「お前…吹雪な、の…か?」
提督は…何を…。
何故、私を怒らないの?…何故、殴らないの?
「…はぇ?」
私は訳も分からず、変な声を出してしまう。
ーー。
仕方がないだろう。この一年半、目の前にいる提督は私達の事を道具として扱い、なにか癪に障ることがあれば罵声を浴びせ、当たり前のように暴力を振るってくる。
そういう人だった。
しかし今、この私の目の前に座っている提督は何もして来ない。
それどころか、この執務室の空間が気になるのだろう。
周囲の至る所を見渡した後に、困ったような、驚いたような表情で私を見つめてくる。
私は動けなかった。
瞬きも忘れてしまうくらいに、目の前の光景が信じられない。
…まるで一年半前の時みたいに、提督がおかしくなっている。
あの時も、こんな風に驚いた表情を見せた後、徐々におかしくなっていった。
次はどうなるのだろうか。…もしかすると元にもどっ…いや、期待はもう。
…でも、私…は。
…と、取り敢えず。話を聞かなければ。
「あっ…あの、提督…話、とは…」
私が提督に向かってそう言うと。
…!
提督は額から尋常では無い程の汗をかき始めた。
その汗の量は徐々に多くなっていき、そのまま机に向かってぽつり、ぽつりと落ちていく。
…提督の目が小刻みに動き出した。
瞬きの回数も増えていき、呼吸も荒くなってきた。
大丈夫…なのだろうか。…一体何が…。
そして提督は一瞬、口を開いた後…
「…あ、あは…ははは…」
突然、笑いだした。
…私は驚いて、後ろにたじろぎそうになった…が、
「…はぁっ、…はぁっ…、はっあ」
提督が息苦しそうに、過呼吸をし始めた。
顔の色も真っ青になっていくーー。
そして、提督の次の行動で、私は心のどこかで確信した。
…っ!
…そ、その…深呼吸は…!
「あっ…」
私は幻覚を見ているのだろうか。
目の前の…、…優しかったあの時の提督がしていた…。
…あの深呼吸だ。
私は気付かぬうちに、後ろに下げようとした足を一歩前へ踏み出した。
…私の心の中にある霧が少しだけ晴れたような気がした。
偶然なのかもしれない。まだ怖い提督のままなのかもしれない。
でも、私は…。
すると、目の前の提督は先程よりも荒い呼吸をし始め、頭を抑え込んだ。
そして、声にならないような呻き声をした後に、提督は机にもたれ掛かり、その時の勢いで体勢が崩れ、床に倒れ込んでしまった。
「って!…提督!」
私は倒れ込んだ提督に向かって、手を差し伸べた。
まだ怖いのに。殴られるかもしれないのに…
でも…、…だって。
優しい提督が目の前にいるからっ!!
私に、…私達に向かっていつも笑顔を見せてくれる貴方がっ!!
私は提督の体を優しく揺さぶり、必死に呼びかけた。
「て、提督!…だ、大丈夫…ですか!」
提督はまだ怖いままなのかもしれない。
でも、あの時に見せた行動は間違いなく、以前の提督がしていた…っ!
私は提督の頬に手をかざし、優しく撫でる。
すると、提督は安心したかのように、強ばった表情を徐々に緩めていき、呼吸も安定してきた。
そして、提督の意識がなくなる直前…
「…吹雪」
と、私の名前を呼んでくれた。
間違いない…この、今の提督は…以前の優しかった、あの時の提督だ。
絶対にそうだ!…だって、だって!
こんなにも笑顔で寝ているんだもの!私の膝の上で!涙を流しながら!
