ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【大和 麻弥】そこにいる誰かのために

 ジブンは果たしてアイドルでも良いのだろうか。アイドルバンド、Pastel✽Palettesの一人でも良いのだろうか。そんな悩みはジブンがその一員となってから今まで、心のどこかに存在していた。自問自答のように、脳内を幾度となく反芻していたものの、必ずその答えを見つけられないまま、ジブンはこのアイドルバンドで活動を続けている。

 アイドルとはどんなものだろうか。それはジブンにとって最大の問いだった。

 ただ、アイドルから一番かけ離れた存在、それがジブンなのだと断言することができた。美容がなんだとかはからっきし興味もなく、機材のことで徹夜するのは当たり前。笑い方なんてアイドルになるまで気にしたこともなく、未だに治らず、一種のアイデンティティのようにすらなっている。きっと千聖さんはジブンの扱いに手を焼いたことだろう。

 ジブンがアイドルと言われて真っ先に想像したのは、彩さんの姿だ。大勢の観客の前で丸山彩を貫き、多くの人に愛され、ファンに笑顔と勇気を届ける。まさに理想のアイドルと呼んでも良いと思う。

 

「あれ? どうかした? 麻弥ちゃん」

 

「へ? なんでもないっす!」

 

 収録終わりの楽屋は少しばかり寒い。暖房も申し訳程度についているが、めっきり冷え込んだ外気が部屋に流れ込んでいるのではないかと疑いたくなるほどに寒い。

 そんな冷たい空気の中で、アイドルに相応しい姿などという重苦しいテーマを悩み抜いていたジブンは、気が付かないうちに彩さんのことをじっと見つめていた。そこはステージでもない、ただの楽屋で、部屋の隅には観葉植物が鎮座しているほどだというのに、彩さんの周囲はなんだか輝いているように見えた。ジブンの座るこの椅子はきっと舞台袖で。ステージを華やかに彩るための機材でいっぱいの裏方の方がジブンの居場所として正しいのではないか、そんな気持ちになってしまうほどだった。

 どうしても目が離せなくて、そんなジブンを不思議そうに見つめる彩さん。首をこてんと傾けて、目をまんまると見開くその仕草は悔しくなるほどに可愛らしかった。愛想がどうだとか、そういう次元ではない。言葉で語るのが口惜しく感じられるほどである。

 

「見惚れてただけっす!」

 

「みと、て、照れるよぉ〜」

 

 苦し紛れの言い訳じみた褒め言葉に、クネクネと身を捩らせる彩さんの姿に、ジブンはいつのまにか笑顔になっていた。一緒にいることの楽しさだとか、そういうものだけではない空気のせいだった。

 でも、自分でも不思議なのだけど、これは多分嫉妬とかではない気がするのだ。嫉妬という言葉に片付けるのは単純で楽だが、それは半分正解で半分ハズレだった。

 もっと正確に言えば、これは自分自身に対する失望の意義の方が大きかった。憧れはあったとしても、そうは絶対になれないということへの失望だ。

 

「彩さんのキョトンとした表情が可愛かったと言いますか……、とにかく今の彩さんがすごかったっす!」

 

 だからこれは、存在しないジブンを彩さんに重ね合わせて、慰めているだけだった。

 

「褒めすぎだよぉ」

 

「アハハ、麻弥ちゃんの焦り方も彩ちゃんのチョロい反応もおもしろーい!」

 

「えっ、えっ、日菜ちゃんどういうこと?!」

 

 己の心を慰めて、てんやわんやとしつつも穏やかな日々を送れることに一定の満足感を覚えて、その幸せが壊れないようにする。それが今のジブンに出来る精一杯だった。多分、ジブンが彩さんを目指すのは間違っている。だって、ジブンじゃ彩さんになるなんて、絶対に無理だから。だからジブンはアイドルにはなれっこないんだ。心の中ではそんな諦めを促す優しい悪魔が声をあげていた。

 むしろこの諦めの言葉は楽だったから、ありがたかった。腹を抱えて笑う日菜さんに振り回される彩さんのようにはなれないって、頭では理解しているから。そういう現実を直視した時に、変わらない現実を自分で認めてしまえるから。むしろパスパレの一人だという、ジブンがアイドルの一人だというレッテルがむず痒く感じてしまうほどだった。

 

「も、もうっ! この間のハロウィンからずっと日菜ちゃんのイタズラが止まらないよ〜」

 

