ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【弦巻 こころ】あたしの求める笑顔のために

 周囲は一面の青。深い深い青だけど、潮風がさらりと水面を掻き撫でていくおかげで、太陽の光が乱反射して白銀に輝き続けている。その光はステージライトのように、あたしたちの姿を様々な角度から捉えている。

 陸があんなにも遠くに見える。そんな海の真ん中と錯覚するような水上に出来た、あたしたち5人が踊り歌うだけで狭さすら感じるステージ。体が思わず持っていかれそうになるほどステージ上を強く吹き付ける潮風が耳を襲って、薫のギターも、はぐみのベースも、花音のドラムも、ミッシェルのターンテーブルも、聞こえてくる音は雑音混じりになっている。

 それでも微かに聞こえるミュージックを拾いながら、ただ思い思いにあたしは歌うだけ。聴衆は目の前には居ないけど、それでもこの音が世界中に流れてるってそう考えると、あたしの歌で少しでも多くの人が笑顔になってくれているんだって思えるから。あたしはそんな見えない人たちに向かって笑顔の歌を歌っている。

 

「こ、こころちゃーん……!」

 

「あら? どうしたの?」

 

 つい先程まで、数m後ろで必死にドラムを叩いていたはずの花音があたしを呼ぶ声がして振り返る。ずっと正面から吹き続けていた風が、振り向くことで後ろから吹くようになって、あたしの髪の毛が視界をぐっと隠す。その髪の隙間から顔を覗かせる花音はすっかり疲弊した顔で何か困ったような表情を浮かべていた。

 

「花音さん、大丈夫ですか?」

 

「ふえぇ……もう腕が疲れちゃった……」

 

 丁度曲が終わったタイミングで飛び出た言葉に、みんなの顔色を伺う。ミッシェルはいつも通りの元気ハツラツなピンクで楽しそう。はぐみも少し疲れたような表情。薫はなんとか澄ましたような、そんな顔を浮かべている。

 

「かのちゃん先輩も? こころん、休憩しよう!」

 

「疲れたのなら休みましょう! ライブもさいっこうに盛り上がったもの! いいわよね、薫っ」

 

「あぁ、子猫ちゃんたちと一緒に私も束の間の休息を……。……少し、いや、かなり疲れてしまったようだ……」

 

 どうやら疲れたのは花音だけではなかったようで、ジリジリと上空から差し続ける陽の光ですっかり暑さにもやられたらしい。かくいうあたしも既に汗は全身にかいているような気がする。真夏という言葉だけでこの暑さを表現するのは難しいほどの暑さとそれを嘲笑うような日差し。周囲が海だから少しはこの熱気も抑えられるか、などということもなく、むしろ照り返しで額はさらに熱を帯びた。

 あたしたちの声が届いたからか、撮影用に長いアームが伸ばされたライブ中継用のカメラもその腕を下ろす。それを見届けたミッシェルがキョロキョロとした後、着ぐるみの状態のまま倒れ込んだ。

 

「あっつー……。これじゃ温室とかじゃなくてサウナだよもう……」

 

「ミッシェルは一番元気そうな顔をしているのに、疲れたの?」

 

「そんなの熱が籠るし当たりま……。あー、うーんと、ミッシェルは顔色変わんないからねー……」

 

 この狭いステージ上でも大きな面積を取るミッシェルが寝転がったのを見て、みんなも次々に腰を下ろす。そんなところを見ると、あたしもなんだかライブをやり切ったという実感がして、浅い息を吐いた。

 

「無事に海の上のゲリラライブも成功したわね!」

 

「凄かったね、弾いても全然音聞こえなかったもん!」

 

 いつもとは毛色の違う、派手なライブがしたいというあたしの要望で意見として飛び出たのがこの真夏の海上ライブだった。普段は海水浴場なんかで使うようなところから船で島の方に繰り出し、その近くの海域にふわふわと浮かんでいたこのステージには、既に楽器が設置されていた。後はここで演奏したものが中継で全世界に流れる、そんなライブだった。

 

「まさか海の上で本当にライブするなんて思ってもみなかったよ……」

 

「でもいいじゃないか。波間に揺れる乙女の舞う姿が世界に羽ばたくことになるなんて、儚い……」

 

「そっか、これ全部が電波に乗って流れてるんだ……」

 

