以前ほど時間が取れず、最近は筆の進みが遅い状態です。万が一、拙作の進行状況が気になるという方がいらっしゃいましたら、活動報告にて経過報告などさせて頂きますので、宜しければ御一読下さい。
『間も無く、第5レースの発走です』
落ち着いた女性の声が、場内に木霊する。アナウンスに呼応するようにして、外から聞こえる喧騒は大きさを増した。この阪神レース場においては、やはりレースこそが何よりの楽しみである。休日を利用してまで現地に来る人々が、これから始まるレースに胸を躍らせるのは、至極当然だろう。
「このレースは芝のクラシック級以上1勝クラス……君のひとつ上の級で、既に勝ち上がっているウマ娘達だ。参考になるんじゃないか」
「うん!さっきまでのダート戦も見応えがあったけど、芝とは勝手が違うもんね」
そこは、阪神レース場の地下に位置する、出走予定のウマ娘それぞれにあてがわれた控え室。八畳ほどの室内には、冷蔵庫や電気ポット、ハンガーラックなど最低限の備品が置かれており、荒木とカレンは簡素なパイプ椅子に座りながら、ベージュの壁に固定された中型のモニターを見ていた。第5レースに出走するのだろうウマ娘各々が、様々な面持ちでパドックに立つ様が映し出される。
パドックとは、レース出走前に設けられるウマ娘達のアピールの場であり、見る者が見ればウマ娘達のコンディションも図る事ができるという。荒木にはまだそれほどの観察眼は養われていないが、それだからこそ観察する事に意義があると言わんばかりに、彼女達の様子を熱心に見ている。カレンもじっと見てはいるが、彼女の場合は、どちらかと言えば悩ましげなようだった。
「ねぇお兄ちゃん、カレンも何か特別な事したほうがいいと思う?さっきの人みたいにジャージ投げたり」
「……まあ、君の場合は大事なことか」
立てた人差し指を頬にあてながら思案しているカレンに、荒木は思わず苦笑を零す。彼女の悩みは一見、レースに勝つ事のみを目的としているウマ娘からすれば余裕、ともすれば驕りにさえ映るやもしれない。しかしカレンの目的は単にレースに勝つ事ではなく、同時に彼女自身のカワイさを知らしめ、またよりカワイくなるというものである。だからこそ、レース以外での立ち振る舞いも軽視出来ないのだろう。
「もっとも、君に関しては気にしなくていいと思うぞ」
「っていうと?」
「いつも通りのカレンでいれば、それで十分なアピールになる。デビュー戦の他のウマ娘達は特に、その辺りには不慣れだろうしな」
デビュー戦。今日この阪神レース場で開催されるメイクデビュー、すなわち彼女のキャリア初戦を飾る事になるレースである。未だレースに出走した事のないジュニア級のウマ娘のみが登録でき、第6レースのジュニア級メイクデビューの出走ウマ娘一覧には、カレンチャンの名が確かに連なっている。つまり、次のレースに出走する為に二人はここにいた。
ジュニア級のウマ娘で尚且つデビュー戦とあっては、今現在第5レースに臨んでいるクラシック級のウマ娘らとは違い、実際に出走する身としてレース場に来る事さえ初めての事。その上、トゥインクルシリーズは基本的に土日にのみ開催される事もあって、観客動員数は極めて多い。重賞がない今週の阪神であっても、その熱気は場慣れしていない少女達にとって大きなプレッシャーになるだろう。
「それもそっか、人に注目されるのは慣れっこだもん」
「だろ?レース場であろうと、ファンが見たいのは純粋な君だ。余計な事は考えず、好きにやるといいよ」
「はーい♪いつも通りのカワイイカレン、見せてあげちゃうね♪」
そうしたメンタル面においては、注目される事が日常のカレンに有利と言えた。むしろ、ウマスタやウマッターといったSNSに限らず、ウマチューブなど動画サイトすら活用して自分をアピールする彼女なら、心配無用というものである。現に荒木の何気ない言葉だけで、悩みなどあっさりと晴らし、却って体を左右に愛らしく揺すって心弾ませる様は、緊張などとはまるで無縁だった。
