「何が悪いってんだよ……」
時刻は21時。
荒れた心情を表すような雨風が強く吹いているなか、軽い舌打ちとともに何度目かもわからない愚痴を吐いた。
左手にはビニール傘。右手に持った袋には、憂さ晴らしのためにコンビニで購入した、数本の缶チューハイと一箱のタバコ。
死んだ目つきで背中を丸めてフラフラと歩く俺は、ワイシャツの胸ポケットに挟んであるトレーナーバッジさえなければ、もはや不審者と大差なく見えるだろう。
もっとも、トレーナーバッジの知名度がいかほどのものなのかは不明だが。
──何が悪かったのか。
心のなかでもう一度反芻する。
より具体的に言えば、俺には担当がまったくつかないのには、何か理由があるのか。
いくら自問自答してもわからなかった。
「……愛想は、よく振る舞ってたつもりなんだけどなあ?」
実際に今日も、学園のウマ娘たちの選抜レースがあった。
俺はレースで優勝した子ではなく、2着に破れたウマ娘をスカウトしようとした。
高値の花といえる存在ではなかったが、決して下衆な打算や同情で声をかけたわけではない。
あくまでもその子の走り、気迫、勝利を逃したことに本気で悔しがれる執念に成長性を感じて声をかけたつもりだった。
だが彼女はどこかよそよそしく、やんわりと誘いを断りながら早足で校舎へと去っていった。
笑顔を心がけ、一応は取引なので敬語も忘れず、言葉も慎重に選んだつもりだったのだが……。
「……まあ、今は考えてもしゃーないか。とりあえず、辛い思い出は酒で流して……ん?」
思考に耽っていると、ふと視界の右端に、自分の膝丈ほどの高さの塊が映った。
不法投棄の粗大ごみか何かだと思いスルーしようとしたが、あるものがくっきりと目に入ったことで中断された。
それはトレーナーとして見間違えるはずもない……トレセン学園の制服。
足を止め、向かい合うようにして正面から見る。
そこでようやく、それを着た学園のウマ娘が塀に寄りかかるようにして、膝に顔をうずめてしゃがみこんでいることに気がついた。
(な、なんだこりゃ……!?)
「…………」
目の前のウマ娘は、自分が目の前にいることを知ってか知らずか、顔を上げることもなく俯き続けている。
雨の中。傘も合羽も持たず、濡れたアスファルトにしゃがみ込む生徒。
彼女が誰なのか、夜も遅くに何をしているのか、どうして傘も差さずに座っているのかは、何もわからない。
どうせ浅い不快にせよ事情があるのだろう。赤の他人である俺が関わったところで、お互い面倒くさいだけかもしれない。
だからといって──。
「……おい、ここで何してるんだ? 門限はとっくに過ぎただろ?」
──腐っても一端のトレーナーとして、この状況を無視することはできなかった。
「……?」
俺の声に反応して、彼女がゆっくりと顔を上げる。
今まで泣いていたのか、その虚ろな目には充血が見てとれる。
「……キミ、だれ……?」
憔悴しきった声で、彼女が問いかける。
「俺はトレセン学園のトレーナーだよ……一応な」
ぶっきらぼうにそう答える。
定義上、トレーナーであることに間違いはないのだけれど、新人とはいえ担当を一人も持っていないのに堂々と名乗っていいものなのかと思うと急に自信がなくなってきて、よくわからない一言を付け足してしまった。
「……ホントだ、バッジつけてる。もしかして、誰かに言われてマヤを探しに来たの……?」
……マヤ、というのは彼女の名前だろうか。
軽く首を横に降った後、質問に答える。
