ジューダス・ビショップと最強のイマジナリーフレンド 作:束田せんたっき
思い立ったが吉日だ。早速、俺は周囲に取り巻く謎を解明するべく、行動に移した。まずは比較的情報を得られやすそうな両親に狙いを定める。
トロフィー室を漁ってみたが、ダニエル・ビショップやフィデス・フォーリーと印字されたメダルや杯は見つけられなかった。リドルとかポッターばっかりだ。ヘクター・フォーリーの名がレイブンクローの名誉チェイサーとして表彰されていて、ちょっとほっこりした。
他にも図書室の閲覧等、一人でできることは試してみたが、収穫がほとんどゼロのまま十月の終わりまで来てしまった。かくなる上は両親と接点のあった人物から直接情報を得るしかない。
しかしよく考えると、俺の親と深い関わりのあった人が誰かなかなか思いつかない。ダンブルドア校長は一年生の頃にダニエルについて言及していたから何か知っているだろうが、そう簡単にお目にかかれる立場の人ではない。何やらフィデスと先輩後輩の仲だったロックハートは聖マンゴだし、他の先生に至っては交際があったのかさえも定かではない。
うんうん唸って寮の自室を歩き回っていると、僅かに開いた扉の隙間からにわかにスキャバーズが飛び込んできた。間髪を容れずに、黒髪の少女がけたたましい開閉音を奏でて入室する。サディスティックに喉を鳴らしながら、じりじりと哀れな老ネズミににじり寄った。
「クハハハ……! とうとう年貢の納め時だなァ、スキャバーズゥ。オレを裏切った責任、取ってもらうぜェ?」
悲愴な喚き声を上げ、縦横無尽に部屋を駆け回るスキャバーズ。空中から迫るミカエラの白い手を避けようと必死だ。魔法を使えば一瞬で捕らえられるのにあえてしないのは、彼女がこの状況を楽しんでいるからだろう。うん、いつも通りだな。
スキャバーズはベッドの下やら窓の桟やらを駆けずり回った挙げ句、俺のローブの足下に潜り果せた。床に降り立ったミカエラがオレンジ色の瞳を爛々と輝かせて、目の前で屈み込む。俺の足を盾にして魔の手から逃れようと画策するネズミと、埃が舞うのも構わずに滅茶苦茶に手を突っ込む少女の、熾烈な攻防戦が俺のローブの裾で繰り広げられている。勝手に。
「ちょっと! 二人ともやめてよ! せっかくさっき掃除したのに埃っぽくなってるから!」
俺はミカエラを手で制止し、スキャバーズの太った背中を摘まみ上げた。親友が上目遣いで睨み付けてくる。
「おいジューダス、邪魔すんなよ。コイツはオレのことを嵌めやがったカス野郎だ。然るべき罰を与えなきゃならねえ。例えばアバダとか」
スキャバーズの甲高い叫び声が一オクターブ上がり、藻掻き方もより一層激しくなった。懸命に指を噛んで脱出しようとするネズミを俺はミカエラに差し出し、真っ直ぐに短髪の少女を見据えて口を開いた。
「ミカエラ、スキャバーズは確かに一度は君を裏切ったかもしれない。でもこの子が俺を秘密の部屋まで導いてくれたんだ。俺たちが今こうしていられるのはスキャバーズのお陰なんだよ」
「はァ!? てことは、オレが復活できたのも……」
「部分的にそうだよ」
滅茶苦茶首肯するスキャバーズを見下ろし、バツが悪そうに後ろ髪を掻きむしるミカエラ。メンタリストジューダスが見るに、殺意八割感謝二割といったところか。
「ダァーッもう! しゃーねえなァ。今回はこのバカに免じて見逃してやるよ」
「ありがとうミカエラ」
「お前に感謝される筋合いはねェアホンダラ。本ッ当に脳天気なんだからよォ…… わかったならさっさと失せろドブネズミ」
解放するや否や、一目散にスキャバーズは逃げていった。怖い思いをしたのだろう、可哀想に。後で何か美味しいものを食べさせてあげよう。
俺が噛まれた跡から滴る血を舐めていると、突然ミカエラから手を掴まれた。
「貸せッ! ったく、結構ガッツリいかれてるじゃねえか。やっぱりあのクソネズミに磔の呪文くらいかけておいた方が良かったんじゃないかァ?」
