物事には終わりがある。それは誰もがわかっていることだけど、終わりを見据え続けることはとても難しいことだ。だから終わりが訪れたとき、人はそのどうしようもなさに困惑してしまうことがある。アタシもその一人だ。
悲しいのに、これで終わるという実感はあまりない。アタシとトレーナーさんの契約も、ついさっき終わってしまったというのに。
少しぼーっとしていたアタシの前で彼はすこし身なりを整え、背筋を伸ばして何か言おうとしている。
アタシと彼の時間もこれで終わる。そのことがわかっていながら、アタシ達の会話はいつも通りに行われた。



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この作品は元々Pixivに投稿していたのですが、それをハーメルンの方にそのまま移したものになっていますのでハーメルンの作法に則っていない上、場面転換の描写が適当になっている可能性があります。それでも良ければ読んでいただけると幸いです。
厳しい意見でも大歓迎ですので感想の方いつでも待っています


第1話

「改めて卒業おめでとう、ネイチャ」

 

 

「ありがとうございます、ってこうやって真面目に向き合うの、なんかちょっとハズイな~」

 

「ははは、言ってて俺も思った」

 

 

今日やるはずだった作業があらかた終わって一息ついていた時のこと。夕陽が照らす部屋の中でトレーナーさんはそう言って少しはにかんだ。 アタシの卒業式があったのは昨日のことで、彼からの祝いの言葉はこれで二度目だ。

 

静かなトレーナー室にはアタシと彼の二人きり。レースの予習に復習、打ち合わせとかをするときはいつもこうだったなと振り返る。

 

こうしてトレーナーさんと向き合うのもこれで最後だった。

 

 

「そして引退もおめでとう……と言っていいのか分からないけど、とにかくお疲れ様」

 

「そこは普通におめでとうでいいんじゃないですかねー。幸い大したケガもなく終われたワケだし」

 

 

そっか、と彼は微妙な表情をしてそれから少し黙ってしまう。彼の表情からは残念がる気持ちが露骨にうかがえて、なんだかそれがとても嬉しかった。

 

引退についてはもう何度も話し合った上のことで、既に引退レースも終えてしまっているというのに仕方のない人だなぁとアタシはそう思った。

 

 

本当の本当に、仕方のない人なのだ、この人は。

 

イマイチぱっとしないアタシを見出して、ずっと応援してくれて、信じてくれた。キラキラしたウマ娘になりたいというアタシの隠した夢を簡単に暴き出して、それを全力で支えてくれた。こんな面倒なアタシの隣にずっと居続けてくれた。そんなこんなで数えだしたらキリがないくらいには仕方のない人だから、アタシの引退を最後の最後まで惜しんでくれることは想像に難くなかった。

 

「もー、そんな顔しないでって。ネイチャさん、結構いい結果出せたと思うんですケド」

 

「あっ、いやネイチャの戦績に不満があるわけじゃないんだ。ていうかあるわけないしそんなこと言う奴がいたなら張っ倒してやる……ってそういうことでもなくて。……ただちょっと、寂しくなるなって思ってさ」

 

事前に用意していた言葉を放つと、彼はあたふたしたように喋ったのち少し語気を強め、最後は尻すぼみになりながら言葉を切った。しんみりとしてしまった彼が紡いだ言葉は私が望んでいた言葉そのもので、思わず頬が緩みそうになる。

 

彼といるとこの緩みをひた隠しにするのも日常茶飯事で、もはや慣れたものだった。

 

「ネイチャも遂に卒業かぁ……」

 

天井を仰いで、二日くらい前にも聞いたセリフを彼はしみじみと吐く。遠い昔を見ているような彼は彼自身の卒業を振り返っているように見えて、それに少し興味が沸いた。

 

「ねね、トレーナーさんは卒業した時どんな感じだった?」

 

「どんな感じって、曖昧な質問だなぁ。うーん……正直、卒業式の日って意味ならあんまり覚えていないんだ」

 

「ええ!覚えてないの?卒業って結構大イベントだと思うけど」

 

何気なくした問いに返された答えはアタシの予想を裏切るもので、思わず声のボリュームを上げてしまう。

 

