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もう一人ののび太

 ()の人の眠りは、(しづ)かに覚めていった。なまくらな微睡みの彼方に犬の鳴き声が遠離っていく。ぼんやりとした感覚を頼りに上体を起こしてみると、至近距離で待ち構えていた固形物に額を打ち付け、声にならない声を喉に詰まらせた。出会い頭の衝撃。低く覆い被さる冷たく硬質でザラついた肌触り。うなじにじっとりと張り付いた粘着質の寝汗。体の節々で軋みを上げる一枚岩の疲労感。顰めた眉根を吊り上げ薄目を開けても闇の中で、やたらに狭いこの場所が何処なのか、今が朝なのか昼なのか夜なのかすらハッキリとしない。何もかもが夢の途中で、額の痺れが痛みとなって広がっていく以外、空疎な頭の中を過ぎる言葉すらない。徒に増幅していく耳鳴りと胸の鼓動。静止した世界を振り払う様に、寝返りを打つと、この狭苦しい暗がりに射し込む光を見付けた。恐る恐る躙り寄って光の輪の中に首を突っ込むと、暗がりの中で色彩を求め拡散していた瞳孔が、溢れかえる光量に悲鳴を上げ、一気に収縮していく。咄嗟に掌を眼に翳しそこで初めて気が付いた。

 「眼鏡がない。」

 風呂に入る時と夜寝る時以外、肌身離さず身に付けている眼鏡は肉眼その物だ。奪われた世界との架け橋。しかし、ド近眼という肉体の記憶と引き替えに、彼の人は自分が何者であるのかに近付けた。漠然とした視界を見詰める、野比のび太と言うふわりとした質感。心の空白に何処からともなく現れた、唯一無二の定点。彼の人は自分がのび太である事を、無意識の安堵と共に、何の疑いもなく静かに受け入れた。そして、自分の名前を足掛かりに、この見覚えのない世界を再構築しようとした。その為にも先ずは眼鏡だ。

 ポケットの中にでも入れているのだろうか。のび太はズボンのポケットに手を当ててみようとした。するとどうだろう、ズボンのポケットがない。と言うよりも、ズボンがない。のび太の掌は地肌に直接触れている。のび太は裸だった。ズボンだけでなくシャツも着ていない。何故。のび太は答えを探そうとしたが、途切れた記憶の彼方へ意識を凝らしても、打ち付けた額が熱を帯びて疼くばかり。そして、焦点がボヤけっぱなしとはいえ、降り注ぐ光に慣れてきたのび太のド近視が、不都合な事実を見出してしまう。そこは空き地だった。日頃遊び場にしている近所の更地が視野を埋め尽くしている。答えを探している場合ではなかった。自分は今、裸で外にいる。空き地に放置されているコンクリートの土管の中から、のび太は首だけを外に出していた。余りにも唐突過ぎて先ず何から手を付けていったら良いのか判らない。元々考えるのは苦手だ。そこへ、

 「もう、待てったらあ。」

 後方から駆けてくる子供達の声が、ボンヤリとしたのび太の実感を一瞬にして打ち砕いた。慌てて土管の奥に潜り込むのび太。空き地を横断して通りの向こうに消えていく子供達。のび太はそこで初めて目が覚めた。もうこれは認めるしかない。遠ざかっていく笑い声に耳を峙てているのび太の毛穴という毛穴が、一気に溢れ出る冷や汗で滑り、横隔膜が震えている。土管の中を探っても服も眼鏡も見当たらない。無くした眼鏡をママに何と言って説明したら良いのか。こんな裸で居る所を誰かに見付かったら。ドラえもんはこんな時に何をしているんだ。のび太はすっかり取り乱し、狭い土管の中を右往左往しては、低い天井に頭を打ち付け、徒に時間を食い潰していく。誰かの助けを呼びたくても、この恰好ではどうしようもない。考えれば考える程、空き地から家までの距離が重く伸し掛かり、無様な結末が鎌首を擡げて脳裏に絡み付いてくる。のび太は抱え込んだ両膝に額を埋めて、

 「ドラえもん。」

 居る筈のない唯一無二の親友に泣きを入れた。のび太の祈りは土管の暗がりに虚しく吸い込まれ、コンクリートの冷たくザラついた肌触りだけが返ってくる。どんなに無い知恵を振り絞っても、のび太の頭では起死回生の一手を望むべくもない。決断の時だ。幸い空き地に人影はない。のび太は腹を決めて、土管の中から破れかぶれに飛び出した。 石の礫が無慈悲な切っ先となって突き立つアスファルトを、これでもかこれでもかと蹴立てるひ弱な素足。人気のない路地を選んで、のび太は先を急いだ。しかし、日頃の運動不足が祟って、忽ち息が上がり、死に物狂いで走っているつもりなのに、膝が笑って真っ直ぐ進む事すらままならない。何時も鼻歌交じりに行き来していた道のりが茨の荒野に一変し、曲がり角の向こうで出くわすかもしれない人影に怯え、何の勝算もなく勢いで飛び出してきた事を後悔するのび太。ここまで来て空き地の土管の中に引き返す訳にもいかず、かと言って、この姿では足を止めて休む事も許されない。こめかみから迸り、首筋を舐め、背筋を這う夥しい汗。天地を覆して渦巻く三半規管。体の節々が悲鳴を上げ、限界を超えた心肺機能がのび太の薄っぺらな肋を掻き毟り、走れば走る程、何処へ向かって走っているのか、何故走っているのか判らなくなっていく。酸欠で遠退く意識の中で、のび太は野太く嗄れた声を聞いた。そして、弾力のある何かに弾き飛ばされ、空を見上げて地べたに倒れていた。蓄積した乳酸と衝突のショックが攪拌して体の自由が利かず、上手く起き上がる事が出来ない。

 「のっ、野比君じゃないか。」

 聞き覚えのある声にまさかと思い顔を上げると、恰幅の良い男がのび太を見下ろしていた。眼鏡を掛けていない事もあり目鼻立ちはぼやけてハッキリとは見えないが、その声を聞き間違える筈がない。のび太のぶつかった相手はのび太のクラスの担任の先生だった。選りに選ってジャイアンやスネ夫以上に厄介な相手に見付かってしまった。のび太は何と言ってこの場を切り抜けたら良いのか判らない。

 「野比君、それは一体・・・・・。」

 先生はそこまで言い掛けると、震える手でのび太の体を指差した。

 「家のお風呂が壊れたんで銭湯に行こうと思ったら、途中で宿題を済ましていなかったのを思い出して、それで、あの、とにかく・・・・・。」

 のび太は思い付いた言葉を出鱈目に並べながら、両腕で体を隠そうとした。しかし、先生が舌を抜かれているのは、のび太が素っ裸で表に飛び出しているからではなかった。のび太は腕を体に巻き付けて初めて、先生が何を指差しているのか判った。何も無いのだ。先生の指差す先には何も無かった。そこに在る筈の物が。のび太の脇腹が無かった。どんなに手で探っても何の感触も無い。左の脇腹が心臓に達する部分までゴッソリと抉り取られたようになっている。眼鏡を掛けていないから良く見えないとか言う問題ではない。のび太はどうやって驚いて良いのかすら判らなかった。目の前で硬直している先生の存在は既に吹っ飛んでいる。これだけ大きく抉れているにも拘わらず、ポッカリと空いた風穴の内側は内臓や骨が剥き出しになっている訳でもなく、肌色の皮膚に覆われていて、チクリとした痛みもなければ血が出ている様子もない。何せ先生とぶつかるまで気が付かなかったのだ。体感的には何の違和感もなく、それが尚の事不気味で、見れば見る程大きく広がっていくのではと、見詰めているのが怖くなる。何時、何処で、どうやって空いた穴なのか考える事すらおぞましい。

 「んっ、うぐっ、うあぁぁああぁぁ。」

 のび太は矢も楯もたまらず駆け出した。得体の知れぬ事実から逃れたい一心で、右も左も判らずに走り続け、溝に嵌り、生け垣を乗り越え、ポリバケツを片っ端から蹴散らして我が家に辿り着き、台所から発せられたママの金切り声に耳も呉れずに、名ばかりの勉強部屋に転がり込んだ。

 箪笥の中から洋服を引っ張り出し、度が合わなくなって予備に置いてあった眼鏡をかけると、のび太は机の引き出しを開けて中を覗き込んだ。背中を掻く時以外に使った事のない30cm物差し。一度もケースから出した事のないコンパス。ママに怒られるのが怖くて隠したままの答案用紙。これといって愛着のない文房具類が雑然と詰め込まれている。のび太は落ちた肩を更に落として引き出しを閉めた。タイムマシンが待機してないという事は、ドラえもんは未来に戻っている。これでは唯一無二の頼みの綱に泣き付きようがない。のび太はシャツの生地が一枚覆っているだけで、何も押し返してくる物がない左の脇腹へ手を載せ考えた。こんな体になっているのはドラえもんの道具が関係しているに違いない。そうでなければ説明が付かない。のび太は苦い薬を飲み下す覚悟で、土管の中で目覚めるまでの出来事を思い出そうとした。当然それは、何時もの様に寝坊して、何時もの様に学校に遅刻し、何時もの様に宿題を忘れて、何時もの様に先生に怒られ、何時もの様に皆に笑われて、何時もの様に帰り道でジャイアンとスネ夫にいじめられる、代わり映えのない惨めな一日を紡ぎ出す不愉快な作業だ。のび太は救いのない自分の姿に幻滅しながらも記憶の糸を手繰り寄せていった。しかし、学校から家に帰ってから後の記憶がハッキリしない。一人で空き地に行ったような気がするのだが、何をしに行ったのかあやふやで。矢張りその空白は踏み込んではいけない領域なのではという気がして怖くなってきた。自分一人では受け止める事の出来ない途方もない欠落。漠然とした不安が抉り取られた脇腹で逆巻いている。

 のび太は発作的に家を飛び出し表に出た。何時帰ってくるか判らないドラえもんを待っていてもしょうがない。こうしている間にも、脇腹に抱え込んだ空洞にジリジリと全身を浸食されてしまいそうだ。空き地に行けば何等かの手掛かりが見付かるかもしれない。のび太は走り続けた。我武者羅に体を痛め付ける事で、嫌な予感を抑え付ける為に。しかし、手足を激しく振り回し、胸が潰れる程に激しく喘げば喘ぐ程、脇腹の抉れている事が際立っていく。右の脇腹はこんなに差し込んで苦しいのに、左の脇腹はチクリともしない。どんなに頭の中を真っ白にしようと思っても体は正直だ。若しドラえもんが未来から帰ってきても治せないと言われたら。治せない処か、このまま死んでしまうのではないか。声なき声がどんなに精一杯走っても後から後から追い掛けてくる。のび太は足が縺れ、手を付いて倒れ込んだ。薄っぺらな胸板が荒い息遣いで波打ち、こめかみから顎へと伝う幾筋もの汗が、黒く連なる斑点を白茶けた更地の上に突き立てていく。そこは空き地だった。人影もなく、傾き始めた午後の陽射しに包まれたその景色は、前後不覚に走り続けたのび太が拍子抜けしてしまう程穏やかだ。何の芸もなくそこかしこに伸びている雑草が傾いで、他意のない微風がのび太の火照った頬を撫で、

 「どうしたの、のび太さん。」

 不意に掛けられた優しい言葉が、張り詰めていた全てを突き崩した。蹲ったまま身動きが取れぬのび太の脇に膝を着き、提げていたバイオリンケースを置くと、取り出したハンカチでのび太の額を拭う少女。汗でクシャクシャになった顔を下から覗き込まれて、のび太は思わず眼を逸らしてしまう。穏やかな物腰に、何を衒うでもなく滲み出る麗しき母性。端正な容姿に違わぬ内面を併せ持つ、のび太が席を並べるクラスのマドンナ、源静香がそこにいた。力尽きたのび太の前に現れた静香の骨身に沁みる心尽くし。しかし、どうしたのかと聞かれても答えようがない。この抉れた脇腹を見せても徒に事を荒立てるだけだ。のび太は口の中で糸を引く唾に舌を取られながら、静香の思い遣りを損なわぬよう言葉を絞り出した。

 「ドッ、ドラえもん見なかった。」

 「いいえ、遭わなかったけど、ドラちゃんに何かあったの。」

 「ちょっと、用があって・・・。」

 平静を装うのび太の素振りは実にぎこちなく、不審に思った静香は更に問い質した。

 「のび太さん、何だか様子が変よ。私に出来る事があったら言ってちょうだい。」

 静香の澄んだ瞳に魅入られてのび太は心が揺れた。こんなにも心配してくれているのに、嘘を付いてやり過ごす事しか出来ない。のび太は指で掻いた更地の土を握り締め、惨めな自分を噛み締めた。

 「体の具合でも悪いの。」

 静香はのび太を起こそうとして、のび太の体に腕を回した。のび太は抉れた脇腹を庇おうとして静香の手を反射的に払い除けた。

 「あっ。」

 静香は声を上げ、その澄んだ瞳が凍り付いた。のび太は咄嗟の事とは言え静香の好意を踏み躙った自分を責め、こうなったら全てを打ち明けてしまおうと、静香の前に身を乗り出した。しかし、静香の凍り付いた瞳の先にのび太は居なかった。静香の視線はのび太を擦り抜けて固まっている。その視線の先を追ってのび太が振り返ると、いきなり肩を掴まれ、嬉々とした声が弾けた。

 「矢っ張りそうだ。やっと見付けた。」

 眼の前を時が素通りしていく。のび太はただ漠然と眺めていた。最早、土管の中で素っ裸のまま目が覚めた事も、脇腹が抉れている事も吹き飛んでいた。静香が何事か問い質している。とても遠い所で。言葉は発しているのだろうがのび太の耳には届かない。のび太は釘付けになっていた。自分を抱え上げようとしている、もう一人ののび太に。

 「のび太さん、これはどういう事なの。」

 「ああ、静香ちゃん。驚かしちゃって御免ね。」

 のび太が静香と喋っている。普段なら何という事もない光景が酷く不気味に見える。のび太は今まで自分以外ののび太に何度もあってきた。ドラえもんのタイムマシンに乗って訪れた過去や未来で。時には過去や未来の自分が現在ののび太の処へやってきたりもした。しかし、何かが違う。静香に馴れ馴れしく話し掛けながら、グイグイと自分を引っ張っているもう一人ののび太のぞんざいな態度。積み重ねられてきた厭な予感が背筋を這い回っている。

 「じゃあ、こののび太さんはドラちゃんの出した道具なの。」

 「そうなんだよ。こいつは僕のコピーなんだ。用が済んだら直ぐに片付けるから。元々、掌の上に載る位の大きさしかない人形なんだ。」

 初めて耳にした言葉だ。「こいつは僕のコピー。」という響きがドス黒い異物となって喉元に込み上げてくる。頭と心がドラえもんの出した道具という意味を拒絶している。静香がのび太を見下ろして呟いた。

 「信じられないわ。コピーだなんて・・・・・。何って言ったら良いのか判らないけど、どう見たってのび太さんにしか見えないわ。」

 「そりゃあ、そっくりに決まってるさあ。コピーだもの。」

 「どうしてコピーののび太さんをドラちゃんに出してもらったの。」

 「実はね、今日ジャイアンが僕のサッカーボールを神成さんの家に蹴り込んじゃってさあ。」

 もう一人ののび太はアッケラカンと言い放った。サッカーボール。神成さん。失われていた出来事の断片が、闇に埋もれていた記憶の鍵穴に、ザラついた音を立てて噛み合うのをのび太は聞いた。サッカーボールを抱えて空き地へと急ぐ自らの姿が、色と形を取り戻して甦ってくる。

