懐かしい悪夢を見た。
これは、そう。俺が小学校に入学した辺りだろうか。
父親が主導で行っていたプロジェクトが、よりにもよって父親自身が起こした致命的なミスによって瓦解。肩身が狭く会社に居られなくなった父親は、早々に自主退職をした。
そこから、俺にとって地獄の日々が始まった。
夏休みの自由工作を手伝ってくれた頃の優しい父親はいつの間にか消え、酷く攻撃的な性格になり、些細な怒りやストレスでも躊躇なく俺たちにぶつけた。俺がやられるよりも、母親にその理不尽の矛先が向かうことが何倍も辛かったことは覚えている。
父親はその後、一切働かなかった。
俺が小学校から帰ってくると、家にいるのはいつも父親だけだった。母親は家計を助けるためのパートで忙しく働いており、母親が帰るまでの数時間は、俺と父親の二人きりだった。
父親はいつも俺に、神の存在や人類の行く末、自分の不幸などを語り続けた。俺がいるときもいないときも狂ったようにインターネットに耽っていたから、おそらくその影響だろう。
父親の主義主張は、小学生の俺が聞いても明らかな矛盾を感じるような、酷く稚拙で幼稚な絵空事にすぎなかった。元がろくな根拠もない陰謀論なので当然なのだが、仕事を辞めて頭の鈍った父親には関係なかった。
ある日、”俺が今こんなに苦しい状況にいるのはお前の母親が悪いんだ”と語ったとき、俺は流石に怒りを覚えて反論した。
してしまった。
「うるさい、何もわからないくせに口答えをするな!」
「……あ」
そう言うとアイツは、俺の唯一の宝物だったゲーム機を、膝に何度も打ち付けて破壊した。
「……ごめんなさい、ごめんなさい……」
バキバキと音を立ててゲーム機が崩壊していくなか、俺は誰に向けているのかもわからない謝罪を、壊れたラジオみたいに垂れ流すことしかできなかった。
──その日から俺は、何をするにも、誰に対しても人の目を気にする人間になってしまった。
◇◆◇
「……あー、くそっ」
レースカーテンの隙間から差し込む朝日で目が覚める。
前に垂れた髪を掻き上げると、手のひらが濡れた感触がした。緊張か恐怖か、寝ている間に汗をかいていたらしい。それをパジャマで強引に拭い、掛け布団を除けてゆっくりと立ち上がった。
「最悪な朝だな……めんどくせーけど、シャワー浴びるかぁ……」
ウマ娘は嗅覚が鋭い。人間の俺でも汗臭く感じるのに、ウマ娘の前に立つとなればまともに話すらさせてもらえないだろう。
そうなるとスカウトに支障が出て、俺の燻る期間が無駄に伸びてしまうだけだ。避けられるトラブルは事前に避けておきたい。
電気もつけぬまま、寝る前に枕元に置いてあった制服を雑に拾い上げ、風呂場へと歩き出す。
「いだぁ!?」
「……え?」
一歩目を踏み出した途端、不可解に沈み込む足の裏。謎の柔らかさと弾力性。そして聞こえた少女らしき声。
「そ、そういえば……」
急いで脚を横へずらし、寝ぼけ眼を擦りながら恐る恐る下を向く。
「いでで……もうっ! 何するのさトレーナーちゃん! 朝からずいぶんなご挨拶じゃない!?」
──抗議するように怒る栗毛を見てようやく、自分が家出少女を匿っていたことを思い出した。
「す、すまんマヤノ。誰かが隣に寝てたことなんてなかったから、うっかりしてて……」
「だからって酷いよ! マヤのかわいいお顔が傷ついちゃったらどうするの?」
「そんな強く踏んでねえだろ……」
「そういう問題じゃなーいっ!」
「はいはい、悪かったって……次からは気をつけるから」
朝から元気たっぷりなマヤノをなだめる。
昨日の衰弱が嘘のようで安心こそしたが、回復したのならそれはそれで別の面倒が生じることを痛感した。
「とりあえず俺はシャワー浴びてくるから、その間に着替えを……って、着替えはないんだった。またジャージを適当に着てくれ」
