祐巳と呉二が話していたほぼ同じ時刻のこと。都内某所のホテルの一室。
「こっちの用はとりあえず済んだわよ……そっちはどんな感じ?」
携帯電話を片手に話す白人女性…背は高くグラマラスな美人であり、見た目はモデルか何かだが、どこか年齢不詳な雰囲気を漂わせていた。
「………ハァ?饕餮の陰気野郎こっち来ているの?」
その美しい相好を思いっきり崩す。
「馬鹿の方の呉と下っ端だけを連れて?……洪?ああ、例の…やられたの?ふぅん、なるほどね」
女は目を細めて、思案のためか、ほんの数秒目を閉じ、
「気取られた…のかしら?」
冷涼な声で女が言うと、電話の向こうで男が、うっ、と声を詰まらした。しかし、女はその声を聞くと、すぐに笑い声を発した。
「ふふ、気取られることぐらい想定の範囲内じゃない。ま、これでどう立ち回るか、よね」
そこで、女はふっと真剣な顔をした。
「おそらく、饕餮はあなたの尻尾を掴むため、わざわざ本拠を離れたのね……ただ日本に来た理由はわからない。何か用でもあったのかしら?」
女は首を傾げた。そして、電話の向こうから帰ってきた答えを笑う.
「それは無いわよ。私が日本にいるなんて、知るわけ無いでしょ。第一、私達はアレの時点で、日本市場から撤退したと思われているわけだしね。ただ、警戒するに越したことはないわね、うふふ」
そこまで言って不敵に笑った。その後、電話のスピーカーから指示を仰ぐ声が聞こえた。
「ん、ああ、なーんにもしなくていいわ、いつも通り。―――こっちで、やっとくわ」
女は詳しく訊ねようとする声を無視して、電話を切った。
「さーて、と、化け物退治でもしましょうか。――――……あ、しまった、ユミのこと聞き忘れていた……」
そう言って女――犯罪組織『和寇』首領代行イリーナ・ワレンチノブナ・デムチェンコはまだ手に持っていた携帯をしばらく見つめていたが、やがて嘆息し、懐にしまって歩き出した。
ただ彼女は気が付いてはいなかった。自分の見通しが甘かったことに。
「ふぅ……」
会社からの帰り、私は途方もないような疲労感に襲われていた。気分も最悪。
すこし、一人になりたい気もするが、自室に戻るまでそれをだれも許してくれない。実際、私の両脇にはボディーガードが固め、ゆったり作られているはずの後部座席が非常に息苦しい。さらに助手席にもボディーガード、運転手もそうだ。
最初は男臭さと元軍人や傭兵という頑健さに顔をしかめていたが、最近では慣れてきた。しかしながら、男嫌いのなの知っていて、こういったタイプの人達を連れてきた、部下――福沢祐麒には、車に乗るたびにちょっとした恨みを持つ。
(それは、わがままだということ分かってはいるのだけど……)
車の外では雨が降っていた。
ヘッドライトが夜闇の中に雨粒を光り照らしているのが、フロントガラスに映っている。
そうそう激しい雨ではない。かといって、優しい雨でもない。普通の雨だ。
でもこういう雨が一番、私を暗鬱にさせる。特にこの上等なシートに腰掛けているときは特に。
いつだっただろうか。こんな雨が、こんな気分にさせるようになったのは……。
――ごきげんよう、お姉さま――
――ごきげんよう、祐巳…タイが曲がっていてよ――
そう言って、私は曲がってもいない妹のタイをいつも直してあげた。それでも決まって彼女は喜んで、彼女の横に結んだツインテールがぴょこんとはねる。それがとても愛おしかった。
私は一度、そんな彼女を失った……そう思った。あのとき…そうこんな雨が―――
――もう、いいんです――
――……聖さま――
――聖さまぁっ――
――祐巳――
――お世話をかけます――
私がいけなかった。私がもっとしっかりしていれば、祐巳を失望させることはなかった。それでも、私がふがいなかったのにも関わらず、祐巳は私を許し、私を救ってくれた。
でもその彼女は突然、私の目の前からいなくなってしまった。
私は何が起きたのかはわからない。あの日、私は急ぎの用があって、車を学校の近くに待たせてあったため、祐巳と校門の前で別れた。そして、その夜、祐巳が家に帰ってきていないことを知った。
私は悔やんだ。あの時、祐巳と別れなければ……!祐巳を車に乗せて送ってあげたら……!どんなに悔やんだところで祐巳は戻ってこなかった。
月日が経ち、年月が経ち、警察はおろか、祐巳の親族や知人・友人も祐巳を諦め始めた。山百合会の仲間も、口には出さないが半ば諦めかけていた。祐巳はもう生きていないんじゃないか、と。例外は私と、あの方ぐらいなもの。
だから私は祐巳を探すことにした。会社を立ち上げ、小笠原の力、情報網を活用し、警察・公安、世界各国の警察機構に接近して、時には非合法な暗部、闇の世界にも手を出した。
そして最近情報を得た。祐巳を拉致するのを手伝った男、洪衛文が情報を売ってきたのだ。
祐巳は麻薬取引の現場をたまたま見てしまった。そして……
私は……どんなことをしても祐巳を救い出す。何を失おうとも。たとえ、それが命だとしても………。
祐巳……あなたは、今どこに……?
