ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【青葉 モカ】その手を引いて

 その日の授業が終わるチャイム。微睡の中に消えてしまいそうだったその音を拾い上げて、あたしは目を覚ます。タイミングは完璧で、まるで帰宅する時間を見越して夢の世界に旅立っていたような時だった。

 あたしは眠気で少しだけ怠さの残る体を起こして、荷物を纏めているらしい蘭の下へ。一緒に帰ろうか、なんて蘭を誘おうとした折、蘭は徐ろに鞄を背負おうとしていた。

 

「らーんー。一緒に帰ろ〜」

 

「ごめんモカ。あたし、今日はこれから行かなきゃ行けないところがあって」

 

「……そっか〜」

 

 急ぎ足になりたそうな幼馴染。その反応を見る限り何やら外せない用事があるようで、あたしが喩えどれほど引き止めても無駄だろう。これだけ幼馴染をやっていれば分かる。

 

「蘭は最近特に忙しそうだもんね」

 

「まぁね。今度華道の作品展があって。出さなきゃいけないからそれの都合で」

 

「そっか〜。そういうことならモカちゃんも諦めてしんぜよ〜」

 

「うん、ごめん。またね、モカ」

 

「うん、また明日〜」

 

 ドアを潜るとすぐに蘭の姿が消える。その瞬間、やけに教室に蔓延る雑音が大きくなったように感じられた。前の席や、教卓付近で屯しているクラスメイトたちの声が煩わしくて仕方がなくなる。それまではせいぜい子守唄程度にしか思っていなかった音の数々が耳障りになった。

 まるでノイズと化してしまった教室の声。そんな雑音混じりの中でも、あたしの頭の中ではつい先程の蘭の声と、その時の表情がぐるぐると回っている。考えないようにすればするほど、脳にこびりつくようになる。きっとそれはあたしの心に巣食った醜い感情のせいなのだろう。

 

「……帰ろっと」

 

 ひーちゃんたちと帰るって選択肢もあるにはあった。だが、楽しそうな雰囲気のところに入りにいって、会話の流れを切ってまでみんなのところへ行こうとは思わなかった。Afterglowのみんなならあたしを拒むことなんて無いはずでも、あたしが納得いかなかったのだ。

 この後この三人があたしのことを探して回るだなんて可能性に気づくこともなく、あたしは教室を飛び出した。やたらと重たくて仕方がない荷物を持って。ただ今のありのままの姿を直視したくなくて、あたしは走り始めたのである。

 校門を出て少ししたところで、段々と心が落ち着き始めてきて、足取りもゆっくりになった。それまでは大きな歩幅だったものが、まるでのんびり歩く時のようにスローペースになる。それを自覚した瞬間、より一層心は落ち着いた。無理をしていた大きな歩幅をやめて、慣れ親しんだ歩き方をしたからだろうか。

 

「この時間でも……大丈夫でしょ〜」

 

 本当は真っ直ぐ帰っても良かったかもしれない。けれど、なんだかそれは納得がいかなかった。頭の片隅にいつもいる存在。それを無意識のうちに欲していて、あたしは急遽帰路の方角を自宅から変える。住宅街を歩いていくことには変わりないが、それでもいつもの帰り道ではあまり通らない帰宅の道にドキドキしていた。

 

「この時間はもー帰って……あれ〜?」

 

 目的たる家にはすぐに着いた。家に着いたものだから呼び鈴を鳴らす。けれども、誰一人として出てきそうにない。何の音沙汰もないし、部屋の窓から見えるカーテンが開けられるわけでもない。お手洗いにいるか、もしくはこの家にいないか。

 

「お邪魔します〜」

 

 誰の許可を得るでもなく家に上がる。誰もいないのはすぐにわかる。それぐらい静かで、生活音は何もしない。

 向かった部屋は大切な関係を育みつつある彼の部屋。関係性を形容するのは難しいが、少なくともこうして簡単に家には上がれる関係性だった。とはいえ常識はずれなことは理解しているし、あたしと彼だから許されるものだということも分かってはいる。

 

「やっぱりいない……」

 

 あたしは無意識のうちに彼がいることを期待していたのかもしれない。彼の部屋の角っこに置かれた姿見に映ったあたしは酷く落胆した表情を浮かべていた。

 もぬけの殻であった部屋の寝具に力なく倒れ込む。この部屋までたどり着いた時の気力などはとうに消え失せていた。ふらふらと、まるでアルコールが回りすぎた酔っ払いが意識を失う時のように、ピクリとも動かない程度に倒れる。

