カポン、という小気味良い音が風呂場のタイルに反響して、私の耳にまで届いている。湯気の曇りにも負けじと響き渡るその音に、私はすっかり聴き入っていた。いや、聴き入っていなければ、私はきっと多少の羞恥と極度の興奮で気絶してしまうのだろう。
「……六花? どうかしたか?」
「な、なんでもない!」
隣から掛けられた声に挙動不審になる私。この状況を招いたのは自分自身だというのに、それをこうも取り乱すなんて、情けないと言われればそれまでだった。裸の付き合い、なんて言ってしまえば物凄く身も蓋もない言い方になってしまうのだが、今の状況はそれ以外の何物でもなかった。上気した肌のことを考えないように、必死に頭の隅の方へと追いやりながら、私はつい数十分前のことを思い返した。
岐阜から上京して以来、私はずっとここ、旭湯に住み込みで働いている。働くといっても親戚の営業するこの銭湯で掃除の手伝いをする程度だが、それでも単身、東京に乗り込んできた身としては、自分の家同然であった。
今日も、言ってしまえばこの銭湯の番をしていたわけである。番台なんて立派な名称を名乗るほどの自信だとかは持ち合わせていないが、それでも一人で店を見るというだけあって、慣れ親しんだ仕事ながら緊張とともに過ごしていた。
だが、どれほど待っても客が来ない。別に普段から閑古鳥が鳴いているだとかそういうことではない。先日から梅雨を知らずに降り続けるこの長雨のせいか、きっと家から出る人もそれほどいないのだろうし、況してやこの雨に降られて銭湯に入りに来ようとする物好きはいないのだ。そのことを薄々と勘づいてはいたものの、独断で店を閉めるというのも憚られ、私は朝から一ミリメートルも開いていないドアを眺めていた。
『……暇やなぁ』
力の抜けたような私の声も、誰かに聞かれることなくだだっ広い店の中に響いて消える。反響すらしないところが、余計に私の中の虚しさを募らせていた。
だが、ため息に似た息を吐き出した瞬間、私が立てたのではない音が途端に響いた。驚いて私が前を見ると、ドアがいつのまにか開いていて、外で地面を叩きつけるような雨を隠すように人影が立っていた。
『六花。お疲れ』
私の名前を呼んだ声は、この雨では見ることもないだろうと思っていた恋人の声だった。思わぬ知人の来訪に心臓が飛び跳ねるような思いをしながら、私は自分の吐息で僅かに靄がかっていたメガネを外した。
『え、え?』
『なんで来たんだって顔だな』
愉快そうに笑う声に戸惑いながら、私の目は少しどころではなく慣れてしまっている肩口の方を向いていた。
『近くまで来たから寄っただけだよ。六花は店番か?』
『う、うん! それより肩』
『これか? 雨で濡れちゃっただけだよ』
右手に持っていた傘からは多量の雫という言葉でも収まらないほどの雨の跡が床に染み出ていた。傘がそんな状態なら、肩がそれほど濡れてしまっていたって仕方がなかった。陽気な笑い声も私と話すことの楽しさ云々よりむしろ雨で濡れた照れ隠しだとか、心配させまいとする現れのように私には見えた。
『濡れたままじゃ風邪ひいてまう……あぁ、どうしよどうしよ』
側から見たらビショビショなのに、そんなことも意に介さない彼とは裏腹に、私は一人で慌てていた。びしょ濡れの本人以上に風邪の心配をするというのもおかしな話かもしれないが、それでも不思議と私がどうにかしなきゃという気持ちが湧いて出て、私はキョロキョロと意味もなく見渡すのだった。
『どうした? 六花』
『そ、そうや! お風呂入ろう!』
幸いにも店には誰もお客さんはいなかった。どうせ誰もお客さんが来ないなら自分の知り合いを風呂に入れてあげるぐらいどうってことはないだろう。そんなぐらいにしか考えず提案した私だったが、意外な答えが返ってきた。
『え、いいよいいよ。帰ってお風呂入ったらいいし』
『まだ雨やのに?』
私が言ってもそれほど旭湯を使うことには乗り気でないらしく、お金も何も要らないと言っても何も変わらずだった。頑なに風呂に浸かろうとしない、私の提案を拒み続ける彼に、遂に私は言い放ってしまったのだった。