 今日も学校で恥を掻いた。苦手な体育の授業はサッカー。クラスを二組に分けて試合をし、持ち前の勘の悪さで醜態を晒した。のび太のヘマを楽しむ為、態とのび太にボールを回すジャイアントとスネ夫。鳴り止まぬ嘲笑。家に帰ってドラえもんに泣き付いても取り合ってもらえず、仕方なく少しでも練習して上手くなろうと、一人空き地に向かったのび太。処が、空き地に着くと、居合わせたジャイアンとスネ夫にサッカーボールを奪い取られ、二人がサッカーに興じるのを遠くから指を銜えて眺める事に。その挙げ句、ジャイアンの力任せに蹴ったボールが、選りに選って近所でも無類の堅物で通る、神成さんの家の窓硝子を突き破った。疑う余地もない。顔を上げて眼を凝らすと、神成さんの家を囲むブロック塀越しに、打ち砕かれたままの窓硝子が覗いている。のび太は戦慄した。神成さんの窓硝子を割った事にではない。その記憶の先に在る物に。

 「それで僕の代わりにボールを取りに行ってもらおうと思ったんだ。」

 「コピーののび太さんに。」

 「うん。」

 もう一人ののび太と静香の遣り取りが、次々と仮借なき事実を裏付けていく。のび太の意を介さない処で全てが進行している。どうやって抗って良いのか判らない。ただ何かが間違っている。

 「ドラえもんにコピー人形の使い方を教えてもらって、一人で神成さんの家の前まで行ったんだ。そこでドラえもんに言われた通り、コピー人形の鼻の処に付いているスイッチを押したら、コピー人形が僕に変身し始めたんだけど、何も身に着けてない裸なんだよ。着てる服まではコピーしないなんて聞いてなかったから、どうしようと思ってあたふたしてたら咳払いをしてるのが聞こえて、何かと思ったら神成さんが僕のボールを持って立っててさあ。お前がこれを蹴り込んだのかって詰め寄ってきたから、吃驚して逃げ出したんだ。その時に凄く慌ててたもんだから持っていた人形を落っことしちゃって。後ろを振り返ったら野良犬が人形を銜えてるのが見えたんだけど、神成さんが追い掛けてきてるから取りに戻る事も出来ないし。」

 「じゃあ、人形は犬が銜えて持って行っちゃったの。」

 「うん、丁度この脇腹の処を銜えて。」

 そう言うと、もう一人ののび太はのび太の左の脇腹をいきなり掴んだ。のび太は咄嗟に体を捩ってその手から逃れようとしたが、弾みでシャツが捲れ上り抉れた脇腹が露わになった。

 「ああ、ほら、静香ちゃん、見て、見て、犬に囓られちゃったんだよ。見て、ほら、ここ、ここ。」

 鬼の首を取ってはしゃぐもう一人ののび太の陰で、静香はのび太の脇腹に広がる無機質な空間に一瞬臆して後退った。のび太が脇腹に抱え込んでいた風穴に、揺るぎようのない一本の太い杭が打ち込まれた。静香の瞳に走った畏怖の漣。のび太の心は折れた。最早、認めるしかない。自分がのび太ではなく、のび太のコピーだという事を。

 「普通の人間がこんな体で平気な訳ないもの。」

 掴んだシャツの裾を乱暴にたくし上げながら、返す言葉のない静香の気を惹こうと、本物ののび太が躍起になっている。馬鹿げていた。世界が粛々と崩壊しているというのに、本物ののび太は無駄に元気だ。コピーののび太は静謐な思索の直中に埋没していく。自分が本物の自分でないとはどう言う事なのか。学校の教室の席にも、夕食の食卓にも、ドラえもんの隣にも、全て本物ののび太が既に居座っているというのはどういう事なのか。学校でテストを受けるのも、ママの料理を食べるのも、ドラえもんが助けてくれるのも、静香ちゃんと結婚するのも、コピーの自分ではなく本物ののび太の方で、偽物には何処にも居場所がないというのはどういう事なのか。今から自分は何をどうするべきなのか。本物ののび太を蹴落として、その座に治まるべきなのか、それとものび太である事を捨てて、全く別の誰かになるべきなのか。コピーののび太は揺らめきながら立ち上がった。そこには本物ののび太と本物の静香がいた。偽物じゃなく本物であるという事が、ただそれだけでコピーののび太の存在を否定して見えた。

 「こののび太さんはこれからどうなるの。」

 「取り敢えずサッカーボールを取りにいってもらって、その後は、元に戻してドラえもんに返すんだよ。」

 本物ののび太にとってコピーののび太は、飽くまでもドラえもんの四次元ポケットの中に収められている道具の中の一つ。それも、使用頻度の高い、どこでもドアやタケコプターと較べたら、一話限りで忘れ去られてしまう使い捨ての道具でしかなかった。理不尽な事実の解釈に忙殺されていたコピーののび太は、そこで漸く口を開いた。

 「元に戻すってどういう事だよ。」

 本物ののび太はコピーののび太が話し掛けてきた事に驚いた。本物ののび太にとってそれは偽物の勝手な振る舞いだった。

 「ドラえもんから借りた時の人形に戻すんだよ。当たり前だろ。僕は今静香ちゃんと喋ってるんだから黙ってろよ。お前の仕事は神成さんの処に行ってボールを返してもらう事だろ。早く行ってこいよ。」

 頭ごなしに言い放つ本物ののび太を目の当たりにして、コピーののび太はそれが自分と同じのび太である事が信じられなかった。日頃、ジャイアンにも、スネ夫にも、誰にも歯向かう事が出来ず、何かといえばビクビクしているのび太はそこにはいなかった。強い者に食って掛かるだけの意気地がないのは生まれ付きで仕方がない。だがその分、弱い者の気持ちは判っているつもりでいた。それなのに本物ののび太は、コピーののび太ののび太として尊厳をバッサリと切り捨てた。とんだ化けの皮だ。沸々と込み上げてきた物が、きつく喰い縛っていた歯茎を衝き破った。

 「何で僕がボールを取りにいかなきゃならないんだよ。」

 喧嘩腰のコピーののび太に本物ののび太は暫し呆気に取られた。そして、ぼんやりとしていた顔色が俄に紅潮し始めると、上限まで一気に振り切れた。

 「何でも糞もないんだよ。お前はコピーなんだから、僕の言う事をただ黙って聞いていれば良いんだ。ボールを取りにいけってって言われたら、素直に取りにいけば良いんだよ。」

 「巫山戯るな。何で僕がお前の言う事なんか聞かなきゃいけないんだよ。そんなの誰が決めたんだ。ボールを返して欲しいんなら、自分で取ってくれば良いだろ。何で態々神成さんに怒られに行かなきゃいけないんだよ。大体さっきから、コピーだ、人形だって人を何だと思ってんだ。僕にはちゃんとのび太って言う名前があるんだ。」

 「うるさい、うるさい、うるさーい。コピーの癖に口応えするなあー。」

 一旦火の点いてしまった二人ののび太は、静香が目の前にいる事も忘れて、それぞれの言い分をただ闇雲に捲し立て、口汚く罵り始めた。当然、頭の程度が完璧に同質な分、相手を論駁出来る訳もなく、痺れを切らした本物ののび太がコピーののび太に飛び掛かった。

 「止めて二人共。」

 静香の叫びも虚しく、取っ組み合って地べたを転げ回る二人ののび太。しかし、胸倉を掴み、髪を引っ張り、膝と膝で小突き合う、力尽くの勝負になった処で優劣が付く筈もなく、お互いに身動きが取れぬまま時間だけが過ぎていく。静香はどうやって二人を諫めて良いのかも、どっちが本物で、どっちがコピーなのかすら判らない。すると、二人ののび太の内の一方が苦し紛れに訴えた。

 「静香ちゃん、悪いんだけどこいつの鼻を押してくれないかなあ。」

 「えっ、どうして。」

 「こいつの鼻はスイッチになってて、もう一度押すと元の人形に戻るんだよ。」

 コピーののび太は戦慄し、組み付いている本物ののび太を慌てて引き剥がそうとした。しかし、同じ力の者同士、本物ののび太を振り解こうにも、掴まれた両腕の自由は利かず、首を振るので精一杯。静香と眼が合ったコピーののび太は心を引き裂いて絶叫した。

 「止めて、静香ちゃん、押さないで。お願い。僕は何も悪くないんだ。お願い。僕を助けて。」

 命を乞う言葉が思わず口を衝いた。元の人形に戻ったら自分はどうなってしまうのか、考えただけでもおぞましい。自分がのび太になる前に、コピー人形としてドラえもんのポケットの中で待機していた記憶等ない。人形に戻るという事は、のび太としての存在が消滅する事を意味した。鼻を押されたら全てがリセットされてしまう。コピーののび太の血走った眼差しに気圧されて、静香は言葉を探した。

 「こののび太さんを元の人形に戻すの。」

 「うん、だから早く押してこいつを黙らせてよ。」

 「出来ないわ。そんな事。」

 静香はとんでもない間違いが起こっている事を直感した。ただ、それがどう言う事なのかを筋道立てて説明するだけの言葉を静香は持っていなかった。

 「元に戻すなんて可愛そうよ。こんなに厭がってるじゃない。のび太さん、お願いだから、そんな酷い事しないで。」

 「ちょっと待ってよ。静香ちゃんはこいつの肩を持つのかい。静香ちゃんだって今見ただろこいつの脇腹を。多分、こいつを銜えていった犬に囓られて、それでどこか可笑しくなったんだよ。普通なら持ち主の言う事を聞く筈だもの。」

 「確かに、こののび太さんの脇腹は犬に食べられてしまったのかもしれないけど、でも、だからって・・・・・・、何って言ったら良いのか判らないけど、こののび太さんものび太さんと同じのび太さんだと私は思うの。ただ偶々コピーとして生まれてきただけで・・・・・・。」

 「じゃあ良いよ。どうせ暫くしたら鼻のボタンを押さなくても元の人形に戻るんだ。」

 本物ののび太は必死に押さえ込んでいたコピーののび太を突き放し、思いの丈の半分も言えていない静香を遮って思わず声を荒げた。

 「それは本当なの、のび太さん。」

 「ドラえもんがそう言ってたよ。今日初めて使う道具だから詳しい処までは良く判らないらしいけど、一、二時間位したら元に戻るって。」

 「一、二時間。」

 コピーののび太は絶句した。それは死の宣告だった。一、二時間後に自分は無に帰してしまう。のび太という属性を否定されただけでなく、この姿形まで消滅してしまう。使用済みのドラえもんの道具。当然、そこには今自分がしっかりと自覚している意識すらない。本物ののび太である事が許されないだけでなく、コピーののび太で居続ける事すら出来ないなんて。

 「どうして一、二時間で元に戻っちゃうんだよ。元に戻らずに済む方法はないの。」

 矢も楯も堪らず、コピーののび太は本物ののび太に縋り付いた。ドラえもんにコピー人形を出してもらった処までの記憶はあるが、その先は完全に欠落していて本物ののび太がドラえもんとどういう遣り取りをしたのかは藪の中だ。嘘であって欲しい。何もかもが出鱈目であって欲しい。しかし、そんなコピーののび太の切なる願いも、本物ののび太は邪険に手で払い除け、地べたに頽れたコピーののび太に向かって叩き付けた。

 「お前は黙ってろ。そんな余計な事を考えている暇があったら、早くボールを取り返してこいよ。」

 「そんな事言わないで、のび太さん、私からもお願い。何とかしてこののび太さんを助けて上げて。ドラちゃんなら何か良い方法を知ってるんじゃないの。」

 「ドラえもんは未来に用事があって出掛けているから、当分の間帰ってこないよ。あのね、静香ちゃん、何度も言うようだけど、幾ら僕と同じ姿をしているからって、こいつはドラえもんが僕の為に出しくれた道具以外の何物でもないんだよ。僕の言う事を聞いて、時間が経てば元の人形の姿に戻るのが当たり前の事なのに、それをまるで、こいつがこの世の中から消えてなくなってしまうみたいな事を言ってるけど、コピー人形その物は何度でも使えてなくならないんだから、心配する事はないんだよ。それを可哀想だから助けて上げてだなんて、とにかく、静香ちゃんは大袈裟なんだよ。それにこいつを元の人形に戻さずに済む方法があったとして、その後こいつをどうするの。住む処とかさあ。まさかとは思うけど、僕の家で引き取れとかって言うんじゃないだろうね。冗談じゃないよ。僕は何って言ってママにこいつの事を説明すれば良いんだい。それとも、静香ちゃんがこいつの面倒を全部見てくれるのかい。そう言う事なら話しは別だけどさ。」

 「ねえ、のび太さん、若し、自分が本物ののび太さんじゃなくてコピーののび太さんの方だったらどうするの。少しはこのコピーののび太さんの気持ちを判って上げて。」 

 「判って上げても何も、こいつは犬に囓られた所為で頭までポンコツになっちゃったんだから、考えてる事も、喋ってる事も、僕にはちんぷんかんぷんだよ。若し、本当に僕がコピーののび太の方だったら、自分から進んで本物ののび太の言う事を聞いて上げるし、用が済んだらちゃあんと又元の人形の姿に戻って、次に呼び出されるまでの間じっとドラえもんのポケットの中で大人しくしてるよ。」

 しつこい静香に気兼ねのたがが緩んでしまった本物ののび太は、見境のない舌鋒を突き立てていく。静香はその屁理屈に唯々項垂れ、何を言っても聞き入れる事のない本物ののび太に幻滅し、怒りが込み上げてきた。

 「のび太さん。」

 静香はその拳をきつく握り締めて本物ののび太ににじり寄った。そこへ不意に、本物ののび太に突き飛ばされて地べたに転がっていたコピーののび太が、静香を後ろから押しのけて本物ののび太に飛び掛かった。静香は慌ててコピーののび太を引き止めようとしたのだが、コピーののび太は静香の手を擦り抜け、本物ののび太の両腕を取ってその足元に跪いた。

 「頼むよ。僕が代わりに学校に行ったり、宿題を遣ったりするからさ。若し、僕の事を人に知られたくないって言うのなら、昼間はずっと何処かに隠れていても良いし、夜寝る時は押入の中でも我慢するし、絶対君には迷惑を掛けないって約束するよ。だから、お願いだから僕を助けてよ。元に戻らずに済む方法を知ってるんだろう。お願いだから教えてよ。」

 静香はコピーののび太のあられもない姿に胸を打たれた。コピーののび太は自らを挫き、辱め、落ちる処まで落ちていた。それなのに本物ののび太は勢いに任せて言葉の冷や水を尚も浴びせかけ、日頃抱く事の出来ない優越感に酔い始めてさえいた。コピーののび太が卑屈になればなる程、本物ののび太は益々増長していった。

 「そんな事はしなくて良い。お前はボールを取り返してくればそれで良いんだ。誰が何と言おうと、のび太は僕一人で充分だ。」

 「もう一度良く考えてよ、僕が何でも代わりにして上げるんだよ。僕が学校に行けば先生に怒られる事もないし、皆に笑われる事もないし、ママのお遣いにだって行って上げるから、一日中漫画の本を読んでゴロゴロしていられるんだよ。」

 「だったら先ず真っ先に、神成さんの処からボールを取り返してこい。」

 「じゃあ、ボールを取ってきたら、元に戻らずに済む方法を教えてくれるの。」

 「何訳の判らない事を言ってるんだ。元に戻るも戻らないも、ボールを取ってくる事がお前の仕事だろう。つべこべ言わずに取ってくれば良いんだよ。」

 「だからさ、今言ったよね。だったら、ボールを取り返してこいって。と言う事は、ボールを取ってきたら、元に戻らずに済む方法を教えてくれるんだろ。」

 「うるさいなあ、とにかく取ってくれば良いんだよ。これは命令なんだ。何回も何回も言わせるんじゃないよ。」

 何時果てるとも知れぬ泥沼の遣り取り。このままでは無情のタイムアウトを迎えてしまうと判っていても、本物ののび太を宥め賺すしか術のないコピーののび太。すると、神成さんの家に向かって人差し指を振り上げながら、感情の赴くままに当たり散らし、淫らで甘美な高揚感に痺れていた本物ののび太が、強張らせていた頬を不意に緩めて一息吐いた。