「駄目だよ酷いことしちゃあ。最近コンプラ厳しいんだから」
「まーた訳のわからんこと言いやがって。ちょっとジッとしてろよ。――エピスキー癒えよ」
ミカエラが手をかざすと、たちまち傷口が塞がれ元通りになった。ニヤリと会心の笑みを浮かべる。
「これで良しと」
「ありがとうミカエラ」
「へへっ、お前に感謝されるまでもねえよ。こんくらい朝飯前だ」
人差し指で鼻の下を擦る親友。今なら何を訊いても許されそうだ。俺はずっと気になっていたことを口にする。
「ミカエラ、ボガートのことなんだけど……」
「アァ?」
途端にミカエラは顔を顰める。明らかに不機嫌になってしまった。もう日にちも経ったし、大丈夫だと思ったんだけど……。
「その、何かごめんね……」
「謝んなカス、業腹だ。お前がオレのことを恐れるのは当たり前だろ。バケモン飼ってるようなモンだからな。喜ぶのはハグリッドぐらいだろうよ。逆に、よくここまでその感情を隠してきたなァ?」
誤解だ、大きな誤解だ! 俺は咄嗟にミカエラの小さな肩を鷲づかみ、必死にその溶鉄の瞳を覗き込む。
「違うよ! 俺はミカエラを怖いと思ったことなんて一度もない!」
「みんな初めはそう言うんだよ。今も小心翼々としてんだろ? オメーの手から伝わるその震えが何よりもの証拠だ」
「違う!」
「何も違わない。無理すんなよ。お前が壊れちまったら、それこそオレは悔やんでも悔やみ切れないんだからよ」
涙目の自分が映る瞳は、どこまでも冷めていた。諦観。一体何がこの少女をそこまでの絶望に駆り立てるのだろうか? 初めての友達とすら、心は通じ合えないのだろうか?
静かな、されど嫌に耳に残る声で、彼女は言った。
「オレ、ジューダスに期待しすぎてたのかもな。心の奥底で、いつの間にか願っちまってた。お前ならオレを恐れない。お前ならオレを受け入れてくれるって」
「現にそうしてるじゃないか!」
「アア、表面上はな。でも、ボガートが白日の下にさらしちまった。もう戻れないんだよ。その恐怖感と付き合ってくしか、道はねえんだ」
何も言えない。本当は怖くなんかないのに、伝えなきゃいけないことがあるのに、今のミカエラには何を言っても嘘だと一蹴されてしまいそうで…… 怖くて口が開かない。
「まァ、別にお前がオレにビビってようがいまいが、関係性は変わんねえだろ。宿主と悪霊、そうだろ?」
「あと親友ね!」
「クハハハ、そんな設定もあったな」
「設定じゃないって!」
さっきまでの鬱屈とした空気が霧散し、いつもの雰囲気が帰ってきた。そうさ、例え少々誤解されたからって、俺たちの絆が切れることはない。そう自分に言い聞かせて、俺はミカエラと笑い合った。
「して、何用だ我が盟友ジューダスよ。よもやこの百戦錬磨の金剛力を振るう時が来たのか?」
翌日、俺は占い学の教室がある塔の階段の踊り場にいた。今日はハロウィーンで、俺たち三年生が初めてホグズミードに行ける日でもある。そんな日に学校に残っているのは、もちろん俺の両親の情報を得るためだ。ちなみに目の前でポニーに跨がっているのは我らがサー・カドガンである。
「カドガン卿、質問があるんだけどいい?」
「なるほど、むしろ神算鬼謀の智略をご所望か。遠慮せずに問うてみよ。快刀乱麻を断つがごとく、いかなる問題も解決してみせようぞ!」
カドガン卿が槍を高く掲げ、ナポレオンのようにポニーを嘶かせる。当然、思いっきり落馬するまでが様式美だ。
「あ痛たた」
「カドガン卿大丈夫!?」
「うむ、心配には及ばぬ。それよりも早く教えるのだ。そなたの質問とやらを」
「えーと、俺の両親のことについて教えて欲しいんだけど……」
「どうしたのだ藪から棒に。まあ良い。ふむ……」
手を拱いて考える絵画の中の騎士を、俺は固唾を吞んで見守った。振り落としたポニーが草を食み終えて昼寝をする頃になって、やっとカドガン卿は語り始めた。