「アイ・コピー! 朝ごはん、作った方がいい?」
「あい……? まあいいや。カップ麺と調味料だけで作れるなら頼むわ」
「わ、忘れてた~……」
マヤノがガクリと肩を落とすのを確認してから、踵を返して今度こそ脱衣所へと向かっていった。
◇◆◇
「……上がったぞ」
「あ、おかえりー! 早かったね!」
軽くシャワーを浴び、出勤用の一張羅に着替えてから六畳間へと足を踏み入れる。
マヤノが大きな声で出迎えてくれる様子に、風呂くらいでそんなことしなくてもいいだろうと困惑する。
「お前も入るか?」
「うーん、マヤはいいかな。それよりお腹空いちゃった」
「まあ、ウマ娘にあれっぽっちの夕飯じゃきついわな」
昨日から家の冷蔵庫には酒しか入っておらず、俺たちはカップ麺で夕飯を済ませた。
カロリーの塊とはいえ、基本的に人間よりも大食いなウマ娘にはやはり物足りなかったのだろう。
「だから、というよりこれからのことを考えても、マヤたちは買い物に行くべきだと思います!」
マヤノは何を真似たか、ビシッと敬礼のポーズを取ってそう提案する。
「……はい?」
「量が足りないのもそうなんだけど、このままじゃトレーナーちゃんだって栄養失調で倒れちゃうよ。食堂でご飯食べてるなら大丈夫かもしれないけど……食べてる?」
「……コンビニのおにぎりはセーフか?」
「アウトだよ……」
やれやれと言った様子で首を振るマヤノ。
仕方ないだろう。食堂の飯はウマ娘なら無料だが、トレーナーが食べるとなると別途食費がかかるのだから。ついでに結構いいお値段だし。
「でもね、自分でお料理すればたくさん食べられて栄養も取れるし、少し残しておけばお弁当にもなるんだよ! お金だって、そっちのほうが安くなるでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
自炊なんて面倒だし、そう言いかけると同時にふと思い出す。
そういえば、今日からのご飯はマヤノが作ると昨晩に宣言されたっけか。
彼女の腕前はわからないが、材料さえ渡せばそれなりの物が出てくるということだろう。試しに作ってもらうのもアリかもしれない。俺にも作らせるとか言っていたのは忘れたフリをしておこう。
「……わかったよ。まだ出勤までは時間あるし、近くのスーパーにでも行ってくる」
了承すると、マヤノは目を見開きながら驚いた。
「えっ、いいの!?」
「だからお前が提案したんだろ……って、こんなのばっかだな。てか、そこまで言うからには美味い料理作ってくれるんだろうな?」
「もっちろん! 期待していーよ♪」
「はいはい……」
はしゃぐマヤノを横目に、そそくさと買い物の準備を進める。
エコバッグの中に財布を放り投げ、部屋の電気を消し……。
「待ってトレーナーちゃん! マヤ、髪のセットしてなかった……!」
「お前は家出中なんだから出歩けないだろうが……」
「あ、そっか」
……どうも一人じゃないと、何事もスムーズに行ってくれないみたいだ。
◇◆◇
「さて……到着したはいいものの、何を買えばいいんだ?」
家を出てから約五分。最寄りのスーパーへと辿り着き、ひとまず野菜コーナーで足を止めた。
しかしここに来て問題発生と言うべきか、俺は自炊の経験が全くと言っていいほどないため、どんな食材を購入すべきかがいまいちわからない。そもそも、マヤノの得意料理がどんなものかも一切把握していない。
栄養学はトレーナーになる過程である程度修めているため、どの食材にどんな栄養素が含まれ、どのように身体に作用するかといった効能くらいはわかる。
ただ、それらを上手く組み合わせて調理するとなればまた別だ。そもそも担当すらいないのに、そこに力を注ぐ理由もなかった。