「えー、あたし何かしたっけ?」

 

「あれで惚けるんですねぇ……。ジブンも絡んでいるので強く言えないですけど」

 

 そういえば数日前のハロウィンイベントは大変だった。主に日菜さんのテンションというか、彩さんを翻弄している時が。最初はパスパレの全員にイタズラしようとしていた日菜さんも、千聖さんにすぐさま見つかり、対象を彩さんに絞ることで許可を貰っていた気がする。ちなみにその時はちゃっかりジブンや千聖さん、イヴさんもノリノリでイタズラの準備をしていた。

 彩さんの持ち物の悉くにびっくり箱のような機構を据え付けて、部屋の影に隠れ、毎度のように後ろに倒れそうになっている彩さんの姿に全員で笑いを堪えたりしていたのだ。

 その時はイベント終わりの時間だったからアイドル衣装のまま、彩さんの様子を見守っていただろうか。きっといつものジブンなら周囲と比較した時のジブンの姿に落胆しているような時間だったはずなのに。その時のジブンは堪え切れずに大笑いしていたはずだ。それが原因で彩さんにもバレてしまったのだが。本当にそのイタズラを心の底から楽しんでいた覚えがある。——そう、まるで今のように。

 

 急にハッとして、そこに苦笑いをしているジブンがいることに気がついた。けれど、今は不思議と心が安らいでいることにも同時に気がついた。心が安らぐとは大袈裟かもしれないが、それは多分アイドルとして振る舞っているのを忘れられそうだったからに違いない。

 

「そもそも麻弥ちゃんだって、部屋の隅っこから隠れて私の驚くところこっそり見てたじゃん!」

 

「うっ、それは麻弥さんに唆されて……」

 

「人のせいにするなんていけないわよ? 麻弥ちゃん」

 

「千聖ちゃんだって麻弥ちゃんの隣でビデオカメラ回してたよね?!」

 

 彩さんの必死すぎる形相は、イタズラされた時の涙目にもどこか通ずるものがある。今日の収録でも、その時に千聖さんが捉えた彩さんの小動物のような姿が、お宝映像としてものの見事に放映されていた。

 きっと放送でそれを観たファンの人たちはパスパレの仲の良さだとかを認識するのだろう。そう考えるだけでジブンの心も慰められているような気がした。

 

「彩ちゃんの姿をお茶の間のファンの方々に届けるのが私たちの使命なのよ?」

 

「そうです! これがパスパレ流のブシドーです!」

 

「イヴちゃんの考えるブシドーって、寄ってたかって私にイタズラすることなの?!」

 

 あぁ、本当に彩さんたちと一緒にいる時は楽しい。こうして表舞台に立つ時間じゃない時に、かけがえのない友人、仲間として接している間は特に。ジブンが一人の女の子に戻れたような気がして、嬉しくて、寂しい。

 

 結局その日は、夕方過ぎに収録が終わった後、みんなで解散して帰ることになった。彩さんへのお詫びにご飯に行こうともしていたのだが、日菜さんがどうやら紗夜さんと出かけるだなんだとか、どうにもこうにも五人で揃うことが出来なさそうだったので断念することになった。

 太陽が既に建物の奥の方に沈んでしまっているからか、空は黒に近しい青が殆どを占めていて、それに対抗するように駅前のネオンや街灯がチカチカとする色の光を放ち続けている。こういった人口の光が多いせいか、今の時間のこの場所は夕方に至る少し前よりも、嫌になるほどに明るくなっている。

 四方八方から差し込んでくる光の絶え間ない照射で、ジブンの影は完全に消えてしまっている。足元に規則的に広がる長方形の石のタイルのどこを探しても、ジブンの存在を示す影は見えなかった。

 

「嫌になりますね、なんだか」

 

 自分でも意識をしていないうちに吐き出していた愚痴。それが他の誰かに届いているのではないかと思い当たってハッとした。雑踏の中、いきなり立ち止まって周囲をキョロキョロと見回すジブンは恐らく挙動不審と形容するのが正しかった。

 そういえば早くに皆さんと別れていたものだから、帰り道が一緒というわけではなかったのを思い出して、胸を撫で下ろした。だってこんなネガティブな言葉、パスパレの他の誰かにもし聞かれていたら、すぐさま心配されるに違いない。それは少し嬉しくありつつも、ジブンが迷惑をかけてしまうことへの抵抗感や虚しさもあって、ジブンにとっては悪手でしかなかった。