「しかしまぁ……急にデビュー戦に出たいって君が言い出したのは驚いたよ。俺としては事前に、もう少し教えたい事や話したい事もあったからな」
いよいよ始まった第5レースを尻目に、荒木がふとそう口にする。ゲートが開くと共に、各ウマ娘が一斉に飛び出した。やや出負けする者もいるが、概ねスタートは揃っている。このスタートという行為一つをとっても、そこには確たる技術が存在する。巧みなスタートはポジショニングの融通性を高め、枠順の有利不利を軽減させ、その時々のバ場に最適のコース取りを可能とする。
荒木が教えたかった、レースにおけるそのような技術の数々を、未だカレンには殆ど教えていない。今までのトレーニングでした事は、基本は実戦に耐えうるだけの体作りのみだった。いかなる走行技術があろうとも、それを活かしきる身体能力がなくては無意味であり、また怪我などのリスクも増加する。荒木が技術を後回しにしたのは、至って合理的な判断であったと言えよう。
「うん、本当ならそれがいいのかも。でもそろそろみんなの関心が、カレンのトゥインクルシリーズ参戦っていう話題だけじゃ繋げなくなってきたかな、って思って。ただでさえ、今はまだファンのみんなの注目度は高くないし」
「関心、か」
それでも、些か性急にデビュー戦に登録したのは、偏に彼女が既に多大なファンを抱えるインフルエンサーであるが故だった。有名ウマスタグラマーの少女がトゥインクルシリーズデビューという話題は、レース自体が国民的スポーツである事も相俟って、暫くの間は人々に取り沙汰される。しかしそのニュースが出回ったのも、もう二ヶ月ほど前の話である。いつまでも競争ウマ娘としてのカレンがデビューせず、続報もこれといってない状態では、やがて人々もレースについて忘れてしまうだろう。
「抱えるファンの数なら、GIウマ娘にも劣らない君だからこその苦労だな。最初から失うものがあるだなんて」
「ダートデビューなんかも考えてくれてたのに、ごめんなさい……こんな娘の担当なんて面倒だな、って思っちゃう……?」
「そんな筈ないだろう………………ないから泣き真似はやめてくれ。君は演技派すぎて心臓に悪いよ」
伏せ目がちに、健気な笑顔を浮かべながらも瞳を潤ませる彼女の姿は、余りにも劇薬である。偽りの涙であると今までの経験から分かっている荒木でも、その悲愴に満ち満ちた顔を無視する事は出来なかったらしい。そんな彼を見てカレンの気が済んだのか、一転してにこやかな面持ちでくすくすと笑い出したが。
『ゴールイン!粘り切った7番人気カキノジョージア、断然の1番人気ネヴァーモアの追い込みを半バ身抑え込みました!』
モニターから聞こえた実況に、二人の目線が改めてそちらへ向く。結果は、バ場の内内を通って後続を離し気味に逃げた7番人気のウマ娘による逃げ切り。ここは通過点と思われた1番人気のウマ娘は、強烈な末脚でもって急追するも、僅かに届かず二着というもの。
「やっぱり今日は、内が綺麗な前残りのバ場みたいだね。カキノジョージアさん、道中で息を入れられてたのもあると思うけど」
「よく見てたな。前半1000mが63秒台との事だったから、離された二番手以下は64秒台だろう。地力で言えばネヴァーモアが優位だったと思うけど、スロー過ぎたか」
「展開とトラックバイアスが向いた、って事だよね♪」
「そういう事だ。勉強もしっかり身に付いてるな、偉いぞ」
トレセン学園のカリキュラムには別途通常の授業に加えて、レースに関する基礎的な事柄を学ぶ時間が設けられている。詰まるところが学生の天敵である勉強なのだが、彼女はその点も熟してくれているのだろう。垣間見えた彼女の勤勉さに感心していると、不意に、カレンが手を膝に置いて頭を垂れるように差し出した。
「ん?」
意図が分からないようで、荒木は首を傾げる。それから何も起きない、ただそのままの状態で二人がいるだけの時間が流れた。
「……お兄ちゃん、そこは察して欲しかったな」
「え?何を?」
「もう、これはどう見てもなでなで待ちでしょっ」