「まあ、適当にメジャーな野菜でも買うか」
こだわりもなく、足元に積み上げられたキャベツをしゃがんで掴もうとしたその瞬間。
突然、スラックスの尻ポケットに入れていたスマートフォンが振動を始めた。
「こんな朝早くに誰から……って、マヤノ?」
マヤノとは家を出る前に、何かあったら連絡するようにとLANEと電話番号を交換していた。
もしかして捜索関連でトラブルでも起こったのだろうか。
恐る恐る応答ボタンを押し、端末を右耳に当てる。
『やっほー、トレーナーちゃん!』
「……おう、どうした?」
スピーカー越しに聞こえる、相も変わらぬ高さのテンションにひとまず安堵する。
だとしたら、一体要件は何なのだろう。
『えっとね、やっぱりトレーナーちゃんに全部任せるのはちょっと不安になっちゃって……だから、ビデオ通話で何が売ってるのか見せてほしいな!』
「そ、そんなに信用ないのか?」
「うん」
「ぐっ……」
至って真剣なトーンで返答され、いささかダメージを受けた。
出会って二日目の人間に失礼すぎやしないかとも思ったが、俺一人ではどうすればいいかわからなかったのもまた事実。
「……はぁ。これでいいか?」
『……うん、おっけー♪』
素直にビデオのアイコンをタップすると、ジャージを着たまま大人しく座り込んだマヤノが見えた。俺がここに来るまでに整えたのか、髪をツーサイドアップに結んでいる。
『ありがとっ! トレーナーちゃんのお顔がよく見えるよ~』
「俺じゃなくて品物を見てくれな……ほら」
『あっ、カメラ切り替えるの早くない!?』
「うるせー。それより何買えばいいのか教えてくれ」
外カメラに切り替え、ゆっくりと端末を動かしながら周囲の様子を見せる。
にんじん、じゃがいも、キャベツ、白菜、大根、トマト、玉ねぎ……一通りの物は揃っているようだったが、どれを優先的に買うべきかはさっぱり見当がつかなかった。
「んー、どうしよっかな……」
一通りをカメラに写した後、マヤノが考え始める。
「とりあえず今日は……うん、決めた。とりあえずにんじん、じゃがいも、玉ねぎ……あとなんでもいいから安いお肉と甘口のカレールーを買ってきて!」
「カレーにするのか?」
「うん。トレーナーちゃんも忙しそうだから、帰ったら温めるだけですぐ用意できるのは大きいし、何より料理初心者のトレーナーちゃんにはピッタリな練習メニューだからね」
「いや、流石に俺もカレーくらいは……」
「包丁、箱から出してすらなかったのに?」
「あー……」
そういえば包丁なんて家庭科の授業以来、一度も使ったことがなかったような。
「わ、わかったよ。確かにそれくらいは俺も作れるようにならなきゃな……量はどうする?」
「とりあえず、全部一袋分!」
「それだけ? 安いやつは買い溜めておいたほうがよくないか?」
「だってトレーナーちゃん家の冷蔵庫、小さいからたくさんは買えないでしょ?」
「そうだった……じゃあ買ってくるわ。またな」
「はーい。また後でね、トレーナーちゃん♪」
通話終了ボタンを押して、端末をスリープモードにする。
この調子だと、今後もちまちまとこのスーパーへ買い物に出かける必要がありそうだった。
しかし料理も想定していなかった一人暮らしの男が、冷蔵庫にこだわるわけもなかったから、ある意味仕方のない話だ。
ボーナスが出たら、もう少し大きい冷蔵庫でも買おうか。
指定された食材を機械的にレジかごへと放り込みながら、そう考えた。
◇◆◇
「…………」
「あ、おかえりトレーナーちゃん!」
「え、ああ、ただいま」
いつも通り無言で玄関のドアを開けると、何年ぶりに聴いたかもわからない「おかえり」の声に戸惑い、つい驚いてしまう。
同時になぜか、胸のあたりがじんわりと温まっていくのを感じた。
