ガールズバンドたちのBirthday   作:敷き布団

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【チュチュ】プロデューサーに小休止を

 コツコツとワタシの足が鳴らす音だけが無音の廊下に響いている。まるでそこにはワタシ以外の人間が誰もいないのではないかと錯覚するほどの静けさであった。周囲の建物とは比べ物にならない高さを持った高層マンション。そこがワタシの住処であり、ワタシのRAISE A SUILENの居場所でもあった。

 高層マンションの防音性というのは大層なもので、この廊下にいても部屋の中から誰かがいるような、騒ぐような声は何も聞こえない。そんなものとは関係なしに、人気のまるでない廊下というのは単調なものだった。

 

「今日はパレオは……あぁ」

 

 玄関のドアを開けたら、すぐにでもパレオを呼びつけようかとも思ったのだけど、なんだったか今日は急用とやらでいないと昨日言われたことを思い出した。パレオがワタシの世話を放棄して向かうだなんて相当な用なのだろうけど、文句をつけても居ないものは仕方がない。去り際にこれ以上ないほど笑顔だったのは少々気にかかるけど、どうせPastel✽Palettesのイベントがどうとかそんなところだろう。

 どことなく暗くなった心を慰めるように、マンションの廊下の方をチラリと見やった。でも、マンションの廊下もワタシの心を慰めるには少々つまらない。外の景色はそれはそれは眺めも素晴らしいものだろうけど、廊下から外を見下ろすことは出来ない。暗く沈んだ気持ちを落ち着けるような晴れやかな外を見るには、自分の家の部屋の窓が一番らしい。

 

「嘆いても仕方ないわね」

 

 いつのまにか溜まっていたらしいストレスを赤い髪にぶつけて、ドアを開ける。ガチャリという解錠の音に合わせてため息を吐きながら部屋に上がる。

 先程とは違い、温かみのあるフローリングの廊下。ただ、季節柄なのか、どことなく廊下の足元の空気は冷えている気がする。さっきまではもっと冷たい空気で溢れた外にいたはずなのに、今の方が寒く感じてすらいる。

 リビングでは、外からの灯りもなく、暗い部屋が広がっていた。帰り道では徐々に陽が落ちて、既に夜と言えるような時間帯になっていたせいで部屋が暗いのは想像通りなのだけど、まるで綺麗に見えるのは遠くの外の夜景だけだったらしい。

 

「ライトは……どこ?」

 

「ここだぞ」

 

「Eek?!?!」

 

 ワタシが暗い部屋の照明のスイッチを探していると、突如として部屋が明るくなり、背後から声が聞こえた。あまりに突然な周囲の変化にワタシは思い切り叫び、腰が抜けそうになるのを必死に堪えて、振り返る。そこにいたのは。

 

「ビックリしたじゃない!! どーしているのよ!!」

 

「どーしてもなにも、世話を頼まれたからな」

 

「そういうことじゃないわ! いきなり驚かすようなことをしないでっていってるのよ!!」

 

 お化けとか幽霊とか、そういう非現実的な類の存在ではなかったからまぁ良かった。まるで見たこともないような見知らぬ人間とかでもない。知り合いどころか、もう少し深い関係値の人間であったのだけど、今日、この場にいるだなんてのは何も想像すらしていなかった。そういう意味ではお化けと遭遇したのと大差はない。

 とにもかくにも、ワタシからすれば嬉しくも恐ろしい経験だったわけだけど、あまりに驚かされて、敵意剥き出しになっても仕方がない状況だ。どんな事情があれど、噛みつかれてかも文句は言えない。

 

「まぁまぁ、驚かせたのは悪かったけど。部屋の電気探してたんだろ? つけただけじゃんか」

 

「だから! ……って、はぁ。もういいわ。怒るのも疲れたわ」

 

 ワタシがライトを探していたとか尤もらしい理由をつけた彼は何も悪びれる様子もなく笑いながら、ワタシの横を通り抜けてソファへ。ワタシより歳こそ数個上だからと言って、こんな態度を取られちゃ積もるものもあるというもので、言葉を何度も飲み込んで一息ついた。

 

「それで、世話を頼まれたって?」

 

「そりゃ、パレオちゃんから」

 

「あー……そう」

 

 パレオが昨日の去り際に笑顔だったのはどうやらPastel✽Palettesではなくこういうことだったらしい。こうなることを見越していたかまでは知らないけど、敢えて言わなかったということは面白がっていたに違いない。今度グチグチと不満をぶつけまくってもいいだろう。

