ファイナルファンタジー青 作:青さん
翌朝。
まだ朝靄の残る早い時間から、ミシディアの冒険者ギルドは普段とは比較にならないほどの人で溢れていた。
壁際に立て掛けられた剣や槍。床へ置かれた盾に、矢を満載した矢筒。革鎧の留め具を確かめる者がいれば、杖を片手に仲間と術式の確認をしている者もいる。
受付前の広間を埋めているのは総勢三十六名。
全員が、昨夜まで依頼板の目立つ場所に貼り出されていた大討伐依頼の参加者だった。
依頼の内容は、ミシディア近郊で確認されたゴブリンの大量発生。
軽い気持ちで参加表明をしたのはリューヤだが、その危険度は一般人のそれとしては桁が違う。
ゴブリンとは、オーク種ほどではないにせよ、基本的に己の欲に忠実な魔物だ。食料や金品だけでなく、人を攫うことさえ珍しくない。そして、攫った人間を大切に扱う道理など、当然ながら魔物にはない。
食欲、睡眠欲、性欲、そして最も厄介な殺戮欲。
戦う術を持たない人間であれば、ゴブリンの脅威は計り知れないだろう。それが大量発生ともなれば尚更だ。
つまり雑魚モンスターの代名詞、のように構えていたら、大変な目に遭う、ということ。
────が、それは戦う術を持たない一般人を基準にした場合。
数匹、あるいは十数匹程度なら、駆け出しを含む少人数のパーティーでも対処できるし、そもそもミシディアは魔法に特化した国。
ゴブリン程度は何ら問題なし、となるので、国が動くのではなく、ギルドに回ってくる。選民思想が強いが故に、出自不明の冒険者も多数いるギルドを明らかに下に見ている節は一旦置いておく。
リューヤ自身、ここを永住の地と決めたわけではない。マグたちに危険が及べばその限りではないが、取りあえずは宿屋暮らしで問題なさそうなので、ミシディアを拠点とした活動を続けている。
ミシディアでもそれなりに名が広がり、青の力はどんなものなのか? と度々接触されるが華麗に受け流している。国に関わると、それも闇が深そうな国に関わると面倒事になるのが相場で決まってる、と分かってるからだ。
それはそうと、今回の件だ。
本来、周辺に点在していたはずのゴブリンたちが、何者かに統率されているかのように集まり始め、複数の群れが合流しているとの報告が上がっていた。故にそれを放置すれば街道へ流出する危険もある。周辺を利用する商人には迂回が勧告されており、被害が出る前に可能な限り早く群れそのものを叩く必要があった。
それゆえの今回のレイド戦。
参加者が揃ったところで、ギルドマスターが改めて前へ出る。
普段なら依頼の説明は受付職員が行うことも多いが、三十人を優に超える冒険者を一度に動かすとなれば話は別だった。
調査で確認された範囲、想定される群れの規模、周辺の地形。さらに、これだけのゴブリンが一箇所へ集まっている以上、群れを統率する上位個体が存在する可能性についても説明される。
もっとも、上位個体についてはあくまで可能性の話だった。
今回の目的は巣の完全な制圧と、街道方面へ流出する恐れのある個体の殲滅。深追いによって陣形を崩すことは避け、負傷者が出た場合には無理をせず後衛へ下げる。単体では低級に分類される魔物であっても、数が集まれば話は変わる。ましてや相手は武器を使い、連携する程度の知恵も持っている。
油断していい理由など、一つもなかった。
説明を聞く面々の顔にも、その認識は共通している。
今回、全体の指揮を執るのは四十代半ばの戦士だった。
長年ミシディアを拠点としている古参であり、派手な武勇よりも、大人数を纏め上げる能力を評価されている男である。何度も大規模討伐へ参加し、そのうち幾度かは指揮官も務めている。ギルドマスターから名前を告げられても異論は上がらず、本人も慣れた様子で前へ進み出た。
