「ごきげんよう」
「ごきげんよう」
霞かかる視界の中で、無垢な天使たちのさわやかな声が響いている。
――これは夢、いつもの夢、ね……それでもいいわ――
「お姉さま」
私はマリア様に手を合わせていた可愛い妹に声をかけた。すると彼女は振り返り、彼女の横に二つ結んだ髪が嬉しそうにはねて、私はとても優しい気持ちになる。
――これは夢じゃなかった……奪われた現実―――
「タイが曲がっているわよ」
私は祐巳の胸元へ手を伸ばす。
「身だしなみはちゃんとしないとだめでしょ」
そうやって、決まって、私は祐巳を楽しそうにたしなめた。タイは曲がっていないのに、それでも祐巳は私に微笑みかけてくれた。
――凄く誇らしかった、私の最高の妹――
そして、霞の中で私は祐巳にほほえみかけた………―――――――――
――――……小笠原祥子ね?……死んで――――――――――――――
(――――――祐巳っ…!)
「祐巳……」
祥子が目を覚まし、最初に見たのは白い天井だった。小笠原本邸の自室ではない。初めは会社の近くに借りたマンションの寝室だと思った。が、様子が違うような気がした。
「祥子……目を覚ましたのね」
「…お姉さま……?」
自分の寝ているベッドの右横の椅子に腰掛けていたのは、祥子の姉、水野蓉子だった。ばっちりとスーツを着込んでいるが、顔はどこか疲れているようであった。
祥子は起きあがろうとしたが、うまく力が入らず代わりに痛みが襲ってきた。蓉子が慌てて、祥子の肩を軽く押さえて、
「無理しないの。あなた、今、酷い貧血状態なのよ」
とたしなめた。
「あ……」
そこで祥子はハッキリと思い出した。帰宅中、命を狙われたこと、護衛が皆殺されたこと、祐巳に会ったこと、そして、祐巳に撃たれたこと。
「行かないと……っ」
祥子は左肩にある蓉子の手を力の上手く入らない右手で軽くはねのけ、起きあがるために必死で力を入れた。左肩に激痛が走り、顔を歪ませたが、何とか半身を起こすことに成功した。
それを唖然と見ていた蓉子は、目を細めて嘆息した。
そのため息を聞いて、初めて思い出したように祥子は横にいた蓉子に言う。
「お姉さま、すみません……」
それを聞いて、蓉子は驚いた顔をして、
「珍しく殊勝ね」
と、言った。蓉子は憂鬱そうに前髪をかきあげて、再びため息をついた。
「そう思うなら、あんまり心配かけないで…」
「………はい。ですが…」
祥子はうつむいて、押し黙った。それを見た蓉子は一瞬だけ哀しそうな顔をした。
「昨日、あなたが病院に運ばれたって聞いた時――」
そこまで蓉子が言いかけたとき、うなだれていた頭をがばっと突然あげ、驚いたような顔をした。
「昨日?」
「……昨日よ。あなたが運ばれてから、そうね、〇時半ぐらいだったから、だいたい十六時間ってところかしら」
蓉子は自身の左腕にある時計を見ながら祥子に告げた。
「……十六時間……ですって……」
自分はそんなに無駄な時間を過ごしていたというのか。せっかく祐巳にあえたというのに…これは初めてきた絶好の、それも二度とないかもしれないチャンス。それを逃してしまう。
祥子は焦燥から唇を噛みしめて、動く方の手を握りしめ、ベッドにたたきつけた。そのあと、力を振り絞って立ち上がろうとした。
それを蓉子が止めようとする。
「ちょっと、祥子?!」
その時だった。
「すこし落ち着こうよ、祥子。せっかく見舞いに来てあげたんだし」
個室の扉を開けて、あの方――佐藤聖さまが困った顔をして、そこに立っていた。
「聖……」
「聖さま……しかし!祐巳が」
「しかし、じゃなくて……。祥子、そんな体でお出かけしても、美人の看護婦さんに捕まるだけだよ。あ、そうそう、蓉子、下に遠藤さんだっけ、刑事さん?来ていて、これ預かってきた」
と、聖がメープルパーラーの紙袋をベッド脇の棚に置いた後、蓉子に大型封筒を渡した。
蓉子は真剣な顔つきでそれを開いて、中身を一瞥する。悲しそうな顔になってふぅと息を吐いた。
その様子を見た聖も顔色を濁らせる。
「そう……なのね?」
「……ええ、『一致』したわ」
蓉子はそういうと、驚くほど真剣な顔で祥子の顔、そして、左肩を見つめた。そのあと、ため息がちに苦い表情を見せて、目を伏せた。
祥子にはその蓉子の行動が何を示しているか分からなかった。
「それは……なんなのですか?」
祥子は酷く嫌な予感にとらわれて、さっきまで病室を飛び出したかったのが嘘のように身体が動かない。左肩が疼き、そっと右手を添えた。
「……あなたが撃たれる二時間ぐらい前、K駅のビル跡地で殺人事件があったのよ。被害者は、中国人、名前は洪衛文……」
「?!」
祥子の顔色がかわった。
「もちろん、知っているわよね」
たしかに祥子はその男を知っていた。祐巳のこと、それに組織のことを会社にたれこんできたのは その男だった。
今日、“保護”のために、部下を向かわせたはずであったが、報告が遅れていた。その男が殺された……自分が襲撃されるほんの二時間前に。それを意味するところは…まさか!
