旭奇譚~和風ファンタジーな鬱エロゲーの名無し戦闘員に転生したんだが周囲の女がヤベー奴ばかりで嫌な予感しかしない件~ 作:愛川蓮
清麗の御世の十年、あるいは皇紀の一四四〇年葉月の七日の事であった。東西に四百丈余り、南北に五百丈余りの広さのある朝廷の中枢区たる大内裏、その長堂院にて三人の退魔士が式典に招かれた。
より正確に言えばそこで朝廷より官位と共に褒賞を賜下された。与えられし官位は従六位と従七位。褒賞として与えられたのは銀二十斤に絹布六站、その他数点の金細工に調度品と前二人に与えられた物の半分の物品である。報酬の理由は人妖大乱時に暴れまわり、敗戦後も洞越山にて数多の民草の脅威となっていた牛鬼を征討しその遺骸を朝廷に献上した事、都と民草を襲った化け狐を征討せしめ、その首級を朝廷に献上した事……が後者は表向きの理由である。
正確にはそれも理由ではあるが、それ以上に一種の口止め料であった。即ち、橘商会に朝廷が依頼していた荷物についての口止めの見返りである。
『さて、その荷物とは一体何だったのですか、宇右衛門殿?』
深夜の都……逢見家から借りた屋敷の一角、明かりを消して月明かりだけが差し込む薄暗い部屋の中で座布団に座り込み脇息にその贅肉を凭れさせる鬼月宇右衛門にそう尋ねたのは燭台に止まる一頭の
鬼月宇右衛門の正面には数本の燭台が安置されていた。そして其々に木菟に
それは都に上洛した宇右衛門達と地元に残留した鬼月家の長老衆らによる会合であった。退魔士達は遠方とのリアルタイムでの会話にこのような式神を使う傾向があった。会合の最後の議題となったのは都に上洛した一族の次期当主候補の内二人の論功についてであった。
「此方が人脈を使い聞いた話によれば荷の中身は生け捕りした妖共だそうだが………嘘ではなかろうが、恐らくはそれだけが此度の褒美の理由では無かろうてな。流石にそれだけでは此度な褒美としては少々過分に過ぎよう」
鬼月宇右衛門は頬と顎に蓄えられた贅肉を震わせながら自信を持って答える。それは何らの根拠もなき言葉ではなかった。
表向きの裏事情としては極秘裏に陰陽寮が大内裏に持ち込む予定であった実験や研究用に持ち込もうとしていた生け捕り状態の妖共が橘商会が運んでいた荷物である……のは事実であろう。そしてそれが余り宜しくない内容である事もまた事実だ。
都は四重の結界によって守られている。より正確に言えば外街以外の都全体を守る城壁の六種一二重結界、内京内でも特に豪商や公家、大名屋敷が軒を連ねる中京と呼ばれる地域を守る八種二四重の結界、そして政治中枢である大内裏を守る一〇種三三重の結界と最後帝の住まう内裏を守護する一二種三六重結界……呪術的に鉄壁に近いその結界網は当然ながら人の力ではどれだけの退魔士を集めても構築する事は不可能だ。よって莫大な霊力消費を賄うのは都の真下から溢れんばかりに放出される霊脈からの天然の霊力である。
霊脈は限りなく無尽蔵に霊力を放出し、それは使い方次第では世界の理にすら干渉可能な代物だ。事実、朝廷はその使いきれないばかりの霊力を活用して都周辺の土地に毎年のように豊穣を与え、災害や疫病等の災厄その事象をそれが引き起こされる前に祓ってきた。逆に妖共にとってはそこに屯すればそれだけで通常の何倍何十倍もの速度でその存在の格を高めより強大な存在へと昇華する事が出来る特別な地でもあり、それ故に幾千年に渡り魑魅魍魎共は都の霊脈を狙ってきた。
公家衆の穢れを忌み嫌う文化もあり、本来ならば都の……ましてや大内裏に生きた妖を搬入するのは御法度である。それを橘商会は朝廷の重役からの公の密命に従い相当弱らせて封印状態にしていたとは言え有象無象の妖共を都の中にまで運び込もうとしていたのだ。