深夜、東京近郊の高級住宅街。夜空から溶けだし落ちるように雨が降っている。道はより黒く、まるで深い淵のようである。
雨音をきって、一台の車がさほど速度も出さずに走っていた。黒塗りの高級な外車で、こんなのに乗るのは、政治家か金持ちか、その「道」の人だけである。しかし、それが夜の闇のなかで不思議なほど周囲に混じり合っていた。
ヘッドライトが夜を切り裂いて暗く湿った地面を照らす。水たまりをタイヤが巻き込み、水しぶきを静かにまき散らす。
その変哲もない、退屈な景色が続く―――――………はずだった――
―――……変哲ではない一瞬だけの光景――女が……拳銃を向けていた……。
盛大なクラッシュ音とともに、車体は右へスリップし、反対車線、歩道へ乗り上げ、壁に激突、爆発し炎上した。
女は――祐巳はそれを無表情で見つめていた。祐巳が放った銃弾は、一発目は運転手の眉間を、二発目は右のタイヤを正確に撃ち抜いていた。
祐巳が雨の中激しく燃え、どこぞかの家の外壁を今まさに黒く焦がす炎へと徐々に近づく。すると、炎の明かりに照らされて、その周りに四人居ることが知れた。どれも息があるどころかすでに二人は立ち上がり、拳銃を構えて警戒していた。事故の衝撃で多少の混乱があるか、まだこちらに気が付いていない、それも一瞬のことだろう。後の二人は、一人は女で地面に膝をつき、それをかばうように男が女の前で片腕を広げ、片腕で携帯電話を操作している。しかし、その男の足は変な方に曲がっている。
祐巳は舌打ちした。
(スリップしている最中に主人を庇いつつ脱出したのか。冷静、面倒ね……さっさとすませなきゃ)
一歩一歩、祐巳は近づく。相手もこちらに気づき「銃を捨てろ!」「止まれ、フリーズ!」などと叫んでいるが、祐巳は気にもとめないで近づく。
相手はまだ叫ぶだけで動かない。ただ引き金には指をかけて、いつでも射殺する準備をしてあった。
(ここは日本でしょうが……ふふ)
そうして近づいていって、祐巳が歩道の段差に足をかけた瞬間だった。祐巳が仕掛けた。一気に間合いを詰める。
護衛も面をくらったような顔をしたが、慌てず引き金を引……けなかかった。
「……あ゛?」
護衛の一人は自分の首に刺さったメスほどの大きさの小刀を不思議そうに見つめた後、崩れ落ち、もう一人は無言で地に跪いた。
そして、祐巳は何事も無かったかのように同じ歩調で、『標的』へ近づいていく。最後に残った男が背後の女に逃げるように言っているようだが、そんなことは関係ない。引き金を引けば、男は「逃げてください」という口のまま、眉間から血を吹き出して後ろに倒れた。
ここは……祐巳の、そう、いわば狩り場。番犬を食らう猛獣の狩り場。
周囲の住宅でさすがに電気が点き始めたが、外に出てくる者はいない。様子をうかがっているのか、関わりたくないのか。おそらく後者だろう。
祐巳は苦笑した。
流れ出した血は、降り続く雨にとけて、閉じた側溝の開いた穴から消えていく。
しかし、獲物であるはずの女は怯むことなく、それどころか目の前の残虐な狩人を睨み付けていた。
(変わらない……)
と、祐巳は思った。
(本当は怖くて、怖くてたまらないはず、でも虚勢を張って、何でもないようにすまして、潔癖で高潔で……変わら、ない―――)
ぐらっ―――
足元が揺らいだ・・・気がした。そう―――気がした、だけ。
(……何を動揺する?男たちと同じように小笠原祥子殺るだけ……それだけ)
祐巳は『オガサワラサチコ』を冷たい目で見つめた。そして言う。
「……祥子……小笠原祥子ね?……死んで」
祥子の頭に向かって銃を突きつけた。しかし、祥子はそれに動じなかった、少なくとも表面上は。だが、諦めていない意思を眼光に宿し、その瞳に祐巳は一瞬引き金を引くことをためらってしまった。
そして……祥子のその強い目が大きく見開かれた。祥子がふるえた唇で呟く。
(その名を―――呼ばないで…)