 どうやらジブンは気がつかないうちに心に溜まった澱みを吐き出してしまわなければならないほどに、不安に押しつぶされそうになっているらしい。劣等感だとか、嫉妬に似た羨望だとか、自己否定だとか、自分自身を貶める悪魔の慰めに負けそうになっているらしかった。

 そんなジブンがいることが更に嫌で、立ち止まっていたジブンを奮い立たせて、数歩先の地面にあった、周囲とは色の違うタイルを思い切り踏み締めた。飛び石を渡ったり、縁石の上をバランスを取って歩くみたいに、小学生の頃の無邪気な遊びを彷彿とさせる。出来ることなら、そんな頃に戻りたかったのかもしれない。

 

「おっ、麻弥じゃん」

 

「へっ?!」

 

 幾つかのカラフルな飛び石を渡っていた丁度その時だった。人の話し声を掻き消してしまうほどの雑踏の中から突如として聞こえてきたジブンの名前を呼ぶ声がして、驚いて視線を上に戻した。もしかしたら『マヤ』という同じ響きの誰かを呼んだ声かもしれなかったけど、反応せずにはいられなかった。

 周囲を見渡すと思った以上に駅前を歩く人が少なかったんだということに気がついた。いや、それよりもこんな奇妙な、もっと正確に言うならば子どもじみた遊びをしているジブンの周りを歩こうとする奇怪な人がいなかっただけかもしれない。兎に角、そんな人混みの中でやることではなかろうことをしている怪しいジブンを呼び止める人がいたわけで、急に立ち止まって振り返ったジブンの目の前に、急に影が現れていた。

 ジブンよりも体格の大きな影は、表情や貌を確認するまでもなく多分男の人なのだろうと予測はついた。しかも、ジブンのことを下の名前で親しげに呼ぶような男性の存在はジブンにとってはそう候補がいなかったものだから。

 

「……びっくりしたじゃないですか」

 

 秋が深まって肌寒くなってきたために、そのシルエットは少々本来よりも膨らんでいる。そんな体のラインをなぞるように顔をゆっくりと上げると、よく見知った顔が現れたものだから、人混みの中で暴れそうになっていた心臓の動悸も急に治まった。

 ある意味ではついこの間までジブンの同僚だった存在。もしもジブンがあの時、千聖さんと出会っていなければ、きっと今も一緒にスタジオミュージシャンをしていたのであろう同僚。

 とはいえ縁が切れたかと言われればそうでもなく、あいも変わらず機材に飢えたジブンはスタジオで頻繁に顔を合わせていたから、別段久方ぶりというわけでもない。ただ、パスパレの仕事、個人での仕事が重なっていたためにスタジオに顔を出す機会もめっきり減っていた。レッスンで使用することもなく、そんなわけでなんだか久しぶりに会うような気持ちになっていた。

 

「そんなの俺だってびっくりしたよ、こんな街中で出会すなんてな」

 

 そう言われて改めて辺りを見回せば、毎日のような帰宅ルートというわけでもない、人混みの駅前で彼と出会すとは、驚くのも当然の状況だとわかった。仮に同じ場所に、同じ時間にいたとしても、そこに相手がいるなんて気がつくのは約束でもしていない限り不可能に近しい。

 これも一種の運命かもしれない、そう考えるだけでかつての淡い恋心に似た何かは再燃しそうであった。

 

「偶然って言葉で片付けられないぐらいですよ」

 

「だな。ま、相当目立ってはいたけどな」

 

「へ?」

 

 彼は意味ありげな目線のまま視線をジブンから外した。その意味はなかなか良くわからなかったが、ピンと来ていないのを見抜かれたのか、彼は苦笑いのまま続けた。

 

「こんな群衆の中でぴょんぴょんやたらと大股で歩く変なやつがいるんだもんな。かなり浮いてたぞ」

 

「なっ、えっ、あっ」

 

 そこまで指摘されて、ようやくジブンの数分前の姿を脳裏に思い浮かべた。そうだ、自分でも分かっていたではないか、まるで子どもの頃にタイムスリップしたかのように、足元の石のタイルを飛び移っていたなんて。あんなもの、そこそこ大人に背伸びし始めそうな様相の人間がやってるところを側からみれば怪しいの一言以外あるだろうか。