前衛、後衛、治療役。参加者の得手不得手と普段の役割を把握しながら、手早く大まかな編成が決められていく。
そして、その中で一人だけ。
どの隊にも組み込まれない名前があった。
「リューヤは遊撃だ。状況を見て自由に動いてくれ」
「りょーかい。好きにやらせてもらうわ」
あまりにもあっさりと決まった。
ギルドマスターも異を唱えない。それどころか、それが当然であるかのように頷いただけだった。
広間に集まった冒険者のうち、リューヤと過去に仕事を共にしたことがある者は三割ほど。その顔触れからも疑問の声は上がらなかった。
むしろ何人かは笑っている。
反対に、残る者たちの反応は分かりやすかった。
遊撃という役割そのものは珍しくない。戦況に応じて手薄な場所を補い、突出した敵や想定外の事態へ対応する者は、大人数での戦闘において必要になる。
だが、それは本来、全体の指揮から外れることを意味しない。
どこへ向かうか、何をするか。その判断まで完全に個人へ任せるとなれば話は別だった。三十六人もの冒険者が参加する討伐戦で、一人だけ好きに動いて構わないという扱いは、いささか異様ですらある。
当然、初顔合わせの者たちからは訝しむ視線が向けられた。
それに気づいた古参の一人が肩を揺らして笑う。
「気にすんな。始まったら分かる」
説明になっていない。
そう顔に書いてある者が何人もいたが、それ以上の説明はなかった。別の顔見知りも似たような笑みを浮かべているだけで、わざわざ補足する気はないらしい。
随分と投げやりな扱いではあったが、リューヤ本人にも不満はなかった。
単独で動き、必要な場所へ必要な術を放り込む。それが最も彼の能力を活かしやすい。前衛が押されればそちらへ向かい、負傷者が増えれば回復を担う。火力が必要なら攻撃へ回り、陣形が崩れれば立て直す。
攻撃役か治療役か。そのどちらか一方へ固定されるより、戦況に応じて双方を行き来する方が、これまでの経験からも性に合っていた。
そして、それを知っているからこそ、ギルドマスターも総括を任された戦士も、最初から彼を特定の隊へ組み込むつもりがなかった。
「ただし」
そこでリューヤが軽く手を挙げた。
「面倒事が増えたら、報酬はしっかり上乗せしろよ〜」
緊張感の薄い野次が飛ぶ。
ギルドマスターは呆れたように眉を動かしたものの、否定はしなかった。
「当たり前だ。働きに見合うだけは出す」
「よし。言質取った」
「最近のお前はそういうところだけ抜け目がないな」
顔見知りから笑いが起こった。
一方、初対面の者たちの表情には、依然として若干の困惑が残っている。
二つ名を聞いたことがある者はいた。
《孤高の青》
《青い星》だの《極光の魔導士》だの《神聖魔法使い》だの、背中がむず痒くなる二つ名が続いていて、言われたい放題だったが、それに落ち着いた。
基本的にレイド戦以外では常にソロで活動しているから、だろうか。或いは他に意味があるのか不明だが、ギルドでもそう認識されている。
当初こそ訂正しようともしたが、呼ぶ側が勝手に決めて勝手に広めていくのが二つ名というものらしい。今では訂正することすら面倒になり、リューヤ自身も半ば諦めて受け入れていた。
ミシディアを拠点とする冒険者の中でも、少々変わった魔法を扱うことで知られる男。だが噂として名前を知ることと、その実力を直接目にしたことがあるのとでは話が違う。
何より、大規模戦の最中に独断で行動することまで許される理由にはならない。
それでも、総括を任された戦士はこの扱いを当然として受け入れている。ギルドマスターも同様であり、共闘経験があるらしい冒険者たちに至っては、説明を求める視線を向けられるたびに面白そうに笑うばかりだった。
超が付くほどのベテラン二人が揃って認めている以上、そこで異を唱える者はいなかった。
納得したというより、ひとまず呑み込んだ者の方が多かったのかもしれない。
