ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【戸山 香澄】キラキラドキドキはここに

 いつものように有咲の家の蔵での練習の帰り。それは本当に何気ない、日常の中のワンシーンだった。

 小さい頃に聞いた、空から届いた星の鼓動。それらに導かれるように、奇跡と言っても差し支えないような、キラキラドキドキとの出逢い。その感動的かつ幻想的な邂逅を思い起こさせるような、空に瞬いた星々。そこかしこにありふれた住宅街の小径が街灯の下でも霞んでしまうほどに、今この瞬間に眺めていた星の数々は私の心をすっかりと奪っていた。

 この星々を眺めていると、いや、この星々を眺める度に私は幼い頃の戸山香澄に戻ってしまう。あの時感じていたキラキラドキドキにもう一度めぐりあうために、その想いが胸の奥底を温めるのだ。

 けれど、そんな星たちも西からやってきた分厚い雲に覆い隠されて、そこにいたのが嘘であるかのように消えてしまった。その瞬間私はふと、現実にまで引き戻されたかのように、目の前で待ち構えていた自宅の存在に気がついた。私の物思いは即座に中止されて、私の目線は窓から漏れ出る明かりに囚われる。私は靴すら揃えない勢いで玄関を駆け上り、リビングで待っているであろうあっちゃんに飛びかかった。

 

「あっちゃ〜ん! ただいまーー!!」

 

「わっ?! ……お帰り、お姉ちゃん」

 

 私の帰りを出迎えてくれるあっちゃんの態度は少々余所余所しいところがあったが、私はいつものごとくそんなことを気にするでもなく抱きついていた。

 

「ねぇ、暑いんだけど……」

 

「えー? でもクーラーも効いてて涼しいよね?」

 

「そういうことじゃなくて、はぁ」

 

 さっきまで外の風に吹かれて帰ってきた私にとっては、この部屋の空気はさらに私の身を冷やすほどの寒さすら感じられた。先程までの夏の夜の風も、昼間に浴び続けた陽光のそれに比べれば、肌に幾分か優しい。それどころか肌を擽る空気の流れは心地よさすら感じられた。その風の向こうには、懐かしい星の輝きすら見えていたのだから。

 でも、私の全身全霊を込めたハグに、どこか苛立ちの表情を隠せていないあっちゃん。そんな姿を見て、私は何やら不思議な感覚を覚えていた。それは言葉で表したら少し悲しくなってしまうような、けれど、それとは釣り合わないような安心感もあるような。一つだけ言えることがあるとすれば、さっきまで見ていた、鼓動の音が響くような星の脈動が雲によって隠れてしまった時の、それによく似ている。

 私を懐かしい気持ちにさせる星の鼓動を思い出した私は、あっちゃんのそれまでの暗い表情を吹き飛ばせるぐらいの話題だと思って、そのままの体勢でもう一度あっちゃんの顔を見返した。

 

「そうだ! 今日の星がね、見てるとすっごくキラキラドキドキしたんだ! あっちゃんも見に行こうよ!」

 

「今日の星? でも今日の夜は、ほら」

 

 あっちゃんの指さした先にあったテレビ。丁度家族が団欒するような時間帯に流れるようなニュース番組の、お天気コーナーが流れていた。関東地方の天気図を見れば、どうやら今日の夜、それどころか明日の昼までずっと曇り空、それも時折雨が降るような状況らしい。モニターの横に立って高説を垂れるキャスターにモヤモヤとした思いを持ったが、それで天気が変わってくれるわけでもなく、画面が切り替わった時にあっちゃんから呆れたような視線が飛んできた。

 

「雨ってことだから、私はパスで」

 

「えぇっ?! なんでぇ?!」

 

「濡れたくないし、空見えないじゃん……」

 

 いつものあっちゃんならもう少しノリが良く、呆れながらも『いいね』だなんて言ってくれそうなのにな、なんて内心拗ねてみながらも、目の前のあっちゃんの様子を見る限りどうやら妥協はなさそうだ。まぁそれもそうか、星を見ようと言っているのに星が見えないんじゃ本末転倒か。

 

「でも雨、雨はまだ降ってないよ?」

 

「じきに降るんでしょ? なら別に、見えないものを今日見ようとしなくてもいいんじゃない?」

 

「うっ。そ、そうだ、雲の切れ間から見えるかも! 鼓動を感じたぐらいだもん!」

 