「なでなで待ち?撫でられるのを待ってたのか?俺に?今?」
ぷりぷりと怒るカレンを、荒木は困惑しながら見つめる。不器用な男という訳ではないのだが、どうにも突然慣れないことを要求されるのは不得手であるようだった。とはいえ、荒木が妙な所で察しが良く、かと思えば察しが悪いというのは、カレンとしては出会ってからこれまでに知った所であるし、またやや堅物の気があることも理解していた。
「あーあ、なでなでしてほしかっーー」
残念がる語気のその言葉が遮られる。彼女が目を丸くして見ているのは、隣に座る荒木が自らの方に手を伸ばしている姿。カレンの頭を、彼女のものより大きく硬い、荒木の手が優しく撫でていた。骨ばった指先が殊の外繊細に、彼女の髪を崩さぬようにそっと髪をなぞる。
「これは、君のこれまでの頑張りの分。有名人と競争ウマ娘、二足の草鞋でよくやっていたと思う。君の本気が分かるばかりの日々だった」
慣れたような手つきは止めることなく、荒木は柔和な笑みをカレンに向けた。慈愛に溢れて、温みが伝わるようなその笑顔を、彼女は何も言わず見つめている。続く言葉を待っているというには、些か茫然としたような面持ちである。それは情景を考えるなら、他者の目には見惚れているようにも映るだろうか。
「だけど、始まりはここからだ。君のカワイさを魅せるレースが、これから始まるんだろ」
撫でる手がはたと止んで、カレンの頭から離れた手はモニターを指差した。彼女は反応を示すのに僅かにタイムラグを生じたが、それから少ししてゆっくりと指先に視線を移す。映っていたのは観客席、それも特に先程までと変わりはないようにも見えた。
『次の第6レースには、有名ウマスタグラマーのカレンチャンが出走するようですね。会場にはちらほらと、応援に来たファンの姿が見られます』
否、変わりはあった。映し出される観客席をよくよく見れば、先程までとの変化がカレンにも分かった。カレンのファンと思しき少女らが、『Curren』の名を描いた服を身に纏っている。或いは青年が、『カレンチャン』の名を描いた団扇を持っている。中には、横断幕まで作って来たらしい者までいる。この数多くの中では、一握りと言っていいだけの人数。きっと彼らは皆、ただ一人の少女を待っている。
「確かに君のSNS上の人気を考えると、物足りなさのある規模だ。それでも、走る君を見たいっていうファンが、今このレース場にいるみたいだぞ」
荒木は席を立ち、徐に机の上のリモコンを手に取って、モニターの電源を消した。静寂が訪れ、彼が椅子を片付ける音がやけに室内に響く。振り返ってみると、大抵何かを話している喋り好きなカレンだが、今は何一つ言葉はない。そんな彼女を、けれど案じる素振りはなく、荒木は外に繋がるドアノブに手を掛けた所で動きを止めた。
「さて、そろそろパドックに行く頃だけど……調子はどうだ?」
背後に位置している以上、荒木の目にカレンの顔はおろか、姿さえ見えず、故に様子を窺い知るのも能わない事であった。それでも、確信出来た。ファンを心から大切に思い、その期待に完璧に応えんとする彼女ならば、きっとこのように返してくれるのだろうと。
「ーーうん、バッチリ」
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『最後に12番カネトシトキメキ、枠入り完了しました。』
スターティングゲートの中に、遂に偶数枠最後の12番が入った。正面スタンドの観客一同は、これから始まるレースに興奮を抑えきれずにおり、その喧騒ぶりは無論ゲートまでも届いている事だろう。現にゲート内に立つ彼女達の面持ちは一様に強張っており、目に見えて緊張していた。練習とはまるで異質なレース場の雰囲気に呑まれるというのは、デビュー戦には付き物の茶飯事であり、後世に名を残す程の名ウマ娘でさえ、デビュー戦をそのような理由から取り零す事がある。
「……なんだかよう。あの1枠1番の娘だけ、やけに余裕じゃねぇか?」
「あぁ、カレンチャンか?ウマスタっちゅーので有名らしいな」