 今まではこの凄まじいコンディションの中で演奏することに必死で、みんなこの音楽を聴く人たちのところまで考えが及んでいなかったのかもしれない。あたしとて、この暴風とも言えるような潮風と波によって船のように僅かに揺れるステージの上で歌うのは最初は少しだけびっくりした。徐々に慣れて、むしろこの揺られながらのパフォーマンスがだんだんと楽しくなったけど。

 

「ちゃんと音楽って世界中に届いたかな?」

 

「このスマートフォンを使って、子猫ちゃんたちの声を確認すればいい」

 

 薫の手に握られていたスマートフォンは圏外の文字を表示することもなく、中継されたあたしたちのライブ映像を流し出していた。そこには試聴してくれたみんなのコメントが上から下へと怒涛の勢いで流れている。

 

「どうかな? みんな驚きに満ちていたようだ。今回のライブは大成功みたいだ」

 

 薫の喜びの感情が隠しきれずに混じった声を聞いてか、それともスクロールして画面に表示されるコメントの肯定的なそれを読み取ってか、みんなの表情は緩む。多くのコメントが賞賛だとか、良い印象のものばかりだと分かって、安堵の息も聞こえた。そして、みんなの関心は全体の印象ではなく個々のコメントへと移る。

 

「ふふっ、ミッシェル、いつもよりパフォーマンスが大人しいって言われてるね。もっといつものライブみたいな演出の方が良かったかなぁ?」

 

「いやいや花音さん。こんな狭いところに一人で暴れ回ってたらそのうち海に落ちますって」

 

「あら? ミッシェルが踊りたいなら、あたしともっと一緒に踊れば良かったじゃない!」

 

「むしろあれだけ派手にバク転して落水しないこころはどうかしてるって……」

 

 つい十分だとかそれぐらいに終わったばっかりのあたしたちのパフォーマンスの流れる画面を見ながら、ライブの終わりを労うような談笑が続く。ライブが終わった直後こそ、みんなの顔には目に見えて疲れが浮かんでいたけど、今はそんな慣れないライブで成功のままに幕を閉じた喜びが笑顔となって現れている。

 あたしたちのバンド、ハロー、ハッピーワールド! は、世界中に笑顔を届けたいという想いから始まったバンドだ。というより、笑顔が大好きだからというあたしが世界中を笑顔でいっぱいにしたい気持ちで出来上がったもの。だからその活動の一環で今日のライブもしたわけだ。いや、今日のライブは本当に思いつきに思いつきが重なったようなものだけど。

 

「バク転? ミッシェルも練習したら出来るようになるわ!」

 

「いやいや流石に無理……」

 

「せっかくだから海に向かってクルリンって練習してみる?」

 

「花音さんまでそんなこと言います?!」

 

「はぐみもミッシェルが空で一回転するところ見たい!」

 

「うんうん、決まりだね」

 

「本人の意思が完全に無視されてる……!」

 

 世界中を笑顔でいっぱいにする、それが難しいことはなんとなくでもわかっている。けど、毎日を笑顔で生きる方が最高に楽しいはずだから、それをするってだけだ。

 そんな目標とか、目的があるから、まずはこの身近な、ハロー、ハッピーワールド! のみんなの笑顔があたしは見たい。残念だけど、美咲はいつのまにかどこかに行っちゃったから、とにかく今はそれ以外の五人みんなが笑顔になって、それで美咲に楽しい話をお土産にして、出来ることならこのライブ映像を美咲、それだけじゃなくてみんなに見てもらって、いつも傍にいる人を何よりも笑顔にしたい。

 画面の向こうにいる数多の視聴者の表情は見えないけど、きっと笑顔があるはずだ、だって楽しいライブだったんだから、そう考えるだけで、あたしの胸はさらにドキドキとして、あったかくなる。

 

「でもミッシェル、海に飛び込んだら濡れてしまうんじゃないかい?」

 

「そうですよ! だからやらないんですって!」

 

「あっ、ここにミッシェル用の水着があるよ! 水着があるってことは濡れても大丈夫なんじゃないかな?」

 

「絶対に一回飛び込んだら帰ってこれないって!!」

 

「怖いの? それならあたしと一緒にバク転しましょうっ」

 

 海に飛び込むのが怖いのかブンブンと首を振っているミッシェルのおっきな手をちょっと握ってみる。あたしが握るというよりも、ミッシェルに握られているようだったけど、こうするともっとあったかさが直に伝わってくる。そのあったかさは夏の苦しさを纏った暑さとは違う、もっと触れたいと感じるあったかさ。

 