私は嬉しさのあまり、涙を流した。
その涙はじわりと頬を伝うと、提督の涙と交わり、共に零れ落ちたーー。
あれから提督は、私の膝の上でスヤスヤと眠っている。
こうしてみると、とても懐かしく感じる。
私は、提督が優しかった頃、よく膝枕をしてあげていた。
提督がして欲しいって言ってくるから。
最初は恥ずかしくて断っていたんだけど、何度も言われると断りきれなくて…。
結局それからというもの、完全に膝枕は定着化してしまった。
でも、私は嬉しかった。
提督に求められているっていうか、誰にも見せない姿を私だけに見せてきて、甘えてくる提督が凄く愛おしく感じたから。
そんな提督に私は心惹かれて行った。
…っ///。
わ、私は何を考えてるの〜///。
べ、別にそういう…。変な事じゃない…、し。
…いくら提督がこうして私の膝の上で寝ているとは言え、まだ変わっていないのかも知れないのに。
そんなことを考えていると、提督が少し動いた。
「提督…?…て、提督…」
そういえば、私はいつから彼の事を提督と呼んでいるのだろう。
彼と初めて会った時から、私はずっと『司令官』と呼んでいた。
しかし、いつからだろう。
彼がおかしくなってから、だろうか。
私は司令官とは呼ばずに、提督と呼ぶようになった。
そこに何の意味があるのかは…正直、私にも分からない。
…だけど、今言えることは。
この目の前にいる彼は…間違いなく『司令官』だ。
そこは変わらない。絶対に…。
私は司令官の頬を手で優しく撫でた。
すると、司令官は少し魘された。
「し、司令官…大丈夫ですか?」
私が心配して、司令官に呼びかけると…。
司令官はゆっくりと目を見開いていく。
私はまだ怖かった。変わってなかったら確実に殴られるだろう。
しかし、そんな心配も無駄に終わった。
司令官は目を見開いた後、此方の方を向いて少しだけ微笑んだ。
そして、笑いながらまた涙を流した。
「…!しっ司令官!」
私が司令官に声を掛けると、司令官は自身の袖で涙を拭き、もう一度笑った。先程よりも、更に笑顔で…。
…やっぱり、やっぱり!
戻ったんだ…元の司令官に…っ!戻ったんだ!
「…!っひ、ひぐっ…し、しれい…がん…っ」
私は嬉しさのあまり、またしても司令官の前で泣いてしまった。
司令官の前でこんな姿、見せちゃいけないのに…。…でも、涙が止まらないんだもん…。
司令官は、そんな私を見て、また微笑んだ。
…ふふっ…。私も思わず、少しだけはにかんだ。
…あぁ、嬉しい…。
その後私は、司令官に涙を拭われると、元に戻ってきてくれた嬉しさと、恥ずかしさで思わず彼に、抱きついた。
…こうしていると、なんだか安心する。
司令官の暖かさ、呼吸、心臓の鼓動を感じられる。
…っ///。
いけない、いけない。
そろそろ離れないと…。
そうして、私が司令官から離れると…。彼は何故か茫然としていた。
何かあったのだろうか…?私は気になって、司令官に声を掛けてみる…と。
「司令官…大丈夫ですか?」
司令官はこう言った。
「ふっ…吹雪。…お、俺は昨日…な、何をして、いた…んだ?」
…っ!
司令官は…何も…覚えていなかった、のか?
私達が受けたひどい仕打ちを。彼自身が覚えていないというのか…。
そん、な…何で…!
「っ…!…し、司令官は…な、何も…覚えて、いらっしゃらないのですか?」
私達に罵声を浴びせ、暴力を振るった事。戦艦や空母の先輩達にした、あの行為を…。そして、…大破進撃をさせて…長門さん…。…いや、あれは私の…せ、い。
い、嫌な記憶が…!
もう…忘れたい、のに!…っ!
駄目だ…!どうしても…蘇ってしまうっ!