そして、その答えを知るまでに、さほど時間は掛からない。
最終的な編成と装備の確認を終えると、一行は朝のミシディアを出発した。
三十六人もの冒険者がまとまって街道を進む姿は、それだけでもかなり目立つ。先頭を総括役の戦士と斥候役が進み、その後ろに前衛を担う戦士たち。魔道士や弓使い、治療役が続き、後方にも不意の襲撃へ備える者が配置される。
そのどこにも属さず、リューヤは列の中ほどを気ままに歩いていた。
道中では顔見知りから声を掛けられ、久しぶりに組む者とは近況を交わした。今回初めて同じ依頼を受ける者とも簡単に挨拶を済ませる。
その一方で、朝の扱いを見て半信半疑の者もいた。
期待と好奇。
信頼と懐疑。
それぞれの視線を乗せながら、一行は街道を外れ、徐々に人の手が入らなくなっていく土地へと踏み込んでいった。
やがて斥候が片手を挙げる。
それまで僅かに残っていた雑談が、一斉に途切れる。
地面には、小さな足跡がいくつも残されていた。
一つや二つではない。
乾いた土を踏み荒らし、草を潰し、同じ方向へ幾重にも重なって続いている。
さらに先。
木々の向こうから、甲高い声が微かに響いた。
笑い声にも、鳴き声にも聞こえる。
一つ。
二つ。
そして、その奥から重なるように、さらにいくつもの声が続いた。
ここから先が、今回の討伐区域だった。
斥候が膝を落とし、地面に残された足跡へ指を添える。
だが数える意味など、とうに失われていた。
一つの群れが通った痕跡ではない。大小の足跡が幾重にも重なり、ところによっては柔らかな土そのものが掘り返されたように荒れている。街道から外れたこの一帯は元々人通りも少なく、獣の痕跡が残ること自体は珍しくない。それでも、ここまで露骨に一種類の魔物が行き交った形跡となれば話は別だった。
先行していたもう一人の斥候が木々の間から戻ってくる。
「この先だ。開けた場所にかなりいる。見えただけでも五十……いや、もっとだな。奥にもいる」
「巣は?」
「さらに奥。こっちにはまだ気づいてない」
総括を任された戦士が頷き、周囲を見回した。
「ここから声を落とせ。予定通り展開する」
それまで一つの集団として進んでいた三十六人が、指示と同時に分かれていく。
先頭には盾を持つ重装の戦士。その後ろに槍や長剣を扱う前衛が続き、さらに後方へ弓使いと魔道士が散る。治療を担う者は中央寄り。左右にも数人ずつが回され、木々に遮られない射線と、万一押し込まれた際の退路が確保されていった。
さすがに大規模討伐を何度も経験してきた者が多いだけあって、その動きに無駄はない。
リューヤもまた、指示を受けることなく列から外れた。
前でも後ろでもない。
どこへでも行ける位置。
ギルドで決められた通り、完全な遊撃だった。
やがて前方を覆っていた木々が途切れる。
最初に見えたのは、粗末な天幕だった。
獣の皮を木へ引っ掛けただけのもの。泥で汚れた木箱。食い散らかされた何かの骨。地面には焚き火の跡がいくつも残り、その周囲を小柄な人型の影が行き交っている。
一匹。
二匹。
そんな数え方ができたのは、ほんの一瞬だけだった。
岩の陰にいる。
木の根元にもいる。
少し離れた場所では数匹が固まり、さらにその奥にも別の群れが蠢いている。手にしているのは棍棒だけではない。刃の欠けた短剣、錆びた斧、先端を尖らせただけの粗末な槍。どこから奪ったのか、人間用と思しき剣を引きずるように持つ個体まで混じっていた。
そして、そのさらに向こう。
木々に隠され、全容すら見えない奥からも、甲高い鳴き声が絶えず聞こえている。
報告として聞いていた大量発生。
頭では理解していたはずの言葉が、初めて具体的な光景となって目の前に現れた。
「……多いッ」
誰かが呟いた。
声の主は若い戦士だった。