「さぁっ、一緒にいきましょう! ミッシェルっ!」

 

「本当にダメ〜?!」

 

 笑顔が波のように伝わったあたたかさを胸に抱いて、あたしは静かに、それでいて急速に響き渡る水音に耳を傾けた。海の水は冷たくはなかった。

 

 

 

 

 

 その海上でのライブから帰ってきたその日のうちに、あたしはいつになく大きなスキップである所に向かっていた。時刻はすでに夕方の五時を回って、西の空は赤く染まり始めている。体はライブを終えた疲労感だとか、そういうのが少しだけ残っていたけど、そんな疲れを吹き飛ばしてしまうほどに明るい気分があたしを突き動かしたのだ。

 送迎を出すと言われ、車の用意も案内されたけど、あたしはそれを断って家を飛び出した。なんだか今は自分の足で歩いて、その目的地に行きたいと思ったからだ。花音や薫、はぐみや美咲は帰り道も座席でうとうとしながらだったし、それぞれの家に帰される時もなんだか眠そうにしていた。けど、どういうわけかあたしは疲れから来る眠気だとかそういうのが感じなかった。

 その目的地とやらはそう遠くない。家から走って十分ちょっとだろうか、時間を測ったりしたことはないから、正確な時間こそ分からないけど、喩え距離が遠かろうとあたしがその距離を億劫に思うことはないのだろう。

 目的地に着いたら、あたしはただ何も考えずに、彼の名前を叫んだ。普通の一軒家に住む彼の名前を。いざ叫んでから、ブロック塀だとか色んなものに反響した自分の声にちょっと驚いたけど、それから数秒経って玄関のドアがガチャリと開いた。

 

「ちょっ、こころ? いきなりどうしたの?」

 

「遊びに来たわ!」

 

 本当なら用件だとか諸々を話してから上がるべきかもしれないが、あたしは深く気にすることなく開け放たれたドアに飛び込む。招かれているのかそうでないかは定かではないけど、あたしの傍若無人とも言える振る舞いにも彼が顔を顰めたり、声を荒げることはなかった。

 

「もう、取り敢えず上に上がって?」

 

 玄関に入ってすぐ、靴を脱ぐと左手に見える階段を駆け上る。家主である彼よりも先に彼の自室に飛び込んだあたしは、ベッドに向かって減速もせずに飛び込む。その勢いのままに飛び込んだシングルベッドはスプリングでボフンとあたしの体を跳ね上げた。あたしはその力に逆らうことなく飛び跳ねた後、くるりと体を反転させてベッドの縁に腰掛けた。

 

「大丈夫? 怪我はしてない?」

 

「えぇ? 元気よ?」

 

 どうやら彼からすればその動きは奇想天外というか、時思わず心配してしまうような動きみたいで、あたしはしきりに今の半回転で怪我をしていないかと尋ねられる。その度に何度も大丈夫だと返事すると、ようやく彼も納得したようであたしに問いかけるのをやめる。そして、ベッドサイドに置かれたデスクとセットになった、背もたれ付きのチェアにどしんっと音を立てて座る。そして手持ち無沙汰のように何度か左右にその椅子を直角に回転させ、ようやくベストポジションが決まったのか顔を上げてこちらを向いた。

 

「それで、今日はどうしたの?」

 

「ライブをしたから、それを見て欲しかったのよ?」

 

「ライブ?」

 

 あたしがなんとかってライブの中継映像のことを伝えると、彼はポケットからスマートフォンを取り出して、怪訝そうな顔で弄り出す。すると一分も経たないうちに小さく声を上げた。そして、あたしの方に画面を突き出す。

 

「これ? この動画のこと?」

 

「そう! それよ!」

 

「ふーん……?」

 

 彼はデスクの方に一瞬クルリと向きを変える。そして画面をぽんぽんと妙な顔をしながらタップしていた。それがあたしにはなんだか不思議で、ついつい声を掛けてしまった。

 

「ねぇ、こっちに来ないのかしら?」

 

「へ?」

 

「こっちよ!」

 

 同じ部屋にいるはずなのに、どこか遠くにいるような気がして、あたしは振り向いた彼の目を見て、ベッドの隣のスペースを叩いて音を出す。ぽふんぽふんと、ちょっと情けない音が部屋に響いて、彼は何かを気にするように、部屋のあちこちに目線を右往左往させた。そしてふぅ、と聞こえるか聞こえないかぐらいの息を吐くと、ノロノロと立ち上がる。ゆらゆらと立ち上がった彼は、ベッドに腰掛けるあたしから見上げるととても身長が高く見えた。