 彼がこの場にいるのは、パレオが今日は世話ができないからというより、彼に世話をさせるためということらしい。そもそもワタシが一人ではまともな生活が送れないのが問題だとか言われそうだけど、そんな話はナンセンス。

 

「昨日のお昼にお願いします〜、って連絡が来たからな。あとちゆには秘密でって」

 

「パーレーオ……」

 

「嫌だったのか?」

 

「嫌とは言ってないわよ、嫌とは」

 

 嫌というよりは癪なのである。パレオの掌の上で転がされてるような感覚がするのも嫌だし、もっと言うと、彼の前で感情のままに変な態度を取ってしまったことへの後悔なんかもあるだろう。

 彼が今日家に来てくれたことが嬉しいか嫌かと問われればむしろ前者である。ただ、わざわざワタシを驚かせてその反応を楽しむみたいな性格のひん曲がったコイツに素直に嬉しいというのはそれはそれでもっと嫌である。

 

 行き場のない感情をどこにぶつけることも出来ないまま、ワタシはとっとと洗面所の方へとそそくさと逃げることにした。彼から離れて、冷たい水道水に触れて心を落ち着かせる。数分もしないうちに、さっきバクバクと暴れ出しそうだった心臓はその脈拍も落ち着いてきた。

 洗面台の前に鎮座している鏡にチラリと目をやった。さっきまで寒い空間を歩いて帰ってきたワタシの頬は少し赤らんでいる。そう、これは寒さのせいなのだと自分に何度も言い聞かせている。現に、この洗面所だって、他の部屋だって外気よりはマシだとはいえ少々冷たい空気だ。

 鏡の上に取り付けられた電灯がワタシの顔をより鮮明に照らす。自分の顔をマジマジと見れば見るほどワタシの顔は赤さがます。見つめてはいけないと分かっているのに見てしまうのは何故だろうか。ワタシはこの数分の思考を全てリセットするために、首が千切れるのではないかと思うぐらい全力で首を横に大きく振った。

 

 部屋に戻ってきたワタシは部屋がいつのまにかさっきよりほんのり暖かくなっていることに気がついた。低く響く音からするに暖房をつけてくれていたのだろう。さっきと変わらずにソファの上に優雅に座り続ける彼のさりげない優しさに胸の中では感謝して、一方で素直になるのも憚られたもので、無言のまま、広々としたソファの彼の横に座った。

 

「おかえりちゆ」

 

「挨拶が遅いわ。その言葉はワタシが帰ってきてすぐに言うのよ」

 

「帰ってきてすぐに話しかけたらちゆが怒ったんじゃないか」

 

 怒られるようなことをしたのはお前だ、なんて反論しようとも思った。けど、言い争いをするような体力もなかったワタシは呆れたようなため息で暗に反論するだけにしておく。

 彼はワタシの反論を気にかけることもなく、テーブルの上に置いてあった、湯気の立ち上るコーヒーを口につけて、部屋の向かいのテレビを見ていた。テレビはついていないから、当然音も出さず、光も出さない。

 彼の手元を目で追っていると、ワタシの目の前のテーブルにもマグカップが置いてあるのを見つけた。湯気でその奥のテーブルの向かいが少しだけ歪んで見えた。多分彼が淹れてくれたのだろう。ホットミルクだった。

 

「晩御飯は食べたの?」

 

「えぇ。今日はパレオはいないって知っていたから。マスキングに連れて行ってもらったわ」

 

「そっか、じゃあ俺の仕事はほとんど終わりか」

 

 少しばかり悲しそうな声色で彼がつぶやく。その言葉にワタシは少しだけ外でご飯を食べてしまったことを後悔する。パレオだって、マスキングたちに彼が来ることを伝えてくれたっていいのに、なんていう恨み節も同時に思わず浮かんでしまう。

 彼が来ると知っていたら、ワタシはきっと一目散に撤収して、待ち遠しい遠足を控えて眠れない子どものように彼を待っていたのだろう。それはそれで情けない話だけど、自分の欲望に嘘をつくことはできない。

 哀愁漂う彼の声に、少しだけ寂しさを覚えたワタシは彼が今日、この晩をどうするのかだけが気になった。

 

「今日はもう帰るの?」

 

「それはつまり帰って欲しくないってこと?」

 