「それで、ね……急遽、その事件とあなたを撃った銃弾、二つの旋条痕を調べてもらったの。その事件…目撃者がいたの、私と聖と加東さん。――……一致、したわ」
祥子はその答えをもう知っているというのに、手が震えていた。祐巳が自分を殺そうとして、傷つけたこと、そして祐巳が人を殺したことを知られたくなかったのだ。だから、その答えは聞きたくなかった。祥子自身が認めたくない事実だったのかも知れない。
なので、祥子は蓉子の口から別の答えが出ることを望んでいた。だが、それと同時に、それはないことを理解していた。そして、望んでいない予想の言葉が蓉子の口から出た。たった一言、静かに。
「祐巳ちゃん、ね?」
と。
「……はい」
祥子はただそう答え、蓉子はただうなずき、聖はただそれを見て涼やかにかたい笑みを漏らした。
静寂が満ちた。ここにいる全員、それが痛かった。
私は暗い部屋にいた。あの場から逃げたあと、思考が頭の中で堂々巡りをして、収まらず、気が付いたらここにいた。懐かしいこの場所に。
――なんで、生きて……?――
――なんで……生きて?……生きているんですか?――
結局……、殺せなかった。
私は何をしているのだろうか。
どうして殺せなかったのだろうか。
ただ殺すだけだったはずなのに……殺せなかった。
今まで、殺してきた土手カボチャどもとどこが違うのか?
何が違う?
どこが!
何が……っ!
人間なんて、簡単に壊れてしまう人形以下のもの。それ以下でそれ以上でもなく、それは等しい。刹那の瞬間に殺すものと、殺されるものがいるだけ。
あの場で私は、殺すもの、だった。
なのに私は。
何故か私は――。
――……生きているんですか(・・・)?――
なんで迷う?
何を迷う?
……殺すだけ。今まで通り、殺るだけ。
いまさら…何で、私は?。
『あの日』から…そう『あの日』。……『あの日』から何もかも変わったはずだ―――――――。
そう私の人生は『あの日』から一変した。
――え?え?!え?なに?――
『あの日』…あの時…あの場所…何が起きたのか、全く分からなかった。お母さんに頼まれた物を買って―――そして近道をした。少し暗い路地裏…声が聞こえた…怪しげな男たちがいた…そこで、男たちが何かを交換――今思えば、麻薬か覚醒剤の類だったのだろう――怖くて逃げようとしたら、目の前の黒い影…腹部に衝撃、視界は暗転した。
この瞬間だ、私が闇へ堕とされたのは…。温室で育てられる薔薇では居られなくなったのは…。そして、世界ほとんどが温室ではないことを知ったのは。
次に目覚めたのは、言いようのない酷い感覚によってだった。実に酷い感覚――下腹部の……表現しようのない、焼け付くような激痛を感じた。そんな痛みは味わったことがなかった。それで意識が戻ってしまったのだ……戻らない方が良かったのかも知れない。何が起きているのか、わからない、わからないことだらけだった。朦朧とした意識と明らかな痛み、不安と不快感……その中で私が見たのは…知らない男と…私から冗談のように・・・ 出して…入れられる…―――モノは……――――――
この時、私は自分の中で壊れる音を聞いた
――――――ぐちゃり―――
と………。
そして、絶叫した―――――――
『あの日』……私は今までの人生と純潔を奪われた。それに心も徐々に……。
『あの日』から数日、船に荷物のように乗せられて――いや、実際、荷物であったのかもしれない――上海に連れてこられた。その日のことは覚えていない。船中では食事も排泄も満足にさせてもらえなかった。……犯されないことだけが唯一の救い、といえば救い――おそらく『搬送先』がすでに決まっていたためだろう――だった。なんの慰めにもならない救いだったが。
そこで先代の『蚩尤(しゅう)』のボスに貢がれた。その時、私は自分が『者』ではなく『物』なんだということ知った。自分がその時、何を感じたか覚えていない。
