私の同期は『スーパーカー』 作:立焔
「時々残念だけど、良い人」
ヒシスピードが最初に抱いたマルゼンスキー評であった。
入学式の後、半ば強引に連行された『
今日も
起き抜けのヒシスピードは、まだ暗い寮の部屋で1人そう思い、ふふ、と息を漏らした。
すっかりマルゼンスキーを愛称で呼ぶことに慣れた彼女の顔には、満更でもなさそうな微笑が浮かんでいる。
まだ夜明け前の室内、寝ているルームメイトを起こさないように注意を払いながら、暗いオレンジの照明を頼りにざぶざぶ顔を洗う。
彼女は早起きだった。この時間から走るのが、幼い頃よりの習慣だった。
ほやほやの制服に袖を通す。
新生活が始まって早くも1週間余りが過ぎて流石に寮の暮らしには慣れてきた。チラリと鏡を覗き込み、その濡羽色の髪に寝癖が残っていないのを確かめると、最後にルームメイトの寝顔を少し眺めてから部屋を出る。
古い板張りの廊下は踏むたびにギシギシと抗議の声を上げる。
彼女が所属する
(あの『野武士*1』も『老雄*2』も、この廊下を歩いていたんだ)
木材が軋む音に聴き入り、そこに刻まれた歴史を想像するのが最近の彼女のお気に入りであった。
試しに軽くステップを踏むと床はそれに呼応してぎいぎいと歌う。偉大なる先輩たちもひょっとすると似た事をしたのかもしれないと考えると、何だかおかしくなって自然と笑顔が浮かんだ。
傍から見れば、朝っぱらから廊下をスキップして1人で笑っているウマ娘という中々にアレな絵面ではあったが、当人にとっては
中央トレセンの寮は朝5時30分から外出が可能になる。
それはつまり、
元より早起きだったヒシスピードが、入寮3日目に──流石に最初の朝は寝過ごした──この『早起き組』と遭遇したのは全くの偶然ではあったが、世話焼きな数人の先輩たちのおかげで、新入りの黒髪のウマ娘は早くもその輪に溶け込みつつあった。
まだ準備中の食堂のテーブルに並べられたのは、ラップに包まれた握り飯。職員の厚意により用意されたそれらのうち一つを手に取ると、ヒシスピードはトレーニング前の糖分補給と洒落込んだ。今日はツナマヨだった。
(……ん? あんな娘、いままで居たっけな)
昨日の辛子高菜は美味しかったな、などと品評しながらモソモソとお米を口に運んでいた彼女の視界に、見慣れぬ芦毛のウマ娘が映った。お世話好きな先輩たちに囲まれているのを見るにおそらく新入生だろう。
この時期から『早起き組』に混ざるなんて気合の入った娘だなぁ、などと自分を棚に上げた感想を抱いていると、芦毛のウマ娘はヒシスピードのいる方へぱたぱたと駆け寄ってきた。
「あのっ!」
「……おにぎりなら向こうだよ」
「ありがとうございますっ!」
その間、僅か2秒。
完璧なコンビネーションにより、芦毛のウマ娘は足を止める事なくお目当ての軽食にありついた。
彼女は嬉しそうに握り飯を頬張ると、ぽてぽてと引き返してツナマヨの恩人であるヒシスピードへと近づいた。
若干暗い銀色の髪を揺らし、お礼代わりのお辞儀を一つ。そのあとマイペースに握り飯の最後の一欠片をごくんと飲み込んで、ようやく口を開いた。
「えっと、新入生……ですよね?」
「うん、そうだよ」
「やっぱり! 入学式で見たことがあったような気がしたんですよ〜」
手元に残っていた握り飯の最後の一口を咀嚼する間に思考をまとめ、彼女はようやく言葉を返す。
「その、ヒシスピード……です。あなたは?」
「あっ! ごめんなさい、わたしったら自己紹介もしないで……
「やけに堅いね」
えっ?と素っ頓狂な声を出したプレストウコウに、なんでもない、とヒシスピードはお茶を濁した。
