私の同期は『スーパーカー』 作:立焔
冬の早朝は冷える。
6時前の寒空にはいまだに朝がやってくる気配はない。川沿いに並ぶ醒めた白の街灯が水面を真っ黒に照らしていた。
漆黒の髪を夜明け前の暗闇に溶かして、今朝もヒシスピードは走っていた。冷たい指先をこすり合わせて寒さを誤魔化す。
入学直後から続けている早朝練習も8ヶ月あまりが過ぎればすっかり慣れてしまっていた。最初のうちは見える景色を楽しめていたが、道のりも街並みも覚えてしまった今ではその新鮮さもない。そのぶん自分の走りとの対話に没頭できた。
ヒシスピードはちらりと腕時計を確認した。
(ジャスト30分。初めの頃はこのあたりでもう苦しかったけど、最近はずいぶん楽になった)
優秀な先導役の先輩のおかげで、早朝のジョギングの隊列は毎日同じペースの走りを再現していた。出発からどれぐらい時間が経ったかは景色を見ればすぐにわかる。
それが意図的に繰り返されているのか、それとも単に習慣だからわけもなく繰り返されているのかは新参者のヒシスピードには判断がつかなかったが、少なくとも毎朝同じペースで走ってくれるのはスタミナの成長を実感するにはぴったりだった。
裏を返せば自分がバテ始めるタイミングも簡単に予測できてしまうので、それはヒシスピードにとっては少し悔しいのだが。今日こそは隣を走る芦毛の友達にいいとこを見せようとして、やっぱり最後にはへろへろになるのも毎朝の恒例であった。
「みんなおつかれ〜」
「それじゃあ自主トレ頑張ろー!」
「……っ、はぁ、はあ、っく……ふーっ」
30kmの行程を走り切った頃にはヒシスピードは青息吐息であった。
ステイヤーの先輩たちがけろりとした顔で各々のトレーニングに取りかかり始める一方で、長距離適正のないウマ娘たちは死屍累々といったありさまで寮の玄関前に取り残される。この格差の演出も毎朝繰り返される行事であった。
参加者の負けん気や自信を刺激するためにわざと差が見えるメニューにしているのだろうとヒシスピードは推測していたが、それはそれとしてキツいのに変わりはなかった。
「ヒシスピードさん、はい」
「……ん」
ヒシスピードが少しずつ呼吸を取り戻すと、プレストウコウが測ったかの如きタイミングでボトル飲料を差し出した。黒髪のウマ娘は言葉少なに受け取ると浴びるように飲み始める。
息ピッタリの連携。これも毎朝繰り返されるやりとりだった。
(走りながらでも飲めると思うんですけどね〜)
嚥下に合わせて波打つヒシスピードの色白な喉を眺めながら、プレストウコウはのんびりとそう思った。走りながら水分補給をする先輩だっているから別に自由にしていいはずだ。
しかし以前にこの負けず嫌いなウマ娘にそれを勧めると、
「だって、飲んだら負けな気がする」
と拗ねたような一言だけが返ってきた。
強がる友人の様子を見て、彼女は自身の心の奥底の何かがむずむずと蠢くのを感じた。しかし、ヒシスピードが「飲んだら負け」と対抗心を燃やしている相手が、毎朝隣を走っている芦毛の友人であることまでは、さしものプレストウコウも気づいていなかった。
彼女は今日も、強がりで不器用な友人のことをじっと見守っている。
「ところでさ、トウ子」
ようやく自主トレに移ろうかというタイミングでヒシスピードが不意に口を開いた。
偶然思い出したという風な口ぶりを装っていたが、彼女はずっと切り出すタイミングを窺っていた。
「トウ子はさ、勝ちたいレースとかある?」
「あります」
プレストウコウは即答した。
珍しくはっきりとした口調だった。
「八大競争だけは、何がなんでも勝ちに行きます」
「……そっか、そうだったね」
軽率な質問だったとヒシスピードは内心で少しだけ反省した。この友人が芦毛に対する偏見の払拭に並ならぬ情熱を傾けていることを既に知っていたからだ。少なくとも今更改めて尋ねるような事ではなかった。
そんな彼女の心境を知ってか知らずか、ぱちくりと目を瞬かせたプレストウコウは逆に問い返す。
「ヒシスピードさんは何か特別なレースがあったりするんですか?」
「ん、私はね……安田記念*1かな」
「安田記念、ですか。どうしてまた?」
ヒシスピードは一瞬押し黙った。
姉さんたちの勝ったレースだから、と正直に言うのが何となくいやだったのだ。
「私はマイルが限界だもん。いつもこうやってヘトヘトになってるでしょ?」
ぐしゃり。
空っぽになったペットボトルを小さく潰しながら、真っ黒なウマ娘は少しだけ自嘲的な口調で言った。プレストウコウはそれに肯定とも否定ともつかぬ頷きを返すことしかできない。
ほんの一瞬だけ、2人の間の空気が停滞する。