「なっ。違うわ、一応、一応聞いただけよ」

 

 真っ直ぐ言い当てられるとは想定もしていなかったもので、それを隠すように彼を睨みつける。余裕綽々な彼の笑顔には少し腹が立つ。でも、ワタシの考えていることが少なからず伝わっていることの嬉しさもあって、両方の感情がワタシの心の中で騒いでうるさくなっていた。

 でも、彼はワタシの方を見つめて何かを言うでもない。多分これは、暗に素直になれという命令じみたものらしかった。

 

「そういうことでいいわ。そうよ」

 

「うーん。まぁそれで許そうか」

 

 根気比べはワタシの負け。彼の方は心底楽しそうであるが、勝ち誇るとかそういうことでもないらしい。それはそれでワタシからすれば勝者の余裕のようなものを感じるけど、どうやら敵わないということで諦めるほかない。

 

「さて、ちゆがご飯いらないなら、俺はやることでもやろうかな」

 

「やること? アナタのdinnerは?」

 

「省エネだから、一食ぐらい食べなくても問題ないんだよ」

 

 笑いながら自信満々で胸を張る彼の体は確かに細かった。一応成長期であるはずなのに、筋肉がつき始めているだとか、徐々に男性らしい体つきになっているだとかそういうことはなく、むしろ心配になるような線の細さだ。

 言われてみれば、彼に生活の世話をされて、その中で共にテーブルを囲むようなことは幾度となくあったけど、彼は相当な少食だった。そんな食事量で一体全体どうやって活動しているのかと疑いたくなるほどに。彼もアクティブではないし、むしろインドアな性格だから運動量は少ないのだと誤魔化されることが多かったけど、改めて考えたら心配になるのは当然なぐらいだ。ジャーキーを主食として生活しているワタシが健康のことだとかを言えたものではないかもしれないことはさておき。

 

「ま、今から晩飯を作るのも時間がかかるし、折角作ってもちゆが食べないなら要らないからな。明日の朝食べたら済む話だし」

 

 彼もワタシが帰ってくるのを見越してご飯を作っておいたわけじゃなかったらしい。多分彼の中ではワタシと一緒に食べるのとか、そういうつもりだったのか。尚のこと何も考えずに外食に走ったことが悔やまれる。

 でも、彼は言葉とは裏腹に落ち込んだりだとか、そういう態度は見せずに意気揚々と立ち上がって、やることとやらを済ませにリビングを後にしようとしていた。どうせやることとやらはワタシが普段していることとそんな変わりはない。だから黙ってワタシは彼についていくことにした。

 二人で来たのはスタジオ。いつもならRASのみんなと過ごすことが多いけど、彼と二人の時は当然ワタシと彼の二人で使っていることも多い。ワタシがRASという、最強のガールズバンドのプロデューサーであるのと似たように、彼も謂わばワタシと同じく、音楽というクリエイティブなものを生業にしている。ただ、彼の場合は自分がその音楽を作り、自分で奏でようとしているわけだけど。

 

「よいしょ、っと」

 

 持ち込んでいたらしいギターを彼は取り出すと、そこら辺の椅子に座って早速とばかりに弄り始めた。近くのカバンの中からは、紙が何枚も入っているファイルがチラリと顔を覗かせている。

 

「ここでいいの? 中使っていいわよ?」

 

 ワタシがガラスの中の方を指さすけど、彼は首を横に振るだけだった。スタジオの奥では、楽器のスタンドがいくつも並んで、奏者が来るのを待ち構えている。

 

「いいや、今日はそんなしっかりと音を出すわけじゃないから」

 

 要は曲を作るからここまで来た、ということらしい。残念ながらその役目を果たすことのなかったスタジオ内への扉を閉めて、ワタシはテーブルを挟んで彼の向かい側に座る。

 彼は体の横をテーブルに預けながら座っているから、こちらからでは彼の横顔しか見ることはできない。ただ、その表情は真剣だった。

 やがて彼は件のファイルを重そうに取り出した。そして、それを四角いテーブルの上に出す。出した瞬間の、ドン、という音はそのファイルに挟まった紙の重さを端的に伝えていた。どうやら見た目通りの重さをしているらしく、そんな大量の紙を抱えたファイルは既に接合部分が限界のようにすら思える。

 

「少し見ていい?」

 

「んー。どうぞ」

 