 「良し判った。本当に神成りさんの家に行って、ボールを取ってくるんだな。」

 「うん、勿論だよ。その代わり、ボールを取ってきたら・・・。」

 「ああ、ああっ、判ってるよ。元に戻らずに済む方法を教えれば良いんだろ。」

 「本当に、教えてくれるの。ねえ、本当に。約束してくれるの。」

 「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、教える。教える。約束するから、さっさと行ってこいよ。」

 「うん。」

 本物ののび太の鼻に付く言い回しなぞ気にも留めずに、コピーののび太は神成りさんの家に向かって掛け出した。したり顔で見送る本物ののび太。どういう風の吹き回しで譲歩を切り出してきたのか、静香は納得出来る筈もなく、その心変わりを本物ののび太に問い質した。本物ののび太は静香の二の腕を掴んで引き寄せて、その耳元に囁いた。

 「別に助けるつもりなんてないさ。あいつがボールを取りに行きたいって言ってるから、行かせただけさ。大体、元に戻さずに済む方法なんてドラえもんから聞いてないし。」

 「じゃあ、コピーののび太さんを騙したのね。」

 静香の叫び声を聞き付けて、コピーののび太は足を止めた。振り返ったその形相からは、こびり付いていた悲壮感が消し飛び、薄ら笑いで頬が痙攣している。

 「こんなに・・・・・、こんなに人がこんなに頭を下げているのに・・・・・、それなのに・・・・それなのに・・・・。」

 「何だやるのか。コピーの分際で生意気なんだよ。言う事を聞く気がないんなら、さっさと元の人形に戻って、ドラえもんのポケットの中で昼寝でもしてろ。」

 「元はと言えばお前がジャイアンにボールを取られたからこうなったんだろ。どうしてこの僕がお前の尻拭い何かしなくちゃいけないんだよ。」

 二人ののび太は静香の制止を振り切って再びお互いの胸倉を掴み合い、あらん限りの悪態を駆使して泥に塗れ、火花を散らし始めた。啀み合う以外に何も見出そうとしない二人ののび太は、最早静香の手に負える代物ではない。コピーののび太の鼻を狙って腕を伸ばす本物ののび太と、全力で抗うコピーののび太。眼鏡がズレ、引っ張られたシャツの襟が伸び、肘や膝を擦り剥いて、舞い上がった砂埃を更に掻き乱していく。

 「もう、二人ともいい加減にして。」

 二人の間に割って入り、揉みくちゃにされて精も根も尽き果てた静香はその場にへたり込んだ。二人ののび太は交互に馬乗りを繰り返し、更地の上でのたうち回っている。静香は乱れた髪も直さずに、その低劣な騒ぎを力無く眺めていた。何度見ても本物とコピーの区別なんて付かない。のび太はのび太だった。コピーだからといって放っておく事何て出来ない。コピーののび太はのび太として間違いなく苦しんでいる。ただ、コピーののび太がこの世界に生まれ落ちてしまった不幸に、どう手を差し伸べて上げたら良いのか判らない。例えドラえもんが元の人形に戻らずに済む方法を見出してくれたとしても、本物ののび太の言う通り、その後このコピーののび太をどう扱えば良いのか皆目見当も付かない。矢張り道具は道具として元の鞘に収まるべきなのだろうか。静香は自らの非力を嘆き天を仰いだ。そこへ突然、

 「嗚呼、もう駄目だ。」

 二人ののび太が同時に叫び、更地の上に大の字に倒れ込んだ。激しく波を打って喘ぐ薄っぺらな胸板。全てを放棄して投げ出された四肢。泥を刷り込まれた無数の引っ掻き傷が、夥しい汗を被ってグチャグチャになっている。結局、徒に時間と体力を浪費して、

憎しみを上積みしただけだった。本物ののび太は膝をガタ付かせながら立ち上がると、息も絶え絶えに呟いた。

 「もう良い、帰る。」

 「帰るって、でも、ボールはどうするの。」

 「大丈夫、あいつがちゃあんと取りに行ってくれるさ。幾ら偉そうな事を言っても、頼れるのは僕とドラえもん以外にはいないんだから、その内、元の人形に戻るのが怖くなって、大人しく僕の言う事を聞くに決まってるよ。」

 本物ののび太は引き留める静香を見向きもせずに、態とコピーののび太に聞こえるよう声高に吹き散らかしながら、突き当たりの角を曲がって姿を消した。西に大きく傾き始めた陽射しを背負う静香の影が、本物ののび太の後を追い縋り未練がましく伸びている。

 「ふん、誰が取りに何か行くもんか。」

 歯の根を軋ませて気丈に振る舞うコピーののび太。しかし、更地の上で朽ちた上体を何とか起こしてはみたものの、立ち上がる程の余力は未だないらしく、両肩の落ちた泥だらけの猫背を丸め喘いでいる。

 「気を落とさないで、のび太さん。本物のののび太さんは頭に血が上っていて全然話しを聞いてくれなかったけど、気持ちの落ち着いた頃に時間を掛けて話しをすれば、きっと、のび太さんの気持ちを判ってくれるようになるわよ。だから、元気を出して、のび太さん。とりあえず、神成さんの家へ行ってボールを返してもらいに行きましょう、ねっ。ボールが戻ってくれば、少しは話を聞いてくれる筈よ。ドラちゃんも戻ってるかも知れないし。」

 見る影もなく憔悴したコピーののび太を励まそうと、言葉を尽くす静香。しかし、コピーののび太は静香の優しさに付け込んで、遣り場のない苛立ちを叩き付けてきた。

 「何だ、結局静香ちゃんも僕がボールを取りに行かなきゃならないと思っているんだ。」

 「だってこの際仕様がないでしょ。私も一緒に行って謝るから。ねっ、のび太さん。」

 「謝る。それじゃあまるで、僕が悪いみたいじゃないか。」

 「私は別に、のび太さんが悪いだ何て思っちゃいないわ。ただ、ボールを持っていけば向こうも話を聞いてくれると思うから。」

 「話を聞いてくれるって、誰がだい。」

 「だから本物の方ののび太さんよ。」

 「ふん、さっきから本物ののび太さん、本物ののび太さんって。まるで僕が偽物みたいじゃないか。」

 本物ののび太が居なくなれば、少しは落ち着きを取り戻してくれると思っていた静香は、コピーののび太の売り言葉に泡を喰った。

 「僕はのび太だ。野比のび太だ。本物ののび太なんだ。昨日犬に追いかけ回された事も覚えてるし、一昨日も、ドラえもんの出した変な道具で大変な目に遭った事も覚えてる。僕がスネ夫のラジコンを壊しちゃってドラえもんに泣き付いたんだ。絶対に夢なんかじゃない。確かに僕が壊したんだ。スネ夫のラジコンを踏んじゃった時グシャって音がして、こっちの足の裏だった。凄く嫌な感じで。それからタイムマシーンが壊れて恐竜時代に取り残されて、ドラえもんも静香ちゃんも、後ジャイアンとスネ夫もいて、みんなで色んな冒険をして。全部覚えてる。他にも、初めてドラえもんが僕の机の引き出しから出て来た時の事。あの時は本当に驚いたんだ。だって、行き成り机の引き出しが勝手に開いて、見た事も聞いた事もない物が出て来たんだ。僕を一人前の大人にする為の手助けに来たとかって言われても全然ピンと来なくて、でも、いつもへまばかりして誰も相手にしてくれなかった僕の側に何時も居てくれて、話を聞いてくれるっていうだけでとっても嬉しかった。それと、それと、お婆ちゃんが未だ生きていた頃の事とか。小学校に入学した時の事とか。誕生日も、クリスマスも。お正月も。」

 コピーののび太は自分がのび太である事を自分自身に言い聞かせる為に、のび太の全てが刻み込まれた尽きる事のない記憶を、海馬が悲鳴を上げるまで絞り出した。物心着いてから今この時に到るまでの道程の何もかもが、鮮明で偽りのない事実ばかり。本人でしか掘り下げる事の出来ない回想こそが、コピーののび太を最も苦しめていた。感情の抑制が利かず、次第に怒鳴っているのか嘆いているのかも判らなくなっていく。静香は何とかしてコピーののび太の心を繋ぎ止めようと、コピーののび太の前に跪いた。

 「御免なさい、のび太さん。私の言い方が悪かったわ。そんな積もりじゃなかったの。気に障ったのなら何度でも謝るから、だからお願い、私の話しを最後まで聞いて頂戴。」

 「ボールなら取りに行かないよ。どうせあいつの事だから、ボールを取り戻してやっても話しを聞いて何かくれないよ。」

 「そんな事ないわよ。」

 静香の優しさにすら何も見出そうとせず、フラ付きながら立ち上がろうとするコピーののび太。静香は慌ててその体を支えてやろうとするのだが、コピーののび太は静香の肩を思いっ切り突き飛ばした。

 「うるさいなあ。そんなにボールが欲しいんなら、自分一人で取りに行けばいいだろう。」

 コピーののび太は静香を置き去りにして駆け出した。コピーののび太の足取りは、追い付こうと思えば追い付ける覚束ない物だったが、突き飛ばされた肩の痺れに心を絡み取られた静香は、コピーののび太が背負い込んだ闇に怯み、引き止める事が出来なかった。その痛みを超えた苦しみを前にしては、静香の思い遣りなど些末な物でしかなかった。

 見慣れている筈の空き地が途轍もなく広く感じ、景色という景色がバラバラに遠離って、自分を取り巻く眼に見える物や、耳で聞こえる物が希薄になっていく。独り取り残された静香は、その聡明な優しさが故に心の焦点が定まらず、光を見失って立ち尽くした。唐突に降って湧き、駆け抜けた、二人ののび太を巡る惨禍。これはもう神の悪巫山戯ですらない。何不自由なく過ごしていた静香の日常はその上っ面を引き剥がされ、ただグロテスクな不条理が傲然と横たわっている。穏やかな毎日にとって不都合なこの事実を、バイオリンのお稽古や、夕飯の献立や、大好きなお風呂や、学校の宿題や予習で再び覆い隠す事など望むべくもない。最早、バイオリンが巧くなっても、ママの手料理が美味しくても、良いお湯に長く浸かれても、学校の成績が上がっても虚しいだけだ。静香は知ってしまった。偶然によっていとも容易く産み落とされる悲劇を。両手を胸に押し当てて瞳を閉じると、破滅に魅入られたコピーののび太が睨み返してくる。反逆と復讐で血走った眼差し。静香はそこに彷徨える魂の咆哮を見た。

 悲しみに引き擦られ静香は歩き始めた。時間がない。この世界の不実に戸惑っている場合ではなかった。神成さんの家の前で足を止めると、反射的に体の芯が小刻みに震え始めた。空き地で遊ぶ子供達は皆、多かれ少なかれ神成さんの雷を喰らた経験がある。平素大人しくしている静香ですら例外ではない。陽に焼かれ積年の風雨に洗い晒されて褪色した厳つい門構えが、神成さんの鬼の形相と重なって見えてくる。敷居一つ跨ぐにしても膝が言う事を聞いてくれず、なかなか前に出て行かない。静香は意を決して玄関の前に踏み出すと、格子戸を叩いて家の者を呼んでみた。

 「済みません。どなたかいらっしゃいますか。」

 すると暫くして、格子の磨り硝子の向こうで大きな影が揺れた。

 「はいはい、今開けるから、そうせっつかんでくれ。」

 誰にでもそれと判る潰れた渋い声を耳にして、震えていた静香の背筋がピンと跳ね上がる。三和土に降りて突っ掛けを履き、その突っ掛けが土間を擦る音が、ガタ付きながら開け放たれた格子戸によって掻き消された。頑健な骨格を角張らせて、偉丈夫を絵に描いた雷親父が現れると、見上げているだけで謝りたくなるその威圧感に、静香は息を呑んだ。手入れの行き届いた髭と眉毛は天に向かって跳ね上がり、見ているだけでコチコチと音が聞こえてきそうな禿頭と、栗色の袷を帯できつく締め上げた立ち姿には、本の僅かの綻びすら見当たらない。神成さんは思い掛けぬ小さな訪問者を怖がらせぬよう、出来るだけ声を和らげて尋ねてみた。

 「どうしたんだい、お嬢ちゃん。儂に何か用かな。」

 静香は神成さんの眼力に射抜かれて逃げる事も隠れる事も出来ず、小さな肩を更に竦ませて足元に眼を落とした。もう、こうなってしまっては、話しを切り出さないと前にも後ろにも進まない。

 「あの、サッカーボールを取りにきたんですけど。」

 神成さんは一瞬我が耳を疑い、厳つい眉毛を吊り上げて、静香の俯いた顔をマジマジと覗き見た。

 「それじゃあ、お嬢ちゃんが儂の家にボールを投げ込んだとでも言うのかい。」

 「そうです。私が遣ったんです。本当に済みませんでした。」

 裏返りそうな声を振り絞り、深々と頭を下げる静香。つい今し方起こった出来事の詳細を説明して、情状酌量に有り付こうなどという気は更々ない。ただボールを本物ののび太の処に持って行き、コピーののび太を助けてくれるよう頼む事だけで頭の中は一杯だった。神成さんは静香の眼の高さで話せる様に身を屈めると、硬く節くれ立ったその手を静香の丸く線の細い肩の上にそっと添えて囁いた。

 「お嬢ちゃん、あのボールが欲しかったら、今度からはもっと増しな嘘を考えてくるんだな。お嬢ちゃんがここに来る随分前に、人の家の前で眼鏡を架けた坊主が騒いでおったから、内の窓ガラスを台無しにしたのは大方そいつの仕業なんだろう。何でお嬢ちゃんは、そんな自分で自分の尻も拭けん様な奴等の事を庇うんだい。」

 神成さんの処にこんな可憐な少女が、しかも誰かの身代わりで謝りに来たのは初めてだった。表情にこそ出さないが、一心に頭を下げ続ける静香をどう扱って良いものか、神成さんは戸惑っていた。何時もなら見境なく振り上げる拳にも力が入らない。

 「本当に私が遣ったんです。信じて下さい。」

 言い訳一つ口にせず、誠心誠意頭を下げる静香の健気な姿に、神成さんはボールを返してやろうかという気持ちに傾き掛けた。しかし、日頃強面で通っている分、人を許すという事に慣れてない。

 「馬鹿者が。ボールを返して欲しかったら、あの眼鏡の坊主を連れてこい。」

 神成さんは何時もの調子で頭ごなしに怒鳴り散らすと、格子戸を乱暴に閉めて三和土を上がり、柱の陰に身を隠した。

 「本当に私が遣ったんです。ボールを返して下さい。」

 返事をする筈のない格子戸を静香は叩き続けた。柱の陰から静香の懸命な哀訴に耳を傾けていた神成さんは胸が痛んだが、前言を翻してボールを返すという訳にも行かず、かといって書斎に戻る事も出来なかった。格子戸越しに聞こえる静香の声が次第に小さくなっていく。そして、

 「お願いです。ボールを・・・・・・。」

 そこまで言い掛けると、静香の格子戸を叩く手が止まった。神成さんが出てくる気配はない。午後の陽差しが大きく傾き始めている。コピーののび太にどれ程の猶予があるのか判らない静香は、断腸の思いで神成さんの家を後にした。