「そういうわけじゃねえよ。ウマ娘の捜索願なんて話は聞いたこともないしな。俺は帰り道がたまたまこの道だったってだけだ……でもまあ、見つけてしまったからには立場上、素通りするわけにもいかないからとりあえず声かけてみたんだわ」
事情を説明すると、彼女は少しだけ安心したような顔を浮かべて言った。
「……そう。なら、マヤに構わず帰っていーよ……」
「そういうわけには行かないんだっての。お前がこのまま凍死でもしたら、俺はトレーナーをクビになるどころじゃ済まされないし、寝覚めが悪すぎる」
「…………」
彼女は無言で俺の言葉を聞いている。
「……何があったかは知らねえけどさ、せめて雨風の凌げるところで休んだほうがいいんじゃねえの? その位置だと雨も正面から喰らってるみたいだし、冷たいだろ」
「……でも、お店はどこも閉まってるし、駅とかに行っても職員さんに通報されちゃうもん」
この場所も似たようなもんだろ。そう言いかけたが、あまりに配慮不足ではないかと口をつぐんだ。
先程も言ったように、ここはトレセン学園から俺の家までの帰り道。
俺はトレーナー寮に住んでいるわけではないので学園のすぐ近くとまではいかないが、それでも通勤には不自由しない程度の近場に家を借りている。
ここから学園までの距離は……適当に見積もって15分と言ったところか。留まり続ける限り、本気で探せばいずれ見つかってしまうだろう。
頭の中でこの情報と、なるべく柔らかい言い方を模索して組み合わせ、そことなく目の前の彼女に伝える。
「……そっか。ねえ、キミはアタシのこと、心配してくれてるんだよね?」
「まあ、そりゃ……」
正直に答えると、彼女はここへきて初めて微笑みを浮かべ、こう続けた。
「だったらさ──キミの家、行ってもいーい……?」
「……は、はぁ!?」
衝撃の提案に、驚くと同時に声が裏返る。予想外すぎて、蹄鉄で頭をぶん殴られたような感覚がした。
彼女を、俺の家に……?
「い、いいわけないだろ! 事案だ事案! というか俺は所詮、上の意向には逆らえない下っ端トレーナーだぞ? お前を見つけるようにと言われれば、容赦なく売り飛ばすぞ!」
「……そんなことしないくせに」
「な、何がわかる……!」
彼女は俺と目を合わせ、さも当然のように語りだした。
「キミがそういうタイプの人なら、指示が出てても出てなくても、マヤを見かけた時点で学園に連絡してたでしょ? だってマヤが『このトレーナーちゃんに見逃されたから、もっと逃げててもよかったと思った』なんて言ったら……キミもただじゃ済まないもんね」
「……こ、こいつ」
雫がたらりと首筋をつたう。それは雨ではなく、冷や汗によるもの。
「……マヤ、結構”わかっちゃう”んだ、そういうの。キミは学園での立場とか周りの目が一番大切で、良くも悪くもマヤに興味ないよね?」
「…………」
図星だった。
最低限の責任感と倫理観は残っているため、彼女に安全な場所へと避難してほしいという思いはある。が、それだけだった。
自分は彼女を説得しようとした。彼女はどこか安全なところに消えた。
正直、その事実さえあればよかった。極論すれば、死なれなければこの後どうしようとも構わないとさえ、考えていた。
「……マヤがキミの家に泊まれるなら、少なくとも凍えて死んじゃうことはないよ。それに学園に見つかっても、マヤが無理やり……なんなら、無理やりキミを脅して部屋を借りたって報告する」
どうかな?