ボスは良く言えば恰幅の良いおじいさん、悪く言えばしわだらけの肉のかたまりだった。くぼんだ目に、暗い光…年の割に精力と性欲だけは旺盛だった。そこで、私は精液のゲロ箱のような扱いをうけた。最初は抵抗した。しかし、暴力を加えられるたびに私は心を失っていった。
人間と家畜、その境界線はどこにあるのか?最初はそう自嘲した。しかし、そんなこともしだいにどうだって良くなる。どうせ『物』なんだから。
それが一年ぐらい続いた。
その生きているのか、死んでいるのかわからないような生活――いや、あんなのは生活じゃない、単なる時間だ――が終わったのは、あかい…赤い…紅い光景――絵に描いたようにまさに惨劇によってだった。
私に近づく男、その男の手に握られた拳銃と短剣は、あのクソみたいな老人と私と同じゲロ箱どもを殺戮したモノ。私は知っていた、その男の名を――饕餮―――その名の通り妖魔のような男。
そして、この男は私を殺すだろう、そう思った。
死ぬのは怖くなかった。もうこれ以下はなかったから。
しかし、饕餮の牙が私を貫くことはなかった。
なぜか私だけは殺さなかった。
そして、私は安堵した。死ぬことはいとわない、むしろその先にある絶対の安寧、それが愛おしかった。しかし、わたしはその衝動と矛盾して、私は生きたかった・・・死にたくない、のではない。生きたかったのだ――先にあるのが、この汚濁した生き地獄と同じだとしても。
饕餮はそんな私に選択を与えた……ゲロ箱として男の道具として生きるか、人殺しとして他人を対価として生きるか、それともやはりいっそ楽にここで死ぬか。
迷わなかった。私は人の命を、穢れた私の魂の糧にして生きることにした……これが一番生き長らえそうだったから。
そして、だから、私は人を殺す。殺して、殺して、殺して、殺していった。そうすることでしか生きられない。私は生きられないから―――
だから、そう……そういまさらのはずだ。
今まで、殺してきた土手カボチャどもとどこが違う?
なぜ殺せないっ!!!
――なんで、……何で、殺せないの……?――
「――なんで、……何で、殺せないの……?」
譫言のように呟いて、祐巳が目を開けた。薄暗い視界の中、最初に目に入ったのは、手に掴んでいた黒い拳銃、そのラバー・グリップに水滴がたれていた。
「あれ、何?………あ、なんで、私……」
(私は泣いているんだろう……?)
止めようと思っても、涙は止まらない。心はこんなにも冷めているというのに、どうしてこんなに暖かい涙が出るのか……全く分からなかった。
祐巳はこの空き家の、昔、自分のものであった部屋で嗚咽をもらした。
病室には沈黙が支配していた。あれから五分も経っていないというのに、祥子はうなだれて動かず、蓉子はそんな祥子をただ眺め、聖は窓際にもたれかかって外を見ていた。
その音のない静かな世界を破ったのは、テンポの良いノックだった。
「失礼しまーす」
そう挨拶して、病室に入ってきたのは、清楚そうな顔つき――喋らず、動かずというただしつきだが――に、小さめの眼鏡に、髪は長い髪の一部を小さく簪でまとめ、あとは垂らした女性。手にはハンドバック、サマーセーターにスリットの入った大人っぽいロングスカートをはいていた。
「あ、由乃ちゃん」
「あら、由乃ちゃん」
「お久しぶりです、ごきげんよう、蓉子さま。祥子さまも、もう起きられても平気なんですか?」
島津由乃――今は福沢祐麒と結婚して、福沢由乃となっているが――だった。
「え…えぇ、大丈夫よ、由乃ちゃん。久しぶりね。祐麒さんとはいつも顔を合わせているけれど」
祥子は由乃に向かって作り笑いをしたが、それはぎこちないもので、見ている者に違和感を与える。
「祥子さま……?」
由乃が心配そうな顔をしたが、祥子に話しかける前に聖が口を開いた。
「よーしのちゃん、私に挨拶は?『お久しぶり』って」
「あ……、ごきげんよう、聖さま」