「……ま、それはいいんだけど」
何かフォローを入れるべきかとプレストウコウが迷っていると、先にコンクリートに座り込んでストレッチを始めた友人が再び口を開いた。
どうやら雰囲気を切り換えようと試みているらしかった。
「仮に……仮に、だよ? すっごく足の速い、それこそダービーでも天皇賞でも狙えそうなぐらいのウマ娘がいたとして、その娘が『特に勝ちたいレースなんてない。好きなように走れたら十分』って言ってたら、トウ子はどう思う?」
「それって本当に仮定の話ですか?」
「そっ、そうだよ?」
例え話の内容がやけに具体的だった事が気になったプレストウコウが鎌をかけると、ヒシスピードはあからさまに声を上ずらせて動揺をみせた。
多分これは特定の誰かについて話しているのだろうと彼女は察したが、それ以上詮索するのは控えておいた。瞬時に脳内で挙がった幾人かの候補のリストも破り捨てて深く考えないことにする。
ちょっと考える仕草をみせたプレストウコウは、色素の薄い瞳を宙に漂わせながら答えはじめた。
「う〜ん、どう思って走るかは人の自由だから気にしませんけど、同じレースで走るのは……少し、嫌な気分になるかもです」
「なんで嫌なの?」
ヒシスピードは勢いよく尋ねた。
一瞬してから我に返ったようで、少しだけ身を引く。芦毛のウマ娘はそれを意に介せず続けた。
「うまく表現できないかもしれないんですけど……私ならきっと『不公平』に思うかな、って考えました。本気で勝ちたくて走っている時に、横で不真面目な……ううん、不真面目だとちょっと違うかも。同じ方向を向いてない、とか?」
「大丈夫、なんとなく意味は伝わるから」
「よかったです。
「……」
プレストウコウがなんとか言葉を
ちょっと対応に困ったプレストウコウは、黙ってしまった黒髪の友達のように綺麗な180°の開脚ができないかと頑張り始めた。他のウマ娘より若干体が固いのが彼女の悩みの一つであった。徐々に両足の角度を大きくしていくと、120°にも届かないぐらいで太ももの腱がちぎれそうな気がして、今日も諦める。
どうしてヒシスピードさんはあんなに柔らかい体をしているんだろう、と彼女は内心で羨ましく思った。
「なるほど」
ヒシスピードは小さくつぶやいた。
深刻で真面目な表情は、明らかに仮定の話に対するそれではなかったが、プレストウコウはあえて気づかないふりをして何も言わなかった。
それ以上の会話が発生しないまま黙々とストレッチをこなす。毎朝やっていることだから口数の少ない日だって当然あるのだが、なんとなく今日の沈黙はプレストウコウにとって居心地が悪く感じられた。本格的な個人練習に入るまでの時間がやけに長く感じた。
「じゃあ、後で」
「お風呂前で集合ですね!」
それぞれの自主練に向かう別れ際、プレストウコウは努めて明るい声で朝シャンの約束を取り付けた。
数ヶ月前に誘われて以来、マルゼンの
毎朝のことだからわざわざ確認するほどでもない。しかし、何故だか今日だけはしっかり口に出して言っておかなくてはいけない気がした。
彼女の嫌な予感は的中する。
ヒシスピードはとうとう大浴場前に姿を現さなかった。
午前の座学の内容はヒシスピードの耳を左から右へ素通りしていった。季節外れの春風だ。
彼女は悩んでいた。自分がマルゼンスキーに対して抱くモヤモヤした感情の正体を突き止められなかったのだ。
いっときは気の迷いに違いないと判断したその
モヤモヤの正体は分からなかったが、原因は判明している。マルゼンスキーの『特に勝ちたいレースなんてない』という発言だ。あれを聞いて以来ずっと心の中にわだかまりが残っていた。
ひとまず彼女はプレストウコウの意見を参考にしようと試みて、かなり明快で腑に落ちる答えを得ることができたのだが、むしろそれは彼女の懊悩をますます深めてしまった。
(トウ子の考えは確かに理解しやすくて共感もできたけど、そのまま自分の意見にしたらダメだよね)
黒板に書き出される退屈な数式を眺めながらヒシスピードは思案していた。
自身の複雑な感情は確かに友人の考えにそっくりな気がしたが、本当に全く同じものなのか確信が持てていなかった。ひょっとすると自分の不確定な心理がプレストウコウの言葉に偶然引き寄せられただけで、真実はもっと違うのかもしれないと思うと、なんだかすぐに結論を出してしまうのが
それは年頃の少女らしい繊細な思考ではあったが、だからこそヒシスピードの頭はいっぱいになっていた。なんとなくマルゼンスキーに顔を合わせづらくて朝シャンに行かなかったのも、そこに原因があった。
(やっぱりわからない。もう一度マルゼンと話せば何か変わるかな?)