「興味深い御仁だった。そなたの父ダニエルは信仰心が篤く、それゆえ慈愛に満ちていた。あれはそう、我とピーブズめの328度目の決闘の時だ。我が剣が彼奴をまさに刺し殺さんとした瞬間、ダニエルは勇敢にも彼我の間に割って入り、こう申したのだ。『争いに関係しないことは人の誉れである、すべて愚かな者は怒り争う』とな。我は矛を収めた。彼奴もかの御仁の人徳に敬服したのだろう、黙して去って行ったのだ。まっこと、天晴れな御仁よ」
「は、はぁ……」
なんだか聖書の一幕にありそうな話だ。しかし、本当にたった一言であの傍若無人なピーブズを押さえられたのだろうか。ピーブズからの嫌われようから察するに、一悶着あったのは確かだろう。というか、絵とポルターガイストが決闘なんて現実的に考えておかしくないか?
「そなたの母は…… すまぬ、率直に申すとあまり印象に残っていない。常に物憂げな表情をしていおった。端的に形容するなら深窓の令嬢であるな。ただ……」
「ただ?」
「どこか悪魔に魅入られているかのような仄暗さも漂わせておったような気もする。……すまぬ、かくのごとき曖昧な答えしかできぬ」
「いやいやいや、真剣に答えてくれてありがとう」
「代わりと申しては何であるが、この塔の頂上に引きこもっているかの占い師に訊くのが良かろう。我が記憶が正しければ、そなたの母とも交友があったようだ」
カドガン卿に礼を言って、俺は石造りの階段を上がる。父の話はイメージ通りだった。平和を愛する敬虔な十字教徒。だが母はどうか? 父親の印象が強すぎるのかあまり話題には上がらないが、カドガン卿とロックハートの評価は真逆だ。清廉潔白なのか、腹に一物隠していたのか。日記から推察すると、レインに似た雰囲気の人物のようだが。
はしごを登って占い学の教室に着く頃には、俺の息はすっかり上がってしまった。額の汗を拭い、乱れたローブを整える。ミカエラがいれば間違いなく煽られていただろうが、彼女は朝からどこかに行ってしまっている。閉め切られたカーテンの隙間からお情け程度に注ぎ込まれた陽光が照らす部屋は、やはり薄暗い。
「ごきげんよう、ミスター・ビショップ。あなたがいらっしゃることをお待ちしていました」
深山から木霊してきそうな聞き取りにくい声。腕輪をがちゃつかせて、トレローニー先生が教室の奥から現れた。唐突に声をかけられたのに内心ドギマギしつつ、俺は口を開いた。
「こんにちは先生。その、なぜ俺のことを……?」
「昨夜夢でお告げがありましたの。明日、迷える子羊が訪れるであろう……と。あたくし、すぐにあなたのことだとわかりました」
「流石ですね!」
トレローニーは気分を良くしたのか、スパンコールをヒラヒラとさせながら水晶玉の前に腰を下ろした。対面に座るよう俺を促す。
「あたくしが占って差し上げましょう。神妙になさって?」
「はい、先生」
背筋を伸ばしてご託宣を待つ。トレローニーは礼の胡散臭い占い師っぽい手の動きをしながら、濁りようもないほど透き通った水晶を注視している。ようやくお香の独特な匂いに俺の鼻が慣れてきた時にも、何の影も霞も現れないままだったが、先生は構わずに占い始めた。
「あなた、何かをお探しですわね。そしてそれはご自身の根幹に関わっている」
「はい、そうです……!」
「将来をグリム――死神犬が過っています。濃密な死の気配…… しかしリンゴ、あなたは困難を乗り越え求めていたものを手にする……」
「マジですか!?」
「十字架の影が視えますわ。これは…… 林、いや森かしら。あなた、森の中の十字架に心当たりがあって?」
「滅茶苦茶あります!」
「そう…… そこに答えはございます……」
「ありがとうございます! 行ってきます!」
喜び勇んで立ち上がり、回れ右をして走り出す。うおおおおおお! ついに手掛かりを掴んだぞ! やっぱトレローニー先生はすげえや!
