雨が降り頻る中、秘封倶楽部の二人は窓際の席から景色を眺めていた。蓮子は物憂げな表情だ。
「うぅ……ちょっと寝不足なの。例の教授のレポート課題のせいで酷い目にあったわ」
「へぇ、どんな課題だったの?」
「量子色力学の発展とハドロンの弦理論の失敗についての歴史的な考察よ。どちらかといえば科学史の領分だったわ」
「ふむ、詳しくは聞かないでおきましょう」
「うん、そうして頂戴。1970年代の資料を探し回るハメになったわ。これじゃあ科学者なのか歴史学者なのか分かりゃしない。私たちは大学に最新の科学を学びに来たのに、あの教授は電子化もされていない埃を被った論文をスカベンジャーみたいに漁ってる。きっと変人なのよ」
寝不足から口が悪くなっている蓮子の言葉を聞いて、メリーはジト目で彼女を見つめる。
「貴方が人を罵るなんてらしくないわ。これは中々に深刻な睡眠不足ね」
〜ブラック・ブラック〜
「兎も角今日は雨の日ね。雨といえば、黒い──雨かしらね」
「えぇ……」
メリーは困惑と同時に心配した。蓮子は目の下に深い隈を作っており、視線も覚束ない。彼女はブラックコーヒーを頼もうとしたが、メリーは慌ててその注文を遮った。
「ダメよ蓮子。すみません、ホットミルクとレモンティーをお願いします」
「メリー、目覚ましが欲しいの」
「貴方に必要なのはカフェインではなく睡眠よ」
困り顔をした蓮子は不健康そうな瞳でメリーを見つめる。しかし、溜息を吐いて彼女は諦めた。
「分かったわ。ホットミルクで。さて、黒い雨といえば核兵器が使用された際に確認された天気だったわよね」
「何故急にそんな暗い話を……。確か、発生の原理は単純なものだった筈よ。核爆発で発生した熱による上昇気流で舞い上げられた大量の粉塵を、雨粒が取り込んで黒くなったものでしょ?」
蓮子は頷いて言う。
「そうそう、それそれ。原理としては酸性雨なんかと同じで、雨粒が大気中の物質を吸着した結果に過ぎない。雨上がりに空気が澄んでいるように感じるのは、気のせいではなかったという訳よ」
「酸性雨?」
「ほら、化石燃料の燃焼で生じた二酸化硫黄や窒素酸化物が化学変化を起こして硫酸や硝酸となって雨に溶け込むアレよ」
「旧時代の環境問題の一つね。懐かしいわ」
旧時代。それは先進各国が少子高齢化や環境問題に悩まされていた最後の時代。人類はその数を大きく減らし、化石燃料への依存から脱却することで持続可能で豊かな社会を構築した。計り知れない痛みと犠牲を伴う転換であったが、それを知る者は今や数少ない。
「降ってくる雨が酸性になるなんて信じられない話よね。一体どれほど深刻な大気汚染が存在したのか想像すらできないわ」
「私もそう思うわ。まぁ、あの時代の人類は化石燃料を燃やす事でしか社会を維持できなかったらしいから。そんな事すれば生態系上の炭素量は増す一方になる事に誰も気付かなかったのかしら?」
動物も植物も有機物であり、その体の一部に炭素を持つ。呼気と吸気も光合成も全ては循環の一部であり、生態系上の炭素量の総量はほぼ一定だ。人類が炭素の塊を太古の地層から掘り出し始めるまでは。
「一時期は再生可能エネルギーとやらが流行っていたこともあったらしいけれど……」
「欺瞞よねぇ。
化石燃料でなく、永続的な利用が可能なエネルギー源を求めて人類は多くの資源に手を付けた。だが結果は散々だった。
「だって化石燃料だって再生可能でしょ。今ある化石燃料の成り立ちと同じ過程をもう一度経れば化石燃料は再生するもの」
「百万年ぐらいかかるわね」
「でも再生するわよ?」
「わたし、蓮子のこういう皮肉屋なところ好きじゃないわ」
ニヤニヤしている蓮子。メリーは呆れ顔だ。
「人類が利用可能な期間で再生可能なエネルギー源という意味よ」
「承知致しましたメリー様。ではこちらの風力はいかがでしょうか?」
「ふむ、話せ」
芝居がかった様子で蓮子は語り始める。
「こちらは風の力で電気を作る仕組みでございます」
「素晴らしいわ。では化石燃料の使用をやめて人類は風力発電で電力を賄うことにしましょう」
「お待ちくださいメリー様。風は摩擦を受けて減衰する有限の力でございます。化石燃料による発電量を賄えるだけの風力発電機を乱立すれば地表の風は著しく弱まります。いったいどれだけ甚大な地球環境への影響を与えるか想像もつきません。風力は地球上の力学的なエネルギーの循環の一部であり、そこからエネルギーを搾取することは多くの影響を齎すのです」