仮にこれが宮中に広く知られていればある種のスキャンダルになっていた事は間違いなく、下手すれば命じた者達は島流し、橘商会もまた追及を受けて相応の責を取らされる事になっただろう。成る程、ならばこの対応も理解出来る……が、それでもやはり過分過ぎる処遇である事は否定出来ない。
『確かに怪しい。今時の朝廷があのような大盤振る舞いをするなぞ……』
『山猿ならばわからんでもないがな……何せ、四年前に山猿に出来た大きな借りがある……二度もな』
鳶の式神が嗄れた声で疑念を口にする。元より朝廷は心の底から退魔士を信用なぞしていない。ましてや今の摂政と言えばあの強欲な榊家の当主である。それがたかが妖一体にここまで豪勢な褒賞を与えるともなれば裏を勘繰りたくもなる。
同時に、鵲が旭に対する嫌悪感を出しながらそれを口にする。四年前、前の右大臣が左大臣を蹴落とす為にクロイツ家に王家との都を巻き込む揉め事を起こさせようとした際にクロイツ家を扶桑国に仕える退魔士にすることを交渉の材料にしたのだが……右大臣がその約束を守る気がないと察したクロイツ家の前当主『ルード・クロイツ』はクロイツ家の過激派と共に都に攻め込み武力によるクーデターを起こそうとしたのだ。
実行されれば大勢の民の犠牲と朝廷の権威に大きな傷がつく事態をクロイツ家の穏健派や王家、必死の訴えに動かされた一部の朝廷所属の退魔士と共に傷だらけになりながらもルード・クロイツを打倒することで終息させたのが旭(と伴部)である。
また、土着の凶妖なまはげの監視の堕落や物資に関する不正、避難の形骸化を心配し意見した結果汚名を着せられた鳥谷敏隆率いる武士団はもしも自分達の訴えが朝廷に揉み消された場合、全ての資料や情報が都の民に暴露されるように一部の人間を都の市中に潜ませており、下手な手を打てば朝廷に対する信頼が失墜することは明白な事態を堂々と朝廷に報告し、クロイツ家に関するスキャンダルへの沈黙や不正に関する資料の譲渡の代わりに揉み消しを行わない様に交渉したのも旭である(台詞は旭から相談された宇右衛門が必死に考えたものだが)。
元々、旭に与えられる褒賞は本来なら雛と葵に与えられる褒賞の八分の一で官位もなかったにも関わらず此処まで増えたのは朝廷にとって不味い情報を抱えている旭に対する口止め料の意味も含んでいると宇右衛門は考えている。
『あらあら、皆さん随分と剣呑な事ねぇ。折角我らが一族の葵と旭が過分な栄誉に浴したのですよ? もっと素直に喜んであげても良いじゃないですの。ねぇ、宇右衛門?』
優美な白鷺の式神は他の式神を、次いで正面に座る宇右衛門を一瞥しながら同意を求めるようにほんわかとした、それでいて何処か猫撫で声で首を捻る。当の宇右衛門はそんな式神の、いやその向こう側から自身を見ているであろう人物に渋い表情を浮かべる。
「母上、事はそう単純なものではない事くらい御承知の筈。事は将来的な我ら鬼月家の繁栄にも関わる事ですぞ?」
宇右衛門は自身の母……鬼月胡蝶に対してその楽観的な物言いに苦言を吐露する。政略結婚だったからか、この自身の子供らに対して然程愛着がなかったように思える母が厄介の塊のようなあの孫娘の姉妹や退魔士としては異端の義孫娘に対しては奇妙な程甘い事実に宇右衛門は言い様のない疑問しかなかった。
『左様です胡蝶様。我々からみて朝廷は距離が遠すぎます。多少の関わりは必要でしょうが余り彼らの謀に首を突っ込み過ぎるべきではないでしょう』