 格子戸の磨り硝子から静香の陰が遠退いていくのを見た神成さんは、隠れていた柱の陰から顔を出し、そそくさと叩きから降りて突っ掛けに足を伸ばすと、音を立てぬよう気を配りながら格子戸を開け、肩を落として帰っていく静香の様子を窺った。今までに何人もの子供達をその拳で泣かせてきたが、これ程気落ちして去っていく姿を見た事がない。神成さんは今更静香に掛ける言葉もなく書斎に戻ると、広げた新聞紙の上に置いたのび太のボールの前に腰を下ろして溜息を吐き、突き刺さっている小さな硝子の破片を一つ一つピンセットで取り除き始めた。

 

 

 

 コピーののび太は当て所なく街を彷徨い、限られた時間を徒に踏み躙っていた。疲れた体とは裏腹に、瞬きが出来ぬ程瞳は血走り、横隔膜の痙攣が治まらず、そして何より、本物ののび太の捨て台詞が頭の中でリフレインし続けている。

 「あいつの言ってる事なんか嘘っぱちだ。元の人形なんかに戻るもんか。戻って堪るか。」

 コピーののび太は犬歯を軋り鳴らして呪詛を反芻し、残されている筈の僅かな可能性諸共、眼路を限る物とあれば委細構わず、その悪意の切っ先でかっ捌き始めた。コピーののび太が通った後は、薙ぎ倒された放置自転車、天地を逆さにして中身をブチ撒けたポリバケツ、叩き割られた軒先の鉢植え、蹴り破られてくの字に折れた立て看板で溢れ返った。それは弱虫ののび太にとって精一杯の反逆だった。こんな理不尽な世界に義理立てする事は何もない。憤怒と恐怖を綯い交ぜにしてコピーののび太が足元の空き缶を蹴散らすと、空き缶が見覚えのある門柱にぶつかって撥ね返った。何処をどう歩いてきたのか、コピーののび太は再び神成さんの家の前に舞い戻っていた。

 脳裏に居座る本物ののび太がニタリと笑い、玄関の格子戸を顎でシャクった。コピーののび太は慌てて首を左右に揺す振り、その心象の裏にある卑屈な願望を力尽くで掻き消した。神成さんからボールを返してもらって、それを本物ののび太に渡しても、助けてくれる筈がない。静香の言う通りドラえもんがのび太の勉強部屋に戻ってきているかも知れないが、どうせ本物ののび太の言う事しか聞かないに決まっている。

 「糞っ。」

 コピーののび太はグラつきかけた自身の性根に喝を入れると、門柱に当たって撥ねた空き缶を、今度は玄関の格子戸目掛けて蹴り飛ばし、再び偽りの自由に向かって駆け出した。

 遠くに行きたい。出来損ないのコピーなんていう出鱈目が見えなくなるまで。崖っぷちのプライドを振り乱し、右も左も判らずに走り続けるコピーののび太。ボールを手土産に本物ののび太に頭を下げるという誘惑に打ち勝った事で、本の少しだけ心が軽くなった。そして不意に、肺の腑にジットリとへばり付いていた不安が裏返り、緩んだ口元から零れた笑みが、ふしだらな高笑いとなって止め処なく溢れ返った。笑っている間だけは不都合な真実を忘れる事が出来る。そんな気がして、ちんけな虚栄心はむしゃぶりつき、何一つ面白くも糞もないのに、箍を外して笑い続けた。走りながらで息も続かず、顎が上がって足が縺れそうになる。それでも強引に笑い続けた。途中からは笑ってるのか怒鳴ってるのかの区別も付かず、ただ闇雲に喚き散らしながら街を駆け抜けた。

 盛りを過ぎて薄紅を差した午後の陽が、何時訪れるとも知れぬタイムリミットをジリジリと炙り立てている。酸欠で頭がフラつき、何に向かって意地を張っているのかも吹き飛んでしまったコピーののび太は、ただ道なりに続く塀に右手を突いて体を支えながら、辛うじて歩を繰り出していた。走っても歩いても何処にも辿り着く事の出来ない苦しみ。潰れた喉はただ喘ぐばかりで、空威張りも底を突き、周りの物に向かって当たり散らす余力もない。気が付くと、コピーののび太の足は止まっていた。脱水症状から来る痙攣で腿の裏から脹ら脛に掛けて硬直し、自力でしゃがみ込む事すらままならない。コピーののび太は右手を突いて支えにしていた古い土壁の塀に、体を投げ出し肩からもたれ掛かった。すると、眼の前に灰白色に褪色した見覚えのある角材が垂直に伸びている。皹割れた節目を辿って顔を上げるコピーののび太。頭上に掛けられた分厚い板に眼が止まった。表札だ。彫り込まれているのは神成の二文字。足元にはついさっき玄関の格子戸に向かって蹴り込んだ空き缶が、そっくりそのまま恨めしげに転がっている。

 猛烈な脊椎反射でコピーののび太は飛び退いた。体幹が根刮ぎ震えている。腰から下の生理的な痙攣とは訳が違う、底冷えのする悪寒が襟足から這い降りて横隔膜を蹂躙し、毛穴という毛穴が粟立っていく。全ての元凶と言っても良い神成さんの家から、少しでも遠くに離れようと駆け出した筈なのに、ボールを取り戻しになぞ行くものかと心に誓った筈なのに。コピーののび太は単なる偶然だと頭でねじ伏せようとした。行き当たりばったりで走っていたから、迷い込んでしまったんだと無理矢理納得しようとした。しかし、何者かに後ろから押され、玄関の格子戸に吸い寄せられる感覚が背筋で閃いた途端、コピーののび太は駆け出した。けたたましい土埃を上げながら、土砂降りの西日を掻き分けて逃げ出した。恥も外聞もない。絞り尽くした筈の汗が再び噴き出し、乱れ撃つ胸の鼓動が肋骨に軋みを上げて食い込んでいく。コピーののび太は見てしまった。骨の髄を吹き抜ける獣じみた悪寒の正体を。心の臓を掻き毟る、断末魔の主と奈落の底で眼が合った。そこにはもう独りののび太が潜んでいた。コピーののび太を嘲る、本物ののび太の淡い幻影なぞ較べ物にならぬ、ザラ付いた肌触りを纏ったもう独りのコピーののび太が、ドス黒い異物となってメリ込んでいた。それは絶体絶命の生を貪る死の化身だった。コピーののび太は走った。死に魅入られた戦慄に息を継ぐ事も忘れ、乖離した心と体を引き擦りながら、走って、走って、走り続けた。恐怖と眩暈と西日が攪拌してギタギタに渦巻いている。光が濁り鬩ぎ合うその只中で、コピーののび太は何かに衝突し弾け飛んだ。

 睫の先で明滅する星々の向こう側に、再び忌まわしい障害物が姿を現した。尻餅を突いて見上げる堅牢な門構え。神成と刻まれた分厚い表札。何もかもが寸分の狂いもなく、つい先刻迷い込んだ時と同じ威圧感で立ちはだかっている。死の袋小路に出口はなかった。運命が扉を叩く音が聞こえる。力任せに鳴り響く魂の慟哭を払い除けてコピーののび太は駆け出した。土管の中で眼を覚ましてからこれで何度目になるのか判らない敗走に次ぐ敗走。生まれ育った勝手知ったる街並みが俄に歪んで見えてきた。電柱が傾ぎ、ブロックの塀の継ぎ目が縺れ、アスファルトが蛇行して、一本の路地をただひたすら真っ直ぐ駆けているだけなのに、体の平衡を保つ事すらままならない。平地に躓き前のめりに倒れ込むと、そこには又しても神成さんの家の門柱が無言で行く手を阻んでいた。コピーののび太は野比のび太という属性だけでなく、心と体の自由すらも奪われていた。最早、何をどう苦しんで良いのかすら判らない。薄っぺらな胸板を押し潰して喘ぎ続けるコピーののび太。波打つ背中に厳つい影が覆い被さった。塀の影から大股で繰り出す年季の入った黒檀の突っ掛け。神成さんは地べたに這い蹲っているコピーののび太を仁王立ちで出迎えると、挨拶代わりの鞭を振るった。

 「内の周りを馬鹿の一つ覚えみたいにグルグル回って何のつもりだ。最近はそう言うのが流行っているのか。」

 無様に朽ち果てているコピーののび太を前にしても甘い顔一つ見せず、神成さんは手入れの行き届いた口髭と眉根を吊り上げてその出方を窺った。しかし、コピーののび太は項垂れたまま喘ぎ続けるばかりで一向に埒が明かない。神成さんはのび太のボールをその鼻先に放り投げた。

 「これに用があって来たんだろう。お前が来る前にも御下げの女の子がボールを返してくれと頭を下げに来たが、女の子に尻拭いを頼むとは良い御身分だな。」

 神成さんの怒気を増す野太い濁声を頭から被りながら、眼の前に転がってきたサッカーボールを力無く見詰めるコピーののび太。ボールを出せば直ぐに飛び付いてくるものとばかり思っていた神成さんは、ボールがコピーののび太とは無関係だったのかと首を捻った。拳を振り上げるタイミングも逸してどうにも調子が上がらず、独り声を荒げるしかない。

 「黙ってないで何とか言ったらどうなんだ。」

 すると、コピーののび太が恐る恐る腕を伸ばしてボールを手元に引き寄せた。そして、徐に両手で頭上に振りかぶると形相が一変し、有らん限りの力でボールを地面に叩き付けようとした。神成さんはコピーののび太を引き留めようと一瞬身を固くし、言葉にならぬ短い声を上げた。しかし、地面に叩き付ける直前でコピーののび太の腕は萎え、そのままボールを抱き竦めて崩れ落ちた。

 「世も末だな。」

 コピーののび太の独り相撲に辟易し、神成さんは三和土を上がってその場を後にした。格子戸がピシャリと閉じた余韻が途切れ、行き場をなくした耳鳴りだけが、静まり返った玄関先をジリジリと這い回っている。コピーののび太は突き返されたサッカーボールに顔を埋めたまま、声を押し殺して小刻みに震えていた。ボールの縫い目を伝う一筋の雫が、コピーののび太の指先に滲んだ。それはドラえもんが便利な道具を出してくれさえすればケロリと退いてしまう、何時もの惰弱で狡猾な嘘泣きとは訳が違った。涙はやがて幾筋もの束となり、脈を打って溢れ、頬を洗い、横殴りの西日を浴びて煌めいた。悲しみでもなく、悔しさでもなく、憎しみでもなく、ただひたすら心が壊滅し、暗転していく。

 

 

 

 

 朱色に染め上がる街並みを劈き、万人の生理を掻き毟る殺人的な銅鑼声に、スネ夫は両耳を塞いで耐えていた。目の前で左右に揺れる堅太りの広い背中。歩く爆心地は夕空に向かって両腕を雄々しく広げ、腰をくねり、時に恭しく片膝を着いたかと思うと、豪快なターンからポーズ決め、カバ並みの肺活量で愛を叫び続けている。本人は絶世を謳歌しているつもりなのだろうが、何と言っているのか聞き取れぬ程荒々しく叫き散らされるその猛威は、最早、歌だとか音痴だとか呼べる代物ではなく、ノイズという名の暴力だ。一度耳にすれば三度夢に見ると言われているジャイアンリサイタルの移動キャラバンに、吐き気と頭痛でクラクラになりながら、たった独りで付き従うスネ夫の自律神経は限界に来ていた。自らの爆音ボイスに酔いしれ御満悦のジャイアンは、特等席で堪能し続ける羽目になったスネ夫の気も知らず、薔薇色に輝く壮大な夢に想いを馳せた。

 「スネ夫、俺がプロの歌手になって、武道館やドームでコンサートをする事になったら、真っ先にお前を招待してやるからな。」

 塞いでいた手を耳から離し、どうにか命だけでも取り留める事の出来たスネ夫は、鳴り止まぬ残響に未だ軽い眩暈を覚えながらも、

 「うっ、うん、そうだね、今から楽しみだなあ、ハハッ。」

 懸命な作り笑いで調子を合わせると、

 「ふん、冗談じゃないよ。」

 ジャイアンには聞こえぬよう毒突いた。すると、

 「何か言ったか、スネ夫。」

 ジャイアンは、スネ夫の胸倉を鷲掴みにして、熱い鼻息をスネ夫の顔に浴びせかける。

 「ううん、何でもないよ、こっちの事。」

 ジャイアンの小学生離れした力で締め上げられたスネ夫は、通りの向こうで蹲っているコピーののび太を視野の端に捕らえると、藁にも縋る思いで捲し立てた。

 「ねえ、見てよ、ジャイアン。あれのび太だよ。」

 スネ夫の言葉に促され、蹲っているコピーののび太に気が付いたジャイアンは、スネ夫の胸倉から手を離すと、

 「本当だ。何遣ってんだのび太の奴。」

 自分が面白半分にのび太のボールを取り上げ、神成さんの家に蹴り込んでしまったが為に、コピーののび太を悪い星の下に生み落としてしまったのだとも知らずに、尻をボリボリ掻きながらあっけらかんと呟いた。スネ夫は締め上げられていた喉元をさすりながらジャイアンの脇腹を肘で小突くと、地に平伏したコピーののび太のただならぬ様子に、あえて一言付け加えた。

 「ホラ、良く見てよ、ジャイアン、あのサッカーボール。ジャイアンが神成さんの家に蹴り込んだ奴だよ。多分、神成さんの家に返してもらいにいって相当絞られたんだと思うよ。謝っといた方が良いんじゃないの。ジャイアン。」

 昼間の事を思い出したジャイアンは、蹲っているコピーののび太を見て少し遣り過ぎたかなと言う気持ちも湧き上がってはきたものの、そう簡単に自らの非を認める事も出来ず、再びスネ夫の胸倉を締め上げて込み上げる後ろめたさを払い除けた。

 「謝るって、お前だって蹴ってたじゃねえかよ。」

 「でも、のび太からボールを取り上げたのも、神成さんの家に蹴り込んだのもジャイアンなんだし。」

 「何だと、スネ夫、もう一遍言ってみろ。」

 「ああっ、御免、御免、ジャイアン、そんな積もりで言ったんじゃないんだよ。」

 幾ら言葉を濁しても一言多くなってしまうスネ夫は、慌てて前言を撤回すると、らしくない思い遣りを持ち出してジャイアンを説き伏せた。

 「とにかく、のび太の処に行ってみようよ。可成り落ち込んでるみたいだし、ああ言うのを見せられたら放って置く訳にもいかないよ。」

 すると、ジャイアンも、

 「おおっ、そうだな。」

 矢張りコピーののび太の事が気になるらしく、以外にあっさりとスネ夫の考えを聞き入れてしまう。ジャイアンは恐る恐る蹲っているコピーのび太の許に忍び寄っていき、スネ夫もジャイアンの厚い背中を盾にしてその後に続いた。二人はピクリとも動かないコピーののび太の前に辿り着くと、どうやって接して良い物か判らず、暫しお互いに先を譲り、押し付け合っていたのだが、どう言う訳か力でスネ夫を捻伏せる事が出来る筈のジャイアンの方が、コピーののび太の前に押し出されていた。幾度となく振り絞られた汗と西日でグチャグチャになったコピーののび太のひ弱な背中に重なるずんぐりとした影。ジャイアンは思い切ってコピーののび太に声を掛けてみた。

 「のび太、どうしたんだ。大丈夫か、のび太。」

 しかし、ジャイアンの声が聞こえているのかいないのか、コピーののび太はその身を内に堅く閉ざして押し黙っている。

 「おい、のび太ってばよ。」

 ピクリともしないコピーののび太を前にして、嘗てない胸騒ぎに襲われたジャイアンは、コピーののび太の肩を掴むと、蹲っている地面から力任せに引き剥がし、絶句した。コピーののび太は光に溢れていた。血の滲む程に泣き腫らしたその瞳から溢れる涙と、枯れる事のない汗が、儚くも美しい落陽の揺らめきを振り向きざまに照り返し、鮮やかな薔薇色に輝いていた。ジャイアンはコピーののび太から手を離すと、余りにも目映いその煌めきに圧倒されて、一歩、二歩と後退り、直ぐ後ろに控えていたスネ夫とぶつかって押し戻されてしまう。

