ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【北沢 はぐみ】涙の後に輝く笑顔

 太陽の照り返しが目を眩ませる。燃え盛るように真っ赤で、ふわふわと揺蕩う雲よりも真っ白い太陽がその熱を地上に伝えていた。はぐみはその色が伝えるようなその熱さを全身で受け、特に頭は帽子を被っていても頭皮に伝わってくるほどだったからか、その夏から目を背けることは出来なかった。

 ここはグラウンド。夏の暑さが凝縮したような空間。ふと向かい側に目をやると、『0』が並べられたスコアボードがある。それはまさにはぐみの努力の結晶であった。

 最終回の攻撃。はぐみ自身が得点に絡んだわけではないけど、リードをしているうちのチームの攻撃は少しだけ散漫としていた。キャプテンとしての役割は果たせているかは分からないけど、エースとしての役割は果たせているような自覚があった。ここまで綺麗に向こうのボードに『0』が並んでいるあたり、はぐみは完璧に抑えていることを表していたから。だからこそこの暑さにただ目を向けるようなことをしていたのかもしれない。

 

「はぐみちゃん、疲れてそうだけど、大丈夫……?」

 

「……うん! ありがとう、あかり!」

 

 名前を呼ばれることで、ようやく自分たちの攻撃が終わったことを知る。こんなところで体力尽きて、倒れるわけにはいかない。はぐみが最後まできっちり抑えて、試合を締めなければいけない。そこまでして、本当のエースと言えるというものだろう。

 もう一度深呼吸して、炎天下のマウンドに向かう。土の盛り上がりの傾斜すら煩わしかったけど、少し高いこの位置から見るホームベースの白さが目を覆うと、感覚が、精神が研ぎ澄まされたような気がした。

 向かいの地面からは湯気が立ち上っているような錯覚すらするけど、そんな暑さもなんとか意識の外に追いやろうとする。

 

「……よしっ」

 

 変に力むな。ボールを握る手が汗で滑る。上手く投げられない。でも逃げるわけにはいかない。グラウンドに響めくみんなの声が遠くに聞こえる。煩いからと思わず聞き流そうとした声が頭で突っかかる。

 四球で溜めてしまったランナーが還るのは、ほんの一瞬の出来事だった。すっぽ抜けて、まるで力のこもっていないボールが丁度ど真ん中に放り込まれたのだ。

 快音が響いた。それはバッドだけから聞こえてきた音ではない。暑さで脳の神経を駆け巡る危険なシグナルの警告音が脳裏を突き抜けて、現実とリンクした音だった。自分の頭上の空気を切り裂きながら飛んでいくボールを視界の端で追っていた。どういうわけだか、そのボールはとてもゆっくりに見えた。

 

「はぐみちゃん……? 気にしないでね……?」

 

 ホームでサヨナラ打を放ったバッターを讃えあう相手選手の声がやたらと大きく聞こえた。まるではぐみが悪者にでもなったかのような気がして、太陽の下なのに真っ暗になるような気がした。

 はぐみを励まそうとしたあかりの声も、自分を詰るつもりの声なのではないかと疑りそうになって、咄嗟にその反駁を堪えた。とぼとぼと挨拶のために向かう足取りは重かった。

 

「はぐみちゃん?」

 

「……あかり、ごめんね?」

 

 心配してくれたような声かけにもまともに返すことが出来ないまま、スコアボードには×印が刻まれた。その白い文字すらもはぐみを嘲笑うようで、そんな気がした。

 挨拶の声がして、何が何だかよくわからないままグラウンドを後にする。はぐみの顔を覗き込もうとするみんなの顔も暗くてよく見えなかった。気がつけばはぐみは河川敷に一人になっていて、まだ暑さが真っ盛りの昼過ぎを過ごしていることに気がついた。

 

「負けちゃった……」

 

 グラウンドから少し離れた川沿いの小道を歩きながら、はぐみは言葉にできない感情を独りごちる。負けてしまったことへの喪失感とか、そういうものではなかった。なかったわけではない、ただそれが全てというわけではなかった。

 負けたら終わりだとか、そういうこともこの世界にはあるが、はぐみがしているのはその類ではない。ただ一抹の物寂しさを覚えていた。

 二、三メートル横を流れる川の流れは一定である。ふと、足の疲労感を覚えてそこに座り込んだ。足の先を川の方へ伸ばして、水面に映る自分の顔をぼんやりと見ていた。哀しい顔をしている。ただそれだけだった。