故にこそ、その中でただ一人、何ら平生と変わりない余裕な笑みを魅せるウマ娘は、観客達にとっても浮いているように感じられた筈だ。ウマスタグラマーとしての彼女はおろか、ウマスタグラムさえ詳らかに知らぬ中年の観客さえ、その妙な余裕には思う所があるようだった。強張るどころか、却って気迫さえ感じられぬほど力みのない所作。
「ていうか、手ぇ振ってる!?こっちに!?」
「わ、わ、やばい……生Currenがウチに手振ってるやばい……」
「いやでも、もうゲート入ってるけど大丈夫!?ファンサすごい嬉しいけど!」
ゲート内は、遠目に見ても空気が違う。皆が前だけを見て、呼吸を整え、スタートの態勢をとり、今にも始まらんとするレースのみに意識を集中させんとしている。その手狭なゲート内に入った十二人で、たった一人しか得られない勝利を求めて、今から死力を尽くして争う事を理解しているから。
その認識が、彼女達のひりつくような空気を形成しているのだろう。その中でただ一人、スタートを目前にしながら余裕げで、剰えファンサービスをするようなカレンを心配するのは無理もないことだった。ややもすると、
『芝1200メートル、阪神メイクデビュー……スタートしました!』
アナウンスが場内に響き渡るより僅かに早く、ゲートは開いていた。
デビュー戦といえども、スタートというのは必ずトレーニングの一環として練習してくるものであり、立ち上がりの速さ自体は、比較的キャリアに依るところは少なく、反応と瞬発力が左右すると言っていいだろう。加えてレースとは、距離が短くなればなるほど道中のペースは緩まず、序盤のポジショニングは重要性を帯びてくる競技である。
中長距離の注目度や格から、デビュー戦はなるべく長い距離を使いたがるのが一般的なこの世界において、初戦から最短距離のデビュー戦に臨む彼女らは、それ程までに純然たるスプリンターである事を証明している。
故に、各々の出足にばらつきはなく、概ね揃ったスタートであるように観客には見えた。芝を巻き上げ、ゲートの中で練った集中力を解き放ち、横一線の様相を呈しているように。
「ーー心配要らなかったな」
否。ただ一人が、その横一線の隊列から外れている。その一人が、誰よりも前に出ていた。
『ほぼ揃ったスタート!1番人気の1番カレンチャンは好スタートを決めました!』
場内の歓声が一際強まり、先程まで不安を口にしていたカレンのファンと思しき少女達が、瞬く間にその顔を喜色に染め上げ、既に直線と見紛うほどの興奮ぶりを見せている。
決してこの歓声は、カレンのファンのみがあげているのではない。キャリア初戦のウマ娘、それも先程までの余裕ぶりからは想像もつかない反応速度は、目の肥えたファンであろうと唸らざるを得ない、それ程のものだった。だが何よりも特筆すべきは寧ろ、そのテンの速さにある。
『1番カレンチャン、スタートの勢いそのままに後続を離して先頭。二番手に2番人気4番ヒシビビッドがつけ、差がなく10番タカノキング。』
他のウマ娘が内に切り込まんとする所が、誰もが咄嗟にその姿を見て先頭に立つのを諦めた。皆が一歩目を踏み出す頃にカレンは二歩目を踏み出し、皆が二歩目を踏み出す頃にはカレンは三歩目を踏み出している。スタートを知覚する反応速度、反応してから一歩目を強く踏み出すための脱力、そこから繰り出される類稀な瞬発力。全てがデビュー戦としてはそうは見られないだけのレベルにあり、それがこの盛り上がりの要因であった。
『隊列はやや縦長になりました。先頭カレンチャン、1バ身空いて内ヒシビビッドと外タカノキング、中団には6番キクノアルバ、11番キャニオンシュネル、その二人に挟まれる形で3番人気の9番シゲルサゲザネはやや落ち着かない様子です』