彼女がコンクリートにだらっと両足を伸ばし、小悪魔的に笑う。
……そこじゃないだろ。
思春期の少女が、成人男性の家に転がり込む。
これがどれだけ危険なことか、理解していない年齢でもあるまい。
こいつは本気で、俺がこいつに無関心だから何もしないと思っているのか。
はたまた、それすら受け入れる覚悟を決めるほど、学園に帰りたくない理由でもあるのか。
それとも……。
「……ああ、めんどくせぇ」
首筋を一掻きする。
「……え?」
「もう、あれこれ考えるのがめんどくさくなってきた。ただでさえ昼間、慣れないことして疲れきったっつーのに……なんでこんな夜更けにまで悩まなくちゃいけないんだか。あれか、時間外労働ってやつか?」
「……えっと、どういうこと……?」
彼女が出会った頃と同じように、困惑の表情を浮かべる。
ただし最初みたいに全てを諦めたような瞳ではなく、多少の生気が戻っており、純粋に意味がわからないことに対して悩んでいるようだった。
「んだよ、”わかっちゃう”んじゃねえのか? まあ……あれだ。着いてくるなら勝手に着いてこいってことだ。お客様扱いはしてやれねーけどな」
「……いいの?」
彼女が首をかしげる。
「……お前が振ってきた話だろうが。好きにしろよ。ただし、見つかったらちゃんと口裏合わせろよ?」
「う、うん……」
俺の突然の手のひら返しに、彼女は未だ困惑しているようだった。
しかし、いつまでもここで時間を潰すわけにもいかないので、彼女の目の前にそっと右手を差し出す。
「……ほら。茶くらいは出してやるから」
急かすように、手首を一振りする。
「あ……えへへ、ありがとう」
そこでようやく彼女は俺の手を掴んで立ち上がり、冷たい雨水の流れるアスファルトから臀部を離した。
「お前、名前なんて言うんだ?」
「……名前?」
「教えてもらわないと、なんて呼んだらいいかわかんないだろ。別に学園にチクるためじゃないから安心しな」
「あ、そっか……うん、わかった。あのね、アタシの名前はね……」
納得したようにそう言うと彼女は少し首を左に傾けながら、十八番であろう妙に可愛げなポーズを取り……。
「──マヤノトップガン。よろしくね、優しいトレーナーちゃん♪」
そう、名乗ったのだった。
◇◆◇
「……着いたぞ」
「……え、ここ?」
学園から自転車で約20分。
周囲にはスーパー、コンビニ、ファストフード店くらいしか目ぼしいものもない。
そんな辺鄙な地のボロアパートに、俺たちはとうとうたどり着いた。
「……嫌なら入らなくていいけど」
意外だと言わんばかりに目をパチクリさせているマヤノに横槍を入れると、彼女は慌てて弁明を始めた。
「あ、そ、そういう意味で言ったんじゃなくて! ほら、トレーナー寮ってすっごく広いから、寮に住んでないトレーナーちゃんも似たような家に住んでるのかなって……」
「なんだ、お前トレーナー寮に行ったことあるのか?」
「うん、前にてい…………やっぱり、なんでもない」
「……?」
説明を始めた彼女はふと言葉を止め、再び暗い顔に戻ってしまった。
よくわからないが、彼女にとって地雷となる出来事でもあったのだろうか。
とはいえ、今俺が踏み込んでも面倒なだけだろう。
「……まあいいや。中に入るぞ」
「うん」
ポケットからキーケースを取り出し、そのなかの一つを鍵穴にねじ込んで回し、ドアを開ける。
ギイ、という音を立てて扉が開かれた後、暗闇の中で勘を頼りに右手でスイッチを探し、玄関の明かりをつける。
「わっ」
急に明るくなって驚いたのか、マヤノが小さく声を上げる。
そこで彼女は、初めて俺の家の全貌を見ることになったのだが……。
「…………嘘でしょ」