木菟……鬼月思水の式神が宇右衛門の言葉に続く。鬼月家は常に都に駐在出来る訳ではない。寧ろ三年に一度の上洛を除けば都に滞在する者が一人もいない時も多いのだ。確かに貢納なり、贈与なりで朝廷に伝を作る事は必要であるが関わり過ぎて深入りするのは常に最新の宮中情勢を知る事が出来ぬ身では危険過ぎた。いつ宮中の勢力図が一変するか知れたものではない。……特に、旭の件があるために過激な人物が権力を握れば下手をすれば余計な情報を持っている旭を消すために鬼月家そのものを抹消する可能性も十分にあり得るためだ。
『そもそも、葵はどうして此度の案件に首を突っ込んだのだ? あれの性格からして此度のような話題に自身から首を捩じ込むなぞ余り想像がつかぬが……いや、あの山猿めが焚き付けたか?』
中年だろうか、鵲の式神が難しそうな表情で呟く。あの面倒臭がりで気紛れで、気分屋の次女がこのような面倒事に自分から関わりたがるのはどうにも釈然としない所があった。
『宇右衛門殿、どうなのです? 姫達の動きに何か異変はありましたか?』
木菟がホーホー、と鳴きながら尋ねる。此度の上洛に際して鬼月家の代表として鬼月宇右衛門が指名されたのは彼自身の広い人脈と才覚によるものだ。特に隠行衆頭として都の情報収集の役目を負っていた彼は同時に上洛に際しての随行人の監視も兼ねていた。
「どうもこうもない。一昔前ならば兎も角、今では葵の結界や隠行を抜くのは容易な事ではないわ。儂が直接やるならば兎も角隠行衆ではどうにもならん……とはいえ、旭が葵に頼み込んで化け狐との戦いに参戦させたのは事実らしいが」
不快げに肘を叩きながら宇右衛門は憮然とした表情で答える。
今の鬼月家にとって最も懸念するべき者の一人である鬼月葵は何を仕出かすのか分からぬ狂犬だ。
寝たきりの廃人となって碌に当主としての職責を果たす事も叶わぬ当主幽牲とその正室にして赤穂家本家の菫の間に愛もなく産まれ、両親から興味も持たれず、その癖に膨大な霊力と退魔の才覚は十全に受け継いだ桃色の少女……それが鬼月葵だ。あるいはそこまでならばどうにでも事態を軟着陸させる事が出来たかも知れない。
しかし……実父から間接的に殺されかけて、しかもそれが成功するどころか旭(と伴部)の決死の奮闘によって全く彼女の立場を傷つけず、あまつさえ却って御家騒動を激化させてしまったのは致命的であっただろう。
霊力が(比較的)乏しく血筋が卑しく、しかし努力と異能によって退魔の家の当主として十分な力を持ち、何よりも父から寵愛される姉雛……それに対して葵は異能こそ受け継いでいないが姉よりも遥かに強大な霊力を有し、才能で上回り、何よりも血筋に文句のつけようがない娘であった。止めはこの姉妹の仲が険悪の一言に尽きる事、それは鬼月家の長老衆にとって悪夢に等しかった。下手すれば家を二分して殺し合いが始まりかねず、代を重ねる事でより強くなる退魔の家系にとってそれは一番家を衰退させる要因であるのだから。
……尤も、それが変化の兆しを見せたのはたのは旭がやって来てからだ。強大な霊力を有しながらも血筋が凄まじく
『やれやれ、当主のあのやらかし以前は才能に胡座を掻いて碌に鍛練すらしなかったものを……お陰様で話が面倒になったものだな』
鳶の式神は舌打ちしながら吐き捨てる。この式神を使役している者は長老衆の中においては長女を推している者であった。
この小さな会議に出席する者は何れも鬼月家において長老衆に属する身、それでいて長女か次女か、どちらを支持するかは別れるにしても身内争いは避けるべきと考えている穏健派によって構成されていた。そも、此度の上洛において鬼月葵が同行する事になったのもいつ殺し合いを始めるか分からぬ姉妹を引き離しつつ雛を後継者として後押しするための策であったのだが……
『も、申し訳ありませぬ……私の策が余計に火種を大きくしてしまったようで……』
先程まで黙っていた雀の式神……此度の策を献策した為に会合に出席する事になった葛葉家当主『葛葉