『なら私と一緒に入る! 私もお風呂入る時間やし!』
『は、はぁ?!』
目に見えて困惑する彼の腕を強制的に取り、店の奥へと引き摺り込む。脱衣所に行こうとしている時にもそれなりに抗議の声は聞こえてくるが、なんでもその内容は一緒に入るのかどうかということらしい。……その抗議の声を聞いて、私は一瞬頭が真っ白になる。さっき自分が言った言葉の意味が明確になって、相当に破廉恥なことを言ってしまったと僅かに後悔したのだが、ここで引き下がれるほどでもなく、私は隣に振り返り叫んだ。
『でら濡れとるんやから! 一緒に入ろう!』
真っ直ぐに彼と向き合って、私の顔はきっと羞恥に染まっていたのであろうが、私の声を聞いた彼は静かに一度頷いた。
そこからは早いものだった。言葉を取り消せるわけでもなく同じ脱衣所で互いに反対を向いて服を脱ぎ、衣摺れの音が静かな部屋内で聞こえていた。斜め前に洗面台とその鏡があったせいで、反対を向いているのに彼の体が、肌の色が背中側だけ見えてしまっていて、私の興奮は頂点に達しそうだった。
決して疚しいことをするわけでも、いや、上辺だけ見て仕舞えば同じ風呂に入るという大人の、破廉恥極まりない行いをするという意味では人には言えないが、そういう不健全な意図が無かったとしても私の吐息は荒さを増していた。
服を全て脱いだという彼の声を後ろから聞き、ゆっくりと振り向いた。キチンとタオルで前が隠されていることに安心して、二人で風呂場のドアを開いた。互いの肌はタオルで隠されていない部分だけが見えているが、それでも普段は見えない肌の色が見えてしまうだけで滝のように鼻血が出るのではないかと思った。
そうして、互いに微妙な距離感のままシャワーを浴びて、今まさに大浴場の浴槽に浸かろうとしている最中というわけである。
「……入らないのか?」
「入る! 入るけど……、タオルどうしよ……」
まるで互いに牽制し合うように、それでいてかつ目線は合わせず、相手の体に変態的な興味を持ち合わせていないことをアピールしながら、浴槽に片足をつける手前で言葉を交わしているのだ。
シャワーを浴びる時なんかは距離を取っていれば互いな体は見えないし良かったのだ。けど、浴槽に浸かろうと思えば、タオルは取らないといけない。流石に彼の目の前で生まれたままの姿を見せるほどの勇気もない。ゆくゆくは私の全てを受け入れてもらいたいと思ってはいても、今日いきなりその時がやってきたなんてのは恥ずかしいが過ぎるのである。
「タオルって、お湯に浸けちゃダメだよね?」
「……ううん。大丈夫、大丈夫!」
結局私は後で掃除が大変になるだとか、もしかしたらお湯の循環の装置が故障するかもしれないだとか、後先の面倒ごとは全てどっかへ追いやって、今目の前の恥ずかしさを超えた羞恥心をどうにかすることに決めた。その声を聞いて安心したのか、私に続くように彼もタオルをお湯に浸けながらも湯船に浸った。
いつもならお湯の熱さがどうだとか、そういうのを多少なりとも気にはするのだが、今この状況においてはそんなこと一切気になりもしない。一メートル程度、微妙に離れたこの距離の先にいる彼とどう接そうか。……可能であれば、この短くて長い距離をどのように詰めようか、彼の雨に濡れていた肩と私の肩を、いかにしてぴたりと合わせようか。それだけが悩みだった。近いようで遠かった。
「今日は、その、お客さん全然来ないのか?」
「うん。朝から開けとるけど、誰も」
彼は広々とした風呂場一面を見渡して、どこか遠くを見るような目で呟いた。彼が顔をキョロキョロとしていたが、それは意図的に私の方を見ないようにしていたようにも思われた。それはどこか安堵したくなる一方で、本音を言えば少しだけ、ほんの少しだけ寂しい。
寂しいからと言ってその気持ちを素直に口に出せるほどの根性はなかった。今のこの状況を作ったのだって意図的ではなく、突発的な意図しない発言でこうなったし、もう一度同じ場面が訪れたとしたら、私はそんな誘いを口走りったりはしなかったはずだ。持ち前の引っ込み思案な性格は私を奥手にしているのだから。
