするのだ。感染を止める方法はない。

 では、人類にはもう打つ手がないのか? 何も出来ないままゾンビの大発生を眺めるだけなのか?

 否だ、と紅葉は考える。人類が積み重ね、星の支配者ぶるまで高めた文明を嘗めてはいけない。ゾンビへの対抗策が今はないなら、これから作れば良い。

 例えば治療薬。

 

「成程。私に目を付けた理由が、ようやく分かりましたよ」

 

 隊長曰く、紅葉は初めて確認された「噛まれてもゾンビ化しなかった人間」との事。

 除草剤が薬代わりになった側面もあるだろう。しかし紅葉自身に抗体があったから、除草剤がゾンビ苔の胞子を駆逐するまでの時間稼ぎも出来たとも考えられる。或いは元々紅葉の免疫系がゾンビ苔に極めて強く、除草剤は対して役立っていない可能性も、なくはない。

 重要なのは、何かしらの方法で紅葉はゾンビ化を免れたという事だ。その方法を解析し、薬で再現が出来れば……ゾンビ化を恒久的に防ぐ治療薬が作れるかも知れない。

 根絶は出来なくとも、共存が出来れば御の字。噛まれてもゾンビにならずに済むならゾンビ退治の効率と安全性は上がり、服薬で発症を防げれば感染しても日常生活を問題なく送れるようになる。

 薬が出来れば、人はかつての日々を取り戻せるのだ。

 

「君に頼みたいのは、採血など様々な実験に協力する事だ。勿論命を脅かす真似はしないし、先程の友人達との会うのを邪魔したりもしない。報酬も出そう。どうか、頼めないだろうか?」

 

 隊長はついに紅葉への『要望』を明かす。いや、世界情勢や日本の現状というプレッシャーを掛けられている今、実質強要かも知れないが。

 断る事が出来る状況ではない。断るとしても、それで人間が滅びたら目覚めが悪過ぎる。紅葉の心はすぐに決まった。

 ただ、見返りはもっと求めても良いだろう。

 

「……協力するには一つ、条件があります」

 

「我々で出来る事なら、聞こう」

 

「私の家に、妹がいる筈です。もしも今回の救助活動で救出出来ていないなら、部隊を出して助けてください。もしゾンビ化していたなら……お任せします」

 

「分かった。君の血縁者という事なら、救助の手配もしやすい。それに一人でも多くの国民を助けるのは我々にとっても本懐だ。任せてくれ」

 

 紅葉の頼みに、隊長は快く受けてくれた。まだ妹が生きているとは限らないが……自分の妹だ。ゴキブリ並にしぶとく生きているに違いないと、紅葉は確信している。

 そして妹が生きているなら、尚更頑張らねばなるまい。姉としても、人としても。

 

「(ここで、新しい生活が始まる訳か)」

 

 車の中で背を伸ばしつつ、紅葉は想いに耽る。

 救助されたものの、日常生活へと戻るには程遠い。それどころか今も日常はどんどん遠ざかっているようだ。

 しかし戻るための糸口も見えてきた。道のりは険しく、遠くとも、辿り着けない位置ではあるまい。ならばそこを目指して一歩一歩進むのみ。

 そうやって人は文化を育み、日常を作り上げてきた。自分がその歩みに参加出来る事は名誉にも思う。

 何より。

 

「(早く暖かな日差しの中で、昼寝が出来るようになりたいものだな)」

 

 紅葉はあの平穏な日常が、何よりも大好きなのだから。

 自衛隊の車が向かう先に見えた、無機質で大きな建物。その建物の扉が日常への入口のような気がした紅葉は、ほんの少しだけ頬を緩めて笑みを浮かべるのだった。

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