『良いのだ。よもや葵が此度のような功績を立てる事になろうとは我々も思いもよらなかったからな。雛や山猿であれば兎も角、葵は自主的に務めを果たす性格ではなかった筈だからな……』
平謝りをする雀の式神に鵲の式神は困りながら呟く。仕事熱心で向上心の強い長女や民の犠牲を嫌い、その平穏と安全の為に動く三女であれば此度の騒動に積極的に首を突っ込むのも可笑しくない。だが次女は違う。故に油断していた。まさか彼女が自分から自主的に動くとは。お陰で勢力間の緊張が余計に高まる事になってしまった。
『本当に面倒な事になりましたね。はてさて、どうするべきか。……そういえば葵姫と旭姫は此度の騒ぎで拾い物をしたとか?』
思水の木菟が首を捻りながら尋ねる。
「ん? あぁ、その話か。うむ、話は聞いておろうが身の程知らずの化け狐が襲った孤児院の者達と化け狐の残骸の式であるらしい。孤児院の者は半妖の小娘と異能者の小娘のようだ。全く物好きな事だて」
特に関心なさそうに宇右衛門は言い捨てる。雛、葵、旭が秘密にしていた事もあるが、流石に狐璃白綺という半妖から凶妖に上り詰め、そのまま半妖としての自分を切り分けた存在なぞ相当珍しいのでその真の出自までは想像も出来ないようだった。あるいはそれを知っていればそこを狙い姉妹の力関係を調整するために謀略を巡らしたであろうからその意味では三人の判断は正解ではあった。
『あら、それは初耳だわぁ。小娘って事は女の子なのかしら? 少し興味が湧くわね。此方に戻ったら一つ顔見せに来させようかしらねぇ?』
甘ったるい声で反応するのは白鷺であった。その緊張感の無さそうな言い様に他の式神、そして宇右衛門は僅かに顔をしかめる。
『……さて、おおよその話は理解しました。起きた事は嘆いても仕方無いでしょう。この際事態を有効活用するべきでしょうね。宇右衛門殿、橘商会との伝は頼みましたよ?』
「うむ、そちらは承知済みだ。彼方の会長とは既に何度か顔を合わせておる。何かあれば葵ではなく、儂に面会するように印象付けする事は出来ておるわ。……尤も、旭の影響力は削れんがな」
ふふふ、と機嫌良くしつつも内心で溜め息をしながら宇右衛門は答える。確かに直接商会長を助けたのは葵であるが葵はまだ鬼月家の代表ではなく、子供だ。単純なビジネスの話となれば当然宇右衛門の方に話を振るしかない。故にそこで可能な限り葵姫の影響力を削ぎ落とすのだ。
しかし、旭の影響力は削れじまいだ。橘商会の商会長の愛娘達と親友であり、橘商会に雇われた身である旭衆都組がガッチリと食い込んでいるのだ、下手に影響力を削ごうとすれば逆に商会の不興を買いかねない。
『……では。今宵の会合はここまで、という事で宜しいかな?』
鳶は周囲の他の出席者の様子を見ながら尋ねる。
「ふむ、構わぬぞ」
『俺もだ』
『私も此度話し合う内容はもうないかと』
『そうねぇ。確かにそろそろ御開きかしらねぇ?』
鳶の申し出に出席者の同意する。最早これ以上語っても大した内容がない事は確認済みであった。
『宜しい。では諸君今宵も態態御苦労。各々に解散といくとしよう。……では』
総意が決まった所で鳶は今宵の会合の終わりを宣言した。別れの挨拶とでも言うように鳶は一鳴き、同時に鳶の姿はすっと消えて顔に貼られていた血文字の札だけが残り……それも次の瞬間自壊するように発火して瞬時に焼き消えた。
『では、俺も失礼させて貰おうか』
鵲が周囲を見渡した後青白い火球へと変わり、そのまま焼失、次いで木菟と雀も続くように消滅した。そして最後に白鷺が……思い出したかのように口を開く。
『あ、そうだったわぁ。ねぇ宇右衛門、尋ね忘れていたけれどあの子はどうしているのかしらぁ?』
「あの子、と申しますと?」