同級生に敬語を使われるのはもぞもぞするが、だからと言ってタメ口を強要するほどに彼女はコミュニケーション強者ではなかった。こういうのはゆっくり時間をかけて解きほぐすのが普通で、むしろ半日で零距離まで詰め寄ってきたマルゼンスキーがおかしい。大体マルゼンが悪いんだ、その証拠に昨日だって授業終わりに突然……
いけない、今はそんな事を考えている場合じゃない。ヒシスピードは彼方に飛んでいた思考を取り戻す。
「そろそろ鍵も開くし、行こうか。
脳裏にチラついた
突然愛称で呼ばれたことにプレストウコウは一瞬目を丸くしたが、やや間を置いてから、にへり、と笑った。相変わらず能天気な笑顔だった。
「はい! 朝練頑張りましょう、ヒシスピードさん!」
流石にスピちゃんと呼んでくれるのを期待するのは要求が高すぎたかな、とヒシスピードはほんの僅かに尻尾を萎れさせた。
早朝の冷たい空気は肌を刺す。
もう春真っ盛りのはずなのに、吐息は白い湯気となって明け方の群青の空に溶けていった。花をすっかり散らした桜の樹が物寂しく立っている。
「ふっ……ふっ……」
ヒシスピードは隣から聞こえる呼吸に乱れがない事を確かめた。
トレセンを出発して15km、多摩川沿いに河川敷を走る『早起き組』の隊列の最後尾をついてゆく彼女の隣では、新入りの芦毛のウマ娘がえっほえっほと走っていた。
(……スタミナは結構ありそう)
ヒシスピードの五感と思考は、走るのに伴って鋭敏になっていた。鋭い聴覚がプレストウコウの呼吸ペースからおおまかなスタミナを割り出す。
(ステイヤー寄り、かな? 良いなあ)
ざっくりと出した結論に、ヒシスピードは少しばかり私情を挟んだ。彼女は自らの距離適正を高々中距離までと評していたため、長距離も苦にしないであろうプレストウコウの持久力が羨ましかったのだ。
「ふっ……ふ、うっ……」
事実、まだスタートから20km程度の地点にも関わらずヒシスピードの息は若干乱れ始めていた。『早起き組』は最初に全員で30kmのジョギングをするのが何となくの恒例行事であったが、彼女はいつも終わりの方になると息が切れていた。
実力ある上級生でもスプリンター寄りのウマ娘ならば皆似たような感じだから、決してそれは卑下するような事ではないのだが、しかし最後の数kmの苦しみはヒシスピードの負けず嫌いに非常に
「ふっ……は、あっ、はあ、……はーっ」
ようやく全行程を走り終わった頃には、ヒシスピードは息も絶え絶えといった状況であった。
今日も
「ヒシスピードさん、大丈夫ですか?」
ようやく多少は息も整ってきたかという頃合いで、聞き覚えのある声がヒシスピードの耳朶を打った。顔を上げると、視界に入ったのは先ほどまで隣を走っていた芦毛のウマ娘。
飲みますか? とプレストウコウはスポーツ飲料の入ったボトルを差し出した。
「ごめん、一口だけ」
「どうぞ!」
一口と言いながら豪快に飲むヒシスピードであったが、それでも芦毛の同級生は柔和な笑顔を浮かべていた。
思ったより飲んでしまったという申し訳なさと同時に、なんでトウ子は何も言わないんだろう、と若干の疑問が浮かぶ。
「……助かったよ、ありがとう」
斜めに差し込む
近くでグロッキーになって倒れている
「トウ子は今日が初めてだよね。どうだった、疲れた?」
「全然ですっ! もう一周でもできますよっ」
ヒシスピードは、プレストウコウが元気に答える様子から見栄や嘘の気配を一切感じ取ることができなかった。
ここまでの走る様子からを見ても、「もう一周でもできる」という宣言は決して間違いではないのだろう。確かに彼女にはそれを軽々とやってのけそうな風格があった。