ギルドでリューヤへ訝しげな視線を向けていた一人でもある。
隣にいた魔道士も杖を握り直す。顔から血の気が引くほどではない。それでも先ほどまでの余裕は消え、目の前を行き交うゴブリンの数を何度も確かめていた。
「これで……見えてる分だけなんだろ?」
「そうらしいな」
「奥にもいるって……」
僅かな動揺が伝播する。
誰も逃げ出しはしない。
ここにいる時点で、最低限の戦闘経験は持っている。ゴブリンを倒したことがない者など、むしろ探す方が難しい。
だからこそ分かる。
一匹を倒すことと、百に届こうかという数を相手にすることは、まるで意味が違う。
一対一なら容易く捌ける攻撃でも、左右から同時に来れば話は変わる。正面の一匹を斬り伏せた瞬間、その死体を踏み越えて次が来る。疲労するのは人間も同じであり、剣を振るう腕も、魔法を放つための精神も無限ではない。
数とは、それだけで力だった。
まして、ここにいるものが全てではない。
事前に聞かされていた話と、実際に目にする光景。
その差に息を呑む者がいることを責める者はいなかった。
「落ち着け」
低い声が飛んだ。
総括役の戦士だった。
大声ではない。
それでも三十六人を纏める男の一言は、ざわめきかけた空気を押し留めるには十分だった。
「数が多いことは最初から分かっていた。だから俺たちはレイドで来た。単独で突っ込む必要はない。前は前、後ろは後ろで仕事をしろ。横を見る余裕がなくなったら声を出せ。誰かが見る」
短い言葉だった。
だが、それで十分だった。
強がって数を否定することも、根拠もなく安全だと言い聞かせることもしない。
モンスターも多い。
だからレイド戦として、合計三十六人で来た。
ただそれだけの事実を改めて示され、強張っていた何人かの肩から僅かに力が抜ける。
それを確認した戦士が、今度は一人だけ別の方向へ顔を向けた。
「リューヤ」
少し離れたところでゴブリンの配置を眺めていたリューヤが振り返る。
「ん?」
「頼む」
たった二文字で済んだ。
何を、とは言わない。
それで通じることを知っている。
「はいよ」
返事も軽かった。
リューヤは杖を構えるでもなく、一歩だけ前へ出た。
そのやり取りを初めて見る者たちが、何が始まるのかと視線を向ける。
一方で、過去に共闘した経験のある者たちは違った。
盾の位置を直す者。
剣を握る手から余計な力を抜く者。
そして何人かは、地面を確かめるように軽く爪先を動かしている。
これから何が起きるのか、既に知っている動きだった。
「んじゃまあ――いつものから、魅せますかね」
リューヤが右手を持ち上げる。
ニヤリ、と笑ってただひと言。
【青魔法こそ至高!】
詠唱らしい詠唱はない。
大仰な動作もない。
それでも次の瞬間、彼を中心として生じた魔力が、目に見えない波となって周囲へ一気に広がった。
「――マイティーガード」
三十五人。
その全員を、同時に魔力が包み込む。
最初に感じたのは、身体の表面を覆う奇妙な感覚だった。
鎧をもう一枚着込んだわけではない。重さもなければ、動きを阻害する感触もない。それでも確かに、外側に何かが存在している。
輝く光の薄い膜。
そう表現するのが最も近い。
肌から僅かに離れたところを覆う見えない力が、外から加わる衝撃を拒むように静かに留まっている。
それだけではなかった。
魔法を扱う者たちが、ほぼ同時に表情を変えた。
「……防護魔法!?」
一人が自らの腕へ目を落とす。
物理的な衝撃に対する守りだけではない。
術式によって放たれる力。炎や冷気、雷撃を始めとする魔法そのものへ抗う別種の守りまで、同時に身体を包んでいる。
一つの術で二つ。
そう認識した直後だった。
「――うおっ!?」
誰かの身体が、ふわりと持ち上がった。
一人だけではない。
前衛も。
後衛も。
魔道士も。