 あたしは四肢を一つも動かさずに、漂った匂いを鼻いっぱいに吸い込む。変態的な表現ではあるけど、心ゆくまで彼の残り香を吸っていた。恍惚に浸るあたしの表情は誰にも見えないだろうけど、きっと誰も見たくないのだろう。

 

 その時、ガチャリという音がした。最初こそあたしは反応できなかったが、数秒ぐらい静かな空間にいて、それがドアノブの回る音だと気づく。

 あたしは一瞬で頭が真っ白になった。素のあたしじゃ絶対に考えられないぐらいの機敏さで起き上がり、求めていた人と対面した。

 

「……よかった、モカかよ」

 

「や、やっほ〜……」

 

 心の準備が一切できていなかったあたしの声は多分震えている。なにせ自分の世界、悦に浸るだけの時間を過ごしていたところに水を差されたのだ。勝手に人の家に来ておきながら何をしているのかと問い質されれば反論できないが、これぐらい挙動不審になるのは許して欲しい。

 

「帰ってきたら玄関に見慣れない靴もあるし、鍵開けっ放しだったから泥棒にでも入られたのかと」

 

「モカちゃんの靴が分からないなんて〜。それより鍵開けっ放しの方がダメなんじゃない〜?」

 

「ちょっとコンビニまで飲み物買いに行ってただけだからな。まさかその十分の間にモカが来るなんて」

 

 なるほど、机の上に物が出っ放しのそれは、ふらっと出かけたからというだけなのか。そんな彼の行動に納得のいったあたしはのそのそとベッドから起き上がり、縁に座り直した。

 

「で、モカに聞きたいんだけど」

 

 そんな言い回しに、大袈裟かもしれないけどあたしの体は跳ね上がった。少し崩れた髪の毛を掻きながら、彼は言いづらそうに一息置いて。

 

「俺のベッドで何してた?」

 

「えー……」

 

 予想通りの質問が飛んできた。そりゃあそうだ。何の前触れもなく家を訪れて、無人の部屋で異性のベッドの上でゴロゴロ転がるだけならまだしも、枕の上に顔を埋めているのを見れば変態という評価以外は難しいだろう。現にあたしは彼が帰ってくるまでご満悦だったわけで。いくらあたしが彼の家に入り浸るようなやつだとしても、以ての外だった。

 

「それはその……」

 

「その?」

 

 この状況を切り抜けるような抜群のアイディアは浮かばない。ここで好きな人の匂いを堪能してただなんて、馬鹿正直に全部を吐き出せるようなキャラをしていれば何の苦労もないのに。生憎、そこまで素直になれるほどの自分ではない。遠回しに好意を伝えて、なあなあで切り抜けるという器用な真似も、臆病なあたしにできるわけがない。

 

「その、眠たかったからね〜」

 

「眠たかったのに、あんなにくねくねしてたのか……」

 

「む……」

 

 あたしは彼が部屋に入ってきた時、暫くドアが開くのに気がつかなかった。そんなもので、自分の姿は見られていないと思い込むことで平静を保とうとしていたのに、あたしの情けない姿は全て見られてしまっていたらしい。

 

「み、見られちゃったのか〜。モカちゃん、もうお嫁にいけない……。よよよ〜……」

 

 いつもならこんな感じに揶揄って、手玉に取るのを楽しんでいたはずなのに、今のあたしの言葉を聞いても、苦し紛れの言い訳にしか聞こえない。案の定彼からの反応は薄いし、どうにかこうにか誤魔化すなんてのは無茶だったらしい。

 

「……その、ちょっと布団に埋まりたかっただけだよー」

 

 結局、あたしの中の想いを封印して、少しでも違和感がない程度に愚かな欲望を伝えるほかなかった。俯きながらも彼の顔を確認する。ただ、不幸中の幸いだったのが、ものすごく軽蔑されているという様子はなかった。

 語気を荒げるとか、そういうのがなくて安心したあたしはゆっくりと顔を上げた。意外にも、そこにいた彼も、なんだか気恥ずかしそうに、一向に目を合わせなかった。

 

「どーしたのー?」

 

「いや、そこまでストレートに言われると……」

 

「もしかしてー、恥ずかしい〜?」

 

「……当たり前だろ」

 

 あたしがいつもの調子で揶揄い始めると、彼の顔は一気に赤らみを増した。あたしとて恥ずかしさはさらに増したが、彼に嫌われなかったという事実だけがあたしを一層興奮させている。