 「どうしたの、ジャイアン。」

 スネ夫はジャイアンの広い背中の陰で何が起こっているのかサッパリ判らない。神々しいまでの瞬きに満ちたコピーののび太は、黄金色の滴を湛えるレンズの奥の円ら瞳で、真っ直ぐにジャイアンを見詰めている。常日頃、一日に二度はのび太を泣かし、のび太の涙に慣れてしまっているどころか、それを見るのが面白くて面白くて堪らなかった筈のジャイアンは、自分の卑しさをその瑞々しい輝きに照らし出されて挙措を失い、眼を、そして、心を奪われた。

 「何だ、おっ、お前、泣いてたのか。」

 ジャイアンはそう口走るのが精一杯で、のび太の泣きっ面見たさに、

 「どうしたんだ、のび太、神成さんに遣られたのか。」

 ジャイアンを後ろから押し退けて割り込んできたスネ夫も、瞬き一つする事のない無垢の眼差しに曝されて眼が眩み、ジャイアンの骨太の腕にしがみついた。しがみついていないと、何もかも投げ出してコピーののび太の足許に平伏してしまいそうだ。ジャイアンとスネ夫が互いに身を寄せ合って立ち尽くしていると、コピーののび太の目映い瞳の奥で何かが弾けた。抱きかかえていたボールを放り出して立ち上がったコピーののび太は、ジャイアンの手を取ってその胸に引き寄せると、涙と汗でくしゃくしゃになっている頬を拭おうともせずに、晴れ晴れとした笑顔と、はち切れんばかりに艶やかな声で二人を迎え入れた。

 「ああっ、ジャイアン、それに、スネ夫も。遅いじゃないか二人とも、もう来ないのかと思ったよ。」

 悲嘆に暮れている物とばかり思っていたコピーののび太が振りまく突然の歓喜に泡を食うジャイアンを余所に、コピーののび太は矢継ぎ早に捲し立て、ジャイアンの手を強く強く握り締めてくる。

 「ちょっと待てよ、のび太。もう来ないのかと思っただなんて、俺そんな、お前と会う約束なんかしてないぞ。」

 ジャイアンはなすがままに気押されて、返す言葉にも力が入らない。今日ジャイアンがのび太に約束した事といえば、今度サッカーでヘマをしたら、ボールの代わりにのび太の尻を蹴り倒すと恫喝したくらいだ。のび太のボールを神成さんの家に誤って蹴り込んだ事を筆頭に、今日も一日、のび太には酷い仕打ちを繰り返してきたというのに、こんな歓待を受ける覚えは何処にもない。それなのに、コピーののび太はそんな相手の戸惑いなど物ともせず、ジャイアンに擦り寄ってくる。

 「何言ってるんだよ、ジャイアン、学校が終わったら空き地でサッカーを教えてくれるって言ってたじゃないか。」

 コピーののび太は物事の道理では抗う事の出来ぬ、全てを包み込む何かを宿していた。スネ夫はその何かに呑み込まれまいと、煮え切らない遣り取りでどうにも息の上がらないジャイアンを制して、頭ごなしにぶちまけた。

 「馬鹿、何でジャイアンが下手糞ののび太なんかとサッカーをしなきゃいけないんだよ。」

 スネ夫は心の中で下手糞はちょっと言い過ぎだったかなと思いつつも、勢いで出てしまった物を今更引っ込める訳にもいかず、そのままコピーののび太を睨み続けるのだが、言い返せば言い返す程、その煌めきは増すばかりで、コピーののび太は臆するどころか、可笑しいのはそっちの方だと胸を張り、全く譲ろうとしない。

 「だって、ちゃんと約束したんだもん。」

 「約束、約束って、ジャイアンがお前とそんな約束なんてする訳がないだろう。」

 「何だよ、ジャイアンが僕と約束をした時、スネ夫も一緒にいたじゃないか。もう忘れちゃったの。」

 スネ夫は何を言っても堪えないコピーののび太に痺れを切らし、ジャイアンをコピーののび太から引き離すと、半ば気持ちの飛んでしまっているジャイアンに馬鹿は移るとでも言いたげに耳打ちをした。

 「ジャイアン、のび太の奴ちょっと様子が変だよ。神成さんに殴られて頭が可笑しくなったんじゃないの。気持ち悪いから放ったらかして帰ろうよ。」

 スネ夫はもうこれ以上こんな戯言に付き合っていられないと言う気持ちと、訳の判らない事ばかり口にしているのび太が本当に空恐ろしくてならないと言う気持ちが入り混じり、棒立ちのジャイアンを小声で急き立てた。そこへ又しても、

 「どうしたの、サッカーは遣らないの。」

 コピーのび太がノコノコと口を出し、何とかして早くこの場を切り上げたいスネ夫の怒りを買ってしまう。

 「遣らないって先から言ってるだろ。何回言わせれば気が済むんだよ。」

 スネ夫はのび太なんかに振り回されている自分に腹を立てながら一頻り吐き捨てると、本当にのび太は壊れてしまったのではないかと眉を顰めた。とにかく、もうこれ以上こんなのび太に構っていられない、このままでは本当にこっちまで頭が可笑しくなってしまう。スネ夫はジャイアンの方に向き直り、改めて説き伏せに掛かるのだが、何を思ったのか、ジャイアンは徐にスネ夫を押し退けて、一人侘びしく転がっていたのび太のサッカーボールを拾い上げたかと思うと、酷く真面目な顔付きで口を開いた。

 「よし、判った。そんなにサッカーが遣りてえんなら付き合ってやるよ。」

 「何を言ってるんだよ、ジャイアン。まさか、のび太の言ってる事を真に受けてんじゃないよね。そんなの相手にする事なんかないよ。」

 ジャイアンの変節にスネ夫は我が眼を疑い、思い直すよう必死になって食らい付くも、

 「うるさい、お前は黙ってろ。」

 ジャイアンはスネ夫の頭に拳を振り下ろして黙らせると、

 「それじゃあ、最初はインサイドキックの練習からだ。これが出来ないと話にならないからな。」

 そう言って行き成り仕切りだし、開いた口が塞がらないスネ夫を放って空き地に向かって歩き始めた。

 「良いか、のび太。インサイドキックってのはなボールを確実に真っ直ぐ飛ばす事が出来る蹴り方なんだ。他の蹴り方より足にボールを当てる面積が広い分、確実にボールをミートすることが出来るから、先ずこの蹴り方を体で覚えろ。」

 ジャイアンが一言一言噛み砕いてコピーののび太に説明しているのを、打ち据えられた頭を手でさすりながら、スネ夫は不思議な気持ちで眺めていた。こんなにも丁寧にのび太に語り掛けているジャイアンを見た事がない。

 「インサイドキックの蹴り方は、先ず軸足をボールの真横に置いて、爪先をボールを蹴る方向にきちんと向けてから、蹴り足を蹴る方向に直角に開いて振り抜くんだ。その時に、軸足の膝は柔らかく曲げておけよ。膝を伸ばしたまま、突っ立ってたら体のバランスを上手く取れないから、蹴り足を正確にボールへ当てる事も出来なくなる。どんなキックの時でも軸足のヒザは柔らかくして、軽く曲げている事が大切なんだ。蹴り足のバックスイングは大きく振り上げなくて良いからな。だいたい軸足のヒザの高さ位まで振り上げれば十分なんだ。バックスイングした時に、足首はボールを蹴る時の形になってなきゃ駄目だぞ。蹴る方に向かって直角になるように、爪先を真横に開いて踵を前に出したら、爪先を上に向けるんだ。そうしたら足首はしっかり固定されるからな。蹴る足の内側のくるぶしを、ちょうどボールの真ん中に当てるようにするんだ。フォロースルーをきちんと取れよ。バックスイングと同じ位で良いからな。そうじゃないと真っ直ぐに飛ばないからな。先ず俺からのび太にパスを出すから、それをのび太は一端足でトラップしてからスネ夫にパスを出すんだ。そして、スネ夫が俺にパスを出す。判ったな。トラップする時も、蹴る時と同じように軸足の膝を柔らかく曲げて、全身を使ってボールの勢いを吸収するんだぞ。」

 「うん、判ったよ。ジャイアンから来たボールを一旦足でトラップしてからスネ夫に返せば良いんだね。」

 「おう。それから、俺の蹴ったボールをトラップする時も、蹴る時と同じように軸足の膝を柔らかく曲げて、腰から下全体でボールの勢いを吸収するんだぞ。おい、スネ夫、お前ちゃんと聞いてんのか。」

 ジャイアントコピーののび太の蚊帳の外で腐っていたスネ夫は投げ遣りに声を返した。

 「ハイ、ハイ、ハイ、ハイ、ちゃんと聞いてますよ。のび太からボールが来たらジャイアンに返せば良いんでしょ。」

 一度言い出したら聞かないジャイアンにこれ以上逆らっても、再び拳の餌食になるだけだ。スネ夫は渋々ジャイアンの後に付いて歩き出した。コピーののび太は、トラップする時も蹴る時も膝を柔らかく曲げるんだと、今ジャイアンに言われた事を復唱している。その横顔にふと眼の止まったスネ夫は、額から顎の先まで汗と涙と土埃の混合物でドロドロになっている事に気が付いた。何時の間にか眼も眩む程だった高貴な煌めきも失せている。矢張り夕陽の照り返し具合で、特別光って見えただけなのだろうかと小首を捻り、スネ夫はズボンのポケットに手を突っ込んだ。そして、

 「ああ、ああ、ッたく、酷い顔だな。」

 ママに口五月蠅く言われて嫌々持ち歩いている、ブランド物のすかしたハンカチを取り出して、コピーののび太の頬に差し伸べた。

 「えっ、何、スネ夫、どうしたの。」

 「もう、良いから動くなよ、のび太。」

 自分が今どういう顔をしているのか判っていないコピーののび太は、顔の汚れを拭い始めたスネ夫の手を拒んで藻掻き、スネ夫は痛がるコピーののび太を押さえ付けて、眼鏡も外し泥を落とした。スネ夫のハンカチにこびり付いた汚れを見てコピーののび太は驚いた。

 「スネ夫、どうしたのそのハンカチ。泥だらけじゃないか。」

 「あのなあ、のび太の顔が泥だらけだったから、僕のハンカチで態々拭いて、それでぇ・・・、ぅんーう、もう良いよ。」

 何処までもピントのズレているコピーののび太に呆れながら、スネ夫は真っ黒になったハンカチを仕舞い込んだ。そして、日頃のび太に優しい言葉の一つすらかける事がないのに、何故こんな優しさを垣間見せてしまったのか戸惑い、コピーののび太が纏う眼に見えぬ引力に呑まれている事を、憎まれ口を叩く事で撥ね除けた。

 「ふん、世話を焼かせやがって。」

 スネ夫にとってのび太は自分の弱さを誤魔化す為に必要な唯一の隠れ蓑だ。元々、勉強も運動もパッとしないスネ夫に、取り柄と呼べる物は何もない。裕福な家庭に育ち、欲しい物は何でも買い与えてもらえるが、クラスメイト達の羨望の眼差しとは裏腹に、本当の意味では何一つ満たされず、裸の自分と向き合う事が出来ぬままに、のび太を馬鹿にし、虐める事で自らを支えてきた。しかし今、屈託のない微笑みを湛えるのび太にを前にして、強がるしか能のないちっぽけな自分の姿が胸の痼りとなって疼いてくる。

 「何遣ってんだよ、スネ夫。早くしろよ。」

 怒鳴り声の聞こえてくる空き地に眼を遣ると、のび太の為に心を砕いているジャイアンの姿が、夕陽を背負い長い影を落としている。

 「はいはい、判ってますよ。どうも遅くなって済みませんね。」

 スネ夫は泣き暮れる空を仰ぎ、コピーののび太に背を向けて声を張り上げた。

 「ジャイアンがああ言ってるんだから仕様がない。のび太の下手糞サッカーに付き合ってやるか。」

 空き地の真ん中に三人で輪を作って広がると、ジャイアンはのび太のボールを更地の上に置き、コピーののび太の足元に優しいゴロのボールを蹴り出した。ボールは乾いた音を蹴立てながらコピーののび太を目指して転がっていく。コピーののび太は体中の関節をギクシャク言わせながらも、何とか土踏まずの側面でジャイアンのパスを受け止めると、待ち構えているスネ夫の方を向いて、ひ弱な膝と足首を振り上げた。しかし案の定、スネ夫の立っている処とは何の関係もない明後日の方向に、コピーののび太は蹴り損ねてしまう。コピーののび太は慌ててボールの後を追い、追い付いて何とかスネ夫にボールを蹴って返したと思ったら、今度はジャイアンから来たボールを足で受け損ねて後逸し、その後も、空振りをしては尻餅を突き、地面を思い切り蹴り込んでは余りの痛さに蹲りと言った風で、コピーののび太の処にボールが行く度に三人の輪が崩れ、元通り継ぎ合わさったと思えば又解れと言うのを何度も繰り返した。ボールは持ち主の意志とは無関係に飛び跳ね、遮る物と言って何もない更地の上をどこまでも勝手気ままに転がっていく。決して難しい事をしている訳ではないのだが、コピーののび太の運動神経は合皮と空気の塊に翻弄されるばかりで、このまま何の進歩もなく日没まで続くかに思われた。腐る事も倦む事もなく、却ってそれが楽しくて仕方がないと言った様子でボールの後を追うコピーののび太。その健気な姿に焦れる事もなく、ジャイアンは体を使ってアドバイスを送り続ける。

 「のび太、落ち着いてボールを良く見ろよ。軸足の膝を軽く落とすように柔らかく曲げて、蹴る方の足は押し出す様な感じで蹴るんだぞ。」

 コピーののび太はジャイアンのアドバイスに応えようと、継ぎ目の硬い節々を総動員してボールに挑み、ジャイアンはその拙い足元から繰り出されるボールが真っ直ぐに転がってくれるよう、更地を跳ねる軌道の一つ一つを祈りを込めて眼で追った。夕陽が完全に沈み切ってしまうまでに、本の僅かでも良いから上達した証を残してやりたい。熱を帯びるジャイアンの想いに触れて、スネ夫も自分の胸が芯から熱くなってくるのを覚えた。いつしか、コピーののび太を嘲笑い続けていたサッカーボールは、ジャイアンが繰り返し訴え続けた軸足の爪先の延長線上を辿り始めた。

「よし、良いぞ、のび太。その調子だ。遣れば出来んじゃんかよ。」

 三人の輪を崩さずに何とかボールを繋げるようになってきたコピーののび太に、世辞の苦手なジャイアンも声を上げ、今までよりも手応えのあるボールをコピーののび太に蹴り出していく。コピーののび太は初め勝手が違って少し戸惑いはしたものの、直ぐにその力強いボールにも慣れ、確りと下半身で勢いを殺してスネ夫に返していった。受ける側のスネ夫もコピーのののび太のボールに確かな物を感じて胸が躍り、ジャイアンに回すテンポも上がっていく。一つのボールを介して三人は繋がっていた。断ち切れる事のない輪の中にいた。