白鷺の姿を借りた実母の言葉に首を捻る宇右衛門。
『ほらほら、あの子よ。葵が態態指名して連れて行った旭のお付きの……』
「……あぁ、アレですか」
式神の説明に宇右衛門は漸く誰を指すのかを思い出す。
「旭の小間使いとして此度の案件に使われたようで、まぁ相も変わらず随分と大怪我をしたようですな。今は療養中ですよ」
有象無象、仮面を装着して顔を見せず、私的な会話を交える事も滅多に無いが故に多くの鬼月家の者達は一々下人の区別なぞする事はない中で、その者は数少ない例外ではあった。
『あらあら、「また」なの?』
「全く悪運ばかり強い小僧な事です。良くもまぁあんな様で命を拾うものですな」
私生活に関わる女中や雑人は、下人と違い顔を隠す事もなく、寧ろ私的な会話を交える場合も多いがために顔や名前を覚えられている場合も少なくはない。
その意味で言えば本家の長女の世話役として迎え入れられて、当主の私的な理由で下人にまで落とされたという出自からあの男の事を覚えている者は一族の若者は兎も角、鬼月の大人の中にはその存在を覚えている者も少なくはなかった。ましてや直ぐ死ぬだろうと思われていたのが何度もぼろ切れのようになりながらも意地汚く生き残り、義理とはいえ本家の三女のお付き……良くも悪くも……の立場にあれば俗物で目下の者共に関心のない宇右衛門でもその存在を覚えていた。
『その物言いだと今回は随分と酷い怪我のようねぇ……と、いうことは旭もなのかしら?』
「……肋骨と利き腕の骨が折れてましてな。暫くは利き腕を動かすのは厳禁になってますな」
一見すると呑気そうな口調で白鷺は……胡蝶の式神はぼやく。しかしながら雲を掴むような母の性格を知っている宇右衛門からすればその形式的にも見えるがそれでも相手の怪我の具合を心配する態度は十分驚きに値した。
「たかが下人と元村娘相手にまた随分と気にかけますな」
『可愛い義理の孫娘とその孫娘のお気に入りだもの。それに、あの子が雛の世話役の頃は母親代わりもしてあげたし、旭の式神術と舞いの師だもの。ついついねぇ』
ふふふ、と上品に笑う白鷺。彼女はやんちゃだった孫娘を可愛がっていたし、その世話役で、まだまだ家族から引き離されるには少し早い幼い少年に対しても実の子か孫のように接して、可愛がっていた事を宇右衛門も昔見聞きしてはいた。
旭に関しても幼い頃に両親を失い、鬼月家に養子に入ってからも一部の心ない人間に生まれと養子に入った経緯で蔑まれ、義姉二人との才能の差にもめげずに努力を重ね進み続ける彼女を気にかけ式神術と舞いを教えていることは知っている。とは言え……
「旭は兎も角、あやつは昔同様に世話役であればいざ知らず今はただの下人、賎しい身の者です。余り関わるのは宜しくありますまい。御注意下さりたいものですな」
身分制度が厳然として存在している扶桑国において、それは当然のように注意しなければならない常識であり、教養であった。生きる事も簡単ではなく、富の流動性も低く、ましてや血統が重んじられるこの時代のこの国において目上であれ目下であれ身分の釣り合わぬ相手に対して分不相応に接するのは自身と相手双方にとって不幸にしかならないのだから。
『あらぁ、母親が盗られて拗ねているのかしらぁ?』
「御冗談はお止め頂きたいですな、母上。私は当然の事を言ったまでの事です。いくらアレが……」
『宇右衛門』
自身の言葉を遮るように紡がれた自身の名に、鬼月宇右衛門は口を閉じる。閉じざるを得なかった。いつも通りの猫撫で声に、しかし強力な言霊の力が込められている事に即座に彼は気付いた。仮に返答の声を口にすれば次の瞬間には彼はその影響を受ける事になろう。
(にしても式神越しにこれ程の言霊術を使うとは……!)