 

「嗅いでるだけでクラクラするぐらい良い匂いだったよ〜」

 

 多分今のあたしはすっかり普段の調子を取り戻した表情をしている。ニヤニヤとしながら、あたしの発言に様々な反応を見せる彼の姿を堪能しているのだから。ここまでくれば、あたしは最強だった。喩えどれだけ恥ずかしいことだろうが、好意が丸出しの発言であろうが、揶揄いという皮をかぶって、怪しまれないままに彼にアピールを出来るから。

 

「感想とか良いから……!」

 

「えー、でも嫌な匂いって思われるよりいいでしょー?」

 

「そりゃそうだけどさ!」

 

 さっきまでの困惑だけの表情じゃなくて、彼の歳相応の多感な精神がモロに出たこの顔が見たかった。あたしが築いてきたいつも通りの二人の空気が一瞬で出来上がるから。あたしが翻弄して、彼がただ慌てふためく。それがどうしてかわからないけど、何よりも心地よかった。

 

「モカちゃんは良い匂いがたくさん堪能できて満足だよー」

 

「もういいから!」

 

「ちょっと汗っぽいのも混じってたけどねー」

 

「あぁ。……はぁ」

 

「ふっふっふっー」

 

 少し拗ねたように声が大きくなるのも、可愛いと思えるぐらいの余裕が出てきた。呆れたような彼の息さえも、あたしをさらに調子に乗せるスパイスでしかない。

 この分なら、あたしが粗相を見せたことも、追い込まれた末のセンシティブな発言も、全てチャラにできそうだ。慌てたような表情と、諦めの混じった表情を交互に繰り返す彼の姿を見て、あたしは内心ほくそ笑んでいた。

 

「はぁ……。全く……急に来たかと思えば、何なんだよ……」

 

 でも、あまりにいじり倒しすぎたのか、許容量を超えてしまったのか、急に彼は静かになってしまった。それに、ただ静まり返っただけじゃなくて、その表情もなんだか重苦しいものに変わってしまっていた。部屋に入った時に電気をつけていなかったから、部屋の中は薄暗く、それも相まってその表情を見るのはどこか怖かった。

 

「……怒っちゃった?」

 

「別に。怒るほどのことでもねぇし」

 

 さっきまで彼のことを意気揚々と煽っていたのが嘘のようにあたしの心の穏やかさは吹き飛んだ。怒ってないと口には出していても、明らかに機嫌があまり良くないということは見てとれた。かといって、あたしからすればこんな状況はこれまでそうなかったもので、この状況から逆転するような会話の糸口は一切持ち合わせていなかった。

 

 以前から、こうだったから。あたしが彼の痛いところを突くように煽り、彼は最初こそ適当に流すが、最終的にはあたしの挑発に簡単に乗り、あたしの掌の上にいたことを悔しがる。そんなやり取りが楽しかったし、その過程でさりげなく彼の体に触れたりだとか、普段は口に出さないような気持ちを吐き出して、あたしはそんな関係性に満足して甘えていた。

 だからこそ、あたしは今まで、彼がここまで近寄り難い空気を発するところに触れたことがなかった。いつもはもっと、謂わばフランクに、難しいこと何一つなしに関わって、そのついでにあたしが良い思いをするなんていう、そんな空気だったのに。

 

 彼はあたしをスルーして、椅子に座ったまんま、カーテンの開いた外を見るばかりだった。カーテンを開けてくれたおかげで西日が多少差し込んで、部屋が明るくなったのは良かった。けど、その夕日に照らされた彼の顔は今まで見たどの表情よりも怖かった。

 部屋は静かだ。あたしも何も喋らないし、当然彼は言うまでもない。喋らないだけと言うわけでもなく、熟年の夫婦だとか、これでもかというほど価値観が一致するカップルのように、話し合わなくとも想いが通じ合うだとか、そんなご都合主義のような世界に生きているわけでもない。そもそも、恋人同士ですらない、曖昧な関係性。その関係に甘えてきたあたしは、ただ小さく震えるほかなかった。

 

「なぁ、モカ。ちょっといいか」

 

 どれぐらいの時間、緊迫した空間で過ごしただろうか。部屋に入り込んでいた太陽の角度はさらに下がり、ほぼ真っ正面から太陽の光を受けているにも関わらず、彼は大っぴらには眩しがらずに目を細めている。そんな彼が、ようやく口を開いた。