治療役も。
一斉に足の裏が地面を離れ、三十五人の身体が僅かに宙へ浮かび上がる。
初めてそれを受けた者たちから、驚きの声が連続した。
「これ、まさか
その魔法については知っている。
地面から身体を浮かせる浮遊魔法。
上位に位置する非常に難しい魔法だ。ましてや、これだけの数全員にかけるなんて聞いたこともない。
そして今使われた術は、それだけでもない。
「ちょ、待てっ……!」
反射的に地面を踏みしめようとした若い戦士の身体が、予想より大きく横へ流れた。
足場が消えたわけではない。
だが、これまで体重を預けていた大地との接点がなくなれば、同じ感覚で身体を動かせるはずもなかった。
慌てて剣を振って均衡を取ろうとしたところへ、横から手が伸びる。
「あんまり暴れんな。余計に姿勢崩すぞ」
支えたのは、リューヤと何度か共闘したことのある戦士だった。
本人は地面から数十センチほど浮いたまま、何事もないように姿勢を保っている。
「踏ん張ろうとすんな。いつもより軽く蹴る感じでいい。慣れれば足で駆けるより速いし、危なくなったら空に回避も出来る。かなり便利だ」
「いや、先に言ってくださいよ!?」
「わりっ、忘れてた」
「ええええ!!」
やり取りを聞いていたであろうリューヤが軽い調子で答えていた。
ギルドでいろいろと言われていたが、それらが誇張ではないと分からされた瞬間だった。高度な魔法同時三連発なのだから。
「──まあ、最初はみんなそうなるわな」
「だったら尚更! リーダー! 知ってたんでしょ!?」
「言ったとして、信じるか?」
その言葉に対して、口ごもる。
当然だった。これほど異質な術を、彼らはこれまで一度として目にしたことがない。
だが、異議はある。
「実演してもらえれば……」
そう、論より証拠、なのだ。実際にしてもらって見せられたら、疑う余地がない、と言うものだ。だが、首を横に振る。
「戦いの前に疲れさせてどうするんだ? って話だ」
「う……」
それもそうだ。これほどの魔法、直ぐに魔力が底をついても不思議じゃないのだ。でも、とうの本人は、笑っている。しんどそう、苦しそうにしてる様子もないが。
先ほどまで敵の数に呑まれかけていた空気が、それだけで少し緩む。
「そうそう。あと切れてもいきなり落ちたりしないから安心していいよ。ふわふわ〜っと下りるから」
軽く注意事項を。
しかし、その軽さとは裏腹に、与えられた効果は笑って済ませられるものではなかった。
身体を守る力。
魔法を阻む力。
そして、大地から身体を切り離す浮遊。
それら全てが、一度の術によって三十五人へ与えられている。
ギルドで彼の扱いに疑問を抱いていた者たちが、揃ってリューヤを見る。
朝、遊撃として完全な自由行動を認められていた男。
総括役もギルドマスターも、それを当然として受け入れていた。
共闘経験のある者たちは説明すらせず、始まれば分かると笑っていた。
その意味を、ようやく理解し始める。
だが、顔見知りたちの反応を見る限り、これでもまだ驚くには早いらしい。
「全員掛かったな」
リューヤが周囲を見渡す。
総括役の戦士も、自らの身体を包む力を確かめてから頷いた。
「助かる」
「報酬」
「分かってる」
「よろしい! 食わしてやらにゃならんのが増えたのよ」
緊張感があるのかないのか。
そんなやり取りを最後に、総括役の男が前を向いた。
その瞬間、空気が変わった。
ゴブリンたちも、ようやくこちらの存在に気づいたらしい。
もっとも、ここまで来れば先ほどの「声を落とせ」という指示も意味をなさない。レビテトに驚く声まで上がったのだから当然だった。
その騒ぎを聞きつけた一匹が、こちらを見て甲高い声を上げたのだから。
続いて別の一匹。
さらに奥からも重なり響いてくる。