……絶句していた。おそらく、あまりの汚さに。
六畳一間の1K。玄関から一望するだけで、外見通りと言わんばかりの細かな廃れ具合がよく目立つ。
うっすらと見える六畳間は、ゴミの日に出し損ねたゴミ袋がデスクを囲むように所狭しと転がっており、合間合間に貴重品や仕事の資料であろうものも散乱している。
もともと白かった壁はヤニをよく吸って黄色に変色しかけており、床には何箇所か、明らかに配色の合わない青色のポリバケツが鎮座している。無論、雨漏り対策のためである。
玄関から左を向くと台所があるのだが、いつから洗っていないのかもわからないほどの皿・コップの山の上に、トランプタワーの要領でバランスよく重ねられた紙皿と紙コップ、カップ麺の容器などがある種のアートを織りなしている。
「……だから言ったろ、お客様扱いはできないって。つか、トレーナー寮って結構高いんだよ。ぺーぺーの俺が入ったら、毎日断食でもしなきゃ生きていけないんだわ」
「だ、だからって……これはどうなのぉ……?」
マヤノは辺りをキョロキョロ見渡しながら、恐る恐るといった様子で抗議の声をあげる。
実家、そして管理の行き届いた学園寮と、生まれてからずっと清水のなかで生きてきた彼女には、こんなドブ川みたいな部屋を見るのは初めてなのだろう。
こうも困惑されると……最終的には俺が着いてこいと言った手前、多少の罪悪感も湧いてくるものだった。
「わ、わかったよ! できる限りは片付ける! だからそんなじっくりと部屋見てないで、風邪引く前に風呂でも入ってこい!」
「……お風呂借りていーの?」
「そこまでケチでも鬼畜でもねえよ……看病するより安く済むしな」
「……えへへ、ありがとっ」
短く礼を言うと、マヤノは持参したバッグを抱えながら脱衣所へと駆け込んでいった。
「さて、と……」
軽く背中を反って身体を解し、死屍累々にゴミが散らばっている我が家を一瞥した後、ため息交じりにつぶやく。
「……掃除、やってみるかぁ……」
軽くワイシャツの袖をまくりながら、久方ぶりにそう決意した。
◇◆◇
「トレーナーちゃん、お風呂ありがとね♪」
数多のゴミや埃と格闘すること数十分、背後から風呂を終えたマヤノの声が聞こえた。
その声は先程までより幾分か張りが出ており、多少は心身ともに回復できたのだろうと一安心する。
「おう……出た、か……」
彼女の声に反応して、反射的に振り向く。
しかし、そこに映っていたのは予想もしていなかった光景で……。
「……おい、マヤノ」
「なーに?」
「なーに、じゃねえよ。なんで俺のワイシャツ着てんの?」
……目の前には、いわゆる彼シャツ状態のマヤノトップガンが立っていた。
「えへへ、実は急いで飛び出したから、下着と替えの制服以外の服は置いてきちゃって……」
「ならそっち着ればいいだろ!」
「制服で寝たらシワになっちゃうもん!」
「ずぶ濡れにしたお前が言うな……!」
水掛け論というか、どうも論点が噛み合わない。
そもそも、他人の服を着るのに抵抗はないのだろうか。
「というかお前、下は……」
どことなく違和感を覚えて彼女の全身をもう一度見ると、ワイシャツの余った裾で隠れていたので気づかなかったが、ズボンやスカートの類を履いていないことに気がついた。
「……きゃあっ! 見ないでよ、トレーナーちゃんのえっち! トレーナーちゃんのズボン、ぶかぶかで履いても落ちてきちゃうんだからしょうがないじゃん!」
「ズボンまで俺の履くつもりだったのかよ! シワより恥を優先しろ……!」
信じられない。これが今どきの女子中高生というものなのか?
些か特殊な状況であることは否めないが……初対面の成人男性をここまで信用して、無防備を晒せるものなのか?