由乃が今、その存在に気づいたように、抑揚無く挨拶した。
「なーに、そのぞんざいな扱いは?由乃ちゃん、私のこと嫌いなのかな?」
聖は笑いながら、文句を言った。もちろん冗談だ。
「しょっちゅう会っているんですから、お久しぶりとは言いませんよ」
「聖と由乃ちゃん、家が近所なのよね?」
「ええ、というか、近くに聖さまが越してきたって感じですけど」
由乃はわざとらしくため息をつき、蓉子が微笑んだ。
しかし、祥子だけは、関心を示さず、まったくもって上の空だった。
それに気が付きつつも、聖は苦笑しつつ、
「あ、ひどいんじゃない、由乃ちゃん?由乃ちゃんがかわい……ぃ」
と言いかけて声を失った。外を見て、驚愕し、顔色をサッと変えた。秀麗な顔が必死の形相になる。
「み、みんな伏せて!!!!!」
「え?」
「なに?!」
叫ぶと素早く聖は祥子に飛びつきベッドの下へ転がり落ちると同時に、窓が割れ、ちょうど斜め上から祥子の頭があった位置通るように、何かが壁に穴が開けた。
蓉子も由乃もそれに驚いてその場にうずくまった。
「くぅ……、つぅ…み、みんな平気?」
聖が身体をうった鈍い痛みに耐えつつ訊ねた。
「私は何とか平気、膝をうったぐらい……」
「こ、こっちも、だ、大丈夫…です。でも、今の、まさか……」
由乃が戦慄した声を出す。由乃が這い蹲ってベッドの横に素早く伏せた。ベッドによって遮られる視界が四人にとって唯一の防御壁となる。
「狙撃、だね……。向かいのビルの屋上…光った……ハハ」
聖が祥子を庇うように抱きつきながら言った。わずかながら声が震え、引きつった笑みを浮かべていた。聖の顔だと、映画のワンシーンを見ているようだと、思ってしまうが、その登場人物は自分たちである。笑うに笑えない。
その時、バタンと扉が大きく開き、
「社長?!今の音は……!!」
と、廊下で護衛に当たっていた二人の祥子の部下が踏み込んできた。
「これは……!」
「狙撃よ、伏せて…っ」
と、蓉子が言った、まさにその瞬間、一人の男が頭蓋骨を弾けさせて、冗談のようにまっすぐ後方に倒れた。
もう一人は、すでに扉を挟んで、ベッドの向かいにある冷蔵庫の裏にしゃがんでいた。仲間の死に動じることなく、すぐさま、携帯電話を取り出し、
「蠣崎!社長が狙撃された。社長は無事だが、菱野がやられた。向かいのビルだ、急げ!!」
と怒鳴った。
そのあと、祥子たちに向き直り、
「人をやりました。これ以上時間をかければ、相手もリスクが大きくなると分かっているはずです。今、しのげばなんとか……」
と言ったが、とてもじゃないが、安心できる状況には思えなかった。
その後、長いようで短い沈黙が訪れる。実際は十秒程度だが、緊張と生臭ささで空間が張りつめ、ここに居るものに冷や汗をかかせるには十分すぎる時間だ。下の方で混乱する声や喧噪が聞こえるが、それがまたいやな静寂をかきたてた。
それを破ったのは、勇壮なのか脳天気なのかわからない音。『暴れん某将軍』のテーマソング……の着メロ。持ち主はもちろん―――
「え…、何?だれよ、こんな忙しいときにぃ!」
由乃は動転する頭で、伏せた体勢のまま、がさごそ、と自身のハンドバックを探り、携帯電話を取り出した。そのままの格好で電話に出る。
「はい、福沢…、って菜々?!今、どこにいるの、遅刻よ、遅刻。そんなことより、今、大変…、って、え?………………ええええぇぇぇぇ?!!!!!!!!!!」
由乃は驚いて、非情なハンターが狙っているのも忘れて、思わずガバッと立ち上がってしまった。
「「由乃ちゃんっ?!」」
蓉子と、聖が静止の声をあげるが、もう遅い。由乃はすっかり立ち上がっていた。だが、危惧したように由乃に向けて弾丸が発射されることはなかった。
しかし、その由乃の妹、有馬菜々からの電話は、由乃たちにとっては朗報を伝えるものと言えた。
由乃が目を白黒させて言う。
「菜々が……狙撃犯捕まえた、って…。どういうこと?!」