上位人気の二人が先頭と番手、3番人気のシゲルサゲザネは中団に収まる。トレーニングではあまり経験のないであろう、内外を挟まれ手狭な進路を走らねばならない状況は、特にプレッシャーの中にあって殊更シゲルサゲザネのリズムを乱していた。所謂、掛かっているという状態である。先行集団が自分のリズムを守ったまま気持ちよく走る中で、振るう腕が接触しかねないほどに密集した状況下で気兼ねなく走る事は、経験の浅いウマ娘には難しい。
対するカレンは掛かる様子もなく、かと言って気を抜くでもなく、時折後方に僅かに目を向け、他のウマ娘の出方を見逃さぬよう集中している。それが後方への牽制にもなる事を知ってか知らずか、少なくとも効果は大きいようだった。現在彼女達が走っている辺りは緩やかな下り坂になっており、位置を上げたいウマ娘などは仕掛けたい所だろうが、前方から向けられる視線を警戒し、隊列を崩すことなくコーナーへと入っていく。
『シゲルサゲザネ、やや足を使っている!中団を抜け、先行集団の外目につけた!しかし第3コーナー中間ここからは更に激しい下り坂、ペースも上がっていきます』
「いいよ、いいよ、Currenなんか涼しい顔してるよ!?」
「でもシゲルサゲザネちゃん来てない……?大丈夫……?」
「ヒシビビッドちゃんもそんな苦しそうじゃないし、これってカレンチャンにいい展開なのかな?」
但し、掛かっていては合理性に欠ける判断を下す事もある。シゲルサゲザネが耐えかね、三番手として内ラチぴったりに走っていたタカノキングの外に併せた。変化が起こり始めたこの第6レースに戸惑い、カレンのファンであろう少女達が困惑を露わにしている。
「ーーカレンには悪くないと思いますよ。飽くまで彼女自身には影響がない小競り合いですし、ヒシビビッドは前だけでなく後ろへも注意を向けないといけませんから」
ふと背後から聞こえた若い男の声に、少女達は一斉に振り向く。そこに立っていたのは、白いワイシャツにネイビーのベストを羽織った、声以上に若々しい、ともすると少女達と何ら違いない年頃の見た目の青年だった。突然掛けられた声に動揺する一同に、彼は慌てて口を開く。
「あぁ、その……失礼しました。私トレーナーをしていまして、職業柄つい口を挟んでしまいまして……」
「あ、あぁ……トレーナーさんなんですか……」
自分で声を掛けておいて慌てるという奇特な行動に、カレンファンの少女達はやや怪訝な面持ちである。だがその中の一人、茶髪の小柄な少女だけは、荒木の前に身を乗り出した。思わず両脇の、キャップを被った少女とツインテールの少女が抑え込まんとするが、まるで止まる気配はない。
「どうなんですか!?Currenは勝てそうなんですか!?」
その形相は必死そのもので、むしろ実際にレースを走っているカレンよりも切迫している。目を見開いて、背伸びをして、知らない男にまで詰め寄って、カレンの心配をしている。言い換えれば、それだけカレンの勝利を望んでいるのだろう。青年はその圧力に少し戸惑うが、彼女の純粋な気持ちを悟り、優しく微笑んだ。
「レースに絶対はないとはいえ、1番人気ですから、順当に行けば勝つ可能性は高いでしょう。ただ……」
『第4コーナーに入り、先頭は以前カレンチャン。前半600メートルは33.4、速いペースですが先行勢にはどう影響するか!』
実況を聞いた少女達の表情が、一斉に翳る。ペースが速いという事は、それだけ前のウマ娘は潰れやすくなり、相対的に後方で脚を温存していたウマ娘が台頭する、所謂差し決着になる事も多い。カレンやヒシビビッド、タカノキングはまだ然程苦しげではないが、それでも後方のウマ娘がそれ以上に楽にレースを進められていたなら、直線では残った脚の差で沈む事も考えられる。
「あぁ、ペースに関してはご心配なく。その辺りは、むしろ最も重点的に鍛えた部分ですから」
「え?」
「もうすぐ直線ですね。どうぞ皆さん、ご自身の目で確かめてあげてください」
青年の言に疑問を抱いて振り返らんとした矢先に、バ場を指差した彼によって再び焦りながら前へ向き直るファンの少女達。青年の言った通り、既に先頭のカレンは最終直線に入ろうとしている。気が付けば、最後の鍔迫り合いへの期待感を膨らませた観客席の熱量は更に高まっており、それはこのレースの終わりが近いことを示していた。