 

「……はは、……はは」

 

 きっといつもなら笑顔で掻き消しているようなこの気持ちも、一人でいれば乾いた笑いしか出てこない。でも、今はそんな自分に浸っていたい気分だった。

 今日だって、試合が終わったなら午後からはハロハピのみんなとCiRCLEに行こうって話だったから、帰って準備をしないといけないのに。はぐみの腰は重くって、そこから動く気には到底なれなかった。同心円で歪む自分の顔を眺めて、猛省を促すことが心地よかったのだ。

 自分の表情は曇っていた。水面には映らない。

 自分の気持ちが曇っているから。きっと顔色は悪い。

 でも、暗い気持ちに浸るのが気持ちよかった。

 

 負けたのは自分のせいだと、自分で自分を責める。

 辛い。きっとダメだ。けど、今はこうしてたい。

 

 こんな顔してちゃ、ダメ、なのに。

 

「はぐみ」

 

「……え?」

 

 頭をグルグルと渦巻く悪い考えが一気に掻き消される。下を向いていた顔。パッと見上げた。後ろに立っていたのは一人の青年。はぐみもよく見知った人。恋人というには背伸びをしすぎだけど、大事な人と言えばピッタリと当てはまる彼。いるだけではぐみに安心感をくれるような男の子がキョトンとした表情で立っていた。

 はぐみはあまりに突然のことすぎて、視線を右往左往させるだけだった。それが変に思われたのか、川の流れの音に掻き消されそうな小さな笑い声と共に、はぐみの隣、十センチほど空けて彼は腰を下ろした。隣に座ったぐらいだから何かを話すのかと思えば、何を口にするでもなく彼の目線は対岸の人影の方に向いている。ぼんやりとした目線で、何かを追ってるわけでもないことは明らか。

 

「えっと、あの……学校は?」

 

 予想だにしなかった登場に声が上擦りながら問いかける。更におかしく思われたかもしれないけど気にする余裕もなかった。

 

「学校? 今日休日なんだから、学校ないでしょ?」

 

「あっ、そっか……」

 

 さっきまで自分がソフトボールをやっていたことを思い出す。真昼間に河岸のグラウンドにいるなんて、学校のある日にはあり得ない。なら、彼も同じことだろう。同い年なのだから高校生。当然他の学校も大体は休みで、たまたまふらっとここを訪れただけだろうから。

 

「その格好、ソフトボールの帰り?」

 

「え、うん! さっきまで……試合あったから!」

 

 茹だるような暑さに気が緩み、無様にも打ち込まれた自分の姿が脳裏を過った。負けたこと自体が情けないだとか、そういう気持ちももちろんあったけど、それ以上に周囲の目線だとか、周りが気になって仕方がなかった。試合が終わって小一時間ほど経った今でさえも。今はぐみの目の前にはその姿を知るものは誰もいないのに。

 

「こんな暑い日にか……頑張るな」

 

 俺は中学校までで限界に達したからなぁ、なんて自嘲気味の笑い声。野球とソフトボール。数あるスポーツの中では似たようなスポーツではあるけど、少しだけ違う道を進んで、そして怪我をして、その道を辞めてしまった彼の言葉は切なそうだった。

 こんな暑い夏の日にも野球部なんてのはいつも練習していた。彼もそんな過去の自分の栄光めいたものの懐かしさに浸っているのだろうか。額の汗を零しながら目を閉じる彼の締まった表情を見れば、遠い過去に想いを馳せているのはなんとなく分かった。その景色は見えなくとも、きっとはぐみが思い描いているものと似たようなものなのだろう。

 どれぐらいの時間目を瞑っていたかはわからなかったが、彼はやがて目を開くと、今度はこちらに振り向く。

 

「って、はぐみも凄い汗だな。ハンカチは……と」

 

「え?」

 

 彼の懐から取り出された薄水色のハンカチに目を瞑る。するとこめかみの辺りを繊維が撫でる感触。なんだかとてもひんやりとしていた。

 顔の一部分に冷たい感触がすると、逆に今度は全身がやたらと熱っているような気がして身動ぎをする。試合の時から何も着替えていないものだから、少々泥もついたユニフォーム姿。はぐみにはそれが自分に似合っているのかよく分からないけど、その時は少しだけ恥ずかしくて、ハンカチで額の汗を拭ってもらう時も押し黙ってしまっていた。