ぽわぽわしているように見えてその実熱血なところもあるトレーナーさんなら卒業式に大号泣していてもおかしくなさそうなのに。泣きすぎて記憶がないとか、そういうことなんだろうか。

 

「うん……なんだか卒業っていつも唐突な感じがして。いつもどおり学校に行って、席について友達と話したりして、それからキッチリした服を着た担任の姿を見て、ああ今日は卒業式だったな、って思い出すような感じ。当日になっても自分が卒業するってことの実感がなかったな。だからかな、周りが泣いている中、俺は泣くこともできなかったんだ」

 

確かに、彼の言っていることが分かる気もする。

 

卒業式の日程を教えられても、予行練習をしてもどこか上の空というか、卒業が自分には関係のない出来事のように思えて、慣れ親しんだ友人とこれからも一緒に居られるという根拠のない幻想が頭のどこかにあった。だから彼が今言ったように泣くに泣けなかったという話も良く分かる。

 

ホントにもうここにいつもみたいに通えないの?

ホントにここで仲良くしていたみんなとはお別れなの?

 

長い長い卒業式の最中、アタシもそんなことを考えていたことを思い出した。

 

まあアタシはテイオー達に釣られてワンワンとらしくもなく泣いてしまったけど。

 

「式が終わってしばらくしてから、アイツとはもう前みたいには会えないんだな、とか思ったりしてさ。それでなんとなく寂しさを感じてやっと自分が卒業したことを実感したかな。だから俺にとっての卒業の印象って物寂しいとかそういった類のものになる」

 

 

「あーわかるかも。やっぱ卒業式ってどうしても悲しくなっちゃうよね」

 

 

「うーん……悲しい、というよりやっぱり寂しいかな。卒業したって別にもう友達と永遠に会えなくなるって決まった訳ではないし。それに卒業って新しい場所に向かう契機でもあるから悲しいことだと思ったことはないかな」

 

意外なところを訂正したトレーナーさんの言葉にアタシは目を見張る。普段は割と細かいことは気にしないはずの彼が、一体どうしたのだろう。

 

らしくない彼の言葉からは彼の哲学というかなんというか、人生で培ったものが垣間見えるような気がした。 当たり前の話だが年上の彼はアタシより多くの出会いや別れを経験しているはずで。それだけにそういったことに対する向き合い方にはなにかこだわりめいたものがあるのかもしれない。

 

いずれにせよ彼の言葉は今のアタシにはイマイチピンとこないものだった。いつか分かる日がくるのだろうか?

 

 

「でもやっぱり当たり前のように近くにいた存在が離れて行ってしまうと空白を感じるっていうか物足りない気がして。それに小学校はまだしも中学と高校、大学は卒業したら会わなくなる奴が多いからね、いくら連絡を取ろうといっても前みたいにはいかないし」

 

「あー、やっぱりそうだよねぇ。アタシもちょっと不安だなー。みんなとこれからも仲良くしたいけど、やっぱり今までみたいにはいかないだろうし」

 

「うん、そうかもしれないね。……でもネイチャなら大丈夫だよ、きっと」

 

「『きっと』ってトレーナーさんも適当だなー」

 

アタシがそう言って笑うと、彼もつられたように笑った。

 

 

「ネイチャなら大丈夫」、アタシが二の足を踏んだり自信を無くしていた時に彼がよくかけてくれた言葉だった。

 

 

何の根拠もないはずだが、彼が言うとなぜだかそうかもしれないなと思え、勇気づけてくれる言葉。適当のように聞こえるが、きっと正しい言葉なんだとも思う。未来のことなんてどうなるか分からない。だから、きっと大丈夫だと信じて進むことは俯いてうじうじするよりもずっといいんだ、と彼はいつもそう語りかけてくれていた気がする。

 

 

もしかしたら何の考えもなく、ただ単にアタシのことを底抜けに信じてくれていただけかもしれないけど。

 

「……おっと話し込んじゃったな。そろそろ日が落ちそうだ」

 

 

「ホントだ、思ったより時間経ってんね」

 

 

おもむろに横を向いた彼の視線を追うようにして窓の外を見やる。気が付くと夕陽はその姿の大部分を隠しており、辺りは夜の様相を呈し始めていた。

 

 