すると、司令官が茫然としたまま、私にこう言った。
「吹雪…お、俺は、…俺が…お前達に何かしていたか…」
…私達…、に。貴方…は。
「…!っそ、それは…」
司令官は私の顔を、着ている制服を見て、段々と顔色を変えていった。
…っ!司令官は気づいているんだ。私達が受けた、この、傷に…。
私は咄嗟に、顔に残った傷を手で覆い隠した。もう既に気づかれているのに。嫌だ、見せたくない。貴方が今これを見たら…必ず。
「しっ…しれい、かん…こ、これは…その」
全て、自分のせいして…。
「…それは俺がやったんだろ?」
「…!っち、ちがっ…」
…っ。
司令官は昔から、私達に何かあると直ぐに自分のせいにする癖があった。
深海棲姫との戦闘後、私が中破、その他の艦娘達もそれぞれ中破や大破状態で泊地に帰還すると、司令官は私達の目の前で「全て私のせいだ。判断が遅すぎた。すまない…」と言って、一人一人に土下座をしていった。
私達は困惑した。
…違うのに。あれは、私の行動が遅かっただけで…。司令官の判断は決して遅くなかった。なにより、あの判断があったお陰で、私達は助かったと言っても過言ではない。あのまま進軍していたら、私達はきっと全滅していた。
他の艦娘達もきっとそう思っていただろう。
だからあの時、あの場で、司令官を責め立てるものは誰一人として居なかったーー。
だが、しかし…今回の件において…。私は…。
どうすれば…。
すると、突然。
執務室の扉がノックされた。
一体誰だろう…。
私と司令官が扉の方向に視線を送ると…。
「提督。航空母艦、加賀です。失礼します」
加賀…さん。
…っ、司令官!だめ…。
「はっ、入れ…」
「失礼します」
遅かった。
加賀さんは執務室の扉を開けて、私達を見たあと、顔色ひとつ変えずにこう言った。
「提督…話とはなんですか」
加賀さん…。
司令官は記憶がないんだ。だから、話なんて…何も…。
すると、司令官は私に向かってこう言った。
「ふ、吹雪…お、落ち着いて聞いてくれ」
司令官は真剣な眼差しで此方の方を見てくる。
一体、なんだろうか…。
「…は、はい」
「俺がお前達に何かしたのは間違いないだろう。…その、俺はいつからおかしくなった?」
…司令官はやはり覚えていない、のか。
…いつから…。いつ、から…。
司令官が…、おかしくなったのは。
「し、司令官は…その、…やはり覚えていないのですね。その、司令官がおかしくなったのは、私も記憶が曖昧でよく思い出せないのですが…、約一年半前から突然おかしくなりました」
そうだ。司令官がおかしくなったのは一年半前…レイテ沖海戦の作戦行動が開始される直前の事だった…。
あの戦いで、長門さんは…。
…っ。今はそんなこと考えても意味は無い!もう考えるな!
「提督…話とはなんでしょうか?」
加賀さん…司令官は…。
私が司令官を心配して、顔を伺おうとすると…。
…泣いている!?どうして…。
「提督…何故、涙を流していらっしゃるのでしょうか?」
…責めているんだ。自分のせいでこうなったのだと。
司令官はそういう人だからーー。
すると、司令官が加賀さんの方へ向かって行き、いきなり土下座をした。
あぁ、やっぱり…もう。やめてよ…。
「すまなかった!加賀!…俺は、俺はお前達に…取り返しのつかない事をしてしまった!…大切な家族なのに!すま…ん加賀…吹雪…」
司令官はそう言って、泣きながら加賀さんに向かって土下座をし続ける。
一方加賀さんは、表情を変えずに、司令官の方をずっと見下している状況。
「俺に何があった加賀!一体俺は、お前達に…何を、何をしたんだ!教えてくれ!…加賀、…ひぐっ…っ…教えてください、お願い、します…」
…司令官、やめてよ。そんなに自分を…。
「………」
「加賀…」
それから何分経過したのだろうか。
私は、その場の空気に圧倒されて、動けずにいた。
加賀さんの表情は一向に変わらない。
…執務室、この空間には司令官の嘆き声しか聞こえない。
すると、司令官が加賀さんの顔を見るために頭を上げる…と。
ドスッ
一瞬の出来事で私には何が起こったのか分からなかった。
加賀さんは司令官の頬を思いっきり…殴った…?
「…っかはぁ!」
そして、何が起こったのかを理解する前に加賀さんは、司令官の胸、そして腹部を殴った。その衝撃で、ドスッという鈍い音と共に司令官は吐血した。
「…うっがぁぁあ!!」
…っ!!
司令官!…加賀さん!幾ら何でもやりすぎだよ!…私が、私が止めなきゃ!!
「…!っちょっ!ちょっと加賀さん!やめてください!…司令官は!司令官は悪くないんです!記憶が無かっただけなんです!」
そうだよ!司令官は記憶が無かった!だから、悪く…な、い…のに…!