 彼は今日使おうとしている紙の束だけを乱雑に引っこ抜くとファイルをこちらへと渡す。彼が三分の一ほど引き抜いたわけだけど、それでもこのファイルに入っている紙の量は膨大だ。そんな膨大な紙の束の上から数枚を引き抜いて目を通す。

 それは五線譜の書かれた楽譜だった。シンガーソングライターである彼からすれば、まさに命と同等のもの。プリントなどではなく、彼が直接書き込んだものであることはすぐ分かった、努力の結晶であった。

 何度も細かい部分が修正されて、鉛筆か何かで書き込んでは消され、書き込んでは消されを繰り返したらしい。紙のあちこちが黒ずんでいて、その部分を持ったら黒鉛の部分が手につきそうなほどの場所もある。

 

「見ても面白いか? いつも聴いてるだろ」

 

「ワタシが面白いと思って見ているのよ」

 

「ふーん」

 

 さっきまでと比べれば彼の反応が少々淡白になってしまうのは仕方がない。好きなものに夢中になっていれば、それ以外に対して反応が薄くなるのは人間の性というものだろう。きっと本気でRASの音楽を作っている時のワタシもあんな感じだからだ。

 ただ、ワタシの家にいるのに少しばかり冷たいのはなんだか寂しさもあって、それを埋めるようなつもりでこの部屋に来ているということもあった。そんな自分は恐らく心が弱くなってしまっているのだろうけど、少しでも気を引こうと彼の生み出した息吹を手に焼き付けているのである。

 

「これで何曲目?」

 

「うーんとね」

 

 ワタシが何度目かの質問を彼に投げかけると、ようやくひと段落ついたのか、彼が紙の束の一番下の紙を取り出した。それは一応彼が目次のようにして使っているものらしく、このファイルに何が入っているかを記しているらしい。

 

「今月に入ってだと、十?」

 

「……本当、よくやるわね」

 

 このファイル、驚くべきことにどれもが十二月が始まってから彼が生み出したものらしい。単純に考えても、これを参考に今年の分全てを紙として残していたら、大きな本棚の一段分、いや、二段分はくだらない。相当なスピードで音楽を生み出していなければそんなことはできないだろう。もちろんどれもが最高の出来だとか、そういうことはないのだろうが。ただ、その根気はワタシももう少し見習った方がいい部分なのかもしれない。

 

「まぁ……流石にそろそろね。今日はこれが出来たら終わりにしようかな」

 

「何分ぐらいかかるの?」

 

「多分、一時間はかからないかな」

 

「分かったわ」

 

 ワタシは諦めて、彼の対面の椅子から立ち上がる。彼がここまで来て、こんなオーラを出しながらいるということは相当集中するということだろう。ワタシがここにいたところで、彼のために何かができるわけでもないし、構ってもらえるわけでもない。それなら他のことをした方がまだマシというものだ。

 彼のいるテーブルとは少し離れた機材の前の椅子にまで移り、ワタシはワタシでRASのことを考えることにした。

 家に帰ってきてから一度もつけていなかったヘッドホンをつけ、気合を入れ直す。さぁ、後は集中するだけだ。

 

 そんな風に考えていたのだけど、今ひとつ頭は冴えなかった。別に頭の片隅に、少し離れたところにいる彼のことを思い浮かべて気が散っただとか、そういうことではない。RASのプロデューサーの名にかけてそんなことはないと言える。ただ、どうにも考えがまとまらないし、出てこないのだ。有り体に言えば、インスピレーションが湧かないだとかそういう類いだろうか。

 少しだけ頭をリセットしようと顔を上げて部屋を見回す。彼は変わらずテーブル横で云々と唸っている。他に誰の人影もなく、広いようで狭い部屋の中は二人だけの空間が続いていた。この壁の向こうには刺激的で煌びやかにも見える街が広がっているのだろうけど、そんなところに発想を飛ばせるほどワタシの頭はクリアにはなっていなかった。

 

「あぁぁ……。なんなのよ……」

 

 無意識のうちに呟いていたマイナスな言葉と一緒に、ワタシは後頭部の赤髪も何度も掻きむしっていた。なかなかいいアイディアの思い浮かばないワタシのストレスの発散のようなものだった。

 こんな風に八つ当たりをしたところで何も解決しないとは分かっていても、何も出来ない自分に腹が立ったり、焦ったりしてこうなってしまうのは仕方がないだろう。そんな風に自分を宥めるのが精一杯で、もはや何も自分に期待できそうになかった。