 必死にあっちゃんを説得するものの、梃子でも動かないあっちゃんに遂に私は諦めざるを得なくなった。雲の切れ間だなんてあるかすら分からないし、雨はきっと降る、全てその通りだった。

 

「今日は部屋で大人しくしておけばいいんじゃない?」

 

「うぅ……でもぉ」

 

 渋々あっちゃんから離れて廊下へ出る。リビングの扉を閉める間際に、ボソリと聞こえてきたあっちゃんの声を、私は聞き逃すことが出来なかった。

 

「はぁ……お姉ちゃんも、いい加減諦めなよ……」

 

 きっと私に面と向かって言おうとしたことではなく、あっちゃんなりの溜息のそれなのだろうが、なんだか心が一瞬ちくりと痛んだ。あっちゃんのところに戻ってそれを問いただすほどの勇気だとかもなくて、部屋に帰るにも帰れず、悩んだ私は結局また外に出ることを選んでいた。一応傘を持とうかと悩んだが、ドアを開けても夏特有の熱気がしただけで、雨の臭いはない。それならあっちゃんだって来てくれてもよかったんじゃないか、なんて思いながら外に出る。さっきまでの涼しさを、快く感じさせる風はない。空にはさらに雲が広がっていて、さっきの天気予報が嘘を言っていないことを理解する他なかった。

 

「あっちゃんも、忙しいよね」

 

 小さくつぶやいた私の声を聞く人は誰もいなくって、背後から前方に投げかけられていた光も徐々に細くなって消える。まだ物凄く夜が遅いわけでもないのに、辺りに人気はない。暫く町を歩いてみたけど、住宅街が広がるこの辺りでは、帰宅途中のサラリーマンに何人かあったぐらいだった。流石の私とて、全く無関係な、名前を知らないサラリーマンに話しかけにいったり、変な誘いをしたりだなんてしない。あっちゃんにもきつく言われているし。

 そんな見知った人との遭遇もないままに町を漂って、私の気持ちは星の消失とともにさらに沈む、そんな風に思われた。

 

「香澄?」

 

 けれど、私の名前を呼ぶ声がして私は振り返る。その声は今日の夕方にずっと聞いていたポピパのみんなの声でもなくて、むしろそんなよりももっと低い男の人の声。私の名前を呼ぶ男の人、それも多分同年代のそれだ。候補は殆どいなくて、明かりに照らされて顔が見える前に私にはそれが誰かわかった。幼馴染だった。

 

「何してんだ? こんな時間に」

 

「こんな時間に……?」

 

 そう言われて私はふっと上空を見上げた。僅かな雲の切れ間、それはナイフで裂いたと言っても疑わないぐらい本当に細い隙間。その隙間から僅かに漏れた星の脈動に私は興奮を覚えたのだ。

 

「星だよ! キラキラドキドキするでしょっ?」

 

「星……?」

 

 私が指さした先を怪訝そうに見つめる彼。付き合いも長いのだから、私が星をこれほどまでに、側から見て狂信的に求めていたとしてもおそらく変な反応をされることはない。それこそ、あっちゃんと同じような『またか……』というような反応が関の山である。けど、あっちゃんのそれがどこか私にとって恐ろしくて、同じような反応が返ってくることが不安で仕方がなかった。

 

「あっ、たしかに見えるな。ギリギリだけど」

 

「……っ、でしょっ?」

 

「でも何も態々こんな日に見なくても」

 

「……やっぱり?」

 

「うん」

 

 どうやらその辺りの反応はあっちゃんと然程変わらないようだった。どう考えてもこの空の状況で微かに見える星の残滓を眺めて騒ぐ私は変なやつで、それは妹のみならず幼馴染も同じ認識だった。小さい頃からの私を知る二人の反応がそれならば、きっと世間の大半の認識がそうなのだろう。

 

「でも、あの星が見えるのは今日が最後かも知れないんだよ?」

 

「そもそも見えてない星もあるのに言われてもなぁ」

 

「だって雲の向こうにはあるもん!」

 

 駄々をこねる幼児のように正論に真っ向から楯突く私。おそらく滑稽も滑稽だろうが、目の前の幼馴染はそれを笑うような人ではなかった。かといって正論を易々と引き下がらせるほど出来た人でもなく、その点では二人とも等しく子どもだった。

 

「けどあの星が今もあるかは分からないし、見えてるって思ってるだけかもしれないし」

 