「お待ちになって」
霧の奥深くから聞こえてきたとしか思えない声に引き留められて、俺は元の席に戻る。トレローニー先生は普段よりも三割増しの神秘的な微笑を湛えた。
「予言とは恵みをもたらす一方で、時に身を滅ぼしうるものです。逸る気持ちもわかりますが、冷静になって行動することをお勧めいたしますわ」
「了解です先生!」
「それと、ここにいらっしゃったということは授業の質問でもおありになったのではないですか?」
「いえ、そうではないのですが…… 実は俺の母のことについて伺いたく……」
「まあそうでしたの」
先生は立ち上がって紅茶を二人分用意すると、一口飲んでから話し始めた。
「あたくしがフィデスと出会ったのはちょうどこの教室でしたわ。当時のあたくしは七年生で、彼女は一年生でした。かなり年齢が離れていましたが、深遠なる占い学の虜になっていたあたくしたちは意気投合、得がたい友人となりました。在学中は同じレイブンクローでしたからよくお話していましたし、卒業してからも手紙を繁く送り合っておりました」
「とても仲が良かったんですね」
正直羨ましい。俺もこの学校に入ってから今まで、友達と仲良くなることを欠かしたことはないけれど、ここまではっきりと言い切れるかというと自信がない。以前はミカエラと即答できたと思うんだけどな……。
「それで、母はどんな人だったんですか?」
「フィデスは、そうですわね、とてもお心配りのできる方でした。落ち込んでいる方がいらっしゃればすぐにその方が一番喜ぶことをして、たちどころに立ち直らせていましたわ。周囲からの信頼も厚かったと記憶しています」
「はあ…… あのう、何か悪い噂とかは……」
「全くございませんでした。ただ、強いて言えばですけれども…… 酷く未来を恐れていらしたようですわ」
「未来……?」
「ええ、ですが、これは占い学を修めた方にはよくあることです。あたくしも自分の予言が外れて欲しいと何度願ったか知れませんわ。なので忘れてくださいまし」
ふんわりと柔らかな落ち葉を踏みしめ、木漏れ日の中を歩く。野草の落ちついた匂いが俺の肺を満たし、小道を素早く横切る茶色い小動物が目を楽しませた。おそらく赤リスだろう。
俺は現在、禁じられた森に一人で分け入っている。理由はトレローニー先生の予言にあった十字架を見にいくためだ。禁じられた森は無論禁じられているから禁じられた森だ。入っているのが見つかれば減点や罰則は免れない。にもかかわらず、なぜ大胆にもこの強行軍をしているのか。それは今日がハロウィーンかつホグズミードの日で、先生や生徒たちの大部分は向こうに行ってしまっているからだ。監視の目が薄い絶好の校則破り日和という訳である。
目的地はレインの薬草探しで訪れたこともあってすぐに到着するかに思われた。しかし現実は甘くない。前回は愛すべきはとこのナビゲートと最強の心友の守護があったが、今回は己が身一つが頼りだ。当然、道に迷ったり、オーグリーに追いかけ回されたり、ケンタウロスに冥王星がいつになく大きいと話しかけられ続けたりした。