 「試合の時にもそうやって落ち着いてやれば良いんだからな。取り敢えず難しい事は考えないで、今の蹴り方で一番近くにいる見方の選手にボールを回すんだ。」

 「こんな感じで良いのかな、ジャイアン。」

 「おお、そうだ。良いぞ、のび太。」

 ボールを回しながらジャイアンはその都度コピーののび太に声を掛け、コピーののび太もそれに応え、今までとは見違えるボールを返していく。そして再び、止め処ない汗の奔流と落陽の揺らめきを浴びてコピーののび太の頬が煌めき始めた。ジャイアンは眉根を堅くし眼を伏せると、そのデカイだけが取り柄の体を窄め、心を真っ二つに割いて絞り出した。

 「のび太、先は御免な。」

 余りの事に、スネ夫はコピーののび太の蹴って寄越したボールを受け損ね、足元から遠離っていくボールの後を追う事も出来ない。ジャイアン自身、何故そんな事を口に出してしまったのか判らなかった。コピーののび太の眼をまともに見る事も出来ず、ジャイアンは体の中から噴き出してくる火照りを、頬一杯に充血させて立ち尽くしている。ところが、

 「御免って何の事言ってるの、ジャイアン。」

 当のコピーののび太はキョトンとした眼差しをジャイアンに投げ返すばかりで、ジャイアンは俯いていた顔を振り上げると、消え入りそうなか細い声で呟いた。

 「のび太のボールの事だよ。」

 「ボールって。僕のボールがどうかしたの。」

 「だから、俺がのび太のボールを取り上げて、お負けにそのボールを神成さんの家に蹴り込んで、そのまま謝りにも行かずに逃げた事だよ。」

 ジャイアンはのび太が自分の事を試しているのではないかと思った。自分に態とこんな事を喋らせているのではないのかと。しかし、そんなケチな考えも、コピーののび太はあっと言う間に吹き飛ばしてしまった。

 「そんなまさか。ジャイアンがそんな事する訳がないよ。だって、ボールはちゃあんとあるんだし、抑も、何でジャイアンが僕からボールを取り上げて、そんな事をしなくちゃならないの。」

 コピーののび太は本気で信じなかった。ジャイアンの口にした事を下手な冗談だと一笑に付し、その真っ新な屈託のない笑顔を前にしては、流石のジャイアンも無力だった。ジャイアンは、のび太を虐めるのが面白くて仕方がないから、厭と言う程惨めに歪むのび太の情けない顔を見ていると、自分が強くなった様な気がして胸がスッと晴れるから等と、本当の事を言う訳にもいかず、再びコピーののび太から眼を伏せてしまう。

 「ホラ、答えられないじゃないか。ジャイアンがそんな事をする訳がないもの。」

 コピーののび太はジャイアンを遣り込めてやったと得意になってはしゃぎだし、その軽やかで張りのある笑い声が、ジャイアンの虚ろな心に響き渡る。自分が毎日のように繰り返している酷い仕打ちを、全く責めようとしないコピーののび太に、ジャイアンは打ちのめされた。

 「のび太、お前。」

 何と言って今の気持ちをコピーののび太に伝えたら良いのか判らないジャイアンは、鼻の芯を突き上げてくる熱い物に気が付いて、必死に奥歯を喰い縛った。そこへ、

 「何だよのび太、お前、本当に何も覚えてないの。」

 やっと口を利けるようになったスネ夫が、ジャイアンの気も知らずに、思った事をそのまま口に出して割り込んできた。

 「五月蠅い、スネ夫、お前は黙ってろ。」

 当然、ジャイアンは頭ごなしにスネ夫を怒鳴り散らすのだが、スネ夫はその勢いに怯みながらも、

 「だって、ジャイアン。」

 コピーののび太を指差して尚も訴える。

 「スネ夫、お前、何遍俺に五月蠅いって言わせれば気が済むんだよ。お前は黙ってのび太の蹴ったボールを俺に返してれば良いんだよ。」

 ジャイアンは思いっ切り握り込んだその拳をこれ見よがしに振り翳してスネ夫の口を塞ぎ、額に浮いた汗を拭う振りをしながら、瞼を張り詰めているだけでは手に負えなくなってきた涙を、パンパンに太った二の腕で拭い取った。

 「ったく、二人共どうかしてるよ。」

 スネ夫は未だ幾らかジャイアンよりも冷めた処があり、天真爛漫なコピーののび太に心を惹かれはするものの、その筋の通らない言動は正気の物とは思えなかった。全てを許し包み込む不思議な笑み。その不可解な魔力にスネ夫は戸惑い、何の蟠りもなく打ち解けているジャイアンの危うさに気を揉まずにはいられない。

 血の気の失せた東の空。振り返ると連なる切妻の縁に押し潰された夕陽が畢生を謳歌し、遮る物さえなければ何処までも伸びていた長い影が忍び寄る夕闇に滲み始めている。何時もならもう家に帰っている時間だ。スネ夫は角を生やして待っているママの事を考えると気が気でないのだが、かと言って、今日はもうこれ位にしようとジャイアンに切り出す勇気もない。

 「とにかく、僕をからかうのはそれ位にして、早く続きをやろうよ。」

 コピーののび太はそんな二人の遣り取り等お構いなしに、湿り勝ちの空気を蹴散らして、スネ夫のトラップし損ねたボールを取りに駆け出した。そして、ボールの側まで来たコピーののび太は、屈み込みながら腕を伸ばし、ボールを拾い上げようとした。薄暮に紛れて蹲る小さな影。その影が音もなく姿を消した。事の成り行きに押し流されていたスネ夫は初めその意味を計りかね、ただ漠然と広がる薄暮を眺めていた。余りにも静かに、何の前触れもなく薄暮に消えたコピーののび太。スネ夫は何が起こったのかサッパリ判らない。スネ夫の脇をジャイアンが駆け抜けていく。スネ夫の弛緩していた意識が小さく弾けた。薄暮の一点に凝らした瞳が引き込まれ、コピーののび太が更地の上に前のめりになって倒れ込んでいるのが見えた。

「どっ、どうしたんだのび太。」

 ジャイアンがコピーののび太を抱き起こすと、

 「うっ、うん・・・・、何だか・・・・体に力が・・・・入らないんだ。」

 コピーののび太は途切れ途切れに返事をしながら、ジャイアンの懐へ頭から凭れ掛かってくる。ジャイアンはコピーののび太の上体を支えようと脇腹に手を回した。そして、汗を吸ってジットリと重く肌に張り付いているシャツの一部に妙な感触を覚えた。まさかと思いジャイアンが恐る恐るシャツの裾を捲り上げると、滑らかな切り口で抉り取られている脇腹が露わになった。何食わぬ顔でポッカリと口を開けているその風穴を目の当たりにして、ジャイアンの涙は氷結し、突き抜ける衝撃と共に瓦解した。スネ夫は言葉にならぬ声を泡吹きながら、腰を抜かして地に這いずり、何とかしてこの場から逃げ出そうと藻掻いている。

 「のび太、おっ、お前、わっ、わっ、脇腹、脇腹が。」

 ジャイアンは震えが止まらない歯の根に舌を取られて、上手く喋る事が出来ない。

 「脇腹がどうかしたの。」

 コピーののび太は瞳を閉じて喘ぎながら、ジャイアンの声がする方に首を傾けた。今にも事切れてしまいそうなコピーののび太を腕の中に抱きかかえて、ジャイアンは何から手を付けて良いのか判らない。そこへ、地を這い蹲りながら手足をばたつかせているスネ夫が眼に止まった。

 「待てっ、スネ夫。お前どこに行く積もりだ。」

 「だって、ジャイアン。」

 半泣きのスネ夫はコピーののび太の脇腹を指差すと、後はもう言葉ではなく怯えた瞳でジャイアンに訴えた。確かに尋常じゃない。抉れた脇腹を前にして落ち着けと言う方が無理だ。喉元を締め上げる怖気。ガタガタの膝関節。日頃は気丈で鳴らすジャイアンも、この場から逃げ出したい衝動を必死になって抑え込んでいる。

 「だってじゃねえよ馬鹿野郎、のび太が大変な事になってるって言うのに、お前一体何考えてんだよ。のび太がどうなっても良いのかよ。俺も何が何だか良く判んねえけど、とりあえずドラえもんだよ、ドラえもん。ドラえもん呼んでこい。」

 ジャイアンの真剣な眼差しに射抜かれてスネ夫は漸く我に返った。グッタリしているコピーののび太に改めて眼をやると、それまで猛威を振るっていた横隔膜や手足の震えが、澄み渡る憂いに浸されて鎮まり、縮み上がっていた意気地が力強く充血していく。

 「うっ、うん、そうだね、じゃあ、僕、のび太の家に行ってみるよ。」

 「逃げんなよ、スネ夫。」

 「判ってるよ。」

 ジャイアンの懸念を振り切って、スネ夫はのび太の家を目指し駆け出した。もう迷いはない。遮る物とあれば当たり構わず蹴散らしながら、勝手知ったる裏道を最短距離でただ闇雲に突っ走り、飛び出した表通りで、脂臭いネクタイ、葱や大根で膨れ上がった買い物袋、そして、様々な罵声を潜り抜けて先を急いだ。のび太の家は未だ見えてこない。胸を掻き毟る焦燥に耐え切れず、

 「ドラえもーん。」

 夕闇に褪せる空に向かって、スネ夫は声を限りに突き上げた。

 

 

 

 のび太の家の二階では、突き肘を枕に寝そべり、広げた漫画の一コマ一コマにダラダラと虚ろな瞳を漂わせている本物ののび太に、静香が粘り強く言葉を尽くしていた。しかし、畳に根を生った重い腰は何を諭しても起き上がろうとせず、静香に向けた背中は空々しく何の反応も示さない。勿論、本物ののび太の耳に静香の言葉は聞こえているのだが、自分よりコピーののび太の方ばかり構っている静香の事が癪に障り、かと言って面と向かって出て行けとも言えず、早くドラえもんが未来から帰ってきて、上手く片付けてくれないかなとばかり考えていた。自分がドンドン厭な奴になっていくのが判っていても、この意地の張り合いから降りる事が出来ない。徒に過ぎていく時間。勉強机の下や部屋の四隅に夜が忍び始めている。

 「のび太さん、私の言ってる事聞こえてるの。」

 静香は自分が責め立てれば責め立てる程、本物ののび太は頑なになってしまうと知りながら必死に訴え続けた。しかし、本物ののび太はモゴモゴと面倒臭そうに口籠もるばかりで、静香の方を見向きもしない。先からずっとこの調子で、静香は何度となく匙を投げかけた。しかし、そう言う考えが過ぎる度に、言葉が足りないのではなく自分の想いが未だ足りないのだと強く言い聞かせて、尚も擦り切れた言葉を何度も遣い回して、自らも奮い立たせた。

 「今からでも遅くないわ、コピーののび太さんを捜しにいきましょう。」

 「探しにいくって言っても、もうとっくの昔に元の人形に戻ってるよ。」

 「お願いだからそんな事言わないで。ねえ、のび太さん、横になってないで、ちゃんと私の話しを聞いてちょうだい。」

 こんなのらりくらりとした性根の欠片もないのび太が全ての鍵を握っていると言う事が、静香には腹立たしくて仕方がなかった。怒りに任せて全てを台無しにしてしまいそうになるのを必死で堪えながら、何度も何度も本物ののび太の体を揺すり、出涸らしの誠意を絞り出した。すると、何を思ったのか本物ののび太が渋々ではあるが起き上がり、正座をしている静香の方に向き直った。漸く心が通じたのだと静香の瞳は明るく弾けた。しかし、本物ののび太は静香の脇を擦り抜けると、垂れ下がっている蛍光灯のスイッチを点けただけで、再び畳の上に横になってしまう。呆れて物も言えぬ静香を余所に、意味もなく漫画の本を捲り、だらしなく手足を伸ばす本物ののび太。

 そこに、下の階から玄関の呼び鈴のくぐもった音が聞こえてきた。のび太のパパが帰ってくるには未だ早過ぎる。階下を小走りに駆けるのび太のママの足音。大して気にも留めず漫画の吹き出しに眼を落としてい本物ののび太とは対照的に、静香は思い当たる処があり耳をそばだて様子を窺った。自分の思い過ごしである事を祈りつつ、階下の声に聞き入る静香。しかし、玄関先での何等かの遣り取りの後、静香の抱いていた胸騒ぎが、階段を踏み締める足音と共にハッキリとした形となって迫ってきた。引き戸を開けて現れたのび太のママは、

 「あっ、静香ちゃん、今お母さんが下に見えてるわよ。」

 言葉少なにそう伝えると、これと言って何も付け足さずに下の階へ降りていった。遂に来るべき時が来てしまったらしい。漫画を楯に静香の横顔を窺っている本物ののび太に向けて、静香は思いに沈む眼差しを一頻り突き付けると、脇に置いていたバイオリンケースを拾い上げて部屋を出ていった。

 階段を降りる静香の力無い足音を、引き戸に耳を押し当てて確かめ、ホッと胸を撫で下ろす本物ののび太。心なしか部屋の空気は軽くなり、畳の上に体を投げ出して伸びをすると、とりあえず何をして良いものか見当も付かず、ただ寝返りを繰り返した。

 すると不意に、静香のママの物らしい険しい声が階下から聞こえてきた。一瞬肩をビクつかせて、枕代わりの右肘から頭を起こす本物ののび太。怒鳴り声とまでは行かないが、二階にまで届くそのきつい言い回しに、何だかんだ言っても静香の事が気になり始め、物音を立てぬよう、息を殺しながら、恐る恐る階段を降り、壁際に身を隠して玄関先の様子を覗き込んだ。

 見ると、三和土の前で項垂れている静香の背中越しに、土間で仁王立ちの静香のママが口角泡を飛ばし、その脇でのび太のママが静香を庇う様にして付き添っている。本物ののび太のいる処から静香の表情を見て取る事は出来ないが、板間を駆け抜ける静香のママの張り詰めた声を、これでもかと浴びせ掛けられている静香の胸の内は察して余り有る。本物ののび太は、つい今し方まで静香に対し抱いていた、煩わしくて仕方ないと言う思い上がりは霧散し、場所を変えてどうこうと言う処まで頭が回らなくなってしまっている静香のママから、どうにかして静香を助ける事が出来ないものかという考えがチラつき始めた。静香を庇うのび太のママの事などお構いなしに、静香のママは胸に支えていた物を洗いざらいブチ撒けている。

 「静香、黙ってないでちゃんと答えて頂戴。どうしてバイオリンのお稽古に行かなかったの。」

 習い事をサボった事など今まで一度もなかった静香が、バイオリンのレッスンに現れず何の連絡も取れずにいたのだ。虫の知らせに苛まれて奔走し、無事に見付かりホッとした気持ちの反動がそうさせているのだろう。我が子を思う余りの猛烈な怒気に、治まる気配は微塵もない。

 「御免なさい、ママ。」

 下手な言い訳を並べ立てる事もなく、実母の叱責に身を曝す静香。

 「まあまあ、奥さん、そう仰らずに。きっと、内ののび太が静香ちゃんを無理に引き止めたに決まってるんですよ。ねえ、そうなんでしょ、静香ちゃん。」

 のび太のママが間に入っても頑なに首を横に振り、自らを責め立てる。

 「いいえ、のび太さんは私を引き止めたりしてはいません。悪いのは私なんです。」

 静香は罪と罰に押し潰される事で、コピーののび太の苦しみを背負い込もうとした。そんな事をした処でコピーののび太が救われる訳でもないと判っていても、非力な自分を傷付けずにはいられなかった。コピーののび太は、今何処にいて、何をし、何を思うのか。もしかしたらもう、元の人形に戻ってしまったのかもしれない。そう考えただけで胸が張り裂けそうになる。何故、コピーののび太の後を追って引き止めなかったのか。何故、コピーののび太の心を繋ぎ止める事が出来なかったのか。自分の身に染み付いた飾り物でしかない優しさに静香は打ち拉がれ、激しく問い質すママの激昂すら意識の彼方に遠退いていく。そこへ唐突に、