今日のメインである契約終了やその他諸々の手続きは既に済んでいるので、あとは最後までロッカーに残していたタオルやシューズをアタシの方で片づけてしまえばそれで今日の予定は完全に終了だった。

 

「しまったな、手続きが済んでからの話についつい熱が入った」

 

 

「まだ寮の門限まで時間あるし大丈夫だって。それにトレーナーさんとの話、アタシも楽しかったし」

 

長い時間腰かけていたソファーから立ち上がり伸びをしているトレーナーさんを尻目にアタシはロッカーへ向かい、あらかじめ持ってきたバックに残した物を詰めていく。ここにあるのはどれも思い出のある品だ。長年使って少しくたびれたタオルに二代目のスクイズボトル、彼がアタシのために折ってくれた大切なトロフィーの内のここに忍ばせておいた一つ。一つ一つが内包する思い出に浸りながらアタシは滞りなく片付けを終え――

 

 

「うわっ!とぉ……びっくりしたぁ」

 

「ネイチャ!大丈夫か?!」

 

「あーはいダイジョブデス。ちょっと蹄鉄落としちゃっただけだから」

 

「そっか、びっくりした。怪我はないんだね?」

 

「うん、本当に大丈夫。いやーすいませんねこんなドジして。アタシらしいっていうかなんていうか……」

 

どうやらシューズにしっかり蹄鉄がハマってなかったみたいだった。

 

ドンッ!と蹄鉄が床に落ちた音に反応したトレーナーさんはこちらの無事を確認するとホッと胸を撫でおろしていた。申し訳なく思いつつ落とした蹄鉄を拾う。僅かに土のにおいがするそれは良く見慣れたものであり、これ自体には大した思い出もない物だ。蹄鉄は消耗品なのでこの一つに思い出がないのも無理はない。

 

よくよく見るとコイツも結構限界が近いことが分かる。もうあと少しでもこれを付けて走れば使い物にならなくなってしまうだろう。

 

「むぅ」

 

アタシ一人にしか聞こえないような小さな声で唸り声をあげる。そう、逆に言ってしまえばこの蹄鉄はあともう少しだけ使う余地があるのだ。

 

これはいけない、非常にいけない。

 

常日頃からもったいない精神を発揮しているこのネイチャさんにとってこの事態は見過ごせるものではなかった。今までも蹄鉄は安全には配慮していたとはいえ完全にダメになるまで使い続けたし、最後の蹄鉄だけ微妙に使いきれなかったというのはモヤモヤしてしまう。

 

ちらりともう一度窓の外を見る。外はほとんど夜になっており、門限も着実に近づいている。

 

 

どうしようか迷った末、勇気を出して決心を固める。

 

「……よし」

 

 

声を出して自分を鼓舞する。慣れないことをするときはいつだって緊張するもので、声が上ずっていることを自覚する。トレーナーさんの方を見ると、こちらの視線に気付き目を合わせて、何か言いたげなアタシに向けて小首をかしげている。

 

 

アタシは

 

「あ、あートレーナーさんや、ちょっとお願いがあるんですが――」

 

 

と、滅多にしないわがままを敢行した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

冷たく澄んだ空気が刺すように頬を撫でる。心拍数は高まり、体中に血が巡る。滴る汗を置き去りにして、アタシはいつものように走る。

 

 

「はっ、はっ、――ふっ!」

 

 

息を整え、一段階姿勢を前に倒してスパートをかける。聞こえる音は心臓の鼓動のみ。肌に突き刺さるような空気は体の熱を冷ますのにちょうどよく、煩わしさが一転して心地よいものになる。

 

ウマ娘としての性なのか、やはり走るのは楽しい。レースで勝つ喜びも格別だが、ただ楽しむために走るというのもいいものだ。

 

トラックを自分のペースで何周かした後、スタミナが切れたので芝に寝転ぶ。目に映るのは満天の星空……というわけではなかったが、光り輝くいくつかの星に向けて手を伸ばす。走ったことにより僅かに赤みがかった手は、もちろん星に届くべくもない。でも、その行為が無駄ではないことを今のアタシは知っていた。

 

「――――」

 

 