靴を脱ぎ、最低限とはいえどそれなりの重量である食材を居間まで運んで下ろす。
マヤノは袋から一つ一つ中身を取り出し、頼んだものが無事に届けられたかを確認しているようだった。
「……うん、ちゃんと揃ってる。お疲れ様~!」
「はいはい。というか、カレールー甘口なんだな……」
「な、なにさ! 悪い!?」
「わ、悪くねえよ。まったく……」
子供っぽくて悪いか、とでも言いたげに怒り出すマヤノをあしらいつつ、食材を冷蔵庫に詰め込んでいく。食パンとヨーグルト、それにバターだけは朝食で使うから脇に置いておいた。
ここで一つ、マヤノに伝えなければいけなかったことを思い出す。
「マヤノ、まだ学園に戻る気はないのか?」
「…………」
「気楽に答えてくれ」
「……うん。まだ帰れない。帰りたくない」
「わかった」
それなら、と付け加えて、話を続ける。
「学校に行ってみなければわからんが、既に捜索が始まっているかもしれないから外に出るのはやめておけ。制服しか持ってないから変装もできないしな。プライベート用のノートパソコンを開いておくから、昼飯は出前でも取ってくれ。あと、服とかも適当にオンライン注文しときな」
「……え、服まで買ってもいいの? トレーナーちゃん、お金ないんじゃないの? お部屋貸してくれて、ご飯の材料くれるだけでも嬉しいのに、どうしてそこまで……」
「金は確かにないが、服も買えないほど切羽詰まってはねえよ……今言ったのも必要経費だからな。ま、気になるなら出世払いで返してくれればいい」
「わ、わかった、ありがとう……」
マヤノは嬉しさと困惑、そして申し訳無さが混ざったような複雑な顔でこちらを見ている。
乗りかかった船だ、と昨日言ったのだけれど。一見我儘に見えても、根が優しそうだからどうしても遠慮してしまうのだろうか。
「……気にするな、って言われても難しいかもしれないけどな。結局は俺がやりたくてやってるようなもんだ。素直に受け取ってくれ」
内心、孤独を紛らわせることや、「おかえり」と言ってくれる存在の尊さだけで俺はかなり報われているのだが、それを告げるのは恥ずかしいので伏せておく。
「それに、お前は学園から家出してみんなを驚かせてる、ワルなウマ娘なんだぞ。それを続けたいなら、中途半端な感情は捨てて振り切れろ。もっと大胆になれ。こんな小さなことでビクビクしてたら、頭もろくに機能しなくなる。頭が働かなくなったら、ボロが出て捕まってしまう」
「……うん」
自分のやったことを再認識したかのように、マヤノが苦虫を噛み潰したような顔をする。
「まあ、最初は反対してた俺が言うのもあれだが……利用できるものは躊躇なく利用しろ。それに悪意がないことが前提だけどな。世間体とか一般常識とか……人の目ばっか気にしてたら、つまんねーやつにしかなれないからな……」
「……?」
言葉尻にかけて調子がすぼんでいく俺を訝しむように、マヤノが首を傾げる。
くそ、今朝にあんな夢を見てしまったせいだ。過去のことを引きずるな。目の前のこいつに、勝手な自己投影をするな。こいつは、俺なんかとは違うんだから。
「……とにかく、子供が大人に遠慮なんかするなってことだ。んじゃ、仕事行ってくるわ」
「あ……」
トースターで勝手に焼いて食ってくれ、と食パンを渡しながら、呆然としたままのマヤノに告げる。
ジャケットを羽織り、先日まとめてもらったなかで本日捨てられるゴミを手に取り、再びドアを開けた。
「──い、いってらっしゃい!」
不意に、先程と同じく何年ぶりに聴いた送迎の言葉が背中にぶつかってきた。
シャワーのように浴びせてしまった俺の言葉に、頭をぐるぐると回して考えているなかで必死に絞り出したであろう言葉。
どうして、そこまでって?
