「私としては、憧れはするんだけどね」
蓮子は、コーヒーカップに口を付ける。彼女は、馴染みの喫茶店で窓際の席に腰掛けて寛いでいた。
「スケールが違い過ぎて、ピンと来ないというか、実感が湧かないんだよね」
困ったように頭を掻きつつ、蓮子は空を見上げて言う。
「宇宙という構造の広大さが」
〜コズミック・ワールド〜
「まず、私たちは太陽系第三惑星に住んでる。で、太陽系は天の川銀河に属してる。天の川銀河は局所銀河群の中にあって、局所銀河群はおとめ座超銀河団の中にある訳で」
蓮子は、指折りしながら言葉を連ねる。一方メリーは、ブレンドコーヒーに口を付けていた。それは、店主が選んだコーヒー豆を中挽きしたものだ。深煎り、中煎り、浅煎りしたそれぞれを2対2対6でブレンドしたそれは、やや主張の強い酸味と仄かな苦味が同居していて、コーヒーの豊かな風味が楽しめる。
「天の川銀河には2000億個ぐらい恒星がある。そして、局所銀河群には天の川銀河を含めて50個ぐらい銀河がある」
「想像もできないわね」
「おとめ座超銀河団は、そんな銀河群や銀河団が100個ぐらい集まってる」
大雑把にイメージすると、おとめ座超銀河団には2000億×50×100個の恒星があって、そんな超銀河団が無数に集まって板状や紐状の構造になると蓮子は言う。
「それが、銀河ウォールや銀河フィラメントよ。それで、こうした板や紐状構造物が更に無数に集まって泡のような形になってる。これが、有名な宇宙の泡構造よ。で、そんな泡がいっぱいあるのよね。まあ、ここで重要なのは細かい数字の正確性じゃなくて、宇宙は広いって事。そりゃあ、宇宙人ぐらい居るわよね」
メリーは呆れ顔だ。
「あのねえ、蓮子。確かに宇宙は広いし、だからこそ宇宙人はきっと居る。でもね、宇宙人の存在を保証する宇宙の広大さこそが、私たちと宇宙人の遭遇不可能性を突き付けているんでしょ?」
「その通りだよメリー。実に……皮肉な事だよね」
コーヒーに口をつけて、たっぷりと沈黙してから蓮子は微笑んだ。
「宇宙人は居る。けれど、決して出会うことはない」
「それと、蓮子みたいな科学者とは違って、普通の人々が使う宇宙人という言葉は、妖怪と同じ意味合いよ」
メリーは付け加えて、過去の人々の世界観について語った。
「かつて人々は、未知の領域に取り囲まれて生きていた。既知なのは自宅や村の中ぐらいで、村外れの橋の向こう側や、猟師達の行く山の先には未知の世界があった」
「未開の世界ね」
「そうした世界に生きる人々にとって、妖怪とは
人間の性根は変わらない。何千年経とうとも私たちは妖怪を恐れるだろうとメリーは断言した。
「人類が発展して恒星間航行やワープが可能になって、銀河を股にかけて沢山の宇宙人や宇宙生物と大航海時代よろしく大遭遇するとして……」
メリーは、深く背もたれに身を横たえる。秋の暖かな日差しが差し込んでいて、道ゆく人々の装いは冬に備えるかのように厚くなり始めていた。
「きっと、外銀河フィラメント人とかを怖がったりするんじゃないかしら?」
「未来の怪談か。う〜ん、興味をそそられるわね。恐怖! 超空洞からの物体X! みたいな?」
「それは……B級映画のノリね」
困ったように笑顔を見せるメリー。しかし、蓮子は楽しげで饒舌だ。
「この宇宙の広大さを思うと、清々しい気分になるんだよね。私みたいなちっぽけで刹那的な存在が、永遠であり広大無辺な領域を思うことができるだなんて、なんて、幻想的な空想なんだろうってね」
対するメリーは、胸に手を当てて吐露して見せた。
「私は心を思うと、清々しい気持ちになるわ。喜怒哀楽、全ては言葉で言い表す事ができないものだから」
疑問符を浮かべる蓮子に、メリーは分かりやすく言い直す。
「言葉は究極的には比喩に過ぎないのよ。近似はしても、その心象を完全に伝える事はできない」
「私の悲しみと、メリーの悲しみが、少しずつ違う悲しみでも、悲しみという単語で表す事しかできないように?」
「そう。例えどれだけ詳細に言葉を重ねて伝えても、何処かで意味の損失や誤謬が発生する」
しかし、メリーはその言葉とは裏腹に笑顔だ。
「私はそれが嬉しい」
断言したメリーは、コーヒーを一口飲んでから息をゆっくりと吐き、目を閉じて喫茶店内の香りを楽しんでから、首を傾けて秋空を見た。絵に描いたような鱗雲で、遠くからは藁を焼く匂いの幻覚さえしてきそうだ。
「私の感情は、どれだけ言葉を尽くしても、完全には伝えられない。それはつまり、私の感情は、完全に私のものだと言うことよ。この幸せも、この喜びも、悲しみでさえ、一つ残らず私のものよ。だって誰にも伝えられずに、手放せないものなんだもの」
メリーは噛み締めるように自らの心を味わい、それを楽しんだ。
「言葉を尽くしても伝わらないもの。だからこそ、口を閉ざして笑顔を浮かべれば、それだけでそれは深秘になるのよ」
上機嫌な微笑みを浮かべたメリーを見て、蓮子は背筋がぞくりとした。メリーから感情が一切読み取れなかったからだ。その微笑みの裏側は、全くもっての未知だった。
未知の世界からやって来る何か
人はそれを妖怪と呼ぶ。
ならば沈黙と笑顔一つで未知となる、人間の感情というものは、妖怪が産まれ出る最も身近な領域なのだろう。蓮子はそう、メリーの微笑みから悟った。
「ねえメリー、その妖怪が飛び出してきそうな、胡散臭い微笑みをやめて頂戴。ほら、怖いから」
「あら、怖がらせてしまったかしら。ごめんなさいね」
舌を出して悪戯娘のように謝るメリーを見て、蓮子は羨ましいと思った。メリーは、個人的な感情を自らのものとして楽しみ、他者とのコミュニケーションの不完全さを寧ろ、自己の確立の為に必須な要素の一つとして見做している。
「メリーにとっては、孤独もまた他者との関係性の一つなのね」
メリーは、他者との繋がりの中で自らを形造るのではなく、他者との異なりの中に自らを見出していた。決して分かり合えない心、比喩に過ぎない言葉、共有できない能力。私と貴方は違う──
「メリーは、自分だけの世界を持ってる」
「急にどうしたの蓮子?」
「私も、メリーみたいに自分だけの世界を作ってみようかなって思って」
「いやいや、蓮子だってもう持ってるでしょ」
大人なら誰だって、自分だけの世界を持っている。他人と分かり合えない経験を積んで、自分という者を分かっていく。それが人間だとメリーは微笑んだ。胡散臭い笑みだ。
「みんなが自分だけの世界を持ってて、出会いはそれを重ね合わせるの。世界と世界が出会う時の美しさを蓮子は知ってる?」
「いやあ、見た事ないけど」
「あら、酷い」
メリーは両手を広げて自慢げな表情をする。
「ほら、ここが秘封倶楽部の世界なのに」