 そんなことにも気がつかなかった愚かしさみたいなところや、恥ずべき光景を過去とはいえ少なからぬ好意を寄せていた異性に見られたという羞恥で、すっかりジブンの思考回路は止まってしまった。頬に両の掌を添えてみたが、驚いてすぐさま離れた握り拳の中には熱が篭っていた。

 

「まぁまぁ、麻弥がそんなことやってたなんて、ちょっと変な人が居るぐらいで見られるだけだから安心しろって」

 

「全然、『だけ』じゃないっすよ〜?!」

 

 懐かしさを感じさせるやり取りも、多くの人の行き交っていた街路では民衆の日常の中に溶けていく。その安心感のおかげで普段の大和麻弥を出すことには何の障壁もなかった。

 一方でそんな自分がいることもどこか辛かった。もしも今ここにいるジブンを誰か別の人、それこそ千聖さんなんかに入れ替えてみたら。そんなたられば話を考えていても仕方がないし、それで毎度毎度落ち込んでいてはキリがないのだけど、考えずにはいられないのである。

 

「あっはは、まぁいいじゃん。それで、麻弥は帰り道?」

 

「え、はい。実はさっき収録が終わったばかりでして」

 

「なーるほど」

 

 彼は袖丈の長さを気にするように目線を落とした。左腕を軽く突き上げて肩の方に袖口が寄り、その手首だけから光の反射が見えた。ジブンの胸騒ぎはすぐに落ち着いて、それでいて期待も大きくなっていた。

 文字盤はこちらからは見えないが、大体今の時間が六時前なのだろうことは想像がつく。考えた末に彼が飛び出た言葉は、ジブンが待ち望んでいたお誘いだった。

 

「よし、久しぶりに飯行くか」

 

「い、いいんですか?!」

 

「旧交を温めるってのも大事だろ? あ、それとも」

 

「それとも?」

 

「アイドルとディナーデートなんてしたら週刊誌にすっぱ抜かれちゃうか……?」

 

「で、でで、デート?!」

 

「まぁ、大丈夫か! 麻弥だし!」

 

「どういう意味っすかそれぇ?!」

 

 本当なら週刊誌にすっぱ抜かれるだとか、そこに反応しなければいけないのかもしれない。数時間前までのジブンならもっと落ち込む要素すらあったはずなのに、不思議なぐらい、今は心臓の鼓動音がジブンの脳味噌を支配していた。何も考えられないというのはまさにこのことだろうか。

 

「ディナーなんて大層なこと言ってるけど、この格好で格式高いレストランなんてのもな」

 

 彼は背中に背負ったギターケースを気にしながら言っているみたいだが、ジブンはそんなことどうでも良かった。どうでも良いというのは語弊だし、今からそんなマナーに厳しそうなお店に入る元気も勇気もなかったのだが、だとしても心の余裕がなかったのだ。あまりの温度差に風邪をひきそうなぐらいだった。

 

「そういやここら辺にディナーメニュー豊富なカフェがあるから、そっちにするか。それで大丈夫か? 麻弥」

 

「は、はいっ!! どこでも!」

 

 ジブンの意見を言う余裕すらないままに予定は決まった。今だけは、美貌だとかに無頓着で、手鏡すら持ち合わせていない自分を恨みたいぐらいだった。

 けれど、現実は非情で、ジブンのことを気にするための猶予期間すらない間にも、彼はスマホの地図アプリで店の場所を調べているらしかった。ほんの僅かな勇気で、ジブンはそのスマホを覗き込むという口実を言い訳にして懐かしい思い出を手繰り寄せていた。

 

「こんなお店知ってるんですね……」

 

 地図を見る限りでは、ここから精々徒歩五分ちょっとの建物の中層階にあるらしい。店名の下に出てくる写真をスライドしていると、カフェと名乗りながらも、夜景を見下ろすことのできるお店だと分かる。何も言われずに写真だけ見せられていたら、多分レストランか何かだと勘違いするだろう。

 

「はっはっはっ。金が無いからな、安い価格帯なのに高級感が出せるってのはな、見栄を張るのに必要不可欠なんだよ」

 

 彼の歳はジブンよりも幾つか上で、確か都内の大学に通いながらスタジオミュージシャンをしているということだった。苦学生だと自分を紹介していたぐらいだから、多分金に困っているのは本当なのだろう。

