ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【八潮 瑠唯】貴方との時間は

「まだ着かないのかしら」

 

 幾度となく確認したのは、文字盤が白銀に光る腕時計。たしか、十数秒前にも、殆ど同じような短針と長針の角度を見たはずだった。そんなにも待ち遠しい気持ちになっている自分に気がついて、私は驚きを隠せなかった。

 けれど、ただ彼を待つ少しの時間も、もったいなく感じられる。決して彼が悪いわけじゃないのに、むしろ常日頃から無駄を徹底して嫌う自分の愚かしさに気がつかせてくれたのは彼なのに。

 私は酷く乱れた心を落ち着かせるように、天を仰いだ。すると、少しだけ、彼のかつての言葉が脳裏をよぎって、今この瞬間も愉快に感じられるような気がした。でも、数秒後には、辺りを見回していた。どうやら私は変わってしまったらしい。

 静かな木漏れ日は、気がつけば遥か遠くの木の葉の影が作るようになっていた。視線を上げた先に伸びる木の幹がなす影も、その背丈以上に背伸びをしているようだった。

 

「ふぅ……」

 

 肌寒さを象徴するような風が落ち葉を巻き上げながら吹き抜けていく。私は首筋を覆う紅葉のように照り映えるマフラーに顔を埋めて、もう少しで会えそうな彼との思い出を振り返ることにした。

 

 

 

 関係性で言うならば、同志、とかいうところだろうか。私が幼い頃から嗜んでいる——一時期、見捨てたことのある自分が言うのは烏滸がましいかもしれないが——バイオリンに魂を捧げる、それが彼だった。

 私はMorfonicaというバンドの中でバイオリンを弾いているわけだが、彼はバンドだとか、そういう場で活躍しているわけではない。むしろステージの上で、一人で聴衆を沸かせたり、そういう方向の活動が主だ。というわけだから、彼との絡みもそれほど多かったわけではない。

 だというのに、何の機会だったかで話さざるを得なかった後、彼の方からこれでもかというほどに話しかけられるようになった。事あるごとに、それはもう鬱陶しさを感じてしまうほどに。

 

『八潮さん。帰りにご飯でも』

 

『結構です。会食に時間を費やすのは惜しいので』

 

 何度これと同様のやりとりをしたのか、数え上げたらキリがない。演奏会だとか、バイオリン絡みの外部との接触のその殆どで、こんな一方的な会話のキャッチボールをしたはずだ。

 一度、そういう懇ろな関係になってから聞いてみたこともあるのだが、どうやら彼は私を『底なしに面白い人間である』と思っていたらしい。淡白に接することが多い、彼も例外ではないどころか際立って冷たくあしらったはずなのに、彼がどういうわけで私にそんな判断を下したのかは一生掛かっても理解し得ない気がした。

 そうは言っても、人間の心というのはどうにも複雑なもので、最初は面倒くさくて仕方がなかったその誘いも、回数を重ねるごとに様式美を超えて、誘われることが当たり前となってしまい、ある日、遂に私は肯定の返事をしてしまったのだ。

 どういう風の吹き回しだろうか、彼もそう思ったに違いない。誘ってきた彼の、素っ頓狂な表情は今でもよく覚えている。きっと忘れることもない。言ってしまえば、梃子でも動かなかった私が気が狂ったのか、あれほど断り続けた食事に来ると言ったのだからその反応も当然か。

 

『え、え、え、本当ですか?』

 

『……えぇ。一度、うんと言ってしまったことを覆すのも面倒ですから』

 

『えっ、あっ、夢?』

 

 こんな具合に。

 どんな心情で私もそんな返事をしたのかは覚えていない。もしかしたら本当に一瞬の気の迷いかもしれないし、一度行っておけば今度からはどうとでも言い訳が出来るだとか、彼も私と一緒にいることの心地悪さを実感して面倒な誘いをしてこなくなるだろうとか。そんな戦略的で、浅はかな考えをしていたのかもしれない。

 間違っても、この人となら楽しい時間を送ることが出来る、だなんてのは微塵も思わなかった。絶対に、何があっても、天と地がひっくり返ったとしてもありえない。面白いと思う要素だなんて一つもなかったのだから。

 

『夢じゃないわ。早く行きましょう。時間が勿体無いです』

 

『そ、そうですね! えっと店の場所店の場所……』

 