 「あっ、あの、ドラえもん、ドラえもんはいますか。」

 迸る汗に塗り潰されて眼も鼻も口もなくなり、逆立つ湯気と共に揺らめきながら、スネ夫が玄関の土間に雪崩れ込んできた。

 「ええっ、ドラちゃん。ドラちゃんは・・・・今・・・・二階に居たかしら・・・・。でも、どうしたの、そんなに慌てて。」

 四つん這いで喘いでいるスネ夫をのび太のママが抱き起こそうとすると、スネ夫はその手を払い除けてただ闇雲に急き立てた。

 「大変なんですよ、とにかく。とにかく、大変なんです。あの、のび太が、そう、そうなんですよ、のび太が。」

 スネ夫は上手く回らない舌で言葉を組み立てようとするのだが、自分でものび太の抉れた脇腹を説明して良い物か、気ばかり焦って答えようがない。すると、のび太の名前を耳にした静香がよれよれのスネ夫に飛び付いた。

 「スネ夫さん、のび太さんがどうかしたの。」

 「えっ、だから、ジャイアンから、その、のび太の、穴が、脇腹に。」

 スネ夫は今までに見た事もない静香の眼の色に気圧されて、思い浮かぶ単語を滅裂に並べ立てる。階段の上で身を隠しその様子を窺っていた本物ののび太は、それがコピーののび太の事だと察して焦り始めた。このままだと話がどんどん大きくなって収拾がつかなくなる。こんな時にドラえもんが居てくれたら。何時もの甘えが頭を過ぎったその時、本物ののび太の耳元で陽気な濁声が不意に弾けた。

 「何をコソコソしてるんだい。」

 小心者で肝の据わっていない本物ののび太は、驚きの余り廊下に転げ落ちた。未来から帰ってきたばかりのドラえもんが慌てて本物ののび太の元に駆け降りると、

 「なっ、なナナっッなっ、何で、ノッのの、ノッ、のび太がここに。」

 本物とコピーの区別など付く筈のないスネ夫は顎の根を外して絶叫した。スネ夫の頭の中は一瞬にして漂白し、眼に映る出来事をどう受け止めて良いのか判らない。そこへ更に、廊下の上で伸びている本物ののび太になぞ眼も呉れず、静香がスネ夫の両肩を揺すって畳み掛けてくる。

 「スネ夫さん、脇腹に穴の開いているのび太さんの事知ってるの。ねえ、今、今、何処にいるの。」

 「いやっ、だって、先まで空き地にいた筈なのに。」

 本物ののび太を指さしながらスネ夫が上の空で呟くと、静香は更に激しくスネ夫の肩を揺す振り聞き返した。

 「空き地にいるのね、スネ夫さん。」

 「うっ、うん。」

 スネ夫は首をガクガク言わせながら辛うじて答えると、静香は三和土を降りて靴を履き、

 「あっ、静香、待ちなさい。」

 引き止めようとする静香のママの手を後ろ手に払い除け、表に飛び出していった。静香のママは手塩に掛けた我が子にその手を叩き落とされた衝撃で眼が眩み、後を追う事も出来ずに立ち尽くしている。置き去りにされた者達は暫し時を忘れ、ドラえもんの手を借りて上体を起こした本物ののび太は、コピーののび太の元へ駆けていった静香の姿に困惑した。何故コピーの人形の為にそこまで必死になるのか。本物ののび太は自分なのに。妬みでも怒りでもない何かに心が傾いでいく。スネ夫が震えの治まらぬ唇で沈黙を破った。

 「これは一体どう言う事なの。」

 「スネ夫が空き地で見たのは、多分、のび太君のコピーなんだよ。」

 ドラえもんが申し訳なさそうに答えると、勘の良いスネ夫は声を荒げた。

 「コピー、コピーって何だよ。まさか、ドラえもんの出した道具なの。」

 スネ夫のただならぬ動揺に、未来から戻ったばかりで状況が呑み込めていないドラえもんは、どう応対して良いのか判らず、頻りに本物ののび太の顔色を窺っては、のらりくらりと言葉を濁した。取り返しの付かない事態を招いておきながら、煮え切らない所作を弄するドラえもんに、スネ夫は声を荒げた。

 「とにかく、コピーでも何でも構わないから、空き地で倒れているのび太を見てやってよ。」

 しかし、スネ夫の逸る気持ちとは裏腹にドラえもんの心は踊らず、棒立ちのドラえもんを後ろから押し退けて、頭ごなしに言葉が飛んだ。

 「あんなポンコツのコピーの事なんか、放っておけば良いんだよ。」

 本物ののび太は何に対して向きになっているのか自分でも判らなかった。穏やかではいられない胸の内を強がる事でねじ伏せようとすればする程、コピーの元へと飛び出していった静香の残像が頭の中を駆け巡る。

 「神成さんの家にボールを取りに行かせる為に出してやったのに、ガタガタガタガタ文句を言うばっかりで、兎に角あいつは生意気なんだ。大体、ドラえもんがもっとましな道具を出さないからこんな事になるんだ。あああぁぁぁぁああ、もう、あのポンコツの所為でのんびり昼寝も出来ないよ。」

 本物ののび太の吠え止まぬ悪罵にスネ夫は絶句した。不愉快な形相で独り闇に斬り付けて戯れるその醜態。姿形は同じでも、空き地でスネ夫とジャイアンの心を鷲掴みにしたのび太とは全く異質なのび太がそこにいた。気が付くとスネ夫は、卑しさに卑しさを塗り重ねる本物ののび太の胸倉に手を掛けていた。

 「何だと、もう一遍言ってみろ、のび太。」

 固唾を呑んで強張るか細い襟首を締め上げながら、二つの握り込まれた拳が震えている。本物ののび太は腰から崩れ落ち、スネ夫の迸る激情に平伏した。

 「ええっ、いやっ、だから、その。」

 スネ夫はあやふやに言葉を弄するばかりで愚にも付かない本物ののび太を見限ると、再びドラえもんの方に向き直ってその手を取り、強引に外に飛び出していった。

 本物ののび太は乱れ拍つ動悸の激しさに押し潰され、開け放たれたままの玄関を呆然と見詰めていた。スネ夫の怒りは本物だった。その真剣な眼差しが本物ののび太の錆び付いた鍵穴に本当の痛みを突き刺した。静香もスネ夫ももういない。本物ののび太は取り残されていた。打ち捨てられたのはコピーののび太ではなく本物である筈の自分だった。これ以上自分の気持ちを誤魔化し続ける事は出来ない。空き地で何かが起こっている。行ってこの眼で確かめなければ。コピーののび太を前にして今更何をすれば良いのかは判らない。それでも行かなければ。本物ののび太は表に飛び出し、空き地に向かって駆け出した。

 「私達も行ってみましょう。」

 「ええっ。」

 のび太のママと静香のママも顔を見合わせて小さく頷くと、子供達の後を追った。

 

 

 

 

 

 一向に戻ってくる様子のないスネ夫を、ジャイアンは声を押し殺して罵り続けていた。コピーののび太はジャイアンの腕の中に顔を埋めたままぐったりとしなだれ、何もしてやれぬ歯痒さが、更にジャイアンを苛立たせる。コピーののび太がジャイアンの二の腕に握力の欠片もない掌を載せ、心許ない声で呟いた。

 「ジャイアン、何処。」

 「どうした、のび太、俺はここにいるぞ。」

 コピーののび太の手を取り慌てて覗き込むと、ジャイアンは我が眼を疑った。コピーののび太の瞳が皮膚に溶け出し、鼻の凹凸も薄らいでその形を失っている。脇腹が抉れていると言うだけで訳が判らないのに、自分の目の前でのび太の目縁や鼻筋があやふやになり、汗にまみれた肌色の塊になっていく。最早苦しみに喘ぐ表情すら作れず、ズレ落ちた眼鏡以外にのび太の面影は何処にもない。ジャイアンはのび太の眼鏡を直してやろうとするのだが、手が震えて上手くいかない。のび太がのび太でなくなっていく。一体のび太が何をしたというのか。何故のび太がこんな目に遭わなければならないのか。日頃の行いからすれば、寧ろ、自分の方が裁かれ、その報いを受けるべきではないのか。現に今日も、のび太のボールを取り上げて神成さんの家に蹴り込んでおきながら、そのまま放って逃げてしまった。ジャイアンは悔やんだ。のび太に対してこれまで振り翳してきた高圧な言葉と拳の全てを。自分の理不尽な仕打ちの所為でのび太がこんな事になってしまったのだと責め立てた。

 するとそこへ、空き地に面した通りの向こうから、小さな人影が駆けてくるのが見えた。ジャイアンはスネ夫がドラえもんを連れて戻ってきたのだと断定し、スネ夫が帰ってきたら思い知らせてやろうと握り込んでいた拳の事も忘れて、その一点に眼を凝らした。しかし、

 「のび太さーん。」

 静香の黄色い声が夕闇を切り裂いた瞬間、期待は失望に裏返った。駆けてくる静香の後方には、スネ夫の姿もドラえもんの姿もない。ジャイアンはすっかり色をなくし、見る見るうちに朽ち果てていくコピーののび太に再び眼を落とした。のび太の顔にはもう、髪の毛と耳と口しか残っていない。ジャイアンは心が折れてしまいそうになるのを必死で堪えながら声を振り絞った。

 「静香ちゃん。今、のび太が大変なんだよ。」

 「ええっ、のび太さんの家でスネ夫さんから聞いたわ。」

 静香が息も絶え絶えに答えると、その声を聞き付けたコピーののび太が頭を擡げた。

 「ああ、静香ちゃんの声だ。静香ちゃん、何処。」

 静香の姿を求めて伸ばしたコピーののび太の指先が虚空を過ぎり、ジャイアンの腕の中に崩れ落ちる。

 「私はここよ、のび太さん。」

 コピーののび太の手を両手で強く握り締めると、或る程度の心構えは出来ているつもりでいた静香も、危うく声を上げかけた。光を失ってしまったとも知らずに静香の姿を探し求めるその無惨な相貌が、のび太と道具という二つの属性で鬩ぎ合っている。コピーののび太が上体を起こしながら途切れ途切れに尋ねた。

 「ねえ、静香ちゃん、ここは何処。何だか凄く瞼が重くてさ。眼を開けるのも辛いいんだ。」

 「ここは空き地よ、のび太さん。」

 「のび太、そんな無理して眼を開けなくったって良いんだからな。疲れてるんだからじっとしてろ。」

 ジャイアンは、努めて平静を装い、コピーののび太の不安を煽らぬよう、その胸に手を添えて、横になっているよう促してくれた静香に感謝し、駆け付けてきたのが静香だと気付いた時の失望をなじった。ブレる事を知らない静香の優しさは本物だった。ただ側に居てくれるだけで力強く、ジャイアンの体の震えは治まり、来てくれて良かったと、心から思った。処が、コピーののび太はジャイアンの腕の中に大人しく身を委ねると、辛うじて残存しているその口元から唐突な言葉が零れた。

 「あれっ、若しかして、その声はジャイアン。」

 屈託のない掠れた呟き。ジャイアンの腕の中でジャイアンの姿を探し求めるコピーののび太。

 「何言ってんだよ、確りしろよのび太。若しかしてじゃねえだろ、俺はずっとここに居るぞ。」

 のび太が壊れていく。その肉体のみならず、記憶までもが蝕まれていく。肩を揺す振り、声を張り上げて、ジャイアンはコピーののび太の心を繋ぎ止めようとするのだが、コピーののび太は醒め切れぬ夢の余韻に酔い痴れていた。

 「今ねえ、ジャイアンとサッカーをしている夢を見てたんだよ。スネ夫もいてさあ、凄く楽しくってさあ。ジャイアンにも見せてやりたかったなあ。僕がちゃんと真っ直ぐにボールを蹴ってるところ。インサイドキックって言って、蹴る方の足を蹴る方向に直角に開いて振り抜くんだ。軸足の膝を伸ばしたまま蹴ると体のバランスを上手く取れないから、膝を柔らかく曲げておくのがポイントでさあ。初めは難しかったんだけど、何度も何度も遣っている内に、僕にも出来るようになって。土踏まずの処にボールがビシッと当たって真っ直ぐボールが飛んでいくんだ。自分の思った通りの処に真っ直ぐボールが飛んでいくと凄く気持ちが良いんだ。蹴ったボールが体から離れていっても、蹴った足にボールを蹴った時の感触が残っててさあ。それまでみたいに変な処にばかり蹴っていた時のボールとは違って、何って言うのかな、上手く言えないけど、こう、ボールに僕の気持が乗ってるんだよ。僕の体から離れても。ボールがさあ、どこまでも飛んでいって、どこまでも僕と繋がってるんだ。」

 「夢じゃねえだろ、のび太。つい先まで一緒に俺達とボールを蹴ってたじゃねえかよ。もう忘れたのか。この馬鹿野郎。何が凄く楽しかっただ。冗談じゃねえよ。下手糞ののび太に付き合わされた俺とスネ夫の身にもなってみろ。良いかのび太、お前のサッカーなんて未だ未だ全然なってない。みんなに迷惑を掛けないように、次の体育の授業までに、俺が又、一から鍛え直してやる。足腰が立たなくなるまで引き擦り廻して、もうとにかく、厭って程引き擦り廻して・・・・、ちょっとやそっと泣いたって許してなんかやらないからな。覚悟しろよ、のび太。」

 ジャイアンは自分でも半ば何を言っているか判らぬままに、精一杯の強がりでコピーののび太を黙らせようとした。しかし、そんな滅裂な反駁にコピーののび太は声を弾ませた。

 「ねえ、ジャイアン、鍛え直してやるって、何、僕にサッカーを教えてくれるの。」

 力が抜けて首も据わらず、ジャイアンの腕の中に深く深く沈み込む、眼も鼻も失い肌色の塊と化したコピーののび太が華やいでいる。

 「約束だからね、ジャイアン。必ず守ってよ。」

 ジャイアンはズレ落ちるコピーののび太の眼鏡を直しながら呟いた。

 「おおっ、よし、判った、約束する。男と男の約束だ。」

 首を竦めて小さく頷くコピーののび太。その安らかな仕草に、ジャイアンはこのままのび太が息を引き取ってしまうのではないかと言う考えが頭を掠め、危うく揺り起こそうとしかけたが、のび太の手が自分の手首を握り込んでいる事に気が付いて、声を押し殺した。顔を上げると、込み入った家並みの隙間から僅かに覗く夕陽の欠片が、諦めがちに揺らめいている。ジャイアンにはその残り火がのび太の命運に重なって見え、遣り場のない苛立ちが再びブリ返してきた。

 「静香ちゃん、スネ夫はどうしたんだよ。のび太の家で会ったんだろ。どうしてスネ夫はドラえもんを連れてこねえんだよ。ドラえもんは、ドラえもんはどうしたんだよ。」

 掴みかからんばかりの哀訴に静香は揺れた。ジャイアンは未だ自分の腕の中で萎れているのび太がのび太のコピーだと言う事を知らない。事実を告げるべきなのか、それともこのまま自分の胸に仕舞っておくべきなのか。

 「クソぉぉう、スネ夫の奴、こんな事なら初めから俺がのび太の家に行けば良かった。静香ちゃん、のび太の事を頼むよ。今直ぐドラえもんを連れてくるから。」

 ジャイアンは静香の返事も待たずに吠え続けている。項垂れた頭を上げる事も出来ぬままに、静香の中で何かが小さく弾けた。火に油を注ぐだけだと判っていても、コピーののび太の元に駆け付けても何もしてやれぬ自責の念が、迸るジャイアンの激情に押し流されていく。静香は臆して喉に支えていた言葉を振り絞り、のし掛かるその荷を解こうとした。