 

「よいしょ、じゃあ隣座るね」

 

「もちろんいいわよ!」

 

 でもいざ隣に、隣と言いながら肩と肩の間はこぶしひとつ分ぐらい空いてはいるけど、そこに座った彼の目線はあたしとそう変わらない。霧のように消えた圧迫感に安心したあたしは、彼が持っていたスマホの画面をひょいと覗き見る。

 ハロハピのみんなと海の上で確認した通り、あたしたちの愉快で楽しげな映像がそこには流れている。自分でした演奏ながら、その様子は本当に楽しそう、という表現がぴったりだ。もちろん歌っている時もすっごく楽しかったわけだし、その時の感情が振り返って見た時に影響していない可能性はあるかもしれないけど。

 

「へぇ……海、行ったんだ」

 

「ええ! とーっても綺麗だったのよ! 太陽の光が海面でキラキラしていたの!」

 

 ライブの映像を見せつつも、あたしとしては伝えたいのは今日あった小旅行めいたこのライブの思い出全てだった。故にあたしが彼に話したいことはこの映像に映ってる世界だけじゃなくて、映像外のことこそ本題でもあった。

 映像はどれも、あたしたちが歌って、弾いているものが淡々と流れているだけだ。要するに普通のライブ映像で、最初に歌った曲の前奏からしか映っていない。それも周囲の状況だとか、海の真ん中でライブをしているという状況が分かるようにしかカメラも動いていないから、メインはあくまでもあたしたちなのだ。

 

「海、かぁ。今年はまだ行ってないなぁ。これってどこまで行ったの?」

 

「うーん。場所は聞いていないけど、うーんと遠くまで行ったのよ?」

 

「遠く?」

 

「えぇ、飛行機に乗ったもの!」

 

「ひ、飛行機……」

 

 あたしたちがどうやってこのステージまで辿り着いたのかを簡単に教えると、彼は乾いた笑いを含んだ声で、感嘆の言葉を呟いていた。あたしからすれば、飛行機に乗って、船で海上を駆け抜けて、そしてライブをするなんてのは初めての経験でこそあれど、普段とちょっと違う程度なのだけど、彼にとってはそうじゃないのかもしれない。

 

「今度一緒に飛行機に乗って、ここに行きましょう!」

 

「あはは、遠慮しておくよ。高い所苦手だから」

 

「あら、そうなの?」

 

 あたしが顔を覗き込むと、彼は分かりやすくうんうんと二度首を上下に振って返して見せた。前に一緒に旅行に行った時はさほど怖がらずに飛行機に乗っていたような覚えが微かにあったから、少しだけぽかんとしてしまう。

 そんな風に反応薄くあたしが待っていると、部屋の空調の音に掻き消されるぐらいの笑いの声が聞こえてくる。それでハッとしたあたしが彼の方の顔を見ると、彼は優しく微笑みを返していた。

 

「それにしてもこのステージもすごいね。浮島みたいになってる」

 

「え? えぇ! 歌ってるとそれだけで揺れて、船に乗ってるみたいだったわ!」

 

「……これも特設なのかな?」

 

「特設?」

 

「いや、ううん。なんでもない、こっちの話。……って、うわっ。この上でこんなに踊ったりしてるんだ」

 

 彼が何かを誤魔化すような咳払いを入れたけど、彼の瞳が驚きで大きく見開かれるのがあたしはなんだか嬉しくて、その目線の先を食い入るように見つめる。そこは丁度歌の間奏で、正面の方を右から左へと動いているカメラを追いかけるようにバク転とステップをしたシーンだった。よくよく見ると、あたしの足は半分ぐらいステージの縁の部分から飛び出していたけど、画面の中のあたしは何事もなかったように歌い続けている。

 

「これとかも危ないな……。海に落ちそうだよ」

 

「海に飛び込みながら歌うのも楽しそうね!」

 

「そうは……うーん、まぁ……」

 

 歯切れの悪い彼の返事に、内心むっとしたけど、自分の顔がしかめっ面になってしまったのを気にしたあたしは彼とは反対の方向を一瞬だけ向いて、自分のほっぺたを軽く引っ張って、離す。ほんの僅かな痛みと引き換えに、心を切り替えた。

 

「それでもスカイダイビングしながらの時よりもマシ……なのかな?」

 

「スカイダイビングね! あの時もすっごく楽しかったわ!」

 