 私が絶対に断ると思っていたのだろう。気が動転でもしていたのだろうか。慌ててスマートフォンの地図検索を使い出す彼を見て、少し呆れたのは懐かしい。丁度、寒空の下、今もこんなに寂しくも賑やかに立ち並んだ木々の真下に恋人を待たせているのだから、彼はあの時からなにも変わっていないのかもしれない。

 

『決まっていないなら、私も探しましょうか』

 

『い、いや! エスコートするのが男の使命だから!』

 

『男だとか女だとか、食事をする店の場所を決めるのにそんなものは関係ないと思いますが』

 

『正論……』

 

 あまりにも店を探すのに手間取っていた彼を見て、私は安心と呆れの両方を感じた。呆れはさっきの通りだが、安心というのは、自分が身構えたほどに避けられなかったという点のせいだろうか。これは今になってちゃんと分かったことなのだけれど。

 

『えっと、あ、あ、こことか、こことかどうでしょう!』

 

『ラーメン。味の濃いものは嫌いなのですが』

 

『ぐっ……。えっと、あっ、じゃあ八潮さんの好きな食べ物で!』

 

『それなら白た……、いえ、なんでも。さっぱりとしたものなら何でも食べるわ』

 

 危うく私は白玉ぜんざいと言いかけて、口を噤んだ。食事というラインナップの中では、白玉ぜんざいなんてのは候補に上がってくるのも変だろう。確かに自分が白玉ぜんざいに目がないことは理解しているけど、初めて食事を共にする異性の前で白玉ぜんざいというのも、少し気が引けたのだ。

 

『白た……? 白たってなんだ……?』

 

『気にしないでください。さっぱりしたものなら他にありますよね』

 

『白……白た……。あっ、白玉ぜんざい?!』

 

『なっ』

 

 その時の私の顔は、彼曰く見たこともないぐらい面白い表情をしていただとか。きっと瑠唯さんがステージの上でとんでもないヘマをしたとしても、あんな表情になることはない、というお墨付きだ。

 でも、そんな表情になったとしてもおかしくないだろう。まさか『白た』という音だけで『白玉ぜんざい』をピンポイントで当ててくるとは。

 私のその表情を見た彼は、それまでの焦った表情から一転、子どものように目をキラキラとさせていた。これは完全にやらかしてしまったと頭を抱えた私だったけど、手遅れであった。

 

『僕も白玉ぜんざい好きなんです!! 近くに良いお店があるので、じゃあそこで!!』

 

『ちょっと、行くとは』

 

『えっ……』

 

 途端に悲壮感のあふれる表情に変わり、私は大きくため息をついた。最初は私が誘いに乗ったというのに、ちっぽけなプライドめいた何かだけで彼の機嫌を損ねるのも悪いと思ったのだ。

 諦めて私は彼と一緒にその良い店とやらに行ってみることにした。行く、と返事した時、焦った彼に手を握られて駆け出されそうになった時はこれまで以上に私の気も動転しそうだった。指摘をして、彼の手はすぐに離されたけど、掌に残った淡い熱は、すっかり秋めいた外を歩いていても未だに残っているように思える。

 

 彼がお勧めしたお店は確かにすぐ近くにあって、彼の私の機嫌取りのためと思われた言葉尻も、私の考えすぎだったのだと猛省することとなった。その日はいつもとは少し離れた会場だったもので、土地勘もなく、なのに彼がそんなお店を知っていたということは、多分私とは気が合うのだろう、なんてほんの僅かに肚の底で思ったぐらいだ。

 地元の商店街らしき道を抜けて、石畳に舗装された道を歩く。ちょっとした観光名所らしい所の街並みの中にそのお店はあるらしかった。商店街だとかは、性分なのか分からないけど、それほど訪れることもなかったもので、白玉ぜんざいなんて和の塊のようなものを食べに行く前なのに、少しエキゾチックな思いもした。

 

『もう少しで着きますからね! 歩き疲れてはいないですか?』

 

『えぇ。特に不健康だとか、そういうわけではないので』

 

 両サイドの板張りの壁が日本風の家屋であることを必死に主張する道で、そんな過度な心配を受けていたら、どうやらもうそのすぐに店があったらしく、道路に出されたボードが見えた。