「そうなんだ。……スタミナ、凄いんだね」
「これだけは誰にも負ける気がしませんから!」
若干のやっかみが混じったヒシスピードの反応にも、彼女は堂々と胸を張って応じてみせた。
成程これが、とヒシスピードは内心で納得した。類い稀な持久力と、実力に裏打ちされた曇りなき自信。トウ子がこの時期から『早起き組』に混ざったのも、能天気という言葉が連想されるほどに泰然自若とした彼女の性格も、それで説明がついた。
(早くこの娘と走りたいな)
同時に、ヒシスピードの負けん気が内心に顔を覗かせた。
距離が長いと苦しい戦いになるに違いないが、短ければどうだろうか。今のところは私が勝ち越せそうな気がする。
──とはいえ、2人とも入学して1週間そこらの若輩者。メイクデビューまでは年単位の期間があるし、その前段階に実施される選抜レースですらまだまだ先のことであった。
ヒシスピードが最初に
「──ってな事があってさ。夏の選抜レースが楽しみになってきたよ」
「ふーん、スピちゃんって早起きさんなのね」
ヒシスピードが今朝の出来事を話すと、紅茶で唇を湿らせたマルゼンスキーは若干ズレた返しをした。
彼女の手元には
今日
数え切れないほど沢山の種類の果物が入っているのであろう、いかにも上品そうなミックスジュースをちゅるちゅるとストローで吸ったヒシスピードは──高めの値段設定に怖気付いて、デザートまで頼む勇気が出なかった──興味深そうに強引な栗毛の友人へ尋ねる。
「マルゼンは、朝弱いの?」
「そうねぇ。朝シャンは絶対に欠かさないのだけれど、授業にはギリギリよ。あたし夜型だもの」
「そうなんだ」
マルゼンが今日のお昼頃に「聞いてよスピちゃん! あたし、昨晩最っ高のイタメシ屋を見つけたの!」と嬉しそうに話していたのを思い出して、確かに彼女は夜型っぽそうだと納得した。
(マルゼンと一緒に朝練を……なんて思ってたけど、難しそうかな)
朝に走るのは気持ちいんだけどなぁ、と勿体なく思いつつ、ヒシスピードは内心でひっそりと勧誘を諦めた。
トウ子の話に全く興味を示さなかったあたり、多分マルゼンは強いウマ娘にそれほど興味がないのだろう。中央にだってその手のタイプのウマ娘も一定数いるはずだ、と思いつつも、ヒシスピードは少しだけ物足りなさを自覚した。
「あたしも練習仲間を探した方がいいのかしら?」
パンナコッタの最後の一口を名残惜しそうに口へと運んだマルゼンスキーが、ちら、とヒシスピードの様子を窺いながら言った。
言外に含まれた意図を読み取れないほどにヒシスピードは鈍くなかった。しかし、その上で、
「うん……いい人が見つかるといいね」
やんわりとした、それでいて明らかな答えを突きつけた。
確かにマルゼンは
理由はいくらでも見繕えたが、それ以前にヒシスピードの無意識の根底にあったのは、マルゼンスキーに対する軽視であった。
確かにこの栗毛のウマ娘はお喋り好きで大人びていて綺麗だが、それは決して走りの実力を担保するものではないし、何よりマルゼンスキー当人の口から「1番になりたい」とか「勝ちたい」に類する言葉が出る場面をヒシスピードは一度も見た事がなかった。
その点において、早朝練習に参加する貪欲さや無尽蔵のスタミナを確かに見せつけたプレストウコウとは異なった扱いになるのは仕方のない事だった。
「そうね、あたしも頑張らないと」
少しだけ寂しそうにマルゼンスキーがつぶやく。
そうだね、という生返事だけが夕方の喫茶店に小さく染み入った。
この判断が後に何を呼ぶのか、現時点ではまだ誰も知らない。