 

「落ち着いて、ちゆ」

 

「What?! 何?!」

 

 そんなワタシの思考を遮った声は、またも彼だった。完全に思考世界に入り浸って四苦八苦していたワタシからすれば、現実に一気に引き戻されるも同然だった。集中していたかと問われれば自信はないけど、一応集中はしていたのだから邪魔はされたくなかったもので、彼に文句の一つでも言おうとした。でも、それよりも早く。

 

「ちょ……っと……」

 

 彼の抱擁がワタシを包み、ワタシは完全に沈黙するほかなかった。いつのまにかこの部屋はこんなに寒かったのだろうか。そう疑ってしまうほどには彼の抱擁の温かさは語り尽くさないようなものだった。

 

「……なんで」

 

「ちゆがなんだか苦戦してそうだったから」

 

「ワタシはいいのよ。自分のことは終わったの?」

 

 正直に言えばワタシが気になったのはそっちかもしれない。ワタシが悪戦苦闘しているのはよくよく考えたら彼に構ってもらえないと分かったからなわけで。改めて考えると自分の幼稚さというか、子どもっぽさを実感して頭を抱えたくなるけど、不満があるのは嘘ではなかった。

 

「うん、終わったよ。さっきね」

 

「っ、早いのね」

 

 壁の端っこの方に目立たないようにつけられた時計の文字盤は、この答えのない懊悩が一時間以上も続いていたことを示していた。そりゃあワタシもここまで疲れているわけだ。

 

「……遅いのよ」

 

 そんなワタシの導き出した答えは彼への悪態である。子どもっぽいだろうか、なんとでも言えばいい、ワタシは機嫌が悪いのだ。でも、そんなワタシの八つ当たりにも彼は飄々としているようだった。もっと正確に言えば、目を細めて、温かく見守るようだった。

 

「ごめんごめん」

 

「いいわ、もう」

 

 言葉尻だけ見れば、ワタシは完全に拗ねた子どもなのだけど、心はそれほど子どもというわけではなかった。体が少しばかり熱っているのが自分でもわかる。別に発情しているだとか、彼に欲情しているだとかそんな汚らしいことではなく、もっと初心な何かだった。

 そこまで思考が整理されてしまうと、なんだか気恥ずかしくなってしまって彼とは目も合わせられなくなる。それを誤魔化すために、ワタシは彼から逃れようと身動いだ。彼もワタシの考えが分かっているのか、ゆっくりと名残惜しそうに腕を解き、ワタシのすぐ隣に丸椅子を引いてきて腰掛けた。

 

「それで、ちゆはチュチュになってたわけだ」

 

「Huh? どういうこと?」

 

「RASの音楽、作ってたんだろ」

 

「えぇ。そうよ。アナタが真剣そうだったのに邪魔しちゃあ悪いでしょう?」

 

 敢えて彼に責任をなすりつけるような意地悪な言い方をする。でも、それすらも呆れ半分ぐらいの表情で彼は乾いた笑いを残す。

 

「そりゃあ優しいことで。で、上手くいかなくてあんなに唸ってたわけだ」

 

「……そんなに唸ってた?」

 

「そりゃあもう、猛獣みたいな」

 

 ワタシを笑わせたいのか、怒らせたいのか知らないけど、彼は戯けて両手を軽く拳にして、顔の横に突き出し、肉食獣のような真似をする。ワタシは何も触れずに立ち上がり、彼の残してきたギターや楽譜の置かれたテーブルに逃げた。

 落胆の声みたいなものが彼の方から聞こえてくるが無視して、その上に置かれた紙を手に取る。鉛筆も転がっているから多分これが彼が今日必死になって作っていた曲なんだろう。その下の紙も曲の続きらしいから、続けて手に取った。でも何枚かめくっていくと、途中で明らかに不自然に小節の途中で譜面が切れている。

 

「ちょっと、出来上がってるの?」

 

「あはは、ごめんなちゆ。嘘なんだ」

 

「……はぁ。呆れたわ」

 

 その時、多分ワタシは心の底から落胆していたのだろう。彼が構ってくれたのは完成したからとかではないということらしい。さっきから一喜一憂ばかりしている自分がアホらしくなってきた。

 しかもこんな中途半端な部分で止まっているということは何かで行き詰まっているとかそういうことでもなさそうだ。完全にワタシの予想だが、彼の作業の手を止めてしまうぐらいにワタシの様子は酷いものだったのだろう。