 気の利いた会話の一つも出来れば楽しいのかもしれないが、今のはぐみにそんなのは思いつかない。ただ夏の暑さだけでなく、奇妙なこの状況でより一層脳が沸騰しているようだった。

 

「というより泥まみれのユニフォームだし、帰んないのか?」

 

 その疑問も尤もで、どう考えたって試合が終わってかなり経つというのにこの姿のまま佇んでいるのは変だった。

 彼の目は、すっかりはぐみを心配する瞳をしていた。センチメンタルな気分に沈んでいた自分でなくとも、泥まみれのユニフォーム姿で座り込んでいれば、きっと何かあったと思うのが普通だろう。況してや、声をかけられる前だなんて顔に影を落として、水面に揺れる自分の顔を脱力しながら見つめていたわけである。そんな姿までもが見られていたなら、気にかけられるのも無理はなかった。

 

「……うん。ちょっとだけ、ゆっくりしようと思ったんだ!」

 

 しかし、それは嫌だった。完全無欠のエースから悪者に転落したはぐみ。彼の目がさっきまで痛烈に感じていたもどかしさと情けなさ、責められるような雰囲気に染まってしまいそうだったから。それを隠すように、はぐみは叫ぶぐらいの気持ちで返事をする。自分の中では叫んだつもりの声も、すっかり覇気をなくした体では少し声が大きい程度だったらしい。つくづく自分の情けなさに悲しみが募る。

 

「ゆっくりって、そんな格好じゃ汗で体冷えて、風邪引くぞ」

 

「引かないよ? だってはぐみは元気だもん!」

 

 はぐみがどれぐらい元気だと言い張っても彼も引きそうにない。こうやって声高に主張するのは自分への慰めでもあるんだけど、それ以上の意味をなすことはなかった。

 

「でも汗、かいたままじゃ気持ち悪いだろ? 着替えないと」

 

「じゃあ着替えだけここで」

 

「おい待て待て」

 

 リュックに着替えを詰めていたかなんて確認しようとすると、それを静止するような手が伸びてくる。着替えろと来た次は、着替えるなということらしい。あの試合の時のやたらと照りつける太陽光だとかよりも、段々と煩わしさが増してきたような気がした。

 

「今ここで着替えるなんてやめろよ? 仮にもここ河川敷だからな」

 

「……あっ」

 

 どれほど自分の頭には血が上っていたのだろうか。血が上っていたというよりは、暑さでまともに考えが働いていないだけか。もしここに着替えがあったとして、ユニフォームを脱ぎ捨てられるかと言われればそれは無理だ。彼の前であっても、いや、彼の前だからこそ余計に顔が赤く染まりそうで。

 ユニフォームを脱いだからといってインナーは着込んでいるが、汗をかいているならそれこそ着替えるべきである。けど、インナーを脱げばそれこそ下着だ。小さい時はそんなこと気にも留めなかったとしても、はぐみだってもう高校生でそれぐらいの恥ずかしさは持ち合わせている。

 

「脱ぎ始めたら……その、流石に俺も叫ぶぞ。って、この場合俺が立場悪くなるのか……」

 

「う、うんっ。ごめん……ね?」

 

 なんだかとても近い距離にいるのにその顔を見るのが極度に恥ずかしくなって、その羞恥で顔から火が吹き出そうになる。はぐみが意図的に目線を合わせようとしないのと一緒で、横目で見れば彼もわざとらしく視線を外している。

 さっきまではそこそこ会話が続いていたその場の空気も、もはや発言が憚られるほどに静けさを取り戻し、一音発することも出来そうになかった。

 確認のために、一度彼の方をチラリと見たが、はぐみが首を横に向けるのに合わせて、クルリと連動して彼の顔も横を向く。かといって話しかけるほどの勇気もない。どうしてこの形容し難い緊張感漂う場を打開しようか、なんて悩んでいると、その鬱蒼とした空気を打ち破ったのは彼の方だった。

 

「とにかく、着替えなんて今じゃなくていいからさ、一旦帰らないか? 帰ったら着替えもできるしさ、な?」

 

「あっ……」

 

 その一言で、さっきの着替え云々で生じていた周知の感情やらは吹き飛んだ。いやまぁ、この空気を吹き飛ばすことには成功しているのだけど、その代わりはぐみが思い出したくもない出来事を思い出さざるを得なくなったのだ。