「見えてるって思ってるだけ?」

 

 訳がわからず聞き返した私にキョトンとした目を向けながらも、黒くふさふさとした髪を少し弄って、ゆっくりと語り始めた。得意げになって語るとかそういうわけではなく、少し目線を逸らしながら、住宅街の壁をすっと這った視線はやがて空に向いた。

 

「星って宇宙のすごく遠いところにあるから、その光がこっちに届く頃にはその星は消えてなくなってるかもって、そういう話だよ」

 

「……消えちゃってるの?!」

 

「星にだって寿命があるからな。物凄く長い距離を駆け抜けてきた星の光が地球に降り注ぐ頃には、その元々の光を放っていた天体が寿命を迎えてるかも知れないんだよ、って聞いたことないのか?」

 

「うーん、……あるようなないような?」

 

 曖昧な私の記憶には、そんな話がどこかで聞いたことがあるようにも思われれば、逆に荒唐無稽な陰謀論の域を出ない全くの嘘っぱち、たった今吐き出されたばかり、口から出まかせにも聞こえる。星が寿命を迎える。それなら地球だっていつか死んでしまうのだろうか、地球は生き物なのか、私の理解の範疇を超えたテーマに私の頭は見事にパンクした。

 混乱を極めた私を見かねたのか、乾いた笑いを重ねた彼は再度空を仰いで、覗き見るような星の線に指をなぞらせていた。

 

「……難しく考えなくても、その星が本当に今も生きているかは分からない、それだけで十分だと思うぞ?」

 

「地球も死んじゃうのかなぁ……」

 

「……地球? まぁ地球もそうなるかもしれないけど、そもそも恒星じゃないし、な」

 

 その語り口曰くこの地球とあそこら辺に浮かぶ星とでは種類が違うのだ。だから地球は光ってないし、光ってるものなんて電気ぐらいだ、そんなことを言われて私はあっさりと納得した。

 地球が死ぬとは言っても、きっとその日が来る頃には私はとっくに土の中だ。だからそれ自体に悲しみだとかは覚えても、不安、謂わば杞憂のそれに含まれる類いのものは感じられなかった。

 それよりも私にとっては星が寿命を迎えることの方が遥かに重要で、私の聞いたあの日の星の鼓動、それが何の星だったかまでは未だ釈然としないが、その星の命が尽きている可能性を考えると、なんだか私がこれまで馬鹿みたいに何度も爆発させてきたキラキラドキドキへの憧れのようなものが無に帰していくようだった。過去の私の原動力が何の価値も持たない星への漠然とした憧れに成り下がってしまった。

 

「あの星、死んじゃったのかな」

 

「どの星? ま、星の寿命なんて俺たちの寿命から考えたら遥かに長いだろうから、多分生きてると思うけど」

 

 星の寿命が長いのなんてのは想像がつくし、出なければ過去から星座として崇められてきた星々の繋がりが今まで変化せずに残っているわけが分からない。だからそれらの正論は理解こそ出来たものの、納得がいかないし、不安を拭い切れるわけではなかった。

 いや、もっと正確に言えば、私が抱いているのは星の鼓動を感じたその星の生き死にが分からないことに対する不安ではなかった。

 

「ねぇ。やっぱり星、見に行こうよ!」

 

 私自身の過去に対する恐れを払拭するためか、将又これまでと変わらずにいるためか、私は彼を誘う。さっきあっちゃんには断られたし、何なら先ほども少し渋られたのにも関わらずだ。けど、なんだか誰かと一緒に星を見たいという想いが心には湧き出ていた。

 

「……まぁ良いけど」

 

「ほんとぉ?! 早速いこっ!」

 

 だから肯定の返事は計り知れないほど嬉しくて、咄嗟に彼の手を握っていきなり走り出した。全く心の準備すらしていなかったその手は抵抗を見せるでもなく、私の思うがままに引っ張られて、その手を追うように足音が駆け抜けていく。

 住宅街の空は必ずしも綺麗とは言えない。綺麗ではある。それこそ本当に街のど真ん中。空が殆ど隠されてしまうような人の往来に溢れたビル間と比べれば、文句の付け所もないほどに綺麗だ。

 でも、それでも一番ではない。一番の綺麗さを求めるのであれば、その星々に限りなく近づいていくのが正解であろうが、生憎それはできない。きっと私の生きてる間にあの星に辿り着く手段が現れることはないだろうし、そういうのを求めているわけではなかった。より綺麗な星が見られれば、より近くでそれを見られるなら、何でもよかった。