 彼が言った通り、白玉ぜんざいをピックアップして集客しているあたり、このお店はセンスが抜群らしい。

 暖簾をくぐると、そこには座敷のように、店内が広がっていた。カウンターの他はほぼ全てが履き物を脱いで上がるようなお店で、客の入りは殆どなかった。時間が時間だっただけに、もっとお菓子を楽しむ人間が居ても良いはずなのに、なんて考えたりもした。

 

『二人で、行けますか』

 

『はいはい。お好きなお席にどうぞ』

 

 店に客が来たことを察したらしいカウンターの奥から、おばあさんが現れる。カウンターの席に座るのも変だと思ったので、彼に連れられるまま奥の座敷の方に上がることにした。

 

『手、どうぞ』

 

『大丈夫です。履物を脱いだりなんて一人でできるので』

 

 彼の過度な心遣いは奇妙ですらあったが、それはどうやらこの時の私が無自覚すぎただけだったらしい。確かに一瞬、先程の会場から連れ出される時のことを思い起こしたのだが、意味がわからないと、自分の中で一気に記憶から掻き消した。そして、そんな彼にマイナスの印象を持ちながらも、彼と相対して座敷に腰を下ろす。

 ある意味では白玉ぜんざいに釣られた私にとっては、なんでもない時間だったのだが、彼からすればそれは緊張の連続だったらしい。後から言われて納得したのだけど、そういえばこの時の彼の話ぶりはなんだかちぐはぐであった。彼は必死に話題を探そうとしていたのであろうが、私の目線はメニューに描かれていた小豆の海に浮かぶ白玉に吸い寄せられていたのだ。

 

『白玉ぜんざい、そんなに好きなんですか?』

 

 注文を終えて、店主らしいおばあさんが去ってから、彼に問われる。もしかするとこのお店を知らなかった彼よりは好きなわけではないのかもしれないけど、それでも自分の好きなものはこれだという自覚があったから、私は静かに首を縦に振った。

 

『いやぁ……でも、八潮さんが白玉ぜんざいが好きって、なんだか意外でした』

 

『意外? 別に、私が何を好きでも良いでしょう』

 

 私の冷たい返しが、彼には怒りを買ったと思わせたらしく、彼は慌てて自分の言葉を取り繕った。人は見かけによらないだとか、見かけだけで判断するな、と暗に伝えていたと思われたらしい。

 

『逆に私は何が好きに見えるのですか?』

 

『え、うーん……。今の話だけ聞いていると白玉ぜんざいに』

 

『バイアスが掛かっていますね』

 

『いやぁ。本当に八潮さんの言う通りで』

 

 彼はどうにか話題を広げようと苦心していたのだろう。彼の口からは、『そういえば』とか、『話は変わるんですけど』、なんて枕詞がそれから何度も飛び出していた。

 彼が苦労したのはある意味では当たり前で。私が今、ここで時間を割いているのは殆ど白玉ぜんざいのためである。決して彼と過ごす時間を楽しもうとしてここに来たわけではない。かといって、どう足掻いても変えることのできないこの状況で、敢えて空気を悪くするというのも考えものだとは思った。ただ、楽しいと思われて、今後もあのしつこいぐらいの誘いを受けるというのはもっと面倒だった。

 そんな葛藤に揺れ続けた私の出した結論は、一旦は彼から出てきた話題に関しては、それなりに相槌を打つなり、適当な返事をすれば良いというものだった。こうすれば注文した白玉ぜんざいが届くまでの時間の退屈を潰すこともできるし、彼もきっと私に興味を失ってくれるだろうという、そういう期待も入っていた。

 私の予想した通り、次第に彼は目に見えて焦っていた。話題をどうにか探そうと店中をキョロキョロとしたりと、挙動不審な行動が目立ってきた。終いには、このお店のテーブルの木目、綺麗ですね、だなんて。凡そ、これから死ぬまでの時間、二度と聞くことのないような話題に、少し笑ってしまいそうになったぐらいだ。

 

『お待たせしました。白玉ぜんざい一つと、特大白玉ぜんざい一つです。ごゆっくりどうぞ』

 

 彼と私の間をはっきりと沈黙が支配するようになって数分も経たないうちに、ようやく運ばれてきた白玉ぜんざいは、その器からして相当なものだった。僅かに湯気が立ち上っているその中を覗き込むと、大粒のほぐれた小豆が一面を埋め尽くして、そこに島のようにいくつもの白玉が積み重なっている。何よりすごいのはボリュームに見た目。彼の頼んだ普通のものとは明らかに迫力からして違う。