 でも、ジブンが会計の時にお金を出せるように財布を確認しようとすると、すぐさま手で静止された。どうやら奢らせろ、ということらしい。申し訳なさと甘えたい欲求の勝負では、後者が辛うじて勝っていた。

 

「デートって言ってんだろ? これぐらいは流石に払うって」

 

「……それじゃあ、ご馳走になりますね」

 

 その思いやりを汲み取るというのが恩返しみたくなるのだろうか。どうしたらその気持ちに報いることが出来るのか分からない、知識の乏しいジブンを恨めしくなる。だが、それでも無い知識を振り絞って、いつぞやのパスパレ内での話を思い出して、ほぼ消えかけていた勇気の灯に従ってみた。

 

「……麻弥の手、あったかいな」

 

「そうなんですかね? 自分じゃなんとも」

 

 ジブンの声は震えているんじゃなかろうか。そんな心配が杞憂であることを祈りながら、左手をほんの少しだけ彼の右手に触れさせてみた。ジブンよりも余裕綽々な彼に期待を伝えようとしたら、それをしっかりと汲み取ってくれた。

 手の甲だけじゃ飽き足りないジブンの手は、いつのまにか包み込まれていた。それだけでジブンとしては過去の不満足が満たされていくようだった。

 でも、生憎お付き合いだとかは遠い世界の話だと漠然と考えていたジブンにとって、それ以上のことは望むのも怖かった。望もうとしていても、何をすれば良いのかも分からない。なんだったら、話す内容すらも思い浮かばない。

 

「取り敢えず行こうか」

 

 ただ、そこにいたジブンは紛れもないただの女の子で、それがジブンの心に絶大な安心感を抱かせたのは言うまでもない。

 きっとスキャンダルだとかを気にしなくても良いという気持ちもあったのだろうか。彼との距離は手を繋いでいることもあって、肩と肩が歩くたびに触れ合うのでないかと期待してしまうぐらいだった。

 ただ、そんな期待はなかなか叶うこともないままに、建物の入り口に着いてしまった。確かさっきのスマホの画面には、ここの建物の八階だかに入居しているだとかだったはずだ。

 弾まない会話に焦りを持ちながらも、吹き抜けで天井を見上げるのも憚られるような階層に圧倒されていた。幸運なことに、いや、不幸かもしれないが、目的階まではエレベーターだけじゃなくてエスカレーターでもいけるらしい。

 人が疎らなエスカレーターの下について、いの一番に飛び乗ったジブンは、後ろに乗ろうとしている彼の方に危うく倒れそうになったがどうにか持ち堪える。だけど、脳に囁かれた誘惑に、ジブンはゆっくりと、一段下に乗った彼の体に身を寄せていた。

 

「……と、麻弥が急に大胆になったな」

 

「た、倒れるのが怖いので」

 

 意味もない言い訳でも、彼は全てを理解しているように優しく微笑み返していた。デートなら、男女が仲睦まじく体を寄せ合うのも普通なのかもしれない。それも言い訳にしたけれど、彼は苦笑いするだけだった。

 

「麻弥にデートしてもらえるなんて、光栄な限りだな」

 

「そ、そうですかね?」

 

「お前なぁ……。仮にもアイドルって自覚の欠片もないのか……?」

 

「え? いやぁ……そのぉ」

 

 ふと聞こえてきたアイドルという単語に、ジブンは彼にバレないように顔を顰めた。不意に襲ってきたレッテルに、急に現実に引き戻されたような感覚になったのだ。現実に帰ってきたとは言っても、ジブンが彼に身を寄せていることには変わりなかったのだけど、ただ今まで目を背けてきた事実からは逃れることは出来ないみたいだった。

 不意に、およそ人生初だろうか、頬の下に添えられた手で、ジブンは顔を上げていた。顎クイだとかいうやつだろうか。思いもよらぬ行動に心が騒ぎながらも、極めて平静を装った。でも、彼の瞳は一心にジブンを見つめていて、目を背けるのはジブンの方が早かった。

 

「ごめん、何か気に障ること言ったよな」

 

「……えっ?!」

 

 どうして分かったんだ、そんな気持ちも隠せていなかったのだろう。彼は曇った表情のまま、続けた。

 

「麻弥が俯く一瞬、苦しそうなのが見えたからさ」

 

「あはは……気のせいっすよ」

 

「あのな、エスカレーターで俺が下に乗ってるのに、見えないわけないだろ」

 

「あっ……」

 

