ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【上原 ひまり】心の支えになってほしい君

 近頃の空気というものはやけに冷たい。風が頬を撫でるたびに体は僅かに震えを覚えるほどだ。

 十月も半分はとうに過ぎた。そんな秋の深まってきたこの頃、私の心はざわめいていた。それは間違いなく、今この瞬間も、私の心を芯から揺さぶる冷たい秋の風が吹き抜けていったからだった。

 奥に弱々しく聳える公園の木々も徐々に葉を落とし始めそうな中。道路のど真ん中に立った私は、出したこともない大声で。

 

「待って!!」

 

 視界が屈折して揺れることも気にせずに彼を呼び止めたのである。

 

 

 

 

 

 秋といえば何を思い浮かべるだろうか。確か、モカは大好きなやまぶきベーカリーのパンを頬張りながら食欲の秋と言っていた。それ以外にだってスポーツの秋だとか、読書の秋だとか、巴はお祭りの秋だなんだとか言ってたっけ。

 人によって多種多様な秋があるけど、私にとって、この秋最も熱い象徴は芸術の秋、演劇の舞台で人々を魅了し続ける薫先輩である。演劇部の秋公演を予定している薫先輩は大忙しで、最近は滅多に会って話すような機会もないけど、それは却って手の届かないところにいるアイドルのような興奮を私にもたらしている。勿論惜別感のようなもの寂しさは否定できないけど。

 

「それでね、薫先輩も今年で卒業しちゃうからってことでね」

 

「そういや三年生だもんな、薫さん」

 

 私はそんな興奮に突き動かされるように、自分の感じる薫先輩の魅力を熱弁しているというわけである。普段から私は薫先輩の良さを伝導している自負はあるけど、それが自分の近しい人となれば尚のことであった。

 喫茶店でコーヒーを挟んで向かいにいる彼も、私とは長い付き合いな訳で、この話をしたのは一度や二度ではなかった。同じようなシチュエーションでこの話をしたような記憶すらある。

 

「私って来年、何を心の支えに生きていけば良いんだろう……」

 

「大袈裟だな。勉強でそれどころじゃないんじゃない?」

 

「もー! そんなこと言わないでよっ!」

 

 多分、私の薫先輩トークは彼との間で日常と化している、と思う。私は普段から薫先輩の話をするし、昨日も薫先輩と階段ですれ違った時に目が合って話しかけられた話だとかをした覚えがある。

 それでも、彼は別に薫先輩の話をされても嫌な顔もせずに聞いてくれる。私の薫先輩の布教はまだまだ功を奏していないみたいだけど、それでもそこは彼の優しさというか、慈悲というか、そんな感じの感情に感謝する他ない。

 そんな感謝の気持ちを胸にしまいつつ、私は今日も今日とて薫先輩の話を彼としていた。話題は今度開催される薫先輩が主演の舞台の話である。薫先輩の追っかけをしている私にとって、薫先輩が主演の舞台なんてもの、全日程を観に行きたい程のものであるわけで。そんな私の趣味に彼を、恋人の彼を巻き込んでやろうという魂胆でひたすらに勧誘をしているというわけである。

 だが、彼の反応はいつも通りかなり冷静。冷ややかというわけでは決してないけれど、簡単には釣られてくれない。だけど、それでこそこちら側に引き込もうと燃えてくるというもので、それほど乗り気ではない彼をどう巻き込むかということに躍起になっていた。

 

「どうせひまりに限らず、大学に進学しようって人は来年にそんな余裕はないだろうからな」

 

「そんなの薫先輩ロスの私に追い討ちをかけてるも同然だよ……」

 

 ただでさえ三年生の薫先輩にとってこの秋の公演というのは、羽丘で行われる公演で実質的には最後の公演であるということに等しい。卒業公演などがある可能性もあるが、そもそも薫先輩がそこまで三年生の最後に熟せる時間があるのかと問われれば、頷くことは難しい。

 だからこそ折角の機会に、私は彼と薫先輩の舞台を観ようというわけなのだ。当の彼はノリノリというわけではないけれども。

 以前、二人で薫先輩の舞台を観に行ったことがあったっけ。その時も彼はなんだかんだ渋そうな反応を見せながらも、当日は私と同じぐらい興奮を隠さずにいた。ならば、もう少し乗り気になってくれてもいいとは思うのだけど。

 

「だから、丁度この最後かもしれない舞台を一緒に観よう? って誘ってるんじゃん!」

 