 住宅街を走り抜けて、息が上がってきた頃にようやく後ろからどこに向かうんだなんだと文句の声が聞こえてきた。私はそれに秘匿を貫くだけで、何も返事はしない。なんたって星を見にいくということは決まっているのだ。なら敢えてさらなる説明が求められる訳がない。星が綺麗な世界にいく、ただそれだけである。

 

「はぁっ……はぁっ……そろそろ、疲れたんだけど」

 

 段々と文句の声は大きくなってきて、その文句に関しては私も同様であった。流石にずっと走りっぱなしでいくというわけにもいかず、少しずつペースが落ちてくる。目的地の入り口に着く頃にはほぼ歩きと変わらない速度で走っていた。

 やってきたのは、町の中心部から少し離れた木々に囲まれた公園のような、いや、それほど整備はされていないか。小さな林のようなところだ。人の生きる音はまるで聞こえてこないし、環境音の他には走り続けて疲弊しきった二人の男女の息遣いぐらいであった。

 

「ここなら、綺麗なっ、お星様見えるよねっ」

 

「ここ、なら?」

 

 途切れ途切れの燥いだ声を上空へ投げかけると呼応したように雲の切れ間が広がっていた。全く雲がないとは言わない。けど、天気予報のキャスターが言っていた様相を覆してしまう程度には晴れの空が広がっている。星が沢山見えている。物凄く遠くにある星とは言え、その長旅を終えた光の束は家の周りに居る時よりもその艶を増していた。

 

「……ほんとだ」

 

 それを証明するように、さっきまで星の哀愁に身も蓋もない正論をぶつけ続けたつまらないやつだって、私の隣でその星々が織りなす光の祭典に釘付けになっている。私が幼い頃に聞いた星の鼓動のような、私の全身を震わせるような何かがあるとまでは言わなくても、ここで見る星の群れへの憧憬は完全に人の心を奪ってしまう。

 

「こんなに、綺麗に星って見えるんだな」

 

「いっぱいあるでしょ?」

 

「星の鼓動……なんてな、ふふ」

 

 さっきまでずっと目線を空に奪われていたはずの彼は下を向いて、口元を腕で押さえて笑いを堪えているようだった。しかも口ぶりからして私の幼い夢の、幻聴や幻覚にも近しいのかも知れない感覚がツボに入ったらしい。私がそんな不愉快な笑いを止めようとムッてした表情を向けようとした瞬間、その呟きがいやに耳に残った。

 

「すごく、分かる気がするな、香澄の言ってたこと」

 

「えっ?」

 

 少なくとも空や地、私とは関係のない自然の産物たるそれらに目線を目まぐるしく変えながら感情の発露を堪えようとしている彼に困惑していたのだが、その表情が一瞬だけ、こちらからもはっきりと分かるぐらいに正面から映った時、私の中の時間が止まったような錯覚に陥った。

 

「星の鼓動? 星かは分からないけど、こんな風に、魂みたいなの、震えるんだな」

 

 私の方をチラリとだけ見てから、その顔は哀愁を一瞬で覆い隠したっきり、僅かな笑みだけを残してまたも空の方へと向いてしまった。身長の関係で横からしかその表情は見れない。何を考えているかなんてのは私には分かるわけもなくて、私はただその横顔をじっと見つめることしかできなかった。それまで星に向いていたはずの私の瞳は、くっきりと、今たしかにそこにある彼のことを映し出したまま動かなくなってしまったのである。

 それは星の鼓動を感じた、その時と近いかも知れない。例え目を離そうと思っても、何故か目を離すことが出来ない。全身がそれを視界の外に追い出すことを拒むのである。最早言葉では説明できそうにない、物理的にも説明ができない、ただただ私の本心がそう叫ぶからとしか表現が出来なかった。きっと他の誰もが、私のこの感情を説明はできないはずだった。

 

「星が脈打つのと一緒に、俺の脈も動いてるのかも知れない、そう考えたらちょっとだけ香澄の言ってることも伝わって……香澄?」

 

「……へ」

 

 目を閉じていた横顔に吸い込まれた私の意識は、名前を呼ばれたことでようやく息を吹き返した。彼の詩的な何かは一瞬しか私の耳には残らなくて記憶の隅にも残らなかったが、ただこちらを向いた表情の煌めきだけが目に映っていた。