「話聞いてた限りだと、あれもライブって言えるぐらい演奏できてたわけじゃなかったような……」

 

 彼に指摘されて、遠い記憶を少し思い起こしてみる。確かバッと空に飛び降りて、ミッシェルの鞄に詰めてた楽器をみんなで取り出して。確かに歌えてはいても、演奏とは言えなかったかもしれない。けど、楽しかったことには違いなかったから、あたしは少しだけ複雑な気持ちになった。

 そんな複雑な気持ちをなんとかリセットするために、何より気になるのは、今日、あたしたちがした海上ライブのことだった。

 

「スカイダイビングのライブはすっごく前の話だもの。それで、今回のライブはどうかしら?」

 

「どう……か。楽しげで、良いんじゃないかな」

 

「……そう」

 

「……ん? こころは楽しくなかったの?」

 

 残念なことに、予想していた通りの少し淡々とした反応が返ってきて、あたしは自分でも分かるほどに分かりやすく落胆していた。今日、こんなにも明るい気持ちでこの家を訪れた一番の理由があっという間に崩れ去ってしまったのだから、それも無理がないのかもしれない。

 楽しくなかったのかと聞かれたけど、楽しくなかったわけではない。むしろ非日常を感じながら歌って、それをみんなに聞いてもらえる。これほど楽しいことは他にないと言っても良かった。でも、彼が心から笑ってくれるのを楽しみにしていたあたしにとっては、今回のこのライブはどちらかと言えば失敗と考えてしまうほどなのだ。

 

「あたしは、楽しかったけど」

 

 多分柄にもなく、神妙な表情をあたしはしているのだろう。彼はあたしの気持ちを知らずにこちらを心配そうに覗き込んでいる。でも、そんな顔を見るだけでさらにあたしの気持ちは沈む。ライブが終わって、ハロハピのみんなとライブの映像を見ている時は感じていたあたたかさは夜の訪れと共に完全に薄く消えてしまっていた。あたしが今、一番見たい笑顔は、多分彼の笑顔なんだろう。

 

「でも、あたしは貴方の楽しそうな笑顔が、見たいわ」

 

 そう考えたら、思っていたことがすっと言葉になった。あたしの言葉を聞いて、彼は黙りこくったまま、目を大きく見開いた。あたしは彼の次の言葉を待つしかなかった。

 部屋の空気は空調が効いているはずなのに蒸し暑かった。感じたことのないような居心地の悪さを覚える。目線も彼の方にずっと向けるのは何故か出来なくて、あたしはなるべく彼から目線を外して、けどたまに様子が気になるから横目で確認して、というのを繰り返していた。

 

「楽しそうな、笑顔……かぁ」

 

「ええ。笑顔が好きだから、貴方の。見たいの」

 

 そう呟いた彼の瞳を一度しっかりと見つめてみる。すると、彼は言葉を選ぶようにしながら、ゆっくりと話し始めてくれた。

 

「ハロハピは、世界を笑顔に、だもんね」

 

「えぇ。そのためには一番身近な……」

 

「僕の笑顔は、これじゃダメなのかな?」

 

 そこまで言い切るとゆっくりと面を上げた彼。その表情には、あのなんとも言えない遠回しの笑顔が張り付いている。なんと形容すれば良いのだろう。笑顔は笑顔でも、あたしの求めているような、心の底から楽しさを味わう笑顔ではない。ポジディブだけどポジディブじゃない笑顔。彼なりの優しさを含んだ笑顔なのだろう。いつもあたしが見ている笑顔と一緒だから。それでも、あたしの心はどういうわけか満たされなかった。

 

「これでも、笑ってるつもりなんだけどなぁ、ははっ」

 

「……うん。あたしが好きな笑顔じゃないわ」

 

「そっかぁ」

 

 取り繕ったような様子が節々に現れていた。だからあたしは、いつもは吐いたことのないような諦めに似たため息を吐いてしまった。あたしが全力で楽しんでいる姿を見ても、彼は笑顔になってくれないだなんて、あたしにはどうすればいいか、まるで分からなかったのだ。

 

「どうすれば笑顔になってくれるの?」

 

「どうすれば笑顔に……。うん、うん。そうだなぁ」

 

 何かを喋ろうとしてくれる彼の姿に、あたしは期待を込めて顔を上げた。決して目線は合わないけど、その唇の揺れる一つ一つがあたしにとっては救いの手だった。

 