「そんなこと言ったって……テスト前だし」

 

「そんなの薫先輩は受験前だよ?!」

 

 学校の定期テストと大学受験を同列で語るのはナンセンスかもしれない。けど、これぐらいゴネたら、多分彼も私の誘いに乗ってくれるだろう、なんていう期待を私は持っていた。

 

「んー……そうだなぁ」

 

「私と一緒に薫先輩ロスになろ? ね?」

 

「どんな誘い方だよ……。分かった分かった」

 

「え?!」

 

 彼からようやく芳しい反応が得られて、思わず興奮した私は立ち上がる。その瞬間に私の服の袖や手の甲に飛んだのはテーブルの上でなみなみと注がれたまま減ってすらないコーヒーだった。テーブルをドンと叩きながら立ち上がるなんていう、あまり良くない立ち振る舞いを若干後悔しながら、彼が差し出してくれた淡い色のハンカチで濡れたところを拭く。

 

「ひまりもそれだけ行きたいんだよな? なら俺も参戦するよ」

 

「本当っ?!」

 

「本当、本当だから騒ぐなって、一応ここ喫茶店だぞ?」

 

「あっ」

 

 遂に彼からの快諾を得た。一緒に薫先輩の舞台を観るという約束を取り付けることを成し遂げた私は喜びのあまり大はしゃぎしそうになる。

 だが、彼の諌めるような声を聞いて、慌てて辺りを見渡した。そう、ここは喫茶店。一応、つぐみの家のお店だけれども、粗相を重ねるわけにはいかない。私が店内を見渡すと、カウンターの向こうで手伝い中のつぐみが苦笑いしているのが見えて、その上つぐみと目が合ってしまう。今までの会話だとかを見られていたことを自覚すると少し恥ずかしくなって目線を逸らした。そして勢いよく座り込んで高い背もたれに隠れるように縮こまる。

 

「……まぁ、とにかく今度の薫先輩の舞台、一緒に観に行くってことで良いんだな?」

 

「え? う、うんっ! 来てくれの?!」

 

「良いよ、それだけひまりが熱心に誘ってくれてるしな」

 

「やったぁぁー!!!!」

 

「だからここ喫茶店だって」

 

 彼を誘う前は本当に来てくれるのだろうかということが不安すぎたから、その反動みたいなものなのだろう。彼から言質をとって興奮に包まれた私は何度も彼に注意されてようやく落ち着きを取り戻したのだった。

 

 

 

 それから数週間経っただろうか。遂に薫先輩の舞台の本番がやってきた。校門の外で彼と待ち合わせを済ませた私は会場が醸し出す雰囲気にも当てられ浮き足立っている。彼は開演まで時間があるということで手持ち無沙汰そうにしているが、私が何度も今の興奮を伝えてもちゃんと反応を返してくれる辺り優しさを改めて実感した。

 十月も後半を迎えて行われる舞台ということで、自分の心の中では勝手に自分への誕生日プレゼントだなんて気持ちで今日はここに赴いていた。きっと彼もそれを祝うデートぐらいで考えてくれているのかな、なんてのを心の隅で考えると心が躍る。きっと、所謂ツンデレ気味の彼はこのデートの最後までそういうのは伏せているつもりだろうけど、私は勝手に妄想して喜んでいるのである。

 

「開演って何時からだっけ?」

 

「もぉー、パンフレット渡したでしょ? 十七時に入場開始だよ!」

 

「じゃああと三十分はあるのか……」

 

 まだ彼のテンションはそれほど高くないし、時間を持て余していることを彼は腕時計を見ながら考えているらしい。太陽がもう殆ど沈みかけているせいで辺りは熱気を保ちつつ暗くなっているけど、僅かに校舎の隙間から差し込んだ陽光が彼の腕時計に反射していた。

 

「じゃ、ちょっとだけお手洗い探してくるわ」

 

「あ、それなら一緒に着いていってあげようか?」

 

「良いって、列に並んでな」

 

「はーい」

 

 彼に言われてついて行くまでもないかと思い、大人しく彼を見送った。一応列が整理されてはいるが、腐っても高校の演劇。ドームなどでのライブやコンサートとは違って縛りが厳しいわけでもない。どのみち座席も私の隣に座ってくれるはずなのだから、後から合流すれば良いと思い、スマートフォンをポケットにしまった。