 いつもの身長差ならやり過ごせたかもしれない。だが、エスカレーターで喜んでいたジブンが裏目に出た。

 

「……なんだか、アイドルで居る時間を忘れられるような気がしたんです」

 

 この状況で隠していたって仕方がない。三階から五階ぐらいまでの高さに伸びているエスカレーターの中腹で、諦めることにした。どうせ逃げ場はないし、逃げるのも心残りができそうだったからだった。

 

「アイドルの理想像って言うんですかね? 答えが見つからない問いだと思うんですけど、それが苦しくて」

 

 今は、まるで魔法がかかったかのようにアイドルの大和麻弥ではなかった。いつ魔法にかかったのかは分からない。商業施設の照明が煩わしくないと思ったのも久しぶりだったのかもしれない。

 

「ごめんな。麻弥だってアイドルが嫌になったりするよな」

 

「い、いえ! 違うんです。アイドルが、パスパレが嫌になったわけじゃ」

 

 目線が合わせづらくなって、チラリと、吹き抜けの建物を見下ろしてみた。その遠くに偶然掲げられていたパスパレの協賛広告を見つけてしまって、思わずジブンはダメージを負っていた。中央で弾けるような笑顔で飛び跳ねている彩さんが、アイドルとして輝いて見えたからだった。

 ジブンの目線に気がついたのか、彼も目線はその広告に注がれていた。推測だけど、間違いなかった。

 

「アイドル、アイドルか……なーるほど」

 

「……えっ、なんですか?」

 

 丁度エスカレーターの終点に着いて、慌てて降りたジブンの体を支えながら、彼は次のエスカレーターの乗り場へと歩き始める。声をかけることは出来ず、やはり彼よりも先に乗せられたのだけど、ジブンが身を寄せたりする前に、彼の方からジブンの方へと、体を寄せられていた。殆ど密着と言ってよかった。

 

「麻弥、どうせ彩ちゃんがアイドルなのに、自分なんか、みたいに思ってんだろ」

 

「……へぇっ?!」

 

 ジブンが悩んでいるところを全て見られていたかのようにピタリと言い当ててくるものだから、ひどく狼狽した。けれど、身じろぎをしても彼の傍から逃れることなんて叶わず、逃れようとも思わないまま、ジブンは彼の方に体重を預けていた。エスカレーターなのだから、危ないなんて思いながらも、落ちてしまっても良いやなんて、大層無責任なことを考えながら。

 

「なんで……」

 

「勘、と言いたいところだけど。そもそも千聖ちゃんに名指しされた時も似たようなこと言ってたじゃねぇか」

 

「そんなこと……あ、あったような……」

 

「だろ?」

 

 思った以上にジブンのことを見ている人がジブンの側にいて驚いていた。ジブンでも強烈な記憶の影に隠れていた思い出を掘り起こされたのだから。

 

「彩さんみたいにはなれないですけど」

 

「まぁな、麻弥は麻弥だからな」

 

「ジブンは……、アイドルになれるんでしょうか」

 

「なってるよ、とっくのとうにな」

 

「今も?」

 

「裏の世界から、光の差し込んだ世界に飛び出してった麻弥は、アイドルだよ。俺にとってな」

 

 きっと心の中では、理想のアイドルなんてのは最早どうでも良くなっていた。ただのレッテルじゃない、アイドルだと認められるだけで良かったのだ。自分じゃ認められないから、他人から、近くて遠い人からアイドルだと認められたかったのかもしれない。不安定なジブンを真っ正面から見てほしい、それだけだった。それは、パスパレの誰かからの承認では、満たし切れなかった。

 

「ま、辛くなったら、スタジオに帰ってきたらいいさ」

 

「……それもそうですね」

 

 みんなにとってのアイドルになるには、まだ道は遠いかもしれない。でも、ジブンはアイドルだった。それだけで十分だった。

 エスカレーターが終点にきた。ここまで高いところにも、時間をかけて登った意味があったのかもしれない。

 

「……フヘヘ、ありがとうございます」

 

 降り口に着き、店に向かっても良いはずなのに、人気のない二人きりの降り場でジブンは彼に体を預けていた。帰る場所を見つけたジブンの心は安らかだった。

 

「ま、その笑い方は直した方がいいぞ」

 

「……えぇっ?! 台無しですよぉ!」

 

 夜は深まったが、道は程々に明るかった。ジブンは誰かに導かれて、誰かを導いていたのだった。

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