 

「ワタシは戻るから、完成させておくのよ」

 

「まぁまぁ待ってって」

 

「何よ……って」

 

 呆れ果てたワタシは肩を落としたまま曲作りに戻ろうとしたのだけど、それを呼び止めたのは他でもない彼だった。そして、立ち尽くしたワタシの背中から、彼は上から包み込むようにワタシを抱き締めていた。

 

「……これじゃ作業が進まないわ」

 

「どうせ進まないのに無理してもしんどいだけだろ?」

 

「誰のせいだと……」

 

「ごめんな、俺も中々に苦戦してて、続きが思い浮かばないんだ」

 

 彼の言い訳は空虚に聞こえそうなものだけど、彼の様子から察するに実際に彼もそろそろ限界ということらしい。それはまぁ、彼の普段のパフォーマンスと今とその成果物を掛け合わせてみればすぐに理解できることではあった。

 

「それで、どうしたいの?」

 

「ちゆも良いアイディア思いつかないんだろ? 違うか?」

 

「……そういうところだけは聡いのね」

 

 彼の方が幾分か精神年齢が高いというのは事実らしい。ワタシはため息をついたのだけど、彼はワタシを離すことはない。

 

「思いつかないから、もう少し悩む時間が要るわ」

 

「悩んでも答えが出ないのに?」

 

「じゃあどうしろって」

 

「インスピレーションが湧かないなら、他のことで気晴らしも大事ってことだよ」

 

 彼の腕の力はより一層力を増した。ワタシは抵抗を諦めるように彼に体を預けた。実際、彼の言うことも一理あって、何も言い返せることはなかったのだ。

 

「……生憎ね、ワタシは恋愛の歌を作るつもりはないけど」

 

「俺は作るよ」

 

「ワタシの話よ。RASの曲で」

 

「何も俺は恋愛の曲を作れなんて言ってないよ」

 

「……はぁ。そう」

 

 彼の言いたいことがなんとなくでも分かるような気がした。さっきまで、機材の前にいた時にははやるばかりで仕方がなかった脈拍が、今はただ段々とゆっくりになっていることが実感できた。

 

「なんでちゆは恋愛」

 

「うるさいわね。黙ってワタシのことを抱き締めなさい」

 

「了解しました」

 

 途端に静かになる彼。ワタシはそれに安心したように抱き着いた。焦ったところで仕方がないのだから、こういう寄り道も必要なんだろう。彼の右の掌が少し長く伸びたワタシの髪を撫でている。こうしているだけで、なんだかさっきまで早く過ぎていくような時間が、穏やかに流れているような気がした。

 

「ふぁ……ぁ」

 

「ちゆ、眠い?」

 

「まだ……いえ、ちょっとだけね」

 

「そっか。もうこんな時間なのか」

 

 帰ってきた時はまだ空の色も青に染り切ってはいなかったけど、多分彼の口ぶりからして、外の色はすっかり濃紺になっているのだろう。ワタシの思考がゆっくりとしていくのも、そう考えたら当たり前だろうか。

 

「お風呂入って寝ようか。寒いからお湯を沸かしてくるよ」

 

 彼はもう一度強くワタシの頭をクシャクシャと撫でると部屋を出ようとする。でも。

 

「……ワタシも連れて行って」

 

「お風呂まだ入らないぞ?」

 

「いいのよ」

 

 子どもが親に甘えているように見えてしまうのだろうか。それとも恋人に甘えているように見えるのだろうか。そんなことを気にするほどの余裕はワタシにはない。ただ、今彼に置いていかれるのは少し怖くて、それを隠すように強がっていたフリをして、彼の手を握りしめた。

 彼はワタシの様子を見て、どんなことを考えているのかまたもや大まかに理解したのだろう。あの優しそうな笑いを浮かべながらワタシの小さな手を引いている。

 

「置いていかないで」

 

「ん、チュチュこそな」

 

「ちゆと呼びなさい」

 

「はいはい、ちゆこそね」

 

 彼と一緒にワタシは部屋を飛び出す。そういえばこの家には明日の朝ぐらいまで彼と二人きりなのだ。そう考えたら今日ぐらい彼を独占してしまっても良いだろうか。先程まではなかった余裕が次々と新しい夢の世界を産んでいる。

 ワタシの隣を歩く彼の腕に寄り掛かりながら、ワタシは静かに目を閉じるのだった。

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