俺のセリフだよ、そんなの。
「いってきます」ぶっきらぼうにそう告げて、いつもよりも心なしか大股な足取りで進みだした。
帰ってきたときの「おかえりなさい」を、少しばかり楽しみにしながら。
◇◆◇
「……悪いことをしたなぁ」
学園の門をくぐりながら、考える。
柄にもなく興奮し、勝手な人生哲学を押し付けて彼女を困らせてしまった。
スポンジのようになんでも吸収する頭のいい子供に、泥水を吸わせてしまったようで罪悪感が湧く。
マヤノと出会って丸一日すら経っていないのに、俺はどこかおかしくなっている。
そもそも対人関係に関しては慎重派な俺が、事情も聞かずに彼女を家に上げたところから不合理だったのだ。
プライベートで人と話せたことが嬉しかったのか、家出少女を秘匿するという非日常に神経が昂ぶっているのか、はたまた例の挨拶が心に染みているのかはわからないが、とにかく今の俺は浮かれ、調子に乗っているのは明らかだった。
彼女の言う通り、服まで手配してやる義理はなかった。彼女が帰寮を決意するまで、ずっと家に置いておけばいいだけの話なのだから。外出なんて、捜索を考慮すれば百害あって一利なしなのだ。
なのに、どうして俺は「続けるなら、もっと大胆になれ」などと言い放ち、悪用も恐れずプライベートのパソコンを貸し、あまつさえ外出を前提にしているかのように服まで買わせているのだろう。
これではもう、完全に共犯だ。
自己嫌悪で吐き気を催しながら歩いていると、校舎の入り口に小さな人だかりができていた。たづなさん含む職員たちとトレーナーに、複数のウマ娘たちが焦り顔で何かを話している。
それとなく接近し、同期のトレーナーの一人に話を聞く。
「なあ、この集まりはどうしたんだ?」
「ああ……なんでも、一人のウマ娘が寮を抜け出したきり戻ってこないらしい」
ドキリ、と心臓が跳ねる。
まさか、もう始まるのか。
震える声を押し殺し、努めて冷静に尋ねる。
「……なんてウマ娘なんだ?」
「マヤノトップガン、という生徒だ。原因はわからないが、理由もなくこんなことをするような子じゃないってよ」
「そう、か。一大事だな、そりゃ」
「まったくだな。一応、書き置きが寮の前に落ちていたから誘拐の線は無いはずだが……それでも、トラブルに巻き込まれていないかと思うと心配になる」
「俺たちも、捜索に?」
「いや。トレーナーはトレーナーで大事な仕事があるからな。捜索するのは警察と、一部の職員だけだ」
「……警察もか」
警察を交えた、本格的な捜索活動。
最悪の場合として覚悟していたことではあるが、いざ直面すると事の重さを実感し、背中に冷や汗が滴る。
「そりゃそうだろ。原因はわからんが、未成年の女子生徒が失踪したんだ。帰る場所も仲間もいない以上、どんな目にあっているかわからないからな。せめて実家にでも帰ってるのならいいのだけれど……」
「……そう、だな。なんとかしなきゃ」
白々しくそう言って話を切り上げ、周囲を再び一瞥する。
大人たちは焦り、彼女の知り合いらしき子どもたちは皆、心配そうな表情を浮かべていた。
……ただ一人、俯きながら気まずそうにしている、松葉杖をついたウマ娘だけが不思議と強く印象に残った。
◇◆◇
「……ただいま」
「おかえりなさーいっ!」
家に入ると、ボロアパートに似つかわしくない明るい声が響き渡る。
その後少しの間をおいて、マヤノがとてとてと玄関へ飛び出してきた。
「おう、何もなかったか?」
「なかったよ、ちょっと暇だったくらいかな。でも、それが一番だよね」
「そうかもな」
えへへ、と笑ってはいるが、やはりいつ何があるかわからない恐怖に対して精神的に消耗しているのだろう。その顔からは、若干の憔悴が見て取れた。
しかし、この特異な生活が遊びではないこと。