とにかく、このままでは何かときまりが悪いことだけは確かであった。
「……ジャージの上下を貸すから、今日はそれ履いてくれ。上もワイシャツを脱いでそっち着るんだぞ。んで、明日買い物に行くからな……」
「うん、わかった。ありがとう!」
「……どういたしまして」
はぁ、と本日何度目かもわからないため息をつく。
きっと学園での彼女も今みたいな自由奔放さで、周りを巻き込んで色々とやらかしていたのだろうか。
あれこれ考えながら洋服棚を漁っていると、お目当てのジャージが無事発掘された。
「……ほれ、ジャージ。あっちで着替えてきな」
「はーい」
マヤノに手渡すと、そのまま小走りで脱衣所へと向かっていった。
ここで一段落つき、ようやくデスク前のオフィスチェアに腰を下ろすことができた。
どっと安心感と疲れが襲いかかってくると同時にかすかな空腹を覚え、自分がまだ夕飯を食べていなかったことに気づく。
「そういや、アイツも多分食ってないよな……?」
だとすれば、必要な食材の量はおよそ普段の倍量になることを前提に、メニューを考えなければならない。
念の為に確認すべく、やや大きめの声を出して脱衣所にいる彼女に尋ねる。
「マヤノー! お前飯は食ってきたかー?」
するとやまびこのように、少し遅れて返事が来た。
「食べてないよー! マヤ、ハンバーグがいいなー!」
「贅沢言ってんじゃねー!!」
リクエストはともかく、彼女にも夕飯を提供しなければいけないことはわかった。
外は雨。こんな天気のなか、傘を指しながら諸々の食材をずっしりと片手にぶら下げながら帰るのはあまりにも億劫だ。
とすれば、家にある食材だけで二人分を用意しなければいけない。この条件から弾き出さる夕飯となれば……。
「おまたせ、トレーナーちゃん。ジャージありがとうね。ええと、ご飯も作ってくれるんだよね? 嬉しいなぁ、でもちょっと申し訳ないかも……」
勘案していると、マヤノが脱衣所から部屋へと帰ってきた。
尻すぼみになっていく喋り方からは、彼女の不安の色が伺える。
「気にすんな、乗りかかった船だ。それに多分だけど、感謝されるほどの飯はでてこないから」
「……どういう意味?」
「夕飯は、こいつだ」
そう言って俺は、デスク横に置いてあるダンボールの中から、二つの円柱を──カップラーメンを取り出した。
「……これだけ?」
「これだけ」
マヤノが信じられないものを見るような目でこちらを見てくる。
「……お肉とか、お野菜とかは?」
「ない。その辺わりと高いし」
「…………よ」
「……なんて?」
よく聞き取れずなかったので聞き返すと、彼女はカッと目を見開き……。
「栄養がぜんっぜん足りてないよーっ!」
「うおっ!?」
その言葉とともに、今日一番の大声を出した。
「お、おい静かに……ここ軽量鉄骨構造だから、隣に声が……」
「ご、ごめんなさい……」
俺の言葉を聞いて一瞬口を手に当てて黙る仕草をしたが、すぐに手を放し、若干ボリュームを抑えながらも説教を再開した。
「……じゃなくて! トレーナーちゃん、いっつもこんなのばかり食べてるの……!?」
「わ、悪いかよ」
「悪いよ! これだけ食べてたんじゃ倒れちゃうもん!」
そう言いながらプンプンと頬を膨らませるマヤノ。
別に俺が倒れようが倒れまいが彼女にとっては関係ないのではと思いつつも、話が拗れてもややこしいので黙って聞き続ける。
「そもそも、トレーナーちゃんさっきタバコとお酒買ってたでしょ? そのお金あったら食べ物もっと買えるじゃん!」
「いや、あれはあれで大切で……」
「自分の命より大切なものなんてある!?」
「……ないです」
力なく答える。
自分より十歳近く年下の学生に正論でボコボコにされると、なんだか酷く惨めに思えてくる。さすがの俺でも、自然と反省の気持ちも湧いてくるというもの。
それを察したのか、『しょうがないな』とでも言いたげに肩をすくめた後、彼女は言葉を続けた。
「今日はしょうがないけど……明日からは、マヤがご飯作ります!」
「え」
頭にクエスチョンマークの波が押し寄せる。
一体何を言っているんだこの子は。
「そして、トレーナーちゃんにもお料理を覚えてもらいます! 今の時代は、男の子だって料理する人多いんだよ?」
「え」
彼女の口から出る怒涛の宣言は、俺の思考を宇宙に飛ばすのには十分過ぎた。
突然のことで反論すらできず、ただ口から一文字を漏らすことで精一杯だった。
いや違う。事の本質は料理がどうこうではなかった。
(こいつ、ずっとここに居座るつもりなのか……!?)
