ただそれだけの話。
堪えきれずにやった。
後悔はしていない。
正円の輪郭を描いた月が青く佇む脇にオリオンの3つ星が輝いていた。
火照った頬を撫でる風は冷たく、吐く息は雲を引いて漂う。
満天の星空の下、不意の寒風に身体は震えるものの、帰路の先に待つ温かさを思えばどうということもない。トライスターの傍らにディオスクロイが佇むように、彼女が待つ場所までもう間もなくだ。
通り沿いの角を曲がり、ふと見上げた先の明かりに白息が漏れる。
駅からほど近いマンションの角部屋。意地を張り合った末に折半した部屋は、3年が経ってすっかり帰るべき場所となった。かつて暮らしていた寮の部屋は暗く冷たいのが当たり前だったが、今となってはそれすらも懐かしい。
エントランスのオートロックを抜け、エレベーターで4階へ。
長く静かな廊下に響く靴音が心音と重なって、どれだけ時が経っても逸る内心を自覚せずにいられなかった。
玄関の扉を開くと、間もなく彼女が出迎えに現れた。
「お帰りなさい。お風呂、沸いているわよ」
ゆったりとしたニットから白磁の手が伸びて、くたびれたビジネスバックを取り上げる。
彼女がターフを駆けていた頃に贈られたそれはまだまだ現役で、脇へと抱える刹那、鞄へと向いた目がほんの僅かに綻ぶのが見えた。
差し出された手にコートと上着を渡し、礼を口にしてネクタイを緩める。
胸の温かくなる心地を噛み締めつつ、リビングへ向かう背中に夕食のメニューを問いかけた。
「ハンバーグ。焼いておくから、ゆっくり浸かってきて」
後ろ手にゆっくりと閉められたドアに思わず息が漏れる。担当のレースが近いこともあって遅くなると伝えてあったのだが、作り置くでもなく待っていてくれたらしい。
かつてと違って支えられる側になったのだと。何度目とも知れぬ感慨を抱きながら脱衣所へと入り、優しさに甘えるべくタイを引き抜いた。
汗と疲れを洗い流した後、リビングへ入ると既に食卓の準備は整っていた。
丁度ご飯をよそっていたようで、彼女は片手に茶碗を、もう一方にはマグカップを持ってキッチンから出てくる。
「私はもう済ませたから。気にせず食べて頂戴」
ダイニングテーブルの向かいに腰かけた彼女はそう言ってマグカップを口にした。
無理もない。時刻はすでに21時半を回っていて、夕食を食べるには遅い時間だ。連絡を入れておいたお陰で待たせる羽目にはならずに済んだものの、改めて準備させてしまったのはなんとも忍びない。
「別にいいわよ。以前と違って面倒なだけではないから」
すまし顔でカップスープを口にする頬は仄かに赤く染まっていた。耳も小さく揺れていて、口調とは裏腹に恥じらっているのがよく分かる。
とはいえ、それを口にすれば彼女は頑なになってしまうだろう。こちらが気付いていることまで見抜かれていたとしても、言葉にさえしなければこの心地の良い沈黙が破られることはない。
黙々と箸を進める時間はまるでぬるま湯に似た雰囲気だった。
温かくも熱すぎず、穏やかで安らかでいつまででも浸っていたくなる。
ひとしきり堪能した後、二杯目の茶碗を受け取りつつそういえばと切り出す。
今朝家を出る前、同期の娘らとランチに行く旨を聞いていた。
楽しかったかと問いかけると、彼女は思い出すように視線を横へ傾けた。
そっと腕を組み、小首を傾げる仕草は現役だった頃と瓜二つで。
「相変わらずだったわ。昔と何も変わらない。賑やかで、落ち着きのない人たち」
そう言って息を吐いた彼女の口元には、確かに笑みが浮かんでいた。
食事を終えた後はせめてこれくらいと後片付けを買って出た。
食器や調理器具、フライパンなどを洗って乾燥機に並べていく。その間、彼女は入浴に向かっていて、流しの水を止めてからも微かな水音が浴室の方から聞こえていた。
洗い物を終えてからはリビングのソファでまとめた資料を見返していく。
仕事というほど根を詰めるでもなく、適度に雑に、客観的な目で見られるように。下積み時代に先輩から勧められたやり方で、これで何かしらの気付きを得ることもあった。
遠くで扉の閉まる音を聞いてそろそろかと立ち上がった。
キッチンへ向かい、耐熱グラスに氷を落として、ドリッパーとポットそれぞれに魔法瓶を傾けていく。ドライヤーの風音を背景に手を動かして、ちょうど静かになった頃合でグラスをローテーブルへと並べた。
再び資料を手に取ってアイスコーヒーのグラスを傾ける。冷温入り混じった味わいが胃に落ちると、身体を包む柔い気怠さが遠ざかっていった。ソファの弾力に背中を預けて、並んだ文字列に視線を走らせる。
そうして寛いでいると、やがて風呂上がりの彼女が隣へ腰かけた。
並んだグラスのアイスティーの方を一口飲み、そっと肩に頭を預けてくる。
「……ふわふわ」
極小さな呟きと共に頬ずりを始めた。
着ている寝間着は彼女が選んだもので、脱衣所に置かれる時には干したての布団のように仕上がっているのが毎晩の恒例だ。
柔らかなウールの心地に囚われる姿は何年経っても見飽きぬ愛おしいもので、普段の凛とした表情とのギャップに惹かれて止まない。
自然と伸びた手が両耳の間に触れ、滑らかな鹿毛を梳くように撫でる。
微かに漏れた吐息に、鳩尾へ多幸感が広がるのを感じた。
長く一緒に走り続けてきてこちら、幸せを噛み締められるのは彼女が傍にいたからだ。
年甲斐もなく感じ入ったせいか、徐々に心臓が逸りだす。
厚手のウール越しとはいえ、彼女は耳も鼻も利くウマ娘。直に鼓動の変化にも気が付くだろう。気恥ずかしさが湧いてきて、どうにか誤魔化そうと問いを投げかけた。
「――仕事? そうね。今のところ、問題ないと思う」
顔を離した彼女は思い出すようにそう言って、自身の手をそっと見下ろした。
白く滑らかな両手は今の彼女にとって商売道具でもあり、最近話題のブランドが売り出している小物と並んで目にする機会も多い。
SNSなどでも取り上げられていて、他ブランドからも関係者を通じてモデル依頼が入ってきているのだとか。
引退から何年も経っているとはいえ、雑誌やメディアの特集には時折名前の出る彼女だ。正体が露見すれば大きな話題になるだろう。静かに暮らしたいからと表舞台を降りた彼女にとって、それは好ましい事態ではないはず。
「大丈夫よ。カレンさんが色々と気を遣ってくれているから。頼られる限りは応えるつもり」
心配が顔に出ていたのか、彼女は呆れたように笑った。
綻んだ口元を左手で隠し、流し目を送る表情には艶やかさが滲んでいる。
堪らず頬を掻くと、彼女は口元に運んだ手をこちらへと伸ばしてきた。
そっと頬に触れ、引き寄せるでもなく顔を寄せた彼女が小さく呟く。
「あなたも、今さら遠慮なんてしなくていい。学園にいた頃ならともかく、今は夫婦なのだから。要らない気遣いは当然として、変に我慢する必要もないわ」
間近に覗いた榛の瞳は確かに揺れていた。
抗う暇も要もなく、柔らかな場所で触れ合う。
苦みと渋みと、それ以上の甘さに吐息が漏れて交わって。
見上げる彼女の向こうには、瞳と同じ色の星が煌めいていた。