「………祐巳?」
その呼びかけを聞いて、祐巳の身体は目に見えない衝撃を受けて、たじろぎ、半歩後ろに下がってしまった。
「祐巳…祐巳なのね?!」
「ち、違う!私は……」
(なんで、言い訳なんて?!さっさと終わらせればいんじゃない)
「祐巳、心配したのよ。今まで何をしていたの?」
祥子の顔は、明らかに喜色に潤んでいた。祐巳は、その顔に怒りを覚えた。
「護衛を殺されたのに、どうしてそんなに喜んでいるのですかっ?!」
すると、祥子は黙ったが、祐巳は自分の失態に気づく。癖で昔のように敬語を使ってしまった。
「……やっぱり、祐巳なのね」
その静かで優しい声音と瞳に、胸の奥からすごく心地よいわき上がり、それに身も心もゆだねそうになる。しかし、祐巳はそれを振り払おうとした。
(私は何しているの?殺すだけだよ?じゃないと、生きながらえられない。私は生きたい、生きたいの……生き……)
――なんで、そんなにワタシはイきタイの?――
「祐巳っ!」
その懐かしい叱責の声で、祐巳は思考の海から舞い戻った。気づくと、祥子は立ち上がっていた。どちらかの足を怪我しているのか、ふるえる脚で、それでも毅然に立っていた。髪は濡れ、服は泥だけだが、一縷の惨めさも感じさせず、祐巳を見ていた。
祐巳の胸の中で何かが弾け飛んだ。
「………なんで!なんで、恐怖しない?!命乞いをしない?!ワタシをそんな目で見るっ?!!憎い目で、なんで、なんでワタシを、嫌悪の目でワタシをみない?!!!!!」
――違ウ、ワタシハ―――
しかし、そんな絶叫に祥子は微笑をたたえただけだった。まるで、「しかたない子ね」とたしなめる時のように。
「祐巳……お帰りなさい」
「違うっ!!!!」
その後、祐巳は自分が何をしたのか、まったく分からなかった。
―――パン、と雨の中で乾いた音――
―――崩れ落ちる、目の前の影―――
「お姉さま…」
記憶の声なのか、心の中でのおのか、それとも口から出たのか、わからない、つぶやき。
「あ、あれ……?あ?あ……ア…アァァァァァ!!!!!!」
祥子が血を流して倒れている。
(……良かったんだ、これでよかったんだ。よかったハズなのに……なんで、ワタシはこんなにも叫んでいるっ?!)
焼け付くような痛みが全身を駆けめぐった。
倒れまいと必死で張っていた虚栄が音もなく崩れた。
脚が力をなくし、地面へ這い蹲る。
肩に空いた穴から血とともに力が抜ける。それでも祥子は立ち上がろうとした。
――お姉さま…――
――お姉さま――
――――
――祐巳…?――
(私がここで死んだら……祐巳が本当に壊れてしまう。おそらく、私が『あの時』祐巳が来なかったら、そうなっていたように……違うわ、それ以上に!それに―――)
「…ゆ……っ…祐巳っ!!」
祥子は右腕だけ、身体を起こそうとしたが、うまくいかなかった。しかし、なんとか声だけは絞り出せた。
そんな祥子を祐巳は驚いたように見た。
「なんで、生きて……?」
祐巳の唇は震え、凶器で有るべき拳銃を持った手はだらりと虚脱して、うつむいた顔はこわばったように笑んでいた。
「なんで……生きて?……生きているんですか?」
そこで、祐巳はハッと顔を上げる。口を押さえて何かに驚いていた。
祥子には祐巳が何に驚いたかはわからない。
遠くからサイレンの音が聞こえてきた。
「……くっ」
それを聞くと祐巳は、一度祥子に銃を向けたが、その腕に力は無かった。腕が振るえる。そして数秒―――唇を噛みしめ、きびすを返した。走り去る。
祥子は呼び止めようと声を上げ、起きあがろうとしたが、言葉は言葉にならず、四肢に力は入らなかった。祐巳を追いかけたいという気持ちだけ、前に進むが、距離は遠くなる。視界はかすみ、雨音とサイレンの音だけ、多くなり、黒い祐巳の背中が闇に消えると、祥子は意識を手放した。
『……ゆ……み…』
―――せっかく、あなたに会えたというのに……―――