『さあ356メートルの直線に入りました!先頭は依然としてカレンチャン!』
「わーーー!ねぇCurren先頭!先頭だよ!」
観客席の目の前、ホームストレッチの入り口から、遂にカレンがその姿を見せる。ターフビジョンに映されていたバックストレッチの時点と同じように、やはり疲労感は薄い。脚が上がっている訳でもなく、強みのピッチ走法を活かしてコーナーからの脱出も巧みに、内ラチを伝ってバ場の良い最内に進路を取った。
『続いてヒシビビッド、外からタカノキングが併せて上がってきた!シゲルサゲザネ苦しいか!後続が次々と追い上げにかかります!』
「ちょ、やばいんじゃない?後ろからだいぶ勢いよく来てるよ!」
「やだやだやだやだCurren逃げて!超逃げて!!!!」
「カレン勝ってー!」
小柄な茶髪の少女が、半狂乱になりながらもカレンの名が入った団扇を上下に振る。右隣の黒髪の少女は心配げに先頭のカレンを見つめ、左隣のキャップを被った少女は直向きに声援を送る。
『最内通ってカレンチャン粘る!タカノキングがバ場の真ん中を通って急追、ヒシビビッドは脚色が鈍いがどうだ!あと200、変わらずカレンチャン先頭だ!二番手に変わったタカノキング、この1バ身を詰められるか!?』
周囲から各ウマ娘の名が、半ば怒号や悲鳴にも似た声色でもって叫ばれる。例えもはや逆転は厳しかろうという未だ後方のウマ娘であっても、その名が呼ばれる。
そんな中耳を傾けてみれば、ファンの少女達だけでなく、他にも多くの観客がカレンの名を口にして声を張っている。兼ねてからの知名度だけでなく、パドックでのアピールも含めて、レース前から彼女の人気は高かった。それにしてもデビュー戦当日のウマ娘が、よもやゴールをし終えるまでに観客を魅せるとは、尋常な事ではない。彼女の走りが、見る人々に確かに届いていた。
『あと100!ここでタカノキングがカレンチャンに接近する!これは差し切るか!?カレンチャンは止まるか!?』
しかし声援を力に変えるにも限度がある。体力と走力の限界は、残酷にも全霊をもって臨むウマ娘の心を無視して脚を止める。不安が更に明確な形で、カレンを応援する人々の胸に去来したのはきっと、カレンとタカノキングの差が微かに縮まったのを見た時、そして二人の位置とゴールまでの距離の予測から、僅かに逃げ切ること叶わないのを悟ってしまった時だろうか。
流れたペースの中で逃げた事が悪手だったのか。純粋に能力不足だったのか。脚質的に逃げるべきではなかったのか。もっと溜めて逃げればよかったのではないか。調子が優れなかったのか。本当は余裕などなかったのではないか。意図せずして観客の脳裏を過る、考えられる敗因の数々。このままいけば差される、レースを見てきた者ほど予想できることだった。
「せっかちさん達、魅せるのはここからだよ」
声が聞こえた訳ではない。それなのに何故か、彼女がそう言っているのだとこの場の多くが理解できた。
『しかしカレンチャン!ここで再び加速!』
バテて項垂れるようにフォームを崩していた、そのように観客からは見えたカレンは、然しスタート時に比肩する程の瞬発力をここで見せつける。崩れているかの如きフォーム、それこそが力を発揮させている事に、この場のどれだけが気付いただろうか。万人の視線を一身に浴びてか、彼女は酷く楽しげに笑う。
『半バ身から1バ身!』
さしたる体格のない彼女の一完歩は小さく、なればこそこの他を圧倒する速力は、踏みしめた地面を的確に捉え、誰よりも力強く蹴ることの証左だった。鞭宛らにしなやかに振り上げられ、稲妻のように鋭く振り下ろされる両の脚が、路面を抉り彼女の足跡をターフに刻み込む。風を切り裂くように、姿勢は更に低く。スプリンターの本懐である、純然たるスピードを突き詰める。
『1バ身から2バ身!』