その声が瞬く間に伝播し、それまで好き勝手に動き回っていた小柄な影が、一斉にこちらを向いた。
錆びた刃が持ち上がる。
棍棒が握られる。
槍の穂先が並ぶ。
ギャアギャアと耳障りな声を重ねながら、数十のゴブリンがこちらへ向けて動き始めた。
一方、人間側からはもう動揺の声は上がらない。
盾持ちが前へ。
槍兵がその後ろへ続く。
浮遊に慣れていない者も、隣にいる経験者の動きを真似ながら高度を低く保つ。まだ足元を気にする者もいるが、今は戸惑っている暇もない。
弓使いたちが矢を番えた。
魔道士たちの杖へ光が集まる。
治療役は前衛との距離を確認し、いつでも動ける位置へ。
そして、そのどこにも属さない一人だけが、皆より少し後ろで気楽そうに立っていた。
総括役の戦士が剣を抜く。
「前衛――構えろ!」
盾が並ぶ。
迫るゴブリンの足音が、地面を細かく震わせる。
「後衛、初撃用意!」
弦が引き絞られ、杖の先で魔力が膨れ上がる。
敵との距離が縮まる。
五十。
四十。
三十。
一斉に襲い来るゴブリンの群れを見据え、男の剣が振り下ろされた。
「――討伐開始!」
矢と魔法が空を裂いた。
矢の雨が降り注ぎ、直後、その隙間を縫うように炎と氷の魔法が着弾した。
爆ぜた土煙の向こうで、何匹ものゴブリンが吹き飛ぶ。
だが、それで止まる数ではない。
倒れた同胞を踏み越え、あるいは左右へ散りながら、残った群れが甲高い声を上げて殺到する。
「来るぞ!」
盾と棍棒が正面から激突した。
ガンッ、と鈍い音が響く。
その瞬間、最前列にいた若い戦士が僅かに目を見開いた。
足は地面から離れている。
ならば、まともに受ければ身体ごと後方へ押し流される――無意識にそう身構えていた。
だが、違う。
「(あれ? ……踏ん張れてる?)」
浮いている。
確かに浮いているのに、盾を支える身体には、地面に両足をつけている時と変わらない手応えがあった。
押せる。
受けられる。
そのまま力を込めれば、逆にゴブリンの棍棒を弾き返すことさえできる。
「ギャッ!?」
体勢を崩した一匹を、隣の槍兵が仕留めた。
考えている暇はない。
右から別のゴブリン。
さらに左からも短剣を持った個体が迫る。
「っ!」
二匹同時。
若い戦士は反射的に距離を取ろうとして――地面を蹴った。
「うおっ!?」
身体が後方へ滑る。
一歩。
二歩。
そんな距離ではなかった。
普段のバックステップと同じ力を込めただけなのに、身体は地面へ落ちることなく、そのまま数メートルを一息に飛び退いていく。
左右から振るわれた刃が、遥か手前で空を切った。
「いや、飛びすぎだこれ! すげえ!!」
少し離れた場所から笑い声が飛んでくる。
見れば、リューヤとの共闘経験がある戦士が、迫ってきたゴブリンの剣を受け流したところだった。
直後、爪先が地面へ触れる。
ほんの僅かに蹴る。
それだけで身体が斜め後方へ滑り、追撃の棍棒を避けた。
着地しない。
そのまま宙に留まり、次の瞬間には別の方向へ身体を流して剣を振るう。
「おーい、強く蹴る必要ねえぞ〜! 軽くでいい」
「先にそれを教えてくれ!」
「習うより慣れろ、だ!」
悪態を返しながらも、若い戦士の顔から先ほどまでの強張りは消えていた。
再び迫るゴブリン。
今度は自分から低く前へ出る。
爪先で軽く地面を蹴れば、身体が滑るように加速した。
ゴブリンが棍棒を振り上げる。
その間合いへ入る直前、もう一度だけ地面を蹴った。
上へ。
「ギャッ!?」
棍棒が足下を通り抜ける。
ほんの一瞬だけ敵の頭上を越え、その背後へ回る。
慣れない姿勢に身体が傾いたものの、剣を振るには十分だった。
一閃。
振り返る暇すら与えず、ゴブリンが地面へ崩れ落ちた。
「……これ、滅茶苦茶便利じゃないか」
ようやく実感した。
浮いているだけではない。
受ける時には踏ん張れる。