そんな奥手を後悔こそしているのだが、普段ならあり得ない状況に困惑しつつ、胸の高鳴りを自覚せずにはいられなかった。お湯に隠れて見えないお尻を、少しだけもぞもぞと動かした。
「今日も休みなのに大変だな。ずっと店番って」
「でもそれでここに住ませてもらってるから、朝と夜の掃除だけやし」
何気ない会話の一つ一つも、どこかおかしなことを喋ったりはしていないか。そんな要らぬ心配が沸々と生じていた。まるでそれは付き合う前のお互いの気持ちの探り合いのように。隣にいるのが恋人だとはいいながらも、それほど恋愛なるものの経験がない私にとっての一大事だった過去のように。
この話題を続ける私は変ではないか。もっと彼を楽しませるような話があるんじゃないかと。尽きぬことのない悩みだった。
そんなことを考えるものだから、余計に会話は弾まない。彼との会話は楽しいはずなのに、緊張で、いや、羞恥心と恐怖との混濁で思考がまとまらないのだ。彼からの会話に頼るほかない私だったが、彼とて会話のネタを拵えているわけではないだろうし、私の住み込みを労うような言葉を言ったきり、無言の空間が始まってしまった。
何度か深呼吸を挟んで、お湯から立ち上る湯気に喉の奥が焼かれそうになりながら、チラリと横目で彼の方を見る。薄白い風呂場の中でも、彼の黒の髪の毛が艶を持って存在を主張していた。偶然を装って触らせてもらう以外に触れることのない髪。どうせ一緒にお風呂に入れるのであれば触ってみたいだなんていう、不埒な考えも一瞬だけ思い浮かぶ。けど、腕を伸ばすのだなんて怖すぎて、私は結局自分の両肘を反対の掌で包み込むしかなかった。
これではいけない。このままでは、そんな考えが頭をよぎってどうにかこうにか頭を振り絞る。何か名案と言えるような考えが浮かぶわけではないけど、何かを言おうとして私はパクパクと口を動かして。
「あっ、あの」
「あの、……えっ?」
どうやらこの空気に耐えかねて、何かしらの音声をこのお風呂で共有しようとしていたのは私だけではなかったらしい。それまで緊張で頭が一杯で、そんな想定をしていなかった私の頭は思考停止に陥り、声の発生源たる彼の顔をぼんやりと見つめるに至った。そしてそれは彼も同じだったらしい。お互いに服を脱ぎ捨てて、素肌が露呈した姿になってからはまともに見ることができなかった彼の正面からの顔を、そしてタオルで隠されていない胸板が目に入る。
湯気が私の視界をカーテンのように遮っても、私ははっきりとそこから伝わってくる彼の存在を見ていた。気恥ずかしさのようなものがなくなったわけではないが、それでも私の瞳は完全に、いつか彼に恋に落ちた時のような若々しさを取り戻して、燃え上がるような彼という存在を求める心に支配されていた。
アニメや漫画などでは、互いを意識する二人がともに声をかけようとして、その呼びかけが被った時は二人が譲り合う、相手に先に用件を言わせようとすることが多い気がする。今はきっとまさにそんな状況だった。もしかしたらそれに倣って彼に用件を言わせるのが吉なのかもしれない。けど、頭が暴走を始めてしまった私は、彼が口を開く前に、すらすらと頭の中を流れた誘い文句を譫言のように呟いていた。
「……ねぇ、そっち寄ったら、あかん?」
「え?」
私は斜め上にある彼の顔から少し目線を逸らして、そう呟いていた。けど、その小さすぎる声はどうやら彼まで届かなかったみたいで、私はもう一度彼の方をはっきりと見て、右手で右耳に僅かにかかった髪を一度撫でてから口を開く。
「そっち、寄っていい?」
「あ、あぁ」
さっきまで無限ぐらいの距離があるのではないかと思われた二人の距離を、私は一瞬で縮める。十センチ近寄るたびに彼の匂いが強くなっていく。彼の体がより大きく見えて、心臓が脈打つスピードが速くなっていく。