「ふむ、やっぱりやめるわ」
蓮子は更に笑顔を深くする。目の下の深い隈も合わさってまるで悪い魔女のようだ。
「ではこちらは水の力で電気を作る仕組みでございます。ただ、水の流れも摩擦を受けて減衰する有限の力でありまして、化石燃料による発電量を賄えるだけの水力発電を行うと、海流に対する影響は甚大でありますし、世界中にダムを建造する為に山という山を片っ端から切り拓き、川という川を堰き止めねばなりません」
「ふむ、ふざけてるの?」
「いやいやメリー様、至って真剣真摯なお話でございますよ」
メリーはしかし、蓮子の言わんとする事を理解した。
「つまり、人類が利用しているだけのエネルギーを地球環境の中から取り出そうという時点でもはや詰みだったのね。これだけ莫大なエネルギーを取り出そうとすれば、どのような手法を取ろうと深刻な影響と変化を齎すことになったと」
「その通りよメリー」
蓮子は頷き肯定する。
「例外は地球の外側からやってくるか、地球上で誰にも利用されていないエネルギーだけよ。つまり太陽光と、人類以外は利用しない原子力による発電ね。ただ、太陽光は植物が既に利用しているエネルギーよ。太陽光電池を設置する為に山を切り開きましょうか? あと、原子力は当時の世論や使用済み燃料の処理についての問題があったそうよ。大っぴらに原子力発電を推進するには解決すべき難題が山積みだった」
「手詰まりねぇ」
メリーは匙を投げた。
「化石燃料に依存しなければ成り立たないエネルギー事情。しかし、化石燃料を使用すれば地球環境は激変し人類は深刻な出血を強いられる。使わねばダメ、使ってもダメ。まるで麻薬か何かだわ」
だが、メリーは気付いた。
「ねぇ、蓮子。この問題って──人間が減れば解決するんじゃない? だって人類が利用しているエネルギーが莫大なのが問題なのだから、もっと人間が減って使用するエネルギー量が減れば全て解決するわよね?」
蓮子の笑みは最高潮に達した。メリーは悍ましいものを感じて身を引く。
「その通りよ」
寝不足の細目の瞳が、メリーを射抜く。
「人類はその数を大きく減らして持続可能で豊かな社会を構築したわ。でも環境問題の根本的な解決はできなかった。いずれまた人類はその数を増し大量生産と大量消費の時代を経て同じ問題に直面するでしょうね」
「その為の寿命統制でしょ? 個体数の管理こそが肝要なのだと」
「悪いけれど上手くいくとは思えないわね。私は人類が同じ過ちを繰り返す方に賭けるわ。だって歴史がそれを示しているから。まぁ、お先真っ暗なわけではないわよ。またアインシュタインみたいな天才が夢のようなエネルギーを見つけるかもしれない。彼が物体とエネルギーが可換であることを示したのは一種の革命だった」
メリーは呆れ果てた様子だ。
「そんな夢物語に縋らなければならないなんて馬鹿げてるわ」
「そうね。こんな馬鹿げた暗い話はやめにしましょう。人類の個体数が増えて環境問題がまた現れるのは少なくともあと数世紀は未来の話よ。さぁ、未来の問題は未来の子孫に任せて私たちは豊かな社会を謳歌しましょう」
蓮子は乾杯するような仕草をしてからホットミルクに口を付けてウトウトとし、そのまま眠りについた。
「知りたがりで、物知りで、皮肉屋で、そしてその知見を限られた相手にしか明かさない。貴女は正に前時代的な科学者の鑑だわ」
机に突っ伏している蓮子の頬をつついてメリーは微笑む。
「おやすみなさい、蓮子」
メリーは蓮子の穏やかな寝息を耳にしながら、物静かにレモンティーに口を付けた。雨音がシトシトとしているが、雨雲の切れ目からは天使の階梯が伸びている。二人の座る席にも光が差し込む。
彼女は廃墟と化した旧首都の東京を思い出していた。日本の東海道メガロポリスも今や伽藍堂だ。かつてに比べれば人々は数少なく、そして豊かだ。だが何故か僅かばかりの物悲しさがメリーの胸にあった。
寂れた都市、手入れのされていない里山、放棄された社会インフラ、そして秋になれば至る所に繁茂する彼岸花。メリーは人類が成功したとはとても思えなかった。
「まるで夢の跡に残った墓場か何かね」
存在しない人々の都会の喧騒をメリーは雨音の中から聞き取った。