 家には、帰りたくなかった。みんなから試合の結果だとか、そういうのを聞かれるのかもしれないし、それも嫌だったけど、それだけじゃなかった。家に帰ったら、ハロハピのみんなとの練習の準備をして家を出ることになる。ハロハピのみんなとの練習が辛いだとか、そんなことではない。むしろ一刻も早く、試合のことも考えずにハロハピのことに没頭したかったのだ。

 

「何か帰りたくない理由でもあるんだな?」

 

 はぐみが何も答えずに川の方に視線をやっていると、何かを察したような声色で、目線と同じ方に声が響いていく。空気が振動するたびに、川に何かが飛び込むたびに波で水面が揺れる。そこに映るはぐみの顔も当然のように歪み、そして激しく振動して有耶無耶になっていく。笑顔はどこにもなかった。

 

「……うん」

 

 やっとのことで紡ぎ出した声は、わずかな肯定の声。もはや声になったかすら分からないけど、一緒に頷きもしたから、きっとその意味は彼にも伝わっている。これで分からなきゃとんだ頓珍漢だ。

 幸いにも致命的に察しが悪いなんてことはなかった。きっとはぐみの帰りたくない理由なんてのは分かりもしないだろうけど、少しこの哀しみを慮ってそっとしてくれるだけで構わなかった。

 でも、はぐみがそっと閉じようとした扉を、彼は詳らかにしようとしていた。彼の言葉がその扉をこじ開けた。鍵など掛けられるはずもなかった。

 

「試合、どうだったんだ?」

 

「……っ」

 

 優しいはずの声色なのに、それが試合直後のチームメイトのみんなのそれと重なって、思わず耳を塞ぎたくなる。出来ることならそんな話はしたくない。中途半端に試合の結果を慰められるのも、エースの仕事を果たさなかったことを叩かれるのも、どちらも嫌だった。いい意味で無関心でいて欲しかった。出来ることなら、身近な大事な人には、絶対に。間違ってもそれを論評されたりとか、知ったような口をきかれるのもいやだった。

 そう思ったから、はぐみは何も言わなかった。上部しか見れないものに彼が成り下がってしまうのはいやだったから。でも、彼はさらにはぐみを詰めるんじゃなくて、少し戯けて見せた。

 

「なんて、ごめんな。実は試合観てたんだよ」

 

「……えっ?!」

 

「最初っから、ってわけじゃないけど。二回の裏ぐらいからかな。マウンドにはぐみが居たからさ」

 

「そっか、観てたんだ」

 

「うん。意地悪しちゃったな」

 

 どうして敢えて彼がそんな態度を取ったのか、はぐみには分からなかった。けど、観られていた、試合の内容を知られていた、そう考えるだけでなんだか肩から力が抜けてしまうような気がした。必死に隠そうとしていた、見せずにいようとしていたのが馬鹿らしくなるような、そんな感じが。

 

「最後の最後に……、負けちゃった」

 

「……うん」

 

 でも、負けたことが哀しいから気持ちが沈んでいるのではなかった。哀しいけど、そうじゃなかった。はぐみがそんなことを宣うと、流石の彼も訳がわからない、という風に疑問符を浮かべていた。はぐみでさえはっきりと分かっていないこと気持ち、他の誰かに分かろうはずもない。

 

「家帰ったら、ハロハピのみんなが待ってるから、CiRCLE行かないと」

 

「バンドだよな? ライブハウスに?」

 

「……うん」

 

 はぐみがバンドをしているということは知っているらしかった。それならば話は早かった。ゆっくりと腰をあげる。ずっと座っていたものだから、足腰は痛かった。

 

「どこ行くんだ?」

 

 はぐみは逃げようとしていた。何かをこれ以上悟られたりするのが怖くって、逃げようとしたのだ。多分彼もそれに気がついたんだろう、はぐみが踵を返そうとするよりも早く立ち上がろうとした。優しさが表れていた。

 

「話聞いてくれてありがとう! はぐみ、また頑張るね!」

 

「ちょ、待てって!」

 

 リュックを引っ掴んで帰ろうとした。けど、それは許されなかった。はぐみは努めて明るい声色で、口角を精一杯上げて振り向いて、その場から去ることを告げようとした。けど、はぐみが何を言ってもその手がはぐみを離すことはない。多少の身動ぎにも動じないその腕は力強かった。

 

「頑張るも何も、まだ話終わってないだろ?」

 

「……大丈夫だよ! はぐみ、元気になったもん!」

 

「大丈夫な訳あるか」

 