いつもの私ならもうここら辺で一度退いて、笑って誤魔化したりだとかしているのかもしれない。けれど、何故か今、この時の私は何故か勇気に満ち溢れていた。それは蛮勇と呼んでも間違っていないのかもしれない。いつもなら身を引く時に背中を押されるようなそれは無謀にも近いのかもしれない。
でも、不思議と、自分の意思とは全く無関係に私の体は彼に近づいていく。彼は返事をしたきり何も言わなくなってしまった。私が近寄っても何か文句を言って騒いだりとか、優しい言葉をかけて諭してくれるだとかそうではなかった。きっと彼も、普段と様子の違う私のそれを見て困惑して、心臓が口から飛び出そうになっているに違いない。
彼は何も言わない。私はそれを許容だと認識した。私の口から漏れ出る吐息はいよいよ彼の素肌を撫でるようになる。私が震える吐息を漏らしたら、彼の体、特に肩の辺りがピクリと大きく震えた。なんだかそれが小動物を愛でるようなそれに思われて、私の体が熱くなった。
「……ろ、六花」
「……何やろ」
「え?」
私が本当に彼の真横に密着しそうになった時、彼は口から小さく言葉を漏らして、少しだけ身動ぎをした。多分それは、何かを抑えるような、それでいて自分自身を慰めるような何かだったのだと思う。彼は私に落ち着くように言っているけど、私の耳はそれを大人しく聞き入れるほどには大人ではなく、私の体は何にも縛られない、大人になりつつあった。
「……よいしょ」
遂に、遂に私の肩と彼の肩が重なり合う。そして私はゆっくりと、自分の体重を彼の肩に預ける。多分水の中にあるからそれほど重さなんてものもないだろうけど、なんだか背中をもたれるのとか、そういうのではなく、彼に体を預けたくなったのだ。
触れ合った肩の感触は不思議だった。自分の肩でありながら、自分のものではないような感覚。お湯だって熱いし、これぐらいずっとお湯に浸かっていれば、夏なのも相まって相当体としては温まっているはずだ。それこそ暑すぎて逆上せてしまってもおかしくはない。事実私の頭は思考がはっきりと働いていないような気がするし、それは彼も同じなはずだ。
でも、彼の肩の温度はまるで分からなかった。多分熱いのかもしれないけど、それ以上に私の肩がすでに熱く、燃えるようで、何も分からなかった。ただ一つ言えることがあるとすれば、肩と肩の触れ合った断面が、なんだか脈を打っているようなその感覚があるということだけだった。
「六花……?」
私の真意を汲み取れないであろう彼は目線を私とは反対方向に逸らしながら私の様子を伺っている。きっと彼は彼なりに『近い』だとかそういうのを伝えたいのだろう。けれど私とて彼からすれば彼女だ。彼の元に寄りたいと言う発言を真っ向から否定したりだとかそういうのは、性格からしても出来ないだろう。それが分かって発言している私はずるいのかもしれない。
そんなずるい私は肩同士を触れさせるだけでは飽き足らず、それまで自分の腕を握るだけだって両腕で彼の左腕を絡め取った。軽く触れた瞬間、彼はさらに困惑の声をあげるが、そんなことは私の耳には届いても頭の中では処理をされずに流れていく。
「……近いのは、嫌なん?」
甘えるような私の声。自分でも猫撫で声のように聞こえるのだから、きっと彼からしても私の意図のようなものはそれ相応には伝わるだろう。兎に角、私は可能な限りの全力で、彼に想いを伝えようとしていた。
「嫌じゃ……ないけど」
「けど?」
「……ううん。なんでもないよ」
彼が含みを持たせた部分の真意というものはよく分からない。分からないからこそ、あの時の、謂わば駆け引きをしていた時のようなそれを思い出す。彼がその時のことを思い出しているかは分からないから、私は露骨にもその話を持ち出すことにした。
「心臓、すごい動いとる」
「……そりゃあね」
私は彼の厚そうな胸板に左手を置いた。掌をそこに置くと、その皮膚のさらに奥から脈動が伝わってくる。脈を打つ頻度が速すぎて、回数は数えられそうになかった。さらに手をもう少し上に持ってくる時には、彼がなんとか気持ちを抑えようとして深い呼吸をしているのが伝わってきた。きっと、私と同じ気持ちなのだ。
「ドキドキする……」