流石に鬼月家の本家に嫁いだ身なだけはあるというべきか。発動条件がシビアで、決して効率が良い訳ではない言霊術を、まして式神を通して使ってくるとは……
『宇右衛門、良いですか可愛い我が子』
白鷺が燭台から降りててくてくと彼の元に近づく。そしてその純白の身体を揺らして彼の下に来ればその長い首を伸ばして息子に頬擦りして親愛の情を示す。それは正に母親が息子に対して向ける無償の愛情であった。
『都は此方とは気候も水も違います。確かに美物は多くあるでしょうが食べ過ぎには注意するのよ? お酒もです。仕事柄必要でしょうが飲み過ぎてはなりません。……返事は?』
その子供を叱り付けるような最後の少し厳しげな言い方に僅かに肩を震わせて、しかし無言のままに肯定する。
『それに夜更かしも行けませんよ? 宴会も程々の時間に切り上げなさい。それに室内に籠りきって汗をかかないのも宜しくないわ。毎日ある程度は日の光を浴びなさい。分かりましたね?』
だんまりしながら宇右衛門は母の申し出に頷く。その姿に満足したのか白鷺は満足げに、慈愛に満ちた瞳で肥満体の息子を見、そして数歩離れる。
『また次の会合まで元気でいてくださいね? 母は貴方の健康をお祈りしておりますよ?』
そういって最後に残った式神も自ら炎を発して数秒の内に燃え尽きた。式神の燃え滓を暫し見つめた後、はぁと緊張が解れるように息を吐く宇右衛門。
「……近頃は一層面倒になったものだな」
元々気紛れでふとした事で態度がコロコロと豹変する繊細で気難しい性格である事は幼い頃から知ってはいた。しかしながら……ここ最近は特に情緒が不安定であるように宇右衛門には思われた。一体何があの人の癇に障るのか判断がつきかねていた。
「……あるいは若作りしていても歳という事かも知れんな」
いくら霊力によって肉体を活性化出来るとしても限界がある。特に精神面は顕著だ。半妖ならば兎も角、元来長命ではない人間ではガワをどれだけ取り繕っても思考の硬直化は遅滞させる事は出来ても防ぎきる事は出来ないのだ。
「むぅ、だとすれば厄介だの。……おい、誰ぞおらぬか!」
宇右衛門は額に浮かんだ脂汗を袖で拭うと障子を開き、防音効果も付与した結界も解除して使用人を呼ぶ。汗をかいて喉が渇いたと砂糖と氷入りのお茶を持ってくるように叫ぶ。そして襟首を開いて手元に置いてあった団扇を扇ぐ。
「全く、何を考えているのやら……」
最後の、燃え尽きる前に見えた泥のように濁った式神の瞳を思い出しながら宇右衛門は首を捻った。この世界において一般的な価値観を有する彼はそれが意味するものをついぞ思い至る事が出来なかった……
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「……そう、あの子達はまた大怪我したのね。可哀想な事、せめて介抱くらいしてあげられたら良いのだけれど」
北土にあるが故に夏夜であっても蒸し暑さもない鬼月家の屋敷……その北殿の一室で煙管を吹かすのは長い黒髪を垂らし右目の目元に泣き黒子をした艶やかな女であった。甘ったるい、しかし母親が我が子に対してそうするように心配そうな声で彼女は呟く。
「はあ、雛も葵もまだまだ子供ね。どっちも身勝手で自己中心的過ぎるわ。まぁあの年頃の女の子なら仕方無いのかも知れないのだけれど……旭も旭で民や誰かが不幸になりそうだからって矢鱈と危険な問題に首を突っ込むのはなんとかしてほしいわね」