 あたしは戦慄した。もしも、ここで彼の怒りに触れて、二度と敷居を跨ぐななんて言われたら。家に来れないだけならまだいい。二度と会いたくないなんて言われたら。

 あたしはきっと、何の恥もプライドもなく、無様にも泣くのだろう。あたしにはその涙を語る資格すらないのかもしれないが、きっと、これまで感じたこともない絶望に触れて泣き続けるのだろう。

 

「……なに?」

 

 事実、やっとの力を振り絞って返した彼への返事の言葉も、酷く震えて、既に目の奥が熱い。顔が引き攣ったように力が変に入って、全身が強張る。もうまともに彼の方は向けないし、部屋に差し込んでいる光の束でさえ目障りで、あたしを詰ろうとしているのではないかと疑念を抱く。

 彼はなかなか話し出そうとしなかった。あたしが返事をしても、何か言うでもない。ただ真っ直ぐ、外をぼんやりと見つめてるだけで、こちらを一瞥するというわけでもない。

 普段通りの軽いノリなら、ここで、『何してるの?』だなんて言って、後ろから彼に乗り掛かって、暑いから離れろだとか、色々と言われながらベタベタとくっついたりだとか。今、改めて考えてみればものすごく下賤というか、やり口が果てしなく狡いと思われる。

 今だってそんなふうに彼に気軽に話しかけられたらどれだけ良かっただろうか。静かな空気に居続けるだけでさらにその気持ちが募る。

 

「……ねぇ」

 

「モカ、外行こう、外」

 

「え?」

 

 なかなか反応がない彼に痺れを切らしたあたしがもう一度催促の声をあげると、突然彼が椅子から立ち上がる。あたしは何をするのか全く想像もつかなくてその場でフリーズしていると、どういうわけか目の前に彼の右手が差し出された。

 

「ほら、早く」

 

「え、うん」

 

 反射的にその手を取って、あたしはベッドから立ち上がる。そして部屋を出て、本当に外に行こうとしているらしい彼の後ろをついて歩く。玄関から出たあたりで、もう一度呼び止めたけど、彼は変わらずあたしの手を握ったまま歩くだけだった。

 手を繋いで歩く。好きな人とそれが出来ればそれだけでどれほど幸せだろうか。きっとこの世界にいるほとんどの人がきっと、そんな小さな幸せでも好きな人と共有したいと願うのだろう。

 でもあたしはとにかく怖かった。何も言わない彼が怖いというのではない。手を握るのが怖かったのだ。もっと正確に言えば、こうやって手を繋ぐのが、最後になってしまうのではないか、これは餞のようなもので、最後に残された思い出なのではないか。そんな理由がない、切実な不安があたしに襲い掛かっていたのだ。

 

「ねぇ、……怒ってない?」

 

 その不安を解消しようにも、彼に話しかけても彼は怪訝そうな顔を浮かべて、何も言わない。しつこく言い続けるのも嫌われそうだけど、どうしても不安なあたしが何度目かの同じ質問を投げかけて、ようやく彼は小さく答えた。

 

「……怒ってはないって、言ってんだろ」

 

 どこか乱暴で、投げやりな言い方。いつもこんな感じな気がするのに、いつもの何倍も心に刺さった。まるで決別をこの場で告げられたような絶望感を与えるのに十分だった。

 

「怒ってないから、黙ってついてこい」

 

「……うん」

 

 家屋の長い影が伸びる街中を、彼と二人手を繋いで歩く。その光景だけ見れば、幸せな男女の恋愛のワンシーンのはずなのに。今すぐこの場から逃げ出したいぐらい苦しかった。彼のいる場所から逃げ出したいなんて、絶対に思うことはないと思ってたのに。

 人の感情なんて、こんなにすぐに変わるんだってその時痛いほど分かった。いつもの彼なら、何を言ったって笑いながら、時には拗ねながらも、最後にはちゃんと仲直りして、笑顔でいてくれるのに。彼も、いつものまんまじゃないんだ。

 

「もうちょっとだから」

 

「分かったよ……」

 

 あたしの今の気持ちは処刑台に向かう大罪人のそれに近いかもしれない。今から首を斬られて、この世に居られなくなってしまう大罪人。自分が犯してしまった過ちを、大衆の前で晒されて、見せしめのように苦しんで生の終わりを過ごす。