 この時ばかりは、私も今日彼と食事に来てよかった、なんて思ったぐらいだ。彼が誘ってくれなかったら、こんな豪勢の限りを尽くした白玉ぜんざいを知ることもなく、そこそこの演奏に満足感を得ただけで帰ることになってしまっていただろう。

 

『特大すご……』

 

 彼が大きく目を見張るほどのインパクトの白玉ぜんざい。私はまるで見せつけるようにして食べ始めることにした。中身自体は普通のものと、特大とで変わるわけではないのだけど、私にとっては特別感と、高揚感を掻き立てるだけの何かがあった。

 

『どうしたんですか? 食べないのですか?』

 

 私が眼前に届いた特大の白玉ぜんざいに舌鼓を打って暫く、彼はどういうわけだか、微動だにせずに私の方を見つめるばかりだった。美味しいものを食べているから気にする時ではないとは思いつつも、見られながら食べるというのも少々居所が悪く、声をかけることにしたのだ。

 彼はぜんざいに手をつけることもなく、ニコニコとこちらをぼんやりと眺めるばかりで、さっきのような焦った姿もなくなっていて、不思議に感じた。

 

『食べますよ。けど、折角から、と思って』

 

 何が折角なのか分からないけど、彼はそう言ったっきり、また私の姿を眺めるばかりだった。

 ただただ不思議だった。彼は私と一緒にこの白玉ぜんざいを食べに来たわけではないのだろうか。ならば、この美味しいぜんざいを堪能することに集中するべきだろう。

 彼が食べない間にも、気がつけば私の目の前の器のぜんざいは既に半分ぐらいが私のお腹の中へと消えている。だというのに、彼には一向に食べ始めようとするそぶりが見られない。この際見られているのはどうでも良くなっていて、ただ私の頭の中には彼への疑問などがひっきりなしに頭の中に浮かんでは消えていった。

 

『そういえば、どうして私をこんなにもずっと誘ったの?』

 

 その時、この日初めて、私から彼に話題を持ち出したかもしれない。ただ単に純粋な疑問。きっと彼は何度も何度も私に断られ続けて、普通の人間なら、いつまでもつれない私に痺れを切らして、離れていってもおかしくはない。私はそれまで、数え切れないほどに彼の誘いを無碍に断ってきたのだから。

 だというのに、彼はどうしてそんなにも私を誘うのだろうか。

 

『誘ったって、ご飯に?』

 

『はい』

 

『八潮さんをご飯に誘うのが、そんなに変でしたか?』

 

 はっきり言ってしまえば、異常だってぐらい突き放してしまっても良かったかもしれない。ただ、どこか心に引っかかったからか私はそんな強い言葉は飲み込んで、静かに頷くのに留めた。

 

『今日も話題が尽きて困っていたでしょう? 冷たくあしらっていた私が言うのもなんですが』

 

『いやまぁ。八潮さんを楽しませられてなかったらって思うと』

 

『……よく分からないけど。つまらないでしょう? 今日も』

 

『そんなっ、それだけはないですよ』

 

 敢えて否定的な言葉にしたのに、彼は思った以上に食い気味だった。それまでどこか私と目線が合えば逸らしていたはずの彼の瞳は、真っ直ぐにこちらを向いていた。

 

『私も話もしないし、つまらない時間は無駄ではないですか?』

 

『無駄ではないです、絶対に』

 

 本当に訳がわからなかった。彼にとって、一体この時間に何の意味があるというのだろうか。良い店だと紹介した、その店の絶品のぜんざいを食べるでもなく、こんな淡々と突き放そうとする私との会話の時間を無駄ではないと言い放つ、彼の考えが少しもわからなかった。

 

『八潮さんと過ごす時間に、無駄な時間なんてないです』

 

『……ぜんざい、冷めるわよ』

 

 暫く押し黙っていた私に言われて、彼はすぐにぜんざいを食べ始めた。私もそれに歩調を合わせるように、ほぼ同時にぜんざいを完食することになった。

 会計も終わり、店を出て歩き始めた私。隣を歩いていた彼は、あの、と言って私を呼び止めた。

 

『これからも誘い続けますよ、僕は』

 

『……そう』

 

 

 