 右手に残っていたほんのりとした温もりだとかも最早気にする余裕すらなくて、むしろその蠱惑的な表情に恍惚とした笑みを返すことの方が私の意識の全てを占めていた。そこに純粋や純朴と言うような、かつての私が抱いていた憧憬に似た感情は無いと言っても過言ではなかった。私の全ての意識が彼の宇宙よりも広く、数多の星よりも透き通った光線を持つ瞳に注がれていた。

 

「……香澄?」

 

 口が僅かに震えて紡ぎ出された声の結晶も、私にとっては瑣末な問題でしかなくて、取るに足らない出来事だった。星の鼓動とリンクした目線によって、私の心の臓が脈を早めた。興奮に似た感情だが、星の鼓動のそれと私の心臓の鼓動のそれは違う。

 彼の不安そうな表情がどうにも気に入らなくて、それを指摘しようとしたのにどうにも上手く考えがまとまらない。それを伝えようにも声が上手く出ない。まるで声帯を完全に喪失してしまったかのように口をパクパクとするだけで、掠れた息すらもそこから漏れることはなかった。多分私は相当変な様子なのだろうか、不安から心配に変わった彼の表情はさらに私を溺惑する。

 彼の瞳が色を変えた。太陽のような心まで晴れやかになる光線から、それを反射したような月の光に変わった。いや、違う。その光を放っていたのは私だった。本人が意図していないだろう誘惑に溺れた私が返すことの出来る、唯一のことだった。

 時間が止まる。彼の表情が一瞬にして見えなくなる。雲で見えなくなるのでは無い。それは日食の如き重なりだった。

 

「……んっ」

 

 一瞬だけ、いや、もう少し長かったかも知れない。欲の漏れた結果で。何が起きたか分からない彼はずっと緊張した表情を崩していないようだったが、私を当惑させる耽美な瞳は変わらなくて、星を最早映すつもりのない色を私から受け取っている。

 すっかり私が照り返した色に染まった彼の瞳が、私をさらに混乱させて、自分の背中に隠していたはずの両手で彼の頬を包んでいた。温もりを全て忘れ去りそうなほどに熱い唇が私を呼んでいた。その抵抗を許さない私の乱反射が彼の全てを支配する。力が抜けて倒れそうになる私を支えながら、ただただ長い時間重なり続けていた。

 空が全て消えてしまったような夜の林の中は寒かった。唇から伝わってくる陽光のような迸りだけが私を温めて、頬に添えていた掌がやがて背中へと回される。絡み合うような視線はすれ違うことなく互いの間を反射し続けていた。

 

「……香澄」

 

 ようやく互いの呼吸の共有を停止した私の頭は完全にフリーズした。星の鼓動を見失い、最早身近なその鼓動だけに囚われた私の心が煩く騒ぎ立てていた。名前を呼ばれる度に、彼から注がれる視線と絡まった興奮が、異常なほどに私の思考を掻き乱しながら、無意識の私の体を動かしていた。

 

「……うん」

 

「どうか、したのか?」

 

「……ううん。キラキラドキドキって、こういうことだったんだ……」

 

 幼い頃の星の鼓動の反芻。それは当たっているようで外れている。実は星の鼓動なんてのはそういうものではない。私の欲しかったキラキラドキドキ、それは意外にも、身近なところに転がっていた。

 納得が言って心が徐々に穏やかになった私とは裏腹に、不意打ちを喰らった彼は完全に何が起きたのか分からないという表情でキョロキョロとしている。その頬は暗闇の中でもほんのり赤みがかっているのだろうと容易に想像がついた。さっきまでは私を狂わせるほどの光を放っていたというのに、今はこうしてしどろもどろになっている姿。そのギャップに私は笑うしかなかった。

 

「何で笑ってんだよ」

 

 私はそれに答えるでもなく、もう一度空に瞬いている星の数々を見上げた。それに釣られるように二人ともの視線が空を向く。さっきと同じような光景なのに、私は正直空に溢れかえった星だなんてどうでもよくなっていた。あれほどずっと星を見たいと外に出ようとして、あろうことか人まで巻き込んで、としていたのに、たったのあれだけで急に星に対する熱量が下がってしまった。いや、他のところに熱を奪われたというのが正しい表現か。