「……六花のせいじゃない? 俺もだよ」
「……うん。自業自得かもしれんけど、嫌やった?」
「そんなことない。その……嬉しい」
妙なほどに素直になった物言いに私は一瞬だけ思考がフリーズしたが、それでもやはり嬉しかった。この雨の中、わざわざ銭湯という場所を選んで赴いてもらって、それを混乱の末とはいえ混浴をして、それでいつのまにか過去の初心だった時のことを思い起こして、嬉しかったのだ。今も初心だと言われれば、それは否定することはできないのだが。
胸の中にゆっくりと育まれていったかつての懐かしさ。それを思い返しているうちに、この風呂場にやってきた時からずっとバクバクと止まりそうになかった心臓の拍動がようやく落ち着いてきた。私の呼吸もゆっくりとしたものになった。懐かしさを感じたことで、昂り続けていた気持ちが落ち着いてきたのである。もちろんそれは、彼への想いが冷めただとか、そういうことではない。むしろ、心が穏やかになればなるほど彼の存在の大きさを自覚するのだ。
左手を水の中から掬い上げて、掌のシワに僅かに残ったお湯を見つめる。私のその所作に彼の視線もそちらに集まっていた。では、私の意識はそっちに向いていたのかと問われればそうではなかった。
「……ふふ」
彼にも気づかれないぐらいに小さく微笑んだ。多分その声も、くっついているとはいえお湯と私の掌が作る水の音で掻き消されたのだろう。十センチも離れていない彼の顔は、横目で見るだけでも手遊びをする私の左手にすっかり見惚れているようだった。
そんな無防備な彼のことを私が見逃すはずはなく、彼が何の反応もする間も無く、私の唇が彼の瑞々しいリップに触れていた。先程まで微妙な距離感に悩みを抱えていた女とは思えないほどの勢いの良さだったろう。
「ん……? んっ?!」
まるで水底に沈み、溺れてしまったかのように唇の隙間から淡く激しい吐息を漏らす彼に、私の興奮はさらに高まる。それは劣情という意味の興奮ではなく、どうしようもなく彼に募る愛おしさを体現したような興奮であった。違いを問われれば難しいが、所詮は初心な私にとって、それ以外の愛の伝え方は未知数だった。通常であれば心に仕舞い込もうとする臆病な心を全て取っ払って、ただ付き合い始める前の時のように燃え上がった心をそのままにぶつけたのだった。
彼が何度目かの激しい呼吸を漏らした後、私はゆっくりと唇を彼から離した。動転したとまでは言わなくとも、混乱の最中にあったろう彼のキョトンとした表情と、しおらしくなった姿はひどく新鮮だった。
「……ふふ、でらかわええ」
「……うるさいな」
ちょっと拗ね気味の彼の顔を見るだけで、私は幸せだった。嬉しそうな私の顔を見たのか、彼も呆れたように乾いた笑みをこぼしていた。私は彼の左腕にしがみつく力を一段と強くして、彼を見上げた。
「付き合う前のこと、覚えとる?」
覚えているかなんて確認を取らなくともきっと覚えているだろう。何があったかなんて細かいことは覚えてなくたっていい。ただその時の気持ちを、今私が必死に掴もうとしているあの時の想いを覚えてくれていたらそれで充分なのだ。
「そりゃあね、忘れることはないよ」
彼はしっかりとこちらの目を見て、はっきりとした口調で告げた。この言い方なら、もしかしたら私よりも彼の方が鮮明に覚えているのかもしれない。私だってそれなりに詳しくあの時の状況を覚えているつもりではあるのだが。
「あの時の六花、今よりも挙動不審だったよね」
「挙動不審?」
「うん。俺の言葉一つ一つで物凄く喜んだり、リアクションも大きかったり、何か言おうとしてるようだったけど、何も言葉が出てこないであわあわしてる時もあったっけな」
「そんなの……当たり前やし」
少し前までの私はそれほどに未熟だったのか。今の私が決して慣れているだとかそんなことはないが、それでもかつての自分の話を聞くと恥ずかしさを覚えるほどには初心すぎたらしい。私の言い分からすればそれは彼もなのだが、多分彼がそれを認めてくれることはないだろう。何だったら、今のこの攻撃はついさっきの私の必死の攻勢への反撃の可能性すらあるから。