明日になればほとぼりも冷めて帰るだろうと思っていたが、もしかしてもう帰る気はないのだろうか。
予想と180°異なる展開に戦慄し、つい心情が口から飛び出す。
「……まじかよ」
「まじだよ! 泊めてくれたお礼に、マヤがトレーナーちゃんを健康にしてあげる!」
奇跡的に会話が噛み合い、マヤノが自信満々に胸をポンと叩く。
俺の生活、一体どうなってしまうんだ……?
不安で胸がいっぱいになりながら、とりあえずカップラーメンの蓋を開け始めた。
◇◆◇
「じゃあ、電気消すぞー」
「はーい」
了承を得るとともに電球の紐を引っ張ると、一瞬にして部屋が暗闇に包まれる。
狭い部屋の中、溜まっていたゴミを廊下へと押し出すことで、なんとか川の字に布団を二つ敷き詰めることができた。そうでもしなければ、大量のゴミ袋がベッド代わりになっていただろう。さすがにそれは御免被りたい。
結局、今日の飯はお互いカップラーメンで済ませることにして、時間も遅いからとっとと寝ることに決めた。
俺はまだまだ起きていられるが、ディスプレイの光がちらつくなかでは流石に寝苦しいだろう。それくらいの配慮は俺でもできる。
まあ、健康のためには早寝早起きを心がけるように強く促されたのもあるのだけれど……。
「……ねえ、トレーナーちゃん」
「……なんだ」
俺と背中合わせで布団にうずくまりながら、マヤノが喋り出す。
「……何も聞かないの?」
再び夜の闇に包まれ、寝転がることで身体がリラックス状態を取り戻したおかげで頭が冷静になったのだろうか。先程までの元気が嘘のように、か細い声で彼女は囁く。
「……聞いてほしいのか?」
「……そうじゃ、ないけど。でもこのままだと、マヤがお泊りしてることに納得行かないんじゃないの……?」
彼女が不安げに問いかける。
ここまできて今更、何を言っているのやら。もはや俺には、理由なんてどうでもよかった。
「お前から自信満々に求めてきたくせに、なに言ってるんだか」
「そ、それはそうだけど……やっぱり、落ち着いて考えると迷惑だったかなって……」
「……別に迷惑とまではいかないし、事情がどうであれ、決まってしまったことなら受け入れるだけだ。俺もお前くらいの年頃のときは、自分の悩みや考えを他人に伝えるのは苦手だったからな。無理に聞くのも聞かれるのも、めんどくせーだろ」
そう答えると、マヤノは一瞬間をおいた後、少し柔らかくなった声色で答えた。
「……キミ、変わってるね」
「初めて言われたよ。これでも、人前では真面目くんなんだがな」
「マヤの前では違うの?」
「……非常識に常識で返す道理はねえ」
「ふふっ、ひっどーい」
不満の言葉を口にしながらも、彼女はどこか満足気にクスクスと笑っていた。
「ほら、とっとと寝るぞ」
「はーい……おやすみなさい、トレーナーちゃん」
「……おやすみ」
数瞬の後、背後から規則的な寝息が聞こえ始めた。
学園からの大脱走劇を通じて、心身ともに疲れ切っていたのだろう。
物音を立てぬように仰向けに姿勢を変え、うっすらと浮かぶ電球らしきものをぼうっと長めながら、物思いに耽る。
(……何も聞かないの、ね)
そっちだって何も聞いてこないのだから、お互い様だろう。
俺がどうして、高給取りと世間から言われる中央トレーナーであるにもかかわらず、こんな郊外のボロアパートに住んでいるのか。
どうして担当ウマ娘の話を一言もしないのか。
……疑問に思わなかったわけでもあるまいに。
(訳アリ同士、案外気が合うかもな)
ちょっとした秘密を抱えた、学園の厄介者どうしの邂逅。
俺が彼女を招き入れた理由は、そんな捻くれた仲間意識からきたものだったのかもしれない。
(……くだらねー)
ロマンチストじみた考えを振り払うように目を閉じて、ひとまずはすべてを忘れ、夢の世界へと沈んでいった。