 彼は、その言葉の通り、本当に変わらずに私を誘い続けた。しかも巧妙なことに、彼は行く先々の会場の近くの甘味処を調べてくるので、私も断り辛くなっていた。申し訳なさと、目先の甘味に眩む心と、彼の私にはない何かで、考えが混沌とし始めていた。

 そして私は、断ろうと思っていたはずが、大体、ほぼ毎回彼と一緒にどこかの店に繰り出していた。自分でもどういう気持ちの変わりようなのかは分からない。

 そして、毎回違うお店へと導かれて、そこでぜんざいに限らず甘味の類を食して、実に十数回になったある時、遂に聞いてみることにしたのだ。直接。

 その日は確か、ショッピングモールの中にテナントとして入っていたお店とかだっただろうか。彼は一方的に様々な話を続けながらも、テーブルに届いたものを少しずつつまみながら、私の様子を窺っているようだった。

 

『あの』

 

『え、どうしたんですか?』

 

 彼の話を聞いて、私が適当に返事をしたりとするのがいつもの光景となっていたからだろうか。私が彼の話を遮って話し始めようとした瞬間、彼は眉をピクリとさせていた。

 

『いつも、私を誘ってくれるのは嬉しいのですが、何のために来ているんですか?』

 

『何のため?』

 

『このお菓子を食べるためなら、一人でも良いと思うのですが』

 

 すると、彼はなるほど、と言わんばかりに何度か頷きながら口を開く。

 

『八潮さんと一緒に食べることに意味があるんですよ』

 

 彼のその意見を、ただ無駄な時間ではないかと斬り捨てるほどのことは、いつのまにか出来なくなっていた。ただ、そうだとはしても、いくら回数を重ねても態度の変わらない私に執着して、時間を浪費する彼の行動の意味は分からなかった。

 

『分からないんです』

 

 私の判断基準は、いかに効率的であるか、即ち意味があるかどうかだった。彼がそこまで必死になって、私に時間を割いて、足掻く意味は全くもって分からないのだ。それだけじゃなかった。自分がわざわざそんな彼の得体の知れない努力に付き合っている意味も分からなくなっていたのだ。

 

『私と一緒に、お菓子をこうして食べている時間で、バイオリンを練習するなり、もっと色々できることがあると思うのですが』

 

 私は思っていたことを全てぶちまけた。この時間の意味を、考えても答えの出ない問いに終止符を打つために。

 彼は数秒ぐらい俯いて、そして答えが出たらしく、清々しい表情のまま語り始めた。

 

『時間って無駄にすることにも、意味があると思うんです』

 

『無駄にすることに意味があるとは、矛盾しているのでは』

 

『ははっ、そうかもしれないですね。でも、この時間は無駄じゃないんですよ。僕が、八潮さんと過ごしたいと思った時間ですから』

 

 彼は、お菓子を食べるというのも目的の一つではあるけど、口実みたいなものです、なんて戯けて笑っていた。その純粋で卑怯な瞳に僅かであっても心を奪われてしまったのは、酷く非合理的で、それでいて合理的だった。

 

『僕は、八潮さんといる時間を過ごすために、労力をかけているだけですから。だからこの時間は、無駄であって、無駄じゃないんですよ』

 

 丁度食べ終わっていた彼は私も皿が空なのを一瞥すると立ち上がって、行きましょうか、なんて声をかけた。彼が差し出した手を自然と取った私は彼と目があった。いつもはそう意識をすることもなかったが、彼は私より少し目線が高いらしい。訳も分からないまま、私は彼から目を逸らした。

 会計を終えて、店を出た私たちを支配していたのは、何度目か分からない沈黙だった。今回ばかりは、私もまるで考えがまとまらず、何も話題という話題が出てこなかった。今思えば、さっき食べたものに対する感想を言い合ったり、どうとでもなるはずなのに、その時は本当に何も頭に思い浮かばなかったのだ。きっと、初めて私と出かけた時の彼は、ずっとこんな気持ちだったのだろうと、申し訳なさすら感じられる。

 

『八潮さん』

 

『はい、何でしょう』

 

『手、繋ぎませんか』

 

『手?』

 

 頭が真っ白だった私は名前を呼ばれて、数瞬遅れて反応した。彼はとてもゆっくりと手を差し出してきた。いつもの私なら多分、歩みを止めないまま彼と会話を続けるだろうに、どうすれば良いか分からずに困惑した私は足を止めて、彼の顔と手を交互に見比べていた。

 