 あたしだってそうだ。ずっと変わらずにこのままと願った彼と別れを告げるのだろう。あたしのこれまでの業の深さは、もしかしたらあたしが自覚していないだけでとんでもないものになっているのかもしれない。

 ただただ、あたしの頭の中が贖罪の想いだけで一杯になった頃、ようやく彼の足が止まった。そこは少しだけ見晴らしのいい児童公園。既に遊具は哀愁を伴って静まり返り、人気はない。今にも沈んでしまいそうな太陽が少し遠くのビルの隙間から見えていた。

 

「……公園?」

 

「あぁ。ベンチとか、行こうか」

 

「うん」

 

 あたしは逆らうこともせず、土の地面を踏みしめる。本当のことを言えばその一歩一歩がとてつもなく重いし、できることならここから一瞬でも時が止まって、彼との関係がある時間を一秒でも長く実感していたい。そのベンチには行きたくない。

 彼が指差したベンチは公園の端、向かい側を向いている。どこにでもあるような木のベンチ。表面で赤い陽光を反射している。一度、そこに座ってしまったら、彼と会えなくなってしまいそうで、それだけが嫌で、座りたくなかった。

 けど、申し訳程度に握られた手を振り解くことなんてのは出来ず、少しでも彼の温もりを感じていたかった。多少汗ばんでしまっているその手に引かれるがままにあたしはベンチを腰を下ろすしかなかった。

 

「……ふぅ」

 

 一息ついた彼の纏う空気、外を歩き回ったせいか少しだけ和らいでいるようには思えた。それでも核心のついた話にするのは怖くって、あたしから話を振るだなんてのは出来ない。だから、ひたすら彼が口を開くのを待った。

 

「ごめんな、モカ。怖がらせちゃって」

 

「……え?」

 

 彼がようやく重い口を開いたのは、太陽がもうあと少しで消えかける、そんな時だった。そして、何より意外だったのは、これほど身構えて入ったのに、彼から飛び出た最初の言葉は謝罪の言葉だったことだ。

 

「怒って、ないの……?」

 

「だから、怒ってないとは言ってるだろ。その、俺も緊張して口数少なかったりはしてたけどさ。でも、怖がらせちゃったみたいだから、ごめん」

 

 拍子抜けした気持ちではあったが、それでも先ほどまでずっと感じていた恐怖を拭うなんてことはできなかった。

 

「……そっ、か」

 

「緊張してるっていうのはその、もしかしたらずるいとか、なんでって思われるかもしれないから、その」

 

「えっと……」

 

 感情の起伏が激しすぎて、混乱しているということを抜きにしても、彼の言うことはあまりピンと来なかった。何を言いたいのかも釈然としない。多分それは、彼が言いたいことを遠回しにして言おうとしているからだと、なんとなく分かった。

 

「……何が言いたいのか、わかんない」

 

「その、さ。はぁ……ふぅ……」

 

「えっ?」

 

 ベッドの上にいるのを見つかってから、既に泣きそうなのをギリギリで堪え続けてきたあたしの目からすぅっと涙が引いたような気がした。変に呼吸を整える仕草が、いつかのあたしみたいだったからだった。

 

「モカに、言いたいことがあって」

 

 空気がピンと張り詰める。本題に踏み込むのだと分かった。とてつもなく怖かった。あたしが今日、必死に必死に避けようとし続けてきたから。全身が震えそうになるのをどうにか、彼の手を握って堪えた。

 その時だった。彼の手はあたしの手の震えを包み込むように握り直された。そして、空いていた彼の左手が、あたしの左手に重ねられた。

 妙なくらいに周りが静かに聞こえた。隣の彼の息遣いが聴こえるぐらいに。それまでは全部ノイズに聞こえていた音が全て消え去った。

 

「最近、モカとの関係が曖昧になってた気がしたから話がしたかったんだよ」

 

「……え?」

 

「モカが今日ベッドの上で何かやってたりとか、どうすればいいのか俺も分からなくて。モカは、どうしたいんだよ」

 

 彼の瞳は、左右に揺れ続けていたあたしの目を見つめていた。とても静かに。

 

「あたしは……ずっといつも通りが、いい。変わるのは、怖いから」

 

 ここまで素直に気持ちを吐き出したのなんていつぶりだろう。できることならずっとこのまま、もうそれ以上は望まなかった。変わるのなんて怖いから。彼との関係だけでなく、あたしの周りの全部が全部。それを変わらないように、必死に以前の形跡を集めて集めて、それで満足しようとしていたから。

 