後方のウマ娘が徐々に詰め寄り、先行集団との差は徐々に縮まり始めていた。道中におけるシゲルサゲザネの捲り気味の位置上げによって、タカノキングやヒシビビッドはそれに引っ張られる形となり消耗しているのだろう。前が残るバ場といえども、彼女達のフォームは崩れ始め、足も上がり出す頃合いだった。
ただ一人、カレンだけが誰をも寄せ付ける事なく、ゴール板へと進んでいく。後方で脚を溜めていたはずのウマ娘が、それでも差をまるで縮められない。それは常に先頭を走りながら、上がり最速の豪脚を叩き出している事に他ならなかった。
『2バ身から!3バ身!』
見開かれた双眸が煌々と蠱惑の火を宿し、まるで彼女の過ぎ去った宙を轍のようにして彩る。そんな光景は錯覚に決まっている筈なのに、彼女を見つめる人々は一様にその視界を共有している。単純な走力などに留まらぬ、底知れない何かがある事を、この日その目で確かめたのなら、きっともう分かっている。
ホームストレッチ。勝負を決する分水嶺たる最後の直線を、今まさにウマ娘が走っていながら、却って場内の熱は鳴りを潜めていた。一秒毎に順位を変える彼女達の苛烈な鍔迫り合いをもってして、観客の声は直線に入る以前よりよほど小さい。或いは万を超す観衆の目が、順位を変える事もなく、独り先を行く一人の少女に向けられていたからだろうか。
『ーーゴールイン!』
場内を、天を衝く大歓声が満たした。
一時は抑圧されていた熱を伴っての莫大な声量が、これが単なるデビュー戦である事実を人々の思考から搔き消す。真昼の熱暑に包まれる正面スタンドは、更なる熱量をもって勝者を出迎えた。
『逃げながら圧巻の末脚で再度突き放す強いレースでした!一着はカレンチャン!離されて二着タカノキング、三着は接戦だがヒシビビッド体勢有利か!』
離れて先頭でゴール板を駆け抜けたカレンに遅れながらも、直ぐに続々と他のウマ娘がゴールしていく。最後の一人が駆け抜けた後も、熱気は収まることを知らない。観客一同は、興奮気味に顔を見合わせていた。ファンの少女達もまた例に漏れず、元来カレンのファンである事も相俟って盛り上がりを見せており、茶髪の少女などは一際狂乱して、目を血走らせる域に達している。
「Curren勝ったーーーーーーー!ねぇ!勝った!!!!!!推しの晴れ舞台生で見ちゃったよ!!!!!!??えェ!!!????」
「お、落ち着いてってー!でもほんとに勝っちゃったし、カレンってカワイイだけじゃなくて強いんだね!」
「いや、強いのもカワイイのもそうだけど、なんていうか……凄かった、よね…………?」
反応は様々だが、皆カレンの走りに魅せられているのは共通していた。茶髪の少女は跳ね回ってまで感動を表現し、ツインテールの少女がそれを宥めながらも興奮を隠しきれず、キャップを被った少女は熱狂というよりも唖然としているようである。青年はそんな様子を甚だ喜ばしそうに眺めた後、すぐに関係者用の地下バ道の方へと身を翻し歩き出した。向かう間にも、通りすがりに人々の会話が彼の耳に入る。
「あのカレンチャンって子、なんか凄かったな!これは大物かもしれないぞ!」
「何よりめちゃくちゃカワイイしな!ほら、ターフビジョン見ろよ!」
「でもレース中はなんというか、むしろ凄味もあったのよね……これからあの子、どうなっていくのかしらね」
そんな声につられて、ふと青年もまたターフビジョンへと目を向ける。あの直線で見せた魔力はどこへやら、競争ウマ娘としてではなく、ウマスタグラマーとしての愛くるしい笑顔が、レース場の中央に設けられた特大のスクリーンに映し出されていた。
「全く、あの走法だって未完成だっていうのに……」
青年は強く拳を握り締める。その拳が解けた頃、スクリーンの中の担当ウマ娘に返すように、彼が静かに笑った。
「……よくもここまで、魅せてくれるよ」
スピード:272
スタミナ:173
パワー:269
根性:134
賢さ:172
バ場適性 芝A ダートF
距離適性 短距離A マイルC 中距離G 長距離G
脚質適性 逃げB 先行A 差しE 追い込みG
【スキル】
#LookatCurren 仕掛け準備 束縛 未完の末脚