いつの間にか授業も終わりに近づいたことに気がついたヒシスピードは、ひとまず目の前の悩みを棚上げにすると慌てて黒板の文字をノートに書き写しはじめた。
授業終わりにマルゼンが話しかけてくれたらいいな、と内心で期待しながら。
「ちょっとスピちゃん! 今日の朝シャンさぼったでしょ!」
座学の授業が終わるとすぐに、ぷりぷりと怒った様子のマルゼンスキーが黒髪の友人の席まで詰め寄った。
ヒシスピードの心には予想通り説明不能のモヤモヤが沸き起こったが、同時にほのかな嬉しさも発生した。混ざり合った感情をうまく出力できなかったヒシスピードはその代わりに若干気だるそうな雰囲気を身にまとう。
「あぁ、ごめん……なんか今日は気が乗らなくて」
「髪はレディの命なのよ? ほら、ここなんかぴょこんと跳ねちゃって」
マルゼンスキーがおもむろに手を伸ばして友人の後頭部の髪を撫で付けはじめたものだから、ヒシスピードはむず痒そうに身を小さくよじった。
「姉さんじゃないんだから」
抗議の意味を込めて小さくボソリとつぶやく。マルゼンスキーの耳には届かなかったようだ。
こういう場面の彼女が割と強引なことはヒシスピードも理解していたので、それ以上の抵抗はしなかった。大人しく耳を畳んでなすがままにされる。
「スピちゃんは何時ごろにトレーニングを上がる予定なのかしら?」
「んー、たぶん4時前」
「OK牧場! じゃあいつものサ店ね」
満足したのか黒髪から手を離したマルゼンスキーは、例のごとく今日もヒシスピードを連れ回す宣言をした後、はたと思い出したようにスマートフォンを取り出した。
「そうだ、スピちゃんは
「もしかして私バカにされてる?」
「違うわよ、最近流行ってるってトレーナーから聞いて始めたの! スピちゃんも一緒にやりましょうよ」
「いや、私はとっくの昔に始めてるから……連絡先交換するんでしょ? ほら、QRコード出して」
「きゅうあーる?」
マルゼンスキーは頭上にハテナを浮かべて首を傾げた。
仕方がないのでスマホを借りると、明らかに初期設定のまま放置されている画面が目に入って、ヒシスピードは小さくため息をついた。
手早く友だち登録を済ませて、折角だから偶然撮影できた大あくびしているマルゼンスキーの写真をアイコンに設定しておく。どうせ彼女には戻し方がわからないはずだ。
「はい、これで交換できたから」
お試しで送信した「よろしくっ」のスタンプをしげしげと眺めいる友人の様子に、微笑みにも似た吐息が漏れる。
(なんか、1人で悩んでたのがバカみたい)
割と大きな決断だと感じていた朝のサボりも、こうもあっさりと流されて普段通りに振る舞われては意識のしようがなかった。
ちっぽけな悩みに振り回されてしまったことにヒシスピードはすこしだけ顔を赤く染める。
正体不明のひりつきは今も間違いなく存在している。それを気の迷いで片付けるつもりは毛頭なかったが、だからといって真っ向から立ち会ってうじうじ悩むのはやめることにした。
まあ、そのうち氷解するなり向き合うべき時が来るなりするだろう。あのマルゼンでもトレーナーを見つけることができたように、待てばきっと転機が訪れる。多分それでいいはずだ。
「ち、ちょっと、スピちゃん? この画像はなんなの!?」
「最高の表情だと思わない? 私は好きなんだけどなぁ」
「えっ、本当……? って、その手は桑名の焼き
大あくびするアイコン画像にようやく気づいた親友に、ヒシスピードは心からの曇りなき笑顔をみせた。
ウイポの新作が発売されたようですね
1976年開始だと序盤でヒシスピードを貰えるらしいですよ!!!貰うしかありませんね!!!!