 腕がはぐみのことを離さないまま、さっき汗を拭ったばかりのハンカチがはぐみの目元を拭いていた。多分これは汗なんかじゃなくて、ひんやりと冷たい涙だった。濡れてない繊維の毛羽立ちがはぐみのことを撫で回すようだった。

 

「本当に大丈夫なやつ、そんなに泣いたりしねぇよ」

 

「……違うもん」

 

 何が違うのか、反論の言葉の意味は自分でも分からない。ただただ、その弱い自分を否定したい一心で、自分の弱さを必死に隠しながら、否定するのだ。けど、その言葉は正直弱々しくて、自分で聞いていても呆れるほどに震えていた。

 

「はぐみは、笑顔じゃなきゃいけないから」

 

 多分、涙は止まることを知らずに頬を流れ続けている。はぐみの頬にいくつもの筋を作りながら、流れ続けている。彼に拭いてもらった一粒の涙の比じゃないほどに溢れ出ている。自分に課せられた使命か何かを、譫言のように呟いた。

 

「……練習、あるから、行かなきゃ」

 

 ゆっくり話し込みすぎただろうか。実際にハロハピの練習の時間は、もっと後かもしれないし、家に帰る余裕もあった。でも、なんだかここに居続けることは居た堪れなくて、はぐみはただただここから逃げ出したかったのだ。

 

「今、行けるような状態じゃないだろ。もう少しだけ、な?」

 

「……うん」

 

 でも、そんな優しい言葉に否定出来るほどでもなかった。ここに居ても大丈夫、そう思えた瞬間、足からも力が抜けてしまって、膝から崩れ落ちそうになるのを彼がすんでのところで支えてくれる。体重を全て預けながら、はぐみは静かに溢れでる涙を止めようとしていた。

 

「世界を、笑顔にするんだもんな」

 

「……うん」

 

「……はぐみは、笑顔じゃなきゃ、みんなを笑顔に出来ないから?」

 

「……うん」

 

 全て言い当てられたはぐみは、観念するしかなかった。必死に空元気を続けていたつもりだったけど、ついに限界が来た。それだけのことかもしれない。本当ならもう少しぐらいこの元気な姿を、それこそ薫くんの演技みたいに続けられたのかもしれない。でも、はぐみの心は弱すぎて、そんなことは叶わなかった。

 

「ハロハピのみんなに、迷惑っ、掛けちゃうから……」

 

「そっか」

 

「試合に負けて、はぐみのせいで負けたのにっ、……笑顔でいるなんて、出来ないよっ……!」

 

 はぐみの心の内を、全てぶちまけてしまった。本当は一人静かに、川の流れをぼんやりと見つめながら、試合のことをなるべく忘れてしまってCiRCLEに行こうとしていた。夏の暑さも全て吸い込んでくれそうな涼しげな川の中に、暗い気持ちを全て沈めてしまいたかった。

 けど、何かの手違いか、偶然か、はたまた神様のいたずらか。出来ることなら観られたくなかった姿をばっちりと観られてしまって、暗く沈んだ姿でさえも見つかってしまった。

 複雑な気持ちが心の中でさらに入り混じって、吐き出す他なかった。もう我慢しようとしても、辛くて誰にも言い出そうと出来なかったものでさえも、勢いのままに吐き出せてしまっていた。

 

「みんなのこと、笑顔になんて……出来ないよぉっ」

 

 多分、はぐみはそんなに強い人間じゃないから。こころんみたいに自分の身を顧みずに誰かを笑顔にすることに捧げたり、薫くんみたいに弱みを見せないように演じ切ったり、みーくんみたいに勢いで暴れ回るはぐみたちをじっくり見てくれたり、かのちゃん先輩みたいに優しさで誰かを包んだり、ミッシェルみたいにその場にいる人たちみんなを楽しませることは出来ない。

 みんなを笑顔にする余裕がないのだ。きっと。

 それに気がついてしまった瞬間、はぐみの目から溢れる涙はさらに増えて、全身が震えて、いつのまにかはぐみは親にぐずる子供のように彼に抱きつきながら泣いていた。彼は何を言うでもなく、はぐみの頭の後ろをポンポンと叩くだけで。

 

「……うぅっ、ひぐっ……」

 

 はぐみが泣き止むのを待っているかのように、ただ一定のリズムが刻まれていた。それまでは暑さだとかなんだに鬱々としていたはずが、そんなことにも気を向けることなく、ただ、その居心地の良いところで一頻り泣いてしまっていた。

 

「自分が笑顔に、なれないのに……」

 