思えば星に手を伸ばし続けたような日々だった。キラキラしたいというそれだけの動機で届きそうもない背中を追った。何度もくじけそうになる心を誤魔化したり励まされたりして前を向いた。URAという大舞台でテイオーに勝てたのだってアタシに才能があったとかそういう話じゃなくて、ただずっと諦めないで勝つために努力し続けたからこそ成しえたこと。

 

 

星に手を伸ばせば届くなんてことは言わない。けど星に手を伸ばし続ける限り、届く可能性はきっとあるんだ。

 

「なーんて、ちょっとドラマチックなネイチャさんなのでした」

 

ひとりごちてらしくない思考から脱却する。卒業によって思ったよりもセンチメンタルになっているのかもしれない。

 

息も整ってきたのでそろそろ起き上がりますか、と思ったところで視界いっぱいの夜空に何かが映り込んだ。

 

 

トレーナーさんだ。

 

「お疲れ様。はいこれタオルとドリンク」

 

 

伸ばしていた手を彼に引かれ、上体を起こす。こういう気遣いは素直に嬉しい。用意のいい彼に感謝してそれらを受け取った。

 

「やっぱり俺、ネイチャの走ってる姿、好きだな」

 

「……そりゃドーモ」

 

誰もいない芝に目を向ける彼は、走っていたアタシの残滓を見ているよう。

 

この人のこういうところは正直どうかと思ってしまう。今後、アタシ以外の娘を担当した時が心配だ。女の子にこういうことをポンポン言っているといずれアタシみたいに勘違いしてしまう娘が出てしまいかねない。

 

「わがまま、聞いてくれてありがとねトレーナーさん」

 

「いいさ、大したことはしてないし。それにネイチャがわがままを言うのは珍しいしね」

 

アタシがさっきまで走っていたトラックは本来もう利用時間をとっくに過ぎている。蹄鉄をどうしても使い切りたいというアタシのわがままを通してくれたトレーナーさんには本当に感謝しかない。許可を出してくれたたづなさんにも今度お礼を言わなくちゃいけないな。幸い卒業したとはいえまだもう少し寮には残るので機会はあるはずだ。

 

「蹄鉄の方はどう?」

 

 

「うーん……うん、ばっちり使い切れてるっぽい」

 

シューズを脱いで蹄鉄を確認すると納得のいく程度まで使い切っていた。蹄鉄の使い込み具合にはうるさいアタシでもこれ以上は使えないと思えるくらいに。

 

こういう目利きもこの先役立てる機会がないと思うとなんだかちょっと悲しい。

 

「それじゃ、行きますか」

 

 

「うん、行こうか」

 

立ち上がり、声を掛ける。アタシたちが向かう先は一つしかなかった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

そこへ向かう道中、お互い無言でいた。何か話したいような気もしたが、なんとなくこのまま彼と静寂を楽しむのも悪くないと思った。

 

「…………」

 

今のアタシたちの関係って一体何なんだろうと、ぼんやりと考える。実のところ契約終了の書類の手続きは完了しているので、厳密にいうともうトレーナーとその担当ウマ娘ではないのだ。でもこの人は今もアタシのわがままに付き合ってくれているし、無関係の他人とは思いたくない。友人……でもない気がするし、やっぱり恩師ということになってしまうのだろうか。

 

少し前にした会話を思い返す。卒業したら慣れ親しんだ友人との交流は少なくなるという話。友人でそうならば、教師はどうなるだろう。よっぽどのことがない限りいくら恩師とはいえ連絡を取ることなんてないだろうし、まずその理由がない。

 

隣を歩く彼とも、そうなってしまうんだろうか。アタシがトレセン学園を離れてしまったら、もうこうして一緒に歩くこともなくなってしまうのだろうか。

 

それは…………ヤだな。

 

「あのさ」

 

 

「うん?」

 

静寂を破る。考えるよりも先に口が動いていた。言うことなんて何も考えていなかったのでしどろもどろになりながら言葉を紡ぐ。

 

伝えたいことはハッキリしてるんだ。勢い任せでいいから頑張れ、アタシ。

 

「その……アタシがトレセンから離れてからも、こうして話してくれる?えっと、そんな大したことがしたいワケじゃなくてさ、今みたいにこうやって何でもない感じで、また話せたらな―なんて思ったりして…………その、どう、かな」

 

 

「ネイチャが望んでくれるなら俺はいつだって大歓迎だよ」

 