「なんだか、心が落ち着かない、のかな。見てるとハラハラしちゃう」

 

「ハラハラ?」

 

 聴衆が予想もしていないことで驚かせる、そんな意味のハラハラではないのだろう。彼がそんな感覚を持っているなら、きっととうにあたしは満足しきっているはずだから。だからあたしは彼のヒントに耳を傾け続けた。

 

「うん。……こころ」

 

「……え? どうしたの?」

 

 それまで触れることのなかった肩同士がとんとぶつかり合った。それだけじゃなくてぽっとあたたかな感覚が全身を包む。そのあたたかさは嫌になるようなあたたかさとかではなくて、それこそミッシェルに抱きかかえられている時のような。不意に訪れた安心のするあたたかさにあたしはうっとりとしていた。

 

「なんだかこころが遠くに行っちゃうような。なんて、幼稚な言い方かもしれないけどね……」

 

 あたしは何か特別な言葉を返すわけでもなく、すっと目を閉じてみた。今日のライブの光景が目に浮かぶ。なんで彼はあたしから遠ざかってしまうと思ったのだろうか。ふと考えた時に彼の眉を顰めた顔が浮かんだ。その表情が瞼の裏に写ったとき、なんだかあたしは悲しかった。それは笑顔じゃなかったからだとか、そういう理由ではなく、そんな瞼の裏の彼が見つめるあたしの姿が原因だった。

 ゆっくりと目を見開くと、彼はやっぱり瞼の裏にいた時と同じ顔をしていた。そしてあたしを包んでいる両腕は震えてもいた。

 そこまで考えが巡った上で、あたしはその震える腕を何度か撫でながら、彼の方を振り向いた。とびっきりの笑顔と一緒に。

 

「……いいえ! あたしはどこにも行かないわ」

 

「って、そうは言っても」

 

「それなら一緒に着いてくれば良いのよ!……ううん、あたしに着いてきてちょうだい!」

 

「……えっ?」

 

 あたしの提案に、彼はキョトンとした顔を浮かべる。きっとあたしの返事を微塵も想定していなかったのだろう。けど、彼の思っていることを素直に考えてみれば、あたしが導き出せる答えはこれ以外なかったし、これ以上のものも存在しないと思われた。

 

「あたしがどこへ行っても、それなら一緒よ! あたしも貴方の笑顔、もっといっぱい見たいもの! 最高の笑顔を!」

 

「どこへ行っても、か……あっははっ」

 

「えっ?」

 

 あたしはつい惚けてしまった。その時彼が見せた笑顔は、優しさだけの笑顔じゃなかったから。完全ではなかったとしても、あたしが欲しかった笑顔だった。

 

「うんうん。そうだよな、こころだもん……うん」

 

「どういうこと?」

 

「良いんだ、気にしないで!」

 

 彼は自分一人で納得した様子のまま、それを詳しく教えてくれるわけじゃないらしい。けど、あたしはなんだかそれでもよかった。何より、彼の右目からほんの僅かに漏れ出た粒を見つけて、とても安心したし、嬉しくなったのだ。

 それと同時に、胸もだんだんとあったかくなってきた。そうだ、このあったかさは今日のライブが終わった後に、ハロハピのみんなの笑顔を見つけた時と同じものだ。それよりももっとあったかな、ずっと抱きしめていたいようなあたたかさだった。

 

「うん、こころ。着いていくよ。それで、僕の笑顔が、もっと弾けた笑顔になるなら、ね!」

 

 何かを吹っ切れたのか、彼の繊細すぎる機微は分からなかったけど、そう言い切った彼の笑顔にあたしはさらにドキドキとした。それは丁度あたしが見たい笑顔だった。世界中のみんながこれぐらいの笑顔をもし出来たなら、それは最高なことだ。けど、この笑顔は彼にしか出来ないかもしれない。少なくともあたしの知る中では、彼の笑顔にしかその意味を見出すことはできなかった。

 

「……えぇ! 一緒にどこまでも行きましょうっ。あたしにもっと笑顔を見せてちょうだい!」

 

 曇りのない、まるで今日の真っ昼間の海の上みたいな笑顔。彼の瞳をじーっと見つめればそこには反射したあたしが映っている。

 あたしが見つめていたことに気がついたのか、彼はもう一度はみかんだ。それは優しさが増したような笑顔で、さっきまであたしが不満を持っていた笑顔に近づいたはずなのに、あたしは嬉しくて堪らないのだった。

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