『肌寒いなら、少し手を繋ぐのも良いかもなと思って』

 

『肌寒いなら……なるほど』

 

『一緒に歩くだけなら、時間もそう変わらないですよね? だから、どうですか』

 

『……分かりました』

 

 彼の言う通り、手を繋いで歩くだけなら、繋がずに歩くのと時間は何も変わらない。だから深い意味だってない、そう甘い考えで彼と手を繋ぐ。

 そして、二人で足並みを揃えて歩き始めた訳なのだが、私の予想は甘かった。深い意味はないなんてのは嘘で、手を繋いで、そこから感じ取れる熱以上に、私の体を正体不明の興奮と動揺が襲ったのだ。

 

『……どうして、手を繋ぎたいだとか、私を食事に誘ったり、したんですか?』

 

 歩き始めて少しして、さっきの彼が沈黙を掻き消した時のように、私は口を開いた。柄にもなく、その時の自分の声は震えていたことを覚えている。

 

『八潮さんのことが、好きだからです』

 

 冷たく済んだ空気の中を、そんな彼の芯の通った声が震えて伝わっていた。私のこれまで人生で得た知識では、それに対する答えというのはさほど効果的なものはなかった。いや、違う。知識としては持っていても、当事者になることは想定されていなかったのだ。その答えはもはやアドリブといっても差し支えなかったろう。

 

『そう、ですか』

 

『返事は?』

 

『……考えておきます』

 

 逃げと言われても仕方がない。それまでの自分ではまるで対応が出来なかったのだ。彼を好きなのかどうかと問われても、そんなこと、私には分かり得ないのだから、答えようがないのだ。

 彼は少しの間、静かに何ももの言わなくなっていたが、チラチラとこちらの顔を覗き込んで、クスリとだけ笑った。

 

『ゆっくりで、大丈夫ですよ』

 

 

 

 それからも、私と彼のお出かけは続いた。それまでは甘味を求めて探し歩いたりばかりだったのに、他にも一緒に買い物に出かけたりと、より親密な関係になっていた。今考えれば、それはおそらく当然だった。

 出かけるたびに、毎回のように手を繋いだりはしたし、おそらく、一般的に言われる恋人という関係でするようなことは、一通り経験したようにも思える。改めて告白された時の様子は……。……これは敢えて思い出すような必要もないだろう。ただ、一つ言えることがあるとすれば、私にとって彼と過ごす時間は貴重で、かけがえのないものになっていったということぐらいである。

 木枯らしがふぅと吹き抜けていった。私はその風にハッとするように、辺りを見回そうとした。だけど、見回すよりも先に、目的の彼はそこにいた。

 銀杏並木に隠されていたかのように急に現れた彼は、私に時間を無駄にすることの意味を教えてくれた彼だった。

 

「お待たせしました、瑠唯さん」

 

「遅いわ。五分遅刻ね」

 

 私は改めて銀色に光を反射していた時計の文字盤を見つめる。とても長い時間、彼との出逢いの思い出を振り返っていたようにも感じられたけど、実際に経っている時間は十分もないぐらいだったらしい。

 あれほど長い私と彼との邂逅を十分間で楽しめたと考えたら、それは皮肉なことに恨めしいぐらい効率的らしい。

 

「五分、誤差みたいなものじゃないですか」

 

「一秒でも遅れた時点で誤差ではないわ」

 

「そんなぁ……」

 

 待ち合わせの時間との差の五分は、私にとってとても大きな無駄であったけれど、彼の言い分によれば全然無駄だというわけではないらしい。子供騙しの論理に危うく引っかかりそうになった自分は熟甘くなったなと考えずにはいられない。

 彼を待つ時間は無駄ではない、彼に教えてもらったことによればそうなのかもしれない。けれど、今の私にとっては、無駄とまでは言わずとも、勿体ないこと極まりない時間となっていた。私は変わってしまったらしい。

 

「だって、貴方と会う時間がそれだけ減ってしまうのは、勿体無いでしょう?」

 

 きっと、今の私の表情は、かつてでは考えられないほどに柔らかな笑顔を浮かべているだろう。私は彼の凍えた手を取る。そして、その減ってしまった時間を惜しむように早歩きで歩き始めた。

 彼に教えられて、私は変わったのだ。無駄を楽しむ。ただ、彼と過ごす時間は、喩え一瞬たりとも無駄ではないのだ。

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