それを加味しても残念ながら淑女としては三人とも不合格と言わざるを得ない、と女は頬に触れながら自身の孫娘達を評して溜め息を吐く。因みにどうやら貼り付いているらしい鬼は論外である。
あの孫娘らは気付いていないであろうがあの子が下人に落ちてから、旭が養子に来てから、何度自身が裏で手を回して来た事か。本来ならば下の孫娘を貶める陰謀に巻き込まれる前に二人とも何処ぞで食い殺されていた筈だろうし、それ以降もあの二人が一族で力を持つ迄と旭衆が力をつける迄の間に何度あの二人が死にかけていた事か……彼女はそれを思い返して嘆息する。自分勝手で派手に動いてくれるものだ。お陰で此方が煩わされる。
「それでも上手くいっているのはあの子達の頑張りのお陰なのでしょうねぇ」
幾ら此方が危険を抑えるように手を回しても死ぬ時は死ぬ。しかし……幸運な事に彼女はあの少年の頭が決して悪くない事も、必要ならば努力も出来るし堪え忍ぶ事も出来る事を知っていた。そして、旭はどれ程苦しい状況下でも諦める事はないし、旭の心の中にいる自称『旭の寄生虫』の少女は状況を俯瞰してみることが出来る為にどれ程苦しい状況下でも冷静な判断が出来る事も知っていた。
だからこそ彼女はあの子達を信じて裏方に回り続けて有形無形の支援に徹してきたのだ。無理矢理にでも保護する事で悪目立ちしてしまえばそれこそあの二人を苦しめ、危険に晒す事になるから。何だかんだ言って心優しいあの子と全力で義理の家族を慕っている旭の事だ、疎遠になってしまったとしても、義理だとしても家族を人質に取られたらどうしようもあるまい。あの人達のように。
「そうよ、もうあの時のような事はもうご免だわ」
昔の記憶を思い返し、彼女は目を細め剣呑な口調で呟く。もう大切なものは一つも失いたくない。だからこそ本当ならば大切に仕舞って手元に置きたい衝動を抑えつけて堪え忍ぶのだ。もう安易な行動で取り返しのつかない事になりたくはなかった。
そうだ。全てはこんな家に生まれてしまったせいだ。分家の当主の妾腹に生まれて、その癖に正妻の子供らよりもより濃く力を受け継いだのが全ての不幸の始まりだった。
幼い頃に母は正妻の謀によって自分の代わりに毒殺された。目の前で苦しみのたうち回るその姿は今でも思い出せる。
父親に放置されて、腹違いの兄弟や正妻にも疎まれていた彼女の幼い頃の心の支えは兄のように慕い、そして初恋だった下人の少年と母親と旧知の仲で護衛として雇われ、自衛のために式神術を教えてくれたはぐれの女性だった。子供心にいつか添い遂げようと願っていた彼と師として人間として尊敬していた女性は、しかし彼女もろとも罠に嵌まった。家族を人質にされた彼は抵抗も許されず、せめてものように自分を庇って目の前で妖に食い殺され、女性は妹と妹の嫁ぎ先の家族を人質に取られて彼を食った妖と単独で戦わされて重症を負い、それを理由に護衛を解雇されたことで彼女から引き剥がされた。
腹違いの兄が当主となると腫れ物扱いで家に軟禁された。そのまま死ぬまで座敷牢で生きるのだろうと覚悟して、二十歳になるかどうかという歳で既に疲れきっていた彼女はいっそ出家しようかと思った時にその身に宿る力だけを目当てに二回り以上歳の離れた本家の当主の後妻に宛てがわれた。当然愛もない冷たい結婚……彼女は泣く事も出来ずに、義務的に処女を散らした
止めは初めて生まれた息子だ。一族の力を受け継げなかった最初の子供を、しかし彼女はそれでも精一杯に愛した。それをあの男は……!