私は加賀さんの腕を掴み、必死で止めようとした。
だがしかし、その抵抗は無意味だった。
考えてみればすぐに分かる事だ。
相手は空母…。私は駆逐艦…。
どちらの方が力が強いのか、と問われれば。
明らかに空母の方が強いに決まっている。
私の腕は簡単に跳ね返され、体を床に叩きつけられた。
その衝撃で、私の体も少しだが損傷し、動けなくなった。
そうして、私はただ司令官が加賀さんに殴られ、蹴られている所を見ているしか出来なくなった。何度も、何度も加賀さんは司令官の背中を蹴り、その度にドスッ、ドスッという鈍い音が響いて来る。あの衝撃では骨折は免れないだろう。もしかすると…死んで…。
「っうがぁぁぁ!!」
司令官は、その激痛からか耳鳴りが起きるほどの叫び声を発する。
…い、やだ。嫌だよ!やめてよ!死んじゃう!司令官が死んじゃう!
司令官の顔を見ると、口から大量の血が噴出して、段々と意識が朦朧として無表情になっていた。
やだ…。死んじゃ…嫌だよ…。司令官…。
「…もう、やめて。加賀さん…もう…」
私は動けなくなった体を、無理にでも動かそうとする。
しかし、腕に、足に力が一つも入らない。
あのままでは、本当に死んでしまう。何としてでも加賀さんを…。
…!
司令官の方へ向かうため、もう一度、彼の顔を見る…すると。
司令官は私に向かって笑顔を向けていた。目は、痛みで開けられないのか閉じたままだが、口角を上げて微笑んでいた。
し、しれい…かん…。
私が驚き、呆然としていると。
司令官は微笑んだ表情を変え、次に歯を食いしばり、後悔をしているかのような表情になった。
…きっと、自分の行いを悔やんでいるのだろう。
私には分かる。司令官は…誰にでも優しく、誰にでも元気に接していた。時には、厳しい時もあったが、それでも私達は司令官について行った。
それは、彼が信頼に足る人物だったからだ。
それが、今はどうだ。
自分で築き上げた信頼関係を壊し、その艦娘からは殴られ、蹴られるのだ。
悔やんでも悔やみきれないだろう。
ドスッ、ドスッ、ドスッ
加賀さんはいつまでも背中を蹴り続ける。
あぁ、もう…駄目だ。司令官は…死んでしまう。
私がその光景に絶望し、途方に暮れている…と。
いきなり、鈍い音が消えた。
…?一体、何が…。
私は何が起こったのか、加賀さんの方を見ると…
…っ!
加賀さんは目から涙を流し、哀愁を漂わせていた。
私が何事かと戸惑っていると、加賀さんはこう言った。
「はぁ…はぁ…、提督!あなたは…あなたはぁ…はぁ、はぁ…何処まで私たちを…悲しませる、つもりなの…」
加賀…さん。
…きっと、彼女も彼女なりに司令官の事を…。
「てい…とく…っひ、…うぅ…」
加賀さんはその場にへたり込み、そのまま司令官の方へ手を伸ばし…彼女は泣きながら、司令官の手を優しく握ってこう言った。
「はぁ…はぁ…、てい、とく…。もう、絶対に離さない…から、はぁ…うっ…、だから、提督も、私達の事を離さないで…。絶対に…。うぐっ…」
司令官は既に意識が無い、はずなのだが…彼は加賀さんの手を握り返した。
まるで、加賀さんの言葉に返事をするかのようにーー。
私が茫然と、その光景を見ていると…。
突然、扉が開かれた。
「何事だ!」
入ってきたのは、軽巡洋艦の天龍さん。そして、駆逐艦の潮ちゃんだった。
天龍さんは入ってきたと同時に、その光景に唖然としていた。
まぁ、そうなるのも無理はないだろう。
入ってきて、まず視界に移るのは、血を流して倒れた司令官と司令官の手を握り、泣いている加賀さん。そして、倒れて動けなくなった私。
潮ちゃんは執務室の扉の隙間から、怯えながらこちらの方を見ていた。
外が段々と騒がしくなってきた。
きっと、先程の司令官の叫び声と鈍い音、そして、加賀さんの叫び声が鎮守府内に響き、皆が気づいたのだろう。
私は疲れからか、体の力が一気に抜けてその場に寝そべった。
…駄目だ。私、も…意識が…。
そして私は最後に、司令官の顔を見た。
彼は吐血しており、表情は少ししか分からなかったが、私が見た限り、とても安心したような表情だったーー。