離れたければ、僅かな蹴り一つで通常では考えられない距離を取れる。
そして、地上から武器を振るうしかない相手なら――上へ逃げるという選択肢まで増える。
同じことに気づき始めたのは一人だけではなかった。
最初こそ戸惑っていた初参加の冒険者たちが、少しずつ地面を蹴る力を弱めていく。
剣をかわす。
槍を越える。
囲まれる前に後方へ滑る。
その隣では、既に扱いに慣れた者たちが低い高度を自在に行き交い、ゴブリンの間合いを一方的に外していた。
戦場のあちこちで、動きが変わっていく。
そして彼らを包むのは、レビテトだけではない。
棍棒を受ければ、本来より明らかに衝撃が軽い。
朝、誰にも縛られず遊撃することを許された男。
その理由を、初めて彼と戦う者たちはようやく身体で理解し始めていた。
《孤高の青》が一人いるだけで。
戦場に立つ全員の戦い方そのものが変わるのだ。
戦いが始まってから、さほど時間は経っていない。
「そっち三匹行ったぞ!」
「分かってる!」
声を受けた剣士が、地面を軽く蹴った。
身体が滑る。
走るよりも速く、しかも足場に動きを阻害されることなく数メートルの距離を一息に詰め、側面へ回ろうとしていたゴブリンの前へ割り込んだ。
「よっ、と!」
爪先が地面を蹴った。
ふわりと身体が斜め上へ抜ける。
棍棒が足下を通過し、そのまま勢い余って隣のゴブリンへ激突した。
「ギャッ!?」
「お前、何やってんだよ!」
思わず笑いながら剣を振り下ろす。
先ほどまでレビテトに翻弄されていた者とは思えない動きだった。
もっとも、全員がそこまで器用に扱えているわけではない。
蹴る力を間違えて飛びすぎる者もいる。
身体を傾けすぎて、空中で慌てて姿勢を戻す者もいる。
それでも、戦闘が続くにつれて少しずつ扱い方を覚えていく。
地面を強く蹴る必要はない。
少しだけ、行きたい方向へ、身体を押し出す程度でいい。
その感覚さえ掴めば、これほど便利なものもなかった。
まさに、習うより慣れろとはよく言ったものだ。
「右、空いたぞ!」
「二人回れ!」
指示が飛ぶ。
二人の戦士がほぼ同時に地面を蹴る。
普通なら木の根や倒れたゴブリンを避けながら走らなければならない距離を、その全てを無視して一気に滑り抜けた。
穴が埋まる。
突出しかけていた槍兵が下がる。
入れ替わった二人がゴブリンを受け止める。
リューヤと何度も共闘している者だけならともかく、初めてマイティーガードを受けた者たちまで、既にレビテトへ順応し始めている。
元々、今回集められた三十六人は駆け出しだけで構成された集団ではない。
ゴブリンの数が多いことなど、依頼を受けた時点で分かっていた。
そこへ守りを底上げされ、地上を走るしかない相手に対して移動の自由まで与えられれば、当然ながら結果は大きく傾く。
実際、既にかなりの数が地面へ転がっていた。
対して、人間側に負傷者はいないと言って良い。
多少の擦り傷や打撲はあるが、そんなものは怪我のうちにはいらないだろう。
だが、後方へ運ばなければならない者は、未だ一人も出ていなかった。
「おお〜。こりゃ思ってたより楽そうだ」
リューヤも同じことを考えていた。
正直なところ、もう少し苦戦すると思っていた。
敵は多い。
それは間違いない。
だが、所詮は大半が通常のゴブリンだ。
こちらは三十六人。
しかも、集団戦に慣れた冒険者も多く参加している。
マイティーガードを掛けた後は、リューヤ自身がわざわざ前へ出る必要すらなくなっていた。
遊撃として戦場全体を見渡しながら、危なそうな場所があれば補助に入る。
今のところ、それで十分だった。
「(ん。これなら昼過ぎには――)」
帰れるかもしれない。
そんなことを考えた、その時だった。
「何匹か! 抜けたぞ!」
前方から声が飛ぶ。
三匹。
乱戦の隙間を縫うように、小柄な影が前衛の脇を抜けた。