「いつも通りって、あんな微妙な空気の、いつも通りが?」

 

「あれは……、あたしも嫌だけどー……」

 

「俺も、モカといつも通りが良いけど、いつも通りは嫌だ」

 

「……どういうこと?」

 

「このまま微妙な関係で終わるより、もっと傍ではっきりと、モカのこと感じたい」

 

 あたしはもう、あたしだけを瞳に捉えて話し続ける彼の雰囲気に呑まれていた。それでいて、拒むわけでもなかった。

 いつも通りがよかったけど、いつまでもいつも通りでいるのも嫌だった。けど、今のいつも通りが無くなるのが嫌だから、あたしはしがみついていただけだから。

 

「モカ、この場ではっきりと答えを教えてほしい」

 

 彼はあたしに、いつも通りでいないでくれと言っている。普段のあたしを捨てて、もっともっと傍に居てほしいと言っている。

 

「俺のこと、好きだと言ってくれ」

 

「……モカちゃんは、そんなに軽々しく、その言葉、使ったりしないよー?」

 

 なら、あたしの答えは一つだった。どれほど、普通の恋愛なるものからかけ離れていても、どれほど、奇妙な形であっても。

 

「好きに決まってるでしょ〜?」

 

 握っていた手を離して、真っ正面から彼に飛び込む。いや、飛び込むなんてのは大袈裟で、本当は倒れ込んだと言った方が正しいかもしれない。

 ずっと揺さぶられ続けた心が限界を迎えたように決壊する。ただただ不安で押し潰されそうだったあたしはその不満も一緒に勢いに込めた。

 

「これ以上……、モカちゃんのこと、こんなに不安にさせないでね〜……?」

 

 彼の答えは抱擁に含まれていた。ここにいるだけで、それでいいと思えるようなあたたかさを持っている。

 いつも通りのあたしなら、同じような言葉ももっと軽かった。多分彼もそれを分かって適当に受け流していたのだろう。でも、その言葉の想いは本当だから、今この瞬間は何物にも代え難いぐらい幸せだった。

 

「約束する。もうモカのこと泣かせないって」

 

「……もー、卑怯だな〜」

 

 揶揄いの言葉も気持ちいいけど、それはこの胸を包むあたたかさのお陰だった。これがあるからあたしのいつも通りは尊かった。ずっとここにいて、生を終えたって構わないと思えるぐらい、居心地のいい場所だった。

 あたしはただ、感謝した。あたしの中のいつも通りが壊れていくことを。彼が壊してくれたことを。

 

「あーーー! モカいた!」

 

「えっ」

 

 その時、感傷に浸るあたしの耳を貫くぐらいの大きな声が聞こえてきた。多分これは公園の入り口の方。瞬間的に、彼の抱擁が解かれる。そして同時に駆け寄ってきたひーちゃん。

 

「って、あれ」

 

「……ひーちゃんは空気が読めないなー」

 

「えっ、えー?! ごめんモカ!」

 

 突然のひーちゃんの乱入に彼は苦笑いをするだけだった。よくこの二人だけのムード溢れる空間に斬り込めたなと、ちょっとだけひーちゃんを恨みたくもなった。でも、彼の態度にあたしはどこか安心したのだ。

 

「えっと、その、ごめんなさーい!」

 

「もういいよー、ひーちゃん。モカちゃんを探してたのかなー?」

 

「そうだけどぉ。えっとえっと」

 

 あたしは慌てふためくひーちゃんを一瞥した後、少し振り返って微笑んでいる彼を見た。その顔を見るだけで笑みが溢れてしまいそうで、我慢しながら、あたしはいつも揶揄う時のようにニヤリと笑った。人差し指を立てて、そっと口元に添える。

 

「ひーちゃんに呼び出されちゃったみたいだから、物凄く優しいモカちゃんは仕方なく着いていってあげよう〜」

 

「えっ、えっ?! いやいや、私用事思い出して」

 

「ほらほら、行くよひーちゃん」

 

 あたしはひーちゃんの手を取って、公園の入り口の方へと歩き出した。一度も振り返りはしない。それでも心には彼への感謝の気持ちを持ち続けていた。それは、いつも通りを壊してくれた彼のおかげで、一緒になって壊れていくみんなに、追いつけそうだから。

 いつも確かにそこに居てくれる。微妙ないつも通りを終わらせたとて、彼はずっと傍にいるから。いつも通りは終わるようで続くから。

 夕焼けは沈んでも、まだ空は赤かった。

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