「でも、そんな六花も、今みたいに本当はいっぱいいっぱいなのに余裕ぶってる六花も、どっちも六花らしくて好きだよ」
「なっ、……お、おおきに」
やはり仕返し、勿論そんな否定的な意味があるわけじゃないが、私の誘惑じみた告白へのやり返しらしい。だってそうだろう。いざそんな風に直接的な言葉で表現されて仕舞えば、いつまで経っても耐性のつかない私の心臓がさらに高鳴るのだなんて分かりきっている。少なくとも彼に分からないはずがない。私が喜びで打ち震えるのが分かっててやっているのだ。たちが悪い。たちが悪いけど、癖になる。
「そんなの、わた、私だって……ん……」
私が何か反論の言葉を見つけようと、必死に頭を働かせている時に、今度は私の唇が塞がれた。ずっとお湯に浸かっていたであろう彼の手はお湯よりも熱く、私の頬と顎を撫でている。彼の唇は湯気に当てられたのか、瑞々しさをさらに増して私に吐息を漏らしていた。
素肌と素肌がまるで糊か何かで引っ付いたように離れなくなって、彼の力強い腕が私の全身に回されて、私はそれに応えるように両腕を彼の背中へと回した。湯船の中だと言うのに、私と彼の体の間にはお湯は一滴たりとも入ってこなかった。むしろ、その二人の間がゼロ距離になることで押し出されたお湯で、水面には同心円が出来ている。
さっきの私が交わした口付けよりも遥かに長いキスに私の吐息は逃げ場を失って、彼の吐息と混ざり合う。全身が震えて、背中が反って、力が抜ける。声も漏れ始めた。けど、それでも彼の純朴なキスは終わることがない。
最初は閉じていた目を徐に、微かに開けてみる。彼の瞼はしっかりと閉じて、ずるい私の瞳は見えていないようだった。私の視界はさらに霞んで、ぐったりと力が抜け切った。
「はぁ……あぁ……」
「……ごめんな、六花」
「……でら長い。頭のぼせてまう」
まるで不満を訴えかけるような私の口調も、完全に彼に甘えるものだった。二人とも初心故に、純粋な手段以外のことを考えるという選択肢がなかった。だからこそ、これほどある意味では狂ったような愛情表現をしていたのである。
でも、私はそれを悪いとは思っていないし、何ならこれの引き金を引いたのは、引っ込み思案なはずの私の心だった。いつのまにか、立ち上る湯気によって臆病な自分が隠されてしまったかのように、獰猛な部分が現れてしまっていたのである。
「長いけど、もっとしたい」
「六花……?」
きっと世間一般で見れば褒められたわけではないだろう。それに、殆ど半裸のような状態で一組の男女が狂ったように相手の吐息を求めているのは、普通であれば男女のまぐわいの開始の合図であるのかもしれない。
でも、私たちにとっては、そうではなかった。むしろこれまでの子どもじみた過去を精算し、それでいて純朴な最初の頃に戻ろうとする逆説的な儀式だった。臆病な心を消し去った私は素直に彼を求めていた。だからとても短いキスをして、全体重をもう一度彼に預けた。
「そろそろ本当に逆上せちゃうよ。上がろう? 六花」
「……うん」
自分が何故ここまで素直になれたのかよく分からないが、私はそのの答えを考えることもなく、言われるがままに彼の手を掴んだ。その熱に導かれるように顔を上げると彼がにこやかに微笑んでいたものだから、私も幼稚な笑みを返していた。
「……また、また、一緒にお風呂入ろう?」
「一緒に?」
「……うん」
それは、まるで自分が素直に愛を伝えるための魔法のようだった。私の今の表情はもしかしたら必死だったのかもしれない。
彼の返事は、とても優しい笑みと、照れたように上擦った声だった。
「また、雨降るといいね」
「……そうやなぁ」
外の雨はもう止んだだろうか。今度彼が来る時は雨が降っていて欲しいし、今も出来ることならもう少し雨が降っていて欲しい。風呂場からは外がどうなっているかは見えない。けど、私は外で自分たちを覆い隠してくれるであろう雨霧に願いを込めて彼の手を握っていた。彼の手は靄がかかることもなく、くっきりと見えていたのだった。