 彼を見送って改めて、自分の周囲に並んでいるお客さんの群衆を見た。私と同じような羽丘の制服を着た女の子もいれば、おそらく外部の人だろうという格好の人もいる。それぐらい多くの関係者がこの劇には関わっている。

 さっきはたかだか一高校の演劇だなんて考えてはいたが、むしろそれでこの客の入り様なわけで、薫先輩の話題性の高さを再確認することになった。そんな薫先輩と同じ空間に居合わせられるという、普通ではよく分からなさそうな多幸感に包まれて彼の帰りを待った。

 

「あれ、ひまりちゃん」

 

 彼の帰りをまだかまだかと待って気の抜けていた私を呼ぶ声がした。それでふっと現実に引き戻されたように感じた。私が顔を上にあげると、そこにはりみがいた。いつも私と一緒に薫先輩の舞台を追いかける、謂わば同志、それがりみだった。りみは不思議そうに首を傾げながらも、その手には薫先輩の名前の入ったうちわを持っていて、ここにわざわざ来た目的は語るまでもなかった。

 

「あれ、りみ。りみも薫先輩の舞台観に来たの?」

 

「うん、だってあと何回薫さんの舞台が観られるか分からないんだよ?」

 

 りみもやはり私と同じ考えだったようで、貴重な薫先輩の出る舞台を見逃すわけにはいかない、というまさに薫先輩愛の塊のような考えだ。りみが見せてくれたチケットを見れば確かに今日の日付が記されたもので、私たちの持っているものと同じものらしい。

 

「ひまりちゃんは今日は一人?」

 

「え?」

 

 私の視線が麗しき薫先輩の御顔が描かれたチケットに奪われていた時、りみの問いかけに反応できずに聞き返してしまった。私とりみは大概一緒に薫先輩の舞台を観に行くわけだが、彼と一緒に観る時は、りみと彼との間の面識もないわけで、まず私と彼の二人きりで座るのがお決まりになっていた。

 

「もしも一人なら、一緒に観よう?」

 

「え、あー」

 

 まさかりみと当日遭遇して、その結果一緒に観ようと誘われるだなんて思ってもみなかったものだから私は困惑した。確かにいつもは一緒に薫先輩の応援しているのだからここで断るのも変な話かもしれない。けれど、彼と二人きりの観劇なのに、そんな気持ちも少しばかり残っていた。

 

「ただいまひまり。って、その子は?」

 

 そんな折だった。急に長い陰が伸びてきたなと思えば、先程お手洗いで離脱していた彼が帰ってきたのだ。当然りみと彼は顔を合わせたこともないし、敢えて私がりみの話をずっとするというわけでもないから、彼も私と親しげに話すりみの姿を見て首を傾げているようだった。

 

「えっとね、この子はりみっていって、いつも私と一緒に薫先輩の応援をしてる子だよ!」

 

「え、えっと、初めまして。牛込りみっていいます。えっと、ひまりちゃん、その人って」

 

「あーえっと、そのー、薫先輩のお美しい姿をどうしても見たいっていうから!」

 

「いやいや、俺がそんなことを言った覚えは……」

 

 結局、私の彼氏だということは意図的に隠して無理やりに話を進めることにした。お陰でりみは同じような薫先輩仲間ができたと目をキラキラと光らせているし、彼はりみの態度の変わりように困惑しているしで、色々と混乱を招くことになってしまった。

 りみは仲間を見つけたと意気揚々と薫先輩の魅力を語り尽くそうとしている。多分いつも彼と二人で話す時の私もこんな感じなのだろう。

 そして私はりみを止めるというわけにもいかずに、その勢いに怖気付いたままの彼を助け出したりとかもせずに私はダンマリを決め込むことにした。りみはそのまま私の意見だとかを気にせずとも彼を観劇に誘うような勢いだった。

 

「そうだ、折角なら私も一緒に観ても良いですか? 三人で薫さんの晴れ姿を応援しませんか?!」

 

 そして、そんな私のつまらない予測は現実のものになった。彼は私の方を何度もチラチラと確認しながら考え込んでいるようだった。

 

「えっと……。まぁ、ひまりが良いなら、良いのか?」

 

「え、う、うん! もちろん!」

 

 私は流石にはっきりと断るなんてこともできず、勢いに押されるがままに承諾する。そしてそれとほぼ同じタイミングで開場のアナウンスがスピーカーから聞こえてくる。多分この問答がどうなったとしても一緒に隣の席に座って観ることになったろう。

 

「それじゃあ行こう!」

 