心身がへとへとになりながら、やっとのことで開けた空き地に辿り着いた。安堵するのも束の間、十字架の前に寝そべる大きな黒い山。くすんだ毛並みを見て取るに、野犬なのは間違いない。いびきをかいて気持ちよさそうに眠る大型犬を起こさないように、抜き足差し足、側を通る。よしよし、犬は気づいていない。
そんな時に、ポキリと不吉な音が鳴る。反射的に片足を上げて地面を見れば、二つに折れた小枝が視界に飛び込んできた。背後から聞こえる低い唸り声。急上昇する心拍数。
跳ね上がって振り返れば、つぶらな瞳と目がかち合う。伝える感情は怒気一色で話し合いの余地はなさそうだ。けれどもここまで来て尻尾を巻いて逃げるのは少々癪だ。いつでも戦略的撤退ができるように足のポジショニングを済ませた俺は、微かな勝ち筋をたぐり寄せるために目を皿のようにして眼前の獣を観察する。
犬は姿勢を低くして飛びかかる準備は万端のはずだが、一向にその様子はない。強く吠えられるのは正直かなり怖いが、威嚇するだけに留まっているようにも見える。また体の大きさからは考えられないほど痩せこけていて、さっきから頻りに腹の音が鳴っていた。俺は警戒を解かずに、トレローニー先生の予言を反芻する。
「死神犬、試練、リンゴ…… つまりこういうことでは?」
俺はおやつに持ってきていたリンゴを鞄から取り出し、黒い犬の方へ放り投げた。やにわにかぶりつくワンちゃんが、瞬く間に食べ終えて切なそうにこちらを見つめた。予備のリンゴを手前に投げる。犬はおいしそうに食べる。
しばらく投擲と食事を繰り返すと、犬は満足そうに体を丸めた。どうやら交渉成立のようだ。俺は柔らかくなった犬の視線を背に受けて、十字架の前にひざまずいた。
『十三の無垢なる魂、此処に眠る』
両手を組んで目を閉じる。どうか、何かしら起きて良い感じに俺の両親のこととか俺のことがわかりますように……。
そよ風が頬を撫で、木々のざわめきが全身を包み込む。後ろでがさがさと犬が草を揺らした。かなりの時間祈ったが、何も起こらない。ダニエルの一人や二人降臨してくれると思ったんだけどなあ。
ふと瞼を開くと、犬が十字架の根元を掘っているのが目に入る。俺は慌ててその背にしがみつき、墓荒らしを止めさせようと試みた。
「ちょちょちょちょ、それは駄目だって!」
尚も掘り続ける犬畜生。幾重にもそこを鼻で嗅ぎ、ここ掘れワンワンする始末だ。これもトレローニー先生の予言なのかもしれないと思い直し、父や関係者各位に心の中で謝罪しつつ、俺はため息を吐いて盗掘に加わる。
やがて、かなり腐食の進行した金属の箱が顔をのぞかせた。ある種の防御魔法が仕掛けられているらしく、触ると一斉に魔法陣が展開してきたが、俺の瞳を走査するとなぜかロックが解除された。俺は中身に入っているであろう遺骨に祈りを捧げ、恐る恐る蓋を開ける。
「なにこれ」
出てきたのは、何らかの骨でもなければ、ありとあらゆる絶望と一握りの希望でもなかった。俺は白い靄が入った試験管を手に取り、目の高さまで持ち上げる。ためつすがめつ眺めてみるが、一体全体なんなのか見当もつかない。
犬が興奮して俺に吠え立てた。何やら伝えようとしている模様。ジェスチャーを頑張って読み解くと、この脱色したフカヒレの出来損ないみたいなものを頭にぶち込めば良いらしい。そんなことあるか?