 それが共有されているのかを確かめようと横を見る。横目では平然としているように見えた彼も、しっかりと私が振り向いた瞬間あからさまに目を逸らした。それはまさに、先程交わした熱い口付けの交換に意識が持っていかれていることの証左だった。

 

「なんでもないよ!」

 

 私がそう答えた瞬間、さっきとは比べ物にもならないぐらい大きなため息を吐き、そのまま踵を返す彼。私はその背中をただただ、光を追い求めるように追いかけた。

 

 住宅街の途中で彼とは別れ、本日二度目の帰宅の途につく。空を見上げたが、もう既に雲の切れ間は完全になくなってしまったようで、晴れの空どころか雨雲のようなものが近づいているようにすら感じられる。このまま歩いて帰っていては雨に降られるかも知れない。そう思った私は少しだけ早歩きだった。

 きっと雨が降る前に家には帰ることが出来るだろうから、本当はもう少しゆっくり歩いて帰っても良かった。空に雲がなければ、私は空一面に広がっていたであろう星空を眺めながら帰っていたのだろうか。星の一つ一つを指差して、脈打つ星を探そうとするのだろうか。

 多分、もしも空が晴れていれば、私は何も空を見ずに急いで帰っていたに違いない。断言しても良い。例えばあの東の空。ほんの少しだけ雲が切れて、奥にある星が見える。きっといつかの私なら、そんな貴重な星を見て一喜一憂したり、興奮を隠さずに騒ぎ立てているだろう。

 けれど、今はそんなことにならない気がするのだ。根拠はないが、あの星が、いや、あの星よりももっと綺麗な星が何の汚れもなく見えたとしても、私は足を止めてまでその星を見ることはしないに違いない。感受性がどうとかの問題ではなく、星からキラキラドキドキを見つけられる自信もない。

 あの端っこに小さく輝く星を見ても、私の息は詰まらない。何の言葉も思いつかないだとか、そういう状況には到底陥らない。私の言葉を奪うには至らない。

 違うのだ。キラキラドキドキと。きっと違う種類のキラキラドキドキなのだろう。

 

「あっ、着いたぁ!」

 

 その証拠に、今の私は大きな声が出ている。静かになりつつある住宅街に響く私の声は大きすぎたのかも知れない。門扉を超えた瞬間にガチャリとドアが開く。光が漏れ出た中から現れたのはあっちゃんで、その表情にはどこか心配そうな感情が現れている。

 いつか見たような光景に私の心は深く安堵を覚え、なんだか視界が僅かに霞んだような気がした。

 

「お姉ちゃんおかえり。まさか本当に行くとはね……」

 

 半ば諦めに似た感情もあったのか、言葉の節々からあっちゃんの想いが伝わってくる。そんな時、ふとあっちゃんの右手にタオルが握られているのが見えた。何の変哲もない普通のタオル。多分それはもしかしたら濡れて帰ってきたかもしれない姉への優しさみたいなものなんだろう。

 

「星もそんなに見れなかったでしょ?」

 

 星と言われて、頭に思い浮かんだのは、雑木林の木々に映っていた揺らめきだった。まるで恒星のような明るさを持った影であった。なんだかあの時感じたフリーズに陥る感覚にもう一度浸かって、私の頭の中は空っぽになって、何も言葉が出てこなくなった。何かを言おうとはしているのだが、うまく言葉が浮かんでこない。困りきった私は訝しむあっちゃんを手招きして、こちらに寄せた。そしてそのピンク色の頬に。

 

「……って、うわぁっ?! お姉ちゃん?!」

 

 途端に焦りだすあっちゃん。静かな住宅街に響くような大声で、それに釣られてか私の頭も目覚め始めた。あっちゃんが困惑して大騒ぎしたり、それを何とか取り繕おうとして、早く上がれだのと頻りに私の腕を引っ張っていく。部屋の空気は林の中のように澄み切っていて、それでいてほんのり冷たかった。私の腕に触れるあっちゃんは熱いし、横から見える表情も赤らんで見えた。それを見つめるだけで自然と笑みが溢れた。

 その日は結局雨が降り始めたのだが、あの林で見た星の光は霞んでいる。代わりに夜の太陽の光を私は一身に受け止めていた。きっと私は側から見たらとても輝いているに違いない。それこそ林全てを照らすかのような。炎のような明るさを持つに至るぐらいの熱い熱い、キスをしたのだから。

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