 いつにも増して興奮気味のりみの後を追うように私も講堂へと入って行く。何度も後ろから着いてきているはずの彼の顔色を確認しよう、顔色を窺いたいと思ったけれど、いざそれを直視する勇気が湧かなかった私は声をかけることもなく進むのだった。

 入場の時間から十五分ぐらい経っても、まだ会場内はざわついている。私やりみみたく薫先輩を求めてやってきた人たちの熱気が騒がしさのようなものを生んでいるのだろう。

 私の左隣に座ったりみも入場前から一切テンションが変わらないまま、開演を今か今かと待っているようだった。かくいう私も薫先輩の舞台が楽しみなのはその通りなので、どこかソワソワとしたような気分を隠さずにいる。なんだったら隣で薫先輩の名前を叫ばんばかりのりみと同じぐらい薫先輩への愛を今ここで叫んでしまいたいぐらいだけど、心の中のひっかかりがそんな私にストップをかけていた。

 

「楽しみだね、ひまりちゃん!」

 

「……うん!」

 

「私もね、この間のひまりちゃんを見倣って、薫さんうちわを作ってきたんだ」

 

 そういってりみはさっきも隠そうとしていなかったうちわを見せてくれる。その表面には薫先輩が口癖のように使い続けている、『儚い』という文字が遠目からでもわかるぐらい明るい色と派手な装飾と一緒に書かれていた。

 今から観るのは劇だというのに、この盛り上がりようはどちらかといえばアイドルのコンサートに近いのかもしれない。ただ、私も以前りみと一緒に薫先輩の舞台を観に行った時はそんなものを作っていたものだからそれをどうこう言うつもりは一切なかった。

 

「薫さん、このうちわに気づいてくれるかなぁ」

 

「多分気がついてくれるって! だって薫先輩だよ!」

 

 私がそう励ますと、りみは大きくうなづいて、まだ幕も上がっていない正面のステージに向かってそのうちわを振ることに必死になっていたようだった。開演まではまだ少しだけ時間があるし、あの幕の裏では最終確認が行われているのかもしれないから、りみのこの声援も薫先輩の耳に届いているかもしれない。

 りみの応援を片耳で聴きながら、私はどういうわけだか大きなため息と共に背もたれの方に倒れかかった。周囲は薫先輩を呼ぶ声援ばかりだからため息は聞こえないだろうが、その様子を彼は見逃さなかったらしい。

 

「ひまり? なんだかあんまり楽しめてなさそうだな」

 

「え? いや、その」

 

「ま、折角来たんだから楽しめよ」

 

 私が色々と振り回してしまうことになった後ろめたさが私の心を包んでいたのだけど、その言葉を聞いて少しだけ安心した。丁度その時徐々に照明が落とされたせいで彼の顔は見えなくなっていったのだけど、今この瞬間ぐらいは薫先輩に酔いしれてもいいだろう。

 

「よーし、薫先輩ー! 頑張ってくださーーい!」

 

 周囲のざわめきにも負けないぐらいの声を上げる。照明が暗くなったせいでみんなの興奮は最高潮に達していたから、その熱気と声に掻き消されるかもしれないけれど、まぁいい。

 私はすっかりその場の空気に飲み込まれるようにステージの上に吸い込まれていた。右の肘掛けに控えめに添えられた手の甲に気がつかないほどに。

 

 

 

 時間はあっという間に過ぎていった。それこそ、私の感覚では言葉の通り一瞬だった。薫先輩の美しさだけでなく完成された構成のストーリーに、私はまるでその世界の住人であるかのように錯覚するぐらいにはのめり込んでいた。今目の前に薫先輩が本当に居てくれたらどれほど嬉しいだろうか、そんな感情に襲われるほどに。

 

「良かった……薫さんの演劇めっちゃよかった……」

 

「薫先輩本当カッコ良すぎて、もう意識飛んじゃいそうだよ……!」

 

 会場を出て、空が真っ暗なことに気を取られることもなく、私はりみと二人で感傷に浸るばかりだった。余韻すらも想像以上だ。今もまだあの世界にいるのではないかと思うぐらいに昂っているのだ。

 

「すごかった、本当にすごかった! ね!」

 

 私はこの感情を共有したいと思って、隣を歩く彼の方へと振り返って同意を求めた。けれど、彼から返ってきたのは期待通りのものではなかった。

 

「え、ん、まあ、薫さん、やっぱりすごいな」

 