 「剛さん、実はこののび太さんは・・・・・。」

 静香の改まった声に吹き荒ぶ鼻息を治めるジャイアン。一瞬の静寂から二の句を継ごうとした静香を微かな吐息が制した。

 「静香ちゃん。」

 コピーののび太の指先が静香の手の甲を微かに握り返している。静香はコピーののび太の口元に耳を寄せた。コピーののび太の真意が言葉を超えて突き刺さってくる。

 「僕のボールは。」

 静香は足許に転がっているサッカーボールを拾い上げて、コピーののび太の胸の上にそっと差し伸べた。今、眼の前にいるコピーののび太は本物ののび太以上にのび太だった。それを苦し紛れに全てを台無しにしようとした自分を恥じた。

 「有り難う、静香ちゃん。」

 コピーののび太はサッカーボールに手を添えると、その感触を噛み締めながら呟いた。

 「このボールを真っ直ぐ蹴れるようになりたいんだ。ジャイアンとか、スネ夫とか、みんなの居る所に真っ直ぐ。それだけで良いんだ。それだけで凄く楽しいと思うんだ。ドリブルとかヘディングとか出来なくても、真っ直ぐに蹴れるようになれれば、昼休みにサッカーをする時にも仲間に入れてもらえると思うんだ。練習して少しでも上手くなりたいんだ。」

 「きっと、思い通りに蹴れるようになれるわよ。のび太さん。」

 「そうだぞ、のび太。絶対に俺がどんなボールでも蹴れるようにしてやるからな。だから、ドラえもんが来るまで今はジッとしていろよ。」

 ジャイアンがドラえもんの名前を口にすると、サッカーボールを愛でるコピーののび太の手が止まり、凹凸のないその表情が曇った。

 「ドラえもんかあ、今ならドラえもんの力なんて借りずに、何でも出来る様な気がするのに。」

 コピーののび太の言葉は途切れ、忍び入る夜気のしじまにジャイアンは声を荒げた。

 「何訳の判んねえ事言ってんだよ。確りしろ、のび太。」

 嘗てない胸騒ぎに戦くジャイアンと静香。陽は地に堕ちて時を告げ、僅かな望みが燃え尽きた。コピーののび太の掌から零れるサッカーボール。

 彼の人の眠りは、徐かに更けていった。ジャイアンが拾い上げようと伸ばした腕の中で、一瞬コピーののび太の体が宙に浮いた。そのささやかな異変が、何の抑揚もなく眼の前を擦り抜けていく。静香は微かに声を上げただけで、乗り出した体を硬直させているしかなかった。コピーののび太の首が、両腕、両脚が、汗と泥にまみれて前も後ろもないシャツと半ズボンの中に吸い込まれていく。静香は眼を心を奪われた。息を呑む時の中で、コピーののび太の体だけが、何者にも妨げられず、滑らかに過ぎ去っていく。コピーののび太はそれまで着ていた服の中へと姿を消し、ジャイアンが宙を舞うシャツに飛び付いた時には、半ズボンにくるまってジャイアンの足元に転がり落ちていた。あっと言う間の出来事だった。更地の片隅で、光も音もなく、全ては終息し、潰えた。それは命だった。ジャイアンの手の中でしなだれているシャツの襟元に、主を失った眼鏡が辛うじて引っ掛かっている。ジャイアンの巨体が揺れ、膝が地を叩き、決壊した。

 「ンのビィぃぃだゥあアアアぁぁぁあああー。」

 骨の髄を打ち震わせて響き渡るジャイアンの絶叫。しかし、幾ら泣き叫んでも、奇跡は起こらない。ジャイアンの激情は虚空に呑まれ、夕闇がその深みを増していく。目の当たりにした出来事は健やかなお伽噺でも、恍惚の受難劇でもなかった。コピーののび太は掻き消された。徒に苦悩と混乱を撒き散らしただけで瞬く間に掻き消されてしまった。のび太としての尊厳など意に介さぬ消滅の呆気なさに、有無を言わさぬその厳しさに、静香は愕然とした。コピーののび太は心安らかに召されていったなどと言う気休めで誤魔化しきれる物ではなかった。信じていた物に裏切られた。真実に血は通っていなかった。ジャイアンの慟哭すら耳に入らず、嘆く事も、ジャイアンを慰める事も忘れて、静香は失われた命の拠り所を求め、ただ一点を見詰めていた。震え戦く指先を、ジャイアンの足元で丸まっているのび太の半ズボンに伸ばし、恐る恐る拾い上げる。半ズボンの裾から頭を覗かせる小さな人形。微かな衣擦れの音と共に滑り落ち、更地の上をコトリと叩いた。人形を手に取ると、コピーののび太と同じように脇腹の処がそっくりそのまま抉れていて、未だ少し温もりが残っている。静香は声を上げる事もままならぬ程人形をきつく抱き竦めた。忘れていた涙が溢れ、静香の頬を伝って泥にまみれた人形を洗い流していく。全ては無に帰した。のび太の面影を人形に重ねても、それはドラえもんの道具でしかなかった。どんなにコピーののび太への想いを繋ぎ止めようと心を凝らしても、刻一刻、コピーののび太の存在は過去へ過去へと押し流されていく。

 

 

 

 神成さんは戸惑っていた。散乱した窓硝子の後片付けと庭仕事も一段落付き、そろそろ夕飯の支度にでも取り掛かろうかと、縁側の沓脱ぎに足を掛けたその時、塀の向こうからがなり込んできた断末魔。何事かと表に飛び出すと、空き地の真ん中で二つの影が寄り添っている。暗がりの中、眼を凝らして良く見れば、二つの影の一つが、日の入り前にボールを取りにきた御下げの子だと気付いて、自分でも知らず知らずの内に二人の前へと進み出ていた。そして、蹲っている二人と同じ眼の高さにまで屈み込んでみたは良いが、こう言う時の子供の扱いに慣れていない事もあり、舌の先が痺れて言葉に迷う。

 「どうしたんじゃ二人共、大きな声を出して。何があったのかは知らんが、家の人も心配している頃じゃろ。さあ、さあ、こんな処で蹲ってないで。家はどこなんだい、お嬢ちゃん。」

 起き上がるように促しても、ジャイアンと静香の心には遠く及ばず、自分の手に負える代物ではない事を思い知らされて、神成さんは更に間の悪い深みへと填り込んでいく。神成さんは不甲斐ない自分に頭を抱え、どうしたら良いものかと体を起こして周りを見回した。すると、見覚えのあるサッカーボールが、女の子の直ぐ脇に転がっているではないか。眼鏡の男の子の代わりにボールを取りにきたこの女の子と、入れ違いで遣ってきた眼鏡の男の子、そして、そのボールを脇に泣き崩れる二人。神成さんはこのボールを巡って何が起こったのか全く見当も付かなかったが、ただただ二人の流す涙が愛おしく、気難しく張り詰めてばかりいる頬を微かに緩めて、小学生離れした肉厚のジャイアンに腕を回した。

 「さあ、さあ、何時までもこんな処にへたり込んでいても仕様がないだろうが。ほら、男だったらもっとシャンとせんか。さあ。」

 手荒な物言いとは裏腹に、久方振りに触れる人肌の温もりに手が心が震える。雷親父という偽りの仮面を被り初めてどれ位になるだろう。気が付けば、独り屋敷に引き籠もり、世間に臆する自らを欺いて、街の子供達に当たり散らす日々。それが今、この二人を前にしては、何に向かって目くじらを立て、意地を張り、怯えていたのか判らなくなってくる。神成さんはジャイアンの図太い胴回りに腕を持っていかれそうになりながらも、そのズシリとした手応えに人を支える喜びを思い出し、噛み締めた。

 「のび太が、のび太が。」

 ジャイアンは尽きせぬ涙を濁流させながら、姿無きのび太を探し求めている。神成さんはその誰とも知れぬ名前を聞き付け、

 「んっ、何、どうしたんじゃ。そのノビタとか言うのがどうかしたのか。」

 ジャイアンの顔を覗き込むと、そこで初めて、自分が抱えているのが、日頃空き地で騒いでいる子供達の中でも、一番手を焼かされている悪童の元締めである事に気が付き、強かに肝を潰した。何故なら、今までに星の数程懲らしめてきた子供達の中でも、神成さんの拳を貰って涙を見せなかったのは、今自分の腕の中で正気を逸しているただ一人。どんなに力ずくで言って聞かせてもへこたれず、とんでもない悪さをほぼ毎日のように繰り返すその姿を塀越しに眺め、苦々しい言葉を吐き捨てては、その実、末頼もしいと言う想いを抱いていた。神成さんはこの悪童が正体をなくす程の何があったのかに想いを巡らし、今まで自分の振り回していた拳の軽さが身に滲みて、何処か奇妙に清々しく、込み上げてくる可笑しさの余り再び頬が緩んだ。張り詰めていた夜気も俄に息を吹き返し、再びその重い腰を上げようとしている。慌ただしい物音が神成さんの肩越しに聞こえきた。振り返ると何事か大声で捲し立てながら駆けてくる人影が、薄墨で透かした空き地の外れに現れた。神成さんは自分の出る幕ではない事を悟り、ジャイアンに回していた腕を解き、後退りにその場を離れた。

 「静香ちゃん。」

 ドラえもんの手を取り一直線に飛んできたスネ夫は、蹲っている静香を抱き起こし、その手の中で萎れている人形を眼にして息を呑んだ。

 「もしかして、これが・・・・。」

 頭では判っていても、心で受け止める事の出来ないスネ夫に、人形の抉れた脇腹が有りの儘の結末を雄弁に物語っている。静香が泣き窶れた顔を上げると、スネ夫の後を追い掛けてきた本物ののび太が現れた。望外の出来事に垂れ込める憂苦を振り払い、涙に沈む瞳が弾けた。

 「来てくれたのね、のび太さん。」

 それまでの諍いを一切咎めぬ静香の穏やかな物腰と、粉々に泣き崩れているジャイアンに、本物ののび太は我が眼を疑い、何から手を付けて良いのか判らず錯綜する意識の片隅を、ドラえもんに飛び付いて揺す振るスネ夫の喚き声が擦り抜けていく。

 「ドラえもん、どうやったら、又、この人形を元ののび太に戻せるの。ねえ、ねえ、何とかしてよ、ドラえもん。」

 執拗に喰い下がるスネ夫に、ドラえもんは眼を合わせる事すら出来なかった。それまでにも未来の道具を使いこなせずに様々な失敗を繰り返してきたが、今回だけは訳が違う。本物ののび太にもう一度人形のスイッチを押させた処で、同じ過ちを繰り返すだけだ。未来の道具がどんなに優れていても、真実をネジ曲げる事は出来ない。ドラえもんが途方に暮れていると、静香はコピーの人形を慈しみながら優しく諭した。

 「良いのよ、ドラちゃんも、スネ夫さんも。もう終わったの。もう、終わったのよ。」

 静香の頬の煌めきは随喜の涙に変わっていた。コピーののび太を看取った眼差しが、コピーののび太を巡る激情と慚愧を包み込んでいく。多くを語らずとも溢れる静香の想いに触れて、スネ夫は肩の力が抜け、ドラえもんから手を離した。コピーののび太が振りまいた泥まみれの微笑みが脳裏に蘇り、陽の落ちた更地が意味と光に満ちていく。何も嘆く事はない。本の一時の明滅に等しいコピーののび太の存在も、又、然り。その事を伝えなければ。ジャイアンの嗚咽が聞こえる。いまだ失意の底で身悶えるジャイアンに伝えなければ。コピーののび太がのび太である事を全うしたその輝きを。スネ夫はジャイアンの波打つ背中に眼を細め、歩を踏み出そうとした。すると、熱い物が小鼻の脇を滑り降り、唇に達して舌の上に広がった。足を止めて夜空を仰ぐと滲む星明かり。知らぬ間にスネ夫の頬も涙を湛えて煌めいていた。自分でも何故泣いているのか判らない。止めどなく迸る幾筋もの涙越しに、本物ののび太がフラフラと前を横切っていくのが見える。ジャイアンの蹲った背中とのび太の背中が重なり、のび太がジャイアンの肩に腕を回した。震える頬を両手で覆い、更地に膝を突くスネ夫。ただひたすら心が啓かれていく。

 「ジャイアン。」

 のび太は恐る恐るジャイアンに声を掛けた。しかし、ジャイアンは更地に額を擦り付けたまま、見向きもせずに呻き続けている。のび太はこのままではジャイアンが壊れてしまいそうな気がして、ジャイアンの肩を激しく揺す振り声を張り上げた。

 「ジャイアン、しっかりしてよ、ねえっ、ジャイアン、ジャイアンってば。」

 夜の帳を劈くのび太の叫びにジャイアンの嗚咽が掻き消され、辺りが静まり返った。徐に振り返るジャイアンの泣き腫らした瞳がのび太を捉えてピクリと引き攣った。握り込んでいたのび太のシャツが宙を舞って落ち、震える指先がのび太に向かって伸びていく。そして、のび太の腕を掴み、脚をさすり、脇腹をなぞって、間違いなく目の前に存在する事を確かめると、のび太の腰に頭から抱き付いて再び泣き崩れた。

 「のびだ、大丈夫なのが、おばえ、がらだ、大丈夫なのが、何どもないのが。」

 のび太の背中に爪を立てて掻き毟りながら、涙で涙を洗うジャイアン。心が心にぶつかってくる。ジャイアンの痛みと苦しみが津波となってのび太の骨の髄を駆け抜けていく。その衝撃に体の自由を奪われ、のび太はただ突いて出る言葉に全てを任せた。

 「うん、大丈夫だよ、ジャイアン。もう大丈夫だから。安心して。」

 何故こんな事を口走っているのか自分でも判らない。何の償いにも慰めにもならないと判っているのに、のび太はもう一人ののび太を演じていた。ジャイアンの両腕が更に強く強くのび太の体に心に食い込んでくる。

 「ぞうが、よがっだっ。よがっだああアァァァあア。」

 のび太は腰から砕け落ちそうになるのを必死で堪え、前のめりにしがみついてくるジャイアンを支えている事しか出来ない。ジャイアンはドラえもんの存在に気が付くと、今度はのび太の手を離れてドラえもんに武者振り付き、深甚なる謝意を降り注いだ。

 「アガーア、ドラえぼん、ドがえもんが助げでぐれだんだな。アリガドオおおゥ、アリガドオォォおおう。」

 独り鳴り止まぬジャイアンの歓喜にドラえもんは困り果て、横目でチラチラとのび太に助けを求めた。しかし、のび太は体の節々に残るジャイアンのゴツゴツとした野太い腕の感触に痺れ、上の空で立ち尽くしている。ジャイアンの涙は本物だった。ジャイアンをこうまでさせたコピーののび太も又、本物だった。本物ののび太だった。自分はジャイアンの涙に値せず、懺悔の言葉を並べる事すら小賢しい。のび太は次第にこの場から逃げ出したい衝動に駆られた。自分に本物ののび太を名乗る資格はあるのか。ジャイアンの前で本物ののび太を演じる事は出来ても、本物ののび太である自信はない。のび太は一歩後退った。そして、背後に微かな視線を感じた。振り返ると静香の膝の上に座しているコピーの人形と眼が合った気がした。鼻の代わりにスイッチのボタンだけが付いている球面の頭部が笑って見え、コクリと小さく頷いた。

 のび太達の後を追って駆けてきたのび太と静香のママの声が遠くに聞こえ、土管の脇で様子を見守っていた神成さんは徐に踵を返した。満更でもない。万感の星空と子供達の涙に、神成さんはそう独り呟いた。犯した過ちの全てが今はただ懐かしい。時は透き通る水だ。

 


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