そして事の重大さを認識してもらうためにも、俺には現状を彼女に伝える義務があった。
「……こっちは悪いニュースがある。既に警察が捜索を始めるらしい」
「……え」
マヤノの顔が一瞬にして強ばる。
「今日、昼間に警察が学園に来て事情聴取をしてきた。帰り道こそ見なかったものの、今頃警察が町中を探しているだろうし、おそらく実家の親御さんにも連絡が行ったはずだ」
「そういえば、ママから電話があったような……」
「出たのか?」
「ううん」
マヤノが強く首を横に振る。
「……そうか。まあ、こんな辺鄙な場所には監視カメラもないし、すぐさまこの辺りを探しに来ることもないだろう。灯台下暗しとも言うが、まさか担当でもないトレーナーがお前を匿ってるとは思わないはずだからな」
「うん……でも、そんなに大変なことになってたんだね……」
実家からの家出と、学園からの家出は訳が違う。
前者も場合によっては捜索願等も出されるだろうが、学園で預かっていた子が消えるとなると、残された側に降りかかる責任の重さは何倍にもなる。
当然、ありとあらゆる手段を用いて本気で探し出すはずだ。警察も相手が大手の団体となれば、個人が出す捜索願よりも躍起になっていたとて不思議ではない。
「マヤたち、これから、どうなっちゃうのかな……?」
「それは……」
不安そうに涙を浮かべながら、マヤノが問いかける。
「ごめんなさい、ごめんなさい……! やっぱり、キミを巻き込まなければよかった……!」
「マヤノ……」
何度も謝罪を繰り返す彼女を前に、昔の自分の面影が重なり、言葉が詰まる。
泣いてしまうのも無理もない。耐え難いものから逃げた先には、さらなる耐え難いものが待っており、かつ合意の上とはいえど、無関係な他人を巻き込んでしまったのだから。
四面楚歌、八方塞がり。事情こそ知らないものの、十代中頃の少女が味わうにはあまりにも酷であろう。
それでも、お前が謝る必要はないんだ。
お前は俺と違って、悪くもないのに理不尽に謝ることなんてしなくていいんだ。
「……心配するな」
泣きじゃくる彼女の頭に、そっと手を置く。
「これくらい、なんてことねえよ。お前を捕まらせる気はないし、捕まったとしてもどうにでもなる。どうにかしてやるさ」
「……うん」
そのまま頭を撫でていると、マヤノは少しずつ落ち着きを取り戻してきた。
「お前は親御さんにメールでもしておくだけでいい。電話だと情が移るから止めておけ……ただ、自分の身の安全が保証されていることと、いつか必ず戻ることだけは伝えるんだ」
「うん……うん……」
「今日はもう寝よう。飯はそのぶん、早起きして作ればいい……大丈夫、大丈夫だ。お前が思っているほど大したことじゃない。お互いゆっくり休んで、そんで明日からは切り替えて、また元気に生きようぜ」
「……あい、こぴー」
今朝も聞いた言葉だ。意味はよくわからないが、彼女なりの了承のサインなのだろう。
俺は頭を撫でるのを止め、そのまま二人分の布団を乱雑に敷きはじめる。すると、突然マヤノが後ろから声を掛けてきた。
「……ねえ、トレーナーちゃん」
「ん?」
「……ありがと」
「……おう」
微笑みを取り戻したマヤノを見て、一安心する。同時になぜ安心するのかと考えると、再び疑問符が離れなくなる。
どうしてよく知らない子供相手に、ここまでしてやっているのだろう。
結局それはわからなかったが、どうも悪い気はしなかった。
しかし家出の事情によっては、このまま彼女の存在を隠し続けることが正解とは限らない。
明日は、マヤノともう少し話をしよう。それから……。
……ああ、考え疲れた。
とりあえず今は、それだけでいいか。
俺たちは希望も絶望も明日に置いて、泥のように眠り始めた。