「そっか!…………なんか、ごめんね急に。迷惑だったら言ってね」

 

 

……言い終えてからやってきた冷静さは、十秒くらい前のアタシにこそ必要なものだった。

 

さっきまで黙っていた彼にとってはどう考えたって急な話だったろうし、そもそも元担当ウマ娘がこんなことを言うこと自体が重いと思われたっておかしくない。それに彼だって仕事があって忙しいはずで、アタシがその邪魔をしてしまうことだって十分あり得ることで――――

 

 

「俺もネイチャと話すのは楽しいし、君がどこか遠くへ行ってもまた会ってくれるなら嬉しいよ。迷惑とか、そういうのはあり得ない」

 

「――っ、そうデスか」

 

「うん、そうだよ」

 

何でもない風に彼はそう言い切る。かなり凄いことを言っている自覚があるのかないのか、長い間彼と一緒に居たはずのアタシには未だに分かりかねる。

 

 

それきり一分近くお互いに沈黙を貫いてやっと目的地に着いた。空気が冷たいことが幸いし、さっき彼に火照らされた顔は幾分かマシになっていた。互いに前を向きながら歩いていたからよかったものの、あそこで顔を見られていたら軽く死ねていたなと思いながら、アタシたちは蹄鉄でできた山の前にいた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

トレセン学園では使えなくなった蹄鉄はリサイクルされるため特定の回収箱に出されることになっている。

 

山のように積まれている蹄鉄なんて普段の光景そのもので、特別なことは何もないはずなのに。いつもと変わらないはずの無数の蹄鉄が今のアタシには夢のカケラみたいに思えた。

 

 

蹄鉄を使い切るって、実は結構大変なことだ。みんな当たり前のようにポンポン消費していくから忘れてしまいがちだけど。

 

 

素材は決して柔なものではないし、走る場所も芝かダートで硬い地面を駆けているわけでもない。走ることで少しずつ摩耗したり歪んだりするそれを沢山沢山走って使い切る。ただひたすらに自分の夢を掴もうとする過程で。

 

 

だからここにある蹄鉄は誰かの努力の証拠であり、誰かの夢から零れ落ちたもの。アタシがさっきまで使っていたコイツも、きっとそういうものなのだ。

 

「どうするネイチャ?取っておくか?それ」

 

「ううん、大丈夫。……ちゃんとお別れするから」

 

蹄鉄を前にしてしばらく動かなくなった私を見てトレーナーさんはそう言ってくれたが謹んで辞退する。最後くらい丁重に扱おうかと考えたが、これだけ特別扱いするというのもなんだか違う気がしたし、それになんでだかアタシはコイツを手放した方がいいような、そうしなければならないような確信があった。

 

 

なんでだろう?

 

 

謎の確信に背中を押され、アタシはレース人生最後の蹄鉄を手放した。

 

軽めに放った蹄鉄は空中でわずかに弧を描き、山の一部と化す。

 

カチャカチャと甲高く、騒々しい金属音が夜の静けさを破って辺りに響く。ここは寮からは離れているので誰かの迷惑になるということはないはずだ。多分。

 

 

風情も何もない、ただの金属音。アタシはこの音が好きだ。この音を聞いて蹄鉄を使い切るまで走りこんだ自分の努力を実感し、次の蹄鉄でも頑張ろう!とか思ったりして。走った分に応えてくれたこの音は、小心者で自信のないアタシにとって結構心の支えになってたりした。

 

今日もいつも通り、いつも通りの音のはずだ。なのにどうしてこんなに心を揺さぶられるかって言うと、アタシがいつも通りじゃないからだ。

 

 

いつもアタシを励ましてくれた音が、今は残酷なゴールのファンファーレのように聞こえた。

 

 

アタシにもう次の蹄鉄は必要ない。アタシはレースを卒業した。わかってはいたけれど、もう、終わりなのだった。

 

 

手から離れた蹄鉄はもう他のと混じってしまっていた。もうどれがアタシのだったのか分かんないなと思ったが、頭のどこかではそんなこと絶対あり得ないとも思っていた。

 

 

色も形も大きさも、決して全部覚えているわけではないけれど、でもアタシにならあの蹄鉄を見分けられる自信があった。

 

きっとそんなものただの意地にすぎなくて、実際分かるはずもない。

 

 

でもきっと、アタシになら。だってあれはアタシの夢のカケラなんだから。

 

 

 

なんて青臭い思考の最中。ふと、このカケラたちの行く末が気になった。この後一体どこへ行くのだろう?跡形もなくなってしまうのかな?