「……はぐみ」

 

「誰かのことを、笑顔になんて、出来ないよ……」

 

 そこまで言い切ると、きっとはぐみの中で考えていた辛さを全て吐き出してしまったのか、頭が真っ白になる。さっきまではぐみを囲んでいた、試合終わりの落胆だとか、失望だとか、笑顔からは程遠い顔がうっすらと消えていくような気がした。涙が乾き切った地面に落ちていくのと一緒に、はぐみが求めていない苦しそうな表情も消えていくような気がした。

 

「ずっと、元気でいる必要なんて無いんだよ」

 

「……そうだけど」

 

「ずっと笑顔でいるなんて、無理だろ?」

 

「……うん」

 

 現に、今のはぐみは笑顔じゃなかった。きっと今無理に笑顔を作れても、CiRCLEに着いたはぐみが笑顔になれるとは限らない。というより、きっと無理だった。笑顔にはなれなかった。

 

「辛い時は、笑顔じゃなくたっていいよ。泣いてる時だって、誰でもあるだろ? 小さい時から、今でも、ずっと」

 

 はぐみを諭すような言葉は、はぐみの荒んだ心をなだらかにしていく。染み入るように耳に届いた。今だってはぐみは泣いていた。泣いてることが良いことか悪いことかなんてのは分からないけど、泣くのを我慢はできなかった。でも、段々と落ち着いてきて、顔を埋めながらも、額に流れる涙の温度は感じなくなっていた。

 

「ずっと、笑顔じゃなきゃいけないのか?」

 

「ううん」

 

「……泣いた後の笑顔の方が、輝いてるだろ?」

 

「……うん」

 

 少しだけ掠れた声。それが気になって少しだけ上を向く。焼けた黒い肌の一部が透き通るように、涙の筋があった。

 

「……いっけね、貰い泣きしちゃった……ははっ」

 

 貰い泣きという彼の瞳から溢れた一粒に反射して自分の顔が映った。ほんの一瞬しか見えなかったけど、そこにいた自分は確かに涙の筋があったのに、なんだか笑っているように見えた。輝いて見えるかまでは分からなくとも、笑顔なのは確かだった。微笑み程度かもしれないけど、笑顔だった。

 

「……うん、そっかぁ」

 

 彼にも聞こえただろうか。はぐみの呟き。気づいたことをものすごく小さく、か細い声で呟いた。

 

「泣いた後の方が、もっと楽しく笑えるもんね……!」

 

 無理に力まなくてもはぐみは笑っていた。無理やり作ろうとしていた笑いとは全く違う。はぐみの笑顔。

 貰い泣きだと言っていた彼も、口角が上がっている。自然に、きっと無理に作ろうとなんて一回もしていないのだろうけど、とにかく笑っていた。

 

「……あはは、今日は、……いっぱい泣いちゃった!」

 

 でも、泣いたって良いじゃないか。少しぐらい泣いていた方が、もっと弾けるように笑いたくなるから。さっきが、その泣くべき時だった。多分それだけだ。

 

「……帰るか?」

 

「うんっ。CiRCLEに行くのにお風呂入らなきゃ!」

 

 今すぐにでも駆け出したい気分だった。逃げたいとかそんなことではない。なんなら家に帰るまでに何個かグラウンドを見ることになるけど、見ながら帰りたいぐらいだ。だって、暗く沈んだ気持ちになるのなんて当たり前だから。きっとハロハピのみんなにこの話をする時、ちょっとぐらい暗い顔をしてしまうかもしれないけど、その後一杯笑えば、それでいい。

 

「早く、こころんたちに会いたいから!」

 

 涙はもはや流れていなかった。額を流れる、暑さ極まる夏の汗が太陽の光を反射して煌めいていた。

 早く家に帰ってシャワーで流してしまおう。さっぱりして、そしてCiRCLEで好きなだけベースを弾いて、一杯お話しして。そう考えたら、試合を思い出したとしても楽しみだった。むしろあの試合があったからこそ、楽しそうですらあった。

 走り始めようとした時、慌てて思い出したようにはぐみは振り返る。はぐみの回復具合に驚いた彼は苦笑いだった。そんな姿を見るだけで、なんだか自然と笑顔になれた。はぐみはさっき叫ぼうとした時よりももっと大きな声で叫ぼうと、大きく息を吸い込んだ。

 

「ありがとうー!」

 

 夏の清々しさを全て吸い込んだ、そんな気がした。

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