 語彙力を喪失しているような私たちと違って、彼はまだ感心程度の反応だったことに少しだけ私はびっくりした。それと同時にどうしてこの薫先輩の舞台への感動が冷めてしまうような反応を取るのだろうという、憤慨にも似た醜悪な感情が現れた。私は一瞬でハッとして、一気に頭からそんな醜い気持ちを掻き消した。

 

「ま、りみちゃんとひまりで積もる話もあるだろうし、俺は先にお暇しようかな」

 

 気がつくともう校門に着いていて、今から帰る人たちの姿を眺めながら校門前の左右に伸びる道を別々に帰ろうとしていた。

 

「……うん! じゃあまたね!」

 

 私はそれを止められることもできず、そもそも止めたいのかどうかも分からずに彼を見送る。少しばかり心の中にモヤモヤ感に似た何かが残ったけど、気にしても仕方がないと思い直して、りみと薫先輩のステージの話を語ろうと思いりみの方に向き直った。

 

「って、りみ?」

 

 けれど、そこにはどこか暗い表情を浮かべているりみがいて私は動揺した。

 

「えっと、もしかして今日私が居たらいけなかったかな」

 

「……え?! そんなことないよ! りみが来てくれて、いつも以上に盛り上がったし!」

 

「え、でも、ひまりちゃんってもしかして今日はデー」

 

 そこまでりみが言おうとして、慌てて私はそれを遮った。多分その声は周囲の人たちにも聞こえていたかもしれない。

 

「そんなんじゃないから! 大丈夫だから!」

 

「そ、そうかな?」

 

 居心地の悪い沈黙が私たち二人の間を支配した。

 

「その、私気がつかなくて。私が言えることか分からないけど、多分話をした方が良いんじゃないかなって」

 

 控えめながら、りみ曰くどうやら私は彼ともう少し話をしたほうがいいということだった。正直何を話せばいいのか分からないけど、ただ、何を考えているのか分からないからこそ話さなければいけなかった。

 悩んだ。悩んだけど、私はりみに背中を押されていた。

 

「ひまりちゃん」

 

「……ありがとうりみ!」

 

 私はりみに何も言われずとも駆け出した。そう時間も経っていないしここから彼の家への帰宅ルートも頭に入っていたから、多分この道を通っているだろうという確証もあった。

 学校から離れるにつれて徐々に人は少なくなって、住宅街の様相を呈するようになる。片側はブロック塀、片側は児童公園、そんな道路に差し掛かった時、私は彼の背中を捉えた。

 

「待って!!」

 

 私の声は、やけに大きく響いた。もう少し抑えることもできたかもしれないけど、いつのまにか大きくなっていた不安に押し潰されそうになった私の涙や、走ったことで息が荒くなってそんな調節はできなかった。

 

「……ひまり?」

 

 彼は心底驚いたような反応を見せた後、振り返って私を見つけて再度目を大きく見開いていた。電柱についた街灯でよく見えていた。

 どういうわけだか、自分でもよく分からないけど、感情に突き動かされた私の行動は大胆だった。彼を呼び止めて、息を整えるために立ち止まって、肩で大きく息をしていたはずだった。けど、数瞬後には私は彼の胸に飛び込んでいた。

 

「……ごめんね」

 

「え、え、何でひまりが謝ってるんだよ」

 

 彼は困惑しているようだった。当たり前だった。けれど、私の頭もそこまで理路整然と喋れるほどではなかった。

 

「ごめんね、今日、嫌だったよね、嫌なこと、あったよね」

 

「嫌なことなんて、そんな」

 

「……いつも私が話してばっかりだよね? それじゃ、分かんないよ」

 

 私は顔を上げる。彼は最初こそ渋っている様子だったが、観念したのか重い口を割るつもりになったらしい。

 

「別に、薫さんの舞台が嫌だったなんてことは」

 

「ほんと? でも、きっと私が無理やり今日も連れていったよね、どうだった?」

 

 そこまで言うと、彼は押し黙ってしまった。私も何も言葉を返さないまま、フラフラな私の体を彼が支え続けて、彼はようやく小さく息をついた。

 

「幼稚だから、大したことじゃないから」

 

「……いいよ。大したことじゃなくても、教えて」

 

 多分、彼のその態度は完全に自嘲を含むものだった。多分、彼も私と一緒で臆病だから伝えられないでいるらしかった。私が薫先輩の舞台が嫌だったかと問うても首を振るばかりで、彼は私の手をぎゅっと握っていた。