半信半疑で綿飴を掬うように杖でフカヒレを絡め取り、こめかみに杖先を当てる。ひんやりとしたものが入り込んできたかと思えば、俺は真夜中の森に立っていた。
突然の出来事に目を白黒させつつ辺りを見回す。場所は同じようだ。しかしさっきまで一緒にいた黒い犬のクロ(今名付けた)がおらず、代わりに二人の男女が佇んでいた。俺はにこやかに手を振って話しかける。
「いやー、今宵は美しい星空ですね。ところでつかぬことお尋ねしたいんですが――」
「ダニエル! いつになったらわかってくれるの!」
我が渾身の時候の挨拶を無視して、灰を被ったかのような髪の少女が叱責した。対面の少年は静かに微笑むばかりだ。そのことがまずます彼女の苛立ちを募らせるようで、こっちまで痛くなりそうな音量の歯ぎしりが聞こえてくる。
「憤怒は七つの大罪の一つですよ。どうか押さえてください、フィデス」
怒濤の展開に脳みそが追いつかない。ダニエル? フィデス? ということはつまり、俺は過去に戻っちゃった……ってコト!? あの試験管はデロリアンか何かか?
置いてけぼりの俺を突き放すように両者の会話は進んでいく。フィデスは頭を振り乱し、激流のごとく言葉を責め立てる。
「そうやって! いつもあなたは神神神神! どうしてもっと自分を大切にすることができないの? もう三年生よ! そろそろ魔法を使いなさいよ!」
「それはできません。私はホグワーツの生徒である以前に主の僕です。邪な術を使うことは許されていないのです」
俺と同じロザリオを握り、涼やかな顔で答える白髪の少年。どうも彼はホグワーツ『魔法魔術』学校の生徒でありながら、入学してから全く魔法を使わずに過ごしてきたらしい。いや、どうやって生き残ってきたんだよ。
「いくらあなたが祈れば思った通りの結果を起こせるといっても、限度ってものがあるのよ!」
「なぜです? 出席やレポートはちゃんとこなしてますし、実技試験も杖と呪文を使っていないだけで他の生徒と遜色ありませんよ?」
「そういう問題じゃない! あなた、このままだと死んじゃうのよ?」
碧眼に涙を溢れんばかりに溜めて、フィデスはダニエルに詰め寄った。当の聖人はというと、満面のマジキチスマイルだ。
「天上の主の元に清廉潔白で帰れるのならば、本望です」
乾いた音。少女の右腕が勢いよく振り抜かれていた。笑みを崩さぬまま、ダニエルが紅葉型に赤く染まった頬を手で押さえる。もう片方の手で十字を組み、厳かに呟いた。
「ああ、慈悲深き我らが父なる主よ。哀れな少女をお赦しください」
再び殴打。黄金の目をフィデスに向けたまま、彼は後ろに倒れ込んだ。続けて馬乗りになり、フィデスは腕を振り上げた。何度も、何度も。
「ほらっ! 早くっ! オブスキュラス出しなさいよ! さあっ!」
ダニエルは無抵抗で拳を受け入れている。その整った顔を濡らす、血と彼女の涙。無限ともいえる時間が流れた後、もはや弱々しく上下させることしかできなくなったフィデスの握り拳を優しく受け止めて、顔面を腫らした少年は立ち上がった。
「もうやめてください、フィデス。衝動のままにかような悪霊を解き放ってはいけないのです」
「でも、その濁った魔力をだせばあなたは長く生きられるのよ! 本に書いてあったわ!」
「その情報が正しいとは限りません。それに――カハッ……!」
父が咳き込むと、その口元から黒と橙の靄が吐き出された。フィデスが背中をさする。止めどなく零れ落ちる瘴気を眼前にして、俺は呆然と呟いた。
「ミカエラ……?」
そこで幻のような光景は消えた。辺りに父と母の姿はなく、空き地はいつの間にか夕日に照らされてオレンジ色に染まっている。クロもどこかに行ってしまったようだ。割れた試験管が物寂しく光っている。俺は一人立ち尽くした。
「ってことは俺、もうすぐ死ぬの……?」