 

少し考えて、ここがリサイクルのための蹄鉄回収場だったことを思い出す。ああ、ヤだな。いくらネイチャさんでもまだボケたくはないんだけど。でもそっか『リサイクル』か、へぇ――

 

 

――ああ、そっか。そういうことなんだ。

 

唐突に、なんで最後の蹄鉄を取っておかずに、ここで手放そうと思えたのかが分かった。

 

 

アタシが使ったどの蹄鉄も、みんなが使ったどの蹄鉄も、その全てが誰かの夢のカケラだったんだ。

 

 

アタシのものだったあの蹄鉄も誰かの蹄鉄に生まれ変わる。そうやって夢は受け継がれていく。誰かの夢を知らぬ間に受け継ぎ、そして誰かにまた夢を託していく。

 

 

アタシが卒業しても、残るものもあるんだ。アタシが蹄鉄を手放したことで、誰かにアタシの夢を託せたんだ。

 

 

そうだったらいいな、とアタシは思う。

 

 

気づけば泣きたくなるような悲しさは消えていて、でもうずくまりたくなるような寂しさは消えてくれなかった。だがそんなのは当然だ。アタシにできたこの胸にぽっかり空いた大きな穴は、アタシのレース人生そのものなんだから。 空いていてくれなきゃむしろ困るってもんだ。

 

「じゃ、帰ろっか」

 

「うん。寮まで送るよ」

 

「ありがと」

 

夜空の下で長い間棒立ちして自分の世界に入っていたアタシを待っていてくれたトレーナーさんは文句の一つも言わなかった。この人のこういうところが好きだ。

 

 

寮までの道、トレーナー室でした話を思い出す。卒業は寂しいが悲しくはない、という話。今なら分かる気がした。

 

卒業は終わりだけど、やってきたことが無駄になるってことじゃない。むしろやりきったからこそ卒業という終わりを迎えられるのだ。途中退場でも、強制終了でもなく。

 

だからこその「寂しいが悲しくはない」なんだ。道半ばで終わることなくやりきった末の卒業だから悲しむことはない。ただそれはそれとしてこれ以上進めなくなることに寂しさを感じる。彼の言っていたことはそういうことなんじゃないかとアタシはそう解釈した。

 

彼の意図していたこととアタシの解釈が同じかは分からないが、それは些細な問題だった。こういうものは人と同じ考えだからいいというものではなく、一人一人が自分自身で見つけ出すからこそ価値があるんだと思う。

 

 

彼はもうひとつ、卒業は新しい場所に行く契機でもあるとも言っていたことを思い出す。

 

新しい場所には何があって、アタシはそこでどうなるんだろう。色んなことを経験して、もっと成長できるだろうか。色んなことに躓いて、ちょっと腐ってしまうだろうか。どっちもいいなと思えるくらいに、アタシはトレセン学園に育てられていた。順風満帆でも前途多難でも、どっちでもばっちこいとは言わないけど、何かを乗り越えて前に進む方法をこの学園は教えてくれた。数多くのライバルや、他ならないトレーナーさんによって。

 

 

アタシはこれからも、色んなことを見て、聞いて、考える。失敗も成功もするだろう。アタシのことだから失敗の方が多いだろうけど、でもそのたび前を見て諦めないで目標へ手を伸ばし続ける。そうして何度も卒業をしながら、人生を歩んでいく。別れと出会いを繰り返しながら、ゆっくりとでも着実に。

 

 

その時隣で歩んでくれるのがこの人ならいいな。

 

 

アタシはいつかは消えてしまう卒業の寂しさを胸に抱えながらそう思って、同じ歩幅で歩いてくれる彼を見た。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「ねぇ、トレーナーさん。やっぱり卒業って寂しいね」

 

 

アタシがそう言うと

 

「そうだね、でもネイチャならきっと大丈夫さ」

 

 

そうやって、彼は返した。


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