 ここまで女々しい姿を見たのは初めてだったかもしれなかった。でも、だからこそ敢えて言葉に出さなくても、なんとなく彼の考えていることは分かった。

 

「……ね、今度二人だけでどこか出かけよっか」

 

 私の誘いに彼は身動ぎ、けれども、静かに首を縦に振った。私はきっと彼の抱えた不満に似た蟠りはそれだけだと思っていた。けど、それは私の単なる希望的観測に過ぎないということを知ることになった。

 

「でも、それだけじゃないから」

 

「……それだけじゃないって?」

 

「……いや、いいや。本当に、俺がガキ臭すぎるだけだし」

 

「ちょっと……」

 

 なんだか、その反応を見て、私はそれまでと少し違う怒りの感情が湧いてきたのだった。感情が忙しいなんて思われるかもしれないけど、悔しさとか怒りとか、そんなものに近い気持ち。

 

「そこまで言って言わないは無しだよ」

 

「……別に、薫さんが、羨ましいって思っただけだから」

 

 私の制服の袖を力なく掴む彼の言った言葉の意味が分かった瞬間、私の中で猛烈な後悔と、ようやく全てが解決したかのような感情がごちゃ混ぜになった。

 私は泣いているのか、安心しているのかよく分からないまま、力の抜けていた彼の体をもう一度強く抱きしめていた。

 

「……本当に、言わなきゃ伝わんないんだなぁ、何もかも」

 

「ごめん」

 

「謝らなくても良いよ? そのかわりこれからは私に対する隠し事は全部無し!」

 

 私はまだ止まらない涙を隠そうともせず、彼の服でこっそり拭ったまま顔を上げた。すれ違いがこんな些細な、強いて可愛く言うならば薫先輩へのヤキモチなんかから始まるだなんて、その時までの私は考えてもいなかった。

 

「……心配しなくても、私にとって一番カッコいいのは君なんだよ?」

 

「そういうことじゃ……ないけどさ」

 

「……ふふん、知ってるよ!」

 

 一旦しっかりと話してみれば、今の私は彼の考えていることが何でもわかるような気がした。逆にこれまでの自分は彼のことを分かっていたような気でいただけで、実はそんなことはないのだとも感じた。

 普段は私から話すことが多いから、だからこそ彼のことを知らないのだとも言えるけど、私だって本当に大事な部分は言っていなかった。そんな自責の気持ちも込めて、私はもう一度彼の体を強く抱きしめた。彼は何かを言うでもなく、気恥ずかしそうに私から目を逸らすだけである。

 

「どうして目を逸らすの?」

 

「……なんでも」

 

「逸さないでこっち向いてって言ったら?」

 

「え?」

 

「んっ……」

 

 ほぼゼロ距離にいたわけで。私は彼の腰に回していた腕をさらに上に持っていった。そして、恥ずかしがりで臆病な彼の唇を奪ったのだ。とても震えていたような気がしたけど、それはきっと夜が深まって寒かったからということにしておこう。どちらが震えていたのかすらも分からないのだから。

 やがてゆっくりとリップが離れると、彼はさらに顔を赤くさせて、何ももの言わぬようになってしまっていた。

 

「ね、……私から、目を離さないでね?」

 

 私の甘えたような口調の示す意味は彼に伝わっているだろうか。本当なら言葉で伝えたほうがいいなんてことは分かってはいるが、それが急にできるようになるならばここまで今日も苦労していなかった。だから、いつかできるようになればいい、そんな気持ちで言葉に託したのだ。

 

「いつまでもだよ? 来年も、もちろんそれから先もずっと」

 

 先のことなんて分からないけど、少なくともそこに彼が居てくれるのは確かであるように。そんな願い事じみた約束を彼としようとしていた。

 そして、彼の返事は私が期待した通りで。

 

「……当たり前だろ。ひまり」

 

「ふふっ、うん!」

 

 期待通りの答えを得た私の瞳からはいつしか涙が引いていた。

 

「あっ、今、目逸らした!」

 

「これはその」

 

「言い訳無用!」

 

 多分彼は気恥ずかしさで目を逸らしたのだろうけど、やはりそれで私は確信したのだ。彼のことをこれまで自分はちゃんと知ろうとできていなくて、だからこれからは彼のことをちゃんと見て生きようって。

 少なくとも今度は、心の底から彼が心の支えだって冗談めかすことなく、本心から誰にでも言えるように。

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