「あの時はこんな家、いっそ無くなってしまえばとも思ったのだけれどね。けど……」
あの男がくたばって、息子らに家の全てを押し付けた彼女はその身に宿る霊力のせいで無駄に長い余生を安穏と、惰性に生きる筈だった。もう一族の面倒事に関わるのはご免だったのだ。残る人生くらい自分だけのために使いたかった。それが一変したのはあの子を見てからだった。
初めて見た瞬間彼女は自身の目を疑った。そう、初恋のあの人を彷彿とさせたその風貌に。そして、実際に話して見ればその印象は更に補強される。教養はなかったが頭は悪くなかったし、善良で、面倒見が良く、何よりも一族で孤立気味だった上の孫娘に接する態度は正に昔自分に対してそうしてくれたあの人そっくりだった。
一度あの人の面影を重ね合わせて愛着を持ってしまえば、後はこの小汚い貧農の生まれであるその子が愛しくて愛しくて仕方なかった。自身の子や孫と同じように彼女は可愛がった。いや、本当の子や孫があの忌々しい男と憎々しい鬼月の血筋である事を思えば胸の内にある愛情はそれ以上だっただろう。
「そうそう師匠が旭を連れてきた時も、大変だったわね」
あの子がトラウマをほじくり返される形で下人に落ちてすぐの頃、唐突に音信不通だった女性がやって来た時は驚いたし女性が生きていてくれた事に喜んだりしたものだ。
数十年ぶりに再開した女性は最後に見たときよりも一回りも二回りも小さく見えたが、それでも元気そうだった。しかし、旭を鬼月家の養子にするために連れてきたのは老いには勝てずに死期を悟った為であること、旅先で出会った友人夫婦の娘を託せそうなのが友人夫婦の話から当主が友人夫婦に恩があり、弟子である自身がいるこの家しかないと思ったからだと女性は言った。
女性が「でなけりゃこんな家に連れてこないよ」と吐き捨てたのは彼女にとってはある種、胸がすく思いであった。
旭が養子になった後、生まれを理由に蔑まれ傷付きながらも義理の姉達や生まれを気にせずに自分に寄り添ってくれる人々(綾香や宇右衛門、思水などだ)の為にもがむしゃらに強くなろうとしていた彼女を心配し、式神術や舞いを教えたのだ。……その時、これが普通の親子関係なのかと無邪気に微笑む旭を見ながら思ってしまった。
「……葵が救われたのを見た時は、思わず嫉妬しちゃったわね」
下の孫娘と恩人の娘である旭をも陥れる為に仕掛けられたあの罠に旭が殴り込みをかけあの子が巻き込まれた為に、いざという時は助けてあげようと思っていたが……いざその一幕を式神越しに見た時、彼女の抱いた感情は安堵と感激と羨望と嫉妬であった。
そう、それは彼女の有り得たかも知れない未来であったのだから。そして、だからこそ彼女は苛立ちを覚えるのだ。彼女が羨み、望んだ可能性を掴んだ旭を除く孫娘達が、それだけに満足せず、それ以上のものを望んでいる事実に。それくらいなら……
「ふふふ、なんてね」
こみ上がってきた感情をそう嘯く事で彼女は誤魔化した。もしその感情に、その本音に気付いてしまったら、認めてしまったら自制出来るか分からなかったから。彼女も流石に孫娘達相手にそこまでの事はしたくはなかった。……少なくとも今はまだ。
彼女の名前こそは鬼月胡蝶……鬼月家の分家に生を受けて以来、その人生の中で大切なものを失い続けてきた女である。
「本音で言えば旭と一緒になってほしいんだけれど……貴方が迎え入れられた時には、これまで出来なかった分まで沢山可愛がって……甘えさせてあげますね?」
彼女にとって最早、あの子や旭は自身の子や孫と同じなのだから。あるいはそれ以上か……
「ふふ…ふふふふふ…………」
彼女は、その霊力で維持した妖艶な美貌を月明かりで照らしながら、より妖艶な笑みを浮かべた。その瞳は泥のように濁りきっており、狂気と妄執に満ちていた………
次回もお楽しみに!