一匹は弓使いが即座に射抜く。
だが、残る二匹――いや、さらに横からもう一匹が加わった。
三匹のゴブリンが、そのまま後方へ駆けてくる。
そして、その進路上にいたのがリューヤだった。
「リューヤさん!!」
甲高い声が響いた。
少し離れたところにいた白魔道士の少女だった。
治療役として中央寄りに配置されていた彼女も、リューヤとは今日が初対面である。
だからこそ、当然の判断だった。
戦闘開始前、三十五人全員へ強力な防護を施した。
物理攻撃への守り。
魔法への守り。
さらには上位の浮遊魔法。
どう考えても魔法を専門とする人間である。
そんな者の懐へ、三匹ものゴブリンが入り込んだ。
「危ない!!!」
少女が杖を握り締める。
だが、当のリューヤは、迫ってくるゴブリンを一瞥しただけだった。
それどころか。
「大丈夫、大丈夫」
ひらひら、と片手を笑顔で振った。
まるで待ってました、と言わんばかりに。
「えっ!?」
その間にも、一匹目は目前まで迫っている。
錆びた短剣が振り上げられた。
「リューヤさんっ!」
声が重なると同時にゴブリンが飛び込む。
そして、呼応する様にリューヤも一歩、深く踏み込んだ。
腰を落とし、右腕を引く。
「――ふんッ!」
拳が、ゴブリンの顔面へ突き刺さった。
鈍い音が響いた。肉を穿ち、骨を砕くような音。
「ギャ――ッ!?」
小柄な身体が宙を舞う。
一メートルや二メートルではない。
殴られた勢いそのままに後方へ吹き飛び、地面を何度も転がって、ようやく止まった。
「…………え?」
白魔道士の少女が固まった。
杖を構えた姿勢のまま、目だけが大きく開かれている。
だが、リューヤへ考える時間を与えるほど、残り二匹は親切ではない。
仲間が殴り飛ばされたことに怯むどころか、左右へ分かれて同時に襲い掛かった。
片方が短剣。
もう片方が棍棒。
「ギャアアッ!」
「キュアアアアア!!」
恐れもなく、盲目に飛び込んでくる二匹のゴブリン。
そして、迎え撃つリューヤの拳が走った。
「オラァ!!」
ドン! と再び鈍く音が響く。
しかし、今度は一度では終わらない。
右。
左。
右。
左。
右、左、右、左、右、左――。
「オラオラオラオラオラオラオラオラァッ!!」
殴る。
ひたすら殴る。
短剣を振る暇も、棍棒を下ろす暇も与えない。
顔、腹、胸、肩。
拳の連打を浴びた二匹の身体が、殴られるたびに右へ左へ跳ね回る。
最後に大きく踏み込んだ。
「――オォォォラァッ!!」
二匹まとめて吹き飛んだ。
地面を転がり、最初の一匹とほとんど同じ場所で折り重なるように倒れる。顔面は特に原形留めていない。
そして静かになった。
いや、戦場そのものは、まるで静かではない。
少し離れた場所では今も剣と棍棒がぶつかり、魔法が爆ぜ、ゴブリンの叫び声が飛び交っている。
ただ、白魔道士の少女の周囲だけが、妙に静かになったように感じられた。
「…………」
杖を握ったまま、少女は三匹を見る。
次に、リューヤを見る。もう一度、三匹を見る。
そして最後に、リューヤの両手を見る。
何も持っていない。
杖も。
剣も。
短剣も。
棍も。
素手だった。
「え、ええ……?」
理解が追いつかない。
「ぶ、武器を……使わず、素手……?」
リューヤが拳を軽く振り、何事もなかったように指を開閉する。
「モ、モンク……でした……?」
ようやく絞り出した答えが、それだった。
少なくとも、白魔道士の少女が知る常識の中では、それが最も近い。
だが。
「いーや」
リューヤが首を横に振り否定する。
そして、握った拳を胸の前へ持ち上げた。
先ほどまで三匹のゴブリンを殴り飛ばしていた男とは思えないほど、得意げな顔だった。
「これぞ本当の――」
一拍おき、キメ顔とともにリューヤは高らかに告げた。
「ゴブリンパンチ!」